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テレビ史上最高のホームドラマ『寺内貫太郎一家』 古き良き日本の「あるべき」家庭の風景   

2013年 06月 27日
『寺内寛太郎一家』古き良き日本の「あるべき」家庭の風景 〔あの日を旅する〕
〔あの日を旅する〕サウダージ第90回1974年7月8日~7月15日
あのテレビ、あの場面  週刊現代2013/7/20号

テレビ史上最高のホームドラマ『寺内貫太郎一家』を語ろう
小林亜星×西城秀樹×鴨下信一
今週のディープ・ピープル 週刊現代(2013/6/22号)

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『寺内寛太郎一家』古き良き日本の「あるべき」家庭の風景 〔あの日を旅する〕
〔あの日を旅する〕サウダージ第90回1974年7月8日~7月15日
あのテレビ、あの場面  週刊現代2013/7/20号

「ハシにも棒にもかからない、きわめてものわかりの悪いお父さんの魅力を描きたい」(当時の向田邦子のインタビュー)という、
愛嬌があるゆえに憎めない父親を好演した。

70年代のホームドラマを代表するTBS久世光彦プロデューサーと、
向田邦子脚本による大ヒットドラマ。
ビデオがなかったあの当時、夜9時からの放送で平均視聴率は30%を超え、
放送から40年近く経っても、「寺内寛太郎」の存在や言葉は、
いまだ多くの人の心に刺さっている。

ドラマといってもシチュエーションコメディに近いようなコメディが基調で、
役者としてはまったくの素人であった小林亜星が、寺内寛太郎として抜擢され
「ハシにも棒にもかからない、きわめてものわかりの悪いお父さんの魅力を描きたい」
(当時の向田邦子のインタビュー)という、愛嬌があるゆえに憎めない父親を好演した。
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寺内寛太郎は石頭で頑固オヤジ。
毎回西城秀樹演じる息子と取っ組み合いの喧嘩をし、
樹木希林(当時は悠木千帆)演じるばあさんは突然沢田研二のポスターに向かって「ジュリーっ!」と叫ぶ。アニメのようにキャラの立った家族だ。

それでいて「日常」を描くことで人々の心の襞を丁寧に描くシーンもあって、
古き良き日本の「あるべき」家庭の風景がそこにあった。

寺内寛太郎は理屈よりも手が先に出る横暴で無理解な父親であるが、
同時にだれよりも愛情が深くウソのつけない男であった。

いまだったら、すぐに手を出すな、相手の話を聞け、と抗議があるかもしれないが、
当時そういうことが起きなかったのは、父親に威厳があり、家族のリスペクトがあったからだ。
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細かいツッコミなんか気にしない、正論をいうオヤジが昔はいた。
なかでも寺内寛太郎が絶大な支持を得たのは、実はこの国の人が求めている「愛嬌のある絶対的父性」という、一見矛盾した要素を体現していたからかもしれない。
梶芽衣子演じる長女が、足が不自由なのは、寺内寛太郎の不注意が原因で怪我したものであった。
その負い目を抱えながらも、萎縮せずに父性を発揮していた寺内寛太郎は、大人になってみると、すごい大人だったとわかる。
〔脚本家の向田邦子は1981年、航空機墜落事故によりこの世を去った〕
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【平蔵の独り言】
日本が変わったのか?
日本人が変わったのか?

人間が変わったのか?

時代が変わったのか?

下町育ちに取って、何処にでもある市井の営みが壊れて行くのか?

市井の人は今も日々の営みの中でみんな頑張っているのに

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テレビ史上最高のホームドラマ『寺内貫太郎一家』を語ろう
小林亜星×西城秀樹×鴨下信一
今週のディープ・ピープル 週刊現代(2013/6/22号)

〔体罰なんて当たり前〕
〔責任なんてとらないよ〕
〔向田さんは怖い脚本家だった。〕
〔最後は本当の家族になった〕

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〔体罰なんて当たり前〕
(小林)貫太郎の役を演じたのは41歳の時。
演技の経験なんてないから、本当は辞退したかったん、無下に断れなかった。
(鴨下)僕はあのドラマ枠の責任者で演出陣の一人。
本当は貫太郎役がなかなか決まらず、一度は企画が流れかけたんですよ。
俳優さんに声を掛けたんだけれど、ことごとく断られ、
最後に亜星さんにお願いすることになったんです。
条件は「とにかくデブを!」でした。
(西城)このドラマが成功したのは、貫太郎役が亜星さんだったからだよ。
プロの俳優さんがやっていたら、あの味は出せなかった。

(鴨下)だけど、実は脚本を書いた向田邦子さんに猛反対されていた。
「亜星さんだけはイヤだ」って。

当時の亜星さんは長髪で夏はアロハ姿。ブレスレットや指輪もしていて、
向田さんが思い描いていた貫太郎とイメージが違い過ぎた。
(小林)当時の俺は典型的な業界人だったからね。
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(鴨下)貫太郎のモデルは向田さんのお父さんだから、こだわりがあったのでしょう。
しかも設定では50歳。
ところが、久世は偉い。
亜星さんに丸刈りにしてもらい、半天を着せて、首から成田山のお守りを下げてもらったら、
驚くほど似合っていた。それで「大丈夫だ」と太鼓判を押した。

(小林)大滝秀治さんに怒られましたよ。
(鴨下)えっ、あの名優に?
(小林)これまで黙っていたけれど、大滝さんは親戚なんです。
僕の妹の亭主は、大滝さんの奥さんの弟。
大滝さんから「バカなことをするな」と叱られました。
(鴨下)あ-、分かるな(笑)。

(西城)僕は貫太郎の長男で浪人生の周平に扮した。
向田さんが考えてくれた役なんでしょ。
(鴨下)当時の秀樹は物凄く忙しくて、スケジュールを押さえるのが至難だったから、
放送直前まで出てもらえるかどうか分からず、一番最後に役が作られたんだよ。
(西城)忙しいのは平気だったけれど、
亜星さんとの乱闘シーンで、茶の間から庭まで吹っ飛び、右腕を複雑骨折。
このときは仕事を1ヶ月休んだ。
(小林)なかなかに庭から上げって来ないなぁと思っていたら・・・・申し訳ない。
あの後、秀樹ファンの女子高校生から、抗議の手紙が山のように届いたよ。
「おまえの体も同じようにしてやる」書かれた手紙もあった。
(西城)けれど、あの親子ゲンカにも深い愛情が感じられるということで、このドラマを副教材にした小学校もあったよね。
(小林)今の時代じゃ作れないドラマだよ。
「こんな暴力的で封建的な男を、どうして許すんだ!」というお叱りが視聴者から殺到する。
(鴨下)体罰も問題化しているからね。難しい世の中だ。
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〔責任なんてとらないよ〕
(小林)乱闘シーンが名物になって、階段から勢いよく転げ落ちるシーンもやらされたけど、
久世さんは平気な顔で、
「なんの補償もありませんが、ハイ、スタート!」だって。酷い話だよ。
(西城)あの人は煽る。だけど、責任は取らない(笑)。
(小林)責任なんて考えていたら、あんなドラマは作れない。
(鴨下)ある種の狂気がないと、面白いものは作れないからね。

(小林)それでも収録現場は和気あいあい。
スタッフと出演者たちは本当に仲良かった。
仲が良いぶん、ケンカもした。
ばあさんのきん役を演じた樹木希林さんと俺が、収録中に口論したこともある。
理由はおぼえてないけれど、ケンカが収まらず、演出していた鴨下さんが飛んできた。
止めるかと思ったら、「なんでもいいから、先に収録を済ましてくれ」だって(笑)。
(西城) 希林さんは演技に初挑戦していた、亜星さんを発憤させようとしていたんだよ。
陰で応援していた。
(小林)そういう心配りが上手な人だからね。
(西城)出演陣のまとめ役だった。
(小林)あのドラマのギャグの大半は希林さんが考えたものでしょ。
希林さんが沢田研二さんのポスターに向かって「ジュリ~」と叫ぶ場面とか。
(西城)久世さんは出演陣のアイディアを取り入れてくれる人だったからね。
(小林)一番得したのは希林さんだ。
31歳で70歳のばあさんを演じたから、あれから年を取らない。
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〔向田さんは怖い脚本家だった。〕
(鴨下)向田さんは怖い脚本家だった。
向田さんがセリフの中に「一丁前」という言葉を入れたら、
誰だったか「先生、こんな言葉は今の人に分かりません」と意見した。
向田さんは「あなたが知らないだけでしょ!」と烈火の如く怒った。

(小林)それにしても・・・・・・・向田さんの脚本は、仕上がるのが遅かったなぁ。
(西城)その回の収録が始まっているのに、後半の場面の脚本がないこともあった。
(小林)書き上がったばかりの脚本がガリ版で刷られ、スタジオで配られたこともある。
(鴨下)あまりに遅いから、腹が立って、
出演陣の一人が向田さんに「筋だけ言ってくだされば、あとは私たちが何とかします」と進言したこともあったね。
それで、また怒った(笑)。
向田さんは「なんてバカなことを言うの!」と激怒した。
(小林)実は俺も向田さんに怒られたことがある。
このドラマの放送終了後、向田さん自身が脚本を小説化したんだけど、
俺は「小説は下手ですね」って言っちゃった。
(西城)そりゃあ、マズイですよ。
(鴨下)繊細で他人の言葉を気にする人だったからね。
だけど、小説版『寺内貫太郎一家』の出来は確かに良くない。
向田さんはこのドラマが放送された翌年の1975年に乳がんの手術をうけたんだけど、それから変わった。
随筆も小説を書き始め、いずれも素晴らしい出来だった。
なぜ、忽然とうまくなったのかは謎だけど、やはり病気が影響しているのでしょう。
(小林)人間は死と向き合うと変わるからね。瞬く間の大作家になっていった。
(鴨下)向田さんの脚本と随筆や小説に違いがある背景には、脚本はいろいろな人に気兼ねして書かなくてはならないという事情もある。
(小林)俳優さんやプロデューサー、演出家とかね。
(鴨下)随筆や短編小説では誰にも気兼ねする必要がないから、
向田さんに「随筆を書き始めたら、人が悪くなりましたね」と言ってしまったことがある。
そのあとが大変だった。
向田さんが新作を書くたびに電話がかかってきて、
「この文章は意地が悪い?」って聞かれるんだ。
本当に繊細な人でしたよ。
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〔最後は本当の家族になった〕
(小林)脚本はたしかに遅いけど、内容が良いから、だれも文句言わない。
(鴨下)新人の頃から遅かったけど(笑)、あれだけの脚本はそうない。
出演陣のカラーを崩さず、誰にも損をさせていない。
向田さんは4人きょうだいの長女として育ったから、
長女の性質が最後まであって、久世をはじめとしたドラマ関係者の全員を守ろうとしていた。
(小林)俺たち演じる側のキャラクターに合わせて書いてくれたから、
セリフが覚えやすいんだよ。
(鴨下)放送終了後も出演者同士の交流が続いたようだし、
『寺内貫太郎一家』は最後の明るいホームドラマだった。
世の中を反映してか、そのあとのホームドラマはどこか暗い。
(小林)このドラマでは食事のシーンも家族全員が一緒だったしね。
ドラマ出てくるおかずやご飯はTBSの食堂で作っているんだけど、これが美味しい。
(鴨下)向田さんから「TBSは、おかずは良いけれど、ご飯がダメ」と叱られたことがあってね、
お米も良くしたんですよ。
(西城)このドラマ自体にも昭和という時代が凝縮されていたね。
頑固おやじがいて、家族愛があり、人情味にあふれていた。
そういう意味では『三丁目の夕日』より先立った。
(鴨下)うん、あの時代の人々にも良いところも悪いところもあったけれど、
今の人たちとは確実に違う。
(小林)昭和の人たちのことを知りたかったら、このドラマを見ればいい。
(鴨下)向田さんの脚本はセリフが良かっただけでなく、ディテールにも風情があった。
たとえばゴム紐を手にした押し売りが登場した。
あの時代、押し売りといえばゴム紐。
時事ネタも取り入れてくれて、健康食品として紅茶キノコが流行すると、
ちゃんと脚本に描かれていた。
(西城)このドラマが当たったのは、乱闘シーンがウケただけじゃないよね。
(小林)俺は今年で81になります。
あれから約40年も過ぎたのに、こうやって3人で語り合う機会を与えられるドラマなんだから、幸せだよね。

【平蔵の独り言】
向田邦子の脚本、演出陣、出演者、時代背景
全てが個性と自負を持っていた、時代だったのかと思う。
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向田さんのエピソード満載!
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『寺内貫太郎一家』は最後の明るいホームドラマだった。
(西城)このドラマが成功したのは、貫太郎役が亜星さんだったからだよ。
プロの俳優さんがやっていたら、あの味は出せなかった。
(鴨下)だけど、実は脚本を書いた向田邦子さんに猛反対されていた。

(鴨下)向田さんは怖い脚本家だった。
向田さんがセリフの中に「一丁前」という言葉を入れたら、
誰だったか「先生、こんな言葉は今の人に分かりません」と意見した。
向田さんは「あなたが知らないだけでしょ!」と烈火の如く怒った。

(小林)それにしても・・・・・・・向田さんの脚本は、仕上がるのが遅かったなぁ。
(西城)その回の収録が始まっているのに、後半の場面の脚本がないこともあった。
(小林)書き上がったばかりの脚本がガリ版で刷られ、スタジオで配られたこともある。
(鴨下)あまりに遅いから、腹が立って、
出演陣の一人が向田さんに「筋だけ言ってくだされば、あとは私たちが何とかします」と進言したこともあったね。
それで、また怒った(笑)。
向田さんは「なんてバカなことを言うの!」と激怒した


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中島みゆきの『時代』・・・・あんな時代もあったねと
やはり、もう戻って来ない。

いい時代を歩いて来たのかと思う。
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梶芽衣子も寺内貫太郎の娘で出ていた。
意外と記憶は間違っていない・・・・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2013-06-27 16:19 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔人生は運や偶然によって決まる部分が大きい(思い通りにならない会社人生だから面白い)〕   

2013年 06月 19日

〔人生は運や偶然によって決まる部分が大きい(思い通りにならない会社人生だから面白い)〕
週刊現代6/15号

【「異動」人間、腐ったらおしまい】
  〔畑違いの仕事で評価を高めた〕
【「左遷」4度左遷を経験した】
  〔落ち込むのは仕方ない〕
【「左遷」社長の彼にしてみれば正反対の考えの人間が傍にいるのが煙たかった】
【「転籍」友人は去っていった】
  〔人事に不満があっても言葉や表情に出したら負けなんです。
  行けば必ず何か自分のためになることがある。
  だから、私はポジティブな感覚を失わずに、新しい環境で仕事をすることができた〕
【「降格」2度の降格人事・苦境を「三つの支え」によって乗り切れた】
   一つ目:あきらめないこと
   二つ目:演技すること
   三つ目:心のよりどころとなるメンター(師)を見つけること。
【「会社の不祥事」・『いままで自分はなんと無責任だったのか』】
  〔会社とは何だ、人生とは何だ〕

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【「異動」人間、腐ったらおしまい】
「不本意な人事異動を命じられた場合、
 多くの人がやる気を失うか、異動先で埋没してしまうのが実情です。
 だが一方で、腐りそうになる気持ちをこらえ、不本意なポストでも踏ん張る人たちがいます。
 左遷や降格人事を受けたときこそ、サラリーマンは真価が問われるとも言えるのです」

〔畑違いの仕事で評価を高めた〕
 専門外の部門で、勉強をして、インタビューに淀みなく答えられるほどの知識を身につけて、
 新天地でもやるべきことをやる姿勢が抜擢された要因になる。

【「左遷」4度左遷を経験した】
 最初の左遷は入社11年目かな。花形部署から帰って来たときだった。
 課長職を目前して上司の不興を買い飛ばされた。
 飛ばした本人が『飛ばした』と話していたので勘違いではないでしょう。
 
 単身赴任先では、仕事らしい仕事もなく、完全にふて腐れました。
 不思議なもので、類は友を呼ぶ。
 終業時間になると、似たような境遇の人間が集まって、飲みに出かけるようになる。
 話題は愚痴と上司批判です。毎晩、安酒をかっくらって、体調を崩す者までいた。
 私はだんだん恐くなり、彼らとは付き合わないようになった。
 左遷を本当の左遷にするのは自分なんだな、と痛感しました。


 しかし、遅かった。2度目の左遷です。
 しかし、腐ってはいけないと最初の左遷で思い知ったので、
 何とかあがいて現地の責任者と親しくなり、業務改善に成功した。

 〔落ち込むのは仕方ない〕
 左遷されて落ち込むのは当たり前。むしろ、とことんしょげるべきです。
 悪いときはすり鉢の底に向かって駆け降りる。
 すると、勢いでそのまま上がっていくものです。
 飛ばされることよりも気力を失うことのほうがはるかに怖い

【社長の彼にしてみれば正反対の考えの人間が傍にいるのが煙たかった】
 最年少で順調に出世コースを辿った。
 ところが突然出向、明らかな左遷だった。
 当時の社長と僕の考え方が正反対だったからでしょう。
 サラリーマン人生初の挫折。
 役職定年を前に戻れる可能性がゼロに近いことを意味する。

「僕は活字中毒で、歴史書はこれまでに山ほど読んできた。
 そのなかで、人生は運や偶然によって決まる部分が大きいことを学んだ。」

「ただ、経験を後輩たちに残したいという気持ちもあった。
 そこで、『遺書』として『生命保険入門』という本を書きました。
 それで、きっぱりと保険業界のことは忘れるつもりだった。
 しかし、知遇を得て、保険会社を作ることになり、再び保険業に携わることになりました。
 結局のところ、人生は偶然の積み重ねなんですよ」

【「転籍」友人は去っていった】
 左遷、出向以上に会社員にとって辛いのが、完全に別の会社の社員になってしまう「転籍」。
 そんな転籍を命じられた後、本社に復帰を果たした稀有な経験を持つ。
 転籍して、周囲の誰もが「出世コースから外れた」と感じた人事だった。
 「全く予期せぬ転籍でしたね。突然命令されたんです。
  会社が変わったことを思い知らされたのは、社員証の色が変わったことと、
  保険証の内容も変わ  ったことです。一抹の寂しさを感じました。」

 不本意なはずの人事を、表面上は淡々と受け止めた。
 「私はサラリーマン人生の中で、一度も異動希望を出したことがないんです。
  いつでも『行けと言われればどこへでも行きます』とだけ書いてきたし」

〔人事に不満があっても言葉や表情に出したら負けなんです。
 行けば必ず何か自分のためになることがある。
 だから、私はポジティブな感覚を失わずに、新しい環境で仕事をすることができた〕

 転籍での業績が評価され本社に復帰。
 転籍の2年間は私の会社人生で、最も意味あるものでした。充実した日々でした。
 信用を得るためには、肩書で人を判断してはいけないことも学んだ。

 それまで付き合いのあった人のなかには、
 転籍になった途端、あからさまに態度が変わった人がいましたから。
 『食事に行きましょう』としょっちゅう誘ってきたのに、一切連絡したこなくなった人。
 話していると、腹の中で見下しているのを感じるかつての部下。
 彼らの姿を見て、私は人に対して誠実に正直に付き合おうと思いました

【「降格」2度の降格人事・苦境を「三つの支え」によって乗り切れた】
 2度の降格人事を経験している。
 1度目は同期トップで課長になったのもつかの間、平社員へと落とされた。
 2度目は本社の部長から課長に降格された。
 いずれも上司との衝突が原因だった。

 当時の苦境を「三つの支え」によって乗り切れたと語る。
 「まずは、あきらめないこと。サラリーマンにとって『あきらめ』は楽だし、最大の誘惑です。
  これに負ければ未来はない。
  
  二つ目は、演技することです。
  降格されたとき、それを喜ぶものが社内には必ずいますが、いちいち反応してはいけない。
  芝居でもいいから、嬉々として仕事をするべきです。
  良い意味で周りを騙すんです。前向きな態度は、次第に周囲の評価を高めるものです。
  
  そして最後に大切なのが、
  社内でも社外でもいいから、心のよりどころとなるメンターを見つけること。
  メンターとは日本語で『師』でしょう。
  私にとって彼らの存在は、降格の憂き目にあったときの駆け込み寺でした。
  私の場合、30代半ばで自分より人生経験のあるメンターを社外に持つように努め、
  ことあるごと に相談していた」

【「会社の不祥事」・『いままで自分はなんと無責任だったのか』】
 会社そのものの不祥事に直面し、思わぬ仕事に従事させられたこともある。
 『挨拶はいい。大阪に行ってお詫びの部隊に加わってくれ』と指示されました。
 大阪では驚きの連続でした。
 『お客様リストは手元にありますね?一に謝罪、二に謝罪、三に謝罪、四に謝罪、五に謝罪です』
 逆に言うと、それ以外、対応マニュアルがない。
 これは大変なことになっていると思いました。
〔会社とは何だ、人生とは何だ〕
 お詫び行脚の日々が始まってすぐ気づいたことがあった。
 「私は実感がなかったんです。事件現場から遠い営業担当で、『自分のミスではない』
 という思いもあり、頭ではお詫びしなければと思っていても、腹にまで落ちていなかった。
 しかしお詫びをしていくうちに、『いままで自分はなんと無責任だったのか』と気づいた。
 製造現場のことをほとんど知らなかった。工場はどんな体制で製造して販売する。
 研修程度の知識だけでお客様に販売していた。
 次第に、この事態は私と、私が所属する企業の体質が起こしたものだと腑に落ちました。
 責任の所在を自分に求めたのです。
 多い日には一日13軒を土下座して回った。罵声を浴びることもあった。
 「私はそれを理不尽だとは思わなかった。
 本当に自分が悪かったと反省し、心からお詫びしていました。
 それがお客様に伝わったのかもしれません。
 『兄ちゃん、頭上げて、これから頑張ってくれたらええから』と言われ、
 涙が出そうになったこともありました。」

出向、転籍、降格、そして不祥事。
それぞれの困難を乗り越えた彼らが口を揃えて言うのは、
あのとき泣いた経験によって人間が磨かれたということだ。
会社人生は何が起こるかわからない。
しかし、だからこそ面白いのだ。


【平蔵の独り言】
振り返って見ると、いままでの人生でそうだよな!
〔人生は運や偶然によって決まる部分が大きい〕
というよりは、過ぎ去った時間(これを人生というのか)は
何か見えない力が 積み重なって今という時間あるように思う。

あの時、”ああしていれば”ではなく”ああしていなかったから”
今がある。

さあ!今から最終コーナーに向かって
五木寛之(80歳)が言っていた
充実した”終活”をして行こう・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2013-06-19 17:58 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)