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〔仰木マジック〕あなたがいたから野球が面白かった。パ・リーグを盛り上げた奇策の数々   

2015年 03月 19日
〔仰木マジック〕あなたがいたから野球が面白かった。パ・リーグを盛り上げた奇策の数々
熱討スタジアム/仰木マジックを語ろう
   仰木彬、中西太、金村義明、吉井理人、オリックス、近鉄
今週のディープ・ピープル(中西太×金村義明×吉井理人)
週刊現代 2014年 11/1号

〔選手を怒鳴りつけるのは日常茶飯事。しかし細かいことは、一切言わない。魔法とまで称されたその野球は、並外れて器のでかいこの男だからできるものだった〕
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〔一軍をかけて酒場で勝負〕

金村:あのとき、たまたま審判部の人たちが同じ店に来ていて、呆れてた。
「お前らアホか。近鉄はおかしいんちゃうか」って。
吉井:シーズン中のスタメンも、一気飲みで決めたりしていましたよね。

〔気を抜く奴は許さない〕
吉井:野球はチームスポーツ。
仰木さんは輪を乱す選手に厳しかった。
金村:エラーはしゃあない。
でも気が抜けている奴は許さなかった。
セカンドだった村上隆行が、エラーをしたにもかかわらず、
イニングの合間にロッカールームで整髪料をつけていた。
それを仰木さんが見つけて、
「きさん!なにを髪の毛いじっとんねん。
おまえ、内野はクビや!外野に行け!」と怒鳴った。

〔教え子が集まった「生前葬」〕

「この人は過去にこだわるよりも、いまに生きている」と選手達に思わせた。(仰木彬)

金村:´04年の野球殿堂入りのパーティーに、教え子をみんな集めた。
近鉄の選手たちはもちろん、野茂、イチローらメジャーリーガーもみんな来た。
吉井:「生前葬だ」と言ってましたもんね。僕も駆けつけました。
中西:彼の人徳だよ。
仰木くんは他人の悪口や陰口は一切言わなかった。
豪快で、優しくて、男気があった。
だからこそ、誰からも慕われたんだ。

〔いまも忘れられない【仰木彬の伝説】〕
〔敵チームを怒らせる達人だった〕
〔闘将が見せた唯一の涙〕

僕は一度だけ見たことがあるんです。
´88年の「10・19」。
負けたのが悔しくて僕が便所で号泣していると、後から仰木さんが入ってきた。
僕がいることに気づいて、すぐに顔を洗ってごまかしてたけど、明らかに泣いてました。
その後、「見たな~」って表情で僕をにらんでた。

〔遠征先でなぜか犬を散歩させていた〕

―――――――――――――――――――――――――――
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仰木マジック
〔一軍をかけて酒場で勝負〕
中西:仰木くんが亡くなってから、来年で10年になるのか。早いなぁ。
金村:仰木さんほどの人物は、この先はもう出てこないでしょうね。
本当に豪快な人でした。
吉井:人柄だけでなく、実績も素晴らしかった。
近鉄とオリックスでの通算14年の監督生活で、
日本一1回、リーグ優勝3回、Aクラス11回。
いまのパ・リーグ人気の礎を築いたのは、仰木さんでしょう。
金村:監督就任1年目から「仰木マジック」が炸裂。あの「10・19」を演出したからな。
吉井:´88年10月19日、優勝がかかっていたロッテとのバブルヘッダー。
惜しくも優勝は逃しましたが、あの熱戦はいまでもプロ野球ファンの間で語り草になっていますよね。
中西:前年最下位だったチームを改革して、よく結果を出したよ。
ベテラン陣に退いてもらって、活きのいい若手を起用していった。
金村:僕ら野手はベッドコーチの太さんに鍛えてもらって、投手陣は権藤(博)さんがまとめていた。
そして当時はまだ若く血気盛んだった仰木さんが、リーダーとしてチームを引っ張ってくれた。
吉井:仰木さんは人心掌握に長けていました。
´87年の夏場に、当時ベッドコーチだった仰木さんと偶然ウェットルームで会ったとき、
「ヨシよ、来年はいいところで使うからな」って言ってもらったんです。
僕はそれまで活躍できていなかったけど、その言葉がすごく励みになった。
そして本当に、´88年はよく投げさせてくれました。
金村:伸び悩んでいたショート真喜志泰永も「2割5分打ったら時計やる」って言われて
レギュラーに定着。
ほんまにロレックスをもらったからね。
ショックでしたわ。僕にくれると言うたはずなのに(笑)
中西:給料が安くて頑張っている選手を気にかけてたんだよ。
お前はそこそこもらっとっただろ。
吉井:仰木さんは、選手の起用法では、伝説のエピソードが山ほどあります。
金村:伝説といえば、シーズン前の北海道遠征や。覚えてるよな。
吉井:忘れるわけないじゃないですか。
中西:わしは知らんぞ。
金村:遠征中、食事にいったとき、
仰木さんが一軍の椅子をかけたビールの一気飲み大会を開催したんです。
飲みっぷりで一軍に残す選手を決めると。
吉井:チームの台所事情で、ピッチャーを一人だけ二軍に落とさないといけなくなった。
   それで、僕と加藤哲郎と品田操士の3人で勝負させられたんです。
金村:吉井は下戸だったから、みんな負けると思っていた。
だけどスタートがかかると、ものすごい勢いで飲んで勝ちよった。
吉井:一軍がかかってるんだから当然でしょ!もう必死でしたよ。
金村:あのとき、たまたま審判部の人たちが同じ店に来ていて、呆れてた。
  「お前らアホか。近鉄はおかしいんちゃうか」って。
吉井:シーズン中のスタメンも、一気飲みで決めたりしていましたよね。
中西:うーん、仰木くんはそれで負けん気を見ていたんやろ(笑)
金村:仰木さん自身、無類の酒好きでした。
門限が過ぎた時間に店でばったり会って逃げようとすると
「待て!飲め!」と怒らずに飲ませてくれた。
中西:現役中(西鉄ライオンズ)からよく飲み歩いていたよ。
わしが夜中まで部屋で素振りをしていると、
「モテた、モテた」と言いながら帰ってくる。
博多雀を何人も泣かせとった。
金村:ファンにも野次られとった。
大阪球場で「おーい仰木、昨日、新大阪で女連れて歩いてたやろ!」って(笑)
吉井:それでも、仰木さんは堂々としてましたね。
金村:全部ほんまの話やったからな。
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〔気を抜く奴は許さない〕
中西:でも野球に対しては、彼ほど熱心な男はいなかったよ。
綿密なデータをもとに、徹底的に研究していた。
金村:ベンチでもようメモを取っていました。
吉井:僕、一度メモ書き見たことがあるんです。
広告のチラシの裏みたいな紙に殴り書きでギッシリ。
しかもいろんな向きで字が書いてあって、これで読めるんかなと思いました。
選手の特徴や癖、気づいたことを書いていましたね。
中西:運の要素も見てたわ。
あいつはいい当たりでも守備の正面ばかりや、とかな。
金村:魔術師と称されましたが、データ野球が仰木マジックの根幹。
奇策と見えるような選手起用にも、ちゃんと根拠がありました。
吉井:分業制がまだ確立していなかった当時にあって、
5回途中で先発投手を交代させたりしてましたね。
金村:勝利投手目前で替えれば、投手は怒るわな。
中西:それに、近鉄のライバルだった西武戦に、
ローテーションをずらしてわざとエースの野茂(英雄)をぶつけたりな。
吉井:「猫の目打線」も有名でしたよね。
予告先発を見て、打順や選手をいつも入れ替えてた。
金村:内野手が複数のポジションを兼任するのは当たり前。
外野だった谷佳知や田口壮が内野を守ることもあったけど、
それがことごとく当たった。
中西:相手チームとの兼ね合いが大きな理由だけど、
選手の競争心を煽る目的もあった。 
スタメンを約束されないほうが、選手はハングリーになるからな。
吉井:野球はチームスポーツ。仰木さんは輪を乱す選手に厳しかった。
金村:エラーはしゃあない。
   でも気が抜けている奴は許さなかった。
セカンドだった村上隆行が、エラーをしたにもかかわらず、
イニングの合間にロッカールームで整髪料をつけていた。
それを仰木さんが見つけて、
「きさん!なにを髪の毛いじっとんねん。おまえ、内野はクビや!外野に行け!」と怒鳴った。
中西:村上はそれで、本当にコンバートされたからな。
吉井:「きさん」は小倉弁で貴様。頭に血が上ると「きさん!」とよく言っていました。
ブライアントら外国人選手にも容赦はなかった。
中西:チャーリー(マニエル)なんてケツを蹴り上げられてたもんな。
金村:叱られたといえば、ショートの米崎薫臣。
ある試合でサヨナラエラーをした米崎は、ホテルに帰っても放心状態。
そこにたまたま仰木さんの奥さんから俺に電話があって、
「うちの人がそんなことで怒るわけないでしょ」と励ましてくれて、食事に誘ってくれた。
それで俺と米崎と奥さんの3人で、飲めに行ったんやけど……。
吉井:いい話じゃないですか。
金村:それがちゃうねん。
その後、その店に仰木さんが偶然来てしもたんや。
中西:そうだそうだ。そのときはわしも一緒だった。
   エラーをした選手が、自分の嫁と寿司食ってビール飲んどる。
そら腹立つわな。
金村:米崎を見つけるなり、顔を真っ赤にして「きさん、奥に来い!」と。
   米崎は引っ張られていって、正座させられ、説教を食らったんやけど、
同時に飲まされてました。
怒られてるのに、ビールをどんどん注がれて「飲め飲め」って。どっちやねん(笑)。
吉井:仰木さんらしいな。
でも、怒っても試合には使ってくれるんですよね。
僕も仰木さんとはよくぶつかっていましたけど、ずっと使ってもらいました。
金村:お前くらいやで。
試合が終わったあと監督が差し出した握手にソッポを向いて、外野のほうに走って逃げたのは。
吉井:理由は忘れたけど、何か、ムカついてたんでしょうね。
中西:仰木くんにしてみれば、血の気が多くて可愛い奴じゃのう、
くらいの気持ちだったはずだよ。
吉井:そうなんですよね。
晩年に、オリックス時代に、「お前はちょっと怒らしているくらいのほうがエエ球投げたからな」って言われて、すべて計算ずくやったんやとわかりました。
中西:指導者は長所、個性を生かすのが仕事。仰木くんはそれができる男だった。
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〔教え子が集まった「生前葬」〕
吉井:技術的なことに関して、細かいことを言われた覚えはありません。
自主性を重んじて、のびのびやらせてくれた。
金村:それが、仰木さんの教え子たちの多くがメジャーリーガーになれた理由かもな。
野茂、イチロー、吉井、長谷川滋利、田口、佐野慈紀まで行っている。
中西:教え子がメジャーに行くのを、仰木くんは喜んでいた。
金村:晩年、がんの闘病中でも、一人一人、順番に会いに行ってましたね。
中西:イチローのところに行っているときは一番嬉しそうだったな。
これもろうて来たって、イチローの帽子を見せてくれたりしたよ。
金村:仰木さん、アメリカのメディアに「ジャパニーズマフィア」と思われてたらしい。
上半身裸でサングラスをかけたパンチパーマのおっさんに
イチローがぺこぺこしているから、
イチローがジャパニーズマフィアに脅されたって(笑)
吉井:裸になるのが好きだった。
僕らがウェイトトレーニングをしていると、仰木さんも一緒にやるんですが、
いつも上半身裸でした。
金村:それと日焼けな。
サイパンでのキャンプのときも、暑い中、裸でよく走っていた。
サンオイル代わりになぜかメンソレータムを顔に塗って(笑)。
それで練習が終わったらプールや船着き場に行って、また焼きついている。
面積の小さな三角水着でね。
中西:真っ黒けに日焼けしとったな。
金村:船着き場に呼ばれて、夕日を見ながら一緒にビールをガンガン飲んでいました。 
楽しかったなあ。
吉井:あの時代は面白かったですね。
金村:あの人は生き方そのものが豪快だった。
  ´05年には、「ユニフォームを着たまま死ねたら本望」と、
病を押してオリックスの監督を引き受けたんやから。
中西:仰木くんには常にパリーグ魂があったんよ。
盛り上げるために、いろいろ工夫してた。
金村:俺にピッチャーやらせたりね。
ヤクルトとのオープン戦の前日、「明日、カネを投げさせる」と
マスコミに言って本当に投げさせた。
あれも何とか近鉄に注目してもらうためや。
吉井:僕はオリックスを´04年にクビになったんですが、
翌年に仰木さんが監督に就任して拾ってくれた。
ただそれにも、パリーグを盛り上げようという計算があった。
後になって聞かされたんですが、
「お前のようなおっさんがチャレンジ精神を持って頑張っている姿を、
(球界再編で近鉄と)合併して新しくできたチームの若手に見せたかった。
だからお前を雇ったんや。活躍するかどうかはどうでもよかった」って。
金村:清原(和博)をオリックスに呼んだのも仰木さん。
巨人でクサクサしてた清原を見かねて、
「キヨ、大阪に帰って来い。最後に俺がいやっちゅうほど試合に出してやる」言えてな。
中西:仰木くんは清原を買ってたからな。
金村:清原も仰木さんだけは尊敬していました。
清原と仰木さんがばったり新幹線のホームで会ったときのこと。
清原は直角に身体を折ってお辞儀をして、仰木さんの乗る新幹線が走り去るまで見送っていた。
吉井:でもキヨが実際に入団したときには、仰木さんはすでに他界していた。
中西:フロントとしてオリックスに残る話が出とったのにな。
監督辞めて2ヶ月で逝ったんやからな、最後は急やった。
金村:僕、ひとつ落ち込んだことがあるんですよ。
   仰木さんが亡くなって、お通夜のときに奥さんに家に入れていただいたんです。
   光栄なことだったんですけど、その後、応接間に入ってがっくりしました。
吉井:なにがあったんですか。
金村:応接間には教え子の写真がバーッと飾られているの。
   でもメジャーに行った選手ばかりで、どれだけ見渡しても俺の写真は1枚もない。
中西:ははは。
金村:そうしたら奥さんが「カネちゃん、来て」って。
ついていくとトイレの便器の横に貼ってあった。
中西:くさい仲、いうことやな。
金村:まいりましたよ。
なぜかトイレの床には、皆川睦雄さんの写真が貼ってあるし(笑)。
中西:仰木くんは子供がいなかった。
だけど、かわいい教え子がたくさんいた。
それが財産やという話をいつもしていたよ。
金村:´04年の野球殿堂入りのパーティーに、教え子をみんな集めた。
近鉄の選手たちはもちろん、野茂、イチローらメジャーリーガーもみんな来た。
吉井:「生前葬だ」と言ってましたもんね。僕も駆けつけました。
中西:彼の人徳だよ。
仰木くんは他人の悪口や陰口は一切言わなかった。
豪快で、優しくて、男気があった。
だからこそ、誰からも慕われたんだ。
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仰木彬監督(右)の野球殿堂入りを記念するパーティーで、仰木彬監督と談笑するイチロー

〔いまも忘れられない【仰木彬の伝説】〕
〔敵チームを怒らせる達人だった〕
監督に就任したばかりの頃は血気盛んだった仰木くんだが、後年は老獪な一面もあった。
選手交代を告げるとき、わざとゆっくり審判に伝えたりするんや。
マウンドまでの歩くコースまでシミュレーションしとった。
打者が外国人のときなんかは、「早くしろ!」と明らかにカッとなっていた。
勝負は冷静さを欠いたほうが負ける。
仰木くんは相手に怒鳴られても、「何や」と泰然としとったよ(中西)

〔闘将が見せた唯一の涙〕
「人前で泣いたことがない」。
それが自慢だった仰木さんですが、
僕は一度だけ見たことがあるんです。
´88年の「10・19」。
負けたのが悔しくて僕が便所で号泣していると、後から仰木さんが入ってきた。
僕がいることに気づいて、すぐに顔を洗ってごまかしてたけど、明らかに泣いてました。
その後、「見たな~」って表情で僕をにらんでた。
後年、「あの一回だけや」って認めてましたね。(金村)

〔遠征先でなぜか犬を散歩させていた〕
ある年の東京遠征のときのこと。
朝、僕はウェイトトレーニングをしたくて、
チームメイトとトレーニングできる場所をタクシーで探していたんです。
すると、見覚えのあるパンチパーマの人がジャージ姿で犬を散歩させている。
あれ、と思って近づくと、仰木さんでした。
朝帰りばかりしているとは聞いていましたけど、驚きました。
この人いったい、どこに泊まっとるんやろって思いました。(吉井)
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【平蔵の独り言】
仰木さんが旅立ってから、来年で早10年!
これほど記憶に残って語られる人はいないと思う。

記録に残っていても、イチロー、野茂が登場するたびに
仰木さんが語られる。

吉井、金村、中西 が熱く語っているように、
野球人として人間として魅力のある人が・・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2015-03-19 15:31 | 人間模様 | Comments(0)

【仲代達矢】「『俺は、俺だ』と抵抗しろ!人生は長くねぇぞ」   

2015年 03月 05日
【仲代達矢】「『俺は、俺だ』と抵抗しろ!人生は長くねぇぞ」
高倉健と菅原文太が去った後に遺す言葉
日経ビジネスオンライン2015年2月18日(水)江村 英哲
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戦後70年となる今年、日経ビジネスオンラインでは特別企画として、戦後のリーダーたちが未来に託す「遺言」を連載していきます。
この連載は、日経ビジネス本誌の特集「遺言 日本の未来へ」(2014年12月29日号)の連動企画(毎週水・金曜日掲載)です。

第13回は、俳優の仲代達矢氏。
演劇、映画、テレビドラマなどで幅広い活動をし、戦後の演劇界を引っ張ってきた。
仲代氏が現在抱く、芸能の世界の危惧とは何か。
少年時代を振り返ると、俳優を目指した裏側には壮絶な戦時体験があった。

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②銀幕の闘士 
仲代達矢(なかだい・たつや) 1952年に俳優座演劇研究所付属俳優養成所に入所。
57年に俳優座所属の女優・宮崎恭子(故人)と結婚。
活躍の場を舞台から映画に広げ、小林正樹監督の「人間の条件」、黒澤明監督「椿三十郎」などに出演。
75年からは、妻とともに「無名塾」を開設する。
自らも第一線で活躍しつつ、若手役者の育成に力を注いでいる。
1932年12月生まれ。(写真:サトウヒロノブ、以下同)

【モノを言いたきゃ研鑽を積め】
 「俺はこういう風に演じたいんだ」って思うと、
演じたい姿を体現するために基礎的なことをちゃんと修行しますよね。
ちゃんとした美しい日本語をしゃべって、
(舞台の)上手から下手まできれいに歩けるようにする。

【芸能の世界に及んだ効率化の波】

7日間で撮るつもりだったのに予定よりも延びちゃうと、その分コストが増えてしまう。
だからみなさん、「ともかく7日間で撮ろう」となる。
【健さんが亡くなって、文太さんが亡くなって…】
それは我々の責任で、仲代達矢は仲代達矢としてこう思っている、
ということを次世代に伝えないといけない。


【ボクサーから俳優に転身】
まだ焼け跡の頃ですから、青空ジムです。
 ミドル級で何度か(試合に)出ました。
ここでボクシングの訓練をしている頃に、
「仲代、おまえは顔がいいから役者になったらどうだ」と言われたんです。

【宇津井健と両肩を叩いて踊った】
 一次を受けたらガタガタ震えて、もう落ちたろうと思って(結果を)見に行かなかった。
そうしたら、「おまえは受かったのに何で来ないんだ」と言われてね。
また二次を受けて、三次の発表で合格した。
20倍くらいの難関だったと思います。

【「1対49」の戦い】
 「君たちはこれから3年間で、1対49の戦いになる」
 同期は50人。
当時、青山杉作さんという新劇界で有名な方が校長先生を務めていらして、
こう祝辞を述べてくれました。
 全然、祝辞になってないですよね(笑)。

「20倍の倍率の中で君たち50人を採ったけれど、この中から俳優になれるやつはほとんどいない」なんて言うわけですから。

【女の子の手を握り、空襲を逃げた】
【「国を守る」と言われたら警戒しろ】



――――――――――――――――――――――――――――――――
【仲代達矢】「『俺は、俺だ』と抵抗しろ!人生は長くねぇぞ」

 納得がいかねえ……。
 そんな時、みなさんどうしていますか。
抵抗していますか。ケンカしていますか。
どうも僕には、最近の人は「俺は、俺だ」という気概が薄れているように映るんです。

 僕は、自宅に併設した「無名塾」という演劇の教練所を、手弁当で運営しています。
そこで役者志望の若い人を育てている。

稽古場ではよく、塾生を挑発するんです。
 「お前、並でいいのか」「平和ボケで生きているのか」「一生はそんなに長くねぇぞ」ってね。
敢えて厳しい言葉をぶつけるのは、そいつの個性を呼び覚ますためです。
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③ 僕が俳優になった昭和30年(1955年)あたりは、
ひと言で俳優といっても、色々あったんです。

例えば当時の僕は、新劇俳優でもあり映画俳優でもあった。
二足のわらじを履いていたわけです。
だから、映画界へ行くと「新劇が何しに来たんだ」と言われるし、
新劇へ戻ると「映画スターが来た」、なんて言われてね。

自分はどっちの役者なんだろうって思ったけれど、
「異邦人役者でいいんだ」と割り切っていました。

 この頃は本当にいろんな俳優がいてね。
面白いのは、みんながみんな強い個性を持っていたことです。
映画俳優には、もともと三味線を弾いていた勝新太郎みたいなのが出てきていた。
萬屋錦之助というのは歌舞伎から来た。
三国連太郎みたいな変な人もいてね。
みんなが、「おいおいおい」っていうくらい強烈な個性を持っていましたよ。
監督の言うことも聞かないんだから。
 みんながいい意味でわがままだから、どうしたってぶつかるわけです。
それで、血だらけのケンカになる(笑)。
ケンカをして、仲良くなって、またケンカして。
そんな風に個性をぶつけていたわけです。

【モノを言いたきゃ研鑽を積め】
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 ④監督も個性の強かったですね。
当時の東宝のエースは黒澤明さん、松竹は小津安二郎さん、新東宝は市川崑さん、大映には溝口謙二さんという人がいて……。
みなさんエースですから、映画会社も自由に作品を作らせていました。

 例えば、映画会社は黒澤明さんには、「おまえは好きなようにしろ」と言う。
 そうすると黒澤さんは、映画『七人の侍』でシナリオを作るのに3年もかけた。
それも5人のシナリオライターを使って。
撮影には2年もかけている。
『七人の侍』が完成するまでに合計5年もかかっているわけです。
お金もどんどん使って。

溝口さんなんかも、ワンカットの撮影に10日もかけたりしていた。
衣装合わせには半月かけた。
映画が良かった時代だったんでしょうね。
 ただね、だからでしょう。
上映する時にはお客が並んで入っていった。
それだけの情熱と手間をかけて、監督や俳優が個性をぶつけあって1つの作品を作っていた。
誰もが真剣でわがままだったということでしょう。
プロとアマの境がなくなった

 繰り返しますが、昔の役者はよくケンカをしました。
良い意味でも悪い意味でも、みんな自我が強かった。
ただ、それはプロ意識が強烈だったからだと思うんです。
厳しい下積みを経験して認められるようになったからこそ、己を貫こうとしていた。

 「俺はこういう風に演じたいんだ」って思うと、
演じたい姿を体現するために基礎的なことをちゃんと修行しますよね。

ちゃんとした美しい日本語をしゃべって、
(舞台の)上手から下手まできれいに歩けるようにする。
役によって声色を低音にするとか高音にするとか。
俳優っていうのは楽器と同じように訓練されていないといけないんです。
 俳優は、お客さんの前に出て自分の肉体をさらします。
日本人のくせにビンセント・バン・ゴッホなんて演じながら、
お客さんにもストーリーに入り込んでもらわなくちゃいけない。
共感してもらうには、やっぱり人間を見つめる目や、人間に対する愛情がものすごく必要なんです。
 自分じゃない他の人間を演じるわけだから、自分と他者をどうやって結び合わせるか。
それが重要なんです。
 そうなると電車に乗っている間にも、前に座っているおじさんが寝ているのをじーっと見たり、きょろきょろしたりして、「この人の家庭はどうなのか」って想像しなくちゃいけない。
 本を読んでいても、いつも文字からその風景が浮かぶくらいの想像力が必要だろうし、登場人物の男がどういう服装をしているのか、どういう歩き方をしているのかっていうのを考える訓練をしなきゃいけない。
 普段からそうやって想像力を働かせているから、いざ台本を手に取ると、台本に書かれた「文字」を「人間化」できるわけです。

 けれど、最近は修行っていう言葉がなくなった。
 俳優のみなさんだって、ほとんど地声でしか訓練されてないでしょう。
プロとアマの境がなくなってきているんです。
しっかりと教育を受けた役者が少なくなった。

【芸能の世界に及んだ効率化の波】
 芸能の世界にも効率化の波が押し寄せてきているということなんでしょうね。
 例えば昔、僕が主演した『人間の條件』なんていう映画は、撮影に4年もかかりました。
1部から6部まであって、1~2部で1本いくらという話だった。
最初の僕のギャランティーは50万円でした。
だけど1~2部が大当たりして、3~4部になったら100万円になった。
また大当たりして、最後の5~6部は150万円もらいました。
4年間で全部合わせると300万円くらい。
 それも昔は、2カ月で取り終わる予定の作品に、
1年かかったりすることもしょっちゅうありました。
それでも、(『人間の條件』で共演した女優の)高峰秀子さんは、
「仲代さん、1日だろうが2年だろうが1本いくら」とおっしゃってね。
 そういう時代だったんです。
監督も俳優も、いい作品を作るための情熱を持っていて、それを許してくれる環境があった。

 けれど、今の日本の役者のギャランティーって日割りなんです。
 「仲代さん、すみません。これを1週間で撮るんですが、1日いくらで来てください」って。
7日間で撮るつもりだったのに予定よりも延びちゃうと、その分コストが増えてしまう。
だからみなさん、「ともかく7日間で撮ろう」となる。
良くても悪くても、予算内で納めよう、とね。
それくらい効率化が進んでいる。映画界も随分変わったものです。

 背景には、テレビの普及もあるんでしょう。
最近は、テレビで人気の出た大きな芸能事務所の若手を集めて、
娯楽性ばかりを重視した作品が量産されていますから。
 僕は何も、娯楽性を否定しているわけじゃないんです。
エンターテインメントやお笑いはあった方がいい。

けれど同時に、人間の生死を問う作品が少ないのが気になります。
人間への興味を失ってはいけない。
「命とは何だ」「生きるとは何だ」と真剣に突き詰める作品も必要だと思うんです。

【健さんが亡くなって、文太さんが亡くなって…】
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 ⑤高倉健や菅原文太といった同年代の俳優が次々に鬼籍に入りました。
 健さんが病気だということは前から知っていたけれど、あんなに元気のいい文太さんがね…。
 
健さんが亡くなって、次に文太さんが亡くなって、
それからもっと前に、僕が一番お世話になった三船(敏郎)さんとか…。
そういう人たちは、もっと若く死んでいるわけですから、80歳を超えたらある程度は覚悟しなきゃいけない。
私もそろそろだと思います。

 ただ、僕には最後にやるべき仕事がある。
 芸能の世界にも効率化の波が来ているけれど、それをどこかで打ち破らなきゃいけない。
それは我々の責任で、仲代達矢は仲代達矢としてこう思っている、
ということを次世代に伝えないといけない。

 うちに入っている子たちも、生まれたときからテレビのある時代に生きています。
特に20代の子たちは、今の状態が芸能だと思って育っている。
だから「おまえ、芝居はどうするんだ」と聞くと、基本的にみんなテレビの世界に行きたがる。

 僕たちの時代はみんな挫折したりしながら、「こういう役者になりたい」というプランを持ってやってきた。

それなのに、「テレビに出ればお金がもらえる」と安直に考えて、
そんな効率的な働き方が役者だと思い込んでいる。「そうじゃない」と示すこと。

それが、僕が次の世代に対してできることだと思っています。

【ボクサーから俳優に転身】
 僕は映画がすごく好きで、若い頃は3食を1食に減らしてまで映画を見ていました。
ちょうど敗戦後で、アメリカ映画やフランス映画が入ってきて、それを3本立てか何かで観る。
当時は1年間で312本の作品を観た記録があります。
 渋谷で映画を見ると、(自宅の)千歳烏山まで電車賃がないから、
夜中じゅう歩いて家に帰る。
それほど映画を、特に外国映画を観ました。
それも必ずパンフレットを買ってね。
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⑥ 当時は大学出でも就職難の時代でした。
ましてや僕のように高校の夜間部卒業だとほとんど就職口ない。
 これから学歴が関係ない世界で食っていこうと思って、
色々と考えている頃に、白井義雄さんというボクサーが初めて世界チャンピオンになったんです。
一種の憧れもあってね。
ボクシングの世界なら学歴は関係ないわけですから。
 今思うと非常に単純なんだけど、影響を受けて大井町のボクシングジムに3~4カ月通いました。
まだ焼け跡の頃ですから、青空ジムです。
 ミドル級で何度か(試合に)出ました。

ここでボクシングの訓練をしている頃に、
「仲代、おまえは顔がいいから役者になったらどうだ」と言われたんです。
 当時はどうしても殴られるのが嫌でね(笑)。
意気地がないと言えば、意気地がないのでしょうけど、
ボクサーはダメだなあと思っていたので、役者への転身を考えました。

 僕は若い頃から非常にシャイで、人前で何かやるなんていうことは、とてもたまらないと思ったんです。
ただ一方で、アメリカ映画やフランス映画を年に300本以上観た経験から、俳優になる気持ちも出てきました。

【宇津井健と両肩を叩いて踊った】
 当時の日本の映画俳優というのは、
映画会社のオーディションを受けて、
その中から東宝なら東宝、松竹なら松竹がニューフェースを採用して売り出し、
主役に抜擢する形を採っていた。

つまり演劇学校というものがなかったんですね。
 海外の場合、必ず大学には演劇科があり、みなさんそうしたところで学んでいる。
だから僕も日本に俳優学校はあるのかと探してみたけれど、一つもありませんでした。
日本は演劇に対して教育して役者を育てるという考え方がなかったわけです。
 けれど俳優座というところは3年間基礎から習えるという。
そこで俳優座に入ろうと考えたわけです。
 落ちるだろうと思って受けたら、たまたま受かった。
 一次を受けたらガタガタ震えて、もう落ちたろうと思って(結果を)見に行かなかった。
そうしたら、「おまえは受かったのに何で来ないんだ」と言われてね。
また二次を受けて、三次の発表で合格した。
20倍くらいの難関だったと思います。
 三次の発表で、この間亡くなった宇津井健が一緒に番号を見ていたんです。

赤いセーターを着た宇津井健が、「あなた、受かりましたか」と聞いてきて、
「どうも受かったらしいです」と言ったら、「僕も受かったんですよ」って。
二人で両肩を叩いて踊って喜んだ。

【「1対49」の戦い】
 合格したのはいいけれど、入ってからが大変でした。

 俳優座附属養成研究所は、大学と同じように座学から始まるんですね。
それも朝9時からスタートする。
月謝は900円。
今までは昼間働いて夜学に通っていたけれど、
今度は昼間に大学みたいな教育を受けて夜働かなきゃならなくなった。
パチンコ屋やキャバレー、バー、喫茶店なんかで働きました。
 「君たちはこれから3年間で、1対49の戦いになる」
 同期は50人。

当時、青山杉作さんという新劇界で有名な方が校長先生を務めていらして、こう祝辞を述べてくれました。
 全然、祝辞になってないですよね(笑)。
「20倍の倍率の中で君たち50人を採ったけれど、この中から俳優になれるやつはほとんどいない」なんて言うわけですから。
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⑦ ただ、そう言われて、僕はやっと競争しようという気になった。
 同期は友達ではあるけど、ライバルでもある。
そういう関係で切磋琢磨して、何とか50人の中の2人に入ることができた。
その後も俳優座の研究生として3年間の下積みを重ねますから、
結局、俳優になるために6年間かかりました。
 19歳で俳優学校へ入って、22歳くらいに俳優座に入る。
そしてその後、私は幸運にも、『ハムレット』の主役をやらせてもらった。
 役者になるまでは非常に困難な道のりではあったけれど、役者になってからのキャリアは早かった。
神様はうまい具合に人生の陰と陽を差配するんだと思ったものです。

役者の技術がどれだけうまいかなんて、普通の人はあまり分からないでしょう。
それでもスターになる人はスターになるし、一生食えないやつは食えない。
格差の激しい世界ですから。
 先輩からはいろいろなアドバイスをいただきましたが、
その中でも参考になったのが、「あまり稼ぎ過ぎると芸が落ちるぞ」ということです。
当時から僕は、1年の半分は映画、半分は芝居をやると決めていました。
すると芝居で通行人を演じている時に、映画の主役の話が来たりする。
 当時の映画会社は余裕があったんでしょうね。
よく専属にならないかと持ちかけられました。
ただ、専属俳優になると俳優座をやめなきゃならない。
それでも映画会社の社長は、「家を1軒建ててやる」と言うわけです。
食うのに困っている時に、「家1軒」と言われれば当然そちらに行きたくなる。
ちょっと考えましたよ。

 ただね、家なんか建ててもらうと、
一生こいつらの言うことを聞かなきゃならなくなるんじゃないかと思った。
ひねくれた根性ですけど、そんなのはつまらない。
僕は20代で自分の生き方を決めて、それを貫きました。


【女の子の手を握り、空襲を逃げた】
 僕は1932年生まれですから、昭和で言うと7年生まれです。
親父は長い間結核で、家庭は非常に貧乏で、もう極貧という状態。
それも昭和18年(1943年)に親父は亡くなりました。
 すると長男の僕と弟と妹、お袋の4人は、社宅みたいなところを追い出された。
食えなくて転々とした挙句、青山にある弁護士事務所に住み込みで留守番をする募集があった。
そこで家族で青山の弁護士事務所に住むようになったんです。
 そして青南小学校に入りました。
これはエリート校で、終戦時に陸軍大臣であった阿南(惟幾)大将のご子息や、
戦争途中で亡くなった山本五十六さんの長男がいらした。
本来は庶民が入っちゃいけないところなんです(笑)。
そこに通っている間に、戦況が甚だしくなって、子供たちは集団疎開をするようになる。
 エリート校ですから子供たちを遠いところへは行かせません。
東京都心部からちょっと離れた北多摩郡の仙川に向かった。
そこには中島飛行場があって、最後の零戦を造ったりしていました。
仙川の昌翁寺というところに集団疎開して、お寺の本堂に寝泊まりする。
終戦の年に卒業しました。
 集団疎開から東京に戻っても空襲ばかり。
仙川にいた時もグラマン戦闘機か何にバンバンやられて防空壕へ逃げ込んだりしていましたが、
東京でも大空襲に遭って、最終的には千歳烏山で終戦を迎えました。
 小学校を卒業した僕は、池袋の先の中板橋にある都立北豊島工業高校に通うようになりました。
昭和20年(1945年)4月のことです。
千歳烏山からは遠くて、新宿から池袋に出て、池袋から東武東上線に乗って。
その頃は電車の屋根の上に乗って中板橋まで通っていました。
 新宿辺りを通ると、逃げようとした人が焼けただれて真っ黒になっている。
それを横目で見ながら通学するわけです。
新宿の辺りは凄惨たるものでした。
空襲になると学校に行かなくていいのでほっとしたりもしました。
 ある時、渋谷で大空襲を食らったんです。
僕は近所の子の手を引っ張って逃げました。
必死で手を引っ張ったんだけれど、
いやに軽いなと気づいて振り返ると、僕が引っ張っている女の子の手の先に、体がないんです。
焼夷弾がその子の頭にぶつかったんですね。
けれど体がなくなったことに気づかず、引っ張って逃げていた。
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 ⑧こんな体験をしていますから、戦地まで行った経験はないけれど、
戦争の最中に戦場にいたみたいなもんです。
もう、当時は無差別爆撃でしたから。
日本の戦況に巻き込まれた少年時代と言えるでしょう。

 玉音放送は、高校の校庭で聞きました。
昭和20年8月15日に天皇陛下のお言葉があったけれど、
負けたという印象がないんですね。
何か白昼夢みたいな感じで。
ともかく、それまで「竹やり戦争」「一億玉砕」「日本は神風が吹く」という教育を受けていましたから。
絶対に負けないんだと思っていた。
子供ですから本当に神風が吹く、とね。

【「国を守る」と言われたら警戒しろ】
 「いざ来い、ニミッツマッカーサー」。
米軍が上陸したら一億玉砕でやっつける。
終戦まで僕は本当にそう思っていました。
 それなのに、戦争に負けた瞬間から、
政治家も大衆も、大人どもは一日にして親米派になった。
「国のために死ね」と言っていた大人が、「ギブ・ミー・チョコレート」「ギブ・ミー・チューイングガム」と。
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⑨ 当時は大学生が学徒動員でどんどんと出て行っていたから、
戦争が終わって、やっと人間らしい生活が送れるんだと思いました。
けれど一方で、人間というものは一日にしてこうも変わるものか、とも思いました。
今も集団的自衛権とか何とか言っていますが、僕は絶対に信用しない。
戦争だけはやめた方がいい。
「国を守る」とか言い出したら十分に警戒した方がいい。
結果は大体戦争につながるからです。
 僕の少年時代は、本当に気が狂いそうな状況でした。
食うコメもないのに誰も助けてくれなくて、最低の生活をしていました。
空襲に遭って、生きていること自体が不思議で、
毎日、「きょうも1日生き残ったんだ」ってね。

 その後、70年間も戦争のない時代が続いたわけです。
総理大臣が2年に1度変わるってブーブー言う人もいるけれど、それでもいいじゃないですか。
強すぎるカリスマを持ったリーダーが出ると、大衆はすぐに流されるんだから。
そういう意味では、今はちょっとやばい時代だなあとも思いますね。

 僕が役者に憧れたきっかけのひとつは、こうした戦争体験にありました。
 戦争に負けたことで、僕にとって大人のロールモデルは、
米国映画の銀幕の中にしか見いだせなくなっていた。

だからこそ僕は人間を考える作品をつくる。
そして人間の面白さ、悲しさ、愛しさ、愚かさを、自意識を消して演じられる役者を育てる。
「人間っていいな」と観客に感じさせる役者を残していきたいのです。

【平蔵の独り言】
『俺は、俺だ』と抵抗しろ!
高倉健や菅原文太といった同年代の俳優が次々に鬼籍に

【独り言】
『俺は、俺だ』の主張をする人たちには、
暮らし難い世の中になっていると思う。

というより、『俺は、俺だ』の個性も多様性も
みんな一緒なら安心・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2015-03-05 14:13 | 人間模様 | Comments(0)