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〔中村勘三郎〕男と女が好きになって、いろいろあってもいいじゃねえか。理にかなってるから“可倫”だよ   

2013年 02月 21日
〔中村勘三郎〕「男と女が好きになって、いろいろあってもいいじゃねえか。理にかなってるから“可倫”だよ」
華やかな、やんちゃぶりもたまらない魅力の一つだった。

・勘三郎さん急死、ミスター「あまりに惜しい」
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〔(中村勘三郎さん)▼それでも「名優」と呼ぶのは憚(はばか)られた。「やんちゃ」のためもあろうし、一生かかって究める芸の道はまだまだ先が長いと思ったからでもある。〕

春秋 2012/12/6付
・先代勘三郎4人目の子が待望の男児だった。
「オムツを取って証拠を見せてくれ」と妻にせがんだ逸話が残る。


〔「事を敬して信…」。中村勘三郎さんが生前に愛した言葉。〕

〔中村勘三郎の「告白」太地喜和子との本物の恋〕
・中村勘三郎さん 大竹しのぶ好きになり太地喜和子さんと別離

〔森光子・勘三郎 『寝坊な豆腐屋』〕
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〔中村勘三郎〕「男と女が好きになって、いろいろあってもいいじゃねえか。理にかなってるから“可倫”だよ」
華やかな、やんちゃぶりもたまらない魅力の一つだった。

・勘三郎さん急死、ミスター「あまりに惜しい」
サンケイスポーツ 12月6日(木)7時51分配信

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 幅広い芸域と江戸弁のきっぷのよさで親しまれた歌舞伎俳優で、テレビや映画でも活躍した中村勘三郎(なかむら・かんざぶろう、本名・波野哲明=なみの・のりあき)さんが5日午前2時33分、急性呼吸窮迫症候群のため東京・文京区の日本医科大付属病院で死去した。57歳だった。
今年7月に食道がんの手術を受け、舞台復帰を目指し闘病していた矢先の無念の死。巨人・長嶋茂雄終身名誉監督(76)が哀悼コメントを出すなど、悲しみと永遠の別れを惜しむ声が広がった。

 関係者によると、勘三郎さんは長男の中村勘九郎(31)、次男の中村七之助(29)、女優の大竹しのぶ(55)ら家族や親友に看取られて息を引き取った。

 この日、公演中の京都・南座で会見した勘九郎、七之助によると、ここ数日は容体が安定していたが、公演初日から1週間ということで4日夜に帰京したところ、急変していたという。

 立ち役、女形とも巧みで、愛嬌あふれる存在感で観客を魅了し、歌舞伎人気をけん引した。
若いファンを獲得するため、1994年から現代音楽を取り入れた「コクーン歌舞伎」をスタート。
2000年に旗揚げした「平成中村座」は米国でも人気を博した。

 また、子供時代は巨人のV9時代と重なり熱烈な長嶋ファンになった。
1980年11月に挙式した際、
当時監督を解任されて間もない長嶋氏からの祝電に、思わず感激の涙を流した。
2004年3月には、東京ドームで行われた大リーグ公式戦「デビルレイズ-ヤンキース」で、
脳梗塞で倒れた長嶋氏の回復を願って背番号「3」をつけて始球式を行ったほどだ。

 交際範囲も広く、独身時代に12歳年上の故太地喜和子さんと恋仲になったほか、
結婚後も宮沢りえ(39)や牧瀬里穂(40)、米倉涼子(37)らとの交際が話題を呼んだ。
三角・不倫関係が浮上した時の会見では
「男と女が好きになって、いろいろあってもいいじゃねえか。理にかなってるから“可倫”だよ」。
華やかな、やんちゃぶりもたまらない魅力の一つだった。

 活躍は「歌舞伎」に止まらず、1999年のNHK大河ドラマ「元禄繚乱」の大石内蔵助役や同年のNHK紅白歌合戦の白組司会を務めた。縦横無尽、奔放に生きた勘三郎さん。だが、57年の生涯はあまりに早すぎた。

【巨人・長嶋茂雄終身名誉監督コメント】

 食事をともにしたり、お芝居を拝見したりと、勘三郎さんがご結婚されたころからですから、もう30年以上のお付き合いになります。やんちゃで、誰からも愛される、そのお人柄に私も魅了されました。

 昨年10月には、勘九郎さんの襲名祝宴会にお招きいただきました。ご長男の立派なお姿に何度も目頭をハンカチで拭っていた、あの父親の顔は忘れられません。

 歌舞伎のジャンルにとどまらない八面六臂の活躍で、まさに才気煥発という形容がふさわしかったと思います。何事にもパワフルに取り組む方でしたから、病魔にも打ち勝ってくれると信じていましたが。あまりに惜しい、の一言です。


〔(中村勘三郎さん)▼それでも「名優」と呼ぶのは憚(はばか)られた。「やんちゃ」のためもあろうし、一生かかって究める芸の道はまだまだ先が長いと思ったからでもある。〕

春秋 2012/12/6付
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・先代勘三郎4人目の子が待望の男児だった。「オムツを取って証拠を見せてくれ」と妻にせがんだ逸話が残る。

中村勘三郎さんならもっと大事な芝居をたくさん見ているはずなのに、どうでもいいことばかり思い出す。
たとえば「浮かれ心中」の宙乗りで、眼下の客席にいた中曽根元首相に扇子を振って「御大!」などと大声をかけ、笑いを誘っていたこと。その愛嬌(あいきょう)。華やかさ。
▼それが4年前で、そういえば歌舞伎座が壊される直前、最後の月の夜は「助六」でちょい役の通人里暁をなんとも愉快に演じていた。
などなどと、誰もが大事な場面、その人だけのどうでもいいことを思い出しているのだろう。
来年4月に完成する新しい歌舞伎座でいちばんに見たい人だったのに、57歳、訃報が早すぎる。
▼先代勘三郎4人目の子が待望の男児だった。「オムツを取って証拠を見せてくれ」と妻にせがんだ逸話が残る。92歳の曽祖母に見せるため2歳で「忠臣蔵」の舞台に出た。以来、アンファン・テリブル(恐るべき子ども)と言われた頃から大名跡の十八代目を継いだ今日まで、疾走と形容するにふさわしい半世紀余だった。
▼それでも「名優」と呼ぶのは憚(はばか)られた。「やんちゃ」のためもあろうし、一生かかって究める芸の道はまだまだ先が長いと思ったからでもある。歌舞伎の枠を大いにはみ出し、それにも魅力があって、でもやはり歌舞伎がいい。新装歌舞伎座にも、あの小屋にしかない「気」が宿るはずだ。その中に勘三郎を置きたかった。


〔「事を敬して信…」。中村勘三郎さんが生前に愛した言葉。〕
2012年12月6日 16時00分

従来の歌舞伎の枠を超えた活動にチャレンジしてきた中村勘三郎さんは、1994年に東京・シアターコクーンで「コクーン歌舞伎」を始めた。
古典歌舞伎を新たな演出で上演して石野卓球、椎名林檎といったミュージシャンを起用するなど、斬新な試みが話題となった。

一方でシアターコクーンでは本来禁止されている客席での飲食を認めるなど、観客が歌舞伎を楽しめることに目を向けてあらゆる角度から新風を吹き込んだ公演だ。
そうした活動は「コクーン歌舞伎がなければ今の私はなかったと思う」と言うほど、彼にとって大きな意味があったのだ。

座右の銘を問われると勘三郎さんは、大事にしている言葉ならばと「事を敬して信」を挙げた。「論語の言葉らしい。『遊びも仕事も本気でやれば信頼を生む』というようにとらえている」と彼なりに解釈しており、そうした生き方を目指していると語った。

この言葉は論語にある「子曰く、千乗の国を道くに、事を敬して信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす」の一節と思われる。そのままに訳すと「国を治めるには、政事を慎重にして人民の信頼を得て、国費を節約して人民を愛すべき…」となる。

それをもとに様々な解釈がされており、「仕事を敬いの気持ちですれば、周りから信頼を得る」というものもあるのだ。中村勘三郎さんが「遊びも仕事も一生懸命に…」ととらえたのは彼らしいといえるだろう。
コクーン歌舞伎をはじめ、海外での公演や現代演劇人と組んだ「法界坊」など歌舞伎での活動に力を注ぎながら、テレビドラマでも名演を残してきた。

何事にも本気で取り組んできた勘三郎さんだからこそ、そこまでの信頼を得ることができたのだ。
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)
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「型をしっかり覚えた後に、『型破り』になれる」
「形というのは、ピタリと決まる体と手の位置が、その人にしかできない独自の美しさまで到達したもの。そこに役者の心が入るのです」
「形を極め、型を破ることを続けてきたから今日がある。挑戦です」
自分の芯をつかむ

「何のためにやるのかという意味がはっきり分かっていないと、そこにあるのは肉体だけだ」
「焦ったって本人が不安なら、見ている人は面白くも何ともないんですよ。機は熟す。身のうちから突き上げるように満ちてくるものなのです」
挑戦することの大事さ
「人間の本質は変わらない。でも時代は変わる。だから、立ち止まるわけにはいかないと思います」
「ただ自分の居場所にじっとしてはダメなんですよ。外へ外へと出て行って巡り会って育てていかないと。机の前に座って情報を集めるだけではそこに熱がない」
誠実にやりきること
「人生の成功とは、死ぬときに悔いが残らないこと」
「人間って一人で仕事をしていることってないですね。たとえ山の中で黙々と一人で木を切っていたって、親とか師匠とかの視線を心の中に持っている。ずさんな仕事をすればあとで仲間に伝わる」
中村勘三郎さん死去のニュースに言葉をなくす。
今ひるおびで小松成美さんが語る勘三郎さんの言葉が胸を打つ。
『自分の全てはお客様のためにある。精進もエンターテイメントも。だから自分はいつまでもアイドルでなくてはいけない。ライバルはジャニーズ。嵐の松本君だ』そう言って笑っていたそうだ

17代目中村勘三郎の長男として生まれた。
5代目勘九郎として3歳で初舞台。
2005年に18代目勘三郎を襲名した。

立ち役、女形とも演技は巧みで、愛嬌(あいきょう)あふれる華やかな存在感で観客を魅了、歌舞伎人気をけん引した。
<大竹しのぶ>
会った人は必ず彼を好きになると思うし、後にも先にも彼みたいな人は現れない。
いないと困る人です。
<宮沢りえ>
人間として表現者として、本当に、最高にチャーミングな生きざまを見せ続けてくださった。
<山田洋次>
才能のある人たちを組織し見事な演劇的世界を作り上げることをしたこの人の偉大な功績は、演劇史に大きく記される。

〔中村勘三郎の「告白」太地喜和子との本物の恋〕
文関 容子 (ノンフィクション作家)
2013.01.11 07:00
師走に急逝した第十八代中村勘三郎が京都の夜を徹して筆者に語った純愛と、その終焉―
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急接近する二人
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Photo:Kyodo
二十数年前、その店で勘三郎(当時勘九郎)さんが太地喜和子さんとの真剣な恋の話を熱く語ったことがある。 
私は生涯この話を書くことはあるまいと思って聞いていたが、彼の亡くなった日の早朝から喜和子さんとのことがテレビの映像で流れ、この恋なくしては今の自分はいなかった、と勘三郎さんが言っているのを見た。 
あのとき、人が人を本当に好きになるということは、こんなにもその人生に深く根をおろすものなのか、と切に感じ入ったことが今も変らず私の中にある。
やはり書こう、と思う。 
「僕が昔、南座に出てるとね、喜和子がいつもこの店で待ってたんだ。芝居がないとずっと京都に来ていてね。好きになったからには毎日会おう、って約束して、僕が大阪に出てて向うが東京だと、まん中の名古屋で三十分だけ会って、またあくる日、ってこともあったし、向うが北海道や九州でも、飛んで行って会ったしね」
女優・太地喜和子の存在を彼が初めて知ったのは、昭和五十年夏、文学座アトリエ公演、『桜ふぶき日本の心中』を人に誘われて観たときだった。 
「とにかく素敵だった。チャーミングだった。色っぽかった。可愛かった。その上ものすごくうまかった。夢中になって、楽まで毎日通ったね」
この芝居は作者の宮本研が太地にあて書きしたものだけあって、鳥追い女、女郎、白痴のような女、近親相姦の学者令嬢と、四通りの女はどれも太地の女優魂を刺激しそうな役ばかりだ。鳥追い女は三人の座頭(ざとう)と旅をする。座頭たちは戦後日本にそれぞれ特攻崩れ、過激派学生、拳銃強盗に転生し、権力や体制にさからって死んでゆくのだが、鳥追い女が生まれ変った女郎や、白痴や、双子の兄と知らずに愛する令嬢が、彼らを優しく労わり、つきあって心中する。 
「鳥追い女は死なないで、何度でも心中するんだよね。女の生命力ってすごい、と思った。幕切れに桜がパーッと散って、喜和子が言うの。花が散りまた咲くように、女は桜、日本です……って。俺、覚えちゃった。毎日だから」
それからの二人は急速に接近し、お互いの芝居を観ては熱心に批評し合った。 
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中村勘三郎さん 大竹しのぶ好きになり太地喜和子さんと別離
NEWS ポストセブン 2012年12月21日(金)7時6分配信
 12月5日、急性呼吸窮迫症候群のため57才の若さで亡くなった中村勘三郎さん。生前は数々の女優と浮名を流したこともあった。

 1975年、当時19才だった勘三郎さんは、文学座の若手女優として人気だった故・太地喜和子さん(享年48)が主演する舞台『桜吹雪 日本の心中』を見に訪れた。勘三郎さんは、かつて本誌のインタビューでこう振り返っている。

「それがすごくよかったんです。で、次の日も見に行ったら、いちばん前の席しかなくて。照れくさい思いで見ていたら、途中で彼女が気づいたんだね。『女は桜、日本です』という最後の決めがあるんだけど、それをおれを見ていうの」

 恥ずかしさと照れくささで楽屋にも顔を出さずに帰ろうとすると、突然、物陰から血だらけの手が出てきて、勘三郎さんを引き止めた。それは死にゆくラストシーンで血まみれに塗られた、太地さんの手だった。

「あんた、また見にきてくれたのね。すぐ化粧を落として行くから待っててちょうだいね」

 再び、勘三郎さんの回想。

「最初、色っぽい、女っぽい人だと思っていたのに、とんでもない男みたいな、さっぱりした人だったので、またびっくりしちゃって。パウダーみたいな感じ、さらっとしているんだよ。あぐらかいてお酒飲んで、芝居を語る姿に、なんだよ、この人はと思ったね」

 この時、太地さんは31才。12才差のふたりは、酒を飲み、演劇論を闘わせながら、やがて男女の仲になった。しかし、この交際も3年で終わりを迎えることになる。

「おれが大竹しのぶ(55才)を好きになっちゃったんだ。恋しちゃったんだね」と勘三郎さん。

 22才の時、当時20才だった大竹と『若きハイデルベルヒ』の舞台で共演。皇太子と酒場の娘が恋に落ちる物語で、演劇関係者の間には「この芝居をやると、どのカップルも本当の恋になる」という“言い伝え”があった。その通り、勘三郎さんは恋に落ちたのだ。だが、当の大竹はというと

<私はまだデビューしたてでしたから本当に何も知らなくて、勘九郎さん(当時の勘三郎さんの名)に誘われてもいつも遊園地ばかりリクエストしていました。花やしき、谷津遊園、豊島園、後楽園とかよく行きました。しかも、必ず妹とか友達が一緒。だって、恥ずかしいじゃないですか、二人だけというのは>(中村勘三郎著『襲名十八代』〈小学館刊〉での大竹へのインタビューより)

 大竹への恋心ゆえに、ふたりの舞台が続いている間、勘三郎さんは太地さんに連絡をとることができなかったという。ところが舞台が終わると同時に、勘三郎さんは、好きだったのは大竹ではなく、大竹演ずる町娘だったことにハッと気づく。

<とうとう楽日。不思議だね、打ち上げが終わったらスーッと気持ちが冷めたんだね。なんだ、違う、違うよ、僕はって。それで元の彼女のところへ行ったらフラれちゃった。恋が一つ終わった。大竹のせいだよ。まあ、大竹はもちろん、知るよしもないけど、アッハハハ>(『襲名十八代』より)

※女性セブン2012年12月27日・1月1日号

〔森光子・勘三郎 『寝坊な豆腐屋』〕稽古場レポート2007年09月27日
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 森光子と中村勘三郎、二人の共演が話題の10月新橋演舞場夜の部 『寝坊な豆腐屋』。稽古の様子や、公演への意気込みについてお二人に話をうかがいました。

森光子―――
 本読みの時から泣ける脚本で、本当に幸せです。
泣けるだけでよいとは思いませんけど、今回とてもいい涙が流れて…ありがたいと思っています。
 勘三郎さんをお稽古場で毎日拝見していると、どんどん圧倒されて、
もう、なんだかみんなファンの集まりみたいになっちゃって(笑)。
自分を忘れちゃうことがあります。

中村勘三郎―――
 最後のシーンなんかとても良くて、私のセリフで「みっともないよ、そんな、おれの背中でババァ泣いてたら、みっともないよ」って言うんだけど、こっちが泣けてきちゃうんです。
それをいかに抑えようかって苦労しています。
 母親が何十年ぶりかに、懐かしい酒場にスッと帰ってくるシーンで、森さんが手をサッと振って入ってくる時に、風が吹く感じがするんですよね。
同じ演舞場で、昔、初代水谷八重子さんと共演させていただいたときと同じように、あの時も風が吹きましたね。
 やっぱり、ああいう風が吹くっていう感じ。
芸の力っていうか、そういう事が幾つになったら出来るようになるのかな、なんて見ていますね。
 それと、とても新鮮なのは、歌舞伎俳優が出てるんですよ。
これが可笑しくて大笑い。亀蔵なんて、生まれて初めて現代劇なんですよ。
けど、歌舞伎しかやったことがないから、(演技が)時代なんですよ、これがね。
 彌十郎の現代劇も見たことなし、扇雀は女方なんだけど、電気屋の息子で出てきてね。これが上手いんですよ(笑)。ビックリしました。
 稽古場が良い雰囲気で、色んな人がいますでしょ。田根楽子さんも武岡淳一さんも、佐藤B作さんとも初めてだし。

森―――
 B作さんを、ひっぱたいたりしてらっしゃいますね。バチンバチン(笑)。

勘三郎―――
 いろんなところから来た人が、同じ釜の飯を食べてって言うのがとても面白い。こういう経験なかなか無いですからね。

昭和37年の頃のについて―――
森―――
 東京オリンピックのときには、もう東京におりました。
本当に日本が上向きだった気がしますね。
勘三郎―――
 僕は、昭和30年生まれなので7歳ですけど、その頃覚えているのは力道山ですね。
それから、当時麹町に住んでたんですけれども、車が全然通らなかったですよね。
それから紙芝居屋。それから、(車の)ミゼット!
森―――
 舞台に出ていて、高速を使っていたんですけど、ガラガラでしたね。
高速から木を眺めたりして。
勘三郎―――
 今の豆腐屋さんってオートメーション化になっちゃってますでしょ。
この間、湯布院へ行きまして、昭和の頃からの手作りの豆腐屋さんを見てきました。
にがりを入れるところなんか、勉強になりました。ヘラも借りてきました。
本物は違うもんですね。

母と息子を演じて―――
森―――
 勘三郎さんのお小さいときのお宅によく伺わせていただいて、その頃は“哲明さん”なんてお呼びしてました。小さい頃の勘三郎さんの姿も思い起こしたり…
勘三郎―――
 現代劇で、もう子供の役をするのは最後でしょうね。母親をする人も、もうそんなに(笑)。波乃久里子だっておかしいもんね、母親役じゃ(笑)。
森―――
 今回、ご兄弟役をお二人で、素敵ですね。
勘三郎―――
 やりにくいっちゃありゃしない(笑)。口から先に生まれた役って、ピッタリですね。
いつもしゃべっていますから、家でも。

すれ違いから、憎まれ口をたたいたりしますね―――
森―――
 このお芝居一本で“ババァ”って50回位言うの(笑)
勘三郎―――
 それが難しくてね。「冗談じゃないよ」なんて、随分悪態をつくんです。それは役として言わなきゃいけないのは解かっているんですけど…稽古場では、ちょっとやりにくいですね。

昼の部は歌舞伎ですが―――
勘三郎―――
 『俊寛』は久しぶり、島(鹿児島県硫黄島)でやって以来ですね。衣裳は初代吉右衛門の衣裳で、それがうちの親父に引き継がれて今は私に。最初はきれいだった着物が、いい具合に汚れて。それって大変に難しい事なんです。
 島でやった時に、大切なこの衣裳のまま海の中まで入っちゃって。もちろん、綺麗に洗ってあるんでしょうけど、気持的には“俺の俊寛の衣裳は、本当の海の中に入った衣裳だ”ってね。袖からうっかり砂でも出てくりゃ(笑)…本当に島にいるように出来たらいいなと思っています。
『人情噺文七元結』では、山田洋次監督が美術の指示を出してくれています。よごれた長屋を作るのって難しいんですよ。きっと、映画のセットみたいに、リアルな長兵衛の家ができると思います。

勘三郎さんの求心力、パワーの源は?―――
勘三郎―――
 そりゃあもう…好奇心でしょうね。思ったらすぐに行動して、それに運ですね。人と会って話すっていう事も大事ですかね。


 昭和30年代後半、東京のとある下町を舞台に、時代が大きく変貌する中で下町の人々が笑い、泣き、怒りながらも前に向って生きていく人生の機微を情感豊かに描く『寝坊な豆腐屋』ぜひ、お見逃しなく。

【平蔵の独り言】
〔中村勘三郎の「告白」太地喜和子との本物の恋〕
中村勘三郎・太地喜和子 と繋がっている 三国連太郎
――――――――――――――――――――――――――――
三國連太郎(88歳)『生きざま 死にざま』

いままで、あえて目立たぬように、役者として・・・・・・・・
太地喜和子との
「今までで、惹かれた女優さんは一人だけです。
太地喜和子さんだけです。
ぼくは、男に影響を与える女の人が好きです。」
くらいだったが!

〔作り込んだ台詞は要らない〕
勘三郎さんの芝居の舞台稽古を見学に連れていってもらった時、
稽古をじっと見入っていたら、突然、勘三郎さんが怒鳴り始めました。
「やめた!やめた!」
「作者を呼べ」と言うのです。
「おまえね、役者が丸暗記しなきゃならないような、台詞を書くんじゃないよ!!」
と、声を荒げると衣装を脱ぎ捨てながら、楽屋に引きあげてしまったのです。

三国連太郎(88歳)と中村勘三郎、太地喜和子
三国連太郎:「今までで、惹かれた女優さんは一人だけです。太地喜和子さんだけです。」
――――――――――――――――――――――――――――

森光子・勘三郎 『寝坊な豆腐屋』
高度成長真っ只中“東京オリンピック”の頃
東京下町のどこにでもあった。
朝早くからの豆腐屋さんにナベを持って、豆腐を買いに行った。
きざみタバコ“みのり”、”寶“焼酎
毎週の仕事(当たり前)の風景だったが・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2013-02-21 18:17 | 人間模様 | Comments(0)

〔中村勘三郎〕『型を身に付けねば型破りにはなれない』型を身につけてから、破るから“型破り”って!   

2013年 02月 13日
〔中村勘三郎〕『型を身に付けねば型破りにはなれない』
型を身につけてから、破るから“型破り”っていうんだよ!


型があるから、型破りっていうんだよ!型がなかったら「形無し」

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「若い人はすぐ型破りをやりたがるけれど、型を会得した人間がそれを破ることを『型破り』というのであって、型のない人間がそれをやろうとするのは、ただの『かたなし』です」

【子供電話相談室の無着成恭さんの言葉に痛く感銘し、以後座右の銘にするくらいであったとか。】
無着さんのそのひと言とは。
『型を身に付けねば型破りにはなれない』


【中村勘三郎(型破りの挑戦) 破天荒こそ伝統、生涯かけて貫く】

【(中村勘三郎さん)▼それでも「名優」と呼ぶのは憚(はばか)られた。「やんちゃ」のためもあろうし、一生かかって究める芸の道はまだまだ先が長いと思ったからでもある。】
春秋 2012/12/6付

【寺島しのぶ 中村勘三郎にかけてもらった大切な言葉紹介】


【「あんた、渋谷で歌舞伎なんて都落ちだよ」。
若者の街でコクーン歌舞伎を始めると、祖母に泣かれたそうだ。】

2012年12月6日付 天声人語


【中村勘三郎さんが影響を受けた言葉】

~『型を身に付けねば型破りにはなれない』

【中村勘三郎の「告白」太地喜和子との本物の恋】
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【中村勘三郎(型破りの挑戦) 破天荒こそ伝統、生涯かけて貫く】
破天荒こそ伝統、生涯かけて貫く2012.12.5 20:50 [有名人の訃報]

中村勘三郎さん
 57歳という若さで5日亡くなった中村勘三郎さん。
歌舞伎という伝統芸能に新しい時代の風を吹き込み、
現代に生きる芸能として、多くの人に歌舞伎の楽しさ、魅力を伝えた。
 現代歌舞伎の“創造者”ともいえる勘三郎さんだが、発する言葉はいつも「伝統と、もっと伝統です」だった。

平成22年秋、大阪城公園・西の丸庭園で行われた「平成中村座」公演の際、
勘三郎さんはきっぱりとそう言い切った。
「平成中村座」は12年、江戸時代の芝居小屋を現代によみがえらせた劇場として開場。
もともと勘三郎家は江戸三座のひとつ「中村座」の座元。
先祖の芝居小屋をよみがえらせた「平成中村座」は、座布団に座る桟敷席を再現するなど、随所に勘三郎さんの思いがこもった芝居小屋であった。
それは勘三郎さんの夢の結晶でもあり、この小屋でさまざまな新しい試みを行った。

 大坂の下町の片隅に生きるしがない侠客の姿を描いた「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」では、ラストで舞台の背景が開く仕組みに。
勘三郎さん扮する団七と中村橋之助さん扮する徳兵衛の2人が舞台から飛び出して、大都会に向かって全速力で逃げていくという外の空間を使う大胆な演出で喝采を浴びた。
 また、東京・渋谷の劇場「シアターコクーン」で行ったコクーン歌舞伎では現代演劇の演出家が演出、椎名林檎さんらポップミュージシャンの曲を起用するなど評判となった。
 これほど新しい試みに挑戦し、革新的な舞台を創造した勘三郎さんなのになぜ、「伝統」という言葉にこだわり、重んじたのか。

〔中村勘三郎さん〕
 勘三郎さんが生涯かけて追求したのは、
歌舞伎の原点ともいえる破天荒さ、
そして懐の深い江戸歌舞伎を現代に生きる歌舞伎としてよみがえらせることであった。
 それは歌舞伎が時代とともに洗練されるにつれ、置き忘れてきたものかもしれない。
 大阪との相性は抜群で、若いとき、「東海道四谷怪談」のお岩をはじめ道頓堀・中座で大役に挑み続け、
「僕は大阪に育てられた」と口にして、「大阪はラテンの血。僕と一緒」
とこよなく大阪を愛し続けた。

 現在、京都・南座で長男、勘九郎さんの襲名披露の真っ最中で、どれほど心残りだっただろうか。
 来年4月、東京に新装開場する新しい歌舞伎座の舞台に立つことなく勘三郎さんは逝ってしまった。
 歌舞伎界ばかりでなく、日本の芸能界全体にとっても、その損失は計り知れない。
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【子供電話相談室の無着成恭さんの言葉に痛く感銘し、以後座右の銘にするくらいであったとか。】
無着さんのそのひと言とは。
『型を身に付けねば型破りにはなれない』


勘三郎さんも随分前のこと、ちょうど移動中の車の中で何気に聴いていた子供電話相談室の無着成恭さんの言葉に痛く感銘し、以後座右の銘にするくらいであったとか。

無着さんのそのひと言とは。
『型を身に付けねば型破りにはなれない』
そこなんです。
きっちりと基本を身に付けているからこそ、慣例にとらわれずにかたちを崩し破天荒なことも出来るしサマにもなるということ。
歌舞伎にしてもお茶にしても華道にしても、よろず日本の伝統というのはそうでなきゃ進歩も生まれないし個性も輝きません。
厳しい鍛練を重ねて何百年も続いているお家芸、所作のひとつひとつを体と心で覚えて会得する。
そしてある年齢を過ぎた時から様々にチャレンジして型破りを楽しみ楽しませるようになるのではないでしょうか。
勘三郎さんがまさしくそれをして芸を高みにもっていった人だったと思いました。
基本が出来ているから美しく映えるということだと思います。
そこには手抜かりや妥協なんていうものはないはずです。
私がいつも思っていたことをこんなにも的確な言葉で表していた無着成恭師。
そしてその言葉に確信を持ってこの世を駆け抜けていった勘三郎さん。
目から鱗が剥げ落ちた思いがしました。
水は高所から流れるのが自然のならわし。
今回のマインドは下流にいる私にもしっかりと届いたような思いがしました。

ちなみに無着成恭師は今、大分県国東半島にある泉福寺の住職を務めていらっしゃいます。

しかし勘三郎さんの病はずっとがんとの闘いだったようですね。
食道がんは初期、でも既に転移していたというのですから、
それを知った彼の諦念たるや驚きでした。
最期のインタビューにはまだ生きているというオーラがありましたが、サプライズ出演した松本市での最後の舞台の姿にはもうこの世の人ではない、体と心が離脱してしまっているような儚さが見えました。

価値ある人は57歳を一期に短命で逝き、こうやって人や世の中を弄ぶクズが生き長らえている不条理さにも腹が立っています。
世の中にはこんなバカタレの命よりももっと大切な命がたくさんあります。
そして命の長らえを願っている人だって多くいます。
そんな人までをも足蹴にしているようでつらいですね。
一寸の虫にも五分の魂どころかこんな人間は虫にも五分にも足りません。 

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【寺島しのぶ 中村勘三郎にかけてもらった大切な言葉紹介】
12月07日16時46分

 歌舞伎俳優、中村勘三郎さんが死去(享年57)したことを受け、
女優の寺島しのぶ(39)が公式ブログに思い出をつづっている。

 6日から、「哲明さんとの思い出はつきません」と、中村の本名である「哲明」で呼びかけ、
夫を紹介したときに一生懸命フランス語で喋りかけてくれたことや、
妊娠を知らせたときに大喜びしてくれたことなどを回想し、
舞台に観客が入らなかったときには

「面白かったよ。
一番良いのは面白くて客が入る舞台。
二番目は面白くて客が入らない舞台。
三番目はつまんなくて客が入らない舞台。
一番最悪なのはつまんないのに客が入ってる舞台。
だからあなたのは二番目だから。
あとはお客さんが入ってくれればね。
そういう舞台を僕たちは目指さないとね」

と声をかけてくれたことを振り返った。

 さまざまなエピソードを紹介しながら、
寺島は、「絶対いつも『こうした方がいい』って言わない哲明さん。僕たちはこうして行こうよ って同じ目線で喋ってくださる哲明さん。この言葉は私の引き出しにいつもしまってあります」とつづった。

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平成23年9月、新歌舞伎座で舞踊劇「お祭り」に出演する中村勘三郎さん=大阪市天王寺区
記事「「歌舞伎座こけら落しを心のより所に…」 家族が明かす闘病」
2012.12.5 09:06 [有名人の訃報]
III 1211:中村勘三郎さん逝く

【「あんた、渋谷で歌舞伎なんて都落ちだよ」。
若者の街でコクーン歌舞伎を始めると、祖母に泣かれたそうだ。】

2012年12月6日付 天声人語

同世代の死はこたえるが、きのうは心底もったいないと沈んだ。
歌舞伎の開拓者にして当代きってのエンターテイナー、中村勘三郎さんはまだ57歳。
満席の客を残し、早すぎる幕である
▼「あんた、渋谷で歌舞伎なんて都落ちだよ」。
若者の街でコクーン歌舞伎を始めると、祖母に泣かれたそうだ。
野田秀樹さんら、現代劇の異才とも組んだ。
そして平成中村座。観衆を楽しませ、ファンの裾野を広げる熱と技は人一倍だった

▼地方公演の楽屋で、女形の化粧を落としていると「拍手が鳴りやまない」という。
コールドクリームまみれで舞台に戻ったサービス精神は語り草だ。
おちゃめな人柄そのままに、時事のアドリブも交えた自在の芸である
▼あるフラワーデザイナーが、「藤娘」の踊りには造花より生花がいいと持ちかける。
勘三郎さんは「女形そのものが造花ですから」と拒んだ。
攻めて崩すのみならず、守るべきものを知る人でもあった

▼初舞台から40代まで名乗った勘九郎は長男に譲った。
孫を加えた三代での共演を夢見て、来春の歌舞伎座こけら落としを心待ちにしていたという。
十八代目の襲名にあたり「勘と嗅覚(きゅうかく)、あとは運」と語っていたが、
最後の一つがままならなかった
▼この日の東京は朝から日本晴れ。
勘三郎さんが完成を待ちわびたその小屋も、同じ思いで中村屋の復帰を念じていたに違いない。
仕上げに入った唐破風(からはふ)の屋根が、青藤(あおふじ)色の工事用シートから透ける。
人目をはばかり、泣いているように見えた。
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【中村勘三郎さんが影響を受けた言葉】
『型を身に付けねば型破りにはなれない』

「若い人はすぐ型破りをやりたがるけれど、型を会得した人間がそれを破ることを『型破り』というのであって、型のない人間がそれをやろうとするのは、ただの『かたなし』です」

「型のある人が型を破ることを型破りといい、型のない人が型を破ることを型無しという」
つまり
人を魅了する面白いことをするためには、基礎をしっかり身につけることだと。
この言葉を聞いて中村勘三郎さんは、よし!と思ったそうです。
これ結構人生の真理をついた重要な事です
勘三郎さんはこの回答に大きな感銘を受け、その後の人生に大きな影響を与える
言葉になったそうです。
つまり型破りな人は、継続的に成果を出せるのに対して
形無しの人は仮に短期的に成果が出せたとしても
いずれ伸び悩み、長続きしないと思われます。
中村勘三郎さんといえば歌舞伎界では
「型破り」
な歌舞伎で有名な方でした。
しかし、その裏には20年間にも渡り徹底して型にはまった
基礎の歌舞伎を体にしっかり染み込ませて来た背景からくるものなのだったんですね。
こういった事ってどんな世界でもいえる事です。
やはり成功した人は裏で凄まじい努力しているのです。


【平蔵の独り言】
「若い人はすぐ型破りをやりたがるけれど、型を会得した人間がそれを破ることを『型破り』というのであって、型のない人間がそれをやろうとするのは、ただの『かたなし』です」

“すり足”だけを「能楽師」に教えを乞うていた。
と、勘三郎さんの追悼番組で以前話していた。

また一人 魅力のある人が旅立ってしまった。

もし、17年前意識のないまま旅立っていたら、このような出来ごとに
遭遇出来なかったのだから、

さあ!今日も健康に感謝して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2013-02-13 15:46 | 人間模様 | Comments(0)

〔笑福亭鶴瓶〕人間って、みんな面白い。だから、無理に面白くしようとしないでいいんです   

2013年 02月 07日
〔笑福亭鶴瓶〕人間って、みんな面白い。だから、無理に面白くしようとしないでいいんです

「作ったらアカンのです。見る人には、わかる。“あざとい”と感動できない。」

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【笑いにおいで】
NHKの『鶴瓶の家族に乾杯』。
ゲストと日本各地を訪れ、ときには海外まで足を伸ばし、
そこに住む人と出会い、交流していく。
ただそれだけの番組なのだが、今やNHKの看板番組のひとつになっている。

なぜ、これほどの人気があるのか。

鶴瓶はこう語る。
「大事なのは“何もしない”ということなんです。何も作らない。この自分のこだわりを、何年もかけてNHKの人たちに理解してもらったんです」

この番組は、テレビの常識にことごとく反して作られている。
台本はない。スタッフは、事前視察はするものの、
番組がとりあげることは一切、住民には伝えない。

鶴瓶も、準備しない。
待ち合わせ場所に行くまで、ゲストと顔合わせも打ち合わせもない。
オープニングでゲストが鶴瓶を見つけた瞬間の、
あの安堵の笑顔や言葉は、まさに“本音”の反応なのだ。
そしてそこから行き先を偶然に任せた撮影が始まる。
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〔人間って、みんな面白い。だから、無理に面白くしようとしないでいいんです〕

「作ったらアカンのです。見る人には、わかる。“あざとい”と感動できない。
面白いものは、後からできあがるんです。段取ったらダメなんですよ。
“美意の案配”という故事があります。
起こったことすべてに意味がある、という意味の言葉です。
僕はこの言葉が大好きなんですよ。
すべての行動に意味があるんやから、思うように、自然に動いたらええんやと。最初は嫌に思えることでも、必ずどこかでいいことにつながるんです」


相手から面白い話を次々と引き出していく、あの独特の話術も同じだという。

「何かあると思って聞くんではなく、“何もない”と思って聞くんです。
人間って、みんな面白いんですよ。無理に面白くしようとしない。
僕は、聞き方が上手なわけでもないんですよ。自分が楽しんでいるだけ。
ただ、まずは人を好きにならないといけないですよね。
嫌いになったりしたら、自分が煩わしいだけやないですか。
面白さも、人を受け入れるところから生まれるんです」

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〔“面白さ”を生み出す天才と言えば、ビートたけしだ。〕
鶴瓶は、年末の特別番組『たけしが鶴瓶に今年中に話しておきたい5~6個のこと』で毎年共演している。
今年で4度目。鶴瓶にとって、たけしの存在は特別だという。
「あれだけの大物に突っ込む人、もういないですからね」

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〔勘三郎が古典落語への挑戦を支えてくれた〕
中村勘三郎とも親交があった。
「今日、お別れをしてから来たんです。」

テレビタレントとして絶頂にいた鶴瓶は、50歳を超えてから突然、落語を始めた。
その新たな挑戦を応援してくれたのが、勘三郎だった。

落語を始めて4年目で、古典落語の名作『らくだ』をひっさげ、落語ツアーを行った。
横綱のような演目を選んだことに、プレッシャーがないはずがなかった。笑いはもらえた。
だが、自分が自分でないかのような高座に、納得がいかなかった。

初日の夜、鶴瓶は、悔しくて泣いた。
しかし、歌舞伎座で観客として高座を見ていた勘三郎は、鶴瓶にこう語ったという。
「公演前は、
『なんであなたが古典落語なんかやるの。そんなことしなくても、日常の話をするだけでも十分面白いじゃないの』
と反対してたんです。

ところが見終わったら、良かった、と言うてくれて。
『あなたがあんなアガっている姿を見たことがない。
それは、伝統に敬意を持っている証拠。だから、あなたは古典落語をやるべき人だ』と。
うれしかった。同時に、この人にはかなわんな、と思いました」


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〔落語の世界は天才だらけで、とてもかなわない。僕は、僕らしい落語をやりたい〕
鶴瓶だからこその落語のかたち

『笑福亭鶴瓶一門会』
トリの演目に選んだのは、人の死をテーマにした古典落語の名作『死神』。
色っぽい女死神を登場させ、
男女の愛情を絡めた鶴瓶流の演出が加えられた一席に、観客は万雷の拍手で応えた。

深々とお辞儀をし、拍手の中で幕がおりていく。

それを制して、最後に、鶴瓶はゆっくりと語りはじめた。
「僕の落語のテーマは“愛”なんです。
人間はいずれ死ぬんですよ。死ぬと思うてなくても死ぬんです。
志半ばでも、持って行かれる。簡単に死んでしまう。
短い人生なんだから、人を好きでいたい。面白いことをやり続けたいんです。
勘三郎も、同じ思いだったと思います。
クサいと思われるかもしれませんが、人生って、笑いって、愛なんですよ」



〔短い人生なんだから、人を好きでいつづけたいんです〕


密着インタビュー【笑福亭鶴瓶】「笑いにおいで!」週刊現代(2013/1/5・12号)


【平蔵の独り言】
ゴールデンタイム見る番組がほとんどない『鶴瓶の家族に乾杯』は何気なく、
唯一毎週見ている。
じいちゃん、ばあちゃんが主役になったり、
日々の暮らしを地道に生きている人たちが主役になったり、
鶴瓶は市井の人たちを主役にしている。

鶴瓶が言うように番組出演者仲間が楽しんでいる、
受けを狙っている“あざとい”番組ばかりの中で、キラッと光るのだろう。

人間って、みんな面白い。だから、無理に面白くしようとしないでいいんです。

〔短い人生なんだから、人を好きでいつづけたいんです〕

これが難しいですね!
“煩悩”いっぱいの毎日の中で!

健康年齢まで残り短いが、
楽しく活きたい・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2013-02-07 14:07 | 市井の人が一番えらい | Comments(0)