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三国連太郎:「釣りバカ日誌」シリーズ 「1回だけ」のつもりで引き受けたが、降板を考えたこともあったが   

2013年 04月 30日
三国連太郎:「釣りバカ日誌」シリーズ 「1回だけ」のつもりで引き受けたが、降板を考えたこともあったが、故・渥美清さんに「連ちゃんは幸せもんだね、好きなことやってて」と言われ

【「釣りバカ日誌」シリーズ 三國さんは「1回だけ」のつもりで引き受けたが、】
2009年まで22作も続く人気作に。
重厚なイメージを一新した三國さんは一時期、
「このまま続けると、僕自身がダメになるんじゃないか」と降板を考えたこともあったが、
故・渥美清さんに「連ちゃんは幸せもんだね、好きなことやってて」と言われ、
踏みとどまった過去もある
〔ハマちゃん、スーさんに「お世話になりました」〕

【三国連太郎さん 奔放な女性関係も惹かれた女優は太地さんだけ】
〔僕は臆病者ですから、のめり込む危険を絶対に避けたかったんです。」〕

【「三國連太郎のまま逝った」】
〔『戒名もいらない。散骨して誰にも知らせるな。三國連太郎のままでいく』〕
〔三國連太郎さん、最期まで俳優 長男・浩市に要請「三國連太郎のまま逝かせてくれ」〕


【三國連太郎さん破天荒伝説 私生活でも奇行!?】

【真摯な姿勢貫いた「異端児」】
〔「このシリーズ(「釣りバカ日誌」)を超えるのは大変だと思いますよ」〕
〔「私はメロドラマだけは出なかった。虚構ですから」〕
〔「このせりふを言うために私は今まで出演したのだ」〕


【闘病中も演技メモ「コピーできない演技とは…」】
「(演技は)再現できない。運命的な“物”である」
「コピーできない演技とは経過そのものであったと認知した」
「50年目にやっと認知した。決定的な演技論の骨子であった(若輩(中略)遅かった」

〔三國連太郎さん、闘病中に走り書き「ついに終末…どう闘って生きるか?」〕
『僕も不器用なんだよ、不器用な方がいいんだ』

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【「釣りバカ日誌」シリーズ 三國さんは「1回だけ」のつもりで引き受けたが、】
2009年まで22作も続く人気作に。
「釣りバカ日誌」シリーズ 
三國さんは「1回だけ」のつもりで引き受けたが、2009年まで22作も続く人気作に。
重厚なイメージを一新した三國さんは一時期、
「このまま続けると、僕自身がダメになるんじゃないか」と降板を考えたこともあったが、
故・渥美清さんに「連ちゃんは幸せもんだね、好きなことやってて」と言われ、
踏みとどまった過去もある  サンスポ2013.4.16 05:03

〔ハマちゃん、スーさんに「お世話になりました」〕
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シリーズ最終作の公開初日に集合した“釣りバカファミリー”
(左から)朝原雄三監督、吹石一恵、浅田、西田、三國さん、松坂慶子、塚本高史(2009年12月)

 14日に急性呼吸不全のため死去した俳優、三國連太郎さん(享年90)の訃報を受け15日、芸能界では悲しみの声が相次いだ。
特に映画「釣りバカ日誌」シリーズでハマちゃん、スーさんとして、
22年にわたりコンビを組んだ西田敏行(65)は「私のスーさんが逝きました」と悲痛な思いを吐露。
脚本を務めた山田洋次監督(81)も
「重い重いイカリのような俳優でした」と故人の功績を振り返った。
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日本アカデミー賞授賞式でレッドカーペットを歩く役員の西田敏行と三国連太郎さん(2011年)
 西田はこの日午前10時ごろ、所属事務所からのメールで訃報を知った。
あまりに突然のことに、ショックで「了解」と返信するのが、やっと。
 その後、事務所を通してコメントし「いつかこんな日が来ると覚悟はしていたものの、現実にその時が来たと知らされると、にわかには信じられません」と悲しんだ。
 1988年に始まった映画「釣りバカ日誌」で、三國さんが演じたスーさんこと、建設会社社長・鈴木一之助と、西田が演じたハマちゃんこと、万年ヒラ社員・浜崎伝助は、映画史に残る名コンビだった。
 三國さんは「1回だけ」のつもりで引き受けたが、2009年まで22作も続く人気作に。
重厚なイメージを一新した三國さんは一時期、
「このまま続けると、僕自身がダメになるんじゃないか」と降板を考えたこともあったが、
故・渥美清さんに「連ちゃんは幸せもんだね、好きなことやってて」と言われ、踏みとどまった過去もある

 そんな三國さんの葛藤を“1番近く”で感じつつ、撮影を通して映画と変わらぬ友情を育んできた西田は「三國連太郎氏が日本の映画界に残された功績は計り知れない。どの作品も日本の名作です」と賞賛。
「『釣りバカ日誌』で22年ご一緒できたことは私の誇りであります。スーさん、お世話になりました」と、ハマちゃんとして天国の“親友”に呼びかけた。

 山田監督も「一本の作品にワンカット出演するだけで、その作品全体がぐっと安定する、そんな重い重いイカリのような俳優でした」と振り返り、「あの大きなどっしりとした身体、彫りの深い顔、魅力的なバリトンの声が再び聞けないことを、心から淋しく、悲しく思います」としみじみ。

スーさんの妻役の奈良岡朋子(83)も「細やかな神経の持ち主で、すてきな方でした」と振り返るなど、“釣りバカファミリー”は大きな悲しみに沈んでいた。
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2010年1月、映画「釣りバカ日誌20ファイナル」
大ヒット御礼舞台あいさつに西田敏行(左)と登場した三国連太郎 Photo By スポニチ 

【三国連太郎さん 奔放な女性関係も惹かれた女優は太地さんだけ】
〔僕は臆病者ですから、のめり込む危険を絶対に避けたかったんです。」〕
三国連太郎さんはいわゆる“役者バカ”であり、奇人と称された。
役作りのため、上下の歯10本を抜いたエピソードは有名だ。

 そして、三国さんを語るに外せないのが女優、故太地喜和子さん(享年48)とのロマンス。
出会った当時、太地さん22歳、三国さん41歳。にもかかわらず大恋愛に発展した。

 しかし、ある日突然逃げたのは三国さんだったという。
当時を振り返り、三国さんは「彼女にのめりこむのが怖かった」「惹かれた女優はただ一人だけ」と太地さんのことを語っている。
太地さんも生前「本当に愛したのは三国さんだけ」と公言していた。

 奔放な女性関係はその後も続き、ロマンスもささやかれ続けた。
4度結婚し、俳優佐藤浩市(52)は3度目の妻との間の息子である。
[ 2013年4月15日 12:04
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太地と出会った時は20歳と41歳という21歳の年の差にも関わらず大恋愛に発展。
太地の実家に挨拶に行き
「10年経ったらせがれが自立できるようになるので、結婚させてほしい」と申し出、
そのまま実家で同棲を開始するも3ヶ月目に「疲れた」という置き手紙を残して太地の元を去った。
別れの10年後、1974年11月の『週刊アサヒ芸能』での太地との誌上対談
「いま語る激しく燃えたあなたとの3ヶ月」で、
太地の「三國さんはどうしてあのとき、喜和子から逃げ出したんですか。」という問いに対し、
「10年目にして率直に言うけど…あなたの体にひれ伏すことがイヤだった。
僕は臆病者ですから、のめり込む危険を絶対に避けたかったんです。」と答えている。
また、その後、1981年6月の『週刊読売』のインタビューでは
「今までで、惹かれた女優さんは一人だけです。太地喜和子さんだけです。ぼくは、男に影響を与える女の人が好きです。」と答えている
Wikipedia 三国連太郎

【「三國連太郎のまま逝った」】<佐藤浩市>父死去を報告
〔『戒名もいらない。散骨して誰にも知らせるな。三國連太郎のままでいく』〕まんたんウェブ 4月15日(月)13時47分配信
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父・三國連太郎さんの死について語った佐藤浩市さん
 14日に亡くなった俳優の三國連太郎さんの長男で俳優の佐藤浩市さんが15日、
東京都内で行われた読売テレビ開局55年記念ドラマ「怪物」の制作発表会見後に取材に応じ、
「昨日の朝9時18分急性呼吸不全で三國連太郎こと佐藤政雄が他界しました」と死去を報告した。

佐藤さんは「『戒名もいらない。散骨して誰にも知らせるな。三國連太郎のままでいく』と言っていた。
三國連太郎のまま逝きたかったんだな。本当にあの人三國連太郎できたんだな。
役者として生きてきたのだなと。その孤高さを貫きながら芝居に関わってきたということが死に顔を見て感じました」と話した。

 佐藤さんは「できれば骨になるまでは皆さんとお話しするのは避けたいなと思っていたのですが……なので事実関係だけお話しします」
 佐藤さんは三國さんが亡くなったときは自宅にいたため死に目には会えなかったといい「90歳ですし、いつかこういう知らせがくることは覚悟していた」と語った。
佐藤さんが最後に会ったのは今月といい「ニューヨークに映画のロケで行く前に、病院の近くにいたものですから顔を見ようと立ち寄りました。そのときは意識はしっかりしていた」と話した。
佐藤さんは亡くなったときの心境を「悲しいなという気持ちはなかった。この数年の中で一番りんとした顔が見れた。不思議な三國連太郎の威厳があって。涙は出なかった」と話した。(毎日新聞デジタル) 

〔三國連太郎さん、最期まで俳優 長男・浩市に要請「三國連太郎のまま逝かせてくれ」
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01年6月、スポーツ報知のインタビューに答える三國連太郎さん。
日本の映画界を彩った名優が、また一人逝った
 「飢餓海峡」の鬼気迫る殺人犯から、
穏やかな笑みをたたえる「釣りバカ日誌」の“スーさん”まで、
役柄に応じて硬軟を使い分けた名俳優が、天国に旅立った。
 妻の友子さんや佐藤らによると、
三國さんは数年前から自宅を離れて療養生活を送っていた。

 三國さんは終戦後、中国から復員。
デビューは28歳と遅咲きだったが、当時から輝きを放っていた。
東京・東銀座でスカウトされ、「食事を食べさせてもらえるなら」とカメラテストを受けて51年の「善魔」(木下恵介監督)で主役に抜てき。
この時の役名「三國連太郎」を芸名とした。
 その後は「ビルマの竪琴」の市川崑監督、「飢餓海峡」の内田吐夢監督らとタッグを組み、俳優としてのキャリアを着実に積み上げていったが、巨匠らに愛されたのは、徹底的な役作りにあった。
 57年の「異母兄弟」では、老人を演じるために上の歯を10本も抜いた。
悪人を演じた時には、カメラが回っていない時も近寄れない雰囲気を出していたという。

また、監督としても才能を発揮。
87年の初メガホン作「親鸞 白い道」はカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した。

 最近では88年から始まった「釣りバカ日誌」で西田敏行(65)演じるハマちゃんと名コンビを結成。
09年の「―ファイナル」まで全22作が製作され、当たり役になった。
「『釣りバカ』には社会風刺が込められているから出演し続けるんだ」と三國さんは言い、脚本にこだわりを持ち、真剣に西田との丁々発止の掛け合いを繰り広げた。
◆三國 連太郎(みくに・れんたろう)本名・佐藤政雄。
1923年1月20日、群馬県生まれ。生後間もなく静岡へ移り、中学時代まで過ごす。
10代で工員や船員など、さまざまな職業を経験。
戦時中は徴兵され、中国方面に出征した。
50年に松竹大船撮影所に演技研究生として入所。
51年、映画「善魔」でデビュー。数多くの映画に出演し、名優としての地位を確立。
79年には「復讐するは我にあり」などで「報知映画賞助演男優賞」を受賞するなど受賞歴多数。
[2013/4/16-06:00 スポーツ報知]

【三國連太郎さん破天荒伝説 私生活でも奇行!?】
 型破りな俳優、として知られた三國さんだが、
私生活でも時に奇行と映りかねない破天荒な人生を送ってきた。
その代表的なものを挙げると―。

◆生き伸びるため 戦時中、敵の攻撃を受け、
人糞(じんぷん)おけに一晩もぐって避難したことも。

◆職を転々 役者デビュー前に船のボーイ、弁当販売、映画館の看板絵師など、
多くの職を経験。

◆“経歴詐称”でデビュー 映画会社の意向で「阪大工学部卒で水泳のチャンピオン」の宣伝文句でデビュー。後年、これがウソだったと告白した。

◆酒とたばこ 一見、酒豪に見えるが「有益でない」と一滴も飲まない。
へビースモーカーだったが、たばこも10年以上も前にやめた。

◆金に執着なし? 生涯4度、結婚。元奥さんに家も金も全財産を渡し、
犬だけもらってアパート暮らしをした経験も。

【真摯な姿勢貫いた「異端児」】
〔「このシリーズ(「釣りバカ日誌」)を超えるのは大変だと思いますよ」〕
〔「私はメロドラマだけは出なかった。虚構ですから」〕
〔「このせりふを言うために私は今まで出演したのだ」〕

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俳優・三國連太郎
 三国連太郎さんの役者としての前半生には「映画界の異端児」という呼び名がつきまとった。
松竹、東宝、日活、東映、フリーと渡り歩き、
よりよい作品に出演するためや自身の演技を全うすることに熱中する余り、
契約会社との約束をほごにすることもあった。
 しかし、映画斜陽論が出た昭和30年代後半には
「映画関係者はもっと娯楽ということを真剣に考えるべきではないか」と訴え、
「人々の生活の糧になるような映画に出たい」と、真摯な姿勢を貫いた。
 俳優にあきたらず、助監督修業を積んだ上で監督業に乗り出す勉強家ぶりも見せた。
自らメガホンをとった「親鸞・白い道」では、1987年のカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞。
現地で「日本人に必要な映画を撮りました。平和のために映画を撮りました」と、
映画人としての純粋な喜びをあふれさせた。
 一方で、晩年は喜劇映画に力を注いだ。
社会を風刺し時代と対峙(たいじ)する喜劇を撮り続けた英俳優、チャールズ・チャプリンを敬愛したことも背景にある。

〔「このシリーズ(「釣りバカ日誌」)を超えるのは大変だと思いますよ」〕
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映画「釣りバカ日誌20ファイナル」の舞台あいさつをする三國連太郎さん=2010年1月

 4年前の本紙インタビューで、終始穏やかだった目元に一瞬、険しい表情が宿った。
「私はメロドラマだけは出なかった。虚構ですから」。
三国さんの皮肉を込めた邦画界への挑発の言葉は取材中、何度も繰り返された。若い人気俳優を配役した安易なヒット狙いの恋愛映画が増産されていないか? 社会を風刺する喜劇が軽んじられていないか?
 昨今の邦画界を憂い叱咤(しった)する厳しさが込められていた。

〔「このせりふを言うために私は今まで出演したのだ」〕
 邦画界に「超えろ」と三国さんが挑発した「釣りバカ日誌」。
主演の西田敏行さんとともに全22作に出演し、平成21年公開の最終作で22年の歴史の幕を閉じた。安易なマンネリを嫌い、続編やシリーズものへは一切出演しない俳優として知られていたが、「釣りバカ日誌」だけは例外。
最終作の台本を読み、こう確信したという。「このせりふを言うために私は今まで出演したのだ」と。
 三国さん演じる鈴木会長が会社を去る際、全社員を前にあいさつする。
《私は創業者ではあるが、この会社は私のものではない。経営陣のものでもない。…君たち社員のものだ》
 「リーマンショックなどで日本経済は傾き、暗い世相が続いているが、働く者すべての溜飲(りゅういん)を下げる映画です」。
真っ向から時代に斬り込む希有(けう)な個性派俳優だった。
(戸津井康之、市川雄二)

【闘病中も演技メモ「コピーできない演技とは…」】
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三国連太郎さんが闘病生活中に書き残したメモ Photo By 共同 
 「過ぎた日は再び迎えられない。演技もまったく同じである」――。
三国さんは、闘病生活中も演技についてのメモを書き残していたことが15日、分かった。

 メモが見つかったのは三国さんが入院していた病室の机の引き出し。
切り取った手帳のページに赤いボールペンで
「(演技は)再現できない。運命的な“物”である」
「コピーできない演技とは経過そのものであったと認知した」
「50年目にやっと認知した。決定的な演技論の骨子であった(若輩(中略)遅かった」
などと自筆で書かれていた。

また、昨年5月ごろ、病状が悪化した時に書いたとみられる
「ついに終末の刻(とき)に逐(お)い詰められたようだ どう闘って生きるか? 連」
という走り書きも残されていた。

 亡くなる2日前、ふいに「港に行かなくちゃ。船が出てしまう」と口にしたという。
[ 2013年4月16日 06:00 ]
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〔三國連太郎さん、闘病中に走り書き「ついに終末…どう闘って生きるか?」〕
『僕も不器用なんだよ、不器用な方がいいんだ』
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三國さんが闘病生活中に書き残したメモ。最後まで演技の本質を探究していた
 俳優、三國連太郎さん歌手と家族ぐるみで交際していたという歌手の石川さゆり(55)は
「大好きな人でした。舞台に出る前『私は不器用なので悩んでいます』と言ったら、『僕も不器用なんだよ、不器用な方がいいんだ』と励ましてくださいました。もっといろんな話を伺いたかったのに、残念です」と話した。
 妻の友子さんは「とてもいい顔をしています。最後まで、きれいでかっこいい人でした」と語り、ときに涙ぐみながら弔問客に応対していた。 2013.4.16  サンケイスポーツ

【平蔵の独り言】
【三國連太郎さん破天荒伝説 私生活でも奇行!?】
◆生き伸びるため 戦時中、敵の攻撃を受け、
人糞(じんぷん)おけに一晩もぐって避難したことも。

果たして 奇行だろうか?
出征の時、玄関で小さな声で私に言った。
「何をしてもいい、どんな卑劣なことしてもいいから、生きて帰ってこい」

【闘病中も演技メモ「コピーできない演技とは…」】
「50年目にやっと認知した。決定的な演技論の骨子であった(若輩(中略)遅かった」

若輩 90歳で若輩(やはり、50,60(洟垂れ小僧))
「『親鸞・白い道』(親鸞の生涯を描いた)」
構想から十五年の歳月をかけて制作し、1987年にようやく公開にこぎつけたとき、
64歳になっていました。

『鬼平犯科帳スペシャル~一寸の虫』(2011年4月15日放送)
三国さん(88歳)

九十歳まで生きた親鸞の生涯を描き、三国さんも九十歳・・・・・・・・・・・・・・

破天荒、奇行、異端児:市井の人が思っているが、口に出さない、
できないことを見せてくれた(著書「生きざま、死にさま」)

そんな 気がしてならない!
かっこいい!!
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by asanogawa-garou | 2013-04-30 17:13 | 人間模様 | Comments(0)

梶芽衣子:「もう一度歌おうと思ったのは、今までいろんな苦労や失敗もして経験を積んだ私たち世代だから」   

2013年 04月 12日
梶芽衣子:「もう一度歌おうと思ったのは、今までいろんな苦労や失敗もして、経験を積んだ私たち世代だから伝えられることがあると思った」

【梶 芽衣子、“初”CDアルバム『あいつの好きそなブルース』発売!】
〔宇崎竜童は、「33年間1本の電話もなく、偶然どこかで会うこともなく、俺嫌われたのかと思ってた」〕
〔梶は「もう一度歌おうと思ったのは、今までいろんな苦労や失敗もして、経験を積んだ私たち世代だから伝えられることがあると思った」〕

【梶芽衣子:そりゃまあ、36歳のまま変わらないおまささんを62歳の私がやるわけですから涙ぐましい努力も必要ですよ。】
〔杉本眞人の『吾亦紅』を聴いて「こんなふうに日本をちゃんと歌う歌なら私も歌いたい」と思ったのがきっかけだという。〕
〔「日本の言語で演じ、歌う以外はやりたくない」〕
〔「女優もアラ還にもなると切り捨てられていきますよ。自らプレッシャーを与えないと。
もう死ぬまでアウトローを通したいと思っています」〕

【梶 芽衣子、“初”CDアルバム『あいつの好きそなブルース』発売!】
梶芽衣子 / 2011/06/06 16:12掲載
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 女優・梶 芽衣子が5日、タワーレコード渋谷店でアルバム『あいつの好きそなブルース』の発売を記念し、ミニ・ライヴと、この楽曲をプロデュースした宇崎竜童との公開対談を行ないました!

〔宇崎竜童は、「33年間1本の電話もなく、偶然どこかで会うこともなく、俺嫌われたのかと思ってた」〕 
 アルバムを出すのは31年ぶり(そのため“CD”の形でアルバムをリリースするのは今回が初!)となった梶、最近ようやくCDプレーヤーを買ったとか。
宇崎竜童は、「33年間1本の電話もなく、偶然どこかで会うこともなく、俺嫌われたのかと思ってた」と語ると、
「本当勝手でごめんね~。ずっと歌を封印しちゃってたのよ」と梶が返す場面も。
78年に初めて2人が共演した『曽根崎心中』では当時、梶から宇崎にオファーがあり実現、宇崎は今でも梶に感謝しているとコメント。
 
 そして今回、『あいつの好きそなブルース』で実現したコラボは、2人が最近対談したことがきっかけ。
33年ぶりとなった再会にプロデュース話が持ち上がり、梶がロックやジャズ、ボサノバの要素を入れたアルバムにしたいと宇崎に要望を出したところ、出来上がってきたアルバムが、全て梶の希望が叶ったアルバムになったと大喜び!
 
 宇崎は「梶さんはレコーディング前は“私はまな板の鯉になる”とおしゃっててくれたのに、俺は包丁を持ったたまま台所に突っ立たされていた感じ(笑)」と言うと、梶は「切り刻んだじゃない!」と応戦するなど、集まった取材陣を沸かせました。
 
〔梶は「もう一度歌おうと思ったのは、今までいろんな苦労や失敗もして、経験を積んだ私たち世代だから伝えられることがあると思った」〕 
 梶は「もう一度歌おうと思ったのは、今までいろんな苦労や失敗もして、経験を積んだ私たち世代だから伝えられることがあると思った」、歌手としてまたこれを機に、精力的にライヴもしていきたいと、熱い意気込みを語っています! 期待!
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宇崎竜童(左)のプロデュースで、オリジナルアルバムを発売した梶芽衣子
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梶芽衣子がデビュー41年目初の握手会

 女優梶芽衣子(64)が31年ぶりとなるオリジナルアルバム「あいつの好きそなブルース」(テイチクエンタテインメント)の発売イベントを5日、都内で行い、「一番星ブルース」など3曲を披露した。デビュー41年目にして初めての握手会も行った。
 会場には、プロデュースを手掛けた宇崎竜童(65)も駆け付けた。
ステージで並ぶ宇崎を前に梶は
「若い人にも受け入れられる曲を歌いたかった。若者に聞ける曲は宇崎さんしかいない」
とプロデュースを依頼したと明かした。

宇崎とは1978年(昭53)の映画「曽根崎心中」で共演して以来、疎遠になっていたが、
梶から連絡を取って今回のアルバム制作になったという。

 一方この日、初めてステージを見たという宇崎は「いやあいいねえ。女・勝新太郎だね」と梶を絶賛。
「素で持っている充満したエネルギーをライブにぶつけるべきだよ」と梶に今後もステージに立つことを勧めた。
 [2011年6月5日17時45分]

【梶芽衣子:そりゃまあ、36歳のまま変わらないおまささんを62歳の私がやるわけですから涙ぐましい努力も必要ですよ。】

〔杉本眞人の『吾亦紅』を聴いて「こんなふうに日本をちゃんと歌う歌なら私も歌いたい」と思ったのがきっかけだという。〕
〔「日本の言語で演じ、歌う以外はやりたくない」〕
〔「女優もアラ還にもなると切り捨てられていきますよ。
自らプレッシャーを与えないと。もう死ぬまでアウトローを通したいと思っています」〕

梶芽衣子
ZAKZAK・ぴいぷる  アウトロー貫く女の武士道(8/18)
 かじ・めいこ 
1947年3月24日生まれ、62歳。東京・神田の鮨店に生まれた江戸っ子。
65年、日活に入社。
18歳のとき「青い果実」で主演デビュー、72年「銀蝶渡り鳥」が大ヒット。
78年の「曾根崎心中」でブルー・リボン賞など各主演女優賞を獲得した。
89年から「鬼平犯科帳」、98年から「剣客商売」にレギュラー出演。
歌手としては、80万枚の大ヒットとなった「怨み節」や「女の呪文」「修羅の花」などを発表。
朝、晩、入浴前の1杯のミネラルウオーターを欠かさず、砂糖のかわりにレンゲの蜂蜜、たまに大好きな肉料理を食べるために野菜中心の食生活を心がけ、20代と変わらぬ体重をキープしている。
意外にも「お酒は一滴も飲めません」。

【25年ぶり新曲「女をやめたい」】
 25年ぶりにリリースした新曲のタイトルは『女をやめたい』(テイチク)。
〔杉本眞人の『吾亦紅』を聴いて「こんなふうに日本をちゃんと歌う歌なら私も歌いたい」と思ったのがきっかけだという。〕
杉本眞人の『吾亦紅』を聴いて「こんなふうに日本をちゃんと歌う歌なら私も歌いたい」と思ったのがきっかけだという。

『抱いてよ ここで…』と始まる歌詞の字づらだけを追うと妙に女っぽいが、
自ら「アラ還」と称する元祖アウトローのミューズの歌声は、ドロドロの情念を昇華し、さばけた味わいだ。
 「もちろん、このタイトルは反語ですよ。私も経験していますけど、恋愛って意地の張り合いみたいなところがありますよね。でも、女も本物になると強いだけじゃなく、やさしくなる。そういうことをこの曲はストレートに教えていると思います。
この年代になってやっと照れずに表現できることですけど。アラフォーの方がもっと素直になると、もっといい恋愛ができるんじゃないかと思うんですけどね」
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〔「日本の言語で演じ、歌う以外はやりたくない」〕
 70年代、「野良猫ロック」や「女囚さそり」「修羅雪姫」シリーズに主演。
ふて腐れたようなクールビューティーぶりが、怒れる反体制の若者に熱狂的に支持された。
クエンティン・タランティーノ監督も彼女のポスターを部屋に張りまくるほどの大ファン。
2003年のヒット作「キル・ビル」が「修羅雪姫」のパクリであると明かし、
エンディングに「女囚さそり」の主題歌「怨み節」を使った。
これをきっかけに海外から映画出演のオファーが相次いだが、すべて断ったという。

 「私は日本の言語で演じ、日本の言語で歌う以外はやりたくない。
よその国に行ってそこの文化を演じようとは思いません。
どうして海外でやらないの、って聞かれますけど、大きなお世話。
それだけは曲げられない信念です。
日本人が海外に行っても貫けるものって武士道しかないと思ってますけど、
それができたのは三船(敏郎)さんだけですよ」
 武士道には自分の意志がある、主君に仕えるのも国の犠牲になるのも決してやらされているわけではない-それがすばらしいという。

池波正太郎「鬼平犯科帳」のドラマで、火付盗賊改方長官の長谷川平蔵に仕える女密偵おまさを20年にわたって演じてきたが、この作品をとりわけ大事に思うのも武士道が描かれているからだ。
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 「いまでも鬼平組には慣れというものがないんです。撮影は役宅のシーンから始まるんですが、お頭(中村吉右衛門)が真ん中にお座りになると、それはもうすごい緊張感で。そりゃまあ、36歳のまま変わらないおまささんを62歳の私がやるわけですから涙ぐましい努力も必要ですよ。でも、すばらしい作品に出合えて感謝です」

【20代、仕事充実の中で結婚考えたが】
 生涯の当たり役、おまさも元盗賊でいわばアウトローだが、「女囚さそり」などで確立したアウトローのイメージが強烈すぎて、テレビ出演の依頼が来ない時代もあった。
 「普通のお母さん役をやらせていただきたいといっても、このキャラクターでは無理ですね、と。でもアウトローに抵抗があったわけではないの。この財産を守りながらどう貫いていくかが勝負だったのよ」
 20代後半、本気で結婚を考えたことがあった。
が、仕事に乗っていた時期で「冷静に考えたら絶対、後悔するぞって思ったのよね」。
以来、結婚はないものと覚悟を決めて仕事に打ち込んできた。悔いはない。
 「男は裏切ると思うのよ。でも仕事は裏切らないからね。自分がちゃんとやりさえすれば、だけど。どんな仕事も楽なことなんてほとんどないし、苦痛だったり情けなかったり、みじめだったり…だけど、あきらめたら負けよ。少しでも『やった』という仕事があれば、それが最良の幸せ。成功ってそういうことだから」

 いま再び歌うのは、生き延びるためだという。
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〔「女優もアラ還にもなると切り捨てられていきますよ。
自らプレッシャーを与えないと。もう死ぬまでアウトローを通したいと思っています」〕

「女優もアラ還にもなると切り捨てられていきますよ。
安住していては自分がダメになってしまうから、自らプレッシャーを与えないと。
この曲で果たして新たな道にいけるか分からないけど、私は簡単にはあきらめませんよ。
それなりにアウトローを通してきましたけど、もう死ぬまでアウトローを通したいと思っています」

【平蔵の独り言】
今、出来ることはなんだろう。
若い世代に邪魔しないように!
「話をする事で、何かの参考になるのではないか」
あまり考えずに“うるさいな”と思われてもいいではないか!
イヤなら、寄ってこない。

アラ還になってから、こんな思いで迷いながら歩いているが
ありがたいことに現役を続けられている。

梶芽衣子と同じ世代として、そうかこれでいいのかな!

と、思わせてくれた。
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by asanogawa-garou | 2013-04-12 17:36 | 人間模様 | Comments(0)

ああ、東京大学〔東大に入っても不幸な人〕〔東大出たのに不幸な人〕   

2013年 04月 02日
ああ、東京大学〔東大に入っても不幸な人〕〔東大出たのに不幸な人〕
週刊現代2013/3/23号
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東大に入れば将来は安泰――そんな甘い時代はとうに終わっている。
苦労して狭き門をくぐっても、不幸になる落とし穴はそこら中に隠れている。
失敗していった東大生たちの声を集め、徹底検証した。

【東大は努力で入ってはいけないところです】
〔授業についていけない〕
〔就職に役立たない〕
〔「そもそも東大に集まっている学生が優秀という前提がおかしい」〕


【博士になっても未来がない】
〔東大生はたしかに、徐々に社会から必要とされなくなりつつある。〕

【勉強はできるのに人間はできてない。だから職場で嫌われる】
〔面白いことが言えない〕
〔日本人というよりは『東大人』という別人種だと考えたほうが〕
〔東大人は『さすが東大』と“生け贄”の東大生〕
〔同僚がサルに見えてくる〕


【いかにも中途半端な東大改革】週刊現代2013/4/6号
〔東京大学「国家公務員養成所」〕

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【東大は努力で入ってはいけないところです】
〔授業についていけない〕
「合格発表会場で胴上げなんかされちゃって、人目をはばからず喜んでいる受験生っているじゃないですか。そういう人って、だいたい入学した後に不幸が待っているんですよ」

様々な誘惑を拝して、一心不乱に努力を続けてきたのだから、喜びもひとしおだろう。
だが、東大にかぎっては、そうした無理な努力で入学することは、あまり身のためにならないかもしれない。
「あそこまで喜べるのは、よっぽど努力した人、それも入試の手応えに自信がない人です。要は、努力した凡才なんです。そういう人が東大に入ってもいいことはひとつもありません。」

『どうせ受かってると思ったから、合格発表は見に行ってないんだ』
と言われたときは衝撃を受けました。
親や教師に半ば強制的に勉強をさせられ、身の丈に合わない東大に入っても、いいことはありません」
そもそも東大とは、努力をして入る価値のある大学なのだろうか。

〔就職に役立たない〕
東大の講義はハイレベルすぎて学生がなかなかついていけないものか、
教授の趣味を反映したマニアックなものかのどちらかで、良くも悪くも「実学」がない。
本当の天才ならともかく、
「就職に役立つことを学びたい」という程度の「凡才」なら、
サービスの行き届いた私大に入ったほうが自分のためになる。

〔「そもそも東大に集まっている学生が優秀という前提がおかしい」〕
「入学試験は、ある方向の能力だけを計っているに過ぎず、
人間としての知性とはさほど関係ありません。人間の能力はもっと複雑で多様なものです。
東大生、東大出身者に代表される知識人の特徴は、〔自分の考えがないこと。〕考えがないからどんな考えでも「理解」できる。」

【博士になっても未来がない】
「学問とは主体的に行うものであり、自分の知りたいことを追求するものです。
ところが、いまのカルキュラムではそれぞれの先生が持っている価値観などを片っ端から理解しないといけない。
その結果、いかなる意見でも理解したふりをするようになる。
本当には理解していないのに返事ができる。これにて『東大生』の完成です。
ところが、この性質は答えがない場合まったく使い物にならない。
近年『東大生が使えない』と言われるのはこのせいです」

〔東大生はたしかに、徐々に社会から必要とされなくなりつつある。〕
東大生はたしかに、徐々に社会から必要とされなくなりつつある。
東大が公表している博士の就職率は、ここ10年40%台で推移してきました。
これは非常勤講師などの任期付き雇用も含めた数字なので、
いわゆる正社員としての就職率となると、実質2~3割でしょう。
一般企業の入社試験でも、東大生が無条件に歓迎される時代は終わっている。

親や地元の期待を背負って東大に入っているからには、
聞いたことがないような会社には入れない、大企業病、
ひとたび手に入れると、親も容易に下ろすことを許さないその看板が、
実社会ではさして役に立たないことを、東大生はいずれ知ることになる。

【勉強はできるのに人間はできてない。だから職場で嫌われる】
〔面白いことが言えない〕
東大を出て就職し、順風満帆な人生に異変が生じたのは、
初任地配属初日、朝礼で挨拶をしたのですが、
支店長に『彼は東大卒の幹部候補だから、くれぐれも迂闊な言動は控えるように』とニヤニヤしながら紹介されたとき、カルチャーショックを受けました。
東大の外に出たら、東大ってだけでこんなにいじられるんだ、って。

東大生が存在しない環境を知らなかったんです。
その日から完全におもちゃ。
僕への『東大いじり』が始まりました。
営業時間外の飲み会なんかでは毎度毎度
『東大は俺の酒が飲めねえのか』『東大のくせに話つまんねえな』
『おい、お前日本最高学歴じゃねえか?学歴最高~って叫べよ』
とか言われて、どうしていいかわからず呆然としてしまいました。

〔日本人というよりは『東大人』という別人種だと考えたほうが〕
「東大生は、長年受験勉強という個人プレーを続けて成功を収めてきたために、
人に合わせるという発想がない人が多い。
協調という、昔ながらの日本の美徳を持ち合わせていないのです。
そうした東大生はもはや、
日本人というよりは『東大人』という別人種だと考えたほうがいいかも知れません」

ほめられて当たり前で、自分が批判の対象になることなど完全に想定外という、
実社会の厳しさを知らなすぎる。

〔東大人は『さすが東大』と“生け贄”の東大生〕
「ビジネスの世界において、東大出身者は二極化します。
一定のレベル以上の働きをすれば『さすが東大』と、他大の人間よりも誉めそやされますが、
そのレベルを少しでも下回ると、『東大のくせに』と他大とは比べ物にならないほど冷たい目で見られる。
後者を“生け贄”の東大生と呼んでいます。
東大を出ても出世できない人がいると、他の社員が元気になる部分があるからです。

ただ面白いのは、こうした生け贄になるような“できない”東大生にかぎって、
学歴を鼻にかける傾向にあることです。
東大という名に見合う能力がないからこそ、自分のプライドを支えるものが東大しかなくなってしまうのでしょう」

なにかうまく行かないことがあっても、自分が間違っているはずがないから他人の中に理由を探す。
それが東大生の思考回路なのかもしれない。
「答え」がない状態、人に否定される状態に慣れていない東大生にとって、就職活動はこの上ないストレスなのである。

〔同僚がサルに見えてくる〕
文系就職をした理系東大生が一番悲惨かもしれない。
文系の人って起きた現象に対する正しい調べ方を知らないから、感情的な判断しかできない。
すべてが論理的じゃないんです。
そうやって理性のない同僚がわめいていると、だんだん彼らがサルに見えてくる。
会話の通じないサルなんかと本当は話したくない。
同僚たちを見下して、自ら孤立していった。

東大卒が社会で好まれないのは、協調性の欠如と高すぎるプライド、そしてもうひとつある。
人を育てるのではなく、人にすごいと思われたいだけ。
東大生の最大の弱点は「均質性」にある。
世の中も人生もいろいろ。
その真理に気づけない東大生には、社会に出ると必ず不幸が待っている。

【平蔵の独り言】
東大生は人種が違う。
日本人ではなく東大人、人にすごいと思われたいだけ。
東大“すごい”と羨望の眼差しでいるが
社会に出て働き始めて、40余年前 
“危なっかしい若造”に声を掛けて、仕事の環境をくれたのは
2人鮮明に記憶しているが 『さすが東大』東大人であった。

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【いかにも中途半端な東大改革】
週刊現代2013/4/6号

〔東京大学「国家公務員養成所」〕
東京大学「国家公務員養成所」が推薦入試を導入すると発表して、
「従来のテストで把握できない資質や、優れた人材を発掘し、多様な人材を採りたい」
果たして、この措置をどう評価するのが正しいのか。

東大といえば、日本における「勉強ができること」の代名詞である。
それを支えているのが、ガチンコの学力入試システム。
推薦入試など、情実が入る余地のある選考方法をしてこなかったことが、
学力の高さを担保してきた。

逆に言えば、それがゆえに、推薦入試導入=東大の凋落と語られる背景となっている。
では、実際にどれくらい東大が優秀な人材を輩出しているのかを見ると、
法学部を中心として公務員を多数輩出してきた。
公務員というのは、ほとんどが公平性重視の学力試験で採用される。
だから、同じ学力重視の東大が「国家公務員養成所」となることは整合する。
一方、理系はあまりさえない。
東大出身者の自然科学系のノーベル賞受賞者は4人と、京都大学5人に後塵を拝している。

いってみれば、情実入る余地のない公平なテストに強い人というのが、
良くも悪くも「東大ブランド」なのだろう。

国営による「国家公務員養成所」として、公平なテストに強いという「東大ブランド」は悪くないし、税金で運営されていることと矛盾もない。

【平蔵の独り言】
東大が「国家公務員養成所」「東大ブランド」は“情実”の必要ないが、“情実”の必要な「実学」「実社会」では通用しないということを自ら語っている。

みんな平等の社会は存在しないのだから、
目指せ“東大”は永遠に残って欲しい。
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by asanogawa-garou | 2013-04-02 17:13 | 今 今日この頃 | Comments(0)