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向田邦子の世界〔家族の原像を求めて〕   

2012年 01月 23日
向田邦子の世界〔家族の原像を求めて〕
【向田邦子の世界】
昭和56年8月22日、向田邦子さんは飛行機事故で、51歳の生涯を閉じた。
後に残されたテレビ・ドラマの脚本、エッセイ、小説などのさまざまな作品は、
今なお多くの人々に読み継がれ、感動を起こし生きる励みを与えている。
向田作品では、家族が重要なテーマの一つとして描かれている。
そこには、私たちが見失ってしまった「家族」の姿がある。
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〔向田和子〕
わが家族には、黙って見守ってくれる温かさがあった。
向田さんの作品は、今でも根強い人気があります。
その理由はなんだと思われますか?
「きっと、多くの人々が昔の家族にあった、黙っていてもわかり合える絆を求めているからではないでしょうか。
私、人間はいつの時代でも、そんなに変わらないと思うんです。
心はあまり変わっていません。
姉は『絶対』という言葉を安易に使うと怒りました。
『この世の中に「絶対」なんてないのよ。
簡単に「絶対」って言葉を使わないでちょうだい』きっと人間がどのようにでも変わり得ることを信じていたんだと思います」

〔平原日出夫〕
家族が求められている時代

向田邦子の生涯をたどって

絶頂期であった45歳の昭和50年10月、乳がん手術のために入院。三週間の入院生活を送るが、その時の輸血が原因で血清肝炎となり一時右手が動かなくなる。

そんな時、雑誌「銀座百点」から連載エッセイの執筆を依頼された。
「このエッセイが後年、『父の詫び状』にまとめられました。」
向田さんは連載を引き受けた時の心境を、本のあとがきに次のように書いています。
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――その頃、私はあまり長く生きられないのではないかと思っていた。
考えた末に、書かせて戴くことにした。
ゆっくり書けば左手で書けないことはない。
こういう時にどんなものが書けるか、自分をためしてみたかった。
気張っていえば、誰に宛てるともつかない、
のんきな遺言状を書いて置こうかな、という気持ちもどこかにあった――

さらりと書いているようだけど、
向田さんの暗くつきつめた思いが込められています。
死の影の下で、家族や自分の半生を振り返り、
そこに揺曳(ようえい)する家族の映像をエッセイとして綴ることで自分のアイデンティティーを確かめたかったのでしょう。
これを境に向田さんは、喜劇調のほのぼのしたホームドラマ作家から、
家族解体の危機をはらんだ家族・人間をより深いところで描くシリアスドラマ作家、小説家へと脱皮していったのです。

それ以後、「冬の運動会」「阿修羅のごとく」「あ・うん」と次々にシリアスドラマの秀作を生み出した。
そして、55年「小説新潮」に連載した『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』の連作で、第83回直木賞を受け、小説家としてデビューしたのである。


その矢先の56年夏、飛行機事故に遭って亡くなった。享年51だった。
「神の啓示のように不意に訪れた乳がんという病が転機になって、向田さんの作風が大きく変わっていきます。それでも家族や父は、生涯を通しての重要なテーマに変わりませんでした」

私たちは誰もが、自分の時代の幅でしか生きることができません。
向田さんの描いた家族は、昭和初期から戦後のある時期まで確かに日本に存在していた家族だったのです。だが、今にそれをそのまま求めても空しいことです。


〔鴨下信一〕
家族は、父の人間としての魅力を愛した
『寺内貫太郎一家』主人公の貫太郎は、頑固で融通が利かず、時に怒鳴り、怒ると手を上げる。かと思うと、情にほだされて涙にくれる。
かって日本にはこのような横暴な父を受け入れることができる家族がいた、ということです。
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【自らを律することのできるのが大人の男】
演出をしていた時、こんなことがありました。
寺内家の一人娘が、子連れの男を好きになって、結婚したいと言い出した。男は、先妻の子を連れて寺内家に挨拶に来ます。
貫太郎は、父親として許すことができない。
娘にはもっといい男と結婚して、幸福になって欲しいと望んでいる。
そんな時、その幼い子が、小さな指を突き立てプス、プスと障子のあちこちに穴を開けてしまう。
それを見つけた貫太郎は、どうするか?

――脚本には何も書かれていません。
私は、とっさに貫太郎にも同じように穴を開けさせることにしたのです。
子どもが細い指でプスと穴を開けると、
その隣で怖い顔をした貫太郎が太い指でブスと開ける。
二人並んで、プスッ、ブスッとやっている。
そういう演出をしたのです。

それを見た向田さんは、
「日本の父親はこうでなくちゃあ。あのシーン、思わず涙が出てきちゃったわ」
と言ってくれました。
貫太郎という人間の大きさを表現したかったんです。

確かに人間として〔大きい人〕とか〔大人の男〕が、最近少なくなりましたね。

大きな人間、大人の男とは何か?
それは一つ規範を持って生きる人間、自らを律することのできる人間ではないかと思うのです。
寺内貫太郎は、そんな人間の一人だったのです。

【平蔵の独り言1】
『寺内貫太郎一家』寺内家の一人娘が、子連れの男を好きになって、
結婚したいと言い出した。
一人娘が 梶芽衣子 と記憶している。
向田邦子がこの時の演出をこのように言っていたのは、
人の温もり、家族の繋がりに対する思いですかね。
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《友人から見た向田邦子》
〔植田いつ子〕
気持ちを察して、さり気なく励ましてくれた
【距離を保った温かさ】

作品の中で、さまざまな家庭像を描いた向田邦子さん本人は、自分の家族を持つことはなかった。
だが、三匹のネコとの生活、親しい友人たちとの付き合いには、
家族の絆に近い、温かで思いやりの深い交流があった。

初めて向田邦子さんとお目にかかって4年ほどして私は離婚し、
一人暮らしをすることになかったのです。
すると年の暮れに電話がかかってきて、
「こっちにいらっしゃい、一緒に年を越しましょうよ」
とマンションに誘ってくれたのです。

向田さんは決して他人の心中に土足で入るようなことはなさらない方です。
何一つ尋ねず、黙っている私の傷をそっと包み込んでくださったのです。
そういう極限状態にある時、向田さんの優しさは、私の身にしみました。
そんな人なのでしょうね。
あの方の鋭い感性は、反射的に人の心を読み取り、
何がその人に必要かいち速く察しながら、そ知らぬ振りをして優しい心づかいを見せる。
そんな人なのでしょう。


風邪をこじらせて、一人暮らしのマンションで寝込んでいた時、
向田さんから電話がありました。
「あと15分ほどしたら行くから、マンションのドアを開けておいてちょうだい。食べるものを投げ込んでおくから…」
ぴったり15分後、ドアの辺りで物音がしたので、起きて行くと、
すでにそこには向田さんの姿はなく、心尽くしのご飯やスープが、
手紙を添えて上がり框に置いてあったんです。


普通なら、
「どお?大丈夫?」
などと言ってお見舞いに来ますね。
ところが向田さんはそうじゃない。
無造作を装いながら気を配るのです。
寝間着姿のやつれた顔を見られるのはイヤだろうと、
顔を会わせずにさっさと出ていったんですね。
人との付き合いで大切なのは、
相手の気持ちを読みとる洞察力だと思いますが、
向田さんは、今、その人には何が必要なのかを感じ取り、
さり気なく手を差し伸べてくれる。
それが大仰でないところが本当に素敵でした。

【(甘噛み)のような軽口の魅力】
向田さんは世話焼きで、面倒見がいいので、
いつもご馳走になっているから、たまには私が招待すると言うと、
「いつ子さんが私を招いてくれるの?
やめとくわ。私が材料を全部買って、エプロンまで持って行かなきゃならないから、
結局同じことじゃない。ここで食べなさい」
と言い含められてしまう。
よく動物が(甘噛み)をしますね。じゃれ合って、そっと噛みつく。
向田さんも、わざとキツイことを言って、
相手を傷つけずにスレスレのところで遊び。
そんな(甘噛み)の感覚で付き合ってくれたような気がします。

【照れ屋の美学を貫く・・・・・・含羞の人】
言いにくいこともはっきりとものを言う向田さんですが、
温かさに裏打ちされていたので、私は安心してその気持ちに甘えていたのでしょうか……。
他人の孤独や寂しさには人一倍敏感な向田さんは、
自分のこととなるとストレートに表現することができません。
底知れぬ人間の孤独と哀しさを見つめる儗視めた向田さんのことです。
ほとんどわからないように婉曲な表現で己を語るような語らぬような……、そんなところがありました。
向田さんの生き方には「含羞の美学」と呼べるようなものが貫かれてに、私は思います。

《向田邦子と作品の魅力》
〔澤地久枝〕
「孤独」と健気さ
向田さんが突然去って、ひどく長い時間が過ぎたようでもあり、また不意に低い声で
「ムコウダです。いま、ちょっといい?」
と電話がかかってきそうな感じもある。

なんと実在感のある人だったのだろう。
いつまでも薄れないあの人の魅力とはなんだろうか。
「江戸っ子」といいたい、気っぷのいい、さっぱりした人だった。
こまやかに気を使い、気を使っていることが相手に伝わらないように、心くばりをしつづける人でもあった。
世話好きで、労を惜しまなかった。
流行の先端をいつも確実につかんでいて、その収穫を嬉しそうに友人たちにわける人だった。

青山通りや六本木通りを一人で歩いているとき、向田さんは日頃は見せない暗く孤独な雰囲気をただよわせていた。
行きずりのタクシーの中からそういう彼女の姿を見て、言葉をかけるのはためらわれた。
明るく振る舞いながら、人には見せない孤独な暗部を心にひめていたのだと思う。

初めて小説を書いた『思い出トランプ』連載中、
「どうして暗い話ばかり書くの?」と訊ねた。
「わたし、暗いのよ」
と呟いた眼も忘れられない。
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その「暗さ」が彼女の小説を書かせ、今も多くの読者の心を引きつけているのだと思う。
人間とはしょせん、孤独で寂しい存在なのだ。

「昭和」と呼ばれる時代を生きた「総領の長女」の、強さ涙もろさ、健気さ。
今では忘れ去られつつある女たちの人生が、向田さんの世界にはある。
早世していつまでもなつかしまれるより、もっと長く生きてほしかった。
でも、彼女の人生の美学を感じもする。

〔小林亜星〕
『寺内貫太郎一家』の主人公・貫太郎の役に僕が候補にのぼった時、
最初、向田さんは相当反対していたようです。

ところが、貫太郎に扮した僕を見ると、向田さんは
「あらっ、なかなかいいじゃない」
と言ってかなり気に入ってくれたそうです。

向田さんの作品を読むと、昔の山の手の家族や家庭をよく表現していることがわかります。
大正ロマンチシズム、教養主義の下に築かれた家庭であり、家族なんです。
そこには、かすかですが江戸庶民の生活の匂いが漂っている。
開国の混乱をなんとか乗り切った日本人が、文明開化を果たし、近代的な市民社会を築くことができた、新たな、日本人の家庭のモデルとなる規範が固まりつつある時代を描いていた。
向田さんは、その規範を重要なものと考え、大切にしていこうと思っていたのではないでしょうか。
というのも、その規範がやがて崩れてゆき、失われていくことを予感していたからなのでしょう。
向田さんは、飛行機事故で突然亡くなり、短い生涯を閉じました。
直木賞を受賞し、これからという時にです。
でも僕は、向田さんが亡くなったのは、今のような日本社会の姿を見たくないがために生き急いだのではないか、そう思えてならないのです。


《食から見た向田邦子》
〔塩田ミチル〕
味覚と人生を味わった(食いしん坊)
「おいしい物を見つけたから、送ってあげるわ」
しっちゅう電話がかかってきて、いろいろな物を贈ってくれるんです。
今でも強烈に覚えているのは、彼女にプレゼントをした時のことです。
いつもいただいてばかりでは悪いからと、包装紙に包んだお菓子をあげたんです。
すると一緒に乗ったタクシーで、すぐビリビリと包装紙を破りだしたんです。
何事かと、運転手もバックミラーで様子をうかがう。
でも向田さんは全く気にせず、お菓子を出して食べている。
おいしいとその包装紙を破いてとっておくんですね。


【食べ物の味と人生の味ーその一致がすばらしい】
家族と一緒に食べる喜びを知らなければ、大人になってから友人などと食べる喜び、
人生の味が抜け落ちてしまうのではないでしょうか。

清流 7(1998)
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【平蔵の独り言2】
人間が心に持っている〔無言の優しさ〕
・言葉に表さないで、黙って見守ってくれる。
黙ってやってくれる。分かり合える。

・以前、外出先で持病が出た時、見ず知らずの若いカップルに
「救急車を」と頼んだら、救急車が来るまでついていてくれた。
人間は皆、性善説と思っているが、
その【スイッチ】をオフにしたまま日頃は生きているのかとおもう。

初めて小説を書いた『思い出トランプ』連載中、
「どうして暗い話ばかり書くの?」と訊ねた。
「わたし、暗いのよ」
と呟いた眼も忘れられない。

向田邦子の「わたし、暗いのよ」
の言葉で、
高峰秀子も「私は本当は陰気な人間だよ」
を思い出した。


〔なんて暗い性格、気が小さい!〕
と、時たま感じながら過ごしているが、

自分の感性で、

まあ、出来ることをやろう!
(しかし、老いも忍び寄って出来るが少なくなってきているのかな)

あ・うん:「人生ってね‥‥、もっともっと、いいもんなんだよ」
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by asanogawa-garou | 2012-01-23 14:25 | 人間模様 | Comments(0)

[立川談志]やさしく、人間味豊かな談志   

2012年 01月 16日
人生は落語だ「立川談志」が残したもの

【俺はもう駄目、本当だ・・・】

【志の輔 遺志引き継ぐ…談志さん行きつけのバーで追悼会】
【立川談志さんが亡くなって、
いろんな人から「たけしはどう思ってるんだ」】

【「人生は落語だ~立川談志が残したもの~」】
「上手な談志も下手な談志も談志」すべてさらして生きた四六時中芸人

【きっと愚痴っているだろう。チェッ、ばれちまったか、天国で落語やるからいつか聴きに来いよ。】

【やさしく、人間味豊かな談志】
終わって楽屋で談志さんに「絶好調ですね」と言うと、
ソファで大仰に斜めにのけ反って倒れて、テレた。
 死後、「やさしく、人間味豊かな談志」という素顔が報じられる。
ご本人が知ったら、両手で頭を抱える得意のポーズで、
往年のフレーズ「ヤダネー」を連発してテレまくるだろう。


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【俺はもう駄目、本当だ・・・】
立川談志の時事放談「いや、はや、ドーモ」番外篇その三「最終回」
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2010年春、立川談志から電話がかかって来た。
「週刊現代で連載をやることになったんだけど、章二さん絵を描いてくんねぇかな」
「しんどいなぁ、最近、目はかすむし手はふるえるしで、以前の〔談志百選〕のような上手い絵はもう描けないんだ」
「何か描けるだろ」
「筆は使えないから、インクのスポイトで描いてみようか。ヘタで乱暴な絵になるけどいいかい」
「俺なんか平気で演ってるよ。客に言うんだよ、〈きょう来た客は幸運だ。ヘタな談志を見られたんだから自慢できるぞ〉ってな」
「すごいねぇ、そんな芸人、居なかったよ」
「俺ァ隠さねぇんだ。良くても悪くても(これが俺だ)っていう了見だからな。じゃ絵の方たのむよ」
―――こうして連載が始まった。

師匠お疲れさまでした。【章二】山藤章二

世に手造りという言葉が流行っていて、立川談志、手造りなのかネ。
社会が作ったのか、俺の手造りか。
今、この手造り、寝床の上で、喰い物は注射、のどを治すと称して実は喋れなくなってしまったし、何よりも自分で寝起きが出来ないのだから始末がワルイ。
人工的に唯生きている。
死にたいが、それも不可能なところは、少なくとも自然ぢゃあるまい。

俺はもう駄目、本当だ……。

〔週刊現代(2012)1月7・14日号〕立川談志の時事放談

【志の輔 遺志引き継ぐ…談志さん行きつけのバーで追悼会】
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時折天井を見上げながら立川談志さんとの思い出を話す立川志の輔
Photo By スポニチ
 愛弟子の立川志の輔(57)は8月の一門会の集まりで、声の出ない談志さんがホワイトボードに放送禁止用語を書いて、弟子を大笑いさせたというエピソードを明かし、師匠をしのんだ。

 「家族の方のみで荼毘(だび)に付されたと、先ほど聞きました。最後の最後まで師匠らしい。自分の良しとしない姿は弟子どもに見せてなるものか、というダンディズムだったんじゃないかな」と声を振り絞った。

 最後に会ったのは、今年8月に開かれた一門の会だった。声が出なかった談志さんは、ホワイトボードを用意。弟子はどんなアドバイスがもらえるのかと見守った。
しかし、談志さんが書いたのは、ボードからはみ出さんばかりの大きな文字の放送禁止用語だった。
「えっ、これを書くのかよ?って思いました。もうみんな大笑いでした」と話した。

 83年1月、29歳の時に「前座修業中もアルバイトが許される」という理由で弟子入り。
同年、定席寄席での前座修業が始まる直前、談志さんが一門とともに落語協会脱退。
修業時代は波乱の連続だったが、
「“バカヤロウ”って怒鳴っても、帰り際には“うまくやれよ”とニコリと笑いかけてくれた」という情の厚い師匠に付いていった。

 今後の立川流については「今はビジョンはありませんが、師匠が残していったものを思い起こして、一門で考えていきたい」と遺志は引き継いでいく決意。「天国から“オメエがしっかりしろ”と言われてる気が……師匠、お疲れさまでした」と目に涙をためた。会見後は、談志さんが行きつけだった銀座のバーで一門と追悼会。深夜すぎまで思い出を語り合った。

【立川談志さんが亡くなって、
いろんな人から「たけしはどう思ってるんだ」】

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あれほど「古典」というものを愛し続けた落語家はいないってことだね。
破天荒な生き方をしてみせたのだって「自分が世の中を振り向かせないと落語が盛り上がらない」って考えたからじゃないかと思うんでさ。
しかし75歳か。まだまだ若いよな。実をいうと、オイラは80歳、90歳になった「枯れた談志」ってのを見て見たかったんだよ。
体がキツくても「立川談志」であり続けようとするのは、オイラもそばで見ていて辛いなと思ったもん。

自分がしゃべったことによって、他人がどう思うか、どんな影響が出るかっていうことを、普段から意識してないからさ。
発言していいこと悪いことってのは、別に学校の勉強でならうわけじゃない。失敗と成功から自分で学んでいくしかないんだよ。

自分の一言に頭をフル回転させるんでね。
ビートたけしの21世紀毒談(週刊ポスト12/23)


【「人生は落語だ~立川談志が残したもの~」】

「上手な談志も下手な談志も談志」すべてさらして生きた四六時中芸人
【NHKクロ-ズアップ現代】
(2011年12月15日放送「人生は落語だ~立川談志が残したもの~」)

落語は人間の業の肯定である

「人間の業」
人間の弱さや愚かさを認めたうえでそうした人間らしさ描き出すのが落語

談志さんの「芝浜」の魅力は
女性の弱さや愛らしさをリアルに描いている。
・女性の観客が見て納得できる女性像を作ったのではないか。
・もしくは男性の眼から見て〔こういう女はかわいいな〕と思える女が出てくる。
単なる美談では飽きたらないし、落語はそもそも美談じゃない。
よく家元(談志)が言われる〔業〕の肯定ですよね。
男と女がそれぞれ勝手な夫婦
でもそこがかわいいんだ、人間は。みたいな!

破壊せよ!創造せよ!

立川志の輔さんは
〔たとえ非常識であっても人間らしく生きることを落語は肯定しています〕ということを、ずっと実践して〔落語と一致する人生を送りたいな〕と師匠はずっと言ってましたし、そこがたぶん 発信・行動・言動のベースだったとだんだん途中からわかってくる 僕ら弟子も、最初はそこまでわかりませんので

老いることは驚かないけど、老いて生きなきゃいけないことに対するおびえ、死ねないで生きていかなきゃいけないことへのおびえ
落語は人間の小ささを大切にする、始末の悪さ、愚かさをそのまま語る

こういう人間の業を肯定してしまうところに落語の物凄さがある!

談志の「芝浜」

「また違った「芝浜」がやれました。
良かったと思う。
こんなに出来る芸人を早く殺してしまってはもったいないような気もします。

楽屋に入ってまた反省というか振り返ってみます。
くどいようですが・・・・・・・
一期一会 いい夜をありがとうございました!」
―――――――――――――――――――――――――――――――

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「裏から見ろ、異論を唱えろ、多数派につくな、相手をびっくりさせろ」
来歴をなぞっても始まらない。

50年からのつきあいというイラストレーターの山藤章二氏が語った。
山藤:「久々に自分に納得している談志を見ました。いつも自分のできに不満なんです。自分への点は非常に辛かった。今日の芝浜をご覧の方の95%は感銘していると思います。たしかに、頂点を極めたとは思うが、長くつき合ってる私としては、率直にいいますと、『自分で照れてるんじゃない?』と突っ込みを入れたくなる」

キャスターの国谷弘子
「落語と一致した人生を送っていたいんだというのはどういうことなんでしょう」
山藤:「いろんな語録の中で『おのれを語れ』というのがある。おのれというのは、芸人の了見ということですね。四六時中芸人の了見でいるぞと言うことで、アウトローに足場がある。常識的に物事を考えるな、裏から見ろ、異論を唱えろ、多数派につくな、相手をびっくりさせろ。そんな彼の血の中にあることを弟子に叩き込んでいた」

週刊誌の連載の絵を描いてくれと電話で言ってきた。
たまたま目がかすむし手が震えるし、『上手い絵は描けないよ、下手くそで乱暴だよ』といったら、『自分の話が下手だったときは客にこう言うんだ。今日の客は幸せだぞ。上手い談志が下手くそになった時を見たと、自慢できる』と言うんです。
返す言葉がすごいんですね。毒もあるし、なるほどとも思うような返し言葉。励まされましたね。じゃあ下手でいいんだな、老いたら下手になるんだな、それをさらそうじゃないかと」


【きっと愚痴っているだろう。チェッ、ばれちまったか、天国で落語やるからいつか聴きに来いよ。】

気が弱くて、お人好し、欲張りだがしくじってばかりいる庶民を演じたら絶妙だった。なかでも、酒びたりの夫を妻が立ち直らせる「芝浜」は、しびれるほど、うまかった
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▼落語家の立川談志さんが、壮絶な闘病の末に亡くなった。
落語や落語界のあり方についての毒舌は、ときに物議を醸した。
真打ち制度をめぐって対立した落語協会から脱退し、独自に高座を持ちながら弟子を育てた
▼破天荒で突っ張った生きざまから、反逆児の異名をとった。
だが希代の落語家をそれだけで言い尽くせるとは思えない。
江戸時代に始まった落語を現代にどう生かせるかを探求し続けた人生ではなかったか
▼「落語とは人間の業(ごう)の肯定である」。談志さんの持論だ。
愛情や、ねたみ、欲望。
「知性でも理性でもどうにもならないもの、それらを肯定し寄席という空間で演じられてきたのが落語」だと自著「談志 最後の落語論」(梧桐書院)で書いた
▼談志落語に登場する人物は今を生きる人間のようにリアルだ。
古典落語に現代人の感性を吹き込み、弱い心を持つ人を温かく包み込むやさしさが根底にあったからだろう。
一方で尊大に振る舞う権威に歯向かった。そのギャップが魅力でもあった
▼訃報が明かされたのは2日後だった。自分で戒名を残し、好きだったディキシー音楽で葬送された。きっと愚痴っているだろう。チェッ、ばれちまったか、天国で落語やるからいつか聴きに来いよ。
[京都新聞 2011年11月25日掲載]

【やさしく、人間味豊かな談志】
終わって楽屋で談志さんに「絶好調ですね」と言うと、
ソファで大仰に斜めにのけ反って倒れて、テレた。
 死後、「やさしく、人間味豊かな談志」という素顔が報じられる。
ご本人が知ったら、両手で頭を抱える得意のポーズで、
往年のフレーズ「ヤダネー」を連発してテレまくるだろう。
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2007年3月16日、名古屋で「鉄拐」を披露した日の立川談志さん=鮫島弘樹撮影
 ◇古典落語で時空を操る
 落語立川流を率い、すてきな弟子を育て、日本の芸能である落語を21世紀に運んでくれた大立者だった。
 含羞の人だった。
 談志さんはずっと、古典落語の一席一席で時空を自在に操り続けた。
ここと思えば、またあちら。時も所も、あっちへ、こっちに。
芸談や解説も放り込む。縦横無尽、融通無碍(むげ)なダンシの国だった。
そうやって、古色蒼然(そうぜん)としがちな古典落語を、その味わいを残したまま、今に生きる私たちに届けてくれた。
 04年4月、神奈川県・横須賀での「ねずみ穴」。
火事で全てを失った商人の竹次郎が、兄から酷い仕打ちをうける。
それが夢だったとわかると、客席からホッとした笑いが起きた、
談志さんは、噺の途中にもかかわらず、客席に身を乗り出して「(夢とわかって)よかった?」。


 07年春、後に「伝説」と讃(たた)えられる「鉄拐(てっかい)」を名古屋で披露した翌日、静岡県掛川市で「笠碁」と「死神」を掛けた。
終わって楽屋で談志さんに「絶好調ですね」と言うと、ソファで大仰に斜めにのけ反って倒れて、テレた。
 死後、「やさしく、人間味豊かな談志」という素顔が報じられる。
ご本人が知ったら、両手で頭を抱える得意のポーズで、往年のフレーズ「ヤダネー」を連発してテレまくるだろう。
【毎日文化センター、宮崎准】
  ×  ×  ×
==============

【平蔵の独り言】
「人間の業」
人間の弱さや愚かさを認めたうえでそうした人間らしさ描き出すのが落語

老いることは驚かないけど、老いて生きなきゃいけないことに対するおびえ、
死ねないで生きていかなきゃいけないことへのおびえ
落語は人間の小ささを大切にする、始末の悪さ、愚かさをそのまま語る

 60代半ばの談志さんは、「立川談志遺言大全集6」(講談社)に
「まだ発展途上もいいとこで……、毎夜々々、落語に責められ、逃げられず、七転八倒の日々にある」と記した。
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老いて行くのを、認めて「生きていく」
でも、歳を取ったら少しは分別がつくのかなと思っていたけれど
「まだ発展途上もいいとこで……、」

全然成長していないですね!

さあ!前を向いて
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by asanogawa-garou | 2012-01-16 14:38 | 人間模様 | Comments(0)

今、やっておけば!やらなくてはならないことは。   

2012年 01月 07日

今、やっておけば!やらなくてはならないことは。


人間としての品を大切に、でもそんなことで人間変わる訳はないからね!
やっておくことをやらないでも、やっても【後悔】をしてると、


これが出来たら、あるいはやっていたら、
今の自分が違ってたんじゃなかろうかってことか?

あんまり変わってないと思うぞ。

そうやって後悔しつつ生きるのもいいんじゃないのか。

後から思うと足りない所が見えてくるけれど、
その時はその時で一生懸命やっていればいいんじゃないかな。

何のため、無理に言葉を探したり、理屈ずけしなくても!

ただ「ぼーっと」見ていてもいいんじゃないかな!

肩の力を抜いて!

【あの時、ああしなかったから今がある。つまり、ああしていたから、今がある】


【平蔵の独り言】
「あの時、ああしていたらよかったのに」

後悔の念で思うこと、日々あんなことを言わなければいいのに
で毎日が過ぎていくが、
まあ、だいたい朝起きたら忘れていることが多いが・・・・・・・・・・・・・

「ああしていなかったから、今があり明日に続いて行く」

何かに書いてあったのか、覚えてないが、

ニュース23の筑紫哲也さんも毎日終わった後 後悔
アタック25の児玉清さんも36年間1度として満足したことはない。

と、言っている。

さあ!明日があるさ、歩いて行こう。
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by asanogawa-garou | 2012-01-07 15:08 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)