三国連太郎:「釣りバカ日誌」シリーズ 「1回だけ」のつもりで引き受けたが、降板を考えたこともあったが   

2013年 04月 30日
三国連太郎:「釣りバカ日誌」シリーズ 「1回だけ」のつもりで引き受けたが、降板を考えたこともあったが、故・渥美清さんに「連ちゃんは幸せもんだね、好きなことやってて」と言われ

【「釣りバカ日誌」シリーズ 三國さんは「1回だけ」のつもりで引き受けたが、】
2009年まで22作も続く人気作に。
重厚なイメージを一新した三國さんは一時期、
「このまま続けると、僕自身がダメになるんじゃないか」と降板を考えたこともあったが、
故・渥美清さんに「連ちゃんは幸せもんだね、好きなことやってて」と言われ、
踏みとどまった過去もある
〔ハマちゃん、スーさんに「お世話になりました」〕

【三国連太郎さん 奔放な女性関係も惹かれた女優は太地さんだけ】
〔僕は臆病者ですから、のめり込む危険を絶対に避けたかったんです。」〕

【「三國連太郎のまま逝った」】
〔『戒名もいらない。散骨して誰にも知らせるな。三國連太郎のままでいく』〕
〔三國連太郎さん、最期まで俳優 長男・浩市に要請「三國連太郎のまま逝かせてくれ」〕


【三國連太郎さん破天荒伝説 私生活でも奇行!?】

【真摯な姿勢貫いた「異端児」】
〔「このシリーズ(「釣りバカ日誌」)を超えるのは大変だと思いますよ」〕
〔「私はメロドラマだけは出なかった。虚構ですから」〕
〔「このせりふを言うために私は今まで出演したのだ」〕


【闘病中も演技メモ「コピーできない演技とは…」】
「(演技は)再現できない。運命的な“物”である」
「コピーできない演技とは経過そのものであったと認知した」
「50年目にやっと認知した。決定的な演技論の骨子であった(若輩(中略)遅かった」

〔三國連太郎さん、闘病中に走り書き「ついに終末…どう闘って生きるか?」〕
『僕も不器用なんだよ、不器用な方がいいんだ』

----------------------------------
【「釣りバカ日誌」シリーズ 三國さんは「1回だけ」のつもりで引き受けたが、】
2009年まで22作も続く人気作に。
「釣りバカ日誌」シリーズ 
三國さんは「1回だけ」のつもりで引き受けたが、2009年まで22作も続く人気作に。
重厚なイメージを一新した三國さんは一時期、
「このまま続けると、僕自身がダメになるんじゃないか」と降板を考えたこともあったが、
故・渥美清さんに「連ちゃんは幸せもんだね、好きなことやってて」と言われ、
踏みとどまった過去もある  サンスポ2013.4.16 05:03

〔ハマちゃん、スーさんに「お世話になりました」〕
c0219232_17391212.jpg

シリーズ最終作の公開初日に集合した“釣りバカファミリー”
(左から)朝原雄三監督、吹石一恵、浅田、西田、三國さん、松坂慶子、塚本高史(2009年12月)

 14日に急性呼吸不全のため死去した俳優、三國連太郎さん(享年90)の訃報を受け15日、芸能界では悲しみの声が相次いだ。
特に映画「釣りバカ日誌」シリーズでハマちゃん、スーさんとして、
22年にわたりコンビを組んだ西田敏行(65)は「私のスーさんが逝きました」と悲痛な思いを吐露。
脚本を務めた山田洋次監督(81)も
「重い重いイカリのような俳優でした」と故人の功績を振り返った。
c0219232_17395546.jpg

日本アカデミー賞授賞式でレッドカーペットを歩く役員の西田敏行と三国連太郎さん(2011年)
 西田はこの日午前10時ごろ、所属事務所からのメールで訃報を知った。
あまりに突然のことに、ショックで「了解」と返信するのが、やっと。
 その後、事務所を通してコメントし「いつかこんな日が来ると覚悟はしていたものの、現実にその時が来たと知らされると、にわかには信じられません」と悲しんだ。
 1988年に始まった映画「釣りバカ日誌」で、三國さんが演じたスーさんこと、建設会社社長・鈴木一之助と、西田が演じたハマちゃんこと、万年ヒラ社員・浜崎伝助は、映画史に残る名コンビだった。
 三國さんは「1回だけ」のつもりで引き受けたが、2009年まで22作も続く人気作に。
重厚なイメージを一新した三國さんは一時期、
「このまま続けると、僕自身がダメになるんじゃないか」と降板を考えたこともあったが、
故・渥美清さんに「連ちゃんは幸せもんだね、好きなことやってて」と言われ、踏みとどまった過去もある

 そんな三國さんの葛藤を“1番近く”で感じつつ、撮影を通して映画と変わらぬ友情を育んできた西田は「三國連太郎氏が日本の映画界に残された功績は計り知れない。どの作品も日本の名作です」と賞賛。
「『釣りバカ日誌』で22年ご一緒できたことは私の誇りであります。スーさん、お世話になりました」と、ハマちゃんとして天国の“親友”に呼びかけた。

 山田監督も「一本の作品にワンカット出演するだけで、その作品全体がぐっと安定する、そんな重い重いイカリのような俳優でした」と振り返り、「あの大きなどっしりとした身体、彫りの深い顔、魅力的なバリトンの声が再び聞けないことを、心から淋しく、悲しく思います」としみじみ。

スーさんの妻役の奈良岡朋子(83)も「細やかな神経の持ち主で、すてきな方でした」と振り返るなど、“釣りバカファミリー”は大きな悲しみに沈んでいた。
c0219232_17404153.jpg

2010年1月、映画「釣りバカ日誌20ファイナル」
大ヒット御礼舞台あいさつに西田敏行(左)と登場した三国連太郎 Photo By スポニチ 

【三国連太郎さん 奔放な女性関係も惹かれた女優は太地さんだけ】
〔僕は臆病者ですから、のめり込む危険を絶対に避けたかったんです。」〕
三国連太郎さんはいわゆる“役者バカ”であり、奇人と称された。
役作りのため、上下の歯10本を抜いたエピソードは有名だ。

 そして、三国さんを語るに外せないのが女優、故太地喜和子さん(享年48)とのロマンス。
出会った当時、太地さん22歳、三国さん41歳。にもかかわらず大恋愛に発展した。

 しかし、ある日突然逃げたのは三国さんだったという。
当時を振り返り、三国さんは「彼女にのめりこむのが怖かった」「惹かれた女優はただ一人だけ」と太地さんのことを語っている。
太地さんも生前「本当に愛したのは三国さんだけ」と公言していた。

 奔放な女性関係はその後も続き、ロマンスもささやかれ続けた。
4度結婚し、俳優佐藤浩市(52)は3度目の妻との間の息子である。
[ 2013年4月15日 12:04
c0219232_17413626.jpg

太地と出会った時は20歳と41歳という21歳の年の差にも関わらず大恋愛に発展。
太地の実家に挨拶に行き
「10年経ったらせがれが自立できるようになるので、結婚させてほしい」と申し出、
そのまま実家で同棲を開始するも3ヶ月目に「疲れた」という置き手紙を残して太地の元を去った。
別れの10年後、1974年11月の『週刊アサヒ芸能』での太地との誌上対談
「いま語る激しく燃えたあなたとの3ヶ月」で、
太地の「三國さんはどうしてあのとき、喜和子から逃げ出したんですか。」という問いに対し、
「10年目にして率直に言うけど…あなたの体にひれ伏すことがイヤだった。
僕は臆病者ですから、のめり込む危険を絶対に避けたかったんです。」と答えている。
また、その後、1981年6月の『週刊読売』のインタビューでは
「今までで、惹かれた女優さんは一人だけです。太地喜和子さんだけです。ぼくは、男に影響を与える女の人が好きです。」と答えている
Wikipedia 三国連太郎

【「三國連太郎のまま逝った」】<佐藤浩市>父死去を報告
〔『戒名もいらない。散骨して誰にも知らせるな。三國連太郎のままでいく』〕まんたんウェブ 4月15日(月)13時47分配信
c0219232_17431766.jpg

父・三國連太郎さんの死について語った佐藤浩市さん
 14日に亡くなった俳優の三國連太郎さんの長男で俳優の佐藤浩市さんが15日、
東京都内で行われた読売テレビ開局55年記念ドラマ「怪物」の制作発表会見後に取材に応じ、
「昨日の朝9時18分急性呼吸不全で三國連太郎こと佐藤政雄が他界しました」と死去を報告した。

佐藤さんは「『戒名もいらない。散骨して誰にも知らせるな。三國連太郎のままでいく』と言っていた。
三國連太郎のまま逝きたかったんだな。本当にあの人三國連太郎できたんだな。
役者として生きてきたのだなと。その孤高さを貫きながら芝居に関わってきたということが死に顔を見て感じました」と話した。

 佐藤さんは「できれば骨になるまでは皆さんとお話しするのは避けたいなと思っていたのですが……なので事実関係だけお話しします」
 佐藤さんは三國さんが亡くなったときは自宅にいたため死に目には会えなかったといい「90歳ですし、いつかこういう知らせがくることは覚悟していた」と語った。
佐藤さんが最後に会ったのは今月といい「ニューヨークに映画のロケで行く前に、病院の近くにいたものですから顔を見ようと立ち寄りました。そのときは意識はしっかりしていた」と話した。
佐藤さんは亡くなったときの心境を「悲しいなという気持ちはなかった。この数年の中で一番りんとした顔が見れた。不思議な三國連太郎の威厳があって。涙は出なかった」と話した。(毎日新聞デジタル) 

〔三國連太郎さん、最期まで俳優 長男・浩市に要請「三國連太郎のまま逝かせてくれ」
c0219232_1744339.jpg

01年6月、スポーツ報知のインタビューに答える三國連太郎さん。
日本の映画界を彩った名優が、また一人逝った
 「飢餓海峡」の鬼気迫る殺人犯から、
穏やかな笑みをたたえる「釣りバカ日誌」の“スーさん”まで、
役柄に応じて硬軟を使い分けた名俳優が、天国に旅立った。
 妻の友子さんや佐藤らによると、
三國さんは数年前から自宅を離れて療養生活を送っていた。

 三國さんは終戦後、中国から復員。
デビューは28歳と遅咲きだったが、当時から輝きを放っていた。
東京・東銀座でスカウトされ、「食事を食べさせてもらえるなら」とカメラテストを受けて51年の「善魔」(木下恵介監督)で主役に抜てき。
この時の役名「三國連太郎」を芸名とした。
 その後は「ビルマの竪琴」の市川崑監督、「飢餓海峡」の内田吐夢監督らとタッグを組み、俳優としてのキャリアを着実に積み上げていったが、巨匠らに愛されたのは、徹底的な役作りにあった。
 57年の「異母兄弟」では、老人を演じるために上の歯を10本も抜いた。
悪人を演じた時には、カメラが回っていない時も近寄れない雰囲気を出していたという。

また、監督としても才能を発揮。
87年の初メガホン作「親鸞 白い道」はカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した。

 最近では88年から始まった「釣りバカ日誌」で西田敏行(65)演じるハマちゃんと名コンビを結成。
09年の「―ファイナル」まで全22作が製作され、当たり役になった。
「『釣りバカ』には社会風刺が込められているから出演し続けるんだ」と三國さんは言い、脚本にこだわりを持ち、真剣に西田との丁々発止の掛け合いを繰り広げた。
◆三國 連太郎(みくに・れんたろう)本名・佐藤政雄。
1923年1月20日、群馬県生まれ。生後間もなく静岡へ移り、中学時代まで過ごす。
10代で工員や船員など、さまざまな職業を経験。
戦時中は徴兵され、中国方面に出征した。
50年に松竹大船撮影所に演技研究生として入所。
51年、映画「善魔」でデビュー。数多くの映画に出演し、名優としての地位を確立。
79年には「復讐するは我にあり」などで「報知映画賞助演男優賞」を受賞するなど受賞歴多数。
[2013/4/16-06:00 スポーツ報知]

【三國連太郎さん破天荒伝説 私生活でも奇行!?】
 型破りな俳優、として知られた三國さんだが、
私生活でも時に奇行と映りかねない破天荒な人生を送ってきた。
その代表的なものを挙げると―。

◆生き伸びるため 戦時中、敵の攻撃を受け、
人糞(じんぷん)おけに一晩もぐって避難したことも。

◆職を転々 役者デビュー前に船のボーイ、弁当販売、映画館の看板絵師など、
多くの職を経験。

◆“経歴詐称”でデビュー 映画会社の意向で「阪大工学部卒で水泳のチャンピオン」の宣伝文句でデビュー。後年、これがウソだったと告白した。

◆酒とたばこ 一見、酒豪に見えるが「有益でない」と一滴も飲まない。
へビースモーカーだったが、たばこも10年以上も前にやめた。

◆金に執着なし? 生涯4度、結婚。元奥さんに家も金も全財産を渡し、
犬だけもらってアパート暮らしをした経験も。

【真摯な姿勢貫いた「異端児」】
〔「このシリーズ(「釣りバカ日誌」)を超えるのは大変だと思いますよ」〕
〔「私はメロドラマだけは出なかった。虚構ですから」〕
〔「このせりふを言うために私は今まで出演したのだ」〕

c0219232_17461616.jpg

俳優・三國連太郎
 三国連太郎さんの役者としての前半生には「映画界の異端児」という呼び名がつきまとった。
松竹、東宝、日活、東映、フリーと渡り歩き、
よりよい作品に出演するためや自身の演技を全うすることに熱中する余り、
契約会社との約束をほごにすることもあった。
 しかし、映画斜陽論が出た昭和30年代後半には
「映画関係者はもっと娯楽ということを真剣に考えるべきではないか」と訴え、
「人々の生活の糧になるような映画に出たい」と、真摯な姿勢を貫いた。
 俳優にあきたらず、助監督修業を積んだ上で監督業に乗り出す勉強家ぶりも見せた。
自らメガホンをとった「親鸞・白い道」では、1987年のカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞。
現地で「日本人に必要な映画を撮りました。平和のために映画を撮りました」と、
映画人としての純粋な喜びをあふれさせた。
 一方で、晩年は喜劇映画に力を注いだ。
社会を風刺し時代と対峙(たいじ)する喜劇を撮り続けた英俳優、チャールズ・チャプリンを敬愛したことも背景にある。

〔「このシリーズ(「釣りバカ日誌」)を超えるのは大変だと思いますよ」〕
c0219232_17475142.jpg

映画「釣りバカ日誌20ファイナル」の舞台あいさつをする三國連太郎さん=2010年1月

 4年前の本紙インタビューで、終始穏やかだった目元に一瞬、険しい表情が宿った。
「私はメロドラマだけは出なかった。虚構ですから」。
三国さんの皮肉を込めた邦画界への挑発の言葉は取材中、何度も繰り返された。若い人気俳優を配役した安易なヒット狙いの恋愛映画が増産されていないか? 社会を風刺する喜劇が軽んじられていないか?
 昨今の邦画界を憂い叱咤(しった)する厳しさが込められていた。

〔「このせりふを言うために私は今まで出演したのだ」〕
 邦画界に「超えろ」と三国さんが挑発した「釣りバカ日誌」。
主演の西田敏行さんとともに全22作に出演し、平成21年公開の最終作で22年の歴史の幕を閉じた。安易なマンネリを嫌い、続編やシリーズものへは一切出演しない俳優として知られていたが、「釣りバカ日誌」だけは例外。
最終作の台本を読み、こう確信したという。「このせりふを言うために私は今まで出演したのだ」と。
 三国さん演じる鈴木会長が会社を去る際、全社員を前にあいさつする。
《私は創業者ではあるが、この会社は私のものではない。経営陣のものでもない。…君たち社員のものだ》
 「リーマンショックなどで日本経済は傾き、暗い世相が続いているが、働く者すべての溜飲(りゅういん)を下げる映画です」。
真っ向から時代に斬り込む希有(けう)な個性派俳優だった。
(戸津井康之、市川雄二)

【闘病中も演技メモ「コピーできない演技とは…」】
c0219232_17482693.jpg

三国連太郎さんが闘病生活中に書き残したメモ Photo By 共同 
 「過ぎた日は再び迎えられない。演技もまったく同じである」――。
三国さんは、闘病生活中も演技についてのメモを書き残していたことが15日、分かった。

 メモが見つかったのは三国さんが入院していた病室の机の引き出し。
切り取った手帳のページに赤いボールペンで
「(演技は)再現できない。運命的な“物”である」
「コピーできない演技とは経過そのものであったと認知した」
「50年目にやっと認知した。決定的な演技論の骨子であった(若輩(中略)遅かった」
などと自筆で書かれていた。

また、昨年5月ごろ、病状が悪化した時に書いたとみられる
「ついに終末の刻(とき)に逐(お)い詰められたようだ どう闘って生きるか? 連」
という走り書きも残されていた。

 亡くなる2日前、ふいに「港に行かなくちゃ。船が出てしまう」と口にしたという。
[ 2013年4月16日 06:00 ]
c0219232_1749248.jpg

〔三國連太郎さん、闘病中に走り書き「ついに終末…どう闘って生きるか?」〕
『僕も不器用なんだよ、不器用な方がいいんだ』
c0219232_17492260.jpg

三國さんが闘病生活中に書き残したメモ。最後まで演技の本質を探究していた
 俳優、三國連太郎さん歌手と家族ぐるみで交際していたという歌手の石川さゆり(55)は
「大好きな人でした。舞台に出る前『私は不器用なので悩んでいます』と言ったら、『僕も不器用なんだよ、不器用な方がいいんだ』と励ましてくださいました。もっといろんな話を伺いたかったのに、残念です」と話した。
 妻の友子さんは「とてもいい顔をしています。最後まで、きれいでかっこいい人でした」と語り、ときに涙ぐみながら弔問客に応対していた。 2013.4.16  サンケイスポーツ

【平蔵の独り言】
【三國連太郎さん破天荒伝説 私生活でも奇行!?】
◆生き伸びるため 戦時中、敵の攻撃を受け、
人糞(じんぷん)おけに一晩もぐって避難したことも。

果たして 奇行だろうか?
出征の時、玄関で小さな声で私に言った。
「何をしてもいい、どんな卑劣なことしてもいいから、生きて帰ってこい」

【闘病中も演技メモ「コピーできない演技とは…」】
「50年目にやっと認知した。決定的な演技論の骨子であった(若輩(中略)遅かった」

若輩 90歳で若輩(やはり、50,60(洟垂れ小僧))
「『親鸞・白い道』(親鸞の生涯を描いた)」
構想から十五年の歳月をかけて制作し、1987年にようやく公開にこぎつけたとき、
64歳になっていました。

『鬼平犯科帳スペシャル~一寸の虫』(2011年4月15日放送)
三国さん(88歳)

九十歳まで生きた親鸞の生涯を描き、三国さんも九十歳・・・・・・・・・・・・・・

破天荒、奇行、異端児:市井の人が思っているが、口に出さない、
できないことを見せてくれた(著書「生きざま、死にさま」)

そんな 気がしてならない!
かっこいい!!
[PR]

by asanogawa-garou | 2013-04-30 17:13 | 人間模様 | Comments(0)