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【宮間あや】「日本と米国との間にあるのは“差”ではなく“違い”だという」   

2012年 07月 30日

『なでしこが勝てば日本のスポーツが変わる』(二宮清純)

期待を込めていえば「なでしこ」が勝てば、日本のスポーツが変わるーーー
そんな思いがある。

以前、澤穂希からキャプテンを引き継いだ宮間あやと話していて、
そのことを確信した。

彼女はこう語ったのだ。
「日本と米国との間にあるのは“差”ではなく“違い”だという
発想が大事になるでしょう。
たとえばフィジカルを“差”と捉えてしまうと、
米国のようにフィジカルの強いチームを目指さなければならない。
それでは、いつまでたっても米国の上に行くことはできないんです」


“差”ではなく“違い”ーーー。

なるほど、そういう考え方で宮間は、
そして「なでしこ」の選手たちは欧米列強との距離を縮めていったのか……。

さらに宮間は続けた。
「これは私の持論ですが、
フィジカルの強さは“決定的な勝利の要因にはならない”けれども、
フィジカルの弱さが“負ける要因にはなる”ので、
ある程度、フィジカルのトレーニングは必要です。
だけど、それによって勝つのではなく、違う点で勝負をすることが大事だと思っています」


サンデー毎日2012/7/29号
スポーツジャーナリスト二宮清純

【平蔵の独り言】
日本と米国との間にあるのは“差”ではなく“違い”
“差”だったら縮めていく。
決定的に肉体的な違い(大きいなど)は縮められない。
“違い”は変えられない。

“差”と“違い” 目から鱗の気持ちになった。

「格差」も同じ考えように、
“差”なのか、“違い”なのか

日本全体で、“差”と“違い” を
一緒にして同じでないと不安な気持ちになっているような気がする。

“違い”であれば、認めればいい!
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by asanogawa-garou | 2012-07-30 16:44 | なでしこジャパン | Comments(0)

彼はニコリともせずに言う。「難しいことはしていない」と(我喜屋優・沖縄興南監督)   

2012年 07月 27日

彼はニコリともせずに言う。「難しいことはしていない」と(我喜屋優・沖縄興南監督)

就任3ヶ月で、母校を甲子園に導いた辣腕の野球部監督は、
沖縄では、大げさではなく「長嶋茂雄」並みのカリスマとして讃えられている。
彼はニコリともせずに言う。
「難しいことはしていない」と。
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【絶対に心を読ませない男】

2010年夏、興南は、史上6校目となる春夏連覇を果すと同時に、
県勢として初となる夏制覇を達成した。
「うちはたまたま勝ったわけではない。十分な準備をしてきた結果ですから」

【バカにされても気にしない】
「監督の仕事は逆境を順境に変えることなんだから。
いいんだって、ヘソを曲げれば。
真っ当な人間でいようとするから、おかしなことになる。
変わってるって言われてもいいからやれ、って。
俺も異端児だったからね。
人に何をいわれようと、違うと思ったら改革してきた。
社会人の監督時代もそう。
その日のメニューを考えるとき、仕事中に突然机を離れて、試しに腕立てとか腹筋をやったりするじゃない。
そうすると、会社の女の子に『頭おかしいんじゃないの?』って顔をされたもんだよ」

まったく隙を見せない反面、普通の人では考えられないような隙を見せるときがあるのだ。

また、堅物のようで、ユーモアも忘れない。
私がいちばん気に入ってるジョークはこんなものだ。
近しい知り合いが数人で開いた春夏連覇のお祝いの席でのこと。

我喜屋が登場するなり、ひとりが
「よ!ときの人」と囃すと、
我喜屋は「いえ、いっときの人です」
と返したという。
単なる駄洒落に終わっておらず、なかなか含蓄がある。


だが、本領を発揮するのは、やはりこんな話をしているときだ。
我喜屋の話に耳を傾けていると、
崩すことなど不可能に思われていたコンクリートの壁が、
一瞬にして障子戸に変わるような感覚があった。

「月を見てウサギが住んでると思った人はそこまでの人。
なんとかすれば行けると思った人がいたから、人類は月に行けるようになった。
行けるって言った人は、最初はバカにされたと思うよ。
野球も同じじゃない。
できるはずだって信じた人間が道を切り開いてきた」


この言葉を地で行っているのが、他でもない、我喜屋だった。
圧倒的な自信には、相応の裏付けがある。
我喜屋がこじあけた一枚目の歴史の扉……。

【「琉球人お断り」という時代】
我喜屋は1968年夏、興南3年生のときに「4番・センター」として甲子園に出場。
主将としてチームを牽引し、沖縄勢として初の4強入りを果たしている。
いわゆる「興南旋風」だ。
<全沖縄に“興南台風”国際通りがら空き>
「その頃、本土ではアパートなどに『琉球人お断り』って書いてあった時代。
劣等感を抱えてる沖縄の人間にとっては本当にうれしい出来事だった。
そういう意味で、我喜屋監督は本物の沖縄のヒーローだったんですよ」

【手を抜く選手は絶対使わない】
また興南では生活のルールも徹底的に見直した。
イスの出し入れの際には音を響かせないようにする。
食事中も食器の音をできるだけ立てない。
身だしなみも、ワイシャツは第一ボタンまでしめ、Tシャツやポロシャツであっても裾はズボンの中に入れるなど、約束ごとは細部にわたる。


あるとき我喜屋は鞘から刀を抜くように言った。
「俺はいつも(メンバーから)誰を落とすかしか考えてないからね」
その迫力に射竦められ、何も返せなかった。
すると続けて、
「簡単さ。ここで決めるから」
と言って胸に手を置いた。
「朝の散歩、手を抜いている。
そうじ、手を抜いている。体操、手を抜いている。
全身を使ってアピールしてるじゃない。
僕は絶対にミスをします、って」

甲子園で、ある試合を観戦していた我喜屋が、こう力説していたことがある。
「あそこでセカンドが全速力でカバーに行ってたら、あの試合はわからなかったよ。
あのセカンドはね、普段からチームの約束事、守ってないよ。
俺は、シャツの第一ボタンをしめない、裾を外に出す、そういう選手は絶対に使わない。
小さな決め事を全力でできない子、必ずああいう失敗をするから。
そいつで負けたら、絶対、後悔するもん」


私生活と野球を関連づける指導者は数多くいる。
だが、その多くはどこかタテマエ的だ。
「高校野球らしく」という一種のポーズに映る。

だが我喜屋は違う。
「俺は最初から慌てなかった。
まず、相手に勝てるの、どこからだろうって探した。
だから、片付けの部分、散歩の部分、整理整頓の部分、そっちから始めた。
甲子園なんて、技術の差だけで勝敗が決まるケースはほとんどない。
だいたいがちょっとしたミス。だから逆に小さいことをやってたら、大きなこともできるのさ。
ほんとだよ。小さいことやってたら3ヶ月で甲子園、出れたでしょう?」


我喜屋は指導者になってから、社会人時代を通じて、一度も手を上げたことがない。
この「非腕力主義」は、我喜屋が持つ美点の内、最大のものと言ってもいい。
「何で、はたかないとダメなの?殴ってきかせるのは犬に教えるときのやり方。
その代わり何回も同じこと言うよ。わかるまで言う」

高校野球の名将たち
週刊現代2012/7/21・28号
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【平蔵の独り言】
普通のことを普通に毎日する。

ビックコミック【浮浪雲】に
“ねえ、シンさん 「富士山に登ろうと心に決めた人だけが富士山に登ったんです。
 散歩のついでに登った人はひとりもいませんよ。」

を、思い浮かべた。
我喜屋監督の思いが、「難しいことはしていない」
となっているのか。

でも、難しいことではなく普通のこともしない“今の世?”
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by asanogawa-garou | 2012-07-27 15:14 | あの人 この一言 | Comments(0)

【格差】の存在を正面から向かい合うべき!「人間とは?」「人生とは?」   

2012年 07月 25日

【格差】の存在を正面から向かい合うべき!「人間とは?」「人生とは?」

(ジャーナリスト大宅映子)

いまの時代は何でもかんでも、
【格差】はあっちゃいけないんだと言いますけど、
事実、【格差】はある。
人間は一人ひとりが違うんですから【格差】はあって当然なんです。


だからといって、人間の存在としてどっちが上等だとか下等だとかという話じゃない。

むしろ、そういう話を真正面から子供に説くのが大人の義務なんです。

いまの大人は口幅ったいし、
そんな大人風を吹かすほどのものでもない、
みたいなことを言いますけど、
それは結局、責任を取りたくないと逃げているだけ。

だから、みんな見て見ぬふりをしている。
だけど、子どもには大人の責任として言わなければいけないことがある。

「みんな違っていていいよ」
「違うことはいいことだ」
やっぱり人間、違ったほうが面白いんです。
女と男は明らかに違うんだから、
それぞれの違いを生かして認め合って共存するのが大人の社会なんです。


人間の裏側、人生の裏街道というか、裏話のほうが面白い。

ジャーナリスト大宅映子

週刊現代2012/7/21.28号

【平蔵の独り言】
【格差】という言葉でヒトくぐりにするが、
これも管理する国、学校が楽に管理したい、耳障りのいい言葉として
作られているように思う。
100人の生徒がいたら、
100の個性を受け止めてそれぞれを認め合う。
それができないから、100の個性は「金太郎飴」に
ひとくくりする事で、安心しているのではないか。

本当は100人は【格差】が存在するものだということは
分かっている。

【格差】ではなく、【差】と【違い】ではないかと思う。

男と女の【違い】・・・変えられない。
男と女の性差【差】・・・変えられない。

【格差】は現在に都合がいいように作られた。
認めさせる。でも【格差】・・・変えられる。

只、管理する国、学校は見て見ぬ振りをした方の楽だから
その結果100人も同じ方向を向いていることで
安心しているが、100人の個性で100人が別の方向を向いていても
暮らしていけるのが、健全な社会だと思うのだが・・・・・・・・・・

何も怒らない平穏な人生より、
人間の裏側、人生の裏街道というか、裏話のほうが面白い。

これが難しい今の世なのか!

人の行く裏に道あり、花の道
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by asanogawa-garou | 2012-07-25 15:03 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

川澄奈穂美を育てた、“世界一のオヤジ”の教育法とは?   

2012年 07月 20日

川澄奈穂美を育てた、“世界一のオヤジ”の教育法とは?
Sportsnavi

■なでしこジャパン、窮地で監督に進言

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女子W杯、川澄(中央#9)らの活躍で優勝。【写真:アフロ】
その窮地を救った川澄の進言とは

 2011年7月17日。
サッカーの日本女子代表“なでしこジャパン”は、ワールドカップ(W杯)決勝の舞台に立っていた。
1ー1で迎えた延長前半14分、対戦相手である米国のエース、
ワンバックに勝ち越しゴールを許すと、なでしこジャパンは窮地に追い込まれた。

[その直後だった。1人の選手がベンチに駆け寄り、佐々木則夫監督に次のように進言した。]

「わたしがサイドハーフ、(丸山)桂里奈さんがFW。ポジションを元に戻していいですか?」

 この直前にポジション変更を指示していた佐々木監督は、
いわば自分の采配に対する反対意見を選手から聞かされたわけだが、それでも静かにうなずいた。
「わかった。そうしよう」。
そう短く伝えた佐々木監督も、実は同じことを考えていた。

「同点の場面と、1点追いかける場面では、選手に求める役割も変わる。ポジションの入れ替えを指示しようと思った矢先に、選手のほうから提案されたわけです」
 佐々木監督は、遠慮なく自分の意見を伝えてきた背番号9、川澄奈穂美の姿を見送りながら、彼女と最初に出会った時のことを思い出していた。
「やはり頼もしい選手だ」と。

 佐々木監督が初めて川澄のプレーを間近で見たのは、06年のことだ。
なでしこジャパンと、将来のなでしこジャパン候補生を集めた「なでしこチャレンジプロジェクト」との合同合宿が行われ、
川澄はチャレンジプロジェクトの選手として、
佐々木はなでしこジャパンのコーチとして参加していた。

「チャレンジ組」の大半は、代表レベルの高度なプレーを「教えてもらおう」とし、
コーチの指示通りにプレーしようと必死だった。

ただ、川澄だけは、プレーを諭され「わたしは今、こういう意図でプレーしたんです」と食い下がった。
「女子選手でこれだけはっきりと、理路整然と、意見を伝えられる選手は珍しい」。
佐々木は後に監督に就任すると、迷わず川澄をなでしこジャパンに引き上げた。


 W杯決勝は、延長後半に澤穂希のゴールで追いついたなでしこジャパンが、その後のPK戦も制した。
初の世界一に輝いたその瞬間を、神奈川県大和市内のパブリックビューイング会場で見届けた1人の男性は、興奮を隠さず絶叫した。

「世界一のオヤジになったぞ!!!」

 テレビでも新聞でも繰り返し紹介された、この雄たけびの主は川澄奈穂美の父、守弘さんだ。

■「教えない指導法」で開花した才能
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W杯優勝を見届け、喜びを爆発させる父・守弘さん(中央)と母・千奈美さん(右)【写真は共同】

 世界一のオヤジは、いかにして世界一の娘を育てたか――。

 体育教師の資格を持ちながら、
あえて教員にならなかったという守弘さんは、
本人の言葉を借りれば「教えない指導法」で娘の才能を育んだという。

「キックの蹴り方などの“型”を、大人が教える必要はないんです。大きなけがや事故につながりそうな危険な行為にだけ注意を与えれば、そのほかは子どもの自由にやらせればいい」

 守弘さんは、奈穂美が幼稚園児だったころにサッカーボールを与えただけで、好きなように遊ばせていたという。
それでも奈穂美は、小学校2年生で地元の少女チーム「林間SCレモンズ」に入団したころには、ボールの止め方、蹴り方をある程度身につけていた。
誰かに矯正されることなく、自分の感覚で身に付けた技術は、現在のプレーにもつながる彼女の財産になった。

 また、川澄家は毎年、家族でスキーに出掛けていた。
奈穂美を初めてゲレンデに連れて行った時、守弘さんはやはり大けがをしないためのポイントだけを注意すると、目の前で一度滑ってみせた。
あとは「さあ、やってごらん」の一言だけ。
奈穂美が転倒しようと、とんでもない方向に行ってしまおうと、見守るのみだ。


「教えない指導法」でスキーを習得した川澄は、後にスキー検定1級を取得している。
なお、「体幹の強さ、バランスの良さは、スキーのおかげでもあるかな」とは、守弘さんの分析だ。


■スタミナ、自主性も自然と身につける

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父の教育法で、自主性、スタミナなどを身に付けた川澄【Getty Images】
 さらに、川澄の長所として頻繁に挙げられるのは、無尽蔵のスタミナだ。なでしこジャパンが時折実施する持久力テストでは、毎回ぶっちぎりでトップの成績をたたき出す。
チームメートが顔をゆがめて続々と脱落してもなお、川澄だけはニコニコしながら走り続けている。
「どうやってスタミナをつけたのか?」と本人に問うと、
「思い当たるとすれば、母と走ったことぐらいかな」との答えが返ってきた。

 川澄の母、千奈美さんも、守弘さん同様スポーツ愛好家で、ホノルルマラソンの完走経験もあるという。
ひと月に200キロを走り込んだこともあるといい、その当時10歳前後だった奈穂美も一緒に走っていたそうだ。
「家の近くに約5キロのジョギングコースがあったんです。なーちゃん(奈穂美)は毎日、夕食前に私と一緒に走ったんです。スピードは大人の私と同じでしたよ」

 川澄家の「教えない指導法」は、娘の自主性を育むのにも大いに役立った。
冒頭に引用したW杯決勝での「進言」シーンが示す通り、川澄には、指示されるのを待つのではなく、「自分で考える」「考えを行動に移す」という習慣が子どものころから自然に培われていたのだ。

「たとえばスキーに行く前の晩、親から言われる前に、用具も着替えも全部自分で用意していました」と守弘さんが言えば、林間SCレモンズの加藤貞行代表も、小学6年生当時の川澄を、懐かしそうに振り返る。

「小学生のサッカー大会では、保護者や指導者たちは大会運営に追われて忙しいんです。
そんな時、うちのチームは『ナホ、頼んだぞ』と彼女に伝えるだけで、試合の準備はできました。
ナホは対戦相手を観察して、先発メンバーやフォーメーション、戦術までを決めてくれました。
試合中に監督に向かって選手交代の指示を出したこともあったぐらいで(笑)。
そうやって、子どもたちだけで勝っちゃった試合もあるんです」



■すべて「自分」で生きてきた川澄

 先述したとおり、川澄の父・守弘さんは、教員免許を持ちながら教員の道に進まなかった。
こうして娘とのエピソードをつむいでいくと、彼の教育方針の根底には、学校体育(および日本の人材育成)が陥ってしまった「マニュアル主義」へのアンチテーゼ(正反対の命題)が浮かび上がってくる。
枠にはめて、詰め込んで、言うことを聞かせるのは、
スポーツの本来の在り方からも、
人が育つ過程からもかけ離れていると、守弘さんは考えているに違いない。
事実、彼は世の中に対し、こんな心配を口にする。

「サッカーだけじゃなく、すべての面で親や教師が口を出し過ぎているように思います。それで子どもたちが幸せになっていればいいのですが……」

 言うなれば、川澄奈穂美とは、大人が管理しやすいマニュアル教育の対極で、
自ら問題意識を持ち、自ら目標を掲げて努力してきた存在だ。
だからこそ、自分の長所に自信を持ち、自分の限界を自分で知り、
限界を超える解決法も自分で考えることができる。
 それは、ただ苦しみに耐えるのではなく、「わたしにはできる」と信じてピッチに立つ、なでしこジャパンのイメージそのものだ。

 そして最後に、娘に向けて父は短くエールを送った。

「五輪を楽しんでほしいです。どう準備するかは、昔から娘に任せていますから」

<了>
上野直彦
1965年生まれ。兵庫県出身。女子サッカーの取材を続けており、少年サンデーで好評連載、単行本化されている『なでしこのキセキ 川澄奈穂美物語』の原作者でもある。ロンドン五輪後になでしこ選手の書籍が発売予定。女子W杯日本招致運動は今年で8年目である。

江橋よしのり
1972年生まれ。茨城県出身。フリーライター。2003年以降、世界の女子サッカーを幅広く取材。近著に『世界一のあきらめない心』(小学館)など。なでしこジャパン佐々木則夫監督の著書『なでしこ力』『なでしこ力 次へ』(講談社)や、澤穂希選手の著書『夢をかなえる。』(徳間書店)の構成を担当
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【平蔵の独り言】
女子ワールドカップ(ドイツ大会)準決勝:スウェーデン戦
控えから先発メンバーに起用された川澄奈穂美
活躍の裏には“世界一のオヤジ”に育ぐくまれた
幼稚園児からの「教えない指導法」
子供には無限の可能性があるのだということを
改めて実感させられる。
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by asanogawa-garou | 2012-07-20 16:41 | なでしこジャパン | Comments(0)

人生は泡沫(うたかた) 人生:山の頂上へ登ってしまった人は   

2012年 07月 15日
人生は泡沫(うたかた) 
人生:山の頂上へ登ってしまった人は

浮浪雲(ビッグコミックオリジナル(2012/7/5号) ジョージ秋山
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【浮浪雲】
浮浪殿は山の頂上へ登ってしまった人なんですねぇ。
登ってしまった人はもう上を見ないんですねぇ。
上を見てもなんにもございませんからね。

ですから、自然と下を見ます。
そして、下ります。
すれ違う人はみな、あえぎあえぎ登って来る人達です。
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ジョージ秋山(週刊新潮6月7日号)
「怒ったりすることがなくなりました。
そういう感情的なものが自分の中で終わって、
別の次元で生きている感覚がするのです。

例えればすでに僕は山頂にいて、見上げても何もない。
登ってきた道を今から下り始めるところで、
途中、喘ぎながら登ってくる人が見える。
そんな心理に至ったのも、妻を亡くしてようやく一人前の男に成長できたからなのかもしれません。」


【平蔵の独り言】
今、これからの人生をどのように歩いていけば・・・・・
浮浪雲を見ていて、山の頂上へ登ったとは言えないけれど
下り始めているということを思いながら
日々の歩みにしていけばいいのかな。

五木寛之さんの著書『下山の思想』で
戦後の日本社会を登山にたとえ、
『時代は下山のとき。ちゃんと下山する覚悟のなかから、新しい展望が開ける』

「下りる・下山しているのだ」でいいようですね!

しかし、団塊の世代の先頭を切ってきた”一個人”として
今のような 殺伐とした閉塞感の今日を作ってしまったのは
ただひたすら高度成長という上り坂を走ってきて
これからの日本を背負っていく世代に対して
時代は下山だからというのは、“じゃあどうするか”
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by asanogawa-garou | 2012-07-15 15:04 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

「2種類の人間とは、見て見ぬふりができる人間と、できない人間ですね」   

2012年 07月 15日
「人間は2種類のタイプに分かれます。」

「2種類の人間とは、
見て見ぬふりができる人間と、
できない人間ですね」


中国人の老人がアメリカ人のように、肩をすくめるポーズをとって微笑んだ。

日本の政治家は彼らは要領よく今を切り抜けることしか考えていない。
そうやって国をずぶずぶと底なし沼の未来に沈めていくんだ。


「ああ、日本は絶滅寸前の恐竜だ」

恐竜は脳が退化して小さくなったが手足の骨格も筋肉もしっかりしていた。

脳は日本の政治です。
この四半世紀、日本にはリーダーが不在です。
それでも生きているのは、骨組みや筋肉が強いからです。


でも結局、20年以上、惰性で車輪は回り続けてきたと思う。

生産年齢人口のピークアウトは
日本は    1995年だ。
アメリカは  2007年、
ヨーロッパが 2010年。

奇しくも、それぞれのピークアウトが
バブル崩壊、リーマンショック、欧州危機と前後するのは不思議だが、

社会保障費を受ける人口との逆転が、先進国の中で日本は最も早い。
だから、無策であれば財政が膨らむのは当然である。


文藝春秋5月号
新、日本の自殺

【平蔵の独り言】
一億総「見て見ぬふりができる人間」
日本の政治家は彼らは要領よく今を切り抜けることしか考えていない。
この四半世紀、日本にはリーダーが不在です。
バブル崩壊から惰性で車輪は回り続けてきた。

社会保障費を受ける人口との逆転が、先進国の中で日本は最も早い。
だから、無策であれば財政が膨らむのは当然である。

GNP世界第二位から2011年第三位の恐竜へ絶滅の道を歩いているのか。

ガラパゴス「見て見ぬふりができない人間」日本のリーダーが出てこないのか
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by asanogawa-garou | 2012-07-15 14:27 | 今 今日この頃 | Comments(0)

「今日一日、楽しくやろう!」・・・・・【山崎努】(75歳)   

2012年 07月 10日

「今日一日、楽しくやろう!」


僕ぐらいの年になるとさ、残された時間は長くないから、
毎日楽しく生きたいって思うんだよね。

だから現場でも「今日一日、楽しくやろう!」って言うんです。
そうすると不思議なもので面白いことに出会うんです。
この先もどんな楽しいことに出会うのか、それを考えると心が躍るんですよ。


私の地図(あの場所へ帰りたい) 山崎努(俳優)1936年生まれ

週刊現代2012/7/7号

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高校入学時、生活は厳しかったので、僕は家計を支えるために働かなければならなかった。
だから、高校は都立上野高校の定時制に進みました。
一年ぐらいは真面目に通っていたけど、あとはほとんど行かずに上野公園でぶらぶらしてましたよ。
いわゆる落ちこぼれ。成績もドンケツでした。
卒業して、特にやりたいこともなくて、
この先どうしようかなと将来のことを考え始めたときに、
俳優志望の友達に誘われて一緒に俳優座と民藝の試験を受けたんです。
一攫千金で、俳優業で当てたら儲けもんだ、みたいな感覚だったね。
そしたら、両方受かったのに、友達は両方落ちてしまった。

俳優座養成所にいた3年間は非常に充実してました。
一番よかったのは、演技とはこういうものだとか、
何がいい演技だとかっていうのを教えられなかったことだね。
自由にやらせてくれて、ダメなときだけ助言をする教育だった。
これは今でも感謝してます。

僕は本当に運が良くて、
養成所を卒業してすぐ映画やテレビの仕事が来たから、
売れない時期がなかったんですよ。
下積み時代がないの。全然僕の力じゃないのに仕事には恵まれた。
もうこれは運としか良いようがない。


【山崎努】仲人は石原慎太郎氏!元宝塚の妻働かせゴロゴロ

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6.07
 誰もが知る名優は、どのように誕生したのか。
1963年の黒澤明監督作品「天国と地獄」で誘拐犯役を演じ、
一躍スターダムに躍り出た名優に、しばし思い出話をしてもらった。
      ◇
 「天国と地獄で一気に売れ、シンデレラボーイというんでしょうか、ゴールデンボーイとでも言うのかなあ…、一夜にして生活が変わりましたね」

 実感したのは、同じ63年の三船プロ作品「五十万人の遺産」(三船敏郎監督)でフィリピン・ロケに行き、羽田空港に帰国した時だった。

 「カメラマンがバチバチすごいんです。なんじゃこれは、って…。
写す対象は三船さんだとばかり思っていたら、実は僕だった。
犯人役が話題になっているなんて全然知らないんですよ。
フィリピンにいたからね。ああいう経験は面白かったですね」

 複雑な思いも経験した。
「タクシーに乗ると、運転手さんが『あんたがあんな映画をやるから、世の中が悪くなるんだ』なんてことを言われてね。役と僕が混同しちゃってんだよね。事実、あの映画の後、誘拐事件も多発したんです」

 「天国と地獄」を皮切りに仕事は殺到。
だが、当人は逆に役者の仕事から逃げることにした。

 「この世界、一発当たると仕事がわんさかくるんです。
でも、売れた原因は僕の実力じゃない。
黒澤監督がうまく撮ってくれたからで、僕の芝居は“からっ下手”。
僕自身にはなんの力もないんで、と全部の仕事を断ったんです。
充電期間にしよう、とね。とはいえ、食うための最低の仕事はしたんですがね」。
そういってニヤリと笑う。

 同じ年、元宝塚の女優、黛ひかるさんと結婚した。
「結婚して妻に働かせ、僕は家で寝っころがって読書や、毎日ダラダラ過ごしていた。そう、ヒモみたいにね。ははは」

 黛さんとは石原慎太郎氏が脚本を書いたNHKの「アラスカ物語」(1962-63)で知り合った。
「石原さんが『山崎の結婚は俺が仲人なんだよ、俺の作品で知り合ったんだ』って言っているんだけど、あれは本当です。だけど、そのことを石原さんが知っていること自体が僕には意外だった」

 大作家と名優の意外な関係だが、名優は実は作家でもある。
『俳優のノート--凄烈な役作りの記録』(文春文庫)に続き、
このほど『柔らかな犀の角』(文藝春秋)を出した。
2006年から昨年にかけて「週刊文春」に連載したエッセーをまとめたものだ。

 「『ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに』。
これは井上ひさしさんの金言ですが、及ばずながらこれでいきたい」と連載を引き受けたという。


 最近は俳優以外の仕事も増えた。なんと、沖縄「美ら海水族館」の名誉館長でもあるという。

 「『ドルフィンブルー』という映画を5年前に撮ったんです。
美ら海水族館の話で、館長の役をさせてもらいました。
それが縁で内田詮三館長(昨年退任)やスタッフの方々たちが好きになり、
年に1回は水族館に行くようになったんです。
行くと『山崎館長』って呼ばれる。
やっぱり、こっちも好きだと向こうもなじんでくれるんですねえ」。
名誉館長を任命されたのは自然な成り行きだった。

 水族館の話になると、人が変わったような笑顔になった。
目を背けてしまいたくなるような恐ろしい表情から、
ずっとながめていたい優しい笑顔まで、この人にはいくつもの顔がある。
これが名優の顔というものか。(ペン&カメラ・城山仁)

 ■やまざき・つとむ 1936年12月2日、千葉県生まれ、75歳。
高校卒業後、俳優座養成所を経て、59年に文学座に入団。
60年に三島由紀夫の戯曲「熱帯樹」(初演)でデビュー。
同年、『大学の山賊たち』(岡本喜八監督)で映画初出演。
63年の「天国と地獄」を機に幅広く活躍、受賞歴も多数。
2000年に紫綬褒章、07年に旭日小綬賞を受章。
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【平蔵の独り言】
「今日一日、楽しくやろう!」
僕ぐらいの年になるとさ、残された時間は長くないから、
毎日楽しく生きたいって思うんだよね。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
まだ、ここまでの心境になっていないが
たまに肩の力が抜けているかな!
と、思う時もあるけれど たまにですね。

「楽しくやろう!」
ですね。
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by asanogawa-garou | 2012-07-10 17:12 | あの人 この一言 | Comments(0)

誰もが「右へならえ」をしている最中に、批判を承知で異論を唱えてきたのが吉本隆明氏だった。   

2012年 07月 07日

誰もが「右へならえ」をしている最中に、批判を承知で異論を唱えてきたのが吉本隆明氏だった。

「世間でまかり通る聞こえのいい正義に、『違う』と言い続けよう」。

みんなが一つの方を向く怖さ。戦争体験が言わせたと読めた

◆そういえば、10年ほど前だったか、日本が「そわそわしてきた」と懸念していたのを思い出す。

多様性を失い、同じことを言い始めた社会は危ない。
なぜなら、戦争中の日本がそうだったから

我々の世代が吉本さんを熱烈に支持したのは
「自分に嘘をつかない」という倫理的な信頼感があったからです。
誰もが反対しにくいことで、それが損になることが分かっていても異議を唱えた。
基本的な姿勢がブレない思想家だったからです。
「知の巨人」といわれた〔吉本隆明〕

誰もが「右へならえ」をしている最中に、
批判を承知で異論を唱えてきたのが吉本隆明氏だった。


高齢にもかかわらず、質問にじっと耳を傾け、
時には手振りも交えて熱っぽく語った吉本氏。

◆幅は広く奥行きは深かった。
戦争や知識人の転向を問い、消費社会を論じた。
全共闘運動の理論的支柱になったかと思えば、
漫画「ちびまる子ちゃん」から言葉のありようを説いた。
思索を深めるテーマは多様だった

◆何を論じても、一人で荒野に立つ気迫を感じた。
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以前、芦屋市での講演会でこう語った。
「世間でまかり通る聞こえのいい正義に、『違う』と言い続けよう」。
みんなが一つの方を向く怖さ。戦争体験が言わせたと読めた
◆そういえば、10年ほど前だったか、日本が「そわそわしてきた」と懸念していたのを思い出す。
多様性を失い、同じことを言い始めた社会は危ない。
なぜなら、戦争中の日本がそうだったから

◆色紙に書きたい言葉があったそうだ。「恥ずかしながら、生涯物書きです」。
もう無理だが、「物書き」の前に4文字をはさんでもらいたかった。「刺激的な」と。

若いころ「ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる/もたれあうことをきらつた反抗がたおれる」と詩にした。

徒党を組まず、戦後という時代に向き合いながら、
幅広い分野に骨太な思想を組み立てた稀有(けう)な存在だった。

だが、その人柄は「知の巨人」といったイメージとは遠い、
優しく、一徹な下町の職人のようだった。

吉本隆明さん死去:晩年まで独自の思考を重ねる
毎日JP 2012年3月16日 12時28分 更新:3月16日 16時0分

◇評伝=誠実で穏やか 庶民的な雰囲気
 記者が吉本隆明さんに初めて会ったのは1997年。
既に70代だったから、晩年と言っていい。
以来、2度の聞き書き連載などで度々話を聞いたが、
偉そうなところはまるでなく、
不思議なくらい肩の凝らない人だった。

 語尾に「ぜ」や「さ」が付く東京の下町言葉で、
話し出すと止まらなかった。
誰が相手でも、誠実で穏やかな熱を帯びた話しぶりは変わらない。

初対面の人は決まって「これが、あのヨシモトリュウメイなのか」と驚き、
庶民的な雰囲気にひかれた。
ある世代の人々にカリスマ的な影響力を持った秘密は人柄にもあったに違いない。

 突き放した言い方になるが、世代を超えた「吉本人気」は、
意外と自身の提供する話題性にも支えられていたのではないか。

新進批評家として戦後論壇に登場した最初、
当時はインテリ層の間で権威の高かった日本共産党や、
花田清輝らの論客を相手に、舌鋒(ぜっぽう)鋭く論争を挑んだ。

60年安保で学生とともに行動し、
警官隊に追われ飛び込んだ先が首相官邸で、
逮捕されたという話も有名だ。

 サブカルチャーの分析を通じ消費社会の意味を論じた80年代には、
盟友だった作家の埴谷雄高とも論争した。
ブランドファッションを身に着けた吉本さんが女性誌「アンアン」に出たのを、
埴谷から「資本主義擁護」と非難されたが、
逆に倫理主義的なインテリの視線そのものに批判を加えた。

96年には海水浴に訪れた伊豆の海岸でおぼれ、
辛うじて一命を取り留めるという事故も報じられた。
 熱烈に支持する読者の存在から“吉本教”などとも呼ばれたが、

本人は組織の束縛を嫌い、
あらゆる権威主義に反骨を通した。

安保闘争の敗北後、谷川雁らと同人誌「試行」を刊行し
(61~97年。途中から吉本さんが単独で編集)、
主要な発表の場としたのもその表れだろう。

 2011年の原発事故後も「反原発」批判の持論を変えなかった。
「大衆の原像」に寄り添い、独自の道を歩んだ吉本さんの生涯は、独立した知識人の生きざまとして人々の注目を浴び続けるものだった。【大井浩一】

石原都知事「ひとつの世代の象徴」
産経ニュース 2012.3.16  16:25
 東京都の石原慎太郎知事(79)は16日の定例会見で、
吉本さんの死に「権威に反抗するオピニオンリーダー。
1つの世代の象徴的な存在だった。残念です」と悼んだ。

「体制派、反体制派にしろ、彼を継ぐような論客ってのは現れて来ないね。(文芸評論家の)江藤淳も死んじゃったし。今はロクな評論家しかいない」とも話した。
 石原氏は戦後日本を代表する思想家の死去を受け、国家への危機感をあらわに。

「日本には激しい議論がなくなった。侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論がなくなった社会は成長しない」と指摘。

青春時代を振り返り、「みんなよくしゃべったな。同世代の人間が相互に口角泡を飛ばして議論した」と述べた。

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【吉本隆明さん死去】
思想の根底に「生活」への視点 田中紘太郎氏寄稿
産経ニュース 2012.3.16 19:13

2010年、東京都文京区の自宅でインタビューに答える吉本隆明氏
 評論家の栗本慎一郎さんとの対談設定のため、
東京都内の吉本宅にうかがった際、
こちらの車が到着するのを自宅前で、じっと待っておられた。
そんな姿が今も印象に残っている。
平成2年、新聞での対談は本紙が初めてのものだった。

 「自分の客は自分でもてなす」の考えから、
自らお茶を出し菓子を振る舞う姿に恐縮するばかり。

質問にじっと耳を傾け、丁寧に答えていただいた。
威圧するような怖さはなく「戦後最大の思想家」「知の巨人」の権威的イメージは、初対面で溶解する。
ごく気さくな、普段着の生活人という実像にかえって圧倒された。

 「マス・イメージ論」などで、生産から消費へと社会構造が変容した時代の潮流を、
誰よりも早く読み取り分析した功績も大きい。
1980年代の高度消費社会を積極的に評価、女性誌にコム・デ・ギャルソンの服を着て登場したりした。
後に、作家の埴谷(はにや)雄高(ゆたか)さんと消費社会をめぐる論争に発展。
その姿は「時代はこんな軽みを持つようになった」と宣言しているようだった。
その軽みは文学や思想、サブカルチャーを同列に論じる視点と重なり、その後の評論に生き続けた。
 「評論や詩、文芸は25時間目の問題だ」との言葉も印象深い。

一日24時間は仕事や家事をしっかりやる。
評論活動はそれが済んだ後の“余技”の意味だ。
自己に厳しく課した倫理であり、自負だった。
思想の根底には、生活を基礎に据えた視点があった。
 平成8年に伊豆の海でおぼれ重体に陥った後にお会いしたときは、足腰が弱りお茶のもてなしはなかった。
だが、同じ主題を丁寧に語りつつ、らせん状に論点レベルが上がっていく独特で魅力的な語り口は健在だった。
(元産経新聞文化部編集委員田中紘太郎)

【平蔵の独り言】
吉本隆明?亡くなった初めて名前を知った。
“思想家”の“思想”という言葉は余り理解できないが
「自分の客は自分でもてなす」の考えから、自らお茶を出し菓子を振る舞う姿に恐縮するばかり。
質問にじっと耳を傾け、丁寧に答えていただいた。
威圧するような怖さはなく「戦後最大の思想家」「知の巨人」の権威的イメージは、初対面で溶解する。
ごく気さくな、普段着の生活人という実像にかえって圧倒された。
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 東京都の石原慎太郎知事(79)の、「権威に反抗するオピニオンリーダー。
1つの世代の象徴的な存在だった。残念です」と悼んだ。
「体制派、反体制派にしろ、彼を継ぐような論客ってのは現れて来ないね。
(文芸評論家の)江藤淳も死んじゃったし。今はロクな評論家しかいない」とも話した。

 石原氏は戦後日本を代表する思想家の死去を受け、国家への危機感をあらわに。
「日本には激しい議論がなくなった。侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論がなくなった社会は成長しない」と指摘。
青春時代を振り返り、「みんなよくしゃべったな。同世代の人間が相互に口角泡を飛ばして議論した」と述べた。
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体制派、反体制派 が健全に育っていくのが国家だと思うので、
同じ方向を向いて、安心している。
事が起こっても
「誠に申し訳ございませんでした」
で、済んでしまう国
本当は“じゃあどうするか”が一番大切なはずだと思うのだが

2011/3/11 東日本大震災、福島原発事故 全原発の停止
2012/7/4  そして大飯原発の再稼動

日本に原発に変わるエネルギーがすぐにはないのだから と思うが

毎週金曜日に首相官邸前の反原発デモは市民運動から自然発生して
きた抗議行動であるが、大きなうねりなのか。
それともすぐに冷めてしまうかの。
(マスメディアが自主規制して「遂にNHKも報道」とあるように、裏を返せば)
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by asanogawa-garou | 2012-07-07 13:43 | 今 今日この頃 | Comments(0)