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「仰木彬」50年の野球人生( グランドで死ねれば本望だ)   

2011年 04月 14日
「仰木彬」50年の野球人生
・・・・・・・(グランドで死ねれば本望だ)


18年間でつかんだ「人づくりの極意」(近鉄コーチ時代)
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【仰木】さんは「近鉄」がなくなって、
「オリックスバファローズ」の監督を癌を隠し、70歳で
「パ・リーグの灯を消してはならない…」
病魔と闘い、命を削って戦い続けた!
シーズン終了、辞任後78日で帰らぬ人となった。(2005年12月15日)

(粋)が魅力で野球を遊び心で語れる人
サングラスが似合う
(肺がんの治療の副作用を隠していたと知った)

「人の流れをよく見ておけ」

仰木が自分自身に触れて、
「弱いヤツほど強がっているものさ」と言っている。
自分の弱さを隠そうとしているように見えることがあった。
(これはわからない)
(余分なことを言わないで辞している)
「仰木さんの生きざま」


酒を飲む。
「理屈は偉い人に任せていればいいの。(好きだから)で、すべては解決する」
と余計なことは言わなかった。

【野茂秀雄、イチロー】大リーガーを育てた。
「原石」は磨けば光るもので、規格にはめようとすれば、
全体のバランスが壊れ、光るものも光らなくなる。

(野茂、イチロー)規格にはめようとしたが、潰されそうになったが
・野茂英雄のトレーニング方法から調整法
自己流を認めず「草魂監督(鈴木啓示)」と対立が明確になり
任意引退の切り札を出し野茂は海を渡った。
(大リーガー野茂の誕生は鈴木啓示のおかげ)
自由に気持ちよく投げさせたのが、仰木彬

・鈴木一朗のバッティングフォームの改造をめぐって
当時の監督の土井正三と意見が対立し、干されていたが、
(フォームを直せ、直さなければ使わないと言われた。
それなら二軍に行きますと言って土井の辞任をじっと待っていた)

仰木は親しみやすいイチローに変えて、その真価を発揮させた。

仰木さんによって光り輝いた。
(イチローが「師」と仰ぐ人は仰木さんだけです)

野茂、イチローがメジャーリーガーとして活躍
(メジャーへの移籍を平気でできる監督はそんなにいない)
「自分を貫ける男はメジャーでも通用する」(野茂英雄)
「目標を持っている選手は目の輝きが違う」(イチロー)

野茂・イチローの夢を実現!(仰木彬の先見力)

「管理野球を否定し、(自由の恐ろしさ)を体でわからせる」
自由ほど責任が重いこと、自己管理が必要なだということも仰木は知っていたのだろう。
・管理されないところのほうが管理されているより厳しい(管理なき管理)

「自由に空を飛び回れる飛行機ほど、
線路を走るしかない電車よりいろいろな約束事で成り立っているのですからね。
飛んで行こうと思えばいくらでも行ける約束事ですけれどね」
と、仰木は言う。

「イチローがプライベート」で食事出ようとしてばったり仰木に会った。
イチローに「楽しんでこいよ」
他の監督なら「マスコミには気をつけろよ」と憎まれ口をきいて出す。
仰木はマスコミ受けして、他の監督は憎まれる結果になる。

王道だけを歩んでなかった仰木の人生のヒダの深さ、いろいろな痛みを知った仰木の生き方そのもの!
昔から自分が世話になっていたスポーツ紙には、絶対その仕事は断らない、ほかの監督が目を向けないような夕刊紙を大事にしている。
先入観でものを見ないで自分の目で確かめて使ってみるのが仰木流

「困った時には選手の意見を聞いてモチベーションに賭ける」
・権威とか実績とかをバックにものを言う監督は完全にスポイルされてしまう。
権威を笠に着て見下した話しをする(権威主義)

仰木はといえば、決して権威主義ではなく、それに対して反発している部分があった。
放任という名の管理をしているし、細かいことに対しては目をつぶる姿勢を貫いているのだ。

「困った時には、これはどうだろうかと相談をすることにしている。その時に返ってきた答えによって、相手は何を考えているか、どうしたいかがわかるようになってきた」
「どっちの結論になっても大した結果ではない時がある。それならば、選手に気分よく仕事をやらせたほうがいい。そうすれば、相手だって意気に感じるはず」

【イチローにおまえ、何番を打ちたいのか、思っていることを言ってくれ】
「一番です」
(一番にそこまでこだわっていたのか)とすぐに一番に戻している。

【仰木さんの生き方】
仰木さんがプロ入りする時
中日、南海は契約金100万円
そんななかで、おっとり刀でやってきた西鉄の三原脩監督は、
「ボクに任せておきなさい。悪いようにしないから来なさい」
仰木はあっさり陥落。契約金60万円、年俸60万円と一番安かった。
でも、仰木はカネではないと思っている。

西鉄の黄金時代への息吹きが出始めていた。
中西太、豊田泰光、高倉照幸、大下弘、関口清治

仰木彬

監督:三原から娘婿の中西が監督になった時中西の人のよさに対して、
仰木の持つしたたかさが必要と中西の下でコーチ専任となる。
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コーチ、18年間でつかんだ「人づくりの極意」
・兼任コーチにされ
・コーチ専任になり、
・近鉄コーチに三原監督から呼んでもらい。
「三原野球が盗める」と大喜びで移ったとたん、たった一年で三原は住んでいたアパートに住めと言い、「あとは頼む」と去っていった。
三原が大洋から近鉄の監督に行った時、仰木だけが呼ばれた。
その時の周囲からの悲哀からの知恵が近鉄コーチとして18年間(三原、岩本、西本、関口、岡本)につながっていく。

西本監督は当時の仰木を評して、
「目立たないヤツで、コーチとしての仕事を本当にしておるんかいなと思った」

仰木は三原に『知の野球』を教わり、
西本に『情の野球』を教わった。
と言っている。

西本が勇退を決意した段階で、
仰木に「監督になったら選手と絶対に麻雀をするな」と一言を言っている。
西本は情に厚いゆえに最後の最後に勝ちに恵まれず、
悲運の名将といわれる。
以来、仰木は選手との麻雀をいっさいしなくなった。
仰木の采配は【優勝が優先順位が1位、個人タイトルが2位】
しかし個人タイトルに全面協力する。
仰木采配で多くの選手が大成長できた。


西本監督になった時、73年2軍行きを命じられる。
仰木が再び一軍に戻されたのは3年目の75年であった。
79年西本野球が開花して、
日本シリーズで『江夏の21球』第7戦9回無死満塁の場面でスクイズ失敗、三塁コーチは仰木であった。

仰木は18年間のコーチ生活で、トップに立つ人間に一番大切なことは「決断すること」だと確信しているのだった。

万年監督候補にお鉢が回ってきたのは、
西本が勇退を決意してから6年の歳月が流れていた。
仰木が自分の人脈でないと
『ねたみ、そねみの根がはびこって』あれこれ醜聞を流して、
仰木の女性問題でいろいろ取り沙汰されて監督になるのを邪魔されている。

監督になった時、
はっきり「優秀なのがたくさんいます。2、3年待ってください」と言いきった。
近鉄で18年コーチをしているので、選手個々の潜在能力把握することができていた。
仰木が監督になると中西をヘッドコーチにする。
投手コーチとして、自分とつながりのない人物(権藤)を平気で連れてくる潔さもあった。
1988.10.19「近鉄vsロッテ」ダブルヘッダーは昭和最後のプロ野球名勝負、ダブルヘッダーに2勝すれば、優勝であったが、1勝1分
監督就任1年目「仰木マジック」これだけの快挙をやってのけた!

翌年優勝して巨人との日本シリーズは3連勝のあと、
ピッチャー加藤哲の「巨人打線はロッテ以下」発言で4連敗してしまう。
93年ユニフォームを脱ぐ。
その理由は「もう何を仕掛けてもマスコミに注目されなくなったから」

24年間にわたって指導者としてユニフォームを着続けたこと、
西鉄に入団以来、一度もユニフォームを脱ぐことなく39年間も過ごして、
「評論家」をやり決していい評論家ではなかったと思う。
「野球人というのは、ユニフォームを着て現場にた立っていなければダメだということがわかりましたよ」

94年オリックスの監督に就任
2年目の95年のペナントレースは『がんばろうKOBE』
パ・リーグ制覇
その翌年、巨人を破って日本一の座に

00年に監督生活12年目で初めてBクラス
翌01年もBクラスに低迷したのを機にユニフォームを脱いだ。
その間、体調不良で入院生活を!

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04年には殿堂入り。
そのパーティーは、みずから【生前葬】と位置づけて、
自分の手元から大リーグに巣だった選手が一堂に会しての盛大な祝宴となった。
そして、オリックス、近鉄の合併を受けて、請われてユニフォームを着た。

みずからが語ったように、
「グランドで死ねれば本望」という覚悟の復帰だったのだ

オリックスバファローズの監督になって18年間をコーチとして、
6年間を監督として過ごしたチームの話しはいっさいしなかった。
「この人は過去にこだわるよりも、いまに生きている」と選手達に思わせた。
管理を撤廃した。
(きちんと決めても自身が守れないと思った?)
「管理されないところのほうが管理させているより厳しい」
と選手の自覚が自然と出てきた。

仰木は弱さを見せる選手が嫌いだ。
一生懸命さよりも、がむしゃらが好きだ。
「いいかげんさ」もゆるす。

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同世代の楽天監督の野村克也は
「ワシよりもずっとしたたかでタヌキだよ」と言う。

広島の高橋慶彦が「江夏豊」と「山本浩二」を比較して
「江夏さんは道路のいつもはじっこを歩いていた。
道路の右側を歩いていて、右の側溝に落ちて、その痛みを知った。
今度は左側を歩いていて、左の側溝に落ちて、そこの痛みを知る。
だから、道は真ん中を歩こうと思えばいいんです。
最初から浩二さんのように真ん中を歩いていたら、
その痛みはわからんですよ」
まさにその通りである。

人の痛みを知るために、人生のヒダを深めるために、いろいろな痛みを知ったほうがいいということだろうが、
仰木の生き方はまさにそれだった。


仰木彬「夢実現」の方程式・水谷脩(著) 他

【平蔵の独り言】―――――――――――――――――――
小学校4年から「近鉄」ファンだった

セは「巨人」
パは「近鉄」

「巨人」が水原から川上に監督に代わった時(両雄並び立たず)で去ったのが千葉茂。
千葉はパの弱小球団
「近鉄パールズ」の監督になる。
如何にも弱小球団にふさわしい、「パールズ」を「近鉄バッファローズ」
その時から「近鉄」が無くなるまで、ファンであった。
そして、今も…

野茂の素質を見出だしたのは(仰木さん)
それを潰そうとした(鈴木啓示)この人のおかげで「大リーガー」野茂英雄が生まれた。
(野茂を見出だした仰木さん、潰そうとした鈴木啓示)がいなければ、
「大リーガー野茂英雄」は存在しなかったように思う。
正確にいえば、野茂が近鉄を去った頃から野球に対する熱がサッカーに変わって行った。
弱小球団「近鉄」を注目していたおかげで
・日本シリーズ「広島」江夏の21球
・日本シリーズ「巨人」加藤のインタビューの一言「巨人はロッテより弱い」で3連勝の後の4連敗
(唯一日本一なれなかった球団)
・ロッテとダブルヘッダー最終戦(2連勝)すれば優勝(一勝一分け)
・「がんばろうKOBE」
95年阪神淡路大震災の神戸をバックに
・近鉄の監督には「三原さん」も「西本さん」もいた。

何故か「仰木さん」の魅力が今でも残っている。

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人生の4コーナー最終ストレッチに入ったであろう自分に
どう向き合っていけばいいのか!

まだまだ、ヒダは薄いが、人生ワンクール(7年)10クール目を【ちょっと急ぎ過ぎ?】
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by asanogawa-garou | 2011-04-14 16:22 | 人間模様 | Comments(0)