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「上を向いて歩こう人生」【80歳の永六輔】・TBSラジオ「永六輔の誰かとどこかで」(46年で幕)   

2014年 02月 27日
「上を向いて歩こう人生」【80歳の永六輔】
・TBSラジオ「永六輔の誰かとどこかで」(46年で幕)


【『上を向いて歩こう人生』(80歳の永六輔)】
ラジオって、そういうふうに日常の暮らしの中に、まるで風が吹くように流れているもの。

【TBSラジオ「永六輔の誰かとどこかで」(46年で幕)】
『しゃべれなくても、あなたがマイクの前にいることが大事なんだから、いろ』って。【永六輔(80)】
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【80歳の永六輔「上を向いて歩こう人生」】
サンデー毎日(2014年2月16日号)

パーキンソン病で現在は車椅子生活の永さん。
TBSラジオ『永六輔その新世界』(土曜8時半~13時)の生放送では、
かつてほど饒舌ではありませんが、『かえって励まされる』とリスナーに好評のようです。

数年前、このままでは聴いている人がイライラするだろうから、もうやめると決めました。

すると、亡くなる前に小沢昭一さんが僕に言ったんです。
「絶対やめるな。たとえ絶句しても、マイクの前にあなたがいる気配がすれば、聴いている気配がすれば、聴いている人は『そこにいる』と感じてくれる。
言ってることが分からなくても気にしなくていいんだ。それがラジオだ」って。
結局、46年続けた「永六輔の誰かとどこかで」は休むことにして、週1回の生放送は続けています。

小沢さんの言葉がなければ、やめてましたね。

――東日本大震災でラジオの有用性が見直されました。
情報源としてだけでなく、いざという時、社会とのつながりが感じられると。
3月11日からずっと民放が自粛しましたよね。
バカ騒ぎする番組をやめたり。

ところが、東北の放送局から僕のもとには
「いつも通り続けてください。永さんがいつものようにやっていると思えることが、ラジオにとっては大事なのです」
という声が寄せられました。

ラジオって、そういうふうに日常の暮らしの中に、まるで風が吹くように流れているもの。
それで、聴こうとする人と話そうとする人の意識がつながり合うのです。

「今、車椅子を楽しんでます」
車椅子での生活は全部、上を向いて話したり、聴いたりすることになります。
子どもの目線です。
すると、それまで見えなかったものが見ることになります。
今、車椅子を楽しんでいます。そりゃ疲れますよ。
でも、障害を嘆くよりは楽しみたいと思います。
パーキンソン病の仲間を元気づけられることがあったら、やっていきたい。

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小沢昭一の小沢昭一的こころ

【TBSラジオ「永六輔の誰かとどこかで」(46年で幕)】
『しゃべれなくても、あなたがマイクの前にいることが大事なんだから、いろ』って。【永六輔(80)】
【「話せなくてもいい」支えに TBSラジオ「永六輔の誰かとどこかで」46年で幕】
小沢さんは『しゃべれなくても、あなたがマイクの前にいることが大事なんだから、いろ』って。
永六輔氏 46年続いたラジオ終了後も小劇場で話すことに意欲】
──しかも、番組宛のハガキはこれからも受けつけるんですよね。
永:はい。そしたら、いままで以上に来てるらしくて。
これからどういうふうに変わっていくかわからないけど、
いままでのラジオとは違うかたちのラジオに遠藤泰子さんと一緒に戻れればいいなと思ってるの。

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③TBSラジオ「永六輔の誰かとどこかで」
【「話せなくてもいい」支えに TBSラジオ「永六輔の誰かとどこかで」46年で幕】東京新聞 2013/9/24朝刊

TBSラジオ「永六輔の誰かとどこかで」46年で幕
 永さん「去年くらいから、何言ってるかわかんなくなって」
 「昨年暮れから今年にかけ、ろれつが回らずひどかった。
放送の人間としたら許せないぐらい。
ろれつが回らなくて、何言っているのか分からない。
やめた方がいいという人がたくさんいた」

 「その中で、小沢昭一さんと毒蝮三太夫が『絶対やめないで』と。
小沢さんは『しゃべれなくても、あなたがマイクの前にいることが大事なんだから、いろ』って。
今はその支えがなくなったけど、小沢さんとの約束で言えば、この番組だけじゃない」。

四十六年続いたTBSラジオ「永六輔の誰かとどこかで」
(月-金曜、午前十一時三十五分)が二十七日、一万二千六百二十九回で放送を終える。
同一パーソナリティーによる最長寿番組の幕引きを控えた永六輔に感慨を尋ねた。
 (浅野宮宏)
 
東京・赤坂のTBSラジオで、八十歳の永は車いすに乗ったままマイクに向かっていた。
アシスタントの遠藤泰子(69)を相手に、はがきを読み、
時折笑顔を見せながら一回十分の放送を収録した。
月-金曜の一週間分を一度にとる。

 永が旅先の出来事を語るのが番組のスタイル。
「若い時は土曜日に東京に戻っていた。必ずどこかに行って、誰かと会って。
それを泰子さんに話すのが本来のあり方。でも体を壊し、できなくなった。
車いすでうろうろしていると、本来番組が持っていた旅先のリポートがやりにくくなった」。
一昨年十一月に脚を骨折。パーキンソン病と公表している。

 「昨年暮れから今年にかけ、ろれつが回らずひどかった。
放送の人間としたら許せないぐらい。ろれつが回らなくて、何言っているのか分からない。
やめた方がいいという人がたくさんいた」

 「その中で、小沢昭一さんと毒蝮三太夫が『絶対やめないで』と。
小沢さんは『しゃべれなくても、あなたがマイクの前にいることが大事なんだから、いろ』って。
今はその支えがなくなったけど、小沢さんとの約束で言えば、この番組だけじゃない」。

永は同じTBSラジオの「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」
(土曜午前八時三十分、関東ローカル)は続ける。
「引退するわけじゃないんで。どうやったら、それが面白くなるか。これからが楽しみ」

 NHKしかラジオがなかった終戦直後、番組への投稿が放送人になるきっかけ。
まだ中学生だった。
「だからラジオが好きとか嫌いじゃなく、ラジオから僕は生まれた」
「子どもの時からラジオの仕事を始めたから、そのまま続けている感じ。
学生時代の延長線上。部活と変わらない」
 探求心は強い。
「自分の周辺にあるものが、どうしてあるのか知りたくなる。知らないと落ち着かない」。
影響を受けたのが民俗学者の宮本常一(つねいち)(一九〇七~八一年)。
「放送の世界に行くんだったら、放送は電波だからどこにでも飛んでいってしまうけど、
その先に行け。そこで話をして、聞いて、調べて。それをスタジオに持って帰りなさい。
だったら放送の仕事をしていく意味がある」。
宮本の教えを胸に生きてきた。

       ◇
 現在フリーの遠藤はTBS入社八カ月後に番組アシスタントに抜てきされ、
これまで永を支えてきた。
番組終了を「人生の一部で切り離せない。
今はすごく寂しいけど、一、二カ月たってから実感がすごく湧いてくるのかも」と受け止める。
 「永さんは言葉の師匠であり、放送の師匠。
一つの物事を思いも寄らない側面でとらえ、実に面白く伝える技はすごい。
永さんと関われ、アナウンサー冥利(みょうり)に尽きる。幸せだった。その一言」

 <「永六輔の誰かとどこかで」>
 1967年1月に始まった「どこか遠くへ」が前身で、69年10月から現在の番組名に。
全国18局ネット。

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④永六輔さん お疲れさまでした! ラジオ番組「永六輔の誰かとどこかで」終了

【永六輔氏 46年続いたラジオ終了後も小劇場で話すことに意欲】
NEWSポストセブン 2013年10月20日
 46年間、1万2629回にわたり続いたTBSラジオ『永六輔の誰かとどこかで』が、
9月27日に最終回を迎えたが、その翌日、何事もなかったかのように、
もうひとつの冠番組の生放送に臨んだ永六輔氏(80)。

永氏にとってのラジオとはどういうものか──吉田豪氏(プロインタビュアー)が深掘りインタビューした。

──素朴な疑問で、永さんって昔からいろんな人と喧嘩して、すぐ番組を降りることで有名だったじゃないですか。
なんでラジオは続いたんですか?
永:テレビのスタジオにいると何をしてるんだかわからない人がいっぱいいるんですよ。
あれが不愉快なの。
代理店とかスポンサーとか、真剣にやってる周りに用もないのにただ偉そうなヤツがいると。
「彼らを全部外に出してくれ」って言うと「そうはいきません」って言われて。
でも、嫌だから大抵そこで喧嘩が始まるの(笑)。
スポンサーを怒鳴り散らしたり。

──うわーっ! それでやめることになるんですか?
永:うん。途中で帰ったことのほうが多いの。
でも、番組中に喧嘩してやめるでしょ?
 そうすると、すぐ別の仕事を回してくれる連中がいるんですよ。
小沢昭一、野坂昭如、五木寛之とか、中村八大、大橋巨泉、寺山修司にしても、
早稲田時代から付き合いのある仲間がね。

──いい仲間たちがいたから、無茶苦茶なやめ方をしても生き残ってこれた。
永:うん、生き残った!

──テレビではそれだけ喧嘩した永さんが、ラジオでは喧嘩せずに済んで。
永:ラジオはいいアシスタントがいて、
遠藤(泰子)さんや外山(惠理)君が僕が怒りそうになるとパッと間に入ってくれますから。
それができないと、すぐ喧嘩になります。
上手なんです、みんな。
でもこないだ、NHKのアナウンサーが、
この人とは仕事をしたくないっていう表があって、
そこには永六輔があったの。とても付き合えないって。

──ダハハハハ! 言われるのには思い当たる節があるわけですね(笑)。
永:あるの。
田辺靖雄がいま日本歌手協会の代表理事をやってるけど、
彼と昔話を久しぶりにして、
よくディレクターやカメラマンに殴られたっていう話を田辺がしたんだけど、
僕は殴ったほうだったから。

──殴ってたんですか! 
永:怒鳴り散らす喧嘩の声の中で、殴ったり殴られたりっていう修羅場だったの、スタジオが。
それが普通だった。

──じゃあ永さんが殴られることもあったんですか?
永:カメラマンに喧嘩で殴られたりしてた。…
殺気立ってる、生放送でしょ?

──それはスタジオによけいな人間がいたら追い出したくなりますよね。
永:殴ったり殴られたりしたっていうのは、みんな一生懸命だったからですよ。
で、いまラジオをやってて感謝してるんだけど、
ホントに居心地のいい環境にしてもらってて。

──『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』は永さんがスタジオにいて、
たまに楽しそうに笑ってるだけで十分ですからね(笑)。
永:ハハハハ! そうなんだよね。
「あなたは笑っていればそれでいいんです」って誰かに言われたな。
でも『誰かとどこかで』はこれだけ長く続いてきて、
遠藤さんは46年、最初からパートナーですから。
 46年、入院しても病室から放送して一日も休んだことがなかったの。
それが今回、お休みになったけど、2人の対話をラジオだけで終わらせたくなくて。
ラジオで話せない話っていっぱいあるの。
そういう話を、遠藤さんとライブハウスとか小さな劇場とかでやっていこうと思ってて。

──しかも、番組宛のハガキはこれからも受けつけるんですよね。
永:はい。そしたら、いままで以上に来てるらしくて。
これからどういうふうに変わっていくかわからないけど、
いままでのラジオとは違うかたちのラジオに遠藤泰子さんと一緒に戻れればいいなと思ってるの。

──楽しみにしてます!

■永六輔(えい・ろくすけ)1933年、東京・浅草出身。
中学時代にNHKラジオ『日曜娯楽版』へ投稿を開始。
早稲田大学在学中より本格的に放送の世界に関わる。
以後、放送番組の作家、作詞家、語り手、歌手、文筆家として幅広く活躍。
2010年、パーキンソン病と前立腺がんであることを公表し、治療とリハビリを続けながら現在も活動を続けている。
※週刊ポスト2013年10月25日号

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【平蔵の独り言】
〔ラジオって、そういうふうに日常の暮らしの中に、まるで風が吹くように流れているもの。

【独り言】
日常・・・・・・・・・・・・・
日常が如何に大切な日々か感じることが多い今日この頃だ!
1週間の間に心の後ろ盾になっていた人、
二人が旅立ってしまい、それでも流れていく。


〔『しゃべれなくても、あなたがマイクの前にいることが大事なんだから、いろ』って。【永六輔(80)】〕
【独り言】
80歳:永六輔、草笛光子、五木寛之(81)、仲代達矢(81)、高倉健(83)
活躍(存在)の日常が続いてほしい!
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by asanogawa-garou | 2014-02-27 16:31 | 人間模様 | Comments(0)

体験をどう「使う」かが個性(曽野綾子)   

2014年 02月 19日
体験をどう「使う」かが個性(曽野綾子)
透明な歳月の光(曽野綾子) 2014/1/12北國新聞

自分のおかれた環境をどう使うかであった。
多くの人が円満な家庭に育ったというべきか、
人はそれぞれ歪んだ歴史を背負わされているというべきか、私は戸惑う。

多くの人が、自分の受けた不当な運命を怒ると、
社会に対する運動に励んで、その状況を変えようとする。

しかし私はそれをしなかった。
簡単に言うと人間の一生は、
温かい愛の感覚からも原動力を与えられるが、
私怨を持ち続けて生きることも必要だと感じるのである。
私は後者であった。

私は若い時から、政治的な行動を一切しなかった。
いいか悪いかは知らないが、それが私の性格だった。

外に向かって自分の受けた不当な歴史をアピールしようとするよりも、
じっとその思いを胸のうちにおいて発酵させ、
いい味に変えてそれを自分の仕事に使おうとしたのである。

私の選んだ道は、考えようによってはイヤな性格の結果だが、
作家としては別に珍しい素質ではない。
私怨を元に生きた芸術家はいくらでもいる。

私はいつも人間の個人的歴史の使い方の違いを思い出される。

【平蔵の独り言】
個人的歴史の使い方(経験)

【独り言】
貴重な経験を持ったまま、旅立ってしまう大切な人々と
日々接して行く 非日常のはずが日常になると

毎日が新しい大切な日々に思う。
ただ、自然の流れに任せればいいのか
わからないが、自身の歴史(経験)と出来ることから
ゴールは決めないで歩いていけばいいのかなと思う。
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by asanogawa-garou | 2014-02-19 16:40 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔佐藤真海氏が語る〕「もし私が車いすだとしたら、日本に住みたいとは思わないですね……」   

2014年 02月 14日
〔佐藤真海氏が語る〕
「もし私が車いすだとしたら、日本に住みたいとは思わないですね……」

車いすだったら、日本に住みたくない

五輪招致の顔、佐藤真海氏が語る7年後の東京

〔競技だけじゃない「世界との壁」〕
22歳から10年間、世界各国を回る中で、佐藤氏は「世界との違い」に何度も愕然とした。
 例えば、日本選手の練習環境。
 一方、ロンドンでは、障害者がスポーツに取り組むハードルは、極めて低いという。
選手の環境やスポーツの世界だけではない。
東京の街中を歩いてみると、違いは歴然だ。
電車に乗れば「お手伝いを必要とされているお客様がいます」と注目を浴び、
階段を上ろうとすれば仰々しい専用エレベーターが登場する。

海外では、障害者が「特別扱い」されることなく健常者と共生しているのに、なぜ――。

〔過去の五輪で、パラリンピックが特に注目を浴びたということは、残念ながらありませんでした。〕

〔ロンドンでは、企業や団体が行った活動やそうした活動に共鳴する個人の姿に感銘を受けたと聞きました。〕

〔東京、さらに日本という国は、どのように変わっていくべきなのでしょうか。〕

 まだたくさんやることがありますよね。
“まだまだまだまだ”ある、と「まだ」を何個つけても足りないくらい(笑)。
「たったの7年」だと思っています。



〔オリンピックとパラリンピックを一緒にやる意味〕

〔選手の練習環境についても、日本は「これから」でしょうか。〕

【楽天優勝で再認識した「スポーツの力」】

〔選手ひとり一人の意識も変わっていく必要があるのでしょうか。〕


日経ビジネス 染原 睦美 2013年11月25日(月)
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 2013年9月7日、アルゼンチンのブエノスアイレスで開催された
五輪招致プレゼンテーションで見事なスピーチを披露し、五輪開催を一気に引き寄せた佐藤真海氏。自身が19歳で経験した骨肉腫との闘い、
2011年に地元宮城県気仙沼を襲った東日本大震災を振り返り、
「大切なのは、私が持っているものであって、私が失ったものではない」
とプレゼンをし、スポーツの力を訴えた。

 あのプレゼンテーションから2カ月経った11月上旬。
改めて佐藤氏に話を聞いた。その中で、彼女がぽつりとこぼした一言が印象的だった。

「もし私が車いすだとしたら、日本に住みたいとは思わないですね……」

〔競技だけじゃない「世界との壁」〕
 佐藤氏は、早稲田大学在学中に骨肉腫を発症。
2002年から義足での生活を余儀なくされた。
リハビリを兼ねて始めた陸上競技で、2004年にアテネパラリンピックに出場。
その後、北京、ロンドンとパラリンピックを経験した。
22歳から10年間、世界各国を回る中で、佐藤氏は「世界との違い」に何度も愕然とした。
 例えば、日本選手の練習環境。
パラリンピック選手は一部の特例を除いて、
日本オリンピック委員会が運用する「味の素ナショナルトレーニングセンター」を利用できない。
オリンピック選手用の施設として位置づけられているため、
パラリンピック選手の利用は限られるのだ。
練習環境のみならず、五輪選手のコーチや競技団体も健常者と障害者でそれぞれ別に存在しているケースが少なくない。

 一方、ロンドンでは、障害者がスポーツに取り組むハードルは、極めて低いという。
障害者スポーツ発祥の地といわれるロンドンのストークマンデビル病院では、
リハビリ施設のほか、すぐ近くにスタジアムや体育館を設置。

過去に入院していた現役パラリンピック選手が訪れ、ボランティアで競技を教える。
一般的な陸上競技施設では、健常者と障害者が同じフィールドで練習を行っていることも珍しくない。
 ロンドン五輪では、スポンサー企業も精力的にパラリンピックを盛り上げた。
例えば、英国大手スーパーマーケットチェーンのセインズベリーが手がけた「1ミリオン・キッズ・チャレンジ」。
子供にパラリンピックの競技に興味を持ってもらうべく、
数年前から取り組まれたキャンペーンだ。
 選手の環境やスポーツの世界だけではない。
東京の街中を歩いてみると、違いは歴然だ。

電車に乗れば「お手伝いを必要とされているお客様がいます」と注目を浴び、
階段を上ろうとすれば仰々しい専用エレベーターが登場する。

海外では、障害者が「特別扱い」されることなく健常者と共生しているのに、なぜ――。
 こうした日本の状況を7年でいかに変えていくべきなのか。

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撮影:鈴木愛子
〔過去の五輪で、パラリンピックが特に注目を浴びたということは、残念ながらありませんでした。〕
 そうですね。
前回のロンドンのときは、パラリンピック開催前に、
すでに東京でオリンピック出場選手の凱旋パレードがありましたし……。

 翻って、ロンドンで何が起きていたかというと、
パラリンピック期間開催中ずっと、スタジアムが8万人の観客であふれかえっていたんです。
朝の部も夜の部も満員。
オリンピックと同じかそれ以上の盛り上がりがあると現地の人も言っていて、
まさしく目指すべきパラリンピックの姿だなと感じました。
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〔ロンドンでは、企業や団体が行った活動やそうした活動に共鳴する個人の姿に感銘を受けたと聞きました。〕
 まず、メディアの取り上げ方ですね。
それまでBBCが持っていた放送権をパラリンピックだけチャンネル4という民放が取得して、
朝から晩まで生中継で放映し続けました。
競技をやっている時間帯の放映だけでなく、
期間中にいかにパラリンピックを盛り上げるかという仕掛け作りも興味深かったです。
チャンネル4が作ったCMは、日本でも話題を呼びましたよね。
パラリンピック選手を「Superhumans」として、
真正面からアスリートとして捉えていて、観る人にも選手にも刺激を与えたと思います。

 メディア戦略だけでなく、スポンサー企業も一緒になってパラリンピックを盛り上げていました。
 セインズベリーが行った「1 Million Kids Challenge(ワンミリオン・キッズ・チャレンジ)」もその1つです。

パラリンピック開催の数年前からスタートして、
100万人の子供たちにパラリンピックスポーツを経験させるというプログラムです。

 例えばシッティングバレーボールという、
床にお尻を着けてバレーボールをするというのは健常者でもできますよね。
あとはブラインドサッカーといって、目隠しをして、
鈴入りのボールでサッカーをするのも可能です。
そうしたスポーツを体験できるようなキットを、
セインズベリーが率先して学校や団体に配布したんです。
場合によっては、パラリンピックの選手を学校に連れて行って一緒にやることもしたようです。
さらに、キャンペーンのアンバサダーはサッカー選手のデビット・ベッカム選手でした。

 子供たちは、工夫次第で一緒にスポーツができるということを学び、意識も変わったと思います。
実際、スタジアムでも子供たちが家族の手を連れて引っ張っていくという光景があちこちで見られました。

 ボランティアの姿も印象的でした。
みんな同じポロシャツを着ていて、競技会場や練習会場、街の中にもたくさんいて、みんなでゲームを盛り上げていくという感じでした。

ボランティアを「ゲームメーカー」と呼んで、ゲームをつくる大切な人たちという意識だったように思います。
街をうろうろしていると、地図を渡してきてくれて、どこに行きたいの? と聞いてくれる。
練習場所やバス停、街のあちこちにいるんです。
 現地の人との接点は、思い出の大事な要素になりますよね。
現地の人がかけてくれた言葉、見せてくれた笑顔、
そうしたものが国の印象に直結することさえある。
 良い意味で、企業や団体が、パラリンピックを「よりよい社会」を実現させるためにうまく利用して、
それに共鳴するように個人を巻き込む活動ができているなという印象を受けました。


〔東京、さらに日本という国は、どのように変わっていくべきなのでしょうか。〕
 まだたくさんやることがありますよね。
“まだまだまだまだ”ある、と「まだ」を何個つけても足りないくらい(笑)。

「たったの7年」だと思っています。
 私が一番これから大事だなと思うのは、障害者に対してという目線じゃなくて、
すべての人に対して配慮の視点を持つ、ということだと思うんです。
例えば超高齢化社会の日本を見渡せば、
足が不自由なお年寄りや弱視のお年寄りもたくさんいると思います。
バギーを持っているお母さんたちも街にはたくさんいます。
 いつ自分がそういう立場になるか分かりませんし、皆必ず年はとります。
そういう点では、他者への配慮ということを考えれば、
障害者だけでない身近な問題と考えられると思うんです。
「おもてなし」を訴える日本だからこそ、こうした配慮が大切になってくると思います。

〔オリンピックとパラリンピックを一緒にやる意味〕
 現在、日本では、ハードはハード、ソフトはソフトというものが多い気がしています。
例えば、スロープ一つとっても、いきなり急勾配になるスロープが普通にある。
「スロープがあればいい」というハード面だけからの考えではなく、
そこを通る人の気持ちに立ったソフト設計が重要だと思います。

ヨーロッパでは、車いすの人をよく見かけるんです。
よく見るということは、動きやすいからなんだと思います。
 かくいう私も、パラリンピックに行かなかったら、
目の不自由な人の誘導をどうするかといったことは分からなかったかもしれません。

障害と一言に言っても様々。
目の不自由な人であれば、ただ肩を貸して歩いてあげるだけで助かることもあります。
駅で白杖を突いている人がいたら、改札で声を掛けてみる。
もし大丈夫ですと言われたら、じゃあ、気を付けて、と送り出す。
お互い心を開いて接して、初めて見えてくる配慮の仕方があるはずです。

 2020年には、オリンピックやパラリンピックを観戦する多くの外国人が訪日し、
街全体で「東京」という都市を目で見て、肌で感じるはず。

そのときの東京がモデルになって、
世界の都市にも広がっていくような街になっているといいなと思います。
 それこそが、まさしくオリンピックだけじゃなくパラリンピックも一緒にやることの意味だと思っています。

〔選手の練習環境についても、日本は「これから」でしょうか。〕
 パラリンピック選手が世界を目指すのに、必ずしも環境が整っているとは思いません。
私は今、「夢の島競技場」というところで、中高生や大学生と一緒にお金を払って使っています。
それで十分といえば十分なんですが、例えば、味の素ナショナルトレーニングセンターは、
オリンピック選手のための強化施設なので、
基本的にはパラリンピック選手は使えなかった。

現在は、少しずつ使えるようにはなってきてはいます。
素晴らしい環境が整っていて、初めて使わせてもらったときは、
オリンピック選手って恵まれているなと思いました(笑)。

 例えば、いくつかの体育館がある中の1つぐらいは、
車いすバスケット用にする、といった対応があってもよいと思います。

こうした話をするとすごい大きなことと思われがちですが、
足りないところを今ある施設でどう補うかを知恵を絞れば、難しいことではありません。

パラリンピック専用のトレーニングセンターを作る必要はないんです。
オリンピック選手とパラリンピック選手が一緒になって練習しているという姿が、
モデルとなって社会に広がっていくことこそが大事なんだと思っています。

【楽天優勝で再認識した「スポーツの力」】
 実際、イギリスだと、オリンピックの陸上選手とパラリンピックの陸上選手が一緒に合宿したり、練習したりしていているんです。
すごくクオリティーが高い練習だと思います。
よりハイレベルな知識を持ったコーチングの方が、やはりトップに行く近道ですから。

 パラリンピック選手に対して、特別な指導が必要かというと、決してそんなことはない。
私も現在、オリンピック選手に指導してもらっていますが、
テクニックやトレーニングメニュー、フィジカル面でも、共通する部分が多く、
あとは、ほんのちょっとの工夫なんです。

 私は、今年の初めから味の素ナショナルトレーニングセンターの運営団体・日本スポーツ振興センターのアンバサダーになりましたが、
今まで以上に健常者と障害者のアスリートの架け橋になっていければと思います。

〔選手ひとり一人の意識も変わっていく必要があるのでしょうか。〕
 そうですね。選手も主体的になる必要があるし、
「やってもらう」という考えではいけないと思います。
自分たちに何ができるかということを考えるべき。
 震災後、多くのアスリートが、自分たちにできることは何だろうかと考えましたよね。
それを今度、2020年に向けて、何ができるかということを主体的に考えながらやっていく時期だと思います。
 お金を出してもらって支援してくださいというのでは、企業や団体にとってただの負担になってしまうし、社会の理解も得られないかもしれない。

一方、選手たちにしかできないこともあるはず。
それを企業や社会に還元していくという視点を持ちたいと思っています。
選手でないと分からない視点、気持ち、経験。
すべてを生かして、社会をよりよくしていくという姿勢を選手自身も持つべきだと思います。

 「スポーツの力」って、本当にあると思っています。

実は、私、先日の東北楽天ゴールデンイーグルスの優勝シーンをたまたま現地で見ることができたんです。
仕事で仙台に行っていて、「見たい見たい」と言ってたら、本当にチケットが1枚舞い降りてきた(笑)。
 球場で観客席を見渡すと、みんなが本当に笑顔になっていた。

子供たちが選手の名前を大きな声で呼んでいて、スタジアム全体が一つになっていました。
スポーツが社会の中で役立つということを本当に体現しているなと思ったんですね。
 東京五輪でも、まさしくこうした姿が見られるようになっていたらいいなと思います。

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【平蔵の独り言】
海外では、障害者が「特別扱い」されることなく健常者と共生しているのに、なぜ――。
【独り言】
以前、〔「自立」とは〕いかに多くの人に頼ることができるか
【自立】は【孤立】ではない。

アメリカは【自立】する社会を作っている。
【自立】して【孤立】しないで生きていけるように多くの人がサポート体制していく社会が形成されている。

と〔自立〕社会のことを述べたことがある。(2012年8月)

佐藤真海さんが語っていることは、日本にはサポートする社会が未熟だということだと思う。

一人一人は何かできればと思っているのが、
どうしたらいいかわからない。
そのような社会の仕組み、文化がない。

以前、リハビリを三ヶ月受けて社会復帰して
今、毎週リハビリを受けている身として
同感することが多々あるが外国の事情がわからないので
自身のことを語れる時が来たら、語ってみたい。

ただひとつ言えることは、“公”から手を差し伸べてくれる社会でなく、
“障害者”であっても、“公”にサポートのお願いを依頼する後進国であることを、
教えてくれた。
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by asanogawa-garou | 2014-02-14 13:26 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)