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【“許す”というテーマに受けた 私は聖人君子が嫌いなのだ。】 (伊集院静)   

2014年 03月 05日
【“許す”というテーマに受けた 私は聖人君子が嫌いなのだ。】 (伊集院静)

【“許すことで何かがはじまる” 「人間は皆、許せないことを抱えて生きている」】(伊集院静)

【“許せないときにはどうするか”「許してあげられない自分を嫌いになる必要はない」】(伊集院静)

【“そう易々と許すことはできない” 「傷つかない人生はこの世に存在しない」】(伊集院静)
それがどうした「男たちの流儀」週刊現代2014/3/1号


【“むしろ許すという気持ちこそが大切なのであります。”】(白山比咩神社)
今月の言葉2014年1月1日「道は忠恕( ちゅうじょ) のみ」
【“許す”というテーマに受けた 私は聖人君子が嫌いなのだ。】 (伊集院静)_c0219232_1714784.jpg


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【“許す”というテーマに受けた 私は聖人君子が嫌いなのだ。(伊集院静)】
『それがどうした(男たちの流儀)』週刊現代(2013/10/12号)

この欄で、“許す”というテーマを考察して欲しいと言われた。

私にはそのテーマは書けない。
それでいいと思っている。

私は聖人君子が嫌いなのだ。

母は時折、こう言う時があった。
「そのことは許してあげなさい」
「いや、それはできない」
私がきっぱりと言うと伏目がちにこう続けた。
「人はいろんな事情をかかえて、あなたにそうしたのだと思います。
生まれた時から、赤ん坊の悪人はいるはずがありません」

それでも私は一度でも私を侮辱した人間への憤りを忘れることはない。
こころの狭量な男なのである。

この欄で“許す”というテーマを考察して欲しいと言われた。

私にはそのテーマは書けない。それでいいと思っている。
私は聖人君子が嫌いなのだ。

【平蔵の独り言】
人間(業)の生き物だから、
聖人君子の仮面を被っているのが嫌いと言っている。
と思う。

以前、家人から“人の悪口をいうのめずらしいね”

侮辱された時、ずっと忘れることなく
自分を曲げてまで、ということは何度かある。

【“許すことで何かがはじまる” 「人間は皆、許せないことを抱えて生きている」】(伊集院静)

それがどうした「男たちの流儀」週刊現代2013/12/28号

“許すことで何かがはじまる”
(今週の流儀)「人間は皆、許せないことを抱えて生きている」

人が人を許す行為の中には、どこか人間の傲慢さが漂う。
いや漂うのではなく、根底に人が人を上から見る発想があるのではないか。
そう考えると、人や、人の行為を許せないで、
いつまでもその人のこころの中に、許せないという感情が残るのは、
むしろ人間らしいこころのあり方なのではないかと思う。

しかし小事のことでいちいち人を許すとか許さないとか発想もしたことがない。

許すという行為の隣りには、許せない状況がある。

理不尽というものと似たものと言ってもいいかもしれないが、
根本は人間として、なしてはならぬ行為に対してのものだ。

それ故に憤るのである。
その憤怒の炎が消えぬことが、許せないという感情につながる。

ただおぼろではあるが、許すという行動、
許すことから何かがはじまることはたしかなような気がする。

“許すことで起きる活力”“許す力”というものもあるのではないか。

【平蔵の独り言】
“許すことで何かがはじまる”
「人間は皆、許せないことを抱えて生きている」

やはり、許せないことを抱えてしまうのが、市井の人間なのかな!


【“許せないときにはどうするか”「許してあげられない自分を嫌いになる必要はない」】(伊集院静)
それがどうした「男たちの流儀」週刊現代2014/1/4・11号

“許せないときにはどうするか”
(今週の流儀)「許してあげられない自分を嫌いになる必要はない」

私は許せないものをかかえたら、その大半は許さなくていいと思っている。
許してあげられない自分を嫌いになる必要もない。

「何と言われてもかまわん。
許せない奴は許せないし、許せない出来事を簡単に許すようじゃダメだと考えてる」

「ただ許せない状況に自分には問題はなかったかは考えるよ。
こちらにも問題があったら、許す、許さないの対象にはしない。
問題なければ墓場まで離さない」

ただひとつ私は“許せない”という考えに付帯条件をつけている。
“許せない人”に関しては、それを口にしないことだ。


【平蔵の独り言】
“許せないときにはどうするか”
(今週の流儀)「許してあげられない自分を嫌いになる必要はない」

やはり、許せないことを抱えてしまうのが、市井の人間なのかな!



【“そう易々と許すことはできない” 「傷つかない人生はこの世に存在しない」】(伊集院静)

それがどうした「男たちの流儀」週刊現代2014/3/1号

“そう易々と許すことはできない”
(今週の流儀)「傷つかない人生はこの世に存在しない」
人が人を許すことについて今週も書く。

「許すとは、高き姿勢や夾竹桃」

人が人を許すという行為にはどこか相手を上から見ている態度、
雰囲気が感じられることがある。
さらに言えば私も含めてこころから、
心底相手を許しているのだろうかと勘ぐる時もある。

人が人を許すということは、さほど厄介なものなのだろう。
許すということがそれほど大変であるのなら、
許すことができる方法を考える前に、
そもそも許されない行為がどんなふうに自分の前で起こり、
許されない相手がどうやってあらわれたかを
考えてみるのも答えを見つける方法かもしれない。

私が思うに、人は誰でも生きて行く限り、
許せない行動や許せない相手と、必ず出逢うのではないか。

それが大なり小なり、その人を傷つけたとすれば、
傷つかない人生はこの世に存在しないのではないか。

この考えがすべて当たっていなくとも、
身に覚えのある人はたくさんいると思う。
生きている限り、許せないものに出逢ってしまう。
許せないものに出逢うのが生きることである。

そうだとしたら許せない自分をダメな人間だといちいち悩んだりするのは、
しんどいことばかりになって心身によくないに決まっている。
一番良いのは忘れてしまうことだろう。
私はいくつかの許せない行為、相手の大半は忘れてしまっている。
その理由は許せなかったことがたわいのないことだったからだ。
ひとつには“時間がクスリ”であろう。

ただひとつ言えるのは、どんなに哀しく辛くとも、
人はそれを内仕舞い、平然と生きている。
これが大切なのではないか。

“人はさまざまな事情を抱えていても、それでも平然と生きている”
許せないのなら、私は許さなくていいのではないかと思う。
今日の午後、あらたに許せないものと出逢っても、
これは私には許せないナ、とつぶやきポケットに入れてしまえばいいのではないか。

そうして大切なのは、許せないものをわざわざ目の前に引っ張り出して凝視しないことである。

いつか許せば、それはそれで生きる力になるだろうが、
許せないものも人のこころの中で何かしらの力になっている気がする。

ここまで書いて、わかったようなことを書いている自分が許せない。

【平蔵の独り言】
“そう易々と許すことはできない”
(今週の流儀)「傷つかない人生はこの世に存在しない」

人が人を許すということは、さほど厄介なものなのだろう。

許せないのなら、私は許さなくていいのではないかと思う。
そうして大切なのは、許せないものをわざわざ目の前に引っ張り出して凝視しないことである。

いつか許せば、それはそれで生きる力になるだろうが、
許せないものも人のこころの中で何かしらの力になっている気がする。

ここまで書いて、わかったようなことを書いている自分が許せない。

【独り言】
“許せない”は人生について回っている “人の業か!”

許せない ⇒ 「許せないナ」と呟きポケットにしまう ⇒
許せないものも人のこころの中で何かしらの力になっている。

ということは 許せないをバネにしているのかな・・・・・・・・・・・・・・


【“むしろ許すという気持ちこそが大切なのであります。”】
(白山比咩神社)今月の言葉2014年1月1日「道は忠恕( ちゅうじょ) のみ」
【“許す”というテーマに受けた 私は聖人君子が嫌いなのだ。】 (伊集院静)_c0219232_17144283.jpg

白山比咩神社:平成26年1月1日
今月の言葉「道は忠恕のみ」
――論語・里仁第四――

人の生きる道とはいかなるものか。
「忠」すなわちすべてに誠の心を似て尽くし、
「恕」人をあまり責めないということを心がけないといけない。

むしろ許すという気持ちこそが大切なのであります。
孔子はこのことをまた、「吾が道、一以て(いちもっ)之れ(これ)を貫く」とも言っております。



【平蔵の独り言】
“むしろ許すという気持ちこそが大切なのであります。”

人の生きる道で「忠」、「恕」も難しいけど

“許す”はなお難しい選択肢なのですね!

by asanogawa-garou | 2014-03-05 16:32 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)