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梶芽衣子:バラエティーに出ない理由とは? マツコのお墨付き受けるも「全部お断り」「やっちゃうと、今までの女優生活は何だっていうことになる。俳優として全うしたいので、ちょっときついかな」   

2017年 05月 17日
梶芽衣子:バラエティーに出ない理由とは? マツコのお墨付き受けるも「全部お断り」「やっちゃうと、今までの女優生活は何だっていうことになる。俳優として全うしたいので、ちょっときついかな」

今年70歳になった梶。最近あるバラエティー番組に出演したところ、
「毒舌女優」として出演オファーが殺到してしまったそうだ。
東京出身、江戸っ子気質、正義感は強く思ったことははっきりと言ってしまうため、毒舌にみえてしまうのかもしれないと自分では思っている。


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①徹子の部屋


スポーツ報知 5/12(金) 13:08配信
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②梶芽衣子
 女優・梶芽衣子(70)が12日、テレビ朝日系「徹子の部屋」(月~金曜・正午)に出演し、バラエティー番組への出演依頼を全て断っている理由を明かした。

 梶は2015年4月、マツコ・デラックス(44)とナインティナインの矢部浩之(45)がMCを務めるフジテレビ系「アウト×デラックス」(木曜・後11時)でバラエティーに初出演。
歯切れの良いトークを披露し、マツコから「これからバラエティーで売れる」と絶賛された。

〔バラエティーのオファーは全部お断りしました。〕やっちゃうと、今までの女優生活は何だっていうことになる。

 梶は「すごい評判になったらしい。
毎日のように(バラエティーの)オファーがすごくて、1日に4本とか5本とか来ちゃうんです。
ありがたいことだけど、逆に戸惑っちゃう。全部お断りしました」と告白。

司会の黒柳徹子(83)から理由を尋ねられると
「やっちゃうと、今までの女優生活は何だっていうことになる。
俳優として全うしたいので、ちょっときついかな」と明かした。

 また、番組では独身を貫く理由も告白。
駆け出しの頃に婚約していたが、東映の「女囚さそり」シリーズがヒットしたことで仕事を優先せざるをえなくなり、別れを切り出したという。
その時に相手の男性に「一生誰とも結婚するな、死ぬまで仕事しろ」と言われ、その言葉を守り通してきた。
徹子は「私なんて、何も言われなくても独身でいますけどね」と感心していた。

〔梶芽衣子、婚約破棄と独身の理由を明かす「独身、後悔してません」〕
デイリースポーツ 5/12(金) 16:07配信
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③女優の梶芽衣子
 女優の梶芽衣子(70)が12日放送のテレビ朝日系「徹子の部屋」に出演し、かつての婚約破棄の真相と、いまだに独身を貫いている理由を告白した。

 1972年、梶の当たり役となった「女囚701号 さそり」が大ヒット。当時、梶は「婚約していた」が、ヒットが障害になったという。

 「『さそり』の当たり方が異常だったんですよ。
それでもう、私の意思とかナントカはもうこっち(かたわら)にあって、もうどんどんどんどんことが進んで行くだけなんですよ。
ある種、映画会社に入ったあたしたちにとっては商品じゃないですか。
ウケたらそれをやっぱりどんどん売りたいしっていうことが、しょうがないですよね。
『私の個人的なことでそうなんですけど』って言っても、もうそんなことは何にも、誰も聞いてくれない状況になって」と、とても結婚できる状況ではなくなっていた。

 そのうち、「一緒にいたんですけどあんまりうまくいかなくなっちゃって。どうする?っていうことになって。うまく言えないんですけど、フッとこうダメかなって思った瞬間って、ホントにダメになっちゃうんですね。そこから元に戻るってことはちょっと難しくて」と、婚約者との間にも溝ができた。

 梶が「(約束は)何でも守ります。どうしてほしいでしょうか?」と別れを切り出すと、婚約者に「一生、結婚、誰ともするな。仕事は死ぬまで続けろ。そういうことだろ?やめるってことは」と言われ、「あ、そうですね、分かりました」と答えたという。

 その約束を守って今に至るまで独身を貫いている梶は、婚約者とは「お別れしてから一度もお会いしたことないです。
ウワサも聞かない。45年以上になりますね、もう」といい、「独身、今、後悔してるかって言ったら後悔してませんね」と穏やかな笑顔で語っていた。

〔70歳 歌手も女優も現役で〕
「ものすごく“感謝しています”こんな私でも“生きてきた!”」

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④70歳 歌手も女優も現役で

2013/4/12梶芽衣子:「もう一度歌おうと思ったのは、今までいろんな苦労や失敗もして、経験を積んだ私たち世代だから」
〔「女優もアラ還にもなると切り捨てられていきますよ。自らプレッシャーを与えないと。
もう死ぬまでアウトローを通したいと思っています」〕

 「女優もアラ還にもなると切り捨てられていきますよ。
安住していては自分がダメになってしまうから、自らプレッシャーを与えないと。
この曲で果たして新たな道にいけるか分からないけど、私は簡単にはあきらめませんよ。それなりにアウトローを通してきましたけど、もう死ぬまでアウトローを通したいと思っています」

【平蔵の独り言】
〔「女優もアラ還にもなると切り捨てられていきますよ。自らプレッシャーを与えないと。
もう死ぬまでアウトローを通したいと思っています」〕

【独り言】
アラ還から古希にあっという間の10年!

やはり最近は“これでいいのかな”  と自問自答する日々が多いか!

【平蔵の独り言】
〔バラエティーのオファーは全部お断りしました。〕
「全部お断り」「やっちゃうと、今までの女優生活は何だっていうことになる。俳優として全うしたいので、ちょっときついかな」

「梶芽衣子オフィシャルブログ「あいつの好きそなブルース」5/13に

「徹子の部屋、ご覧くださった皆様ありがとう ございます。」・・・・・・

徹子の部屋の中で“こんな私でも”生きてきた“
〔70歳 歌手も女優も現役で〕
「ものすごく“感謝しています”こんな私でも“生きてきた!”」

【独り言】
2017/4/17〔蜷川幸雄(演出家)〕「歳を取る難しさは、立ち止まると“ボケる”んだよ。停止してしまうんだよ!。」
〔同じもの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す〕
でも、普通の生活って、繰り返すことじゃない。
ご飯食べて、働いて、帰って来て、家族を養って、寝る。
その中で自分を掻き立てる持つか、探して
そういうもの同じものの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す。

と梶芽衣子の言葉が重なってしまう!

〔同じもの繰り返し〕〔歳を取る難しさ〕
そうですね“感謝”と“ありがとう”、そして”これからも よろしく“

こんな手紙をもらった。
「1日1日いかされていることに感謝し、少しでも明るく心残りのない日々をすごしましょう」


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by asanogawa-garou | 2017-05-17 15:30 | 人間模様 | Comments(0)

〔蜷川幸雄(演出家)〕「歳を取る難しさは、立ち止まると“ボケる”んだよ。停止してしまうんだよ!。」   

2017年 04月 17日
〔蜷川幸雄(演出家)〕「歳を取る難しさは、立ち止まると“ボケる”んだよ。停止してしまうんだよ!。」

蜷川幸雄(演出家)俳優やめて31年〔不遇時代〕屈辱感、悔しさが自分を奮い起たせて屈折した思いが、恵まれた、苦労して来ているから(更新 2016/5/31 11:30)

【1回、立ち止まって見ようと思いませんか!】歳を取る難しさは

【人間ってあまり幸せだと穴を埋める冒険をしなくなる】


僕らの時代 蜷川幸雄×小栗旬×綾野剛
August 24 [Sun], 2014, 7:04
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屈辱感とか悔しさが自分を奮い起たせて、苦しむ穴を埋めようとする。

〔人間の一生は決まっている。〕
時間をどう使って、何を残すか。
意味のある時間を残さないともったいない。


〔同じもの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す〕
でも、普通の生活って、繰り返すことじゃない。
ご飯食べて、働いて、帰って来て、家族を養って、寝る。
その中で自分を掻き立てる持つか、探して
そういうもの同じものの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す。

人間って、あまり幸せだと“穴”を埋めるという努力をしなくなる。
「いい俳優」には不幸を知ってほしい。
何か欠落しているものがあるから衝動で、埋めたい。

〔コミュニケーションをとろうと努力したい〕
本当の自由を獲得するために永遠の“孤独”を完成させなければならない。

〔群衆役を大切にする理由〕自分を放棄して、その他大勢を演じている。
「俺よりスゴイものはそのまま持続してほしい」

〔俳優に求めるもの〕自分より強いもの
「初めに指示しないのは」やってやってと言うと俺の経験とか

〔蜷川幸雄(演出家80歳) 〕「ちょっと一回立ち止まらなくてはいけないと思ったことはないですか!」
“俺はキラキラしているのが好きなんだ”

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②「ボクらの時代」の放送で演出家、蜷川幸雄さんが

小栗旬さんと綾野剛さんに対して

【1回、立ち止まって見ようと思いませんか!】歳を取る難しさは

〔ちょっと、一回立ち止まらなくてはいけないと思ったことはないですか?〕
「歳を取る難しさは、立ち止まると“ボケる”んだよ。
停止してしまうんだよ!。」

〔「歳を取り方が難しいんだよ。難しいぞ!」〕

「もっと闘争的でありたい。
歳の取り方が難しいんだよ!
「難しいぞ!」」

もっと闘争的でありたいから「俺はキラキラしているのが好きなんだ」

止まるとボケる。歳をとるのは難しいぞぉ

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③立ち止まらない生き様
August 24 [Sun], 2014, 7:04

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④〔群衆役を大切にする理由〕

〔群衆役を大切にする理由〕自分を放棄して、その他大勢を演じている。

群衆役にも注目
蜷川幸雄は群衆役の稽古も力を抜かない。
その他大勢の一人として演じてほしくない。
大勢の中の一人から優秀な人材を探したい。
頑張っている人を見つけては名前を覚えようとした。
群衆役の俳優たちに友情を感じていた蜷川幸雄。
その中からスターになってほしかった。

俳優に求めているもの
蜷川幸雄が俳優に求めているものとは?
「発想の大きさ」
蜷川幸雄は初めて使う俳優は自由に演じさせる。
それは俳優の発想を殺さない為。
「俺よりスゴイものはそのまま持続してほしい」

【俳優やめて31年〔不遇時代〕】
蜷川幸雄はヒモだった
蜷川幸雄が娘が生まれた頃。
年収は60万円くらい。
女優だった妻の収入で暮らしていた。
その分、育児から家事までを担った。
長女・美花をおぶってテーブルの周りを回る。
泣きながらオッパイを探ろうとする娘。
情けなかったと振り返る蜷川幸雄。
今でも主夫力は健在。
時間があれば洗濯したり干したりもする。

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【人間ってあまり幸せだと穴を埋める冒険をしなくなる】
飢餓感が必要
育児も家事もこなす蜷川幸雄。
俳優たちには幸せな家庭を築いてもしょうがないと豪語している。
蜷川「人間ってあまり幸せだと穴を埋める冒険をしなくなる」
蜷川幸雄の人生は挫折の連続の人生だった。
高校落第、大学も落ちた、俳優も落第。
悔しかった。

「世界中の人を満足させていない」
そんな飢餓感が蜷川幸雄の原動力だった。


【1回、立ち止まって見ようと思いませんか!】歳を取る難しさは
「立ち止まると“ボケる”んだよ。停止してしまうんだよ」
立ち止まるとボケる
収録があった2年前。
小栗旬は蜷川幸雄ロス後を心配していた。
初めて舞台を経験するものにとって、
蜷川幸雄は登竜門。
それがなくなったら演劇はどうなるのか。
蜷川「若い人と仕事するのは長くないと思っている」
「100人いたら1人やろう思ってくる人がいたらいい」
小栗「立ち止まらないと思ったことはないですか?」
蜷川「立ち止まるとボケるんだよ」
常に闘争的でありたいと思っている蜷川幸雄。
蜷川「バタッて終わればいいやって思っている」
本当に最期まで走った人生でした。

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⑥立ち止まると“ボケる”んだよ
55年に劇団青俳に俳優として入団。
69年に演出家デビュー。
劇団現代人劇場、桜社を経て74年の日生劇場「ロミオとジュリエット」で商業演劇に進出。

現代劇からシェークスピア、ギリシャ悲劇と幅広い作品を手掛け、83年「王女メディア」欧州公演を皮切りに海外に進出。
02年英国の名誉大英勲章を授与され、04年に文化功労者、10年に文化勲章。
現代日本を代表する演出家のひとり。
海外でも評価が高く、「世界のニナガワ」とも呼ばれる。

蜷川幸雄さん逝く
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⑦蜷川幸雄さん=2011年3月、東京都渋谷区
【にながわ・ゆきお】 1935年生まれ。開成高校卒業後、東京芸術大学を落ち劇団「青俳」に入団。
「俳優よりも演出家が向いている」と演出家に。
ギリシャ悲劇の演出などで国際的評価を受ける。
2002年、名誉大英勲章第3位、2010年、文化勲章受章。
(2011年4月、夕刊連載「人生の贈りもの」より)

【平蔵の独り言】
〔同じもの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す〕
でも、普通の生活って、繰り返すことじゃない。
ご飯食べて、働いて、帰って来て、家族を養って、寝る。
その中で自分を掻き立てる持つか、探して
そういうもの同じものの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す。

【独り言】
思えば遠くへ来たもんだ!
気が付けば、”同じものの繰り返し”
目の前に”古希”
いろいろとあったけれど、「まあ、恵まれた人生!」

【平蔵の独り言】
【1回、立ち止まって見ようと思いませんか!】歳を取る難しさは
「立ち止まると“ボケる”んだよ。停止してしまうんだよ」
立ち止まるとボケる
〔「歳を取り方が難しいんだよ。難しいぞ!」〕

【独り言】
今、立ち止まるのが怖い!
一日一度は外に出る。(何かイベントを考える)
部屋にじっとしていると、身体も心も停止してしまう。

「衰えも失敗も全てこの身(手)で抱え込んでいく」(年を取るの難しい)
今日(いままで)と同じスピードで過ごせない。(進まない)
どう生きるか!合わせて、歩く!

段々とできることに時間が掛かってくるから、
“難しいぞ”が全くの実感ですね!





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by asanogawa-garou | 2017-04-17 17:17 | 人間模様 | Comments(0)

野茂英雄、空前絶後のノーヒットノーランの夜〔メジャーに愛された男〕【WBC準決勝で野茂英雄氏が始球式】   

2017年 04月 07日
野茂英雄、空前絶後のノーヒットノーランの夜〔メジャーに愛された男〕【WBC準決勝で野茂英雄氏が始球式】

【野茂英雄、空前絶後のノーヒットノーランの夜】
〔トルネードを封印〕
〔勝負所を掴む〕
〔メジャーに愛された男〕

【WBC準決勝で野茂英雄氏が始球式…鈴木が必死のジャンプ】
〔日米関係も改善〕

野茂英雄、空前絶後のノーヒットノーランの夜
1996年9月17日、気温5度のクアーズ・フィールドにて
NHK・プロデューサー 久保健一
時効スクープ ~今だから、聞けた

日経ビジネスONLINE 2017年4月4日(火)

 1968年、大阪で生まれたその男は、89年、ドラフトで史上最多の8球団競合の末、近鉄バファローズに入団、プロ野球選手となった。
恵まれた体躯をグイッとひねるトルネード投法は人々の目を釘付けにし、剛速球と鋭いフォークで三振の山を築く圧巻の投球はプロ野球ファンの心を鷲掴みにした。

道なき道を
 ルーキーイヤーに18勝で最多勝、さらに新人王、沢村賞、MVPなど賞を総なめにした後も勝ち星を重ね、入団から5年間で79勝を挙げた。

 しかし94年、退団。
そして、メジャーリーグへ。
ロサンゼルス・ドジャースとのマイナー契約から始まった挑戦は、全米に「NOMOマニア」を生み、2008年、日米通算201勝で引退するまで続いた。
 NHK-BS「アナザーストーリーズ」プロデューサーの久保健一は振り返る。

 「『大リーグで通用するはずがない』『日本プロ野球を捨てた裏切り者』…野茂さんの大リーグ挑戦に対するバッシングは酷いものでした。
僕はそれに猛烈な違和感と怒りを覚えました。
道なき道を切り開こうというチャレンジスピリットが、なぜ日本では認められないのか、と。
そしてその後、大リーグで大活躍すると、今度は一気の手のひら返し。
また、違和感です。
さらに言うと、引退までの数年間、なかなか勝ち星が重ねられなくなってからも、野茂さんはいくつもの球団を渡り歩きながらチャレンジを続けました。
僕は、その姿に強い共感を覚えましたが、報じられるのは試合結果のみ。
もちろん、自分もマスコミの人間ですから、限られた取材リソースをどこに配分するかという理屈は分かっているのですが、3Aで投げている野茂さんの姿こそ、開拓者だ!と何度となく思っていました。
その後、何度も野茂さんの番組を企画しながら実現しなかったのですが、ようやく今回『野茂ストーリー』にたどり着くことができました」

 NOMOマニアの一員である久保の記憶には、数々のエピソードが刻まれている。
その中から今回、スポットを当てたのは「ノーヒットノーランの夜」だ。

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①野茂の偉業の舞台となったクアーズ・フィールド。

標高1マイル(約1609メートル)という高地に位置するため、気圧が低く空気抵抗が少なく、打球が飛びやすい。
ここでの試合は乱打戦が多く、“打者天国”とも呼ばれる

 野茂英雄はメジャーリーグで二度、ノーヒットノーランを達成している。

その一度目は、新人王を獲得した翌年の1996年9月17日、強打打線を誇るコロラド・ロッキーズとの最終カードでのことだった。
場所はロッキーズの本拠地で、高地にありボールが飛びやすいことから打者有利とされるクアーズ・フィールド。
試合は雨のせいで予定より2時間以上遅れ、21時過ぎに始まった。気温は5度にまで下がっていた。

〔トルネードを封印〕
 野茂の立ち上がりは不安定だった。
体を大きくひねるトルネード投法から繰り出されるボールはコントロールがばらつき、1回裏、フォアボールでランナーを出し、盗塁も許す。
このパターンは2回裏も同様で、点を取られるのは時間の問題のように見えた。
 野茂は3回裏から、ランナーがいなくてもセットポジションで投げるようになる。
 ロッキーズの当時の監督、ドン・ベイラーはこのとき「野茂は何をすべきかに気付いた」と証言する。
その何かとは盗塁を阻止すること。
「自分で、この流れを止めないといけない、と分かったんだ」
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②対戦相手コロラド・ロッキーズの監督 ドン・ベイラー。試合前に「野茂の攻略は済んでいた」そうだが…

 一方で、野茂の150km/hを超えるストレート、魔球と呼ばれたフォークを受け続けてきたロサンゼルス・ドジャースの捕手のマイク・ピアッツァによると、
野茂がセットポジションで投げるのは制球力を高め、かつ、試合を速く進めるためだという。
実際に野茂は3回裏を三者凡退で切り抜けており、要した時間は2分42秒。
1回裏には8分16秒をかけていたので、3分の1近くに短縮されている。

 ではなぜ野茂は、試合のペースを速めようとしたのか。
ピアッツァは狙いをこう理解していた。
 「試合のペースが速まると、守備陣も守りやすくなります。
ピッチャーがテンポ良く投げると、守備陣の調子が上がり、打撃に良い影響が出るのです。野茂の狙いはそれでした」
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③野茂の女房役、正捕手マイク・ピアッツァ。“ノーヒットノーラン”のもう一人の立役者

しかし4回裏、またしても野茂はこの回の先頭打者バークスを四球で歩かせる。
そして、主審のビル・ホーンが「後になって考えると、分かれ目だった」というプレーが起こる。
 アウトをひとつとった後、ガララーガが放った鋭い打球は三遊間へ飛んだ。
ショートのギャグニーはぎりぎりでそれ追いつき、二塁に投げ、ファーストランナーのバークスをアウトにした。

 ショートゴロ。
このときのギャグニーの捕球体勢では、一塁に投げてアウトを取るのは難しい。

 ホーンは「もしランナー(バークス)がいなければ、(ショートへの内野安打となって)ガララーガは一塁セーフ。この時点でノーヒット・ノーランはなくなっていたでしょう。フォアボールでランナーを出していたことが幸いしたのです」と振り返る。
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④歴史的ゲームの主審を務めたビル・ホーン

〔勝負所を掴む〕
 6回にもまた、勝負所が訪れた。
 野茂はまたしても先頭打者のエリック・ヤングに四球を与えた。
ヤングは以前、野茂と対戦したときに1イニング3盗塁を決めていた俊足の持ち主だ。
当然、リードを大きく取る。
そこに野茂は牽制球を投じて一・二塁間に挟み、アウトをもぎ取る。
 その後、この日三度目の打席が回ってきたバークスは、いつもならセンター前に抜けていくような高く弾んだ打球を軽々と野茂に処理され、このピッチャーは記録を狙っているのではと強く意識するようになる。

 ロッキーズ打線が焦り始めたことを、ドジャースの正捕手は察知していた。
 「キャッチャーは、バッターがどれくらい打ち気にはやっているか、それを見抜くのが仕事です。相手が攻撃的になれば、それに応じて戦略を変えます」とピアッツァはいう。
 「彼らが早いカウントで打ってくるのに気付き、早め早めにフォークを使いました」

7回、8回もノーヒットに抑え、9回表に打者としての野茂がこのイニング3つめのアウトを献上した時点で、スコアは9対0。
ドジャースの勝ちは確実で、あとはロッキーズが本拠地で屈辱を味わうか、それを回避するかだけ。
敵将のベイラーは「誰かひとりでいい、ノーヒットノーランを破ってくれ」と願っていた。
 セカンドゴロが二つ続き、打席にはバークス。
6回にピッチャー強襲のゴロを打ったバッターだ。
狙いはストレート。フォークは見逃すか、カットしてファールにすることを決めていた。
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⑤エリス・バークス。コロラド・ロッキーズの強力打線“ブレイク・ストリート・ボンバーズ”の一人

 初球のフォークは見送ってボール。
2球目もやはりフォークで、これはカットしてファールに。
3球目はボール、4球目は空振り。
これでツーボール・ツーストライクの平行カウント。

〔メジャーに愛された男〕
 野茂は何度か首を横に振る。
ピアッツァは何のサインを出したか覚えていない。
バークスはストレートが来ると踏んでいた。
が、野茂の110球目はフルスイングしたバットから逃げるように落ちていった。
野茂が表情を変えずに小さく右手でガッツポーズを作ったとき、時刻は23時57分。終わってみれば、3時間を切るハイスピードゲームだった。

 あれから20年近くが経ったが、コロラド州デンバーにあるクアーズ・フィールドでノーヒットノーランを達成したことがあるのは、2016年のシーズン終了時点で野茂ただひとりだ。
この試合の模様はMLBが公開する動画「9/17/96: Nomo's No-No」で見ることができる。

 久保はなぜ、この試合を選んだのか。
 「力いっぱいの剛速球でバッターを豪快にねじ伏せていく。
野茂さんにはそんなイメージを持つ人が多いと思いますが、この試合には『別の一面』がよく表れています。
試合開始まで2時間も待たされ、震えるような寒さの中、ぬかるんだマウンドに立つ。
ただ力任せに投げるピッチャーが、そんな試合で好結果など期待すべくもないでしょう。

しかし彼は、試合の流れを冷静に捉え、トルネードを封印し、テンポを上げ、したたかにゲームを自分のものにして、誰ひとりなし得なかった偉業を達成しました。
NOMOが常に研究を怠らず、どれほど真摯にベースボールと向き合い続けたか。
それを知るからこそ、ともにプレーした選手やメディアは今も彼をリスペストしている。
道なき道を切り開き、メジャーリーグを愛し、そして愛されたNOMOのアナザーストーリーをぜひ改めて堪能してください」

 あの日を、本稿に登場した関係者への取材で振り返る『アナザーストーリーズ 野茂英雄ノーヒットノーラン~NOMOが伝説になった日~』は、4月4日火曜日21時、BSプレミアムでプレイボール。

【平蔵の独り言】
 NHK-BS「アナザーストーリーズ」プロデューサーの久保健一は振り返る。
 「『大リーグで通用するはずがない』『日本プロ野球を捨てた裏切り者』…野茂さんの大リーグ挑戦に対するバッシングは酷いものでした。
僕はそれに猛烈な違和感と怒りを覚えました。
道なき道を切り開こうというチャレンジスピリットが、なぜ日本では認められないのか、と。
そしてその後、大リーグで大活躍すると、今度は一気の手のひら返し。また、違和感です。

【独り言】
今でもアメリカ球界に愛される“野茂”
松井、イチロー 大リーグに移った時、
日本球界は“野茂”の時ほどでないにしても
後から石を投げるようなことを球界はしてきたと思う。
ここには “同調意識”の強い国民性が出ているか!

【WBC準決勝で野茂英雄氏が始球式…鈴木が必死のジャンプ】
SANSPO 特集:WBCニュース 2017.3.22
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⑥WBC準決勝の日本-米国戦で始球式を務める野茂英雄氏。右は元ドジャース監督のトミー・ラソーダ氏=ロサンゼルス(共同)

 WBC準決勝の日本-米国戦(ドジャースタジアム)。
試合前には感動的なセレモニーが開催された。
1995年から米大リーグ、ドジャースでプレーし、日本人選手初の新人王に輝いた野茂英雄氏(48)が、始球式に登場。
当時の監督で恩師のトミー・ラソーダ氏(89)がボールを手渡した。
侍ジャパンの背番号「16」でマウンドに登った野茂氏は捕手役の鈴木(広島)に投球。
高めに大きくそれたボールを鈴木が必死のジャンプで捕球し、スタンドからは大きな拍手が送られた。
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⑦始球式を務める野茂英雄氏。右はトミー・ラソーダ氏=ロサンゼルス(共同)
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⑧始球式を行う野茂英雄氏=ドジャースタジアム

〔日米関係も改善〕
野茂が救ったのはメジャーリーグだけではない。…

日米関係をも救ったのだ。
1995年当時は貿易摩擦などの影響で日米関係は冷え込んでいた。
そんな中、野茂が好投したことで関係に好ましい影響を与えたのだ。

米大手メディアのNY times紙は「野茂のおかげで日本の鎖国癖は消えつつある」で語り、
当時のクリントン大統領は「野茂は日本からの最高の輸出品」と讃えた。

このように野茂はただ「アメリカで活躍した」という事実以上に多くのものを残していったことが分かる。
日本人選手にメジャーリーグという選択肢を与えてくれたのは間違いなく野茂英雄だ。
あの黒田博樹もドジャースでメジャー生活のスタートを切ったときに
「野茂さんがいなければ我々は誰もアメリカに来られなかった」と語っている。


日本とアメリカの野球に橋を掛けて、日米球界に大きすぎる貢献をした彼はまさしく"英雄"ではないだろうか。
(さのゆう)

【平蔵の独り言】
 WBC準決勝の日本-米国戦(ドジャースタジアム)。
試合前には感動的なセレモニーが開催された。
1995年から米大リーグ、ドジャースでプレーし、日本人選手初の新人王に輝いた野茂英雄氏(48)が、始球式に登場。

【独り言】
大リーグは純粋にベースボールに記憶に残るプレーヤーをこのように歓待してくれる。

〔松井の今でもヤンキースタジアムでは大歓迎を受ける松井氏〕
今でもファンの心に強烈に刻まれており、セレモニーなどで松井氏がヤンキースタジアムに姿を現すと、スタンディングオベーションで迎えられる。



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by asanogawa-garou | 2017-04-07 16:44 | 人間模様 | Comments(0)

〔蜷川幸雄〕「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」   

2017年 03月 10日

〔蜷川幸雄〕「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」

玉しき都の泡沫(The beautiful city may be illusion.)より
『日本経済新聞』朝刊 2012/4/24 Nikkei〔私の履歴書〕
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〔「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」〕(子育て)
幼い実花をぼくは新宿の中央公園へつれていき、口笛の吹き方を教えた。
西口の雑踏で、ぼくは自分に言い聞かせるように、実花につぶやいていた。

「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」

〔70代にさしかかって「パンクじじいになる」と放言した。〕自分を壊し まだ駆ける(パンクじじい)
家には人を呼ばない。
芸能人で我が家を訪ねた人はほとんどいない。
親しくなりすぎると、関係がフェアでなくなるからだ。
〔50代の苦悩〕
「青梅街道の風になるんだ」といって失笑されたが、ひばりケ丘の自宅からベニサンまでバイクで走る。
〔俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。〕
「蜷川さん、水戸黄門の再放送を見たわよ。お公家さんやってたでしょ。あんなヘタな演技を見てしまったら、駄目出しが聞けなくなるわ。
もう、やめてちょうだい」
〔子育て〕「主夫」、仕事も抱えダウン(診断書は「育児疲れ」。)
朝起きてバギーに実花を乗せ、荒川の土手で遊ばせる。
洗濯し、それを取りこみ、実花をお風呂に入れる。
買い物をして夕ご飯の支度をし、洗い物をする。
スポック博士の育児書に忠実な主夫だった。

〔母親でさえ「長続きしないよ」と言ったくらいで、これも突然の結婚だった。〕
〔女優の妻が家計支える〕「アブカワさん、よろしくお願いします」。(結婚)
「アブカワさん、よろしくお願いします」。
結婚した真山知子がぼくに向かって最初にかけた言葉だ。
〔ぼくは「バカヤロー」を連発し、灰皿や時にはイスを投げた。〕
〔鋳物の街・川口〕飛び交う「バカヤロー」
〔内気、幼稚園1日で挫折〕(戦争の頃)
〔持ちあげられると、自分を引きずりおろしたくなる。〕
〔飼いならせぬ自意識と苦闘〕桜の憂鬱
〔「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」〕
演出家になる前は俳優をしていたが、この過剰な自意識が演技に災いした。自意識を飼いならせないから、うまく演じられない。

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〔70代にさしかかって「パンクじじいになる」と放言した。〕自分を壊し まだ駆ける(パンクじじい)
家には人を呼ばない。
芸能人で我が家を訪ねた人はほとんどいない。
親しくなりすぎると、関係がフェアでなくなるからだ。
舞台を批判されるのは仕方ない。
けれどもフェアでない劇評には抗議する。
劇場に壁新聞をはり、私家版のニナガワ新聞をロビーで配って劇評を批判したことがあるのは、そういう思いからだ。

幼いころから演劇の現場を知っている長女の実花は、女優になりたかったらしい。
ぼくは知らん顔をしていた。
父親が演出家では、女優として使われにくい。
自分も、娘から他人の演出について聞きたくない。
すると実花は美大に入って写真家になった。
蜷川幸雄の子だと思われるのが嫌だろうから、ぼくは展覧会場にもなかなか顔を出さない。
実花は自分で作品を雑誌に売りこみ、はじめから自立していた。
高校、大学のころ一緒に道を歩いていても、実花は風景を撮らず、花のアップを接写していた。
ぼくの部屋で資料の残酷絵を眺めていた。
不思議な子だと思っていたが、なにも言わなかった。
小さいころから実花に言っていたのは、こういうことだ。
「カッコいい生き方とはどういうものだろう。カッコいい女がいいよな」
たまにはほめて、と言っているようだが「まあまあだな」と言うくらい。
ただ撮った映画を見ると、映像は実花の方に才能がある。
ぼくも1981年に公開された「海よお前が―帆船日本丸の青春―」以来、映画を撮り続けている。
室内の演劇と異なる演技をロケで発見したり、カット割りしたりするのは楽しい。ただ演技のつけ方の細かさで演劇の経験は生きるが、どういうシチュエーションでその場を映像にするかという点では映画監督に、まだまだかなわない。
真山知子は女優をやめてキルト作家になり、次女の麻実は編集者になった。
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〔50代の苦悩〕路上の風が体中の細胞を再生してくれた。
50代に入り、メランコリーに侵されていたのだ。
神経過敏な状態に追いこむ仕事の仕方を改めるよう医師にさとされ、そう心がけたら、いい作品ができなくなった。
救ってくれたのは若い俳優たちだ。
商業演劇に出る若者に演技を見てほしいと頼まれたぼくは、80年代初めから蜷川教室をあちこちで開いていた。
それをもとに84年秋、ゲキシャ・ニナガワ・スタジオを結成する。
森下の染色工場を貸し稽古場にした紅三という会社の亘理幸造専務が、場所を提供してくれたのだ。
稽古場に付属する小劇場ベニサン・ピットで、チェーホフや清水邦夫の戯曲を実験的に演出した。
原点の小劇場に立ち返る日々、突然バイクに乗り始めた。
「青梅街道の風になるんだ」といって失笑されたが、ひばりケ丘の自宅からベニサンまでバイクで走る。
路上の風が体中の細胞を再生してくれた。

〔俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。〕
俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。
79年に上演された秋元松代さんの「近松心中物語」の稽古で、こういわれた。
「蜷川さん、水戸黄門の再放送を見たわよ。お公家さんやってたでしょ。あんなヘタな演技を見てしまったら、駄目出しが聞けなくなるわ。
もう、やめてちょうだい」
ぼくの俳優人生は50歳のころ、ようやく終わる。
演出家としては年収60万とか70万の時代が続いたが、妻が女優をやめても演出で食べられるように、やっとなった。

〔子育て〕「主夫」、仕事も抱えダウン(診断書は「育児疲れ」。)
「主夫」、仕事も抱えダウン
商業演劇巡り孤立、櫻社解散
東宝の舞台で初めて演出料をもらった。
40、50万円だった記憶がある。
日生劇場や帝国劇場で年1、2本の演出を手がけるようになったとはいえ、食べていけない。
そもそも演出家は職業として認められていなかった。
苦しかったこの1970年代、どうやって暮らしていたかと問われれば「女房のヒモだった」と答えるしかないだろう。
現代人劇場や櫻社を経済的に支えたのも、真山知子や皆が映画やテレビで稼ぐお金だった。
真山は子供をほしがったが、ぼくは演出で妥協したくなかったので拒んでいた。
現代人劇場が71年秋に解散したとき、真山は一冊の預金通帳を差し出した。夫婦でネパールへ行く資金として貯めていた100万円だった。
「しばらく働かなくて大丈夫。ネパールにするか、子供をつくるか選んで」と迫られた。
翌年生まれたのが、写真家になる長女の実花だ。
赤ちゃんの世話に熱中する真山にぼくは言った。
「君は女として駄目になる。育児はぼくがやるから仕事をすれば」
78年に次女の麻実が生まれ、育児役を真山と交代するまで、ぼくは優秀な主夫だった。
朝起きてバギーに実花を乗せ、荒川の土手で遊ばせる。
洗濯し、それを取りこみ、実花をお風呂に入れる。
買い物をして夕ご飯の支度をし、洗い物をする。
スポック博士の育児書に忠実な主夫だった。
母親は「ユキオがおしめをくわえて走り回っている」と驚いた。
台本を読んだり、資料を調べたりする時間は夜の10時以降になる。
商業演劇の初演出となる「ロミオとジュリエット」の上演を控えていたころ、
ついに過労でダウンする。診断書は「育児疲れ」。
稽古場や会議室にも実花をつれていった。
打ち合わせ中に「おむつ換えなきゃ」「離乳食の時間だ」と何度も席をはずすものだから、舞台美術の朝倉摂さんによく叱られた。
子連れ狼(おおかみ)ならぬ、子連れ演出家だ。
実花は劇場のロビーで遊び、監事室で芝居を見て育った子だ。
はじめ母乳だった実花は、あるとき乳首を求めて、ぼくの胸に顔を寄せてきた。母と子の結びつきはこんなに強いのか。
身をもって知る生き物の感覚は、ギリシャ悲劇で母子の関係を演出するとき役に立つ。子育ては学校だ。
家事が体にしみついているぼくは、いまでも手が空けば洗濯や炊事をする。家事は一番暇な人がすればいい。

さて、商業演劇の仕事をしたぼくは仲間から孤立する。
櫻社に帰って新しい舞台をつくろうと思っていたが、ある日参宮橋のスナックに呼び出された。
何十人もの俳優やスタッフに「なぜ商業演劇をやるのか」と批判された。
その場で解散が決まった。
74年夏のことだ。
帰り道、蟹江敬三が「キンちゃん、どうするの」と聞いた。
「しょうがないから商業演劇やるよ」。
蟹江は「ぼくもひとりでやる」と言った。
汝の道を歩め。
そして、人々をしてその語るに任せよ。
ひとりぼっちになったぼくは「資本論」の序に引かれたダンテの「神曲」の一節を心の支えとした。
幼い実花をぼくは新宿の中央公園へつれていき、口笛の吹き方を教えた。
西口の雑踏で、ぼくは自分に言い聞かせるように、実花につぶやいていた。
「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」(演出家)

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〔母親でさえ「長続きしないよ」と言ったくらいで、これも突然の結婚だった。〕
女優の真山知子と結婚したのは前の年だ。
母親でさえ「長続きしないよ」と言ったくらいで、これも突然の結婚だった。
俳優として精進し、稼がないといけないときだ。
ある日、夕食のしたくをする真山に「演出家になろうと思うんだ」と告げた。
「聞いてないわよ」と彼女は驚き、「結婚詐欺!」と叫んだ。
「俳優と結婚したのに」と不安の色を浮かべたが、最後は笑って受け入れてくれた。
川口の2Kの団地に新居を構えていたぼくは表札に「蜷川TENSAI」と掲げた。そこまでやれば必死に勉強するだろうとの思いつきだが、集金の人が廊下中に響く声で「ニナガワテンサイさーん」と呼ぶのには、まいった。


〔女優の妻が家計支える〕「アブカワさん、よろしくお願いします」。(結婚)
「アブカワさん、よろしくお願いします」。
結婚した真山知子がぼくに向かって最初にかけた言葉だ。
青俳の7期下だった真山は東映のニューフェース出身だった。
テレビの仕事で名古屋に行ったとき、新幹線で偶然席が隣り合わせになった。
ぼくは激化するベトナム戦争について解説したらしい。
それがきっかけだった。

劇団では何カ月で別れるか賭けられていた。
「4カ月」に賭けた人が一番多かったそうだ。
真山は「将来性のない俳優とよく結婚するね、と言われた」と笑っていた。
ぼくはサルトルとボーヴォワールに影響されて互いを束縛しない別居結婚を提案したが、これには真山が反対した。
1966年5月、目白の椿山荘で結婚。
媒酌人は岡田英次、和田愛子夫妻。新婚旅行は軽井沢と八ケ岳だった。
結婚する直前まで、ぼくはNHKの「チコちゃん日記」という子供向けのドラマに出ていた。
夕方6時半の放送なのでテレビや映画の関係者が見ない。
終わると仕事が途絶えた。
結婚したのに夫は金がない。
倍近いギャラをとる妻が家計を支えていた。
目をかけてくれた文学座の制作者の方が仕事を持ってきてくれた。
それは愛のもつれを描く斬新な映画だった。
美容室を経営する百合子が年下の愛人杉野と別れの旅に出る。
百合子の昔の恋人今井を交え、危険な旅が続く。
68年に公開された吉田喜重監督の「樹氷のよろめき」という映画だった。
百合子が岡田茉莉子さん、今井が木村功さん、杉野がぼくだった。
別れをこばむ杉野と百合子のラブシーンがあった。
たばこを当時吸っていたぼくは撮影当日、じっと我慢した。

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〔ぼくは「バカヤロー」を連発し、灰皿や時にはイスを投げた。〕
ぼくは「バカヤロー」を連発し、灰皿や時にはイスを投げた。
サングラスをかけている俳優がいる。
「おい、はずせ、そのサングラス!」
スリッパをはき、ほうきを逆にして、えいえいと殺陣をやっている。
「なんだそれ!ルネサンスの街でスリッパはいてんのか」。
稽古場でコーヒーが出るのに感動しながらも、商業演劇に慣れきった俳優を罵倒し続けた。
幸四郎さんと中野良子さんを舞台で全力疾走させた。
愛の神話を伝説化する民衆のまなざしを示したかったのだ。
階級構造を示す3層の装置の最上段で大公は民衆に大声を出す。
はじめ、蚊の鳴くような声だった。
走っていって「本気で声出してください」と頼むと「声がつぶれるよ」。
「明日つぶれるなら今日つぶれろ」とにらみ合った。

稽古初日の翌日、商業演劇の重鎮だった森繁久弥さんが「日生に威勢のいいのが来たんだって?」と話していたらしい。
数年後、お呼びがかかった。
楽屋で焼き穴子のお雑煮をいただきながら
「蜷川君、『どん底』やろう。新劇俳優が嫌いだろ、違う配役でやろう」と切り出された。
「なんの役をやりたいですか」と尋ねると「オレはサーチンだよ」。
人を手玉にとるルカならいいが、二枚目のサーチンでは……。
話はお蔵入りになった。

〔鋳物の街・川口〕飛び交う「バカヤロー」
夏場は皆塩をなめ、汗だくになって働いていた。
工場の中は明かり取りの窓から光が入るだけで薄暗い。
入り口は道に面しているから、子供でものぞける。
ちょこちょこ遊んでいようものなら「どけどけどけ!」と火がつくように怒られた。
一瞬の油断が命取りになりかねない。
この街では「ぼやぼやしていると危ないですよ」が「気をつけろ、バカヤロー」になるのだった。
のちに演出家になったぼくは稽古場で「バカヤロー」を連発した。
口が悪いとか、こわいと思われたようだ。
それは「おい元気か、バカヤロー」があいさつになる川口っ子にとっては普通の言葉。
照れくささと親しみがこもった表現なのだ。
ぼくの演出する舞台は開幕からの3分を大切にする。
懸命に働いた人たちが夢を見ようと足を運ぶところが劇場だ。
幕が開いたとたん眠気に襲われる芝居であってはならない。
そう戒めている。

〔内気、幼稚園1日で挫折〕(戦争の頃)
ぼくは近所の人にユキ坊とかユキちゃんと呼ばれていたが、
このユキ坊、ひどい人見知りだった。
幼稚園には1日しか行かない。
同じ年の子供がたくさんいるのが嫌で、すぐ帰ってきてしまったのだ。
先生が嫌なのではなく、人がいっぱいいるのに耐えられなかったのだと思う。
「もう行かない」と駄々をこねた。
川口市の第一国民学校(今の本町小学校)に入学しても、
臨海学校や山間学校には一度も行かなかった。
夏に千葉の房総にあった寮へ行くのを皆が楽しみにしていたが、
ぼくは行かなかった。
参加するのは日帰りの遠足まで。
それでも先生や両親から何か言われた記憶はない。
「ユキ坊はそういう子だ」と許容されていた。

演出家になってからも相変わらず人見知りで、人が多いのは苦手だった。
稽古場で俳優やスタッフともみ合っていると、
幼稚園を逃げ出したときと同じような衝動がこみあげてきて、
一目散に家に帰りたくなることがある。
部屋に飛びこんで本と向きあいたくなるのだ。
稽古を終えて俳優と飲みにいく演出家もいるが、ぼくはそういうことはしない。
つきあうのは打ち上げだけだ。

〔持ちあげられると、自分を引きずりおろしたくなる。〕
ぼくは生まれつき自意識過剰で、ことあるごとに恥ずかしいという気持ちに襲われる。
小学生のころから変わらないのは、遅刻しないこと。
遅れて教室に入ると皆がふりかえる。
その恥ずかしさを絶対経験したくないという思いがもとになって、
大人になっても遅刻はしない。
新幹線で寝るときも人に顔を見られたくないから、上着で隠す。
賞をいただき、晴れがましい席に出るのが耐えがたい。
出席してもすぐ帰る。
持ちあげられると、自分を引きずりおろしたくなる。
秋元松代さんの「近松心中物語」の演出で芸術祭大賞を受賞したあと、
日劇ミュージックホールのストリップを手がけたのも、
芸術という言葉への恥ずかしさからだった。

〔飼いならせぬ自意識と苦闘〕桜の憂鬱
戦争が終わってまもないころ、
ぼくらの小学校では給食の調理に用いる薪を役所まで大八車で取りにいくのが日課だった。
ある日、なぜか車に足を突っ込みたくなった。
わけのわからない衝動だった。誘惑に負け、足を入れた。
まんまと車は足をひき、激痛が走った。
爪が紫色に腫れあがる。
人には言わず、黙って学校に行って我慢した。
深層心理的なコンプレックスなのかどうかわからない。
ただ、ぼくにはどうも自己処罰の衝動のようなものがある。

〔「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」〕
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演出家になる前は俳優をしていたが、この過剰な自意識が演技に災いした。
自意識を飼いならせないから、うまく演じられない。
演出家になってしばらくして、いまは亡き太地喜和子さんが言った。
「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」

高校で落第し、東京芸大に落ちて画家をあきらめ、
俳優になってもヘタクソだった。
職業として社会的に認められていたとは言いがたい演出家になってからは、
胃痛に苦しんだ。
ラーメンが嫌いになり、新宿がうとましくなったのも、
胸しめつけられる演劇の思い出と結びついたからだ。
桜と同じく回復には時間がかかった。
演出の発想はいつも危地から生まれ出てきた。
本当は避けたいのに、自己を危険にさらす。
あえて自分を引き裂かれる目にあわせたい。
傷だらけのぼくの人生はその繰り返しだった。(演出家)

【平蔵の独り言】
〔「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」〕(子育て)
幼い実花をぼくは新宿の中央公園へつれていき、口笛の吹き方を教えた。
西口の雑踏で、ぼくは自分に言い聞かせるように、実花につぶやいていた。

「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」

【独り言】
「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」
これが難しいが、自立心を持って行けば自然に“これでいいのか”と思うば、人は人・・・・・・・・

【平蔵の独り言】
〔「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」〕
〔俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。〕
「蜷川さん、水戸黄門の再放送を見たわよ。お公家さんやってたでしょ。あんなヘタな演技を見てしまったら、駄目出しが聞けなくなるわ。
もう、やめてちょうだい」

【独り言】
太地喜和子:やはり心の熱い女優、惜しい女優を亡くした。
三国連太郎が狂った女優、中村勘三郎が恋した女優


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by asanogawa-garou | 2017-03-10 15:42 | 人間模様 | Comments(0)

【つんく♂さん】声を取り戻していた 喉頭ガンによる声帯摘出から2年   

2017年 01月 18日
【つんく♂さん】声を取り戻していた 喉頭ガンによる声帯摘出から2年
【つんく♂ がん治療について語る「自分の感覚を信じるべき」『「だから、生きる。」』つんく♂ 著】
【つんく♂】一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選んだ


【つんく♂さん、声を取り戻していた 喉頭ガンによる声帯摘出から2年】
デイリー新潮 1/17(火) 15:59配信
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①「声帯を失った今、不幸せかというと、決してそうでない」とつんく♂さんは語る
 シャ乱Qのボーカルで音楽プロデューサーのつんく♂さんが、喉頭ガンのため声帯を摘出したのは2014年10月のこと。
その翌年4月に母校・近畿大学の入学式で、声を失ったことを発表した光景は、いまだ記憶に新しい。
そのつんく♂さんが、いま食道発声法によって「意思疎通が出来るようになってき」たことを、1月18日発売の新潮45・2月号の特集「病の『人生学』」に寄せた手記で明かした。

 ***

 食道発声法とは、声帯を失った人が口や鼻から空気を取り込み、それを逆流させて、食道入口付近の粘膜を振動させることによって声を出す、という方法である。
練習を要し、なかなか習得できないために諦めてしまう人も多いらしい。
つんく♂さんも自分で試したときは全く音にならなかったという。しかしレッスンの最初の日に「あ」というような音が出せた。
以来、練習を重ね、現在、騒がしい場所ではスマホのアプリを使って文字を書いて会話をしてはいるけれども、

「今は家族やスタッフとは何とか意思疎通できるようになってきました」

 と、記すのである。
その声は「特殊な音質」で「雑音に弱い」が、静かな場所であれば、会話が可能なのだという。

 喉頭摘出者の先輩によって行われる食道発声のレッスンはネットや本とは違って分かりやすかったそうで、ものを「教える」立場から、「教わる」立場に変わって褒められることの素晴らしさを実感したという体験談は、いかにもつんく♂さんらしい。

 声を取り戻しつつあるつんく♂さんだが、やはりガン患者としてさまざまな思いに翻弄されてきたようだ。
 つんく♂さんは、ガンとわかる前から大きな病院の声帯専門の医師のもとに通っていた。
それも「20年来同じ先生に診てもらって」いたが、シャ乱Q結成25周年記念ツアーのあと、声枯れが長く続いたため、検査してみるとガンと判明した。

 つんく♂さんは、手記の中で、自身を診てくれる医師を過信し、
セカンドオピニオンを「診てくれている医師に失礼」だと考えもせずにいたと反省する。


治療中には「寛解」と言われて他の病院で検査したら、ガンが消えていなかった、ということもあった。
だから、自身の医師を気遣いつつも、一人の医師だけでなく、セカンドオピニオンをもらう大切さを強調する。
 そして声帯全摘出に至ったつんく♂さんだが、今でも、

「もし、いろんな場面で別の選択をしていたら、今はまだ違う結果があったのかなぁ」

 と、考えてしまうという。ただ、

「声帯を失った今、不幸せかというと、決してそうでない」

 とも、つんく♂さんは記す。

 病気を発表したから、世の中に「たくさんたくさんのガンサバイバーの方」がいることを知ったし、
術後数ケ月して通い始めた「食道発声の会」では、「人からモノを教わる新鮮さ」を感じた。
病気のマイナスの面だけを見ていたわけではないのだ。

 最後につんく♂さんは書く。

「さあ、今日も楽しくいきますか!」

 その声を再びステージやテレビで聞く日も来るのかもしれない。

デイリー新潮編集部 新潮社

【つんく♂ がん治療について語る「自分の感覚を信じるべき」『「だから、生きる。」』つんく♂ 著】
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②『「だから、生きる。」』つんく♂ 著

 昨年10月喉頭がんで声帯を失う大手術を乗り越えた歌手で音楽プロデューサーのつんく♂さんが、がん治療について語った。
9月10日に発売された手記『「だから、生きる。」』(新潮社刊)のなかでつんく♂さんは「自分の感覚を信じてほしい」と何度も述べている。

■がんがみつかるまで
 歌手であるつんく♂さんは若い頃より、本業での負担に加え、
お酒や煙草でさらに喉に負担をかけてきたと自覚はしていた。
歌手として自分の身体が楽器であると考え、
体調不良になりそうな気配があるだけで病院へ行くようにしていた。

そのころから調子が悪くなると薬や点滴でどうにかする、という癖がつきだしたという。
喉に炎症が起こるとステロイドの吸入で乗り切っていた。
2013年9月、シャ乱Q結成25周年を記念したツアーを終えたころ喉に違和感を感じ、内視鏡で検査した際、目で見てわかるほど腫れ物ができていたという。
しかしそれもステロイドの吸引のしすぎで組織の一部が固まってしまっているというのがお医者さんの見立てだった。
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③2015年度近畿大学入学式でのつんく♂さん。(つんく♂著『「だから、生きる。」』より)

■99%悪性じゃない
 心配ではあったものの、その腫れ物が悪性の腫瘍、
つまりがんの可能性は「99%ない」とお墨付きをもらっており、楽観視していたという。
しかし三週間たってもよくならない。
それでもお医者さんが99%大丈夫と言い、生体検査もしようと言わないのだから、きっと大丈夫なんだろう、と思っていたという。

つんく♂さんはこのときセカンドオピニオンを聞くなど、
次の一手を考えるべきだった、と後悔していることを同書で明かしている。

■「自分の感覚」より「医師の判断」?
《たとえ医師や専門家の意見が「大丈夫」だったとしても、もっと自分の直観や本能と真剣に向き合っていたら、何を置いても一刻も早く生検をするという方法を選んでいただろうと思う。なのに、僕はこの大事な局面で、「自分自身の感覚」よりも「医師の判断」を信じてしまった。》

 つんく♂さんはその後、三か月以上経った2014年2月に病院で生体検査を受け、喉頭がんがみつかる。

■寛解を発表したものの
 つんく♂さんは喉頭がんに対し、放射線治療を行った。
治療は進み数カ月が経つもなかなか喉の調子はよくならない。
8月にはいりどうしてもおかしいと思ったつんく♂さんはもう一度生体検査を願い出る。
医師の答えは――。

《「がん細胞はみあたりませんでした。良かったですね」結果を聞いた僕は、とても嬉しかった。(中略)僕は心配性すぎたのだ。》
 そして九月半ば、つんく♂さんは医師のお墨付きをもらい、がん細胞の死滅を意味する「完全寛解」を宣言した。
ところが周りからは祝福されるものの、喉の調子は一向に改善しない。
呼吸はしづらく、仰向けに寝ると声帯が圧迫される感じがして苦しい。
もしがんが消えきらず、また大きくなってきていたら、全てつじつまは合うと考えたつんく♂さんは、再度生検を願い出た。

■ニューヨークで受けた最悪の宣告
 10月初旬、モーニング娘。のニューヨーク公演に帯同したつんく♂さんは、その旅を病気に打ち勝ち、
新たな一歩を踏み出すための人生の岐路だと考えていた。

つんく♂さんが16年前に立ちあげたグループが、NYのまんなかでライブを行う。
そんな輝かしい日になるはずだった。
しかしそのライブの二日前、NYに到着したばかりのつんく♂さんに、
日本から生体検査の結果を知らせる電話がかかってきた。

《「すいません。やはり癌でした。この腫れは三月の放射線で叩ききれなかった癌がさらに大きくなったんだと思われます」ずっと考えないようにしていた最悪の結果だった。
(中略)完全寛解から一気に地獄やな。
今までの検査はなんやったんやろか。
僕が自分の不調に気づいて訴えていた、あのあたりで発覚していたらここまで喉も腫れなかっただろうなぁ。》
 

そして「僕がもっと自分を信じて他の病院ででも調べてもらうべきだった」と述べる。
モーニング娘。のNY公演を見届けたつんく♂さんは緊急帰国、その後声帯を全摘する大手術となった。

■自分の感覚を信じてほしい
 つんく♂さんは同書を書いた理由として、自分の感覚を信じる大切さを伝えたかったと語っている。
自分で不調を感じていたのに、がんの発見が遅れてしまったことや、検査結果を鵜呑みにしてしまったことを悔やんでいるという。

《お医者さんも人間。時には見落とすこともある。あなたが医師に診察されるだけでなく、あなた自身が医師を見定めていくというくらいの気持ちが必要であると思います。》

 つんく♂さん自身の体験からでた真摯な言葉は、がんに限らず病気への対応を考えさせられる貴重な提言だ。
デイリー新潮編集部


【つんく♂祝辞全文】一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選んだ
デイリースポーツ 4月4日(土)13時21分配信
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④平成27年4月4日「声を捨て生きる道を選んだ」

近畿大学入学式プロデューサー  つんく♂
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⑤【つんく】一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選んだ
デイリースポーツ 4月4日(土)13時21分配信

 つんく♂さんは昨年2月に喉頭がんが見つかり、後に「完全寛解した」と発表したが、昨年10月に声帯の検査でがんが見つかったと公表していた。喉の治療をしてきたが、結果的にがんが治りきらず、「一番大事にしてきた声を捨て、生きる道」を選んだという。

【平蔵の独り言】
「声帯を失った今、不幸せかというと、決してそうでない」

 とも、つんく♂さんは記す。
 病気を発表したから、世の中に「たくさんたくさんのガンサバイバーの方」がいることを知ったし、術後数ケ月して通い始めた「食道発声の会」では、「人からモノを教わる新鮮さ」を感じた。
病気のマイナスの面だけを見ていたわけではないのだ。
 最後につんく♂さんは書く。

「さあ、今日も楽しくいきますか!」

【独り言】
「さあ、今日も楽しくいきますか!」

気合いを入れる時は思うこともあるが、

1.17阪神淡路大震災に中で経験を踏まえて、
熊本地震の被災者の避難所で「段ボールのパーテーション、簡易ベット」
 これだけでも“日常”に近いが如何に大切か!

つんく♂の声を取り戻していた

つんく♂の日常に少しでも近づくを見ていきたい。

【平蔵の独り言】
つんく♂ がん治療について語る「自分の感覚を信じるべき」

■自分の感覚を信じてほしい
 つんく♂さんは同書を書いた理由として、自分の感覚を信じる大切さを伝えたかったと語っている。
自分で不調を感じていたのに、
がんの発見が遅れてしまったことや、
検査結果を鵜呑みにしてしまったことを悔やんでいるという。

《お医者さんも人間。時には見落とすこともある。あなたが医師に診察されるだけでなく、あなた自身が医師を見定めていくというくらいの気持ちが必要であると思います。》

 つんく♂さん自身の体験からでた真摯な言葉は、
がんに限らず病気への対応を考えさせられる貴重な提言だ。


【独り言】
20余年前、大病をしてからは
〔歯周病〕で歯が一本すっぽり
治療を担当医に聞いて、インプラントを選択したが
先生「どんな経歴、経験ですか」
大学病院で顎が砕けてしまった治療をしてきました。
歯周病、ある日突然歯がすぽ!
もういやだ。

それから、9年メンテナンスは半年毎。

〔左冠動脈狭窄〕“狭窄度70%”
かかりつけ基幹病院を紹介状もらい
心臓CT、カテーテル・ローターブレーター手術
それから毎年検査

心臓CT、胃カメラ、大腸内視鏡(前回ポリープが見つかる)

“人生”という日常「もうなんでも有り」

つんく♂ の自分の感覚を信じて・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2017-01-18 16:08 | 人間模様 | Comments(0)

「大リーグの歴史変えた40人」に選ばれた野茂英雄、〔野茂37位に 米誌が特集〕   

2016年 12月 08日
「大リーグの歴史変えた40人」に選ばれた野茂英雄、〔野茂37位に 米誌が特集〕
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①米誌の「大リーグの歴史を変えた40人」に選ばれた野茂英雄氏=共同
日本経済新聞 夕刊2016/11/29付

 米スポーティング・ニューズ誌がこのほど「大リーグの歴史を変えた40人」を特集し、ドジャースなどで通算123勝を挙げた野茂英雄が37位に選ばれた。
選手だけでなく、大リーグの発展に寄与した人物を選定する企画で、日本選手でただ一人のランク入りだった。
 野茂は1995年にメジャーに挑戦し、ストライキの影響で短かった同年に13勝を挙げて新人王に輝いた。「イチローや松井秀喜ら新世代の日本人の先導役となった」とたたえられた。

 1位に選ばれたのはベーブ・ルースだ。
草創期に通算714本塁打を放って人気を広め「野球にとって初めての象徴的存在で、今日でも最高の選手であり続けている」としている。
 2位は黒人初の大リーガーとなったジャッキー・ロビンソン。
有色人種にメジャーへの扉を開いた功績が認められた。
(共同)

【野茂英雄のトルネードに球場が沸く「今でも応援してくれるファンがいる」】
野茂英雄のトルネードに球場が沸く「今でも応援してくれるファンがいる」
名球会ベースボールフェスティバル2016が1月11日
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②名球会ベースボールフェスティバル2016が1月11日、ヤフオクドームで行われ、往年の名選手達が躍動した。

一際注目を集めたのが、日米両球界で活躍し、通算201勝を挙げた野茂英雄氏。
往年のトルネード投法を見せると、球場全体が沸いた。
「今でも応援してくれるファンがいる」と語っていた野茂氏はファンの前で全力投球。
伝家の宝刀フォークも投げるなど、以前と変わらないピッチングに大観衆が酔いしれた。

また、自身も所属していたロサンゼルス・ドジャースへの入団が決まった元広島の前田健太投手に対しては、「チャンピオンリングを獲ってくれれば自分もうれしい」とエールを送った。

これに対して、「野茂はやっぱり野茂だった。ブランクがあるのに、あまりそれを感じさせないよな。トレーニングしてるのかな」「清原とか楽しそうだったね。それにしてもスゴいメンバーだった」「清原と佐々木の対決とか興奮した。野茂のトルネードが見れてうれしかった」など、ファンからはさまざまな声が寄せられていた。
《浜田哲男》
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③野茂英雄(2003年3月31日)

【「最高の輸出品」クリントン大統領も讃えた! 野茂英雄の偉大なる功績】
Excite Bit コネタ 2015年5月19日 12時01分
ライター情報:さのゆう
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④「野茂英雄―日米の野球をどう変えたか」
近年、多くの日本人野球選手が海を渡ってメジャーリーガーとなっている。
もはや日本のスター選手、例えば最近でいうとマー君やダルビッシュがメジャー移籍を表明した際も「ついにこの日が来たか」とそこまでファンも驚かなかったのではないだろうか。
しかし、つい20年ほど前までは日本のスター選手がメジャーに行くことなど、誰もが夢物語のように思い、非現実的なことだった。
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⑤「野茂は日本からの最高の輸出品」
【当時のクリントン大統領は「野茂は日本からの最高の輸出品」と讃えた】
では、誰がメジャーへの扉をこじ開けたのだろう。
それは「野茂英雄」である。
野茂の名は知っている人も多いのではないだろうか。
1989年、史上最多となる8球団からドラフト1位指名を受けた野茂は競合の末、近鉄に入団。
その後、ルーキーイヤーから4年連続で最多奪三振と最多勝を獲得し、名実ともに日本最強投手だった。
しかし、まだまだ選手としてはこれからという6年目のシーズンに日本を離れメジャーリーグのドジャースへと移籍したのだ。
今回は「野茂英雄―日米の野球をどう変えたか」(著:ロバート・ホワイティング/PHP研究所)を参考に、どのようにアメリカに渡った野茂は野球界を変えてパイオニアと呼ばれるようになったのか探っていこう。

【パイオニア】
野茂はなんと言っても日本人がメジャーに行く道をつくった人物だ。
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⑥「自分の夢を叶えたかった」などではなく意外なものだ。
そもそも野茂がアメリカに渡った最大の理由は「自分の夢を叶えたかった」などではなく意外なものだ。

それは当時在籍していた近鉄バファローズと揉めたから。
監督だった鈴木啓示の「とにかく走れ」という根性論の練習、複数年契約などを認めない球団フロントに愛想をつかせた。
その後、野茂は団野村(スポーツ代理人。サッチーの連れ子でもある)とともに、なんとかアメリカへ行く道はないかと模索した結果、「任意引退」という野球協約の抜け穴を発見する。
しかし、かつて同じように野球協約の抜け穴で巨人入りを目指した「江川事件」がバッシングを受けたように野茂も多くのバッシングを受けることになる。…

マスコミ・プロ野球オーナー・王や長嶋なども含めたプロ野球OB・近鉄の球団社長、挙句の果てには実の父親からも非難された。
しかし、図太い性格の野茂は「売国奴」、「どうせしっぽを巻いて逃げる」などと周囲に言われてもなんとも思わなかった。
「正しいことをしているから」と信じて最終的にはロサンゼルス・ドジャースと契約を結んだ。
後で詳しく説明するが、野茂は1年目から大方の予想を裏切り大活躍。
それまで野茂に罵声を浴びせていた日本人はとたんに「日本の誇りだ」と手のひら返しを見せたのである。

この野茂の活躍により、日本人でもメジャーで活躍できるのだと証明され、MLBの球団は日本人の有力選手を物色するようになる。
また、野茂の活躍を契機に日本でも海を渡るための制度化が進み、イチローなども利用したポスティングシステム導入へとつながった。
最近の日本選手が障害なくメジャーへ行けるのは、「任意引退」という手段を使ってでもアメリカへ渡った野茂の壮絶な覚悟のおかげなのだ。
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⑦野茂の活躍により
【成績も凄かった】
ドジャースで1995年シーズンを迎えた野茂は初登板から好投する。
その後の登板でも好投が続き、最終的には1年目のシーズンは13勝をマークすると同時に、最多奪三振・新人王のタイトルを獲得する。
また、日本人初となる(そして現在でも野茂ただ一人)オールスターでの先発投手を務めたり、リーグ最終登板でチームをPO進出に導くピッチングをしたりと記憶の面でもかなり大きな印象を与えた。
このように野茂が初年度から活躍できたのは「トルネード投法」と呼ばれる独特のフォーム、そして150km/hを超えるストレートと信じられないほどの落差のフォークボールがあったからだ。

当時、野茂と対戦した大打者たちはみな絶賛のコメントを残している。
例えばバリー・ボンズは「あんな投手見たことない」と話し、
サミー・ソーサは「あんな打ちにくいフォークは初めてだ」と話した。

【ノーヒッターに】
そしてメジャーでの2年目のシーズン、野茂はより大きなインパクトを日米のファンに残した。…

"常識外"とも言えるノーヒットノーランをロッキーズ戦で達成したのだ。
というもの、野茂が記録達成した球場「クアーズ・フィールド」はかなり標高が高く打球が飛びやすい。
そのため投手にとってはかなり不利な球場だ。
事実、「クアーズ・フィールド」を本拠地とするロッキーズはそれまで直近7試合の平均得点は10点を超える(そのすべての試合で2ケタ安打を記録する)ほどだった。
野茂はそんな球場、しかも試合当日は気温が低く雨も降るという投手にとって最悪の環境の中で達成。
ドジャース監督は「史上最高のピッチングとして歴史に残すべき」と話し、
「完全試合より価値があるノーヒットノーランだ」とも言われた。
また、野茂はその後、ア・リーグでもノーヒットノーランを記録し、メジャー史上5人目となる両リーグでのノーヒッターとなった。

【ファン人気が凄かった】
それまで見たことのないフォームで快投を続ける野茂に日本のファンのみならず、アメリカファンも熱狂。
そんな彼らは「NOMO マニア」と呼ばれ、「野茂が投げれば大丈夫」と歌われたテーマ曲まで登場した。
人気は数字にも表れ、スタジアムの 観客動員数が野茂登板の時には4%アップすると言われたほど。
また、ジム・キャリー主演の「ライアーライアー」の中では、ジム・キャリー演じる主人公の息子が「僕はノモになる!」と叫ぶシーンまで登場する。
ハリウッド映画に登場するほど当時の野茂は人気があった。

このようなフィーバーを通して野茂は「メジャーリーグの救世主」と呼ばれるようになった。
なぜそこまで称賛されたかというと、野茂が渡米する前年、メジャーは大規模なストライキが起きてファン離れが深刻だった。
そんな中、野茂が彗星のごとく登場してスタジアムへとファンを呼び戻したからだ。ラソーダ(当時のドジャース監督)も「彼がMLBを救った」と語っている。
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⑧野茂は「メジャーリーグの救世主」
【日米関係も改善】
野茂が救ったのはメジャーリーグだけではない。…

日米関係をも救ったのだ。
1995年当時は貿易摩擦などの影響で日米関係は冷え込んでいた。
そんな中、野茂が好投したことで関係に好ましい影響を与えたのだ。
米大手メディアのNY times紙は「野茂のおかげで日本の鎖国癖は消えつつある」で語り、
当時のクリントン大統領は「野茂は日本からの最高の輸出品」と讃えた。

このように野茂はただ「アメリカで活躍した」という事実以上に多くのものを残していったことが分かる。
日本人選手にメジャーリーグという選択肢を与えてくれたのは間違いなく野茂英雄だ。
あの黒田博樹もドジャースでメジャー生活のスタートを切ったときに
「野茂さんがいなければ我々は誰もアメリカに来られなかった」と語っている。

日本とアメリカの野球に橋を掛けて、日米球界に大きすぎる貢献をした彼はまさしく"英雄"ではないだろうか。
(さのゆう)

【平蔵の独り言】
小学生の時、巨人ファンであったが、
千葉茂が移籍して監督をしたパリーグは近鉄ファンになっていた。

近鉄は巨人の水原、三原・川上、千葉のライバル関係で出された
三原監督、千葉茂監督で在籍し、
仰木彬さんで野球人生を開花した、野茂英雄・・・・・
思い返せば、愉しい球団だった。
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by asanogawa-garou | 2016-12-08 15:50 | 人間模様 | Comments(0)

【つんく♂】一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選んだ   

2015年 05月 16日
【つんく♂】一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選んだ
【つんく♂メッセージ全文】(スクリーンに掲示された原文まま)
【立川談志】「プライドが許さない。しゃべるのが仕事なんだから」
【忌野清志郎】 忌野清志郎さん死去…58歳ロックに生きた
【ビートたけし】オイラがつんく♂だったら、手術は選ばなかっただろうな!

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【つんく♂祝辞全文】一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選んだ
デイリースポーツ 4月4日(土)13時21分配信
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①声帯を摘出したことを公表したつんく♂=近畿大学

 声帯がん治療のため療養していた音楽プロデューサー・つんく♂(46)が4日、
母校・近畿大学(大阪府東大阪市)の入学式にサプライズで登場し、
昨年10月にがん再発を公表後は初めて公の場に姿を見せた。
新入生約7000人への祝辞の中で、声帯の摘出手術を受けた結果、
声を失ったことを告白した。以下、入学式で発表された新入生への祝辞。
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②声帯を摘出し声を失ったつんく♂は、ギターを弾きながら懸命に声を出そうとする=近畿大学(撮影・山口 登)

 【つんく♂メッセージ全文】(スクリーンに掲示された原文まま)

 平成27年度 近畿大学にご入学の皆さん 入学おめでとうございます!
この大学の卒業生でもあります私「つんく♂」と申します。

正直言いましょう、今日のこの入学式には、
近畿大学にひっしのぱっちで入学した人。
狙い定めた入った人。
結果的に(滑り止めで)近畿大学に入った人。
いろんな人がいるでしょう。

 でも、あなたにとってどの大学が正解だったんでしょうか…それはわかりません。
ただ、ひとつ言えるのは、この先の人生で、
あなた自身が「ああ、この大学に入ってよかったな。」という道を歩めば良いんだと思います。

 なぜ、今、私は声にして祝辞を読みあげることが出来ないのか…それは、私が声帯を摘出したからです。

去年から喉の治療をしてきていましたが、結果的に癌が治りきらず、
摘出するより他なかったから、一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選びました。

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 そんな私に、「今年も近畿大学の入学式のプロデュースをお願いしたい!」と、
この大学から依頼がありました。

その時に思いました。
「ああ、この大学を卒業してよかったな。こんな私がお役に立てるなら精一杯頑張ろう!」
そう心に思いました。

昨年末から何度も大学とメールでやり取りしたり、スタッフが伝言してくれたり、
を繰り返しつつ、今日、この日を迎えました。

 KINDAI GIRLSの皆さん、吹奏楽、応援部の皆さん、
その他たくさんの学生の皆さんが、
今日の日の為に夢中でレッスンしたり、準備してくれました。
「みんなで一緒に新入生を迎え入れよう!」と。

 ここまでの人生はもしかしたら受け身だった人もいるかもしれません。
親が言うから…学校の先生がすすめたから…でも、もうすぐ皆さんは成人します。
もう自分の人生を歩んで行くんです。
後悔しても意味がないんです。
今から進んでいくんです。
自分で決めて進んで行けば、絶対に何かを得、
そしてまた次のチャンスへと繋がっていくんだと思います。

 私も声を失って歩き始めたばかりの1回生。
皆さんと一緒です。
こんな私だから出来る事。
こんな私にしか出来ない事。
そんな事を考えながら生きていこうと思います。

 皆さんもあなただから出来る事。
あなたにしか出来ない事。
それを追求すれば、学歴でもない、成績でもない、
あなたの代わりは無理なんだという人生が待っていると思います。

 近畿大学はどんな事にもチャレンジさせてくれます。
だから何もしなかったら何もしないなりの人生をチョイスすることになるし、
自分で切り開いていく道を選べば、
きっと自分を大きく育てるようなそんな大学生活になるでしょう。

 仲間や友人をたくさん作り、世界に目をむけた人生を歩んでください。
私も皆さんに負けないように、新しい人生を進んで行きます!

 だから最後にもう一度言わせてください。
皆さん、近畿大学への入学、本当におめでとう!
「ああ、良かった!」と思える大学生活をセルフプロデュースしてください!

 そして、今日のこの出会いに感謝します。ありがとう!

平成27年4月4日

近畿大学入学式プロデューサー  つんく♂
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【つんく】一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選んだ
デイリースポーツ 4月4日(土)13時21分配信

 つんく♂さんは昨年2月に喉頭がんが見つかり、
後に「完全寛解した」と発表したが、昨年10月に声帯の検査でがんが見つかったと公表していた。
喉の治療をしてきたが、結果的にがんが治りきらず、
「一番大事にしてきた声を捨て、生きる道」を選んだという。

【立川談志】「プライドが許さない。しゃべるのが仕事なんだから」
 同じ喉頭がんを患った落語家の立川談志さんは生前、
がんが再発し声帯摘出手術を勧められた際に
「プライドが許さない。しゃべるのが仕事なんだから」と拒否したとされる。
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落語家・立川談志さん、喉頭がんのため75歳で死去

【忌野清志郎】 忌野清志郎さん死去…58歳ロックに生きた
咽頭がんが転移し、
がん性リンパ管症で亡くなった歌手の忌野清志郎さんは
最初、放射線と抗がん剤の併用療法を受けていたが、
途中から抗がん剤だけの治療に変えたという。
以前と同じように歌うことは難しくなり、それを心配したためとみられている。
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ステージで勢いよくマイクを回す忌野清志郎

【ビートたけし】オイラがつんく♂だったら、手術は選ばなかっただろうな!

「命」をとるか「商売道具」をとるかっていうのは、
確かにプロフェッショナルとして働く者にとって「究極の選択」なのかもしれない。
だけどこういう話ってのは感情論ではなく、
あくまで合理的に判断するべきなんじゃないかって思うよ。

バンド『シャ乱Q』のボーカルでミュージシャンのつんく♂が、
喉頭がんで咽喉がんで声帯を摘出したっていうんだけどさ。
『自分で決めたことが正解なんだよ』

名のある歌い手が、生きていくために泣く泣く決断したっていうんで、
ワイドショーやらいろんなところで感動的な話として扱われているわけなんだけどね。

たとえば、まだ年齢が若いんであれば後の人生を考えてリスクを取り除くのが基本だろうし、
逆にジジイやババアが残りわずかの余生のために
大事な体のパーツを取って不自由して生きるってのは別の話だろ。

もうひとつは、体のパーツを失うことによって、
その人の「生き甲斐」がどれくらい制限させるかってこともよく考えるべきだよな。

だから、つんく♂の判断はよく理解できる。
40代で若いからまだまだこの先の人生があるし、
確かに歌手で世に出た人ではあるけど曲や詞を書く才能だってあるし、
いろいろな表現手段があるわけでね。

その考え方でいけば、もしオイラがつんく♂の立場だったら
たぶん何もしないんじゃないかと思うね。

いつもいっているように、
オイラはやりたいことは大体やってきたし、いつ死んだって構わないって思ってる。
もう68歳なんで声帯を取ったってすぐに死んじまうかもしれないし、
声を出せなくなってその後不自由して生きていくのも面倒だ。

今のまんまで行けるところまで行ってみようって考えるだろうな。
まァ、これが別の臓器なら話も変わるんだろうけど、
それでも無理して延命したいとは思えないんだよ。

なかなか、つんく♂みたいな思い切った判断ができないってのもよく分かるね。

忌野清志郎さんだって声帯を取らずにがん闘病することを選んだと聞くし、
立川談志さんだってそうだったしね。

やっぱりしゃべりや歌をベースに芸の道を究めてきたってタイプは
なかなかスパッと割り切れないと思うんだ。
それまで積み重ねたものがなくなってしまう恐怖があるだろうからね。

週刊ポスト2015/4/24号ビートたけしの21世紀“毒談”第1251回
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【平蔵の独り言】
つんく♂:生きる道を選んだ
【つんく】一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選んだ

【ビートたけし】オイラがつんく♂だったら、手術は選ばなかっただろうな!
もう68歳なんで声帯を取ったってすぐに死んじまうかもしれないし、
声を出せなくなってその後不自由して生きていくのも面倒だ。

今のまんまで行けるところまで行ってみようって考えるだろうな。
まァ、これが別の臓器なら話も変わるんだろうけど、
それでも無理して延命したいとは思えないんだよ。

なかなか、つんく♂みたいな思い切った判断ができないってのもよく分かるね。

忌野清志郎さんだって声帯を取らずにがん闘病することを選んだと聞くし、
立川談志さんだってそうだったしね。

【独り言】
“人生”は今という日常から別れる(この人たち)のが怖いから
朝、起きて食事をして仕事をして
病気の治療をして
ということが、古希を目前に“そうか!”
と感じ始めてきたが、

自分の足(意志)で歩ける努力を・・・・・
朝晩のストレッチ、週2回のリハビリ、毎月の内科
年1回の冠動脈狭窄検査、etc

“生きる”
今日、12月で100歳になる人生の先輩に会ってきて、
元気をもらってきた!
来週、『シャ乱Q』「シングル・ベッド」
カラオケに行って

“今のまんまで行けるところまで行ってみよう”
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by asanogawa-garou | 2015-05-16 19:00 | 人間模様 | Comments(0)

【マツコ・デラックス】飽きられるのはわかっている。私は決して、皆さんに偉そうに話せるような人間では   

2015年 05月 07日
【マツコ・デラックス】飽きられるのはわかっている。私は決して、皆さんに偉そうに話せるような人間ではないの。

〔マツコからの突然の電話〕
〔私は決して、皆さんに偉そうに話せるような人間ではないの。〕
サラリーマンや農家や漁師さん、そういう人たちが1番偉いの。
これほど役に立たない人間がどうにかおまんまを食えているのは、そういう人たちが世の中を支えてくれているからなのよ。

〔人生のターニングポイントなんて言葉にできない〕
『あれがあったから、今の自分があります』なんて言うけれど、
そんなの全部後付けでしょ。
ただただ日々に追われて生きてきて、たまたまここに辿り着いただけなんだもん」

〔超ドライな子供だった〕
〔両親との知られざる関係〕

〔自分を過信していたというか、自分一人で何かを変えられることなんて出来るはずはなくて、ちょっとずつ、みんなで変えてゆくしかないのにね〕
両親も、このまま家に引き籠もっていたら本当にだめになると思ったんじゃないかな。
だから母親から「次の家にあんたの部屋はないんだから、出て行きなさい」と言われたの。
〔1人でも寂しくない〕
〔私の私生活なんて、あんなものよ〕
〔飽きられるのはわかっている〕
どんな人間でも、生まれた時の「宿命」なんてないよ。
今自分がやっている人にだけ、自分の道が見えてくるんじゃない。
仕事も人生も、今与えられていることを精一杯やる。
その繰り返しでしかないと私は思っているから。

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レギュラー番組9本、いまやテレビの王様

初めて明かされるマツコ・デラックスの素性(彼女はいったい何者なのか)
画面に映った時の迫力は他の芸能人とは全く異なる。
口調はエラそうだけど、なぜかついつい見てしまう。今、テレビ業界で最も存在感のある人物ーーーマツコ・デラックス本人が吠えた。

〔マツコからの突然の電話〕
「今、インタビュー依頼の企画書を読んで電話してるんだけど、こんなオカマの素性を探って何が面白いのかね。
みなさんに知って欲しいような面白い話もそうないし、過去を切り売りする商売ってのはおしゃれじゃないわよ。
しかも、もう色々と取材もしてるみたいだけど、本当に私のことを知っている人たちは、ベラベラと週刊誌にしゃべるようなことはしないから。
取材を断った人たちからも、もう続々と連絡は入っていたわ」
深夜、本誌記者の携帯に一本の電話がかかってきた。
電話の主は歯に衣着せぬ物言いと、独特の切り口でテレビから引っ張りだこのマツコ・デラックス(42歳)だった。


〔私は決して、皆さんに偉そうに話せるような人間ではないの。〕
私は決して、皆さんに偉そうに話せるような人間ではないの。
サラリーマンや農家や漁師さん、そういう人たちが1番偉いの。
これほど役に立たない人間がどうにかおまんまを食えているのは、そういう人たちが世の中を支えてくれているからなのよ。

私は本来でしゃばるのも嫌だし、
本当はもっと緩やかにメディアとお付き合いしていきたいと思っていたから、
まさかこれほどガッツリ関わることになりとは想像もしてなかった。
でも、それも流れだからね。
ずっと1人暮らしだけど寂しいとかいう気持ちはない。
結局1人でいるのが好きなんだと思う。
以前、いいなあと思っている人がいて、借金がある人だったから、おカネを貸してあげたの。
で、そのまま逃げられたんだけど、寂しいという気持ちにならなかったからね。
たぶん1人でいいんだと思う。
一生男がいなくても、友人や仕事仲間はいるんだしね。
だから、一緒に仕事をしてくれる人がいなくなったときに「絶望」が訪れるんじゃない?
今はこれだけの人が一緒に仕事をしたいといって、アンタたち週刊誌もちょっかい出してくれるわけじゃない。
でもそれもいつか無くなるわけよね。
そのとき本当の絶望が訪れる気がする。
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〔人生のターニングポイントなんて言葉にできない〕
現在、マツコはレギュラー番組9本を抱えるほどの超売れっ子。
その姿をテレビで見ない日はなく、いまやテレビの王様と言っても過言ではない。
だが、この人気タレントの素性は意外なほど知られていない。
そこで本誌はマツコの同級生や知人など、周辺取材を行っていた。
まさにその最中の出来事だった。

「私は自分の過去を話すことが嫌いなの。
自分で自分のことを語るってものすごくかっこ悪いことじゃない。
『どうやって今のマツコさんは形成させたのですか』とかよく聞かれるけど、
そんなこと自分でわかる人っているのかしら。
人生のターニングポイントなんて言葉にできない。
『あれがあったから、今の自分があります』なんて言うけれど、
そんなの全部後付けでしょ。

ただただ日々に追われて生きてきて、たまたまここに辿り着いただけなんだもん」

特に本誌がマツコの母親に接触したことには、憤りを感じているようだった。
「親のところに取材に行くのだけは絶対にやめて。
うちの両親は、アンタたちが取材に来ても私になんの連絡もしてこないの。
そういうできた親なの。
取材が来たからって何でも話す親じゃないんだよ。
ちゃんとした両親は子供のことなんてベラベラ話さない。
2人とももう80歳を過ぎているんだから、そっとしておいてよ。
なんで親への取材にこんなに過剰に反応するのかって?
あのさあ、オカマの親なんだよ。
綺麗な女優さんの親じゃないの。
私は何を言われても構わないけど、両親がとやかく言われることだけは絶対に許せない」
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〔超ドライな子供だった〕
本誌はこれほどテレビに出演しているマツコに絶大な影響力があること、
そうした人物の過去も含めた素性は国民的な関心事であることを根気よく伝え、最終的にマツコはインタビューに応じることを了承した。

彼女は何者なのか。本人の口から、数々の新たな事実が明かされる。

自分がゲイなんじゃないかと気づいたのは、物心がついたときから。
女の子と付き合ったりしてみたけど、やっぱり違った。
小学生の頃から私は「超ドライ」な子供だったと思う。
私、小学校5年生のとき、登校拒否したことがあるの。
子供っぽく振る舞うとか、みんなで仲良くすることとか、
ちゃんとしたふりをすることが辛かったから。
別にいじめられていたわけでもないわよ。
かといって、人気者だったわけでもない。
それだけ。いまでも連絡を取り合う友達は一人もいない。
ゲイであることも含め、すべてをさらけ出して付き合っていたわけではなかったからなのかね。

〔両親との知られざる関係〕
´90年代初頭にゲイカルチャーブームがあって、セクシャリティとしてのゲイが注目された。
テレビで社会におけるゲイを語るようになったのよ。
それを見た時に、自分がゲイであることにちゃんと向き合ってみないと私の人生、話になんないなあと思って、それで、ゲイ雑誌で働き始めたのよ。
だけど、思ったことが出来なくなって5年で辞めてしまった。
ゲイカルチャーの黎明期に携わることが出来ても、
それを大きく広げることが出来なかった自分に、無力感のようなものが襲ったのよね。
それが私には許せなかったの。
まあ今になって思えばそれは私の驕りだったんだけどね。

〔自分を過信していたというか、自分一人で何かを変えられることなんて出来るはずはなくて、ちょっとずつ、みんなで変えてゆくしかないのにね〕
それで、勝手に夢破れて実家に帰ったのよ。
実家にいるときは、やっぱりテレビを見ていたわ。
2年間引き籠もり生活を送った。
ああ、私はこのまま誰にも愛されず、誰にも見つけられずに死んでいくのねと思っていた。
そんな私に手を差し伸べてくれたのが、中村うさぎだった。
彼女がたまに仕事を振ってくれて、そういう時だけ社会と触れ合うことができた。
両親は何も言わなかった。
もちろん「働け」とは言うけど、私のセクシャリティや仕事内容に関しては、
必要以上に踏み込んでこなかった。
自分たちが理解できないから聞かないようにしてくれたのか、
それはわからないんだけど、デリケートなことには触れない人たちなの。
子供に対して過剰に関わる今の親に比べたら、真っ当な感覚だと思う。
ただ、老夫婦二人が身の丈にあった生活をしようと引っ越しを決めたタイミングで、実家を出ていくように言われたわ。
両親も、このまま家に引き籠もっていたら本当にだめになると思ったんじゃないかな。
だから母親から「次の家にあんたの部屋はないんだから、出て行きなさい」と言われたの。
しかたなくボロアパートで一人暮らしを始め、

それから本格的にフリーのライターとして活動するようになった。
その後、ミッツ(・マングローブ)と知り合いになって、
彼のいとこの徳光正行さんが司会を務める『5時に夢中!』(東京MXテレビ)に、ひょんなことから出演することになった。
そこからね。いろんなことが開けていったのは。
もちろん両親も、今は私がゲイだって知っているに決まっているけど、
自分からカミングアウトしたことはないし、これからもするつもりはないわ。
両親が聞いてくれば正直に話すけどね。
実家には6年くらい帰ってない。
両親とどう向き合うか踏ん切りがついたら、帰ろうと思っていたら、
それから6年も経っちゃってたわ。
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〔1人でも寂しくない〕
テレビに出るようになってから、何度も自分を売らなければならない、
魂を売らなければならないと思う瞬間もあったけど、
それでも嫌なものは嫌と言うようにしてきた。
そこはゲイでよかったかなと思う。
家族もいないから女房、子供を食わせる必要もないし、
最後は自分だけがのたれ死ねばいいんだから。
私はゲイだけど、だからといって自分を理解しろというのは驕りだと思っているの。
所詮みんな他人なんだから、理解されないのは当たり前なんだよ。
だから私は理解してくれとも思わない。
好きに受け取ってくださいと言うほかないじゃない。
女装だってそうよ。
私がテレビで女装をすることになった理由もすごく単純で、
四六時中女装をしたいわけじゃない。
だけど私がフリーライターの時、大きな仕事をするチャンスがあったの。
その時に、マツコという名前で、ドラァグ・クイーン(女装)としてクラブイベントに出たりしているのを編集者が知っていて、
どうせだったらって、女装時の名前で書くことになったのよ。
それでマツコという人生を生きるようになったってこと。
今でも仕事の時以外は女装していないわよ。
もちろん女装はしたくてしてるんだけど、女になりたいわけでもないし、
常に女装していたいわけでもなくて、あくまであれは私の「一面」なのよ。
でも世の中、視聴者は私の女装している姿を受け入れてくれたんだから。
だからそれは精一杯やろうと思っている。

〔私の私生活なんて、あんなものよ〕
女性週刊誌に、私が男の姿でコンビニ袋をぶら下げたプライベートの写真を
撮られたことがあるけど、私の私生活なんてあんなものよ。
派手な遊びはしていないし、特に楽しみなんてない。
食事だって基本、テレビ局のお弁当よ。
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〔飽きられるのはわかっている〕
・だからテレビ局から仕事をもらったら、絶対に手を抜かずどんなことでも粛々と淡々とやってきたのよ。
プライベートを捨てたとか言われるけど、
まあ元々プライベートを謳歌してきた人生じゃないからね。
私は、人間は仕事をする生き物だと思っているの。
それが動物とは違うところ。思慮して、計画を立てて、仕事をする。
それが人間。
私は自分が楽しく生きようなんて思っていないのよ。
だってこんな化け物が画面にさらされて、
不快な思いをしている人たちだっているんだから、
たまたまテレビを見た人がちょっと面白いとか、
得したと思ってもらわないと、申し訳ないなと思うの。
だからテレビ局から仕事をもらったら、
絶対に手を抜かずどんなことでも粛々と淡々とやってきたのよ。
それが今の結果。

だからといって、いま思い通りにいってない人に対して、
あきらめるな、絶対に成功が待っているなんてことは言えないよ。
そもそも、今の私を見てこれが成功だと言える?
完全無比の成功者なんて絶対にいない。
だから、自分語りをしたり、格好良い言葉を吐いたりはしたくないんだよ。
今、幸せかどうか問われれば、それは幸せですよ。
一緒に真剣勝負してくれるスタッフがいて、私を必要としてくれる人がいる。
これも引き籠もっていた時、自暴自棄にもなったけど、
そこで腐らずに、誰も見ていなくてもやり続けた結果だと思う。
私を見つけてくれて、新しいステージを用意してくれた人や、
それを見た人たちが、また新たな活躍の場を提供してくれた。
その繰り返し。
見つけてくれたという意味では、
私の拙い文章をおもしろいと思ってくれた読者のみなさんや、
こんな化け物を見続けてくれている視聴者のみなさんも一緒。
だから、見つけてもらった以上は、その人たちの為にも、
必死に頑張らなくちゃいけない。そうでしょ。

私だっていずれ飽きられる日が来ることはわかっている。
だけど、だからといって、そのために保険かけて、
予防線を張って生きていくつもりはないの。
前に向かって突っ走っていくしかないのよ。
今、私を見つけてくれている人たちのために、感謝しながらね。
だから過去を振り返ったってしょうがない。

どんな人間でも、生まれた時の「宿命」なんてないよ。
今自分がやっている人にだけ、自分の道が見えてくるんじゃない。
仕事も人生も、今与えられていることを精一杯やる。
その繰り返しでしかないと私は思っているから。

週刊現代2015/4/18号 初めて明かされる(マツコ・デラックス)の素性〔彼女はいったい何者なのか〕
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【平蔵の独り言】
私は決して、皆さんに偉そうに話せるような人間ではないの。
サラリーマンや農家や漁師さん、そういう人たちが1番偉いの。
これほど役に立たない人間がどうにかおまんまを食えているのは、そういう人たちが世の中を支えてくれているからなのよ。
【独り言】
サラリーマンや農家や漁師さん、そういう人たちが1番偉いの。

そうですよね!普通に生きて、普通に生活している人(市井の人がですよね)
〔市井の人が1番偉いんだ…〕普通に生きて、生活している。2013/10/10

【平蔵の独り言】
人生のターニングポイントなんて言葉にできない。
『あれがあったから、今の自分があります』なんて言うけれど、
そんなの全部後付けでしょ。
【独り言】
『分岐点』あのときの私の選択は、正しかったのか?誰もが持つ人生の〔分岐点〕 【選ばれざる道】2014/07/13
人生の岐路(ターニング・ポイント)は、
今になって人生という時間を経て
「あの出来事が、人生の岐路だったんだ」
と、思う。

振り返る機会があった時に気付くのですよね。

【平蔵の独り言】
どんな人間でも、生まれた時の「宿命」なんてないよ。
今自分がやっている人にだけ、自分の道が見えてくるんじゃない。
仕事も人生も、今与えられていることを精一杯やる。
その繰り返しでしかないと私は思っているから。

【独り言】

マツコ・デラックス は“市井の人”を忘れていない!
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by asanogawa-garou | 2015-05-07 15:19 | 人間模様 | Comments(0)

【野際陽子】この道をずっと歩いてきた。老いを隠さない。それが、彼女一流の“へこまない”生き方。   

2015年 04月 02日
【野際陽子】この道をずっと歩いてきた。老いを隠さない。それが、彼女一流の“へこまない”生き方。

〔自分に期待しない。足りなかったらしゃーない〕
私は自分に期待していないから、無駄なストレスや絶望がないんです。
自分が持っているものが、すべて。足りなかったら、しゃーない。」

〔『自分なんてたいしたことない』と思ってきた〕

〔強盗にナイフを突きつけられたのに「おつり頂戴」って〕

〔悲痛な顔で誰かに訴えたところで聞かされた人が辛いだろうなと思うし、第一、悩みが消えるわけではありませんから〕

〔役作りには困らないから、根が意地悪なのかも〕

〔欲張ったりほめられたいと思うから苦しい〕
最近、テレビで、年配の農家の方が、今年も作物を収穫することができた、それ以上は何も望ましいと笑っている姿を見て、涙が出るほど感動しました。
誉められたいと思えば生きづらいに決まっています。
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〔自分に期待しない。足りなかったらしゃーない〕
年齢のことに触れたくないという女性は世の中に多い。
しかし、今年79歳を迎えた野際陽子は、躊躇うことなく年齢を口にする。
「だって隠したって仕方ないでしょう?
ウィキペディキュアを見たら、立教大学では長嶋茂雄さんと同期だったとバッチリ書いてあるわよ。
それにしても、こんなに大きく『今年で79歳!』なんて書かなくてもいいのにねぇ(笑)」

と、自らの著者の帯に大きく書かれた文字を軽やかに笑い飛ばした。
彼女なりの老い対策や美容法のほか、心豊かな暮らしぶりが綴られているが、
自らを「老婆」と呼ぶユーモラスな文体が印象的だ。

〔『自分なんてたいしたことない』と思ってきた〕
「昔から自虐的なところがあるの。いつも『自分なんてたいしたことない』と思ってきた。
皆よく、『へこむ』って言うでしょ。
でもそれって、自分に期待してるっていうこと。
私は自分に期待していないから、無駄なストレスや絶望がないんです。自分が持っているものが、すべて。足りなかったら、しゃーない。」

〔強盗にナイフを突きつけられたのに「おつり頂戴」って〕
5人姉弟の長女として育った野際は、終戦後の新制中学2期生として、立教女学院へ進学した。
「父母の苦労を見ていたから、自活しなければという意識があった。
立教大では英語サークルで英語劇に参加したり、
学内の『テアトルジュンヌ』という劇団で芝居をしていましたが、
現実と向き合った時、早く自分の手でお金を稼ぎたかったんです。
だから、卒業後の進路は就職以外、考えられなかった。
それで、NHKにアナウンサーとして入局しました」

サラリと語るが、4000人もの志願者の中から採用させたのは、たったの11人。
遡れば大学時代は特待生で、
アメフトの応援団のクイーンに選出されたりと、常に「選ばれし者」だったのではないか。

「まったくもって誤解。特待生になれたのも、失恋の痛手を忘れるために勉強に没頭したことが活きただけ。
いざ、という時には肝がすわるタイプかもしれませんね」

その性格を表す強烈なエピソードがある。
NHK時代、名古屋に赴任していた時のこと。
一人暮らしをしていた野際のアパートに、強盗が押し入ったことがあった。
ナイフを脇腹に突きつけられ、恐怖と緊張で空気が張り詰める中、野際の口から出た言葉は、
「いくら欲しいの?」。

男は何ともバカ正直に、「200円(現在の価値で4000円ほど)」と要求してきたが、生憎、千円札しか持ち合わせていなかった。
そこで、「千円渡すから、おつりを頂戴」と掛け合ったというのだ。
このことについて野際は、
「最初は命が惜しかったのに、ナイフが食事用のものだと確認した途端、お金のほうが惜しくなってしまって」と言いながら笑い、「本当は死ぬほど怖かった」とポツリと溢した。
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〔『自分なんてたいしたことない』と思ってきた〕
「昔から自虐的なところがあるの。いつも『自分なんてたいしたことない』と思ってきた。
皆よく、『へこむ』って言うでしょ。
でもそれって、自分に期待してるっていうこと。
私は自分に期待していないから、無駄なストレスや絶望がないんです。
自分が持っているものが、すべて。足りなかったら、しゃーない。」

〔強盗にナイフを突きつけられたのに「おつり頂戴」って〕
5人姉弟の長女として育った野際は、終戦後の新制中学2期生として、立教女学院へ進学した。
「父母の苦労を見ていたから、自活しなければという意識があった。
立教大では英語サークルで英語劇に参加したり、学内の『テアトルジュンヌ』という劇団で芝居をしていましたが、現実と向き合った時、早く自分の手でお金を稼ぎたかったんです。
だから、卒業後の進路は就職以外、考えられなかった。
それで、NHKにアナウンサーとして入局しました」

サラリと語るが、4000人もの志願者の中から採用させたのは、たったの11人。
遡れば大学時代は特待生で、アメフトの応援団のクイーンに選出されたりと、常に「選ばれし者」だったのではないか。
「まったくもって誤解。特待生になれたのも、失恋の痛手を忘れるために勉強に没頭したことが活きただけ。いざ、という時には肝がすわるタイプかもしれませんね」

その性格を表す強烈なエピソードがある。
NHK時代、名古屋に赴任していた時のこと。
一人暮らしをしていた野際のアパートに、強盗が押し入ったことがあった。
ナイフを脇腹に突きつけられ、恐怖と緊張で空気が張り詰める中、
野際の口から出た言葉は、
「いくら欲しいの?」。

男は何ともバカ正直に、「200円(現在の価値で4000円ほど)」と要求してきたが、
生憎、千円札しか持ち合わせていなかった。
そこで、「千円渡すから、おつりを頂戴」と掛け合ったというのだ。
このことについて野際は、
「最初は命が惜しかったのに、ナイフが食事用のものだと確認した途端、お金のほうが惜しくなってしまって」と言いながら笑い、「本当は死ぬほど怖かった」とポツリと溢した。

〔悲痛な顔で誰かに訴えたところで聞かされた人が辛いだろうなと思うし、第一、悩みが消えるわけではありませんから〕
「だからこそ笑い話にしてしまうんですね。
これまで生きて来たうちには、苦しいことや哀しいこともありましたが、
その胸の内を明かしたことはないんです。
悲痛な顔で誰かに訴えたところで聞かされた人が辛いだろうなと思うし、第一、悩みが消えるわけではありませんから。
抱えてしまった問題はどう頑張っても解決しないということもあります。
ならば潔く現実を受け入れ、ほかに幸せなことを探してフォローする。
そんな風にしてバランスを保って生きてきたような気がします」

どこまでも現実的な野際がせっかく入局したNHKを4年で辞めたのは、
彼女のプレゼン能力に目をつけた広告代理店に、新規企画のプレゼンターとして引き抜かれたからだった。
「NHKのお給料は2万円くらいでしたが、6万円もくれるというので、こんなに美味しい話を逃すものかと飛びつきました(笑)。
ただ、プレゼンターの仕事はまだ準備中ですることがなくて。
そんな時、TBSの『女性専科』という番組の司会をやらないかと持ちかけられたんです。
このまま何もしないで給料を貰うのは心苦しいし、毎日の生放送はしんどいだろうけど、まあ、お金は頂けるだろうとやることにしました。
フランスに留学したかったので、そのための貯金に余念がなかったんです。番組の司会を始めて1年ほど経った頃に、今度は『悲の器』というドラマに出演しないかと連絡があり、それも引き受けましたが、当時は女優という仕事に対して無欲でした」

そして30歳の時、念願のパリへ旅立つ。語学学校やソルボンヌ大学仏文科に通う1年の留学を経て帰国し、ほどなくして出演したのが、視聴率30%を記録した伝説のドラマ『キーハンター』。
野際はクールビューティーな女優として認知され、たちまち人気を博した。

「あの作品は、一人の女性としての転機でした。というのも、ドラマの共演がきっかけで結婚を体験しましたから(千葉真一と’73年に結婚)。
『女性専科』『キイハンター』の頃が、私の唯一の自己主張期。
撮影現場でも、台本に納得がいかないと監督をつかまえて議論したり、何事につけても理屈っぽい、本当に嫌な女だったと思います。
でも結婚と出産を経て、丸くなったというのかしら。本来の“期待しない”自分に戻った。


ただ、結婚生活は自分には合わないと、ずっと思っていました。
仕事の同志としてはじまった関係だったから、罵り合って終わりたくはなかった。
そう思ってタイミングを待っていたら、結婚生活が21年も続いちゃった」
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〔役作りには困らないから、根が意地悪なのかも〕
その頃、ドラマ『ずっとあなたが好きだった』(’92年)で演じた、
息子を溺愛する母親役が注目を集め、再ブレイクの渦中にあった。
以後、彼女のもとへは、クセのある姑役のオファーが殺到する。
「姑役が続いて、演じ分けなくてはと躍起になるのですが、基本的に役作りはしないんです。
撮影現場に入ると、スッと役柄が降りてくる。
隣家の嫁がイラッとすることを言えば、
庭掃除していたチリトリのゴミを相手の郵便受けに入れるくらいのアドリブは出てくる。
自分でも驚くほど意地悪な女になっていて。きっと根が意地悪なのでしょう(笑)」

〔欲張ったりほめられたいと思うから苦しい〕
そうしてテレビドラマの世界の個性豊かな母親役をいくつも演じてきたが、
意外なことに女優としての受賞歴はほとんどないという。
「そういう仕事はしていませんから。『私なんて……』は健在なんです。
でも自己評価の高い人は大変でしょうね。

最近、テレビで、年配の農家の方が、今年も作物を収穫することができた、
それ以上は何も望ましいと笑っている姿を見て、涙が出るほど感動しました。


誉められたいと思えば生きづらいに決まっています。
自分は好きなことを続けていると幸せを感じれば、それだけで人生は楽しい。
たまさか誉められたら喜びも倍増する。
それでこそ感謝の念も湧いてくるというものです」
現実を受け入れたうえで、加算法で生きるという人生哲学を備えた、個性派女優。

人が避けては通れない「老い」についてもこう語る。
「最近よく『終活』って聞くけど、やったほうがいいだろうな、とは思っていてもなかなか……。
私はこの歳になって、どんどん洋服が増えていってるバカですね(笑)。
身体はあちこち痛いし、物忘れも多い。
でも、『こりゃしょうがねえ』と思っています。
こうなったらお婆さん役を極めようと思って。
憎たらしいけど陽気な老婆、背中の曲がった老婆も演じたい」

80年近くを生きてきて、病んだ日も、疲れきった日もあった。
そんな時、野際は少し休んで、こう言う。
「さあ、ぼちぼちやるか」


女優デビューから五十余年。「そういえば、悲劇のヒロインを演じたことってなかったわ」

毎日コツコツなんて続かないわよ。
サボってもいいじゃない


週刊現代2015/3/28号
【野際陽子】この道をずっと歩いてきた。

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【平蔵の独り言】
〔自分に期待しない。足りなかったらしゃーない〕
「私は自分に期待していないから、無駄なストレスや絶望がないんです。
自分が持っているものが、すべて。足りなかったら、しゃーない。」

【独り言】
自分が持っているものが、すべて。足りなかったら、しゃーない。
これになかなか気が付かないのですよね!
最近、少し肩の力が抜けて来ているかな?
と思うことが、ふっと感じることが・・・・・

【平蔵の独り言】
〔欲張ったりほめられたいと思うから苦しい〕
私はこの歳になって、どんどん洋服が増えていってるバカですね(笑)。
身体はあちこち痛いし、物忘れも多い。
でも、『こりゃしょうがねえ』と思っています。
こうなったらお婆さん役を極めようと思って。
憎たらしいけど陽気な老婆、背中の曲がった老婆も演じたい」
80年近くを生きてきて、病んだ日も、疲れきった日もあった。
そんな時、野際は少し休んで、こう言う。
「さあ、ぼちぼちやるか」
毎日コツコツなんて続かないわよ。
サボってもいいじゃない


【独り言】
12月で百歳、99歳の画家さんの個展を見てきた。
みんな共通して言うのは、“色彩が優しくなってきましたね”
思うに以前は 空の青がキツかったり、全体の色彩にどこか強調した
構図になっていたのは、すべてが優しい!

「さあ、ぼちぼちやるか」
毎日コツコツなんて続かないわよ。
サボってもいいじゃない


ですね。百歳までまだ30余年あるのだから
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by asanogawa-garou | 2015-04-02 16:59 | 人間模様 | Comments(0)

〔仰木マジック〕あなたがいたから野球が面白かった。パ・リーグを盛り上げた奇策の数々   

2015年 03月 19日
〔仰木マジック〕あなたがいたから野球が面白かった。パ・リーグを盛り上げた奇策の数々
熱討スタジアム/仰木マジックを語ろう
   仰木彬、中西太、金村義明、吉井理人、オリックス、近鉄
今週のディープ・ピープル(中西太×金村義明×吉井理人)
週刊現代 2014年 11/1号

〔選手を怒鳴りつけるのは日常茶飯事。しかし細かいことは、一切言わない。魔法とまで称されたその野球は、並外れて器のでかいこの男だからできるものだった〕
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〔一軍をかけて酒場で勝負〕

金村:あのとき、たまたま審判部の人たちが同じ店に来ていて、呆れてた。
「お前らアホか。近鉄はおかしいんちゃうか」って。
吉井:シーズン中のスタメンも、一気飲みで決めたりしていましたよね。

〔気を抜く奴は許さない〕
吉井:野球はチームスポーツ。
仰木さんは輪を乱す選手に厳しかった。
金村:エラーはしゃあない。
でも気が抜けている奴は許さなかった。
セカンドだった村上隆行が、エラーをしたにもかかわらず、
イニングの合間にロッカールームで整髪料をつけていた。
それを仰木さんが見つけて、
「きさん!なにを髪の毛いじっとんねん。
おまえ、内野はクビや!外野に行け!」と怒鳴った。

〔教え子が集まった「生前葬」〕

「この人は過去にこだわるよりも、いまに生きている」と選手達に思わせた。(仰木彬)

金村:´04年の野球殿堂入りのパーティーに、教え子をみんな集めた。
近鉄の選手たちはもちろん、野茂、イチローらメジャーリーガーもみんな来た。
吉井:「生前葬だ」と言ってましたもんね。僕も駆けつけました。
中西:彼の人徳だよ。
仰木くんは他人の悪口や陰口は一切言わなかった。
豪快で、優しくて、男気があった。
だからこそ、誰からも慕われたんだ。

〔いまも忘れられない【仰木彬の伝説】〕
〔敵チームを怒らせる達人だった〕
〔闘将が見せた唯一の涙〕

僕は一度だけ見たことがあるんです。
´88年の「10・19」。
負けたのが悔しくて僕が便所で号泣していると、後から仰木さんが入ってきた。
僕がいることに気づいて、すぐに顔を洗ってごまかしてたけど、明らかに泣いてました。
その後、「見たな~」って表情で僕をにらんでた。

〔遠征先でなぜか犬を散歩させていた〕

―――――――――――――――――――――――――――
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仰木マジック
〔一軍をかけて酒場で勝負〕
中西:仰木くんが亡くなってから、来年で10年になるのか。早いなぁ。
金村:仰木さんほどの人物は、この先はもう出てこないでしょうね。
本当に豪快な人でした。
吉井:人柄だけでなく、実績も素晴らしかった。
近鉄とオリックスでの通算14年の監督生活で、
日本一1回、リーグ優勝3回、Aクラス11回。
いまのパ・リーグ人気の礎を築いたのは、仰木さんでしょう。
金村:監督就任1年目から「仰木マジック」が炸裂。あの「10・19」を演出したからな。
吉井:´88年10月19日、優勝がかかっていたロッテとのバブルヘッダー。
惜しくも優勝は逃しましたが、あの熱戦はいまでもプロ野球ファンの間で語り草になっていますよね。
中西:前年最下位だったチームを改革して、よく結果を出したよ。
ベテラン陣に退いてもらって、活きのいい若手を起用していった。
金村:僕ら野手はベッドコーチの太さんに鍛えてもらって、投手陣は権藤(博)さんがまとめていた。
そして当時はまだ若く血気盛んだった仰木さんが、リーダーとしてチームを引っ張ってくれた。
吉井:仰木さんは人心掌握に長けていました。
´87年の夏場に、当時ベッドコーチだった仰木さんと偶然ウェットルームで会ったとき、
「ヨシよ、来年はいいところで使うからな」って言ってもらったんです。
僕はそれまで活躍できていなかったけど、その言葉がすごく励みになった。
そして本当に、´88年はよく投げさせてくれました。
金村:伸び悩んでいたショート真喜志泰永も「2割5分打ったら時計やる」って言われて
レギュラーに定着。
ほんまにロレックスをもらったからね。
ショックでしたわ。僕にくれると言うたはずなのに(笑)
中西:給料が安くて頑張っている選手を気にかけてたんだよ。
お前はそこそこもらっとっただろ。
吉井:仰木さんは、選手の起用法では、伝説のエピソードが山ほどあります。
金村:伝説といえば、シーズン前の北海道遠征や。覚えてるよな。
吉井:忘れるわけないじゃないですか。
中西:わしは知らんぞ。
金村:遠征中、食事にいったとき、
仰木さんが一軍の椅子をかけたビールの一気飲み大会を開催したんです。
飲みっぷりで一軍に残す選手を決めると。
吉井:チームの台所事情で、ピッチャーを一人だけ二軍に落とさないといけなくなった。
   それで、僕と加藤哲郎と品田操士の3人で勝負させられたんです。
金村:吉井は下戸だったから、みんな負けると思っていた。
だけどスタートがかかると、ものすごい勢いで飲んで勝ちよった。
吉井:一軍がかかってるんだから当然でしょ!もう必死でしたよ。
金村:あのとき、たまたま審判部の人たちが同じ店に来ていて、呆れてた。
  「お前らアホか。近鉄はおかしいんちゃうか」って。
吉井:シーズン中のスタメンも、一気飲みで決めたりしていましたよね。
中西:うーん、仰木くんはそれで負けん気を見ていたんやろ(笑)
金村:仰木さん自身、無類の酒好きでした。
門限が過ぎた時間に店でばったり会って逃げようとすると
「待て!飲め!」と怒らずに飲ませてくれた。
中西:現役中(西鉄ライオンズ)からよく飲み歩いていたよ。
わしが夜中まで部屋で素振りをしていると、
「モテた、モテた」と言いながら帰ってくる。
博多雀を何人も泣かせとった。
金村:ファンにも野次られとった。
大阪球場で「おーい仰木、昨日、新大阪で女連れて歩いてたやろ!」って(笑)
吉井:それでも、仰木さんは堂々としてましたね。
金村:全部ほんまの話やったからな。
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〔気を抜く奴は許さない〕
中西:でも野球に対しては、彼ほど熱心な男はいなかったよ。
綿密なデータをもとに、徹底的に研究していた。
金村:ベンチでもようメモを取っていました。
吉井:僕、一度メモ書き見たことがあるんです。
広告のチラシの裏みたいな紙に殴り書きでギッシリ。
しかもいろんな向きで字が書いてあって、これで読めるんかなと思いました。
選手の特徴や癖、気づいたことを書いていましたね。
中西:運の要素も見てたわ。
あいつはいい当たりでも守備の正面ばかりや、とかな。
金村:魔術師と称されましたが、データ野球が仰木マジックの根幹。
奇策と見えるような選手起用にも、ちゃんと根拠がありました。
吉井:分業制がまだ確立していなかった当時にあって、
5回途中で先発投手を交代させたりしてましたね。
金村:勝利投手目前で替えれば、投手は怒るわな。
中西:それに、近鉄のライバルだった西武戦に、
ローテーションをずらしてわざとエースの野茂(英雄)をぶつけたりな。
吉井:「猫の目打線」も有名でしたよね。
予告先発を見て、打順や選手をいつも入れ替えてた。
金村:内野手が複数のポジションを兼任するのは当たり前。
外野だった谷佳知や田口壮が内野を守ることもあったけど、
それがことごとく当たった。
中西:相手チームとの兼ね合いが大きな理由だけど、
選手の競争心を煽る目的もあった。 
スタメンを約束されないほうが、選手はハングリーになるからな。
吉井:野球はチームスポーツ。仰木さんは輪を乱す選手に厳しかった。
金村:エラーはしゃあない。
   でも気が抜けている奴は許さなかった。
セカンドだった村上隆行が、エラーをしたにもかかわらず、
イニングの合間にロッカールームで整髪料をつけていた。
それを仰木さんが見つけて、
「きさん!なにを髪の毛いじっとんねん。おまえ、内野はクビや!外野に行け!」と怒鳴った。
中西:村上はそれで、本当にコンバートされたからな。
吉井:「きさん」は小倉弁で貴様。頭に血が上ると「きさん!」とよく言っていました。
ブライアントら外国人選手にも容赦はなかった。
中西:チャーリー(マニエル)なんてケツを蹴り上げられてたもんな。
金村:叱られたといえば、ショートの米崎薫臣。
ある試合でサヨナラエラーをした米崎は、ホテルに帰っても放心状態。
そこにたまたま仰木さんの奥さんから俺に電話があって、
「うちの人がそんなことで怒るわけないでしょ」と励ましてくれて、食事に誘ってくれた。
それで俺と米崎と奥さんの3人で、飲めに行ったんやけど……。
吉井:いい話じゃないですか。
金村:それがちゃうねん。
その後、その店に仰木さんが偶然来てしもたんや。
中西:そうだそうだ。そのときはわしも一緒だった。
   エラーをした選手が、自分の嫁と寿司食ってビール飲んどる。
そら腹立つわな。
金村:米崎を見つけるなり、顔を真っ赤にして「きさん、奥に来い!」と。
   米崎は引っ張られていって、正座させられ、説教を食らったんやけど、
同時に飲まされてました。
怒られてるのに、ビールをどんどん注がれて「飲め飲め」って。どっちやねん(笑)。
吉井:仰木さんらしいな。
でも、怒っても試合には使ってくれるんですよね。
僕も仰木さんとはよくぶつかっていましたけど、ずっと使ってもらいました。
金村:お前くらいやで。
試合が終わったあと監督が差し出した握手にソッポを向いて、外野のほうに走って逃げたのは。
吉井:理由は忘れたけど、何か、ムカついてたんでしょうね。
中西:仰木くんにしてみれば、血の気が多くて可愛い奴じゃのう、
くらいの気持ちだったはずだよ。
吉井:そうなんですよね。
晩年に、オリックス時代に、「お前はちょっと怒らしているくらいのほうがエエ球投げたからな」って言われて、すべて計算ずくやったんやとわかりました。
中西:指導者は長所、個性を生かすのが仕事。仰木くんはそれができる男だった。
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〔教え子が集まった「生前葬」〕
吉井:技術的なことに関して、細かいことを言われた覚えはありません。
自主性を重んじて、のびのびやらせてくれた。
金村:それが、仰木さんの教え子たちの多くがメジャーリーガーになれた理由かもな。
野茂、イチロー、吉井、長谷川滋利、田口、佐野慈紀まで行っている。
中西:教え子がメジャーに行くのを、仰木くんは喜んでいた。
金村:晩年、がんの闘病中でも、一人一人、順番に会いに行ってましたね。
中西:イチローのところに行っているときは一番嬉しそうだったな。
これもろうて来たって、イチローの帽子を見せてくれたりしたよ。
金村:仰木さん、アメリカのメディアに「ジャパニーズマフィア」と思われてたらしい。
上半身裸でサングラスをかけたパンチパーマのおっさんに
イチローがぺこぺこしているから、
イチローがジャパニーズマフィアに脅されたって(笑)
吉井:裸になるのが好きだった。
僕らがウェイトトレーニングをしていると、仰木さんも一緒にやるんですが、
いつも上半身裸でした。
金村:それと日焼けな。
サイパンでのキャンプのときも、暑い中、裸でよく走っていた。
サンオイル代わりになぜかメンソレータムを顔に塗って(笑)。
それで練習が終わったらプールや船着き場に行って、また焼きついている。
面積の小さな三角水着でね。
中西:真っ黒けに日焼けしとったな。
金村:船着き場に呼ばれて、夕日を見ながら一緒にビールをガンガン飲んでいました。 
楽しかったなあ。
吉井:あの時代は面白かったですね。
金村:あの人は生き方そのものが豪快だった。
  ´05年には、「ユニフォームを着たまま死ねたら本望」と、
病を押してオリックスの監督を引き受けたんやから。
中西:仰木くんには常にパリーグ魂があったんよ。
盛り上げるために、いろいろ工夫してた。
金村:俺にピッチャーやらせたりね。
ヤクルトとのオープン戦の前日、「明日、カネを投げさせる」と
マスコミに言って本当に投げさせた。
あれも何とか近鉄に注目してもらうためや。
吉井:僕はオリックスを´04年にクビになったんですが、
翌年に仰木さんが監督に就任して拾ってくれた。
ただそれにも、パリーグを盛り上げようという計算があった。
後になって聞かされたんですが、
「お前のようなおっさんがチャレンジ精神を持って頑張っている姿を、
(球界再編で近鉄と)合併して新しくできたチームの若手に見せたかった。
だからお前を雇ったんや。活躍するかどうかはどうでもよかった」って。
金村:清原(和博)をオリックスに呼んだのも仰木さん。
巨人でクサクサしてた清原を見かねて、
「キヨ、大阪に帰って来い。最後に俺がいやっちゅうほど試合に出してやる」言えてな。
中西:仰木くんは清原を買ってたからな。
金村:清原も仰木さんだけは尊敬していました。
清原と仰木さんがばったり新幹線のホームで会ったときのこと。
清原は直角に身体を折ってお辞儀をして、仰木さんの乗る新幹線が走り去るまで見送っていた。
吉井:でもキヨが実際に入団したときには、仰木さんはすでに他界していた。
中西:フロントとしてオリックスに残る話が出とったのにな。
監督辞めて2ヶ月で逝ったんやからな、最後は急やった。
金村:僕、ひとつ落ち込んだことがあるんですよ。
   仰木さんが亡くなって、お通夜のときに奥さんに家に入れていただいたんです。
   光栄なことだったんですけど、その後、応接間に入ってがっくりしました。
吉井:なにがあったんですか。
金村:応接間には教え子の写真がバーッと飾られているの。
   でもメジャーに行った選手ばかりで、どれだけ見渡しても俺の写真は1枚もない。
中西:ははは。
金村:そうしたら奥さんが「カネちゃん、来て」って。
ついていくとトイレの便器の横に貼ってあった。
中西:くさい仲、いうことやな。
金村:まいりましたよ。
なぜかトイレの床には、皆川睦雄さんの写真が貼ってあるし(笑)。
中西:仰木くんは子供がいなかった。
だけど、かわいい教え子がたくさんいた。
それが財産やという話をいつもしていたよ。
金村:´04年の野球殿堂入りのパーティーに、教え子をみんな集めた。
近鉄の選手たちはもちろん、野茂、イチローらメジャーリーガーもみんな来た。
吉井:「生前葬だ」と言ってましたもんね。僕も駆けつけました。
中西:彼の人徳だよ。
仰木くんは他人の悪口や陰口は一切言わなかった。
豪快で、優しくて、男気があった。
だからこそ、誰からも慕われたんだ。
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仰木彬監督(右)の野球殿堂入りを記念するパーティーで、仰木彬監督と談笑するイチロー

〔いまも忘れられない【仰木彬の伝説】〕
〔敵チームを怒らせる達人だった〕
監督に就任したばかりの頃は血気盛んだった仰木くんだが、後年は老獪な一面もあった。
選手交代を告げるとき、わざとゆっくり審判に伝えたりするんや。
マウンドまでの歩くコースまでシミュレーションしとった。
打者が外国人のときなんかは、「早くしろ!」と明らかにカッとなっていた。
勝負は冷静さを欠いたほうが負ける。
仰木くんは相手に怒鳴られても、「何や」と泰然としとったよ(中西)

〔闘将が見せた唯一の涙〕
「人前で泣いたことがない」。
それが自慢だった仰木さんですが、
僕は一度だけ見たことがあるんです。
´88年の「10・19」。
負けたのが悔しくて僕が便所で号泣していると、後から仰木さんが入ってきた。
僕がいることに気づいて、すぐに顔を洗ってごまかしてたけど、明らかに泣いてました。
その後、「見たな~」って表情で僕をにらんでた。
後年、「あの一回だけや」って認めてましたね。(金村)

〔遠征先でなぜか犬を散歩させていた〕
ある年の東京遠征のときのこと。
朝、僕はウェイトトレーニングをしたくて、
チームメイトとトレーニングできる場所をタクシーで探していたんです。
すると、見覚えのあるパンチパーマの人がジャージ姿で犬を散歩させている。
あれ、と思って近づくと、仰木さんでした。
朝帰りばかりしているとは聞いていましたけど、驚きました。
この人いったい、どこに泊まっとるんやろって思いました。(吉井)
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【平蔵の独り言】
仰木さんが旅立ってから、来年で早10年!
これほど記憶に残って語られる人はいないと思う。

記録に残っていても、イチロー、野茂が登場するたびに
仰木さんが語られる。

吉井、金村、中西 が熱く語っているように、
野球人として人間として魅力のある人が・・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2015-03-19 15:31 | 人間模様 | Comments(0)