カテゴリ:今 今日この頃( 31 )   

〔人生は一度しかない。〕「老いは突然やってくる。だんだんと年老いていくのかと思っていたのだが」   

2017年 06月 30日
〔人生は一度しかない。〕「老いは突然やってくる。だんだんと年老いていくのかと思っていたのだが」

c0219232_16054422.jpg


「老いは突然やってくる。だんだんと年老いていくのかと思っていたのだが」エミリー・ディキンソン(アメリカの詩人)

【「老いは突然やってくる。だんだんと年老いていくのかと思っていたのだが」】

人生は一度しかない。
老いていくことを経験する機会も一度だけだ。


「老い」がどんなものか、古今東西の書物から学ぶことができないわけではない。
だが、書物に書かれた「老い」がそもそも何歳の時のことだか分からない。
読み取れるのは抽象的な「老い」ばかりだ。

・身近な年上の人のようすや言葉からなら、年齢と付き合わせることができる。

・人生の先輩たちの動作を見ながら、言葉を聞きながら、「まだ自分は大丈夫」と思う。

そして何年か後に「ああ、ついに自分にも来たか」とまた思う。

・疲れが取れない。

・息が切れる。
・体が硬い。
・目がよく見えない。
・動作が鈍い。
・視野が狭まる。

・どの項目も、漏れなくやって来て、服用する薬の数が増えてくる。

・ゆっくり、そして、確実に、衰えてくる。

・突然、転ぶ。振り返っただけでは体が硬くて後ろが見えない。
・眼鏡を置いた場所を思い出せない。


毎日伸びる髪の毛に、ある日突然我慢できなくなって散髪したくなるのと同じように、ある日突然、自分の新しい衰えに気づくのだ。

きょうの言葉2017/6/30北國新聞


c0219232_16113320.jpg

②老いは突然やってくる
【平蔵の独り言】
「老いは突然やってくる。だんだんと年老いていくのかと思っていたのだが」
こんな“きょうの言葉”が目に留まった!

【独り言】
急にこの2週間程、腰痛に襲われてる。
「老い」を認めてないと突っ張っているが、
その実、素直に認めている自身がいる。

先日、基幹病院の受付で「車いすで行きましょう」
→“いや、何とかいけます”
→「お仕事をさせてください」
→(何故か素直に)“はい!ありがとうございます”

自身、辛いくせに強がっている。
 何十人、何百人と見ていて人には
見透かされているのだ!

【平蔵の独り言】
「老い」と「生きる!」を実感している日々が

“幸せ”:“自分の脚”で“普通のことができる”→「生きる!」

〔古稀〕を「生きる」とは、受け入れることはすごいことだ。(寺島しのぶ)

エミリー・ディキンソン(アメリカの詩人)
1830年代の詩人が「老いは突然やってくる」

しかし、古希は“痛い”(腰痛は痛い)・・・・・・・



[PR]

by asanogawa-garou | 2017-06-30 16:00 | 今 今日この頃 | Comments(0)

 【国谷裕子】「地球は人間なしで存続できても、私たちは地球がなければ存続できない。先に消えるのは、私たちなのです」地球維持する取り組み、伝えたい 国谷裕子さん   

2017年 02月 10日

 【国谷裕子】「地球は人間なしで存続できても、私たちは地球がなければ存続できない。先に消えるのは、私たちなのです」地球維持する取り組み、伝えたい 国谷裕子さん

朝日新聞デジタル20171310138

〔このままだと地球がもたない。〕

 「地球は人間なしで存続できても、私たちは地球がなければ存続できない。先に消えるのは、私たちなのです」


 
Gsのとりまとめに奔走したナイジェリア出身のアミーナ・モハメッドさんから聞いたことばが忘れられません。

 先ごろ国連の副事務総長に抜擢(ばってき)されたアミーナさんは、故郷でチャド湖を見ながら育ちました。

けれども、彼女が子どものころ海だと思っていた琵琶湖の40倍もある大きな湖は、今は温暖化と灌漑(かんがい)の影響で消滅の危機にあります。

 このままだと地球がもたない。

その危機感から各国が共同で変革に取り組んでいくために産み出されたのが、SDGsです。

 2年半に及ぶ多国間交渉でようやくまとまった国際合意なのですが、私は2015年9月に国連総会で採択される直前まで知りませんでした。

番組作りのためいろいろなアンテナを張って情報収集をしていたというのに、動きがあることすら知らなかった。

とても恥ずかしく思いました。

 採択目前に取材に入ったニューヨーク。

SDGsの合意形成に関わった人たちの間には、地球の限界が見えてしまっているという危機感が共有されていて、SDGsを手がかりに、世界を変えていくのだという強い思いを感じました。

 けれども日本では、SDGsは積極的に取り上げられませんでした。
1年以上たった今も、よく知られていません。

どこまでできるかわかりませんが、SDGsを伝えていく使命を感じています。


 ニュースキャスターとして16年3月まで23年間、日本社会の課題と世界の変化を追いながら、ありとあらゆるテーマに切り込みました。
そうしたなかで、ひとつの問題に向き合って解決策だと思ったことが、別の問題を引き起こすことがあり、課題解決の難しさを実感することが多くなっていました。

 そんな私にとって、SDGsとの出会いは、とても新鮮でした。

地球を維持していくための17の目標から逆算して、必要な行動を考える発想。

互いに深いところでつながっている課題を解決するために、経済、社会、環境などをつなげてとらえ、統合的に解決していく手法。

かつてない意欲的な取り組みに、大きな可能性を感じています。

 SDGsに合致しているかどうかを問うことが、政治や経済、生活のありようを変えていく糸口になります。

私たちは「新しいものさし」を、手に入れたのです。

それを使いこなしていくことは、政府だけでなく、企業や市民にも求められています。


 目標の達成に向けて、日本が弱いと指摘されている分野があります。貧困や
ジェンダー、エネルギー、気候変動などです。

一人ひとりの認識が変わらなければ、達成は遠のくばかりではないでしょうか。

 情報の発信と共有が必要です。

私もメディアの一員として、SDGsを広めていくお手伝いができたらと思っています。

20120825〔たまたま現在は、人類が地球の主人公ヅラしているけれど、太古は植物や恐竜が主人公だった。〕

サルの時代だってあったわけだから、われわれは大きなカオはできないのである。

水をグビグビ飲んでいるけれど、水が液体でいられるのは、
1気圧のもとで摂氏0度から100度までの、わずかの間だけ。
もしも地球と太陽との距離が、現在の
85パーセント以下に縮まると、
計算上、海の水はすべて蒸発してしまう。

逆に、現在の1.2倍以上に広がると、海は凍りついてしまう。

〔水が液体のままでいられる、地球と太陽の、この絶妙な距離の、何という幸運!〕
太陽は誕生してからほぼ46億年たっているそうだ。
あと50億年ほどは水素を燃やしながら輝きつづけたあと、膨張して太陽の表層が地球スレスレになる。
地球は蒸発して、消える。ただし人類は、とっくに死に絶えている。
あと10億年もしないうちに地球の表面温度が100度にまで上がる可能性があるからだ。
「地球にとって私たち人類のかわりはいくらでもいるのです」

人類が主人公でいてくれてよかったなあ!
と地球がシミジミつぶやいてくれるような生きかたを選ぶのか?

週刊現代2012/8/1825
人生のことば〔第76回〕轡田隆史

【平蔵の独り言】

 「地球は人間なしで存続できても、私たちは地球がなければ存続できない。先に消えるのは、私たちなのです」(国谷裕子)

太陽が膨張して地球がなくなる。(50億年)

10億年で地球の表面温度が100度(水がなくなる)


〔このままだと地球がもたない。〕

その前に このままだと地球がもたない。

 先ごろ国連の副事務総長に抜擢(ばってき)されたアミーナさんは、故郷でチャド湖を見ながら育ちました。

けれども、彼女が子どものころ海だと思っていた琵琶湖の40倍もある大きな湖は、今は温暖化と灌漑(かんがい)の影響で消滅の危機にあります。

やっぱり、何をチマチマと今の主人公はやっているのやら?
国谷裕子さん が教えてくれた。


[PR]

by asanogawa-garou | 2017-02-10 16:15 | 今 今日この頃 | Comments(0)

箱根駅伝の復路10区で神奈川大学選手とワゴン車があわや衝突のトラブル発生!   

2017年 01月 10日
箱根駅伝の復路10区で神奈川大学選手とワゴン車があわや衝突のトラブル発生!

箱根駅伝であわや事故 交通規制の連携ミス
•1月5日 15時26分
箱根駅伝の復路10区で神奈川大学選手とワゴン車があわや衝突のトラブル発生!
〔連携ミスで車止められず〕

c0219232_15105727.jpg

3日に行われた箱根駅伝の復路で、神奈川大学の選手が都内の交差点にさしかかった際、交通規制が適切に行われず、選手が車にはねられそうになっていたことがわかり、規制を担当していた警視庁は担当者の間に連携ミスがあったとしたうえで、「再発防止に努めたい」としています。

トラブルがあったのは、箱根駅伝の復路のゴール地点の手前にある東京・千代田区の日比谷交差点で、警視庁によりますと、3日午後1時半ごろ、神奈川大学の10区の選手が交差点にさしかかった際、交通規制が適切に行われず、左から来た車にはねられそうになりました。
選手が直前でスピードを緩めたため、事故にはならなかったということです。

この交差点の交通規制は、数人の警察官が選手の通過に合わせて断続的に車を止める方法で行われていました。
交差点の手前にいる警察官が選手の通過を確認すると、交差点内の警察官に車を止めるよう無線で連絡しますが、トラブルがあった際は担当者の間に連携ミスがあり、情報共有がうまくいかず、一部の車を止めることができなかったということです。

警視庁は「警察官の連絡方法の見直しなど、再発防止に努めたい」としています。
関東学連「再発防止を」
箱根駅伝を主催する関東学生陸上競技連盟は「大会の交通規制は、すべて警察にお願いしているが、これまでの大会でこのようなことはなかった。選手の安全を第一に考えているので、来年以降の大会でこうしたことが起きないように警察と協議して再発防止に努めていきたい」と話しています。

〔連携ミスで車止められず〕
トラブルがあった日比谷交差点は、日比谷通りと晴海通りが交わる交通量の多い場所で、警視庁によりますと、当時、神奈川大学の選手は、日比谷通りを大手町方面に走っていました。

この交差点の交通規制は、数人の警察官が選手の通過に合わせて断続的に車を止める方法で行われていて、当時、交差点からおよそ数十メートル手前の日比谷通りにいた警察官が選手の通過を確認すると、無線を使って交差点内の複数の警察官に車を止めるよう連絡しました。

その結果、霞が関方面に向かって走行していた車は止まりましたが、銀座方面に走行していた車は連携ミスで情報共有がうまくいかず、止めることができなかったということです。

【箱根駅伝の復路10区で神奈川大学選手とワゴン車があわや衝突のトラブル発生!】
c0219232_15114014.jpg

3日にあった第93回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)のコースになっていた東京都内の国道1号交差点で、車の規制ができておらず、神奈川大学の選手が車にはねられそうになっていたことがわかった。
規制にあたった警察官の連携ミスが原因といい、警視庁は「再発防止に努める」としている。
c0219232_15132819.jpg


トラブルは3日午後1時半ごろ発生。
主催者の関東学生陸上競技連盟や目撃者によると、復路10区で神奈川大の選手が日比谷交差点(千代田区)を通過しようとした際、左から横断する車列が途切れず、選手とワゴン車が衝突しそうになった。
直前で選手が速度を緩め、レースは続行した。
警視庁交通規制課によると、同交差点では選手の通過に合わせて断続的に車を止める規制を実施。
手前の地点で通過を確認した警察官が、交差点にいる警察官に無線で連絡し、規制する手順だった。
神奈川大の選手の時は、通過の連絡はしたが連携がうまくいかず、東進する3車線が規制されなかった。
対向車線は止まっていた。

他の選手が通過した際は、問題はなかったという。
警視庁は連携強化や配置する警察官の増員を検討しているという。
選手の約50メートル後ろを走る車に乗っていた
神奈川大の大後(だいご)栄治監督は「通過する直前になっても車が横切っていた。事故にならず、何とかゴールしてくれてよかった」と話した。
レース後にあった監督らの会議で状況を説明し、
「タイミングが悪ければ箱根駅伝の存続が危ぶまれる事態だった」と発言したという


近くで観戦した埼玉県の女子高校生は「選手が近づいているのに車が止まらず、大丈夫かと周りもざわついていた。車は減速せず、選手がひかれそうでハラハラした」。
関東学連の担当者は「あってはならないことで、来年に向けて態勢を確認したい」と話した。
過去の大会で、選手と車が接触する交通事故が起きたことはないという。
参照元:ヤフーニュース

【平蔵の独り言】
警視庁交通規制課によると、同交差点では選手の通過に合わせて断続的に車を止める規制を実施。
手前の地点で通過を確認した警察官が、交差点にいる警察官に無線で連絡し、規制する手順だった。
神奈川大の選手の時は、通過の連絡はしたが連携がうまくいかず、東進する3車線が規制されなかった。
対向車線は止まっていた。
レース後にあった監督らの会議で状況を説明し、
「タイミングが悪ければ箱根駅伝の存続が危ぶまれる事態だった」


【独り言】
対向車線は止まっていた。
ということは、見ればわかるような状態を
慌てて、警察官は何を見ていたのか?

走者を見ながら交通規制をしていたら、
このような状況にならなかっただろうに!
交通整理(車)、観衆、走者の順・・・・・・・・
責任を果たしてない。

もし、事故になっても「お詫び申し上げます」
と、頭を下げてはい!おわり・・・・・
[PR]

by asanogawa-garou | 2017-01-10 15:07 | 今 今日この頃 | Comments(0)

〔テレ東・狩野アナが「モヤさま」で学んだこと〕“間”を理解できず、“間”を埋めすぎてしまったり、   

2016年 10月 21日
〔テレ東・狩野アナが「モヤさま」で学んだこと〕“間”を理解できず、“間”を埋めすぎてしまったり、お二人の言葉で場が盛り上がった直後に言葉をかぶせてしまって

テレ東・狩野アナが「モヤさま」で学んだこと(20代に伝えたい、仕事との向き合い方)
“間”を理解できず、しゃべりたいときにしゃべりたいことをしゃべり、“間”を埋めすぎてしまったり、お二人の言葉で場が盛り上がった直後に言葉をかぶせてしまって

東洋経済オンライン2016/10/16

c0219232_17115797.jpg

①ありがとうございます
〔モヤさまで学んだこと〕周りから見られる仕事という意識さえなかった。
「いま、何が分からないかを伝えるのも、新人の役目なんだよ」とのお言葉。

〔モヤさまとの出会い〕きちんと周りを見て、人のアドバイスを聞きなさい。

〔モヤさまとの出会い〕
番組独特の“間”を理解できず、
しゃべりたいときにしゃべりたいことをしゃべり、
“間”を埋めて“間”を埋めすぎてしまったり、
お二人の言葉で場が盛り上がった直後に言葉をかぶせてしまって、
面白さを半減させてしまったりするようなことが何度もありました。

「オイ狩野!“間”というものをもっと楽しめ! 大人になれ。まぁ、おまえにはまだ難しすぎる話かな、ハハハ!」

〔伊藤Pの「心に響く言葉」〕「その場、その場に感謝して生きなさい」
伊藤P曰く……。
この番組についたのは狩野自身の引きの強さもあるかもしれないが、それを生かすのも殺すのも周り次第だ。

この番組のスタッフは皆、おまえを大事にしようとしてくれているのだから、常に周りの人たちに感謝をして、一回一回を大事にして仕事をしなさい、と。

〔「大江さん、なんで私なんですか」と号泣した夜。テレ東・狩野恵里書『半熟アナ』〕
大江麻理子アナウンサーの熱烈プッシュで抜擢「狩野恵里って、誰?」
大江アナは「私の時とは全然違った感じで、さまぁ~ずさんは狩野ちゃんに接してくれているね。きっとこんなふうになるって、私は思っていたんだよ」と語りかけたという。


狩野 恵里 :テレビ東京 アナウンサー 狩野 恵里テレビ東京 アナウンサー1986年10月29日生まれ、東京都出身。2009年、国際基督教大学教養学部卒業後、テレビ東京にアナウンサーとして入社。2013年4月より、大江麻理子キャスターに代わって「モヤモヤさまぁ~ず2」を担当、2016年秋までの約3年半、レギュラーを務めた。11月からは、新番組・経済ニュース『ゆうがたサテライト』のキャスター就任が決定している。
2016年10月16日
c0219232_17175450.jpg

②ついに「モヤさま」卒業!テレビ東京・狩野恵里アナが20代に伝えたい「仕事論」とは?
「半人前」から「一人前」に成長する過程で、人はふつう、多くの失敗を経験します。
そして、その失敗を「糧」にできた人が、一人前へと成長します。
しかし、たった一度の失敗に萎縮して本来の実力を出せなくなる人や、プライドが邪魔をして、他人の言葉に耳を傾けられず、成長のチャンスを逃す人も少なくありません。
そこで、今年20代を卒業し、10月16日(日)に「モヤモヤさまぁ~ず2」を卒業する『半熟アナ』の著者・狩野恵里アナウンサーに、20代に伝えたい「仕事の向き合い方」について聞きました。

何が分からないかを伝えるのも、新人の役目
新人の頃の私は、失敗ばかりのアナウンサーでした。
同期や先輩たちに追いつかなければ、という焦りだけで空回りしていました。

自分の中で「アナウンサーはこうあるべきだ」という気持ちが先行して、
がむしゃらにやってきたつもりでも、それは周囲から見れば、
独りよがりの「自己満足」でしかなかったのかもしれません。

入社して、半年ほどたった頃です。
席で予習などをしている自分に、デスクの先輩から声をかけられました。
「狩野。そろそろ自分で気づくかと思って見ていたけど、何も変わってないな。おまえ、この半年間、何やってた? 自分に何が足りないのか、自分で考えてみろ」

いきなりの出来事に、正直戸惑いが隠せません。
私は何をやらかしてしまったのだ。
誤読? 遅刻? いや、思い当たることはいまのところない……なんのことを言っているのだろう。
特定の仕事のことを指すわけでもなく、「自分で考えてみろ」というただその一言。
先輩の寡黙な背中に、「おまえはアナウンサー失格だ」と言われている気がしました。

〔モヤさまで学んだこと〕周りから見られる仕事という意識さえなかった。
テレ東・狩野アナが「モヤさま」で学んだこと 2016年10月16日

自分には何が足りないのか。
いまになって振り返ってみれば、
当時の自分はアナウンサーとしての技術はもちろん、
取り組み方や身だしなみ、普段の言葉遣いまで、足りないことばかりだったと分かります。
しょっちゅうノーメイクで出社していましたし、ラフな格好ばかりしていました。
アナウンサーというものが、周りから見られるものだという意識もありませんでした。

また、忙しそうな先輩方に発声を聞いてくださいと頼むのは厚かましい。
けれど、自分なりに練習してみたものの、その練習方法がまったく的を射ていなかったり……。

デスクから「考えろ」と言われた次の瞬間から、自分がどうしたらいいのか分からなくなりました。

それもこれも「言い訳」だと気付いた
c0219232_17212017.jpg

③迷った揚げ句、アナウンス部の先輩、水原恵理さんに相談したところ、

「いま、何が分からないかを伝えるのも、新人の役目なんだよ」とのお言葉。

自分ひとりで、ただがむしゃらに練習をするのではなく、いま、自分がどんな段階にいて、何がわからないかを周りに伝えるのも、新人の仕事だというのです。

それまでの自分は、わからないことがあっても、上司や先輩に聞くのは申し訳ない。
忙しそうな先輩たちに原稿読みを見てくれるように頼むなどというのは畏れ多い。
自分のために時間を割いてもらうだなんて、とんでもない! と思っていました。
でも、結局のところ、それは自分に都合のいい“言い訳”だったのかもしれません。
「こんなこともできないのか」と思われるのが嫌で、「教えてください」の一言が言えず、分からないことがあっても、「明日聞こう」と先延ばししていた気がします。

面倒くさい新人だと思われたくない。
恥ずかしい思いをしたくない。
そんな変なプライドも、あったかもしれません。
何もかもうまくいかないと落ち込んでいる自分に、水原さんはこうも言われました。
「うまくいくわけがないよ、新人なんだから。入って数カ月で、しかもひとりで何かをやろうと思ってはダメ。先輩は、後輩に聞かれるのも嬉しいときだってあるんだから」

〔モヤさまとの出会い〕きちんと周りを見て、人のアドバイスを聞きなさい。
c0219232_1454648.jpg

④癒やし系スマイルで人気の狩野恵里アナウンサー。
仕事で悩んだ際は「とにかく現場に出る! 考えすぎるとマイナスの方向へ行ってしまうから」と“行動派”だ=東京・虎ノ門

入社して8年目のいまになれば、その言葉の意味がよく分かります。
入社してすぐの新人が、ひとりで何かできると思うほうが、よほど、おこがましい。
すぐにできるほど簡単な仕事ではないし、もし本気でそう思っているとしたら、その仕事をなめているということになります。
デスクが言いたかったのも、こういうことだったのかもしれません。
仕事というのは、それほど簡単なものではない。
一人でできると思わず、きちんと周りを見て、人のアドバイスを聞きなさい。
仕事を軽くみてはいけない、ということだったのでしょう。
若いときに注意されること、しかられることは「残念」なことではありません。むしろ「幸せ」なことです。
何事も、言ってもらえるうちが華! なのです。
「狩野にはもう言っても仕方がない。もう成長しないのだから、言うのはやめた」
もしもそんなふうに思われてしまったら、失敗は放っておかれ、そのミスにも気づかないままお気楽に毎日を過ごしていたかもしれません。当然ながら、何も成長できずにいたはずです。しかられるのも、注意をされるのも、少なくとも、まだ伸びしろがあると思ってもらえているということ(だと思いたい)。
これからも「しかられることの幸せ」をかみ締めながら、日々精進していきます。

〔モヤさまとの出会い〕番組独特の“間”を理解できず、しゃべりたいときにしゃべりたいことをしゃべり、“間”を埋めて
c0219232_14543415.jpg

⑤大出世の狩野恵里アナ(C)日刊ゲンダイ
「モヤさま」ならではの”間”に苦戦するも…
2009年にテレビ東京に入社し、その後、「モーニングサテライト」や「ワールドビジネスサテライト」の現場を経た、2013年の春。「モヤモヤさまぁ~ず2」に携わることになりました。
今回、卒業となるまでの約3年半、私にとって初めてのバラエティ番組は、勉強の連続、かけがえのない財産になりました。
「モヤさま」は言わずと知れた、さまぁ~ずさんの番組です。
数々のレギュラー番組を持つお二人のいちばん近くで、もはや特等席でその楽しい現場を体感できている一方で、求められているその場での役割を何ら全うできていない自分に、毎度「喝!」を入れてきました。
『半熟アナ』にも書きましたが、偉大な先輩、大江麻理子キャスターからバトンを受け取った直後は、
番組独特の“間”を理解できず、しゃべりたいときにしゃべりたいことをしゃべり、“間”を埋めてこのかた20数年生きてきた自分としては、“間”を埋めすぎてしまったり、お二人の言葉で場が盛り上がった直後に言葉をかぶせてしまって、面白さを半減させてしまったりするようなことが何度もありました。

そのたびに周りからは、「狩野! 出すぎているぞ!」と注意を受けることもしばしば……。

「あああ、しまった。また調子にのって、つい出すぎてしまった……」
恥ずかしくなって、小さく小さく縮こまって静かにしていたときに、さまぁ~ずのお二人から、「狩野! 振られたら全力でいけよ! トライ精神をなくしたら人生終わりだぞっ!」と言われたことは忘れられません。
その言葉にどれだけ励まされて、背中を押されたことか……。

〔伊藤Pの「心に響く言葉」〕「その場、その場に感謝して生きなさい」

テレ東・狩野アナが「モヤさま」で学んだこと
20代に伝えたい、仕事との向き合い方


“間”恐怖症の私を救ってくれたのも、三村さんの言葉でした。番組の打ち上げのときのことです。
「オイ狩野!“間”というものをもっと楽しめ! 大人になれ。まぁ、おまえにはまだ難しすぎる話かな、ハハハ!」
……そうか。
「楽しむ」という考え方をしてみればいいのか。
ほろ酔い気分の三村さんが冗談ぽくおっしゃった言葉でしたが、その言葉で気持ちがラクになったことを思い出します。
その場、その場に感謝を
また、番組スタッフからも多くのことを学びました。
番組に携わるようになって、しばらく経った頃です。
「その場、その場に感謝して生きなさい」
プロデューサーの伊藤さん(伊藤P)が、そうアドバイスしてくれたことがあります。
c0219232_14545591.jpg

⑥初エッセイ『半熟アナ』。オビにはさまぁ~ずからの絶賛コメントも!?

「この表紙は写真写りが良すぎる!」とさまぁ~ずにツッコまれていたが、たしかにこの表紙の狩野アナは最高の写真写りだ。

伊藤P曰く……。
この番組についたのは狩野自身の引きの強さもあるかもしれないが、それを生かすのも殺すのも周り次第だ。
この番組のスタッフは皆、おまえを大事にしようとしてくれているのだから、常に周りの人たちに感謝をして、一回一回を大事にして仕事をしなさい、と。
「モヤさま」チームは、数ある番組のなかでも、特に一体感が強いことで知られています。
番組のスタッフは、「面白いものをつくろう」という一念で通じ合っています。
そのために、さまぁ~ずさんだけでなく、私をどう活かすかも考えてくださっていました。
そして、スタッフ全員に一致した明確な目標があるためか、非常によいチームワークで仕事をしています。
足を引っ張る人や、他人をねたむ人、不平不満を言うような人は、このチームにはいません。
もちろん、番組をつくるうえでの必要なアドバイスや提案はあります。失敗やミスをした本人に、あのときはこうしたほうがよかったとズバリ、ダメ出しをすることもあります。
厳しい言葉をいただくこともありますが、良いところも悪いところもフィードバックをしてもらえる環境はありがたく、いまの自分の成長に必要不可欠だったことは間違いありません。


〔「大江さん、なんで私なんですか」と号泣した夜。テレ東・狩野恵里書『半熟アナ』〕大江麻理子アナウンサーの熱烈プッシュで抜擢「狩野恵里って、誰?」

c0219232_14552166.jpg

⑦がんばれ!狩野アナ
彼女自身は「テレ東でしか開花しなかった」と思っているようだが、視聴者による印象はどうなのか?
 実は以前、狩野アナは視聴者からこんなツイートをされたという。
「『モヤさま』を観て、狩野アナをテレビ東京が採用した意味がわかりました。
『モヤさま』を観て、狩野アナを他局が採用しなかった意味もわかりました」
まさに、オリジナリティが問われるテレビ東京ならではの選球眼。
素晴らしい会社である。

〔大江麻理子アナウンサーの熱烈プッシュで抜擢〕

そんな狩野アナが「モヤさま」レギュラーに抜擢されたのは、2013年。
これは、当時ニューヨーク行きが決まっていた大江アナ自身による推薦が大きかったらしい。
何しろ、スタッフの多くは「狩野恵里って、誰?」なんてリアクションだったというのだから。
それまで主に報道番組を担当していた狩野アナの情報は、バラエティフロアに届いていなかった。
しかし「大江アナがそこまで言うなら……」と次第に風向きは変わり、
さまぁ~ずが「どんな人間がくるかはわからないけど、『体当たり』で受けてみよう」と答え、狩野アナの抜擢が決定したという。

でも、何度も言うが前任者が偉大すぎる。
やはりこの3年間、狩野アナは何度も壁にぶつかっていた。
「『モヤさま』を見てくださっている方はおわかりになるかもしれませんが、あの番組には独特の“間”があります。…アナウンサーにとってバラエティは、とりわけ「モヤさま」はすごく難しいはずだ。
場が静かになった時に「これは○○ですね」と情報を提供していくスキルこそが、アナウンサーに本来求められる技術である。
「たしかに、自分は“間”恐怖症で、いらないことばっかりをしゃべってしまっている……」

狩野アナが「モヤさま」のレギュラーになって1年が過ぎた頃、
ニューヨークから帰国した大江アナがロケ後の打ち上げに参加した。
こんな状況になれば、盛り上がらないわけがない。
「1年ぶりに会ったのに、息がぴったりで、お互いに言わんとすることをわかり合えている、この空気感。なんだか一人、取り残されたような気持ちになってしまいました。なんだ、この心地よい空気感は。そして、なんだ、この疎外感は……」

感極まった狩野アナは、遂には号泣してしまう。
「狩野ちゃん、どうしたの?」という大江アナの優しい言葉に、さらに号泣してしまう狩野アナ。
「大江さん、なんで、なんで私なんですか……」

この日の帰り道、狩野アナと二人きりになった大江アナは「私の時とは全然違った感じで、さまぁ~ずさんは狩野ちゃんに接してくれているね。きっとこんなふうになるって、私は思っていたんだよ」と語りかけたという。
家に帰った狩野アナは、一人でまたホロリ。
そして、やっぱりさすがは大江アナである。
c0219232_14554561.jpg

⑧子持ちの雰囲気

【平蔵の独り言】
“間”を理解できず、しゃべりたいときにしゃべりたいことをしゃべり、
“間”を埋めすぎてしまったり、
お二人の言葉で場が盛り上がった直後に言葉をかぶせてしまって

【独り言】
“もやさま”のすごい美人でもない、頭が良さそうに見せない
でも、飾らずに必死でさまーずに立ち向かっていく姿は日曜の午後何も残らない番組(ただ、楽しい)
(売れない芸人が仲間内でげらげらしている低俗な番組しか民放で放送していない中で)
唯一無二(笑点と双璧)であったが、著書「半熟アナ」で
“間”の話が出ている。
これが“もやさま”を見ていて心地いい原点?

“間”と〔余白〕
“間”話しの“間”を作る。
会話に相手から聞く、考える時間が次の会話につながる。(引き出す)
“間”を埋めて(被せて)はいけない。
“間”を「楽しむ」(“間”を「楽しめ」)
“間”から新しいこと(もの)が産まれてくる。

〔余白〕余白のある人生の方が楽しい、余白に書き込みができる。


「その場、その場に感謝して生きなさい」
〔“場”(その場)〕“場”が読めるか。その場に立てるか、立っているか?
立ち位置がわかっているか。
「その場、その場に感謝して生きなさい」:周りの人たちがいて(相手がいて)、その場にいる。

【平蔵の独り言】
〔「大江さん、なんで私なんですか」と号泣した夜。
テレ東・狩野恵里書『半熟アナ』〕大江麻理子アナウンサーの熱烈プッシュで抜擢「狩野恵里って、誰?」

【独り言】
当たり前だが、大江アナから「狩野恵里って、誰?」
ほんとうにさまーずに馴染んでなかった。(見る方も)・・・・・
でも最後まで、立ち向かっていく(ちょっとずれている)「狩野」楽しかった。
「狩野」のもやさまは“作為”がない、感情も全身全霊で不器用だから?
[PR]

by asanogawa-garou | 2016-10-21 17:09 | 今 今日この頃 | Comments(0)

5年後の〔3.11〕震災特番「視聴率全滅」が意味するもの、5年後の熊本地震、メルトダウン隠蔽発覚   

2016年 06月 29日

5年後の〔3.11〕震災特番「視聴率全滅」が意味するもの、
5年後の熊本地震・5年後のメルトダウン隠蔽発覚



日本人は冷たいのか? 震災特番「視聴率全滅」が意味するもの
「5年後の3.11」に起きたこと
(週刊現代2016/4/9 号)

〔「無力感に襲われる」〕
テレビを見ている人も、震災復興が大切だとわかっています。
でもたとえば、いま話題になっている保育園の待機児童の問題は、
自分が現実に子育てや低賃金、
介護の問題に追い立てられてしまうと、
そんな気持ちはなかなか持てません。

東京オリンピックや伊勢志摩サミットを進める国の政策に対し、
「その予算を復興に回すべきだ」と憤った人は多くいた。
しかし今は「介護士の待遇改善を」「奨学金制度の見直しを」と、
より身近なテーマに引きつけて話すことが増えている。

〔答えが出ないことの疲労感〕
「震災・津波・原発事故(メルトダウン):被災地、被災者」
いつも結論が出ないまま、敏感な視聴者は、
放射能の問題が可視化されにくいことをもう知っているんです。
『結局、答えは出ないんでしょう?』(専門家が議論を交わされても、一般の人々は簡単には理解できない。
次の1年後に先送りしているだけ。

震災をきっかけに移住した被災者は言う。
『目を逸らす』という態度と、『端から無関心』は違います。
無力感だったり、変わらない原発行政への絶望だったり、
家族を喪った人を見るのが辛いという気持ちだったり、
そういうものから目を逸らして生きるのは、むしろ生きる術なのではないでしょうか」

〔忘れられないけど忘れたい〕
『総括はまだ』と言いますが、そもそも総括などできないし、する必要もないと思います。

〔不運とではなく、そういう生だったのだ〕
 忘れたいわけではないが、忘れなければ生きていけない。
そんな悲しみが、人間の人生にはあるのだろう。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今年も3月11日にはテレビで震災や原発事故の映像が繰り返し流された。
しかし、震災特番を見る人は年々減り続けている。
あの日のことを、忘れてしまったのか。
それとも、見られない理由があるのか。

Nスペですらダメだった

 誰もが忘れえぬはずの、あの3月11日から、5年が経った。
震災が起こった時刻、14時46分をまたぐ時間帯では各テレビ局が震災特集を放送。
出演者が、犠牲となった方々に黙禱を捧げる姿が映しだされた。

 今年も多くの震災特番が作られ、様々な番組内で特集が組まれた。
NHKは、被災地の課題や原発事故をテーマにした「NHKスペシャル」を多数制作。

 その視聴率は、3月5日放送分が6.0%、6日が7.5%、8日が4.4%、10日が5.5%と推移し、第5夜の11日に、前述した「津波」特番を放送した。

 5年後の3.11に、震災特番の視聴率が全滅した。

この日のことは絶対に忘れない、
自分の力の及ぶ限り、被災地に寄り添っていこう――
誰もがそう思ったはずなのに、人々は震災特番から目を逸らした。

〔「無力感に襲われる」〕

 なぜ人々は震災関連の番組から目を背けるのか。
これは日本人の「冷たさ」の表れなのか。
経済ジャーナリストの荻原博子氏は、今の社会の停滞感が、
震災特番を避ける気持ちに拍車をかけていると指摘する。

「テレビを見ている人も、震災復興が大切だと分かっています。
でもたとえば、いま話題になっている保育園の待機児童の問題は、
お母さんたちにとっては本当に切実です。

 震災直後は、みんな被災地のために、と心を一つにしましたが、
自分が現実に子育てや低賃金、介護の問題など目の前の問題に追い立てられてしまうと、
そんな気持ちはなかなか持てません」

 東京オリンピックや伊勢志摩サミットを進める国の政策に対し、
「その予算を復興に回すべきだ」と憤った人は多くいた。
しかし今は「介護士の待遇改善を」「奨学金制度の見直しを」と、
より身近なテーマに引きつけて話すことが増えた。

 だがもちろん、日本人は、あの大災害を忘れたわけではない。
今年の3.11も、「被災地に向き合わなければ」と心のどこかで思っていたはずだ。
でもそれができなかった。

福島の地元テレビ局記者が、こんな経験を語る。

「取材で知り合った、ボランティアで度々福島を訪れている東京在住の30代の男性から、
先日こんなことを言われたんです。
『怒らないで欲しいんだけど、震災の番組は見ていないんですよ』と」

 理由を聞いてみると、

「自分のできることなんてたかが知れている。
震災の特番を見ると、自分の活動は自己満足なんじゃないかとか、
被災者の感情にはどうしたって寄り添えないのでは、と無力感に襲われるんです」

 と答えたと言う。

「福島で会うとそんな様子は見せないのですが、
テレビを見ることで客観的になると、精神に負担がかかるそうです。
現地の人間の悩みとはまた違ったものだったので、驚きました」(前出の記者)

〔答えが出ないことの疲労感〕

 ボランティアや募金など形のある支援でなくても、
誰もが心のどこかで、被災地を思っている。
でも、テレビを通じてあの災害を見つめなおすことは辛い。
そう考える人は多い。

 でもそれは、心が冷たいのとは少し違うのではないか、と、
震災をきっかけに東京へと移住した60代の被災者女性は言う。

「『目を逸らす』という態度と、『端(はな)から無関心』は違います。
無力感だったり、変わらない原発政策への絶望だったり、
家族を喪った人を見るのが辛いという気持ちだったり、
そういうものから目を逸らして生きるのは、むしろ生きる術(すべ)なのではないでしょうか」

 3.11の報道は、悲しい過去を振り返るものが多くなる。
本当は知らない現実が報じられているのかもしれないが、
伝え方が紋切り型なために、視聴者は番組を敬遠する気持ちが強くなるのかもしれない。

 元日本テレビ記者として貧困問題などのドキュメンタリーを手がけた、
水島宏明法政大学教授はこう語る。

「特に民放で顕著ですが、震災特番が、『24時間テレビ』化している。
3月になったから震災を扱わないといけない、という義務感で番組を作っているように感じられます。

 それ自体は必ずしも悪いことではないでしょう。
しかし番組作りがマンネリ化し、安易なお涙頂戴や、
3.11前後だけ被災地に足を運ぶコメンテーターが復興の遅れを批判するという、
同じような番組ばかりになっている」

 震災から5年が経ち、3.11当時に隠されていた事実が明らかになったり、
新たに大きな困難が発生したりすることは、幸か不幸か少なくなっている。

3・11の「わかりやすい、新しいニュース」が世を賑わすことは多くはない。
そこで、テレビ局はこれまでの蓄積をもとに、番組を作ろうとする。
だがそれでは、どうしても既視感が強いものになってしまう。

 象徴的なのが、3月13日21時から放送されたNHKスペシャル「原発メルトダウン 危機の88時間」だ。
90分間にわたり、震災当時の福島第一原発の緊迫した状況を再現。
当時フクイチの所長だった故・吉田昌郎氏を俳優の大杉漣が演じた。
今年の震災特番の中でも規模の大きい番組の一つだ。

 しかし、視聴率は7.6%と低迷。
直前に放送された『真田丸』と、続く『ニュース・気象情報』の16%超から、一気に数字を落としている。
大河ドラマを楽しんでいた人のおよそ半数がチャンネルを変えた、見るのを嫌がったのだ。

 誰もが関心を持っていた、放射能の問題はどうだろう。
「報ステ」の視聴率が低迷したことは先に触れた通りだ。
原発事故についてはそもそも専門性が高い問題が多いうえに、
放射能の人体への影響は、科学者の間でも議論が定まっていない。
そんなわかりづらさが、事態を難しくしている。

『「フクシマ」論』などの著書がある社会学者の開沼博福島大学特任研究員が言う。

「『報ステ』の特集はセンセーショナルな作りでしたが、
結局は、県民健康調査で報告される甲状腺がんと、
福島第一原発事故由来の放射能との因果関係はわからない。

『報ステ』は昨年からこの問題を追っていますが、
いつも結論が出ないまま番組が終わっています。

敏感な視聴者は、放射能の問題が可視化されにくいことをもう知っているんです。
『結局、答えは出ないんでしょう?』と、はじめから分かってしまう。

 見ている側は、報道にカタルシスを求めています。
答えが出ない問題に、疲労感や、もやもやした思いばかりが募る。
そうなってしまうと、視聴者は離れていく」

 専門家の間で議論が交わされても、一般の人々は簡単には理解できない。
放射能の問題に不安を抱く人たちに、シンプルな答えを出してくれる人がいるわけではない。

〔忘れられないけど忘れたい〕

 本誌は、震災特番の視聴率が低迷していることについてどう考えるのか、
また、今後の放送について各局に問い合わせた。

 各局、「総括はまだ」としながらも、
NHKは「視聴率を想定していない」、
フジ、TBS、日テレ、テレ朝の民放キー局からは「震災報道・番組についての視聴率は度外視」との答えが返ってきた。

そして、どの局も震災報道の社会的な意義を強調し、「今後も継続していく」と回答する。

 ある民放ディレクターは言う。

「『総括はまだ』と言いますが、
そもそも総括などできないし、する必要もないと思います。
私はもし社に『震災特番を作れ』と命じられたらいい番組を作ろうと考えますが、
正直に言うと、自分から手を挙げようとは思いません。
でもそのことで、自分を責めるのはやめようと思っています」


〔不運とではなく、そういう生だったのだ〕

 被災者でもある作家の伊集院静氏は、本誌連載「それがどうした」で、こう書いた。

〈何人かの知人に悔みの言葉を言わねばならない。
どうか笑って欲しいと思うが、
胸の底に残る記憶はそんなに簡単に、
五年くらいで整理がつくものではない。〉

 しかし、と氏は言う。
亡くなった人の死を不運と嘆くことは、逆に彼らの生の尊厳を損なうのではないか、と。

〈不運ではなく、そういう生だったのだ。
 不運と思っては、哀し過ぎるではないか。
 不運と思うな。そう自分に言い聞かせて、今日まで来ている。〉


 忘れたいわけではないが、忘れなければ生きていけない。
そんな悲しみが、人間の人生にはあるのだろう。

2016/04/09号

【平蔵の独り言】
五年後の熊本地震(2016年(平成28年)4月14日)

 2011年の原発事故を巡っては、東電は発生から3日後の3月14日には1号機から3号機で最大55%の炉心溶融、いわゆる「メルトダウン」が起きたことを知りながら、2カ月後の5月まで明らかにしませんでした。
そして、今年2月になって、炉心の5%が損傷した場合はメルトダウンと認めて公表する社内基準があったことを明らかにし、強い批判を浴びています。

【独り言】
自然に対する無力感

都合の悪いことを知らせない無力感
[PR]

by asanogawa-garou | 2016-06-29 12:36 | 今 今日この頃 | Comments(0)

同じ方向を向いていれば(安心)という国になった!不思議な日本   

2016年 04月 18日
〔同じ方向を向いていれば(安心)という国になった!不思議な日本〕
日本では異論を言う人間、組織に同化せず自ら行動する人間は左遷されてしまう。
そうして顔色を伺う、
同じような考えを持つ人間ばかりが残り「優秀」といわれる人が揃っていようと、問題解決能力はない。

司法、立法、行政すべて出世すればするほど、同じ考えの人しか残らない。
〔「単線路線のエリート」〕
〔出世するほどダメになる〕

なぜエリートほど大きな間違いを犯すのか?
「国会事故調」元トップが明かす「ニッポンの病理」
日本のエリートたちは、いざというときに明言を避け、
「知らない、忘れた、聞いていない、関与していない」と責任逃れする人が圧倒的に多いのです。
国会事故調での聴取を通じて、私は原発のみならず、日本の中枢そのものが「メルトダウン」していると痛感しました。

「規制の虜」はどの国でも起こりえますが、
日本には、起こりやすい社会構造があるのです。
たとえば、原発問題については、電力会社が地域独占であったことも大きかった。
さらに役所、企業などの多くの組織が持つ、固定化された常識も、「規制の虜」を生んでいます。

〔「単線路線のエリート」〕
日本は「単線路線のエリート」が多いのが問題なのです。
大半の日本人は、大学を出て企業や役所に就職すると、
ずっとその組織に所属し続け、年功序列で出世することが当然だと考えます。
たとえば経産省に入省すれば、省内もしくは外局組織に所属しながら、
入省年次によって昇進していく。
近年は省庁間の人事交流も多少はありますが、「本籍」は変わらない。

企業の場合でも同様です。
異業種への転職はありえますが、
三菱東京UFJ銀行から三井住友銀行に転職するとか、
あるいは東芝から日立に移るなど、同業間での転職はほとんどない。

〔出世するほどダメになる〕

そして「単線路線」において出世するためには、「何もしない」ことが最も重要になってきます。

'13年に人気を博したテレビドラマ『半沢直樹』を思い出してください。
主人公の半沢は常務の不正を暴き、会社の窮地を救いますが、
待っていたのは「出向」でした。
結局、日本では異論を言う人間、
組織に同化せず自ら行動する人間は左遷されてしまうのです。
それがわかっているから、多くの人は異論を言わず、
ひたすら上司の顔色をうかがい、前例を踏襲する。
そうして、同じような考えを持つ人間ばかりが残り、意思決定する。
その世界の中でどれだけ「優秀」といわれる人が揃っていようと、
それでは問題は解決しません。

「週刊現代」2016年4月16日号より

【平蔵の独り言】

戦後、まず団地に入る(文化的な生活)
一戸建てを持つ。
マンションに入る(購入)

〔3種の神器〕
1950年代後半、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の3種類の家電

1960年代半ばの高度経済成長時代には、
カラーテレビ・クーラー・カーの3種類の耐久消費財が新三種の神器と呼ばれるようになる。

価値観が多様化して、格差も広がって来ているのに、
※格差が広がって来ているというのは、勘違いかもしれない。
(戦後、小学生の時、橋の下に住んで、学校に来る仲間もいた)

何故同じ方向を向きたがるのか?
格差社会なら同じ方向を向かなくてもいいのではないか!

“個”を大切にして、人と人との出会いを大切に

文化人・芸術家・企業人・ 名を残している人は“変人(除け者)”

からしか生まれないと思うが、時代が違うのか・・・・・・・
ホンダ(本田宗一郎)、ソニー(盛田・井深)、松下(松下幸之助)

【独り言】
同じ方向を向いていれば、の社会をつくったのは“団塊世代”?
団地も居住者の高齢化、地域「コミュニティ」の崩壊

日本は大きな時代の変革を乗り越えてきた。
明治維新、太平洋戦争の敗戦

しかし今はリスクがなさ過ぎる。
痛い目に合うことに対してビクビクし過ぎ。
刺激を求めず、「マニュアル人間」が心配・・・・・・・・・・・・・
[PR]

by asanogawa-garou | 2016-04-18 14:19 | 今 今日この頃 | Comments(0)

突然すくっと立ち上がって「おれは反対だ!」小澤征爾が大西順子と共演した『ラプソディー・イン・ブルー』   

2016年 04月 13日
突然すくっと立ち上がって「おれは反対だ!」と叫ぶという異例の事態、というかハプニングになったわけです。
小澤征爾が大西順子と共演した『ラプソディー・イン・ブルー』


【厚木からの長い道のり】考える人 2013年 11月号
小澤征爾が大西順子と共演した『ラプソディー・イン・ブルー』
大西順子はこの「松本Gig」のおかげで仕事を失ったのだ。
この七月、サイトウ・キネンの公演に演出するために、
アルバイト先に二週間の休暇とシフトの変更を申し出たら、「もう来なくていいよ」と通告された。
「だから東京に帰って、明日からまた仕事探しをしなくちゃならないんです。大変ですよ」と彼女は苦笑いしながら言う。

突然すくっと立ち上がって「おれは反対だ!」
【小澤征爾×大西順子 夢の共演】2013/09/18
【なぜ “ラプソディー・イン・ブルー”を大西さんとやるか、について】

【(文化往来)大西順子が直接指導、ジャズのピアノラボ】2014/5/29
大西順子〔ジャズフェスティバル「第14回東京JAZZ」〕
ジャズ・シーン復帰〔2015年9月7日〕
【大西順子】今年の「名古屋JAZZ」に登場!
「大西順子」Web 限定インタビュー 取材日:2015.08.07


【(文化往来)大西順子が直接指導、ジャズのピアノラボ】
2014/5/29付 日本経済新聞 朝刊
 日本を代表するジャズピアニストの大西順子(47)が4月、マンツーマンでジャズピアノの演奏法を指導する講座「大西順子ピアノラボ」を川崎市内に開講した。

2000年からの長期休養を経て07年に活動を再開したが、
12年末のライブで引退を表明。今後は後進のピアニストの育成に力を注ぐ。

 「体に力が入りすぎて、いい音が出し切れない若手ピアニストが結構多い。彼らにうまく弾くためのコツを伝えたい」と思ったのが、講座開講のきっかけだったという。
大西本人が、ほどよく力を抜いて力強くピアノを弾くための体と指の使い方や、ブルース、スイング、ビバップといったジャズの核となる基本スタイルの演奏法を直接指導する。
講座は1回90分の完全予約制で、指導は1日最大4人まで。
受講方法は公式サイトに掲載した。

 昨年、長野県松本市で開かれた音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」では、9月に指揮者の小澤征爾(78)が率いるオーケストラと共演し、1日限りの“現役復帰”を果たした。「自分の中では演奏者としてはやりきったという思いが強い」と大西は語る。
「これからは長年の経験を生かし、1人でも多くの素晴らしいピアニストを送り出したい」と意欲を見せる。

大西順子、〔ジャズフェスティバル「第14回東京JAZZ」〕
ジャズ・シーン復帰〔2015年9月7日〕
c0219232_1781125.jpg

日野皓正(左から2人目、トランペット)、ラリー・カールトン(同3人目、ギター)のスーパーバンドに参加した大西順子(左端、ピアノ)=東京国際フォーラム

 秋恒例のジャズフェスティバル「第14回東京JAZZ」が6日、最終日を迎え、東京国際フォーラムのホール公演(THE HALL)
昼の部で、世界的ジャズピアニストの大西順子(48)がトランペットの日野皓正(72)とギターのラリー・カールトン(67)のスーパーバンドに参加し、ジャズ・シーンへの復帰を果たした。

 大西は2012年に引退を表明。
13年に小澤征爾氏(80)の指揮するサイトウ・キネン・オーケストラとの共演で一時復帰したが、今回はジャズが誇るヒノテル、カールトンという世界的なスーパースターとの共演だ。
 黒いチューブトップに黒いパンツ姿の大西は、両巨頭のド派手なプレーをグランドピアノとエレクトリック・ピアノで支えつつ、2、5曲目ではグランドピアノ、4曲目ではエレピで迫力あるソロを披露。
笑顔で手を振って観客に応える場面もあり、本格的な復帰への期待を抱かせた。


【大西順子】今年の「名古屋JAZZ」に登場!
c0219232_17522323.jpg

「大西順子」Web 限定インタビュー 取材日:2015.08.07

人気実力ともに日本ジャズ界のトップを走り続け、シーンを牽引してきた大西順子。
2012年、突然の引退宣言で世間を驚かせたのも記憶に新しいところです。
そんな彼女が、今年の「名古屋JAZZ」に登場!
日米のトッププレイヤーが一堂に会するジャズの一大フェスで
どんな音を聴かせてくれるのか…。
ジャズファンならずとも必聴のステージは目前です。

今年も「名古屋JAZZ」には錚々たる顔ぶれが揃います。
それぞれのアーティストとは、これまでにも共演なさっていると思いますが。
カリーム・リギンスは若いときから知っていますね。
ジョン・パティトゥッチとはヨーロッパのジャズフェスティバルでセッションしたことがありますが、ちゃんとガッツリやるのは今回が初めて。
ラリー・カールトンには、まだお会いしたことがないんです。
日野さんは、私がまだニューヨークでいろんなバンドでやっていたときに知り合いまして、その頃からいろいろアシストしてくださって、頭が上がらない存在です。
何年か前にプロモーション用か何かでちょっとご一緒したことはあるんですけど、ちゃんと仕事として共演するのは20年ぶりですね。

〔日野さんと大西さんは、師弟関係のような間柄ですか?〕

日野さんは偉そうにしたり、若い人に説教したりするようなところは全くありません。
知り合った当時のニューヨークには、仕事としてジャズにきちんと取り組んでいる人はほとんどいなかったんですよ。
そんな中で、同じフィールドをしっかり味わっている数少ない日本人同士という感覚がありました。
私の方が年齢もキャリアもずっと下ですが、同じシーンの中で久しぶりに会った日本人という感覚がお互いにあって…私よりもずっと長くそのシーンで苦労されてきた方なので、ちょっと言えばすぐ通じるみたいな感覚が嬉しかった。
それ以来、私にとっては頭が上がらない存在です。

深いところでつながっている感覚をお互いに持っていらっしゃる。
そうですね。アート・ブレイキーとか、ああいう本当のレジェンドと実際に演奏するという経験を運良くできたのは、私が最後の世代じゃないかと思うんです。
日野さんは、もっと長く一緒にいる時間があったと思います。
ジャズのレジェンドをリアルに知っているという皮膚感覚は、今の若い世代のプレイヤーにはありませんから、彼らと同じことをやろうとしていてもなんとなくズレが出てくる…日野さんとは、同じ感覚で話ができるんです。

〔大西さんから見た日野さんの音の魅力はどのようなものでしょうか?〕
日野さんはトランペッターとしても素晴らしいんですけど、実は作曲者として名曲をたくさん作っていらっしゃるんですよね。
今回のライヴでそれがフィーチャーされるということで、私はとても楽しみにしています。
小さい頃に流行っていた曲、よく聴いた曲を本物と一緒に自分が演奏できるというのは、それこそアート・ブレイキーの「モーニング」を本人と一緒に演奏するようなもの。すごく光栄ですね。

昔から聴いていたミュージシャンの曲を本人と一緒に演奏するにあたって、どんな気持ちでプレイにのぞみますか?
日野さんの場合は特に、テレビをつけると日野皓正の曲が流れているという時期が本当にありましたよね。
だから、譜面を見なくても覚えているような曲もあります。
今からいろいろ考えてはいますが、当日どう変わるのかも楽しみです。
私のキャリアのスタートは、サイドマンとしてサポートを始めたことでした。だから、サポートをするのがすごく楽しいんですよ。
リーダーを映えさせてその曲を忠実に再現するんですが、その上で特にピアニストというのは味付けがいろいろできるので、それによってどんどん変わっていったりする。
相手もちゃんと聴いているわけですから、リーダーとかフロントの人たちも私のピアノをきっかけにどんどん変わっていくことがすごく楽しいんですよね。たまたまデビューしちゃったので、その後は自分のバンドばかりやっていたんですけど、本当はスタジオマンになりたかった(笑)。
c0219232_15245067.jpg

今回はエスペランサ・スポルディングも登場します。
若い世代ですし、彼女のほかにもロバート・グラスパーなどが活躍し、ジャズシーンに新たな流れができているように思います。

大西さんは2012年に引退宣言をなさいました。
その後、一昨年には小澤征爾さん率いるサイトウ・キネン・オーケストラとの共演で表舞台にも立たれましたが、今、オーディエンスの前で演奏することについて、どのような心境をお持ちですか?

引退したときは、音楽を作る上で自分があまりにエンプティだなと感じてしまっていたんです。
空っぽになってしまって。
何かしら弾けと言われたら弾けるんですけど、何を弾くかというところが未だにわからない。弾けないんです。
ただ、小澤さんは「ラプソディ・イン・ブルー」というお題を出してくださった。
今回も日野さんが「ちょっと一緒にやろうよ」と声をかけてくださって、しかも日野さんの当時のあの曲というお題もあります。
それに応えたいという音楽的欲求はあるから、こうやってまた出てきちゃっているんですけど…。
今、菊地成孔さんからも声をかけていただいているんですね。
「自分にいろいろアイデアがあるから、こういうことをやって欲しい」と。
そういうありがたいオファーをいただくと、ぜひやってみたいなと思うんです。もしかしたら、こういうことを続けているうちに本当に自分から発信できる何かが出てくるかもしれないし、出てこないかもしれない。
そこはわからないですね。
これまで、あまりに長く自分の楽曲をやり過ぎたから…。

アーティストとして非常にレベルの高いところでご自身の音楽やジャズという音楽について考えていらっしゃる…。
言い当てようとすると、自己表現とかオリジナリティとか…そんな言葉になってしまいますし、そんなの当たり前じゃないという話なんですけどね。
やればやるほど「これ、前にもあったじゃん」という感じを覚えてしまう。
ジャズは1920年代から1970年代初頭ぐらいまでにアメリカで出来上がった音楽なので、ちょっと太刀打ち出来ないんですよね。
どの方向を見ても、すでに全部ありますからね。
あまりに分厚い壁なんです。
そこに対してどれだけ妥協…というか「ま、いいか」と思えるようになるのか、もっと反抗するのかはわかりません。
ただ、やっぱりピアノを弾くことは好きだし、こういう面白い題目を提供されると喜んでやりたいと思うので、それを繰り返しているうちにうやむやになって、またやるんじゃないかな。

引退宣言の前には、名古屋のジャズクラブ「jazz inn LOVELY」でもライヴをなさいました。
名古屋のジャズファンの印象や思い出をお聞かせください。
まだデビューして間もない頃、ラブリーに7日間連続で出演したんですよ。
しかも7日間、私以外のメンバーが毎日違う。
毎日午後3時からリハーサルをして夜中の3時ぐらいまでああだこうだ言ってやった覚えがありますね。疲れました(笑)。
当時はやりたいことだらけだったから、それを全部やって。
毎晩、青臭い音楽を聴かされるお店の人たちも大変だったと思いますよ(笑)。
だから、名古屋にはすごく愛着があります。
いつも慌ただしくて、ゆっくり街を歩いたりはできないんですけど、アメリカから帰ってきて味噌煮込みうどんを初めて食べたときは感動しましたね。
東京に帰って赤味噌を買って作ってみたんだけど、全然違うんですよ。

9/10 THURSDAY 名古屋JAZZ


【厚木からの長い道のり】考える人 2013年 11月号
サイトウ・キネン・フェスティバル松本Gig 2013年9月6日

満場のスタンディング・オーベーション。
奇跡の『ラプソディー・イン・ブルー』に、拍手はいつまでも鳴りやまなかった。
ClassicとJazz、小澤征爾と大西順子、そして村上春樹。
その夜、それぞれの魂が響きあい、困難を乗り越え、ナチュラルな喜びに満ちた音楽が誕生したのだ。
小さなジャズ。クラブからサイトウ・キネン・オーケストラとのステージへ。

良き音楽のために、道は続いて行く―〔村上春樹〕

 コンサートのあと、楽屋で小澤さんにオリジナル・パートと大西さんの即興パートのバランスについて尋ねられた。
「ねえ春樹さん、あれくらいで良かったと思う?」と。
「いや、完璧です」と僕は答えるしかなかった。
それ以外の答えを思いつくことができなかった。

 やはり楽屋で大西さんに言われた。
「うまく指が動かないところが一箇所あって、普通そんなことってないんだけど、やはり緊張していたんですね。参ったな。」と言われた。
「いや、完璧だったよ」と僕は言った。
それ以外に言うべき言葉は見つからなかった。
 そう、すべては完璧だったのだ。少なくとも僕にとっては……。
それ以外にいったい何が言えるだろう。

 いや、完璧でないことも少しはあった。

それはここにしっかり明記しておかなくてはならない。
大西順子はこの「松本Gig」のおかげで仕事を失ったのだ。
この七月、サイトウ・キネンの公演に演出するために、アルバイト先に二週間の休暇とシフトの変更を申し出たら、「もう来なくていいよ」と通告された。
「だから東京に帰って、明日からまた仕事探しをしなくちゃならないんです。大変ですよ」と彼女は苦笑いしながら言う。


 どこかの音楽大学なりの教育機関なりがこの女性ピアニストに、落ち着いて後進を育成し、場合に応じて自分の演奏をも追究できるような、安定したポストを提供するべきなのだ。
僕は心からそう思う。

彼女は若いミュージシャンたちを指導することに、とても強い興味と意欲を持っている。
また今回の松本の「ジャズ勉強会」で彼女が残した実績が、彼女の教育者としての能力を見事に証明しているはずだ。
年若いピアニストたちの短期間における見事な成長ぶりに、みんなが(小澤さんをも含めて)舌を巻いた。
この人を―日本が誇りとするべき傑出したジャズ・ピアニストを―アルバイト探しに走り回らせているような日本の音楽状況に対して、僕は不満と怒りを覚えないわけにはいかない。

「そんなのは間違っている!」僕は小澤征爾さんにならって、ここで立ち上がって大声で叫ばなくてはならない。
「でもたとえばビルの清掃なんて、一時期のソニー・ロリンズみたいで、ちょっとかっこいいじゃないですか」と彼女は笑って言う。
もちろん冗談だろうけど。

 うん、でも、そういえばそうかもな、と僕はふと思う。
少なくともソニー・ロリンズは数年間の隠遁のあとに、ジャズ界に力強く復帰したではないか。
大西さんも同じように……と僕はつい期待してしまうのだが。

【平蔵の独り言】
小澤征爾が大西順子と共演した『ラプソディー・イン・ブルー』
大西順子はこの「松本Gig」のおかげで仕事を失ったのだ。

【独り言】
引退を表明したら、大西順子に見えていなかった。財産が見えてきた。
村上春樹さん、小澤征爾さん 
小澤征爾が大西順子と共演した『ラプソディー・イン・ブルー』

(文化往来)大西順子が直接指導、ジャズのピアノラボ 2014/05/29
大西順子、〔ジャズフェスティバル「第14回東京JAZZ」〕
ジャズ・シーン復帰〔2015年9月7日〕
【大西順子】今年の「名古屋JAZZ」に登場!2015.08.07

自身が昭和49年後楽園球場の長嶋茂雄引退試合を観戦して
面接をスッポカして、職がなくなった時
“遊んでいるのか”と助けくれた元上司
昭和55年伴侶のいる地に移り住んだ際
“遊んでいるのなら手伝ってくれ”と声をかけてくれた元同僚

気が付けば、助けられている人生ですね・・・・・・

――――――――――――――――――――――――――――――――

【プロの誇り守り引退】2012/11/26
日本のジャズシーンをけん引してきたピアニスト大西順子が、突然引退を表明した。
演奏家として円熟期にあっただけに、なぜ!という戸惑いと惜しむ声が広がる。
ツアー最後のライブを終えた大西に、引退の理由とその背景を聞いた。
11月8日、最後のライブは神奈川県厚木市の小さなライブハウスで開かれた。
会場いっぱいに集まった観客。
大西と親交のある指揮者小澤征爾や作家村上春樹の姿も。

突然すくっと立ち上がって「おれは反対だ!」
【小澤征爾×大西順子 夢の共演】2013/09/18
【なぜ “ラプソディー・イン・ブルー”を大西さんとやるか、について〔小澤征爾〕】
c0219232_16434832.jpg

① (ピアニスト「大西順子」日本のジャズ界けん引)
何度か、春樹さんに誘われて大西順子さんのライブを聴きに行きました。
今回は急なことでしたが、春樹さんから大西順子さんが引退をするらしくその最後のライブが厚木のライブハウスであるんだと聞いて驚き、娘の征良と連れ立って聴きに行きました。
 大西さんトリオの素晴らしいライブで、これが最後だなんてたいへん残念である、かつ、もったいないなぁと思いながら聴いていました。
アンコールを弾き終わった後で、
彼女がマイクをもって、残念だけれどこれが最後です、みたいなことを話し始めたんで、
僕は聴いている人たちみんなもそう思うだろうと思ったから、それには「反対∼!」と思わず叫んでしまいました。

【大西順子さん「世界のオザワ」に挑んだ夏】 2013/09/18
【信じられない展開〔村上春樹〕】
〔マエストロの「引退反対!」宣言〕
〔挑戦する姿を若手に見せたい〕
〔カムバックを期待する声も〕

【信じられない展開〔村上春樹〕】
彼女が演奏活動から引退を表明したときはがっかりしないわけにはいきませんでした。
そして「彼女の最後のライブが厚木の小さなジャズクラブであるんですよ」という話をしたとき、
「じゃあ、おれも行く」ということになりました。
そして大西さんが最後に感無量のおももちで「残念ながら、今夜をもって引退します」と聴衆の前でしみじみ話しているときに、
突然すくっと立ち上がって「おれは反対だ!」と叫ぶという異例の事態、
というかハップニングになったわけです。
僕も隣で本当にびっくりして、言葉もありませんでした。
でも思わずそう叫びたくなる小澤さんの気持ちは、痛いほどよくわかります。
それくらい素晴らしい演奏だったのです。

そのあとで、打ち上げの会に呼ばれて行ったときに、僕は彼女に、今ここでピアノを止めちゃうなんていうのはまったくもったいない話で絶対続けるべきだ、と話しました。
そして、春樹さんといっしょに「サイトウ・キネン・オーケストラと一緒にガーシュウィンのラプソディー・イン・ブルーもやらないか」と、突飛な提案もしました。
 最初、彼女はびっくりして目を丸くして聞いていたけれども、NOという答えじゃなくて「これからかんがえよう」と、僕からすると、日本語で言えば前向きな答えをもらったつもりでした。
 村上さんからも説得してもらって、今年9月6日に松本でのフェスティバル千秋楽の公演として、彼女にラプソディー・イン・ブルーを弾いてもらうことになったわけです。
c0219232_16441423.jpg


毎年夏に開催されるクラシックとオペラの国際音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で、ことしはクライマックスにちょっと異色のプログラムが組まれました。
ドラムスとウッドベース、ピアノのジャズトリオが、小澤征爾さん指揮するオーケストラと「ラプソディー・イン・ブルー」を共演したのです。
力強いピアノを披露したのは人気ジャズピアニストの大西順子さん。
去年、演奏活動から引退を表明した大西さんが「世界のオザワ」と組んでクラシックの祭典にサプライズ出演をした理由には、同じく世界的に活躍している、ある作家の存在がありました。
〔マエストロの「引退反対!」宣言〕
大西順子さん(46)は22歳のときにアメリカでプロデビューし、力強いタッチとスウィング感あふれる演奏で人気を集め、数々の大物ミュージシャンと共演してきましたが、「自分にできることはやり尽くした」として去年、引退を表明しました。
しかし去年11月に開かれた最後のライブでハプニングが起きました。
「ツアー最終日にマエストロ(小澤征爾さん)に来ていただきまして。
自分としては最後になる演奏のMC(あいさつ)をしている途中で、突然(小澤さんが)スクッと立ち上がって『引退反対!』って・・」(大西順子さん)

小澤さんを連れてきたのが、作家の村上春樹さんでした。
大西さんの長年のファンである村上さんが知人の小澤さんを誘い、そのライブのあとの出来事が、今回の出演につながったということです。
「ライブのあと、打ち上げみたいなものがありまして、そのときに村上春樹さんもいらっしゃって。
春樹さんは私とマエストロが一緒にいるところを見て、『2人でラプソディー・イン・ブルーなんてやってるのを聴けたら最高だな』って。
そういう話というのはその場のノリで終わってしまうことが多いんですけれど、もう次の日から電話がかかってきて、ずっとしゃべり続けで、気がついたら私が『はい』って言ってる、みたいな」(大西さん)

〔挑戦する姿を若手に見せたい〕
c0219232_16444088.jpg


今回あえてステージに上がることにしたのは、巨匠・小澤征爾さんに挑む姿を見せることも、若手のためになると考えたからでした。
「昔のジャズのレジェンド(伝説的名手)たちと同じステージに上がって、怒られながらも自分が何か学んでいくっていう手応えというのは、経験としては本当にすばらしいものだったので。もしあのときと同じようなことが起こるのであればそれは願ってもない、というのはどこかにありましたよね」(大西さん)

〔カムバックを期待する声も〕
本番当日、楽しみにしていることは「終わったあとの一杯」と語った大西さん。


【小澤征爾×大西順子 夢の共演】2013.9.11 16:30(SANKEI EXPRESS)
c0219232_1645228.jpg


「ラプソディー・イン・ブルー」を演奏するジャズピアニストの大西順子さんと指揮をする小澤征爾さん(手前右)=9月6日夜、長野県松本市(提供写真)

 音楽家の小澤征爾さん(78)が指揮するサイトウ・キネン・オーケストラとジャズピアニストの大西順子さん(46)率いるピアノトリオが、長野県松本市で開催されていた音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)松本」で初めて共演した。
 曲は、米国の作曲家、ジョージ・ガーシュイン(1898~1937年)がジャズピアノのテイストを取り入れて作った名曲「ラプソディー・イン・ブルー」。
小澤さんは大西さんを振り向きながら、息を合わせて指揮。
体をスイングさせたり、足踏みをしたりしながら30分近くを振り切り、
病気療養からの本格復帰を印象づけた。

演奏後、約2000人の観客からは大歓声があがり、会場からは長い間、拍手がやまなかった。

 この共演は、作家の村上春樹さん(64)が昨年秋、引退を表明していた大西さんの最終ライブに小澤さんを誘ったことがきっかけで実現した。

ライブ終了後、大西さんと会った小澤さんが「ここでピアノをやめちゃうというのはまったくもったいない。
絶対続けるべきだ」と話し、村上さんも大西さんを説得して共演が決まったという。村上さんは「本当に夢のような展開」とコメントしている。

 夢の共演となったコンサートには村上さんも姿を見せ、
演奏が終わると立ち上がって大きな拍手を送っていた。

【平蔵の独り言】
2012/11 目に留まった 「大西順子さん 引退」を
 【独り言】今頃何故?
村上春樹さん、小澤征爾さん の力で「大西順子さん」が甦っていた。

【小澤征爾×大西順子 夢の共演】2013/09/18
【なぜ “ラプソディー・イン・ブルー”を大西さんとやるか、について】
[PR]

by asanogawa-garou | 2016-04-13 16:28 | 今 今日この頃 | Comments(0)

「人の行く裏に道あり花の山」パブロフの犬のように反射的に従うイエスマンでない点は、リーダーになり得る   

2015年 12月 23日
【「人の行く裏に道あり花の山」パブロフの犬のように反射的に従うイエスマンでない点は、リーダーになり得る資質のひとつである。】

「人の行く裏に道あり花の山」を地で行き記録破りの増収増益
富士重工業 吉永泰之社長 日経ビジネス リーダーシップの源泉 森 一夫 2015年9月9日

〔飼いならされなかったから社長になった〕パブロフの犬のように反射的に従うイエスマンでない点
上司の言うことに、パブロフの犬のように反射的に従うイエスマンでない点は、リーダーになり得る資質のひとつである。

〔「偉くしてくれなくて結構」とゴルフをやらなかった〕
上から「ゴルフをやらないと偉くしないぞ」と半ば業務命令のように言われても、「偉くしてくれなくて結構です」と断った。

〔富士重工の社長にされて、ぼろぼろになるのだけは絶対に嫌だ〕
「100億円以上の赤字だったスバル国内営業が、三ケタの億円の黒字になったのですから、本当にうれしかったですね。」

〔人は人、自分は自分なのだろう〕
「なぜ他人に合わせなくてはいけないのか」
『あなたは耳を作ったの。すごいわね』とほめます。


〔「人の行く裏に道あり花の山」〕
「少しくらい売るのが下手でも、しっかりしたモノ作りによって、誇りの持てる製品を作っている会社」を探した。
一番早く内定をくれた会社に行こうと決めていたので

【「現場を実際に経験して、得をしています」】吉永君が偉くなっても、現場でこういう仕事をして頑張っている奴が、この会社を支えていることを覚えておいてくれよ

〔無駄足でも名刺を置いて回った〕ターゲットを決めると、半年あまり、毎日、同じ場所に無駄足でも、「福岡スバルの吉永です」と名刺を置いて回った。

〔「課長の分際でなんだ」となった末の栄転〕腹の座った先輩、上司のおかげで救われた。

〔危機感を持つ仲間3人と執行役員に〕「人間の社会には妬みとか嫉みがあるから1人だけ目立つのはよくない」

〔女子社員に「当たり前じゃないですか」とどやされた〕誰にもこびず、おごらず、地のままを通してきた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
c0219232_15131840.jpg


〔「偉くしてくれなくて結構」とゴルフをやらなかった〕
 吉永泰之社長は快進撃を続ける富士重工業の顔である。
明るく、ざっくばらんで、サラリーマン経営者だが、俗な言葉で言えばキャラが立つ。
大手の真似をせず我が道を行く同社の今を体現する個性派である。

 「昔を知らない若い人は今の富士重工を見て、社長をやりたいと思うかもしれません。私を見て、けらけら笑って明るくやっているように見えるでしょうからね」。
こう言いながら吉永は、いたずらっぽく笑う。
確かに、同社は記録破りの増収増益を続けており、社長はさぞかし居心地が良いだろうと思うのだが。

「当社には業績の良かった社長なんかいなかったんですよ。」

「偉くしてくれなくて結構」とゴルフをやらなかった
 今はピカピカの会社だが、つい10年ほど前までは貧乏会社だった。
流れが変わったのは前任者の森からである。
 「昔は、興銀では副頭取を、日産さんだと副社長を務めた方が社長に来られたので、みな60歳代後半でした。
私が社長になった時、57歳の勢いのいいのがポッと出てきて、よくしゃべるので、外の方から『社風が変わったんですか』なんて訊かれたものです」

〔人が抱く先入観を裏切ることを楽しむ風がある〕
 吉永はいかにも愉快そうで、人が抱く先入観を裏切ることを楽しむ風がある。
とにかく人と同じことをするのが嫌いなたちである。
例えばゴルフをしない。「時間の無駄」というわけだ。
上から「ゴルフをやらないと偉くしないぞ」と半ば業務命令のように言われても、「偉くしてくれなくて結構です」と断った。
「やれと言われれば言われるほど、やりたくなくなる。
人から指図されるのが嫌なのです」。

〔飼いならされなかったから社長になった〕パブロフの犬のように反射的に従うイエスマンでない点
 それでも社長にまでなったのは、仕事ができるのは当然として、逆説的だが、
サラリーマンとして飼いならされなかったからだろう。

上司の言うことに、パブロフの犬のように反射的に従うイエスマンでない点は、リーダーになり得る資質のひとつである。

 しかし本人は「社長にはなりたくないと思っていた」そうだ。
業績が停滞する中、2006年に就任した森社長とともに戦略本部長の吉永は、新たな中期経営計画を作る。
翌07年に国内営業本部長になるが、これはびっくり人事だったらしい。
 中計を発表する前夜、森社長に呼ばれて「国内営業本部長をやって」と言われた。
「私がですか」と聞き返したら、「一緒に中計を作ったのだから、企画の仕事はもういいから、国内営業を自分でやってよ」である。
伸びる米国に力を集中する方針を決めたので、その分、販売台数が減っている国内にさらにしわ寄せが行くのは必定だった。

【国内市場赤字の時代に終止符】
 スバル国内営業本部長が難しい仕事になるのは、吉永も当然わかっている。
課題は、縮小する国内市場に合わせた販売体制の再編成、誰にやらせるかが鍵である。
国内市場赤字の時代に終止符
 中心になって道筋を決めた吉永に、そのまま実行させるとは妙案である。
「森さんはなかなかの人だな」と吉永も感心するほかなったが、案の定、ことは簡単には進まなかった。
まず販売網については、店も人も1割減らし、固定費を減らして損益分岐点を下げるのが狙いである。
9月に起きたリーマンショックが後押ししてくれた。
「車が全然売れなくなったため、ディーラーさんはもともと赤字だったので、これは吉永の言うことを聞くしかないと変わりました。それから一気に進みだして、半年もしたら利益が結構出始めたんです」と、吉永は振り返る。

 衝突回避システムの「アイサイト」を載せた車が大当たりしたのも幸いした。
国内営業でずっと続いていた赤字の時代に終止符を打てた。
「100億円以上の赤字だったスバル国内営業が、三ケタの億円の黒字になったのですから、本当にうれしかったですね。ぼろぼろになりかねなかったのが、みんなのおかげで逆に名本部長になっちゃったんです」。

〔富士重工の社長にされて、ぼろぼろになるのだけは絶対に嫌だ〕
 当時、吉永はこう考えたという。
「サラリーマンとして、これ以上望めない良い思いをしたのだから、これで引退しよう。社長にされて、ぼろぼろになるのだけは絶対に嫌だ」。
本音だろうか。
吉永の来し方を見ると、仕事魔であることは確かだが、肩書そのものへの執着はあまりないようである。
 前述のように昔は貧乏会社だったが、今は違う。
15年3月期連結決算では、スバル車の販売台数は全世界で前期比10.4%増えて91万1000台になった。
売上高は同19.5%増の2兆8779億円、営業利益は同29.6%増の4230億円で、売上高営業利益率は14.7%である。
販売台数、売上高、営業利益、経常利益、純利益は3期連続して過去最高である。今期も増収増益の見通しだ。

前任社長から折り紙付きで後継者に指名
 4年前、前任の森社長は「わが社のエース的存在」と折り紙を付けて、吉永を後継者に指名した。
「森さんから11年の2月上旬に言われました。『社長やって。断れないよ』の二言だけでした。森さんは既定路線と思っていたのかもしれませんが、私はそうは思っていませんでした」と、吉永は言う。

 「ホンダの創業者の本田宗一郎さんと藤沢武夫さんのコンビのような組み合わせが富士重工にはふさわしいと思っていたのです。技術系で車にめちゃくちゃ詳しいのがトップになって、事務系が支えるというのがいいとね」。
吉永は事務系である。
「森さんも賛同していたのですが、実際に社長を選ぶのは別だということなのでしょう」。
c0219232_15141138.jpg

② 吉永の意図に反したかどうかはともかく、結果は当たりである。
 
〔「人の行く裏に道あり花の山」〕「少しくらい売るのが下手でも、しっかりしたモノ作りによって、誇りの持てる製品を作っている会社」を探した。

相場の格言にある「人の行く裏に道あり花の山」である。
人が群がる所よりも、ひっそりとした裏山に良い花があるといった意味で、つまり逆張りの勧めである。

吉永には、自分でモノを作りリスクを取って売る製造業の方が好ましく思えた。
しかも「少しくらい売るのが下手でも、しっかりしたモノ作りによって、誇りの持てる製品を作っている会社」を探した。
 その中で一番早く内定をくれた会社に行こうと決めていたので、
「最初から自動車会社に入りたいと思っていたわけではないのです」と言う。
ほかに選んだ会社を聞くと、なるほど渋い。
 その結果、「生き馬の目を抜く」からは程遠い「地味な富士重工」に決まったわけである。
「富士重工は中島飛行機から始まって、良いものを作るけど、シェアが低くて、売るのが下手みたいだな」という印象を持っていた。
富士重工は航空機なども兼営しているが、主力のスバル車で他社にない路線に徹して変わった。吉永は、それにぴたり合っていた。
今に至る展開を見れば、まさに「人の行く裏に道あり花の山」である。

〔人は人、自分は自分なのだろう〕
「なぜ他人に合わせなくてはいけないのか」
『あなたは耳を作ったの。すごいわね』とほめます。


吉永は父親の仕事の関係であちこち転校した。
「友達はどんどんできる方なのですが、転校が多かったので、悩みを打ち明け合うような幼馴染は意外にいないんです。本当に深い話ができるという点では、孤独なのかもしれません。引っ越しばかりしていましたから」。
 幼稚園から小学校1年にかけて米国のシアトルに住んでいた時である。
個性を認める教育に接して、ある種の刷り込みを経験したのかもしれない。
粘土細工で、「人間を作りなさい」と言われると、向こうの子供たちは思い思いに作る。
「ある子は顔だけ、ある子は耳だけ、ある子は鼻だけという具合です。
それを見て先生は『あなたは耳を作ったの。すごいわね』とほめます。
日本では、顔だけ作ると先生が『みんなが手足を付けているのに、どうしてあなたは顔だけなの』と言うので、ものすごく反発しました」。
幼いころから「なぜ他人に合わせなくてはいけないのか」という考えが身についていた。

 今、社長になって注意しているのは、普通の自動車メーカーと同じように量を追う経営になることである。
スバル車は独特の水平対向エンジンと4輪駆動によって、スポーティーな走りが特長である。
水平対向エンジンは4輪車向けでは世界で同社とドイツのスポーツカーメーカーのポルシェしか生産していない。
 同社の90万台強の生産台数は、トヨタ自動車の10分の1で、自動車メーカーとしては小さい。
しかし今や2ケタ成長である。
2年ほど前は、「100万台以上は目指さない方がいいと思う」と、吉永は話していた。大手メーカーと違う道を指向するからだ。
c0219232_151446100.jpg


【「現場を実際に経験して、得をしています」】
吉永君が偉くなっても、現場でこういう仕事をして頑張っている奴が、この会社を支えていることを覚えておいてくれよ

 富士重工業の社長、吉永泰之は、経営企画の仕事が長いのだが、「現場育ち」を自任している。
入社して5年間、工場勤務と自動車セールマンを経験しており、「あれがものを考える原点になっています」と語る。
 入社した1977年は石油ショックの後で、事務系の大卒採用は9人しかいなかった。
全員、まず工場に入る。半年は生産現場で実習である。
それから工場の総務や経理などに配属される。
フォークリフトで部品を運び続ける日々
 吉永は当時エンジンやトランスミッションを生産していた東京の三鷹製作所に入った。
組み立てラインでの実習は、受け持つ工程が毎日変わった。
「日替わりで初めての仕事をやるのですから大変でした」と振り返る。

9月30日、10月からの正式な配属先の辞令をもらった。
 「生産部工務課」である。
どんな仕事か尋ねたら、「フォークリフトの運転手をやってくれ」である。
想像もしたことのない仕事で、「いやあ、びっくりしました」と言う。
早速、免許を取って、1年半、毎日フォークリフトでトラックから部品を降ろして、生産ラインに運び続けた。
当時、三鷹製作所では2年ごとに大卒の新入社員に、フォークリフトの運転手をさせていたのです」

「おそらく所長さんの発想だと思います。慧眼ですね」と、吉永は思っている。

事務系の大卒でも、長い目で見て貴重な経験になるとの狙いが込められていたのだろう。
現場を経験して「得をしています」
 現場の人とも親しくなる。
今も心に刻み込んでいるある中年工員の言葉がある。
「オレは中学しか出ていない。毎日、ピストンリングを組み付ける仕事をする、しがない工員だけど、息子を大学に行かせた。
吉永君が偉くなっても、現場でこういう仕事をして頑張っている奴が、この会社を支えていることを覚えておいてくれよ」。
 「あのおじさんが言う『偉い人』とは課長のことだと思いますが、会社を支えているのは現場の人たちだということを一瞬たりとも忘れません。
工場にいても管理業務だけでは、本当の現場はよくわからないでしょう」。
吉永は三鷹製作所の計らいに感謝している。

 今も工場に行くと、若かりし頃フォークリフトを運転していただけに、「懐かしい」そうだ。
生産現場の社員たちの中に、自然に入って行ける。
彼らの気持ちも皮膚感覚で理解できる。
「現場を実際に経験して、得をしています」と言う。

〔無駄足でも名刺を置いて回った〕
ターゲットを決めると、半年あまり、毎日、同じ場所に無駄足でも、「福岡スバルの吉永です」と名刺を置いて回った。

 入社3年目のセールス出向では、「行ったことのない遠い所に行きたい」と希望した。
願いがかなって九州の福岡スバルに赴いたが、西日本では「スバル」の知名度は低く、難しい市場だった。
飛び込みセールスに精を出したが、案の定、売れない。
2カ月半あまりたって、やっと待望の1台が売れた。
無駄足でも名刺を置いて回った

 それまで「セールスの仕事が嫌になるというより、焦りましたね」と語る。
来る日も来る日も売れなくて、「途中から真っ青ですよ。
もしも3年間の出向期間中に1台も売れなかったら、オレの人生はどうなるんだろうと思いました」。
 1台売れたといっても、また一からである。
他のセールスマンとお客を取り合うような競争はしたくない。
違う方法を考えた。
複数メーカーの車を売る業販店や農協に販路を開拓すれば、安定的に売ってもらえる。
しかしそこには当然、他のメーカーが既に入っている。
ターゲットを決めると、半年あまり、毎日、同じ場所に無駄足でも、「福岡スバルの吉永です」と名刺を置いて回った。

雨の日もずぶ濡れになって1日も欠かさず顔を出し続けた吉永に声がかかった。
相手にしてくれなった係長の方から「もういいから、こっちに来い。オレが売ってやるから」と言ってくれた。
「ラッキーでしたね」と吉永は言うが、もちろん棚からボタ餅ではない。
努力が実ると、月販5台のノルマは楽に達成できた。
 フォークリフトでの部品の運搬作業に自動車セールスという、いわば泥臭い仕事を続けている吉永に、友人たちは「早く辞めた方がいい」と勧めた。
しかし、しんどい仕事だったが、本人は「自ら望んでメーカーに就職したのだから当たり前」と、ポジティブにとらえていたそうだ。

見込まれている実感があったから3人分働けた
 本社勤務になってからも猛烈に働いた。
国内営業本部の営業管理課で3年過ごし、入社9年目に販売企画部企画課に異動する。
国内営業の企画を担う業務で、「そこから私は企画的な仕事になって行くのです」と吉永は言う。
数カ月たつと、3人分の仕事を任された。
実際に2人を他に異動させたので、掛け値なしに3人分の仕事である。
 さすがに驚いたが、「君ならできる。3倍働けば大丈夫だよ」と課長は太鼓判を押した。
おかげで「もう酒を飲みにも行けず、毎晩、本社ビルが閉まる11時45分ぎりぎりまで仕事ですよ」。
予算の策定、販売目標台数の管理、販売奨励金の立案といった仕事を、1人でこなし、忙しさは尋常ではない。

 頑張れたのは、能力を見込まれての措置だと感じていたからだろう。
吉永に訊くと、「思えば、その課長に見込まれていましたし、その上の部長、さらに本部長にも見込まれていました」と顧みる。
本来業務に加えて、本部長だった松崎常務から頻繁に仕事を出された。
 「毎日のように与えられた宿題を仕上げて、常務に持って行くと、出来の悪さを指摘され『こんなこともわからないのか』と怒鳴られっぱなしでした」。
これが半年も続いて、ようやく合格点をもらえた。
以後は吉永が管理職になってからも、書類の決裁を求めると、即座に判を押してくれた。

〔「課長の分際でなんだ」となった末の栄転〕腹の座った先輩、上司のおかげで救われた。
 仕事を通じての手荒いしごきには、人材を育てたいという思いがこもっていた。
吉永は「先輩方に恵まれました。
しこたま叱られて鍛えられ、本当に有り難いことです」と受け止めている。
「課長の分際でなんだ」となった末の栄転
c0219232_15152817.jpg

④ したがって柔なイエスマンではなく骨っぽい人材を求めていたようだ。
当時の尊敬すべき上司たちについて吉永はこう語る。

「志が高くて、かつ悔しい思いをした先輩が何人もいました。昭和29年(1954年)に富士重工の自動車部門に入った人たちは、今のような業界で最後尾の会社に入ったのとはわけが違います。当時は、どこが自動車産業の覇者になるのか決まっていなくて、富士重工も今のトヨタになれたかもしれないのです」。
 販売企画部の企画課長の時に、吉永は役員とぶつかった。
ある指示が納得できず、実務の担当者として拒否した。
「課長の分際でなんだ」と当然なる。
それでも「会社のためにならない」と従わないため、出されることになった。
普通の左遷であれば、今日の吉永はなかった。

 ところが松崎らの助力で、総合企画部に移ることができた。
会社全体の経営企画の仕事に代わったのだから左遷ではなくて栄転である。
「こんなことは自分ではできません。私はただのサラリーマンですからね」。
吉永の言う通りで、腹の座った先輩、上司のおかげで救われた。
 5年間常務会の事務局を担当して会議に毎回出て書記を務めた。
最高意思決定が実質的にどのように行われるのか、垣間見るまたとない機会を得た。

〔危機感を持つ仲間3人と執行役員に〕「人間の社会には妬みとか嫉みがあるから1人だけ目立つのはよくない」
 サラリーマンにしては破天荒な性格で、それが如実に現れたのは、2005年に51歳で執行役員になった時の経緯である。
人事担当の伊能専務執行役員も吉永を買っていた。
「伊能さんは、心配しなくていいからどんどんやれと発破をかける親分みたいな人でした」と吉永も信頼していた。

危機感を持つ仲間3人と執行役員に
 その伊能が「君は1人だけで執行役員にならない方がいいな」と言う。
「人間の社会には妬みとか嫉みがあるから1人だけ目立つのはよくない」というわけだ。
そんなことがあって1年あまりたったころ、伊能が「この会社をどうしてもいい会社にしたいから、執行役員をやれ」と言いだした。
 川合がいったん立て直したものの、再び富士重工は業績が低迷していた。

吉永は「会社を変えろと言われても、私1人が頑張っても無理ですよ。私も含めて4人くらい一緒に執行役員にしてくれないと、力になりません」と注文を付けた。伊能は「そうか。あと誰だ?」と、まともに訊いてくれた。
 実は吉永は「このままでは会社はつぶれてしまう」と、ともに危機感を持つ仲間3人と夜な夜な集まり、どうすべきか議論していた。
経営企画の吉永と、商品企画の武藤直人、技術の馬渕晃、製造の鴨川珠樹の4人で、それぞれの分野で実務を担うキーパーソンである。
このメンバーの名前を伊能に話した。
そろって執行役員になって力を合わせれば、経営改革を推進できると思い描いていたのだ。

 次の役員人事の季節が来て、「そうしたからな」と伊能から密かに告げられた。希望通り4人を執行役員にするという。
「すごいなと思いましたよ」。
さすがの吉永も驚いたらしい。
竹中恭二社長に呼ばれて、「執行役員をやってくれ」と内示された時、4人は既に知っていた。
「その晩、飲み会を予定していて、4人で酒を飲んで『あいつら、おかしいんじゃないかと言われるくらい働こうな』と話し合いました。本当に働きましたよ」。
その時のことを吉永は鮮やかに覚えている。

〔女子社員に「当たり前じゃないですか」とどやされた〕誰にもこびず、おごらず、地のままを通してきた。
c0219232_15161486.jpg

⑤吉永には安閑としていられない事情がある。
社長になって4年あまり、「業績は非常によい状態ですが、本当の意味でよい会社と言えるでしょうか」と自問する。

「スバルは一流のブランドになったかというと、その入り口にやっと立てただけだと思います。米国ではスバル車を初めて買うお客様が6割です。そうしたお客様に『買ったはいいが、いまいちだね』と思われたら、続きません」。
具体的には、スバル車の購入者が満足するサービス体制の強化である。

 女性社員たちと食事をした時、「後継者を間違えたら駄目ですよ」と釘を刺された。
「そうなの?」と言ったら、「当たり前じゃないですか」とどやされた。
「ここまでみんなが遠慮なく言える社風もすごいなと思いましたよ」と、吉永は楽しそうに語る。
誰にもこびず、おごらず、地のままを通してきた。そして、これからも。


【平蔵の独り言】
車歴 ブルーバード510SSS → 足のいい奴 カリーナ・カリーナサーフ → ・・・・・→ HR-V

サアーて、そろそろ 次(乗りたい車がない!)
“俺は車だ” と顔をしているのがない。

ハイブリッドはイヤ!(おもちゃのチョロQだ)

辿り着いた「スバルインプレッサ」 →(子供と被った → 先日契約した。3ケ月待ちとのこと)

車を楽しむ、最後の選択になるだろうが・・・・・・

【平蔵の独り言】
誰にもこびず、おごらず、地のままを通してきた。

梶芽衣子”〔:私の様に媚びない、めげない、挫けない、加えて酒飲めない となっては大変。〕

人間“個”を歩くということは同じですね!
自身でよく、「他の男は知らないけれど・・・・・」
[PR]

by asanogawa-garou | 2015-12-23 15:39 | 今 今日この頃 | Comments(0)

【自由】(万人がもっている自由)『君の意見には全く反対だが、君が意見を発表する自由は命にかけても守る』   

2015年 10月 12日

【自由】(万人がもっている自由) 民主主義を表した名言『君の意見には全く反対だが、君が意見を発表する自由は、命にかけても守る』がある。

フランスの哲学者ボルテールの言とされるが、この精神こそ最重要なのだ。

週刊現代2015/10/10号今週の遺言(大橋巨泉)

〔白鵬の力は衰えているか?〕
NHKの解説者である舞の海が鋭い発言をした。
「…それと白鵬の力が衰えている、ということですね」。

優勝の感想を聞かれた横綱は、「…それと“力が衰えた”と言われたので、そうでない所を見せた」という内容のコメントを発した。

そして翌日の新聞によると、それを聞いた舞の海が陳謝したという。
問題は舞の海が「あやまった」事である。

〔本当の「力の衰え」というものは、実は本人しか解らないものだ。〕
「いや外眼には解らないでしょうが、“行った!”と思った打球が塀ぎわで捕られるんですよ」。

〔自由〕万人がもっている自由
ボクの言う自由とは、万人がもっている自由である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【自由】(万人がもっている自由) 民主主義を表した名言『君の意見には全く反対だが、君が意見を発表する自由は、命にかけても守る』がある。

〔白鵬の力は衰えているか?〕
先場所は初日、2日目と連勝したが、その内容は白鵬らしからぬもので、
下位のものに喰い下られ、長い相撲の結果、何とか勝ったという印象だった。
c0219232_18351822.jpg

NHKの解説者である舞の海が鋭い発言をした。
「…それと白鵬の力が衰えている、ということですね」。


ボクも全くの同感で、ターニングポイントを迎えたと感じた。
しかしその後白鵬は立ち直り、通算35回目という、最多記録で優勝を果した。
問題はその後である。

優勝の感想を聞かれた横綱は、「…それと“力が衰えた”と言われたので、そうでない所を見せた」という内容のコメントを発した。

そして翌日の新聞によると、それを聞いた舞の海が陳謝したという。

その瞬間にボクは、「日本は戦前と変わっていない。表現の自由、言論の自由は何処へ行った?」と感じた。
これが民主主義の発達した欧米なら、絶対に起こらない。考えてみると良い。
舞の海の発言は、解説者としての表現であり、それに発奮して優勝した白鵬も立派である。

問題は舞の海が「あやまった」事である。

そんな必要は毛頭ないし、
あのメンバー相手に優勝したからといって、白鵬の力が“衰えていない”という証拠にはならない。

ボクは全勝して当然と考えていたから、白鵬の力は衰えて来ていると信じていた。
問題は、舞の海が謝らざるを得ないような空気が、相撲界(マスコミ界を含めて)にあったという事だ。

ボクも若い頃、ジャズ評論家をしていて、
歯に衣着せぬ発言をすると「生意気だ」とか、「自分で吹いてみろ」などと非難された。
勿論ボクは謝った事などないし、堂々と反論して、のし上って行った。
「自分でやってみろ」と言われたら、この世に評論や評論はなくなってしまう。
c0219232_18342980.jpg

〔本当の「力の衰え」というものは、実は本人しか解らないものだ。〕
本当の「力の衰え」というものは、実は本人しか解らないものだ。
1980年の夏の札幌で、ボクは巨人の一塁手で長年の親友王貞治と、ビールを呑んでいた。
ワンちゃんが言った。
「巨泉さんだから言いますが、ボク今季限りで現役を退くつもりです」、
「えっ、まだ打ってるじゃないの」とボク。
「いや外眼には解らないでしょうが、“行った!”と思った打球が塀ぎわで捕られるんですよ」。
外眼には「芯をはずした」と思われるだろうが、
本人は実は“行った!”打球だった事が多くなり、引退決意とつながった。
勿論ボクは一切他言しなかったが、ワンちゃんはそのまま引退した。
c0219232_18334975.jpg

要するに本人が一番よく解っているのだ。
だからこれはボクの推測だが、白鵬自身は「力の衰え」を感じて居り、
それを指摘され、もう一度ふんどしを締め直した結果の優勝だったと考えている。

そして今場所、大きな故障や病気もなかったのに、
初日2日目と連敗し、三日目から休場となったのだと思う。
人間誰しも成長のあとは、衰えが来る。
そして現役引退となるのである。
何も恥ずかしい事ではない。自然の摂理である。

そしてそれを指摘するのも、反論するのも“自由”なのだ。
ただ“誤報”以外は、謝ったりする必要は毛頭ない。
ボクは舞の海を現在、最高ランクの評論家だと思っているし、
今後もひるまず正論を吐いて欲しい。

〔自由〕万人がもっている自由
ボクの言う自由とは、万人がもっている自由である。
民主主義を表わした名言に、
「君の意見には全く反対だが、君が意見を発表する自由は、命にかけても守る」がある。
フランスの哲学者ボルテールの言とされるが、この精神こそ最重要なのだ。

日本ではいまだに、地位によって上下関係があったり、下位の者や若年者は軽視される傾向がある。

→行政府の長である首相が、質問中の立法府の議員に対して、
「早く質問しろよ」などというヤジが飛ばせるのは、
欧米では信じられないだろう。

〔(哲学者)ヴォルテール〕
c0219232_18323796.jpg

私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。

I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it.

【平蔵の独り言】
「…それと白鵬の力が衰えている、ということですね」。

【独り言】
プロとして解説者 舞の海 が解説してくれるから、市井の者にとって相撲の醍醐味が増すと思う。

【平蔵の独り言】〔自由〕「君の意見には全く反対だが、君が意見を発表する自由は、命にかけても守る」

【独り言】〔君が意見を発表する自由は、〕
「早く質問しろよ」(質問者が軽いし、時間つぶしで何も残っていない)

議員も首相も職責を果たす勉強と覚悟があれば、只の笑い話で済ませられるのだろうが!

まあ!首相から〔ポツダム宣言〕を思い出させてもらった。
[PR]

by asanogawa-garou | 2015-10-12 18:41 | 今 今日この頃 | Comments(0)

【シルバーウィーク】(80歳以上の高齢者の数が一千万人をこえたという。「人生百年」)〔五木寛之〕   

2015年 10月 05日
【シルバーウィーク・敬老の日】(80歳以上の高齢者の数が一千万人をこえたという。「人生百年」)〔五木寛之〕

生き抜くヒント( 五木寛之) 週刊新潮2015/10/08 号
c0219232_15475462.jpg

今年、80歳以上の高齢者の数が一千万人をこえたという。
テレビのニュースでそれをきいて、本当にびっくりした。

まだまだ、若輩者だ!「六十、七十は洟垂れ小僧」
「退場」に備えて、自分自身の生死を「人生百年」に向けて、堂々と宣言する。

「元気で長生き」(元気が正義)
視力、聴力、脚力

【平蔵の独り言】
気が付けば、目の前に“古稀”
まだまだ、若輩者だ!「六十、七十は洟垂れ小僧」
身体のメンテナンスが増え、
「退場」に備えて
「断捨離」(ピーター)、

高齢者の80歳に向けて、自分自身の生死を「人生百年」に向けて、堂々と宣言する。

【独り言】
”元気が正義”

視力、脚力:メンテナンス

聴力 「鼓膜に穴が開いてます!」
→”えつ! どうしたらいいでしょうか”
→「このままです」
(右からの音が聞き取りにくくなっている)

「退場」に向けて「断捨離」 30年前の書類(ゴミ)が?


〔シルバーウィーク・敬老の日〕
シルバーウィーク・敬老の日 2015年9月21日

なに!“シルバーウィーク”去年あった?

気が付いたら、“還暦”は遥か彼方に通り過ぎ、
まだまだと思っていた“古希”は目前

シルバーウィークになったら、「敬老に日」  うん?

2015年は9月21日
敬老の日は法律によって、「9月第三月曜日」と定められています。
その年によって祝日が変わり、その範囲は9月15日から21日までの7日間のいずれかとなります。

2015年の9月第三月曜日と、敬老の日のなかで一番遅い日、
しかも21日が敬老の日になる年は、次の通り、23日の秋分の日まで5連休となるんです。

  9月19日(土)
  9月20日(日)
  9月21日(月)敬老の日
  9月22日(火)国民の休日
  9月23日(水)秋分の日

休日・祝日に挟まれた平日が「国民の休日」になるため、5連休(シルバーウィーク)   知識の泉 より

春の「ゴールデンウィーク」に対して秋の「シルバーウィーク」

しかし、前回は2009年(6年前)、次は2026年(11年後)

〔2015年敬老の日〕80歳以上人口が初めて1000万人を超える
高齢者人口3384万人で過去最多、総人口比は26.7%に
(総人口に占める割合が1/4を超えたのは前年の2014年に続き2年目)
高齢者の就業者数は、11年連続で増加し、681万人と過去最多
就業者総数に占める高齢者の割合は、10.7%と過去最高
(日本の高齢者の就業率は、主要国で最高)
c0219232_15481886.jpg


【平蔵の独り言】
シルバーウィーク 暇を持て余しながら“敬老の日”
突っ張ってはいるが、少し気になる。

五木寛之さんと同じに80歳以上人口が初めて1000万人を超える

のニュースに“えっ!”

まだまた、高齢者(しゃ)若輩者(もの)
今年2015年のシルバーウィークは “まだまだ若い”
と思い知らされた。


それよりも高齢者総人口比26.7%、日本の将来・・・・・
[PR]

by asanogawa-garou | 2015-10-05 15:27 | 今 今日この頃 | Comments(0)