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〔森脇浩司〕『人生は微差が大差を生む』それに気づいたから、いまの自分がある。勝負の厳しさを誰よりも   

2013年 01月 31日
〔森脇浩司・オリックス監督〕『人生は微差が大差を生む』
それに気づいたから、いまの自分がある。勝負の厳しさを誰よりも知る男。
二宮清純レポート  2013年01月12日(土)週刊現代

勝負の厳しさを誰よりも知る男 森脇浩司 オリックス監督
「人生は微差が大差を生む」それに気づいたから、いまの自分がある
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【変化を恐れてはいけない】
〔オリックス・バファローズ〕
この10年で8人もトップが入れ替わった。
日本の政治の話ではない。オリックスのことだ。

現役時代から、決して目立つ男ではなかった。
彼のもとに飛んだ打球は、自然とアウトになってしまう。
本塁打より圧倒的に犠打の数の方が多かった。
そして今、気づけば監督になっている。


「変わることは義務だ」―――ブレない男の信念を読む。

〔我々にとって変化は義務なんですよ〕
〔変化の大敵は固定観念と先入観〕
〔僅差こそは実力差であり、微差がやがて大差になるという森脇の見立て〕


【プロとして恥ずかしいこと】〔11年の巨人二軍内野守備走塁コーチ時代〕
こうした意識づけを若手たちに徹底して行ったのが、
'11年の巨人二軍内野守備走塁コーチ時代である。 
春のキャンプ中、森脇は選手たちの動きを見ていて、あることに気づいた。

【努力は必ず報われるか】〔‘79 近鉄バファローズ〕
〔「世の中には無名でも陰日向なく一生懸命働いている人間がいる。オレはそういう人間の努力は、いつか報われるということを野球で証明したいんだよ」〕
とりわけ闘将・西本幸雄の立ち居振る舞いから得たものは何物にも代え難かった。

【友人を絶対に見捨てない】〔広島で森脇は生涯の友と巡り合う。〝炎のストッパー〟〕
その年の暮れ、森脇は華燭の典を挙げた。
会場には津田の席も用意され、他の出席者と同じメニューが運ばれた。
津田の席の隣に座ったのが当時、近鉄でプレーしていた金村義明だ。
金村はルーキーの頃、森脇を兄のように慕っていた。 
「(選手寮に)入寮した当時の僕はパンチパーマで誰も口を利いてくれなかった。
唯一、普通に接してくれたのがモリ(森脇)さん。
ピッチャーから内野手に転向した僕に守備の基本を教えてくれたのもモリさん。
あれほど人間的に素晴らしい人はいないですよ」

【わずかな準備不足を見逃すな】〔‘96 ダイエーの二軍内野守備走塁コーチ〕
球界随一と言われたのがノックの腕である。
かゆいところに手が届くような精密なノックで川崎宗則(前マリナーズ)や本多雄一らを鍛え上げ、小久保裕紀ら主力を奮い立たせた。 
'96年に18年間の現役生活にピリオドを打った森脇は、
そのまま王貞治率いるダイエーの二軍内野守備走塁コーチに就任した。 
球界随一と言われたのがノックの腕である。

〔森脇に監督代行・ロッカールームに戻った森脇に、王は静かに告げた。 
「あとは頼むぞ」〕
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【変化を恐れてはいけない】〔オリックス・バファローズ〕
この10年で8人もトップが入れ替わった。
日本の政治の話ではない。オリックスのことだ。

現役時代から、決して目立つ男ではなかった。
彼のもとに飛んだ打球は、自然とアウトになってしまう。
本塁打より圧倒的に犠打の数の方が多かった。
そして今、気づけば監督になっている。
「変わることは義務だ」―――ブレない男の信念を読む。
私見ながら、この人事はオリックスにとっては久々のヒットだ。
コーチとしての実績はもちろん、人柄も申し分ない。ビジョンも明確だ。
「一度は監督をやらせてみたい」と思っていたのは私だけではあるまい。 

〔我々にとって変化は義務なんですよ〕
まず、“我々は弱いんだ”ということを素直に認めるべきです。
強いチームがもっと強くなろうと努力しているのに、弱いチームが変わらなくてどうするのか。

〔変化の大敵は固定観念と先入観〕
“今まではこうだった”と言ってみたところで、それは通用しません。
人間というものは“もう失うものはない”
と言いながら、それでも保身に走ろうとする。
これを打破しない限り、強いチームに生まれ変わることはできません。

〔僅差こそは実力差であり、微差がやがて大差になるという森脇の見立て〕
「微差は大差なんです。開幕して、いきなり10ゲームも離されることはありません。
勝ったり負けたりしながらペナントレースは進んでいく。
ところがシーズンも終盤に近づくと、気がつけばもう挽回不可能な差になっているんです。
これは、どこに原因があるのか。
その日だけ見れば、ほんの小さな差でも、積み重なっていけば大きな差になってしまう。
雪だるまと一緒ですよ。
そうならないためには現実を直視して反省し、次に向かっていい準備をするしかない。
それを繰り返すことによって、チームも選手も成長できるんです」

【プロとして恥ずかしいこと】〔11年の巨人二軍内野守備走塁コーチ時代〕
こうした意識づけを若手たちに徹底して行ったのが、
'11年の巨人二軍内野守備走塁コーチ時代である。 
春のキャンプ中、森脇は選手たちの動きを見ていて、あることに気づいた。
左ピッチャーがマウンドにいる際、
一塁ランナーはピッチャーと目があっただけで帰塁しかける。
まるで〝パブロフの犬〟のように。 
確かにセットポジションで向き合う左ピッチャーから二塁を奪うのは容易ではない。
リードを広げて逆を突かれると牽制で刺されるリスクも高くなる。
アウトになって咎められるくらいなら自重しよう……。
森脇の目に巨人の二軍選手の姿はそう映った。 
こうした消極的な姿勢を一掃するため、森脇はあるキーワードを用意した。 
「疑わしきは沈め!」
牽制球がくるかどうかわからない時は、いちいち帰塁しかけるのではなく、
体勢を低くして、まず様子を窺えと指示したのだ。 
この狙いについて聞いた私に、森脇はこう答えた。 
「もし一塁まで戻りかけたところでピッチャーが本塁に投げ、
バッターがボテボテの三遊間のゴロを打ったらどうなるか。
わざわざ戻ったりしなければ、かなり高い確率で二塁はセーフになるでしょう。
しかし、戻ってから再スタートを切っても二塁はアウト。
下手したら併殺になる危険性もある。
これはバントの時も同じことが言えます。
左ピッチャーが右足を上げたところで一塁に戻ろうと動いてしまえば、
よほどいいバントをしない限り、二塁でアウトです。
一度戻るのと、そのまま走るのとでは3歩の差が出る。
つまり、簡単に(塁に)戻ろうとする行為はプロとして恥ずかしいことなんです」 

森脇の指導の甲斐あって、この年のイースタンリーグにおける
巨人二軍の盗塁数は前年の60から152へと2・5倍に増加した。
巨人が目指していた〝脱大艦巨砲主義〟を森脇はファームで実践し、成功させたのである。

〔全国的には無名の県立高からプロに身を投じた森脇にとっては見るもの聞くものすべてが新鮮だった。〕
'79年、兵庫・社高からドラフト2位で近鉄に入団した森脇に内野手としてのイロハを叩きこんだのは、当時の二軍コーチ、安井俊憲(当時・智規)である。
安井は現役時代、俊足巧守を売り物にし、'68年にはパ・リーグの盗塁王に輝いている。 
「キャッチャーに背中を見せるな!」
安井は事あるごとに口を酸っぱくして、そう言った。
その言葉には、どんな意図が隠されていたのか。 
安井は説明する。 
「内野の守備はバッターが打ってから動き出すようでは遅い。
キャッチャーのサインを見て、ピッチャーが投げるコースや球種を踏まえ、バッターが打つ前に動き出さなければならない。
わずか一歩の違いがチームを救うかどうかの境目になる。
そのためには常にバッテリーに意識を集中させておく必要があるんです」 

高校時代は県予選の“三回戦ボーイ”。
全国的には無名の県立高からプロに身を投じた森脇にとっては
見るもの聞くものすべてが新鮮だった。
森脇は安井の教えを、次のように咀嚼した。
「野球は“ながら”のスポーツ。動きながら判断する。
あるいは判断しながら動く。
特に内野手は常にピッチャーとキャッチャーを視野に入れておかなければならない。
一度でもボールから目を切ると、何かハプニングが起きた時に対応できなくなる。
内野手はピッチャーにボールを返して守備位置に戻る時でも背中を見せてはいけないんです。
もしランナーがいて、ピッチャーがボールを落としたら、どうするんですか」


【努力は必ず報われるか】〔‘79 近鉄バファローズ〕
強肩攻守。守備を買われ頭角を現した。
プロ4年目の82年にはショートで開幕スタメンに名を連ねた。
ネット裏からは「近鉄は向こう10年、ショートで苦労することはない」との声があがった。
にもかかわらず、彼はプレイヤーとして大成することはなかった。
肩の脱臼に太ももの肉離れと、度重なるケガに泣かされた。
5年目のシーズンが終わると広島にトレードされた。
球団は森脇の将来性に見切りをつけたのだ。
ただし、近鉄での5年間は後に指導者になる上での“含み資産”を森脇にもたらした。
〔「世の中には無名でも陰日向なく一生懸命働いている人間がいる。オレはそういう人間の努力は、いつか報われるということを野球で証明したいんだよ」〕
とりわけ闘将・西本幸雄の立ち居振る舞いから得たものは何物にも代え難かった。

「当時、(近鉄の本拠地の)藤井寺球場のライトスタンド下の室内練習場には2つだけバッティングの鳥かご(ゲージ)がセッティングされていた。
バッティングの下手クソは黙々とそこで打ち込んでいました。
ふと向こう側を見ると柱の後ろに人影がある。
誰だろうと思って目を凝らすと西本さんでした。
当時の藤井寺の室内は土が深く、普通の靴だと汚れてしまうんです。
ところが西本さんはスラックスに革靴のまま、駆け出しの選手の練習を最後まで見守ってくれていた。これには感動しました」
森脇は、ある日、西本が腕組みをしたままポツリとつぶやいた一言を今でも覚えている。
そして、これこそは森脇の指導者としての原点でもある。
「世の中には無名でも陰日向なく一生懸命働いている人間がいる。オレはそういう人間の努力は、いつか報われるということを野球で証明したいんだよ」

トレード先の広島で森脇は生涯の友と巡り合う。〝炎のストッパー〟と呼ばれた津田恒実だ。
'93年に32歳の若さながら悪性の脳腫瘍が原因で世を去った。 
「今度入った森脇だ。よろしくな!」
「あぁ・・・・・・」
同い年ということもあって気軽に声をかけた森脇だが、あにはからんや津田は無愛想だった。 
「だから最初は〝なんだよ、アイツ〟という感じでした。
ナマイキというか、付き合いにくそうなヤツやなぁと・・・・・・。
ところが、しばらくすると肌が合うというか、なぜか一緒に行動するようになっていたんです」

【友人を絶対に見捨てない】〔広島で森脇は生涯の友と巡り合う。〝炎のストッパー〟〕
津田が森脇に体の異変を訴えたのは'91年の3月だ。
森脇は'87年途中に南海('89年より福岡ダイエー)へトレードされていた。
平和台球場でのオープン戦を終えた2人は久しぶりに食事をともにした。
その席で津田は珍しく弱音を吐いた。 
「最近、疲れが取れないんや・・・・・・」
脳腫瘍であることが発覚したのは、この1ヵ月後である。
津田はすぐさま入院し、この年限りで広島を退団した。
余命は年内いっぱいと医師から告げられた。ところが奇跡が起きる。
津田は驚異的な回復をみせ、クリスマスイブの日に病院を出るのである。 
奇跡は長くは続かなかった。再び病状は悪化し、2年後の7月、永遠の眠りについた。 
その年の暮れ、森脇は華燭の典を挙げた。
会場には津田の席も用意され、他の出席者と同じメニューが運ばれた。
津田の席の隣に座ったのが当時、近鉄でプレーしていた金村義明だ。
金村はルーキーの頃、森脇を兄のように慕っていた。 
「(選手寮に)入寮した当時の僕はパンチパーマで誰も口を利いてくれなかった。唯一、普通に接してくれたのがモリ(森脇)さん。ピッチャーから内野手に転向した僕に守備の基本を教えてくれたのもモリさん。あれほど人間的に素晴らしい人はいないですよ」

森脇は87年途中に南海(89年より福岡ダイエー)へトレードされていた。

【わずかな準備不足を見逃すな】〔‘96 ダイエーの二軍内野守備走塁コーチ〕
'96年に18年間の現役生活にピリオドを打った森脇は、
そのまま王貞治率いるダイエーの二軍内野守備走塁コーチに就任した。 

球界随一と言われたのがノックの腕である。
かゆいところに手が届くような精密なノックで川崎宗則(前マリナーズ)や本多雄一らを鍛え上げ、小久保裕紀ら主力を奮い立たせた。 
ダイエーで3年間プレーした経験を持つ森山一人(現アイランドリーグ徳島コーチ)も森脇のノックの洗礼を浴びた選手のひとり。 
「僕は外野手だったんですが、フェンス際やライン際に位置をちょっとずつ変えながら打ってくる。すべての打球に〝これは、どうや?〟というメッセージが詰まっていました」

〔森脇に監督代行・ロッカールームに戻った森脇に、王は静かに告げた。 
「あとは頼むぞ」〕


森脇に監督代行の座が回ってきたのは、ソフトバンクのチーフコーチだった'06年だ。
7月5日、福岡ヤフードーム。西武戦が始まる前、王はコーチたちに向かって、こう言った。 
「オレは今日を最後に、しばらくチームから離れる」
寝耳に水とは、このことだ。もちろん、この時点で王が胃ガンであることを知る者は皆無だった。 
試合前のシートノックが終わった直後だ。ロッカールームに戻った森脇に、王は静かに告げた。 
「あとは頼むぞ」
ソフトバンクで監督代行として指揮を執り、30勝22敗3分。
オリックスの9試合を合わせると、37勝24敗3分。勝率6割7厘。
この数字は指揮官としての非凡さを物語っている。 
長きにわたって・世界の王・の謦咳に接した男は勝率4割2分5厘('12年)のチームを、どうやって再建するのか。 

森脇浩司、52歳。全国的には無名だが無力ではない。
それどころか、この男、相当なやり手である。
オリックスの来季の最大の新戦力は監督力かもしれない。


二宮清純レポート:「週刊現代」2013/1/5・12号

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【森脇浩司】
〔近鉄バファローズ〕1979-1984
社高校から1979年、ドラフト2位で近鉄バファローズに入団。
〔広島東洋カープ〕1984-1987
1984年、加藤英司・大原徹也との2対2の交換トレードで、福井保夫と共に広島東洋カープに移籍。
同年、控えの内野手として一軍に昇格。
〔南海ホークス・福岡ダイエーホークス〕1987-1996
1987年、西山秀二との1対2の交換トレードで、永田利則と共に南海ホークスに移籍。
1993年、三塁手の定位置を掴み、活躍した。
また同年、一塁・藤本博史、二塁・湯上谷宏、三塁・森脇、遊撃・小川史の「ヒロシ」内野カルテットを見せた。
守備の名手として鳴らし、控えの野手、守備固めとしての起用が多かった。

1996年、現役引退。
1997年、スコアラーに転身。
1999年、福岡ダイエーホークスの二軍内野守備走塁コーチに就任。
2001年、一軍内野守備・走塁コーチに昇格。同年よりホークスの三塁コーチを務める。

2006年、チーフ兼任となる。オープン戦にて、WBC出場の王貞治監督の代理を務めた。
また、王監督の病気療養のため、同年7月6日より、福岡ソフトバンクホークス監督代行を務める。
2009年、退団。
〔野球解説者〕2010
2010年から野球解説者に転身。
同時に編成アドバイザーとしてホークスに引き続き携わる。
〔読売ジャイアンツ〕2011
2011年、読売ジャイアンツの二軍コーチに就任。
〔オリックス・バファローズ〕2012
2012年、オリックス・バファローズの野手チーフコーチに就任。
同年9月25日から休養した岡田彰布監督の代理。
2013年、オリックス・バファローズの監督に就任。

【森脇浩司は理論を武器に、オリックス再建に挑む。】
~“代行”での経験値を生かして~
現役時代はスター選手ではなかったかもしれない。
だが、「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。そんな期待を抱いている。

【第569回 西本イズム継承、森脇監督にオリックス再建期待】
  二宮清純「唯我独論」(水曜日更新)2013-01-19
今季のパ・リーグは6人の指揮官のうち、監督としてリーグ優勝を経験した者が5人を占める。
北から北海道日本ハムの栗山英樹、東北楽天の星野仙一、埼玉西武の渡辺久信、千葉ロッテの伊東勤、福岡ソフトバンクの秋山幸二。

 こう書くと、あとのひとりは誰だという話になる。
オリックスの新監督・森脇浩司。監督としては新参者だが、その腕を侮ってはいけない。監督代行としてソフトバンク、オリックスの2チームで指揮を執り37勝24敗3分、勝率6割7厘。この数字は指揮官としての非凡さを物語っていやしまいか。

【野球:オリックス・森脇新監督、名将から学んだこと  2012-12-25】
これまでの野球人生、決してスポットライトを浴びる場所にいたわけではない。
ただ、西本幸雄、古葉竹識、王貞治らの下で野球を学び、その中で培われた指導哲学は卓越したものがある。
組織改革に乗り出した新指揮官は名将たちから、どんな影響を受けてきたのか。
二宮清純が訊いた。

【第415回 骨太の指導でダイヤの原石をどう磨くか 巨人・森脇浩司2軍内野守備走塁コーチ】  二宮清純「プロ野球の時間」(火曜更新)投稿日時: 2010-11-30

【ソフトバンクは25日、森脇浩司ヘッド兼内野守備走塁コーチ(49)の退団を電撃発表。】[ 2009年11月26日 ]
 秋山監督も「(森脇ヘッドとは)来年の話もしていた。球団主導でやるというから仕方ないことだった」と、まだ戸惑いを隠せなかった。
この決断が吉と出るか、凶と出るか…。
いずれにせよ、思い切った、突然すぎる血の入れ替えだった。

「今回の例(この時期の通告)は自分で最後にしてもらいたい」と球団にくぎを刺した森脇氏。
功労者は思いもしない形でホークスのユニホームを脱ぐことになった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【平蔵の独り言】
近鉄バファローズ、西本監督の時 ”森脇?”名前だけ微かに憶えている。

2005年仰木彬さんが命をかけた“オリックスバファローズ”に今シーズンから監督をする森脇さん

「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。
西本さん:大毎オリオンズ→阪急ブレーブス→近鉄バファローズ、名選手ではない
仰木さん:三原さん(娘婿の中西さん)近鉄バファローズの監督の時→西本さんを後任に
→西本さん(仰木さんを高く評価、毎年のコーチ人事でも仰木放出だけは反対していた。)

〔「世の中には無名でも陰日向なく一生懸命働いている人間がいる。オレはそういう人間の努力は、いつか報われるということを野球で証明したいんだよ」〕
とりわけ闘将・西本幸雄の立ち居振る舞いから得たものは何物にも代え難かった。
と、あった。

現役を18年間
西本幸雄、古葉竹識、王貞治らの下で野球を学び
王さんから〔森脇に監督代行・ロッカールームに戻った森脇に、王は静かに告げた。 「あとは頼むぞ」〕

森脇に監督代行の座が回ってきたのは、ソフトバンクのチーフコーチだった'06年だ。7月5日、福岡ヤフードーム。西武戦が始まる前、王はコーチたちに向かって、こう言った。 
「オレは今日を最後に、しばらくチームから離れる」
ソフトバンクで監督代行として指揮を執り、30勝22敗3分。
オリックスの9試合を合わせると、37勝24敗3分。勝率6割7厘。
この数字は指揮官としての非凡さを物語っている。 

仰木さん、西本さんと森脇さん  近鉄バファローズ

オリックスバファローズ   森脇監督の今シーズンに期待!

〔二宮清純レポート〕との出会いに感謝!

シーズン終了時どのような結果が・・・・・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2013-01-31 17:36 | 人間模様 | Comments(0)

〔森脇浩司・オリックス監督〕「現役時代はスター選手ではなかったかもしれない。名選手=名監督にあらず」   

2013年 01月 30日
〔森脇浩司・オリックス監督〕現役時代はスター選手ではなかったか
もしれない。
だが、「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。そんな期待を抱いている。



【森脇浩司は理論を武器に、オリックス再建に挑む。】
~“代行”での経験値を生かして~
現役時代はスター選手ではなかったかもしれない。
だが、「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。
そんな期待を抱いている。



【第569回 西本イズム継承、森脇監督にオリックス再建期待】

  二宮清純「唯我独論」(水曜日更新)2013-01-19
今季のパ・リーグは6人の指揮官のうち、監督としてリーグ優勝を経験した者が5人を占める。
北から北海道日本ハムの栗山英樹、東北楽天の星野仙一、埼玉西武の渡辺久信、千葉ロッテの伊東勤、福岡ソフトバンクの秋山幸二。

 こう書くと、あとのひとりは誰だという話になる。
オリックスの新監督・森脇浩司。監督としては新参者だが、その腕を侮ってはいけない。
監督代行としてソフトバンク、オリックスの2チームで指揮を執り37勝24敗3分、勝率6割7厘。この数字は指揮官としての非凡さを物語っていやしまいか。


【野球:オリックス・森脇新監督、名将から学んだこと  2012-12-25】

これまでの野球人生、決してスポットライトを浴びる場所にいたわけではない。
ただ、西本幸雄、古葉竹識、王貞治らの下で野球を学び、
その中で培われた指導哲学は卓越したものがある。
組織改革に乗り出した新指揮官は名将たちから、どんな影響を受けてきたのか。
二宮清純が訊いた。


【第415回 骨太の指導でダイヤの原石をどう磨くか 巨人・森脇浩司2軍内野守備走塁コーチ】

  二宮清純「プロ野球の時間」(火曜更新)投稿日時: 2010-11-30


【ソフトバンクは25日、森脇浩司ヘッド兼内野守備走塁コーチ(49)の退団を電撃発表。】
[ 2009年11月26日 ]
 秋山監督も「(森脇ヘッドとは)来年の話もしていた。
球団主導でやるというから仕方ないことだった」と、まだ戸惑いを隠せなかった。
「今回の例(この時期の通告)は自分で最後にしてもらいたい」と球団にくぎを刺した森脇氏。
功労者は思いもしない形でホークスのユニホームを脱ぐことになった。

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【森脇浩司】
〔近鉄バファローズ〕1979-1984
社高校から1979年、ドラフト2位で近鉄バファローズに入団。
〔広島東洋カープ〕1984-1987
1984年、福井保夫と共に広島東洋カープに移籍。
同年、控えの内野手として一軍に昇格。
〔南海ホークス・福岡ダイエーホークス〕1987-1996
1987年、永田利則と共に南海ホークスに移籍。
1993年、三塁手の定位置を掴み、活躍した。
守備の名手として鳴らし、控えの野手、守備固めとしての起用が多かった。

1996年、現役引退。
1997年、スコアラーに転身。
1999年、福岡ダイエーホークスの二軍内野守備走塁コーチに就任。
2001年、一軍内野守備・走塁コーチに昇格。同年よりホークスの三塁コーチを務める。

2006年、チーフ兼任となる。オープン戦にて、WBC出場の王貞治監督の代理を務めた。
また、王監督の病気療養のため、同年7月6日より、福岡ソフトバンクホークス監督代行を務める。
2009年、退団。
〔野球解説者〕2010
2010年から野球解説者に転身。
同時に編成アドバイザーとしてホークスに引き続き携わる。
〔読売ジャイアンツ〕2011
2011年、読売ジャイアンツの二軍コーチに就任。
〔オリックス・バファローズ〕2012
2012年、オリックス・バファローズの野手チーフコーチに就任。
同年9月25日から休養した岡田彰布監督の代理。
2013年、オリックス・バファローズの監督に就任。

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【森脇浩司は理論を武器に、オリックス再建に挑む。】
~“代行”での経験値を生かして~
現役時代はスター選手ではなかったかもしれない。
だが、「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。
そんな期待を抱いている。

Number820号 「選択の人間学。~僕はこんな道を選んできた」 絶賛発売中!!  2012/12/1
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オリックスの森脇新監督(左)は、秋季キャンプ初日からT-岡田ら主力に対して熱心に指導を続けた。
最下位に沈んだオリックスの再建を託されたのは、内野守備走塁コーチのスペシャリスト森脇浩司だった。
岡田彰布前監督が球団ワーストタイの11連敗を喫した直後に解任されると、監督代行に。
今季最終戦直後の10月8日、かつてソフトバンクでも経験した“代行”の肩書が外れ、「武者震いがする」と指揮官としての決意を語った。
森脇は'79年に兵庫・社高からドラフト2位で近鉄に入団し、内野手として広島、南海、ダイエーでプレー。
'96年に引退後、ソフトバンクのコーチに就任すると、左右広角に打ち分けるノックにより、川崎宗則や本多雄一を育て上げた。
'06年には、当時の王貞治監督が胃の全摘出手術で休養した際に、監督代行を経験。
試合を終えた後、“現状報告”をファクスで送り続け、「すべてを安心して任せられる」と王から絶大な信頼を得ていた。
今季、オリックスでは、監督代行となるやエンドランやスクイズなどを多用し、徹底した“つなぎ”の野球を実行。
指揮した9試合で7勝2敗と結果を残す一方、“チームの現状とこれからの方針”を日々、球団に報告していたという。
その結果、「チームを上向きにさせられる人物」という宮内義彦オーナーの評価を勝ちとった。
『葉隠』や『戦争論』を愛読する指揮官が目指す“つなぐ野球”。
「新監督として日本ハムをリーグ制覇させた栗山(英樹)流の人心掌握術は、ものすごく勉強になった」
こう語る森脇のもとには、今季まで日ハムでコーチを務めた福良淳一のヘッドコーチ就任が決定。
他のコーチ陣は、球団主導で投手コーチに西本聖、打撃コーチに石嶺和彦、内野守備走塁コーチに真喜志康永とOBで固められた。
スマートな風貌と礼儀正しい物腰で知られる森脇だが、好き嫌いがはっきりしている一面もある。
OBコーチ陣をうまく操縦できるかが課題だろう。
愛読書は『葉隠』や『戦争論』という勉強家は、若い選手を理論で説く。
勝つ野球に飢えているオリックスの若手には、森脇が標榜する“走り、守り、つなぐ野球”が少しずつ浸透しつつあるようだ。
現役時代はスター選手ではなかったかもしれない。
だが、「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。そんな期待を抱いている。


【第569回 西本イズム継承、森脇監督にオリックス再建期待】

  二宮清純「唯我独論」(水曜日更新)2013-01-19
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今季のパ・リーグは6人の指揮官のうち、監督としてリーグ優勝を経験した者が5人を占める。
北から北海道日本ハムの栗山英樹、東北楽天の星野仙一、埼玉西武の渡辺久信、千葉ロッテの伊東勤、福岡ソフトバンクの秋山幸二。

 こう書くと、あとのひとりは誰だという話になる。
オリックスの新監督・森脇浩司。監督としては新参者だが、その腕を侮ってはいけない。
監督代行としてソフトバンク、オリックスの2チームで指揮を執り37勝24敗3分、勝率6割7厘。この数字は指揮官としての非凡さを物語っていやしまいか。

 森脇には“心の師”がいる。一昨年11月に他界した西本幸雄だ。
森脇が近鉄に入団した時の監督である。「西本さんには叱り方に愛情があった」。
森脇は言い、続けた。
「入団した年の合同自主トレです。もう、ひたすら走ってばかり。ロッカーに引き上げる時、西本さんがハンドマイクでこう怒鳴った。“森脇、ケツ落ちとる!”普通なら背番号で呼ぶでしょう。ところが西本さんは高校から入ったばかりの僕の名前を、もうしっかり覚えてくれていた。“オマエのことをしっかり見てるんや!”というメッセージだったんでしょうね」

 また、こんなこともあった。
当時、藤井寺球場のライトスタンド下の室内練習場には、バッティングケージが2つ設営されていた。森脇は苦手なバッティングを克服すべく、手の皮がむけるまで黙々と打ち込んだ。
 ある日のことだ。ふと向こう側を見ると、柱の後ろで人影がソロリと動いた。
長い沈黙が室内を支配した。目を凝らすと、視界の中で白髪がかすかに揺れた。
「西本さんでした。当時の藤井寺の室内は土が深く、普通の靴だと汚れてしまうんです。
ところが西本さんはスラックスに革靴姿のまま、駆け出しの選手の練習を最後まで見守ってくれていた。これには感動しました」

 周知のようにオリックスの前身である阪急は、かつて“灰色の球団”と呼ばれていた。
それを60年代後半から70年代にかけて“パ・リーグの雄”に育て上げた人物こそ、誰あろう西本である。
 それがどうだ。21世紀に入ってからAクラスは、わずか1回のみ。
この10年間で最下位5回。チームは再び灰色に染まりつつある。
それをどう立て直すのか。森脇には西本イズムの継承者としての期待がかかる。

<この原稿は13年1月9日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


【野球:オリックス・森脇新監督、名将から学んだこと  2012-12-25】

これまでの野球人生、決してスポットライトを浴びる場所にいたわけではない。
ただ、西本幸雄、古葉竹識、王貞治らの下で野球を学び、その中で培われた指導哲学は卓越したものがある。
組織改革に乗り出した新指揮官は名将たちから、どんな影響を受けてきたのか。
二宮清純が訊いた。
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この10年で最下位5度、8回の監督交代……低迷が続くオリックスの再建を託されたのが、来季から指揮を執る森脇浩司である。
現役時代は内野のユーティリティープレーヤーとして3球団を渡り歩いた。
指導者になってからは長く内野守備走塁コーチなどを務めた。
これまでの野球人生、決してスポットライトを浴びる場所にいたわけではない。
ただ、西本幸雄、古葉竹識、王貞治らの下で野球を学び、その中で培われた指導哲学は卓越したものがある。
組織改革に乗り出した新指揮官は名将たちから、どんな影響を受けてきたのか。
二宮清純が訊いた。

二宮:近鉄にドラフト2位でプロ入りした際の監督は西本さんでした。
実際に闘将の下でプレーしての印象は?
森脇:3年間、お世話になりましたが、非常に厳しい方でした。
でも、厳しさ以上に愛情を感じました。
当時、一緒にやっていた他の方に聞いても、同様のことを言われますから誰に対しても愛情を持って接していただろうなと思います。

二宮:思い出に残っているエピソードは?
森脇:1軍に上がって、監督と握手をしたい、ハイタッチをしたいという気持ちが常にありました。
でも、監督とそういう場面をつくるには初ホームランを打つしかない。
ただ、初ホームランだと、僕も舞い上がってしまってバッティンググローブをつけたまま握手してしまうかもしれないと思ったんです。
だから、練習中から手袋をつけずにバッティングをしていました。
実際、3年目にホームランを打ち、ベンチに戻ってきて、最後にがっちり握手できた時はうれしかったですね。
そんなことを考えて実行してしまうほど、監督の人間性に心からひかれていましたし、リーダーとはこうあるべきだと背中で教えていただいたように感じます。

二宮:その後、広島に移籍した際の監督は古葉さんでした。
森脇:西本さんと共通して野球に対しては厳しかったですね。
西本さん同様、熱い一面もある一方で、非常に冷静沈着なところがあった。
正しい判断ができるよう、すぐに気持ちを切り替えてコントロールできる点は素晴らしかったですね。

二宮:古葉さんは監督の心得として「試合が始まったら、ボールから絶対に目を離してはいけない」と。
何が起きても瞬時に対応できるようにしておくべきだと話していました。
森脇:プレーから目を切らないというのは、単に目の前で起こっている出来事に対応するためだけではないと僕は考えています。
目の前のプレーには、必ず次のプレーの伏線やヒントが隠されている。
それを即座に読み取って、次への準備を怠らないようにする。
この準備がどれだけできているかで、結果は当然、変わっていきます。
古葉監督が「ボールから目を離してはいけない」とおっしゃるのは、そういった意味も含まれていたのだと感じますね。

二宮:近鉄、広島ともに当時はリーグ優勝を重ねる強いチームでした。
勝てるチームゆえに、勉強になった点も多かったでしょう?
森脇:強いチームは練習から緊張感がある。
これは共通項ですね。
キャンプ中のシートノックでも西本さんや古葉さんがドーンと後ろから見ているだけで、グラウンド内の空気は張り詰めていました。
(山本)浩二さんやキヌ(衣笠祥雄)さんといった主力でさえ、ひとつのミスも許されない雰囲気でしたから、僕らのような控え組は言うまでもありませんよね。
練習からこういったところでやっていると、試合だからといって改めて構える必要がない。練習と同じ精神状態で試合に臨めるのは結果を残す上では大事なことです。

二宮:そして南海(ダイエー)に移り、現役時代最後の監督は王さんでした。
引退後もコーチとして仕えることになりましたが、王さんから受けた影響は?
森脇:王さんの言葉や姿から発信されるエネルギーは非常に強いものがありました。その源はどこにあるかと考えると、ありきたりな言葉かもしれませんが「どんなことがあっても諦めない」ことに尽きると感じます。
王さんが福岡に来てからは苦しいこともたくさんありました。
敗戦に怒ったファンから卵を投げつけられたり、球場で「頼むからヤメテクレ」といった横断幕を掲げられたり……。
でも、そういった屈辱的な出来事があったとしても、王さんは絶対に白旗を挙げなかった。
むしろ「いつか見返してやるんだ」という強烈な思いにあふれていましたね。
 僕も今季、オリックスのコーチとしてファンの皆さんに申し訳ない1年を過ごして「臥薪嘗胆」という言葉を自分の胸に刻んでいます。
「どんなことがあっても、1%でも可能性がある限り諦めない」という王さんの姿勢は、このオリックスでも受け継ぎたいし、選手たちにも伝えていきたいと考えています。

二宮:オリックスの新監督として、何から変えていきますか?
森脇:王さんは「優勝したからこそ、我々は変わらなくてはいけないんだ」とおっしゃっていました。
強いチームでさえ、さらなる上を目指して変わろうとしているのに、最下位のチームが変わらないほうがおかしい。
僕はそう考えています。
何を変えるかということも確かに大事ですが、まずは変化に時間をかけていてはダメなんです。
何でもいいから、とにかく一歩を踏み出さないと何も始まらない。
固定観念を捨てて思い切って前へ進む。
秋季キャンプでは、そのことを選手たちに発信し続けてきました。
幸いなことに選手たちもこの点は理解してくれて新たな一歩を踏み出しつつあります。全員が変わることを恐れない組織になっていけば、次は何を改善すべきかという具体論にも入りやすくなると感じています。

【第415回 骨太の指導でダイヤの原石をどう磨くか 巨人・森脇浩司2軍内野守備走塁コーチ】
  二宮清純「プロ野球の時間」(火曜更新)投稿日時: 2010-11-30
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 今季、森脇浩司は中途半端な立場に置かれていた。
福岡ソフトバンク編成・育成部アドバイザー。
コーチではない。かといって実権を持ったフロントスタッフでもない。
 昨季は監督に昇格した秋山幸二の下でヘッド兼内野守備走塁コーチの要職にあったが、オリックスの監督を解任された大石大二郎にその座を追われてしまった。
先の仕事は、言葉は悪いが“閑職”であり、本人も望んだものではなかっただろう。

 現役時代(近鉄-広島-南海・ダイエー)は守備の名手として鳴らした。
内野ならどこでも守った。
 通算打率2割2分3厘ながら18年間も現役を張ることができたのは、その器用さを買われたからだ。
 引退後はホークスで内野守備走塁コーチ、2軍監督などを務めた。丁寧な指導ぶりで選手たちからの信頼も厚かった。また彼はノックの名人としても知られている。

 今季限りで育成・編成部アドバイザーを退任した森脇に真っ先に声をかけたのが巨人だった。
 フリーになった時点で森脇は私にこう言った。
「スポーツ紙には阪神入り、広島入りといった記事が出ていますが、具体的な話はまだありません。僕としては最初に声をかけていただいた球団にお世話になるつもりです」

 巨人が森脇に用意したポストは2軍内野守備走塁コーチ。
4年前、天下の王貞治が胃ガンの手術を受けた際にはソフトバンクの監督代行として指揮を執った。
そんな男に対して、ちょっとこのポストは「軽量なのでは……」との声もあったが、実は森脇が望んだものだった。

「僕も50歳。あと何年か経ったら若い選手と向き合えなくなる。体が動くうちに僕の持っているノウハウを伝えたいと思っていました」
 マスクは甘いが、指導法は骨太である。巨人に入団が決まる前、森脇はこうも語った。
「一生懸命やったから仕方がない。負けようと思って負けているわけじゃない。僕に言わせれば、そんなことを言う選手は財布を持たずに買い物をするようなもの。プロとしての基本がなっていない。
 結果が良ければ人一倍、いい思いができる。
そのかわり、悪かったらマスコミやファンに叩かれる。プロとして、それは当たり前。
強いチームと弱いチームを比較した場合、同じ一生懸命でもその度合いが違う。
僕ならまず、そこから指導します」

 巨人の2軍には大田泰示を筆頭に、中井大介、藤村大介ら鍛え甲斐のあるダイヤモンドの原石がゴロゴロいる。
選手層が厚いチームだけに熾烈な1軍のレギュラー争いに割って入るのは容易ではないが、下からの突き上げがなければ、チームは活性化されない。監督の原辰徳もそれを望んでいるのだろう。
 50歳にして初の東京住まい。名ノッカーに課された使命は重い。

<この原稿は2010年12月12日号『サンデー毎日』に掲載されたものです>

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【ソフトバンクは25日、森脇浩司ヘッド兼内野守備走塁コーチ(49)の退団を電撃発表。】[ 2009年11月26日 ]
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 秋山監督も「(森脇ヘッドとは)来年の話も
していた。球団主導でやるというから仕方ないことだった」と、まだ戸惑いを隠せなかった。
この決断が吉と出るか、凶と出るか…。いずれにせよ、思い切った、突然すぎる血の入れ替えだった。

「今回の例(この時期の通告)は自分で最後にしてもらいたい」と球団にくぎを刺した森脇氏。
功労者は思いもしない形でホークスのユニホームを脱ぐことになった。

その後、前オリックス監督の大石大二郎氏(51)を来季からヘッドコーチに招聘(しょうへい)すると発表した。
秋季キャンプ後の主要コーチポストの人事は極めて異例。
球団は23年間ユニホームを着た功労者・森脇氏の退任による活性化を期待し、秋山幸二監督(47)の参謀役となるヘッドコーチの入れ替えに踏み切った。

 6年連続V逸のソフトバンクが決断した。球団納会を翌日に控えた25日午前11時35分、森脇ヘッド兼内野守備走塁コーチの解任を電撃発表。
その約8時間後の午後7時28分には、前オリックス監督の大石ヘッドコーチの招聘が発表された。

 本人に通告されたのは前日24日という。

 角田雅司球団代表は「組織の活性化ということ」と説明したが、秋季キャンプにも参加し、来季の構想が見え始めた矢先の解任は、チームに波紋を起こしかねない。

 秋山監督も「(森脇ヘッドとは)来年の話もしていた。
球団主導でやるというから仕方ないことだった」と、まだ戸惑いを隠せなかった。
この決断が吉と出るか、凶と出るか…。いずれにせよ、思い切った、突然すぎる血の入れ替えだった。
「今回の例(この時期の通告)は自分で最後にしてもらいたい」と球団にくぎを刺した森脇氏。
功労者は思いもしない形でホークスのユニホームを脱ぐことになった。

〔ソフトバンク退団の森脇前コーチ、球団に異例の“再発防止”申し入れ〕
ソフトバンクを退団した前ヘッド兼内野守備走塁コーチの森脇氏が25日、ヤフードームを訪れ、球団に異例の申し入れを行った。
「自分だけのことならば、何も言わないでおこうと思ったが、家族の泣く顔も見たくない。
私のようなことがあってはならない」と同氏。
各球団など来季の体制がほぼ、固まった時点で解任されたことに対し抗議し“再発防止”を申し入れた。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【平蔵の独り言】2005年仰木彬さんが命をかけた“オリックスバファローズ”に今シーズンから監督をする森脇さん

「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。
西本さん:大毎オリオンズ→阪急ブレーブス→近鉄バファローズ、名選手ではない
仰木さん:三原さん(娘婿の中西さん)近鉄バファローズの監督の時→西本さんを後任に
→西本さん(仰木さんを高く評価、毎年のコーチ人事でも仰木放出だけは反対していた。)

〔「世の中には無名でも陰日向なく一生懸命働いている人間がいる。オレはそういう人間の努力は、いつか報われるということを野球で証明したいんだよ」〕
とりわけ闘将・西本幸雄の立ち居振る舞いから得たものは何物にも代え難かった。
と、あった。

現役を18年間
西本幸雄、古葉竹識、王貞治らの下で野球を学び
王さんから〔森脇に監督代行・ロッカールームに戻った森脇に、王は静かに告げた。 「あとは頼むぞ」〕

森脇に監督代行の座が回ってきたのは、ソフトバンクのチーフコーチだった'06年だ。7月5日、福岡ヤフードーム。西武戦が始まる前、王はコーチたちに向かって、こう言った。 
「オレは今日を最後に、しばらくチームから離れる」
ソフトバンクで監督代行として指揮を執り、30勝22敗3分。
オリックスの9試合を合わせると、37勝24敗3分。勝率6割7厘。
この数字は指揮官としての非凡さを物語っている。

森脇には“心の師”がいる。一昨年11月に他界した西本幸雄だ。
森脇が近鉄に入団した時の監督である。「西本さんには叱り方に愛情があった」。

イチローが”師と呼べるのは 〔仰木さん〕だけです”
と言っていた。

仰木さん、西本さんと森脇さん  近鉄バファローズ

オリックスバファローズ   森脇監督の今シーズンに期待!
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by asanogawa-garou | 2013-01-30 15:35 | 人間模様 | Comments(0)

【山本周五郎が描いた男たち】(さまざまな男の心情15の物語)   

2013年 01月 16日

【山本周五郎が描いた男たち】(さまざまな男の心情15の物語)

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山本周五郎の小説

「ひとりの人間はひとつの人生しか生きられない。
しかし、ああも生きたい、こうも在りたいと願った人生を、
必ずいくつか持っているはずだ。
小説という世界では、読者のそういう願望を表現することが可能である」

世の中には男があり女がある、哀しいもんだな、
という山本周五郎の人間認識は、汲めどもつきぬ深い含蓄をたたえている。
小説とは、ほんらい人間を描くものだから、男と女が登場するのは当たり前といえるだろうか?

山本周五郎の小説についての持論に、
<死の影で縁どられていない作物は、よい小説ではない>というのがあった。
山本は、生の喜びを死という陰影で、よりなまなましく浮かびあがらせた。

失意と挫折の運命に、希望と光明への期待を匂わせることで、
より迫真的な小説世界を構築した。
生と死、栄光と絶望とは、
ときに裏になり表になってそこに描かれるさまざまな人生の奥行きを、
いちだんと深いものにしていた。

どだい小説とは、
“花鳥風月”を描写するものでなくて
“人間を描く”ことを目的とするものならば、
当然、そうあるべきだと山本周五郎はいうのであった。

――――――――――――――――――――――――――――――――
【男の忍耐】『樅木の木は残った』
日本人という国民はよろずにつけて辛抱がたりない。
粘り強さにかけている。諦めが早い。熱し易く冷めやすい。
これではいけないね、と山本周五郎が云った。


【男の見切り】『虚空遍歴』
「ぼくは、新しい小説に取りかかるとき、いつも遺書を書くつもりで机に向かう」
<苦しみつつなお働け、安住を求めるな、人生は巡礼である>


【男の賭け】『赤ひげ診療譚』
山本が歴史上の有名な英雄・豪傑描くことを拒否したのは、あくまで庶民と生活感情を共有し、かれらに生きる励ましの杖を提供しようとする山本の人生観によるものだった。


【男の宥し】『ちくしょう谷』
俗世間でのいわゆる立身出世というものと、貧しくはあるが、限りない寛容、ゆるしによって得た本当の人間らしい生活と、どちらがたっといか、と作者は問いかけているのである。
人間は弱い生き物で、多くの過ちを犯す。誘惑にも溺れやすい。
作者は限りなくやさしい精神で人間を抱擁しようとする。


【男の献身】『さぶ』
すぐれた小説とは、典型的な人物を創造し得た作品、といわれる。
ところで山本周五郎の作品は、
たやすく出喰わすことのむずかしい粒えりの小説がずらりと並んでいる。
なぜか?
最初にいったように、人物造型がしっかりしているからである。
土台となる人間のデッサンが正確に描かれているためである。
しかも山本周五郎は、こういう性格の人間を書こうと思い定めたら、何年もかけてメモをとり、自分の内部で十分に映像が熟成しないかぎり筆を執らない。


【男の求道】『内蔵允留守』
山本作品には、つねに人生いかに生くべきかの問いかけがあると指摘している。

山本の作品の、“求道性”は、かれの作品の大きな特色のひとつである。
一つの技術に優れ、その技術を誇るものは、同時に自らの技に溺れやすい。
道はどこにでも、身近なところに転がっているのに、
架空の高遠な幻想を求めて、おろかな試行をくり返す者が世の中にはあまりにも多い。


【男の誇り】『ちゃん』
どんな人間にも、秘めたる誇りがある。
傍目からは、あまり格好のよくない男も、
自ら恃むプライドをもっているものである。

『ちゃん』の重吉は、きみのあなたのお父さんなのだ。
そして隣近所に似た小父ちゃんたちが、ホラおおぜい居るよ、と、
作者はわれわれに指さしているのである。


【男の情愛】『つばくろ』
山本周五郎には、「愛」にかかわる小説が多い。
「愛」と云っても、さまざまな態様がある。
取りあげたく思うのは、複雑に屈折した夫婦愛
男女が夫婦となった以上、
愛情の行き違い、誤解、紆余曲折や、
なんどかの危機に当面するのはあたりまえ、といっていいだろう。
そんなとき、どう自分をみつめ、いかにして波風をのり切ってゆくべきかーー。


『四日のあやめ』
人間社会は、すべて法律どおりに運営されるものではない。
人間は感情の生き物だから、“正論”であるがゆえに、
正当に素直に受けとめてくれるとは限らない。
正義正論という鎧に装われた屁理屈よりも、
人間の素裸の真心の表白のほうが、はるかにストレートにひとのこころを打つ。


【男の宮仕え】『蕭々十三年』
「そちは余を他人の纔言で家来を誤りみるほどの愚者と思うか。
今こそ申し聞かせるが、そちは他を凌いでも己いちにん奉公すればよいと考えている。
いかにも出精で、余もうれしく思う。
しかし家来はそちいちにんではないぞ。
そちだけが無二の奉公をして、ほかの者はどうするのだ」

人間が各自の分(本分)をまもるということが、
いかに困難なものであるかを知らされた。


【男の秋霜】『晩秋』
「このたびの御吟味は藩政革新の姿を明らかにするのが主眼で、
罪人を出すのは目的ではないと信じます。
このような調書による裁断は、少なくとも主馬にはできませぬ」
「いやこれが裁きだ」と主計が云った。
「進藤主計を裁くにはここまでやる必要があるのだ、彼を容赦してはならぬ」
主計は自らを「彼」と呼ぶ。


己にもっとも厳しい人物だけがこの難事を成すことができる。
山本周五郎自身も容易に自分を許さぬきびしい小説家であった。


――――――――――――――――――――――――――――――

【男の忍耐】『樅木の木は残った』
日本人という国民はよろずにつけて辛抱がたりない。
粘り強さにかけている。諦めが早い。熱し易く冷めやすい。
これではいけないね、と山本周五郎が云った。
桜の花のちりぎわ散りぎわの潔さを日本人は賞でる、という。
しかしぼくは反対だ。
いのちあるかぎり、藁しべにすがってでも、
最期の最期までおのれの最善をつくすほうに、ぼくは共感する。

真の文化というものは、長い風雪に耐えぬき鍛えぬかれた伝統のうえに誕生するものなので、
日本人のように表面の現象だけに色目をつかって右往左往するような軽薄な国民性からは、
ロクなものが生まれてくるはずがない。
文字においてもまったく同様のことがいえる。

【男の見切り】『虚空遍歴』
山本周五郎は基本的な小説観の支柱として、
死の影が感じられない作品はホンモノではない。
と説くのをつねとした、と書いた。

「ぼくは、新しい小説に取りかかるとき、いつも遺書を書くつもりで机に向かう」

<苦しみつつなお働け、安住を求めるな、人生は巡礼である>

【男の賭け】『赤ひげ診療譚』
山本が歴史上の有名な英雄・豪傑描くことを拒否したのは、
あくまで庶民と生活感情を共有し、
かれらに生きる励ましの杖を提供しようとする山本の人生観によるものだった。

山本とて、ぜったいに英雄や豪傑を描かなかったわけではない。
しかし、英雄・豪傑が小説の素材として爼上にのせられるときは、
否定さるべきもの、唾棄さるべきものとして取りあげられるのであった。

短編「よじょう」は、
吉川英治が人生の求道者とたっとんだ宮本武蔵を、
虚栄にこりかたまったコチコチの棒ふり男と決めつけた痛快な作品であり、
山本はここでは存分に武蔵の非人間性を痛烈に罵倒しているのである。

「『赤ひげ診療譚』論(水谷昭夫)」
<作品(赤ひげ診療譚)は
「現在われわれにできることで、まずやらねばならないことは、貧困と無知に対するたたかいだ」(駆込み訴え)と主張しながら、すべての不幸の原因を「政治」に転嫁するという思考をさけて通る。
どのような「政治」、いつの「時代」にあっても、とりのこされ、嘆きかなしむ役割を背負わされるものがいることをくりかえして語り、その人たちの苦悩のために書く事を信条としている周五郎にとって、
どのような事態においても、責任を他に転嫁して非難するという思考のなかに、
人間の基本的なものの荒廃を見る。
したがって赤ひげは、あたえられた「小石川養生所」のなかで、
このような人間のたたかいをたたかう>

<「あらゆる病気に対して治療法などはない」
と言い切る赤ひげは、保本登に、精一杯、あの「技術と人間」の不条理なかかわりと、その不条理なものと精一杯たたかっている自分の愚かさを開示している>

山本周五郎が描いた“赤ひげ”という人間は、
架空の観念的な男性像などではなくて、
少々きむずかしく見えはしても、まさしくこの世に、
いやいつの世にも実在する隣人なのである。

【男の宥し】『ちくしょう谷』
俗世間でのいわゆる立身出世というものと、
貧しくはあるが、限りない寛容、
ゆるしによって得た本当の人間らしい生活と、
どちらがたっといか、と作者は問いかけているのである。

人間は弱い生き物で、多くの過ちを犯す。誘惑にも溺れやすい。
作者は限りなくやさしい精神で人間を抱擁しようとする。

人間が人間をいったん宥したならば、際限なく宥すべきだ、
適当なところで一線を画すという宥し方は偽善にすぎない、
というのが山本周五郎の持説であり、
その持説を“小説”というかたちに具体化したのが『ちくしょう谷』であった。
この百数十枚の作品は、作者にとっても重いテーマで、脱稿まで四ヶ月を要した。

ようやく書き終えたとき、「こんなスローモーでは商売にならないな」と苦笑したのを、
わたくしは今でも覚えている。

【男の献身】『さぶ』
すぐれた小説とは、典型的な人物を創造し得た作品、といわれる。
ところで山本周五郎の作品は、
たやすく出喰わすことのむずかしい粒えりの小説がずらりと並んでいる。
なぜか?
最初にいったように、人物造型がしっかりしているからである。
土台となる人間のデッサンが正確に描かれているためである。
しかも山本周五郎は、こういう性格の人間を書こうと思い定めたら、
何年もかけてメモをとり、自分の内部で十分に映像が熟成しないかぎり筆を執らない。

安直にチョコチョコとなぐり書きしたような登場人物が、
人間として実在感のある、陰影をもった生き物として描かるわけがないと、山本はいうのであった。
だから山本の作品に登場してくる人物たちは、
どんな端役でも、人間として実際に生きているように感じられる。
それほどに彼は、作中の人物たちと十二分につきあったのちに、彼らを小説化したのである。
だから山本は、作品の登場者たちに、徹底した人間性を付与することができたのだ。

尽くして、尽くして尽くしぬく……という人間として、
もっとも困難にしてたっとい行為のつみ重ねによって、
“さぶ”も無意識のうちに、いつしらず人間完成に近づいていたのだ。

【男の求道】『内蔵允留守』
山本周五郎は、人生派の小説家だと評価する批評家がいる。
これは山本が、小説の目的は、花鳥風月や“事件”を描くものではなくて“人間”を描くものだということを信条としたことからも、当然でてくる批評であろう。

山本作品には、つねに人生いかに生くべきかの問いかけがあると指摘している。

山本の作品の、“求道性”は、かれの作品の大きな特色のひとつである。
「山本さんは長ずるにしたがって、小手先の器用さで変わった趣向の作品を書くことをだんだんやらなくなっていきました。
そのころ『内蔵允留守』という小説がありましてね、うん、これはいいモノだと感服したのを今でもよく覚えています」

一つの技術に優れ、その技術を誇るものは、同時に自らの技に溺れやすい。
道はどこにでも、身近なところに転がっているのに、
架空の高遠な幻想を求めて、おろかな試行をくり返す者が世の中にはあまりにも多い。

しっかりと自己を掌握し、地面に足をつけて、まず足元から一歩一歩を踏み出せ、というのが、
山本周五郎の求道の第一義であったようだ。
求道に当たっては、いかなる方法によるも“道はひとつ”というのが、
山本の確固とした認識で、さまざまな視点から、その考えを示した小説があり、
緊張美をもつ作品として結晶している。

【男の誇り】『ちゃん』山本周五郎は、よくこう云ったものだ。
「ひとりの人間はひとつの人生しか生きられない。
しかし、ああも生きたい、こうも在りたいと願った人生を、必ずいくつか持っているはずだ。
小説という世界では、読者の、そういう願望を、第二、第三の人生として表現することが可能である。
人間というものには、案外、まぬけなところがあって、
とかく自分の都合に関係のあることにしか関心をもたない部分がある。
他人の苦しみやつらさは考えないことはないにしても二の次、三の次まわしにする。
そういう種類のひとびとは、あまり周囲のことを思いやらない。
せっかく大事な人生を現実に生きているのに、ついウカウカと暮らしてしまって、
無意識な生涯を終えるという例が、あんがい多いんだよ。

小説では、そういった、ついウッカリ見過ごしてしまうような人生に光をあてて、
読者の視線をひくことができる。
小説で描かれる社会はもちろん現実そのものではない。
しかし、無神経に生きている人々の生き方よりも、
架空の小説世界での人生のほうに、はるかに真実の人生がある場合があるし、
その小説を読むことによって、自分の人生が、なにか間違っていたのではないか、と反省させられる……というケースも珍しくない。
わたくしはそういう作品を書きたい。それが小説の効用というものだと思う」
というのであった。

どんな人間にも、秘めたる誇りがある。傍目からは、あまり格好のよくない男も、自ら恃むプライドをもっているものである。
くり返すようだが、山本周五郎の小説にあらわれる男性、女性は、外見では、あまり水際だった人物は出てこない。
もちろん例外はあるけれども、颯爽としている登場者は極めて少ないのである。『ちゃん』の重吉も、しがない職人のひとりである。
どこにもここにもいる典型的な小市民だ。
富貴も金銭も、名誉も地位も、しょぼくれた呑んべえの、長屋住人である重吉を中心とする一家の生き方が、人間として、もっとも大切な、生きることの誇りとはなにか!

『ちゃん』の重吉は、きみのあなたのお父さんなのだ。
そして隣近所に似た小父ちゃんたちが、ホラおおぜい居るよ、と、
作者はわれわれに指さしているのである。


【男の情愛】『つばくろ』
山本周五郎には、「愛」にかかわる小説が多い。
小説とは、人間を描くものだというのが信念だった作者にとって、至極当然のことだと思う。

「愛」と云っても、さまざまな態様がある。
隣人愛、自己愛、主従愛、友人愛、兄弟愛、同志愛、師弟愛、国家愛、郷土愛、会社愛、職場愛……など数かぎりないかたちで、愛は人間のこころに存在している。
同志愛とは反対に、敵を愛するこころさえ、人間にはあるのだから。

取りあげたく思うのは、複雑に屈折した夫婦愛
男女が夫婦となった以上、愛情の行き違い、誤解、紆余曲折や、なんどかの危機に当面するのはあたりまえ、といっていいだろう。
そんなとき、どう自分をみつめ、いかにして波風をのり切ってゆくべきかーー。
とくに夫の立場にあるものは、
「おれには自分にできることしかできない、おれは人の苦しむのを見るより、自分で苦しむ方がいい、もしこれが人間を侮辱することになるのだったら、喜んでその責めを負うよ」

自分が忍耐してゆくために、つねに家康の家訓ー人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し、いそぐべからず、という一条を胸に噛みしめる。

ここにも山本が、生涯の坐右の銘としたストリンドベリーの
〈苦しみ悩みつつ、なお働け。安住を求めるな、人生は巡礼である〉


『四日のあやめ』
人間社会は、すべて法律どおりに運営されるものではない。
人間が感情の動物である以上、そしてもちろん侍も人間であるからには、
法という規範を無視しても、意地や面目を立てなければならない場合に、
ぜったいめぐり合わないという保障はない。
人間は感情の生き物だから、“正論”であるがゆえに、正当に素直に受けとめてくれるとは限らない。
正義正論という鎧に装われた屁理屈よりも、
人間の素裸の真心の表白のほうが、はるかにストレートにひとのこころを打つ。

【男の宮仕え】『蕭々十三年』
「そちは余を他人の纔言で家来を誤りみるほどの愚者と思うか。
今こそ申し聞かせるが、そちは他を凌いでも己いちにん奉公すればよいと考えている。
いかにも出精で、余もうれしく思う。
しかし家来はそちいちにんではないぞ。
そちだけが無二の奉公をして、ほかの者はどうするのだ」
半九郎は息が止まるのではないかと思った。
主君の言葉は、彼の全身を微塵に砕くかと思われた。
「戦場では『ぬけ駆けの功名』をもっとも戒むべきこととする。
平時にあっても変わりはない。
己一人が主人のきにいられようとすれば、寵の争奪となり、岡崎五万石は暗となってしまう。
そちの奉公は、ぬけ駆け同然だ。
無役にしたのも反省の機会を与えるためであったが、他人の纔言などとは見下げはてた奴だ。
さような者は余の家臣ではない。いとまを遣わすゆえ、でてゆけ」
半九郎は身動きもせず、面もあげなかった。
肺腑を絞るような声で、半九郎は泣いた。

人間が各自の分(本分)をまもるということが、いかに困難なものであるかを知らされた。

【男の秋霜】『晩秋』
「このたびの御吟味は藩政革新の姿を明らかにするのが主眼で、
罪人を出すのは目的ではないと信じます。
このような調書による裁断は、少なくとも主馬にはできませぬ」
「いやこれが裁きだ」と主計が云った。
「進藤主計を裁くにはここまでやる必要があるのだ、彼を容赦してはならぬ」
主計は自らを「彼」と呼ぶ。
「岡崎藩では」と主計が云っていた。

「襲封このかた、御政治向きには多くの手段を必要とし、領民にも過酷な政治を強いた。
それは藩礎が固まるまで、どうしても必要だったのだ。
今や藩礎は定まった。領民にも耐え忍んでもらったものを返せる時がきた。
新しい政治が始まるのだ、そしてそれは進藤主計の秕政を余すなく剔抉することから始まるのだ」

「しかし、果たしてこれが過誤でしたろうか」
「可斂誅求は政治の最悪なるものだ。
これだけでも進藤主計の罪は死に当たる。
そしてこれは初めから覚悟していたことなのだ。
残念なのは家中から幾人か犠牲者を出したことだ、
中には惜しい者、心を打ちあけてみたい者も少なからずあった。
老人の愚痴になるが、
そういう者に黙って死んでもらわねばならない気持ちは、かなり堪えがたいものだったよ」。

おそらく鈴木主馬だろう、声を殺して咽びあげるのが聞こえてきた。
「自然の移り変わりの中でも、晩秋という季節のしずかな美しさはかくべつだな」
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昭和二十年八月十五日、日本は太平洋戦争に、有史以来の敗北を経験し、
連合軍が進駐して来てこの国の占領者となり、
それまでの日本における価値観が大幅な転換を余儀なくされた。
戦争責任の所在が問題になると、
日本人のなかには“一億総懺悔”論を唱えるムキも出てきたりして、
問題の本質をはぐらかそうとする。
あいまいなままに、なんとかうまくゴマかそうという要領のよい卑劣さが観取されたものである。

戦勢が香しくなくなってからでも、
退却を転進、全滅を玉砕、敗戦を終戦と言い換える小才を弄した不正直さに、
日本人の見えすいた強がりや虚栄を感じて、
不愉快な思いを味わった同胞も少なくなかったはずである。

『晩秋』は、まさにこうした世相を背景に描かれた作品であった。
進藤主計は秕政を徹底的に剔抉される悪徳の政治家として描かれている。
主計は己れの保身をはからないばかりか、
藩礎の固まったいま、自分の責任を徹底的にあばくための資料をみずからの手で作成し、
自らを裁くのである。

武士も俸禄生活者である以上、一種のサラリーマン的な生活側面をもっているといえる。
サラリーマンの大半は、立身出世欲の所有者であり、
ふつうは責任を問われるような仕事は敬遠して、なるべく苦労すくなく甘い汁を吸おうとする。
人間である以上、いたし方のない生存本能みたいなのかもしれない。
自ら責任を取る、ということは、いかにもいさぎよく爽やかだが、実際には至難の行為である。

己にもっとも厳しい人物だけがこの難事を成すことができる。
山本周五郎自身も容易に自分を許さぬきびしい小説家であった。

【平蔵の独り言】
高倉健さんの『プロフェッショナル仕事の流儀』
NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』で
【健さんが持ち歩いている愛読書】
木村 久迩典の『男としての人生 山本周五郎のヒーローたち』
以前、薦められて「青べか物語」を読んだが、もう一つ山本周五郎の作品は
ピンと来なかった。

山本周五郎の小説
「ひとりの人間はひとつの人生しか生きられない。
しかし、ああも生きたい、こうも在りたいと願った人生を、
必ずいくつか持っているはずだ。
小説という世界では、読者のそういう願望を表現することが可能である」

・山本周五郎の小説に対する思い
市井の中に生き生きとした人間像を描く
慎ましく生きて来た人達が一番えらい!
市井の人が一番えらい(高倉健〔あなたへ〕)

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独り言ではなく、
映画「あなたへ」と高倉健さん
木村 久迩典の『男としての人生 山本周五郎のヒーローたち』

との出会いに感謝!
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by asanogawa-garou | 2013-01-16 16:58 | あの人 この一言 | Comments(0)

[松井秀喜]引退を明かした記者会見で、「長嶋監督と二人で素振りした時間」を野球人生いちばんの思い出!   

2013年 01月 03日
[松井秀喜]引退を明かした記者会見までまったくぶれなかった。
「長嶋監督と二人で素振りした時間」を野球人生いちばんの思い出
「ピッチャーというのは、ノーマルな人間は大成しませんね」。
こう言って長嶋茂雄さんが続けた。
春秋 2012/12/29付

「ピッチャーというのは、ノーマルな人間は大成しませんね」。
こう言って長嶋茂雄さんが続けた。
「われわれ(打者)は逆に、ノーマルじゃないと仕事ができないんです。
相手があって商売が始まりますから」。
ある対談での発言を意外に感じつつ読んだ記憶がある。

▼ほどなくこの人を思い起こして得心した。
松井秀喜選手の、たったワンシーンでもノーマルでなかったことがあっただろうか。
その姿勢は引退を明かした記者会見までまったくぶれなかった。
「長嶋監督と二人で素振りした時間」を野球人生いちばんの思い出にあげたが、
学んだのはバットの振り方だけではなかったのだ。

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▼お尻から体つきから一回り二回り違う猛者にまじっての大リーグの10年が、
次々脳裏から立ちあらわれてくる。
ヤンキースタジアムのデビューで放った満塁本塁打。
ぼてぼてのゴロ。
手首を折ったスライディングキャッチ。
ワールドシリーズの活躍。
ただ、ノーマルすぎるがゆえに痛々しく見えることも、最近は多かった。
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▼2年前の9月8日、スタンドに赴いた。
エンゼルスのMATSUIは八回に代打で登場、と思う間もなく、
相手投手が左腕に代わると「代打の代打」を送られた。
わずか10メートルほど、打席へと歩んで引き返すうつむきがちの後ろ姿が目に焼きついている。
その屈辱と引退とを二重写しにすると、浮かぶのは矜恃(きょうじ)の一語である。
日本経済新聞2012/12/29(春秋)

【平蔵の独り言】
昭和49年10月のある夜、
日本テレビ「11PM」で背番号3「長嶋茂雄」が引退
明日の中日とのダブルヘッダー(一日2試合)は
長嶋の引退試合だと、放送していたのを見ていた。

このシーズンは子供の頃からファンだった
巨人がV10の逃して、中日が優勝した年で
消化試合だった。
まだ若く人生をあまり真剣に考えていなかった
(人生なんて全く考えていないといった方が正しい)
会社を辞めて面接を受けに行く途中
後楽園球場の横を通ると球場は「ワッ~」と湧いていた。
そのまま、後楽園球場にいつもの観戦のように
内野立見席を購入して、第1試合の途中からだった。
●第1試合と第2試合の合間に長嶋が球場を、何度も涙を拭きながら一周。
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●試合終了後、「我が巨人軍は永久に不滅です」
(記憶では 永遠に と思っていたが)
をバックネット裏にへばり付いて見ていた。
(試合の後半になると整理員もいなくなるので当時は自由に動く事ができた)
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長嶋の引退があの日でなかったら、今と違う人生であったのだろう。
いや、小学校4年の時長嶋が巨人に入団してから、
友達とみんな巨人ファンになり、
今の人生がある。
松井秀喜の出身地に住んでいる。

今も、長嶋さんから生きる希望と勇気をもらっている。
長嶋さんの闘病、リハビリそしてその後の活躍
奥様亜希子さんを亡くされたこと・・・・・・・・・・・

松井の現役引退がまた長嶋さんを思い出させてくれた。
昭和49年が人生でこんなに大きな出来事になるとは知らずに
ノー天気に引退試合を観戦していた。
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by asanogawa-garou | 2013-01-03 18:09 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)