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<福島原発事故>「日本は終わりかと考えた」陸自前司令官   

2011年 12月 31日
<福島原発事故>「日本は終わりかと考えた」陸自前司令官
毎日新聞 12月31日(土)9時37分配信

 東日本大震災で、東京電力福島第1原発事故の対応を指揮した陸上自衛隊中央即応集団の宮島俊信・前司令官(58)が、毎日新聞の単独インタビューに応じた。深刻さを増す原発、見えない放射線の恐怖の中で、「最悪の事態を想定し、避難区域を原発から100~200キロに広げるシミュレーションを重ねた。
状況によっては関東も汚染されるので、日本は終わりかと考えたこともあった」
と緊迫した状況を明かした。

 自衛隊が警察や消防などの関係機関を指揮下に置いて任務に当たったのは自衛隊史上初めて。
しかし、自衛隊に暴走する原子炉を止める能力はない。
宮島さんは「ヘリコプターによる原発への放水は、本格的な冷却装置ができるまでの時間稼ぎにすぎなかった。
高濃度の放射能などへの不安はあったが、我々がここまでしなくてはいけなくなったというのは、かなり危険性があるという裏返しだった」と語る。

 その上で、「危険に立ち向かってでも事故を抑えるんだという日本の本気度を示す一つの手段だったと思う。
あれが大きな転換点となり、米国を中心に各国の積極的な支援につながった。
自国が命を賭してやろうとしなければ、他国は助けてくれない」と話した。
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東日本大震災での人道支援のため太平洋を航行する
米海軍の強襲揚陸艦エセックス。
後方は海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが
 
一問一答は次の通り。

 --原発事故対応の指揮を命じられたのは
◆自衛隊内では3月14日、同20日には菅直人首相(当時)から警察、消防も含めて一元的に指揮するよう命じられた。
(1)物資輸送と水の供給
(2)原発を冷却するための放水
(3)避難民支援や除染
(4)ヘリコプターによる放射線測定などにあたった。

 --これまで原発事故対応の訓練は
◆まったくしていなかった。あくまでテロなどの備えとして持っていた放射線の知識を流用して対処した。

 --被ばくへの恐怖は
◆まったく予想しなかった任務だったので、当初は隊員にも相当な不安があった。現地で指揮を執った副司令官がまず一人で現場に赴き、状況を確認した上で「大丈夫だ」と笑顔を見せた。
それで隊員たちも安心し、落ち着いて行動することができた。
消防車による放水では線量計の警報が常時鳴っているとの報告を受けたが、それなりの防護をし、放射線量を管理していたので大きな心配はなかった。
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流木をどかしながら、行方不明者を捜す自衛隊員

 --ヘリによる放水を命じられた時は
◆本当にやるのかと不安はあった。
高濃度の放射能に加え、5トンの水を上空から落とせば衝撃で第2の爆発を起こすのではとの懸念もあった。
危険は分かっていても、ここまでやらないといけないぐらい後がないという判断だった。
放水の様子を画面でにらみながら祈り続け、無線で「命中しました」と聞いた時はホッとした。
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自衛隊の給水車に両親と一緒に来た少女

 --最悪の事態を考えたことは
◆部下に知られないよう1人で司令官室の地図に模型を配置しながら、避難区域を100~200キロに広げるシミュレーションを重ね、日本は終わりかと愕然(がくぜん)としたこともあった。
我々は「想定外」という言葉を使わない。
すべて最悪の事態を考え、想定内に納めておかないと対処できませんから。

 --かなりの重圧だったのでは
◆自衛官になって35年間、常に指揮官とはどうあるべきかを自問自答してきた。孤独に耐え、心中は相当に焦っていても悠然とした態度を部下に見せることが非常に重要だと思っている。
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東日本大震災から1カ月。行方不明者の捜索の手を休め地震の発生時刻に黙とうする自衛隊員

 --関係機関との連携は
◆東電は情報隠しと責められたが、持てる情報はすべて出してもらったと思う。自衛隊の一元的な指揮は戦後初めてだが、おかげで警察、消防、東電を含め関係機関が一体的に行動できた。
ただ、自衛隊は主役ではない。
本格的な冷却装置が作動するまでの時間を稼ぎ、政府や東電の判断に余裕を与えるのが役割だった。

 --今後の課題は
◆どこまで自衛隊に原発対応を求めるのか明確にしないと教育や訓練ができない。また原子力災害を想定した訓練が各地で実施されているが、これまでは安全神話の下で形式的なものだった。今回の教訓を生かし、実効性のあるものにしなければならない。【聞き手・鈴木美穂】
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避難所の子どもの遊び相手になって笑顔を見せる自衛隊員

【平蔵の独り言】
今、この記事を読んで「自衛隊があって良かった」と、実感する。

政治的なこと、思想的なことは、ブログには一切アップしない。
ただ感動したことだけを生きる証として、ただ自分自身の掲示板として
<独り言>としてきたが
年賀状に「明治維新、先の大戦に匹敵する大震災が起きたのに、国を憂う人材がいない。亡国に向かっていくのでは」
と、したためたがこの記事を見て、まだまだ日本は捨てたものではない。

毎日新聞(12月31日(土)9時37分配信)
そのままアップさせてもらうことを、お許し願いたい。

ふと思う!
<平蔵の命が尽きるまでは、思い返しながら歩いていくが、
  命尽きた時、ブログはどうなるのであろうか>

円楽さんは6代目円楽から
談志さんは石原慎太郎から
「あばよ」
と、遺影に向かって

じゃあ!ブログに「あばよ!」
これも勝手な「人生成り行き」
できるわけないよな!
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by asanogawa-garou | 2011-12-31 18:12 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

【堀文子】「群れない、慣れない、頼らない」   

2011年 12月 30日
【堀文子】「群れない、慣れない、頼らない」生き方を貫き通し、
93歳になった今も情熱とチャレンジ精神で新作に挑む
日本画家・堀文子。


〔幻の花・ブルーボピー〕
81歳のとき、標高4500㍍の高地に咲く「ブルーボピー」という幻の花を見たい一心から、ヒマラヤに登り、作品に結実させている。
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NHK「画家・堀文子 93歳の決意」(ヒューマン・ドキュメンタリー_)
時代に流されず、お仕着せの常識や権威にくみせず、
自分自身の価値観と美意識を追求し続けてきた生き方が
今、世代を越えて多くの人々の憧憬〔しょうけい〕を集め、
孤独を恐れずに自由を求めるその言葉は、人々に勇気を与えている。

堀とは母と息子にような関係にある作家・戸井十月が
93歳の女流画家の生き方に迫る。
―――――――――――――――――――――――――――
〔職人〕私は職人だと思いますね。
認めらたいと思いますけれど、自分が気に入らなければ・・・・・・・・・・・
職人だと思います。

絵師とか絵職人から
アーテスト(芸術家)としたことで、
特別な人とみたいにみんなにちやほやされ、
本人も天才でもないのに天才ぶって、
充分通っちゃうようなああいうことがちょっとね
はずかしいことですよ!
それだけの話ですよ。

肩書きを求めず
ただ一度の一生を
美にひれ伏す
何者でもない者として
送ることを志してきた。


どうやって暮らすと西洋なんだろう!
40歳の頃、手探りで世界を放浪する旅は3年におよびました。
西洋人がああいう芸術を作ったんだろう

どんな暮らしをして、
どんな風に朝起きて掃除して
街はどうなっているんだろう。
そういうことが知りたくて、行きました。
実際を見ないと本を読んだってダメだし、
具体的に生活を見たいと思いました。
(西洋の文化、歴史、生活)

《風景は思想だ》
その国の民族の思想なんだろう!
風景は何を選んで残して、損得だけでなくて、
その大きな大木と林だけは残しておく、
できているんですよ。
日本だってそういう風景や思想が大正時代まではあった。
現代日本の思想が日本の風景になってしまった。
(世界的にそうなっていますよね)

悔しいけれど、
イタリーとかフランスとか
田園には充分に土地があるものだから
まだ頑固一徹に
昔を残していますね

そこに旧世の田園を残している。
(レオナルド・ダビンチ が丘から降りてきてもだいじょうぶ)
風景はそのものですな。
悔しいですよね


様々な国を旅して
“風景は思想だ”と
私は確信した。

風景はその国の人々が
取捨選択して作り上げた作品なのだ。

外国を旅し暮らしたことで堀さんは
日本の良さもわかりました。
日本画の表現の豊さでした。
浮世絵のあんな小さな絵で
“女の人の温かさ”“雨の降っている両国橋”なんか、
西洋では描けないです。
日本の浮世絵を日本に帰ってきて学びました。
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70歳で、バブル期の金の亡者と化した日本人に嫌気がさしてイタリア・トスカーナに3年、移住する。
はずかしくて、物欲に狂っていることに耐えられなかった。
女とジャーナリズムがしっかりしていれば
防げると思いましたが
でも両方が崩れましたからね。
(堀さんは売れる絵を書こうとしない、そんな堀さんにとっていごこちの悪いものであった)

(堀さんにとって旅というものは)

私は、自分の生活に慣れてくると、
飢餓感というか物が見えなくなって未知の世界に行きたくなるんです。
安心して、知ったかぶりして気が効かんというか
酸欠状態になって、感動しなくなる。
逆上するような状態を、子供の時のような状態を返ろうとする。

(人からは徒労としか見えなくても
本人には、避けることのできない旅というものがたしかにある。)

私は評価されなかったんですよ!

評価しにくいわけですよね。
類例がないこと、その都度違うことを書いているから
評価できなかった。
それは相手にされなかった訳ですよ。

(今だけこれだけのたくさんのいっているのに)
画壇とか権力のじゃない人達、無援だから
群れなくてもいい。
まったく無視されたり、
オミットされたりすることも
受け入れられようとか、
良くしていただきたいとか思っておりませんから
誰も近ずかないですよ。

(変わらない、群れないにみんな感動するんだと思いますよ)
狼のようなものを尊敬しちゃうのです。

絵描きになって名を上げたいと言うのではなく
この世の不思議をできるだけ見たい。

90になっている老いの私が
若い時の絵を見て“うまいなもんですね!”
今やろうとしたことが
構図とかいろいろな決断がすごいはね。
若さって!

今なんか うじうじ して
ちょっとうろたえました。
うまく、空間を処理していますよ。
今のもう一人の自分が見て、嫉妬しましたね!
嫉妬というか負けましたね。
脳までだめになっている。

私はどうやっているのだろう。

美術本なんか読んでないんですよ。
科学本ばかりをそんなものばかり読んでいる。

90になった、
知らないことがどんどん増えてくる。
90になって新たなミッションが増えてくる。
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この先 どんなことに
驚き熱中するのか
私の中の未知の何かが
芽を吹くかもしれないと

これからの初体験に期待が湧く
私にはもう 
老年に甘えている
暇などないのだ。

今、死が私の中にいるんですよ。
まざってきているんで、それを親しむ。
落ち着いてきましたね。
観念とかで考える死ではなく
腰が痛いとか
死と同居しているのだから
比較的おだやかですよ。

90才になっても
子供の頃の感動、驚き
それを失っていくのが大人になる。
私みたいに原始的な職人は、
おどろくようにびっくりするようにしていかないと、

美とはムダなこと
美とはムダなことこそ大切で
美はなくてもいいんですよ。
そういうものを求めたのは人間だけですよね!
ムダなことこそ大切でムダなこと。

効率的なこと、得なこと損得でない。
金儲けでない。

美ってなんだろう 生き生きとしていること。
生命力がある、長年なんだろうなんだろうと思ったけれど
どうも「生きていること」だと思う。

美 というものは
役に立たないように見えるが
それでいいのだと思う。

役に立ったら、欲と結びついて
美は消えてしまうだろう

美はかたちのないもので柔らかく
仰々しい姿は見せない。

では一体なんだろうと考えてみれば
永遠に輪廻する命

ということになるのだろう。

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(決してぶれることなく、生きている姿に心惹かれ、感動する)
天才でもない努力家でもない。
そういうものにみせられて、
そういうものにうろついている。
“ペンペン草”
でもいいから
本当の“ペンペン草”は
強いなと思います。

画家 堀文子さん(93歳)

今日も新しい作品に向かっています。
息の絶えるまで、
感動していたい!
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【平蔵の独り言】
何気なく見た(ほんとうは見る番組もないので、チャンネルを回したら)
再放送だとわかったが、慌てて録画し再度ゆっくりと見た。
また、素晴らしい人に出会えた。
「群れない、慣れない、頼らない」生き方
職人、風景は思想だ、

スペインの風景だけを描き続ける画家、
先日95歳でイタリアのベネチアへスケッチ旅行に行って
来春個展を開くと励んでいる「化け物ですよ」と呼んでいる画家

と話をすると楽しい(絵の心得などないのに)

「群れない、慣れない、頼らない」は難しい!
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by asanogawa-garou | 2011-12-30 15:58 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

[立川談志さん]「お別れの会」   

2011年 12月 25日

「談志お別れ会」生き返って戻ってくるなと三本締め

 家族や弟子の「明るく送り出したい」という意向で、お別れの会としては異例の爆笑スピーチが続いた。
 最後は親友だった俳優、毒蝮三太夫(75)による三本締めでお開きとなり、「明るく送り出せよ」との生前の談志さんの言葉通り、会場には笑顔が絶えなかった。
落語会の風雲児らしい異例の「お別れの会」となった。

親友だったという毒蝮三太夫(75)が、
「立川談志が生き返って戻って来ないようお願いして三本締めで、イョーゥ…」で最後を締めた。
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2011/12/22 10:35

「立川談志 お別れの会」が2011年12月21日、都内のホテルで賑やかに行われた。
高座で自らの病(喉頭がん)をギャグの根多(ネタ)にしただけあって、湿っぽさのみじんもないお別れ会だった。

〔笑顔が一番よく撮れていたと、遺族が選んだ談志の遺影の前〕
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 今にも談志さんの落語が聞こえてきそうだった。祭壇は高座をイメージしたもので、座布団の周囲に愛用の湯飲みや扇子が置かれた。
遺影は2009年5月7日に撮影された高座姿のもの。
家族が「一番いい笑顔の写真」として選んだ。会場には生前の映像が流され、ジャズが好きだった故人への最後の手向けとして、トランペット奏者の日野皓正(69)の生演奏も行われた。
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ディキシーキングスの演奏に、クラリネットの北村英治さん(無類の落語好き)が飛び入り参加

「お別れの会」の祭壇
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遺影、一席終わった後、満足そうに扇子を帯にはさんでいるところ
 白い菊の花の上に組まれた高座には、愛用の湯飲みと扇子が置かれ、
今にも祭壇上で演目を披露しようと言わんばかりに、印象的な談志さんの笑顔の遺影

石原都知事が弔辞 上岡龍太郎さん「500年生き続ける天才」
〔「憎まれ口をたたく仲だった」という東京都の石原慎太郎知事〕
遺影と相対した石原都知事は、亡くなる3日前に電話越しで談志さんに語りかけたといい
「一生をしゃべりすぎたから、神が休めと言ったんだろうと言いました。死んでもしゃべる奴なんだから、生きてるうちにしばらく沈黙する試練を神が与えた」と、破天荒で毒舌だった落語家の生き様に賛辞を送った。
(といっても、談志は喉を手術してゼイ、ゼイ言うだけだったらしい)がこんな別れをした。
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弔事を読んだ石原慎太郎東京都知事 
「あの世でいつか会えるだろうから、それまで死んでも元気でいてくれ。あばよ、談志師匠」

〔上岡龍太郎氏「500年たっても生き続ける天才」談志さんに最後の別れ〕
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談志さんの思い出を語る上岡龍太郎氏=東京・紀尾井町
2000年に芸能界を引退した上岡龍太郎氏(69)も姿を見せ、
「談志さんがいなかったら生まれていない芸人はいっぱいいた。芸人に与えた影響はものすごい」と50年来の友人への思いを語った。

 芸能界を引退してから11年。めったに公の前に姿を見せない上岡氏が50年来の友のために、大阪から駆けつけた。

 1961年に故横山ノックさんと一緒に都内の喫茶店にいたところに談志さんが声をかけたのが、出会いだったという。
「柳家小ゑんです。好きな人とは友達になる主義なので」とあいさつされ、以来、長い付き合いが始まった。
 立川右太衛門として、談志さんの弟子でもある上岡氏は、談志さんからさまざまなことを学んだという。
「幅も奥行きも非常にある人で、私はその一部をパクって生活できていた。本人も(才能を)持て余していたんじゃないか。それくらいすごい」と振り返った。
続けて、「映画界の黒澤明監督、漫画界の手塚治虫さん、芸術界の岡本太郎さんと並んで500年たっても生き続ける天才」と談志さんを称え、故人を偲んだ。
 談志さんとは50年の付き合いという上岡さんは「芸も笑いも、物の見方も、分析も、人生の生き方も、楽しみ方も全部教えてくださった。思い出がいっぱいありすぎる」と回顧。
人間の業の深さを教えてくれた人だったとも明かし
「幅と奥行きが凄い人だった。僕は師匠の一部を借用して、盗んでパクって生活してた。
ほんの幅だけで、僕が生活できたくらい。
たぶん本人はその才能を持て余してたと思う。
僕があの人なら狂い死んでますよ」と、天才と呼ばれる所以を力説した。

〔笑福亭鶴瓶(59)らの故人を偲(しの)ぶスピーチ〕
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昨年12月に病院を見舞ったという鶴瓶は「2人きりになった後の第一声で、
『(桂)三枝にチンコを出せと言っても出さない。(ビート)たけしに出せと言ったら出す。おまえは出せと言わなくても出す』と。
お墨付きをいただいたようで、うれしかったですね」と笑わせた。
 トークはますますエスカレートした。
鶴瓶は「すてきな人なんです。
いつも舞台上がって『マンセー』言うてましたけど、金正日に連れてかれましたよ。すごい人です。
向こうでたぶん、金正日と会ってまっせ。師匠、見習います。
芸は無理ですけど」とブラックジョークを交えて、懐かしんだ。
出席者は「今年は独裁者がよく死ぬ年だ」と笑いあった。

 落語家の桂歌丸(75)は、談志さんと5代目三遊亭円楽さん(享年76歳)が夢に出てくることを明かし、「『すまねえ、手を貸してくれ』と言われたけど、手を振り払いたいと思います」。

 落語立川流の顧問で、イラストレーターの山藤章二さんは「気にくわないことばかり言われ、大嫌いなはずが大好きになってしまう、空前絶後の男です」とあいさつした。
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「爆笑」太田、ファンに戻った…立川談志さん「お別れの会」
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談志さんの思い出を語る爆笑問題(右は太田光、左は田中裕二)
 お笑いコンビの爆笑問題は、テレビの生放送を終えて会場に駆けつけた。
談志さんが「俺の隠し子」と話し、才能を認めていた太田光(46)は「もともと雲の上の人。
ファンだった時に戻った感じ。いままでのことが夢のようです」。
田中裕二(46)は、落語に限らず抱負な知識を持つ談志さんを「Yahoo!みたい」と表現した。
また、映画デビュー作「バカヤロー!2 幸せになりたい。」(1989年)の製作総指揮・脚本を手がけた森田芳光監督の訃報も飛び込み、2人は「残念です」と声をそろえていた。

毒蝮三太夫「オレのプロデューサー」名付け親の談志さんをしのぶ
 毒蝮は、命日から1ヶ月後の『お別れの会』にまだ実感が沸かないといった様子で
「やっぱりあいつはすげえ奴と、日に日に思う。
今年は大きな独裁者が亡くなってるけど、あいつも独裁者の仲間入りなのかな」としょんぼり。
58年の腐れ縁とあって、毒蝮は「天才と称されて、彼は演じてた部分があったと思う」と談志さんの葛藤に迫り「闘病で奥さんたちに本当の自分を見せれたんじゃない? 75歳にして、1番楽になったんじゃないかな」。今後は毒蝮が友の功績を伝えていくと使命感をあらわにし「呼びにくるなよ!」と天を見上げて語りかけていた。
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芸名の名付け親でもある立川談志さんとの思い出を語った毒蝮三太夫
 21日に喉頭がんのため亡くなった、落語家の立川談志さん(享年75歳)と半世紀以上の交流があるタレントの毒蝮三太夫(75)が24日、スポーツ報知の取材に応えた。
芸名の名付け親でもある談志さんは「親友ならぬ“深友”と言ってくれていた。自分のプロデューサーのようなもの」。
早過ぎる死に無念さを感じながらも「悔いのない人生を送ったんじゃないかと思う」としのんだ。
 学生時代に知人の紹介で知り合ってから、58年にわたる付き合い。
お互いを知り尽くしている談志さんの死が明らかになった23日は無言を貫いた毒蝮が、思いの丈を吐露した。
 死を聞かされたのは、23日の午後2時頃。密葬にも参列せず、最後のお別れをしないまま、荼毘(だび)に付されたという。
「最後に会ったのは半年くらい前。その後も、奥さんから聞いて、(体調が)悪いことを聞いていた。残念だけど、『老いさらばえた彼なら、もういなくていいよ』という感じだね」。
心を許しあった同年齢の友だからこそ言える、やや乱暴な言葉で悔やんだ。
 本名の「石井伊吉」の名前で俳優として活動をしていた毒蝮を、自らが企画・初代司会を務めた日テレ系「笑点」に誘い、その後に改名を勧めた談志さん。
「『オマエは俳優よりも話をする方が向いてる』と7、8年かかって説得された。『毒蝮』って名前も、最初は恥ずかしくて女房や母にも言えなかった。
でも、アイツは分かっていたんだな。オレが俳優としてはダメだってことを」と振り返った。
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歌謡曲を吹き込む立川談志さん(右)と毒蝮三太夫(1967年)
 その後、毒蝮はタレントとして成功。
「アイツがいなかったら、今のオレはなかったわけだからね。自分のプロデューサーみたいなもんですよ。アイツも『オマエはオレの最高傑作だ』って言ってたけどね」。
周囲が「家元」「談志さん」と呼ぶ中、唯一「オイ!」「オマエ」と呼び合う談志さんに感謝の言葉を贈った。
 談志さんは生前、毒蝮のことを親友ならぬ“深友”と言っていたという。
「人間だったら、死ぬのは当然。談志は寿命だったんだと思いたい。オレは今のところ元気だから、寿命を全うするまで生きるしかないね」。
友である談志さんの分まで今後も活躍を続けることを誓っていた。
 ◆毒蝮 三太夫(どくまむし・さんだゆう)1936年3月31日、大阪府生まれ。75歳。48年に児童劇団に入り、60年代半ばまで本名・石井伊吉で俳優として活動。66年「ウルトラマン」のアラシ隊員役、67年「ウルトラセブン」のフルハシ隊員役で人気に。同年「笑点」に2代目座布団運びとして登場。68年に現芸名に改名し、ラジオパーソナリティーとして活躍中。

談志はかつて「芸人がいるから客が存在するんです。客がいるから芸人が存在するんじゃないんですよ」と言っていた。
テレビにはお笑い芸人と称する人がわんさと登場しているが、亡くなった後まで笑いを提供する本当の芸人は見当たらない。

「そんな戒名じゃ引き取れない」立川談志お寺に断られた!
2011/12/22 13:22
1か月前(2011年11月21日)に亡くなった落語家・立川談志のお別れ会がきのう21日に東京都内のホテルで行われた。
芸能界や各界の著名人約1000人が参列した。
談志は生前、「落語家の弔いに行って本気に泣く馬鹿がいる。みんなで笑うことがはなむけなんだ」と言っていたといい、ジャズが流れ、三本締めで終わるという何とも賑やかなお別れの会となった。

お別れの会に1000人「ひと月に独裁者が2人も死んだ」
談志師匠を送るのだから弔辞もスピーチも型通りというわけにはいかない。

石原慎太郎都知事の弔辞は「あの世でまたいつか会えるんだろうから、それまで死んでも元気でいてくれ。あばよ」。
爆笑問題の太田光は「僕にとっては将軍様みたいなものですから」。
ダンカンは「この1か月の間に独裁者が2人も亡くなった。偉大なる談志師匠様…と、どっかの国みたいな」

生前の師匠について、笑福亭鶴瓶は「(談志を)笑わせたら祝儀やるよって、くれはったのが三枝兄さん見舞金だったんですよ」。
中村勘三郎は「わけの分からない褒め方をするんだよね。『よかったよ今日のはね、4次元だ』」。
上岡龍太郎は「黒澤明、手塚治虫、岡本太郎らと並んで、500年たっても生き続ける天才」と、その落語家らしい生き方と才能を偲んだ。

「立川雲黒斎家元勝手居士」ウンコ臭いはちょっと…
最後に三本締めの音頭をとった毒蝮三太夫は、「ビン・ラディンも死んだ。談志も死んだ。金正日も死んだ。あとフセインがいれば麻雀ができる。ところで、聞いたら、戒名がああいう戒名ですから、どこの寺も引き取ってくれないんだってな。本当らしいですよ」
戒名は自分が付けたという「立川雲黒斎家元勝手居士」。
番組にお別れ会の司会をした弟子の立川談笑が出演し、司会の小倉智昭が聞く。
「そんな戒名じゃあ、引き取れないって本当なの」
談笑「ええ、実話です。有名なお寺で、目の前に師匠とゆかりのある方がいらっしゃるという抜群のところだったのですが、そんな戒名付けるんだったらだめだということで、この話はなかったことにしてくださいと」
では、どうするんだろう。死んでからも人騒がせなこと、いかにも談志らしい。


【平蔵の独り言】
談志さんの思い出を語る上岡龍太郎氏
1961年に故横山ノックさんと一緒に都内の喫茶店にいたところに談志さんが声をかけたのが、出会いだったという。
「柳家小ゑんです。好きな人とは友達になる主義なので」とあいさつされ、以来、長い付き合いが始まった。

落語家の立川談志さん(享年75歳)と半世紀以上の交流があるタレントの毒蝮三太夫(75)が、
芸名の名付け親でもある談志さんは「親友ならぬ“深友”と言ってくれていた。自分のプロデューサーのようなもの」。
早過ぎる死に無念さを感じながらも「悔いのない人生を送ったんじゃないかと思う」としのんだ。
 学生時代に知人の紹介で知り合ってから、58年にわたる付き合い。お互いを知り尽くしている談志さんの死が明らかになった23日は無言を貫いた毒蝮が、思いの丈を吐露した。
 死を聞かされたのは、23日の午後2時頃。密葬にも参列せず、最後のお別れをしないまま、荼毘(だび)に付されたという。
「最後に会ったのは半年くらい前。その後も、奥さんから聞いて、(体調が)悪いことを聞いていた。残念だけど、『老いさらばえた彼なら、もういなくていいよ』という感じだね」。
心を許しあった同年齢の友だからこそ言える、やや乱暴な言葉で悔やんだ。

人間が好きで好きで、
大切にして目立たぬように・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2011-12-25 14:25 | 人間模様 | Comments(0)

[市川森一] 作品には毒もあって、本当に魅力的な方。(役所広司)   

2011年 12月 16日

作品には毒もあって、本当に魅力的な方。

テレビの黄金時代に活躍した脚本家の市川森一(いちかわ・しんいち)さん
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「作品には毒もあって、本当に魅力的な方。
作家として、大好きでした。近いうちに長崎の歴史など、いろいろと話を伺いたかったんですが…。今もまだ、(亡くなったことが)信じられません」
 俳優と脚本家、立場が異なるため、直接的なアドバイスなどはなかったが
「大昔に『俳優は主演でも脇役でも、全員が勝負しないといけないんだ』と言われたことを覚えていますね」。
今も、その言葉を胸に作品への出演を続けている。
俳優の役所広司
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(2011年12月15日 読売新聞)
 「テレビドラマは脚本から始まる。当時のテレビ界では『脚本家の時代』と言われており、向田邦子賞の創設はその象徴となった。
脚本家に贈られる賞は初めてだったので、特にうれしかった」

 1982年、社会問題化していた消費者金融と、大衆演劇の一座という意表を突いた組み合わせによる西田敏行主演のコメディー『淋(さび)しいのはお前だけじゃない』(TBS)で、第1回向田賞に輝いた。
市川森一さんは向田、山田太一、倉本聰さんらに続く世代の代表格として、個性的で、多彩な作品を書き続けた。


(2011年12月13日01時25分 読売新聞 「編集手帳」)
◆ 多重債務の泥沼に首まで漬かったサラリーマンがいる。主婦がいる。
職を失い、家庭も壊れた。
互いに見ず知らずの彼らが大衆演劇の一座を旗揚げし、借金を返済しながら新しい人生を探していく…
◆市川森一さん脚本の『淋(さび)しいのはお前だけじゃない』(TBS、1982年)である。
奇抜な設定のなかに視聴者を遊ばせ、人間の営みがもつ哀(かな)しさ、たくましさを透かし彫りに描き出す。市川ドラマの真骨頂だろう
◆歳末恒例「今年の漢字」は〈絆〉だという。市川さんであれば、絆という言葉を用いることなく、これぞ絆のドラマを書いてくれただろうに――と、円熟期の急逝が惜しまれてならない

(2011年12月21日)
市川森一さん人間って、弱いところもずるいところもあっていいんだよ!

「去りゆく記」と題して送信したメールの冒頭部分「ふりかえれば虹。思い浮かぶ顔はみんな笑顔。なんて素敵な人間たちと出会ってきたのだろう。どの顔も、みんな私の人生の宝だ。」


【平蔵の独り言】

人間の営みがもつ哀(かな)しさ、たくましさを透かし彫りに描き出す。
市川ドラマの真骨頂だろう
この言葉に向田作品、談志「落語」、と同じ
欠点だらけの人の心を掴んで離さないものがあるのか。

談志さんがよく語った「まア、ゆっくり生きろや」

ですね!
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by asanogawa-garou | 2011-12-16 16:14 | 人間模様 | Comments(0)

[立川談志]【陰徳】の落語家「落語とは人間の業の肯定である」   

2011年 12月 07日
「落語とは人間の業の肯定である」
存在感のある落語家「五代目立川談志」さんが
「笑点」開始以前からの「悪友」五代目園楽さん(談志さんは「嫌い」といっていたが)の後を追って、11月21日旅立ってしまった。

人間は、わがままで、矛盾して、見栄張りで、騒々しくて、強欲で、残酷で、
短絡的で、涙もろくて、怒りやすくて、嘘つきで、おせっかいで、
情にあつくて、無知で、傲慢で、厄介な、
たくさんの業(ごう)を抱えて、昔々から生きている。

人間が否応なく背負って生まれ、
善悪こもごもの生を生きているうちに積み重ねている〈生きた証〉です。
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常に世間の注目を集め続けた風雲児
毎日新聞 2011年11月23日 20時38分(最終更新 11月25日 9時16分)
 落語のみならず多彩に活躍した立川談志さんが、21日亡くなった。
破天荒な言動、世相を鋭く斬る毒舌で、
常に世間の注目を集め続けた風雲児だった。
 早くから“天才”として注目され、二つ目時代の1962年、テレビ番組「歌まね読本」(TBS系)の司会に抜てきされるなど、マスコミの花形となった。
63年、五代目談志襲名で、同年代の古今亭志ん朝(故人)らとともに「四天王」と称された。
 自身の高座を見て「こいつうまいんじゃないかと思った」といった自信にあふれた発言も、実力に裏付けられ周囲を納得させた。
一方で、登場人物の心理描写は繊細を極め、07年12月の高座で演じた、酒飲みの夫を妻が立ち直らせる人情ばなし「芝浜」は、自ら「芸術の神が舞い降りた」と語るほどの名演となった。
 83年、落語立川流を創設したのは、弟子が真打ちに昇進できなかったことがきっかけ。
自身が家元となって昇進試験を実施した。
弟子を素人のAコース、著名人・文化人のBコースに分けるなど、独自の制度を考案した。Bコースには、ビートたけしさん、高田文夫さんら、著名人が名を連ねた。

江戸落語界の型破りな救世主、風のごとく雲のごとく去っていった「この辺でハイ終わり」   週刊現代:12月10日号
努力とは馬鹿に与えた夢
学問とは貧乏人の暇つぶし
未来とは修正できると思っている過去

天才は嫌われ、そして誤解される

「毒舌」といわれるけど、そういう形容は一部しか見ていない人のいうことです。
本当はとっても紳士で、優しく繊細な人だった。
談志を知る人たちはよくわかっていました。


「繊細で人情の分かる人」交流のあった人々 
 毎日jp
老舗寄席「新宿末廣亭」の北村幾夫・前社長(63)は「同じ話でも談志さんと他の落語家がやるのでは、切り口が違っていた。談志さんはどこまでも本音を突き詰めた人。建前だけの人間や組織を許せない姿勢が魅力だった」と振り返る。高座に上がらなくなった近年もトイレを借りたいなどと訪れることがあったといい「粗野なイメージがあるが、繊細で人情の分かる人。だからこそ、弟子やファンも多かったのでしょう」と話した。

弟子のビートたけし「あの人には頭が上がらない」
 毎日jp
談志さんが83年に創設した団体「落語立川流」に入門、「立川錦之助」の高座名を持つ。談志さんがたけしに対して語ったVTRを見て「あの人には頭が上がらない。ツービートのころ、あの人は照れ屋で言わないけど“おまえら売れる”って言ってくれたんだ」と秘話を紹介した。

密葬知らず…志の輔「最後までダンディズム」

高座が終わった際、一番深く頭を下げていることや
「マスコミは『談志、客とケンカ』ばっかりじゃないですか。
本当は誰よりも気を使い、お客さんに感謝してるんです」

 「家族の方のみで荼毘に付されたと、先ほど聞きました。
最後の最後まで師匠らしい。自分の良しとしない姿は弟子どもに見せてなるものか、というダンディズムですかね」

 都内で師匠の訃報を知った弟子の立川志の輔(57)は、こう語り唇を噛んだ。最後に会ったのは8月。
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談志さん、ゼッタイ放送できない“遺言”“戒名”凄い中身
イザ!2011.11.24
 談志さんが生前、自分で決めていた戒名もふるっている。
 立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわ・うんこくさいいえもと・かってこじ)。

 エロと下ネタ。あえて禁じ手で締めくくった。
「オレが死んでも、この2つはテレビじゃ言えねえだろ」と、したり顔の談志さんが目に浮かぶ。

「落語論:立川談志著」
人間なんてヤツは良いヤツもいれば悪いヤツもいる。
そして自分が良いヤツになるときもあり、悪いヤツになるときもある。
それを全てひっくるめて人間ってヤツは存在する。

良いも悪いも全て受け入れてやらなきゃ人間社会なんて成り立たねぇ。
人間が背負う「業」を肯定しなきゃ人生なんて過ごせねぇ。

それを落語は日常のさもないことを物語として語るものなんだと。
善も悪が多いにある、でも絶対に正しいと間違っているっていうのはねぇんだと。
落語の本質に勧善懲悪はない。

そんな感覚で落語を聴くと無茶苦茶面白く、人間の人生って悪くねぇなって思わせてくれた。

人の面白さ、つまらなさ、辛さ、楽しさを、人生の意味の無さを、
生きているから意味があるということを教えてくれたことに感謝。

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欠点だらけの人間の生きざまを描くのが本質として
「落語とは人間の業(ごう)の肯定」と唱え、卓越した心理描写で語る「芝浜」や「紺屋高尾」などの人情ばなしを得意ネタとした。

・「先へ、次へと何かをつかもうとする人生を歩まない奴もいる。俺はそれを否定しない。芸人としての姿勢を考えれば正しいとは思わんがな。つつがなく生きる、ということに一生を費やすことを間違いだと誰が云えるんだ」
「やるなと云っても、やる奴はやる。やれと云ったところでやらん奴はやらん」
 弟子を集めて談志はよくこう語る。そして最後につけ加える。
「まア、ゆっくり生きろ」

弟子と一緒にある定食屋に入った。
そこはひじょうに高い割にはまずくて、談志は不機嫌になってしまった。
しかしその店の亭主は気が利かず、談志に色紙を書いてほしいと頼みに来た。
談志は何と書いたのだろうか。
「○○して食え」

答え:「『我慢』して食え」
 色紙というのは次のお客に伝える言葉だ。
だから頼まれれば、店をほめる場合が多い。
嘘でも「おいしかったです。○○さん」とか「ぜひ食べてみて」とか書くだろう。
だが談志の「我慢して食え」はすごい。
 だが「我慢して食え」は「まずい」とか「こんなまずいものは食べたことがない」と書かない。
それだと厭味になってしまい、笑えない。
「我慢して食え」は談志自身が俺だって我慢して食べたんだから、
おまえも我慢して食べろよという意味がこめられていて、愛嬌がある。
 しかも、他の客に対して「食え」と命令しているところが面白い。
色紙ではあまり見たことがないコメントだ。
ふつうは命令されたら嫌だが、談志なら許されてしまう。
そういう芸の域に達しているということだ。
 談志さんは、物事の「本質」を求め続けてきた人だと思います。
 そして、厳しい言葉を口にしながら、自分自身への「照れ」や他者への「優しさ」を隠しきることができなかった人でもありました。
 

談志さんが自らの半生を語った『人生、成り行き』
(毎日jp)

三枝 号泣「ウソと…」襲名を唯一相談
 来年7月に六代目桂文枝を襲名するが、襲名を唯一相談したのが談志さんだった。
入院中の談志に面会し
「やめとけ。三枝を大きくしたんだから、このまま続けろ」と猛反対されたが、
後日、襲名を人づてに聞いた談志から「人生なりゆき。仕方がない。勝手にしろ」などと記された“激励”ファクスが届いた。
 この日は「襲名披露興行で口上に並んでいただきたかったのに、それもできなくなってしまった」と大粒の涙。昨年11月、大阪で落語家の桂米朝らと会食したのが最後の対面となった。
学生時代に京都で談志さんの落語を聞いて以来、ずっとあこがれの存在だった。
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談志さん 10月20日に“最後の文書”

 談志さんが最後に遺したとみられる筆談メモ

(「見舞いに来ましたがねてましたので失礼します 立川談志」と読める)
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 都内にある談志さんの自宅マンション1階にある酒店の店員で、30年来かわいがられたという吉田武彦さん(38)は、10月中旬に病院を見舞ったのが最後の対面となったという。病床での談志さんについて、「もともと細かったけど、より(顔が)こけてしまっていた」と振り返った。

 声が出せない談志さんは、吉田さんを見ると手を上げたという。「ちゃんと会話をしたのは1年くらい前になる。最近は意識はしっかりしているが声が出ず、筆談をしていました」と明かした。

 また、談志さんは10月20日の午後、同じ病院に入院していた吉田さんの父親宛てに、「見舞いに来ましたがねてましたので失礼します」と読みとれる震えたメモを残していた。談志さんの親族によると、これが最後の文書になるという。

 談志さんは3年ほど前に「疲れるから」と酒をやめたが、手紙の投かんなどで店の前を通るたびに訪れ、大好きなNBAの話などをしていたという。子ども時代から家族ぐるみの付き合いだった吉田さんは「病気を乗り越えられないことは、本人も相当落ちていたと思うが、ああいうタイプだからごまかしていたと思う。悲しいが、来るべき時が来たという思いです」と寂しそうに話した。

談志さんありがとう、40年来ぼさぼさ頭担当の美容師惜しむ/相模原
(神奈川新聞2011年11月25日)
 88年に都内から妻美世子さんの実家のある相模原市に移っても、一人で電車に乗って通ってくれた。車で弟子に送ってもらえばと聞くと「世間の人たちと顔を合わせて、同じ空気を吸いたいんだ」と答えた。

 最後に訪れたのは、ことし6月。「今日行くよ」と電話の声がかすれ、おかしいと思った。亡くなった母のことなど、昔話ばかりを懐かしむように話した。元気がなく写真を撮るのもためらわれ、美世子さんと「お別れのあいさつみたいだね」と心配になった。

 23日に訃報の連絡が入ったのは、そろそろ髪も伸びてきただろうと思っていたころだった。驚きのあまり、涙も出なかった。「強い人には強く出るが、一般の人には優しい。誤解されることもあったが、談志さんらしい生き方だった」と希代の名人に感謝した。

立川談志さん死去 県内から惜しむ声

「龍~なが」長崎新聞11月24日のながさきニュース]
「毒舌の裏に秘めた優しさ垣間見た」 
立川談志さんは、本県にも度々来ており、親交のあった人たちから死を惜しむ声が聞かれた。

 43人が犠牲になった1991年6月3日の雲仙・普賢岳大火砕流惨事から1カ月後の7月、
立川さんは一門の落語家約10人を引き連れ島原を訪問。
島原市や旧南高深江町の避難所で「無料寄席」を開き、住民を励ました。

 噴火災害前から親交があった島原文化連盟副会長で護国寺(同市寺町)住職の岩永泰賢さん(63)は

「口は荒っぽいが、あれは照れ隠し。サービス精神が旺盛で、本当に心の温かい人だった」と振り返る。
「今年の暑中見舞いに力のない字で『もう会えないでしょう』と書かれてあり、心配していた。
残念の一語」と惜しんだ。

 東彼川棚町の大衆宴会場経営、田中正秀さん(63)は30年来の付き合い。佐賀県唐津市に用があったのに、長崎空港で降りてヒョッコリ顔を出し、「道に迷った」などとぼけたこともあったという。東彼杵町の龍頭泉に泊まることも多く、母親を連れてきて、優しく手を引いていたのが印象的だったという。

 「星空やホタルなど自然を好む一面もあった。毒舌の裏に秘めた優しさを垣間見ることがよくあった。それがあったから人に受け入れられていたと思う」と話した。


前落語協会会長の5代目・鈴々舎馬風
・前落語協会会長の5代目・鈴々舎馬風は、談志さんをこう評したことがあった。
「天才が勉強するんだからかなわない」

中日春秋(2011/11/24)

 昔、ある寄席の大喜利で客席に「なぞかけ」のお題を聞いたら、出たのが、「葬儀屋」。難題に、みな首をひねる中、一人の若い噺家(はなしか)がさっと手を挙げた
▼「葬儀屋とかけまして、ウグイスと解く」「その心は」「なくなくうめにゆく」。無粋ながら、泣くと鳴く、「埋め」と梅が掛かっている。その場にいた柳家小三治さんが、後年、「なぞかけの名作」と称(たた)えていた。その噺家とは後の立川談志さんである
▼あの「忠臣蔵」では、赤穂藩三百人の家来のうち、討ち入ったのは四十七人だけ。逃げちゃったほかのやつらは比べられてつらい思いしたはずだ。落語はね、この逃げちゃったやつらが主人公なんだ…。かつて弟子の談春さんに語った話という
▼談志さんの有名な定義、「落語とは人間の業の肯定である」が重なる。残念だが、きのう、訃報が伝えられた。天才落語家、いや全身落語家の死というべきか。現代落語の大事な部分が欠けたような思いさえする
▼病に苦しんだ晩年、声が出ず、弟子らの出演でしのいだ落語会でのことだ。途中、舞台に出てきて客にわび、出せない声、独特の言い回しで心の内をさらした。曰(いわ)く、俺は談志に聞かせるために落語をやってきた。でも最近、その談志がいない…
▼そして、天を仰ぎ涙声で叫んだ。「談志ぃ、どこ行っちゃったんだよぉ」。あのしゃがれ声が耳を離れない。


故立川談志さんと20年近い親交 「かぶき村」三咲さん
下野新聞(11月25日 朝刊)
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立川談志さんは、塩谷町船生の「芝居茶屋・船生かぶき村」初代座長の三咲てつやさん(67)と20年近い親交があった。
三咲さんが談志さんの口演に出演したり談志さんが弟子を「かぶき村」に預けたり。
「先がないと分かっていたが、訃報を知り、こらえきれず泣いた」とうつむく三咲さん。
「繊細で気配りのある優しい人。
世襲が嫌いで、誰にでも門戸を開いている大衆芸能、そして『かぶき村』を愛してくれた」と人柄をしのんだ。
 「最後に会ったのは昨年12月、都内の浅草公会堂で行われた旅役者全国座長会大会。
体調が悪かったのか、芝居を見ずにあいさつだけで帰った」という。
「手紙のやりとりで徐々に字が衰えていくのが分かったが、今年1月の電話では元気な声で、弱みを見せない談志さんらしかった」と振り返る。
 談志さんとの出会いは1992年の全国座長大会。
ほんの1、2分の出演だった三咲さんの芸にほれ、楽屋を訪ねて来て「友達になってくれ」。
そこから付き合いが始まったという。
三咲さんは「大勢の役者がいる中、ちょい役の私を選んでくれたことに驚きました」と話す。
 ビートたけしさんや中村勘三郎さんなどが出演した95年の「談志五夜」へのゲスト出演依頼を受けたこともある。
 「北海道公演のため出演できなかった。談志さんが私を売り出してやろうとの思いに応えられなかったのが、今でも残念」。三咲さんはしんみり振り返った。

【平蔵の独り言】
[談志]さんがたくさんの人に【陰徳】と思えることがこんなにあることを知った。
「繊細で人情の分かる人」

[談志]さんの言葉に
「努力とはバカに与えた夢である」
がある。

「天才が勉強するんだからかなわない」
努力するしか、ないですね!
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by asanogawa-garou | 2011-12-07 17:10 | 人間模様 | Comments(0)