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【樹木希林】欲があるから人は弱くなる。〔女優というよりも人としてどう生きるかそれが大事なの〕   

2015年 06月 15日
【樹木希林】欲があるから人は弱くなる。〔女優というよりも人としてどう生きるかそれが大事なの〕
個性派女優が本音で語った・樹木希林

「私」と「家族」の物語
がんになってよかった。
夫には感謝しています。
女優が口にしたその言葉にはただただ、重みがあった。
週刊現代2015/6/6号
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〔私は自分の人生、「上出来」だと思っています〕
①樹木希林:イベントを自ら仕切る
〔欲があるから人は弱くなる〕
人としてどう生きるかが大事。
それよりもまず、人としてどう生きるかが大事。
だから普通に生きてますよ。
掃除もするし洗濯もする。普段から特別、役作りというのもしません。

〔『寺内貫太郎一家』では貫太郎の母を演じ、沢田研二のポスターに向かって「ジュリー~!」と叫ぶ演技が話題に〕
あれは自分から老婆をやりたいと言ったのだけど、それからというものずっと老婆役ばっかり回ってきて。
私より年上の女優さんはズラッといるのに、みんな『私はまだ…』とか言って断っちゃうせいなんですよ。

〔『がんをやっつけようとすると、へばるのよ』。〕
〔夫に出会って自分は意外とまともだと思えるようになった〕
若い頃の私は、裡にマグマみたいな激しい感情や自我を抱えていて、
『こんな状態でどうやって生きていけばいいんだろう』と戸惑っていた。
そんな時、更に激しい自我を持つ内田に出会ったのね。
彼と一緒にいると、自分は意外とまともなんじゃないかと、楽な気持ちになれた。
だから、実は救われたのは私のほうなんです。
〔別居、DV騒動だけではなく、内田が勝手に離婚届を提出して裁判になるなど、波乱の結婚生活だった〕

〔ひっそりと燃え尽きたい〕
長年女優をやってきてどこが変わったかといえば、
演技が押しつけがましくなくなっている部分かもしれません。
〔やり残したこと?そんなの、ありませんよ〕
もちろん、自分の言動に反省することは日々死ぬまで続けていくと思いますけどね。

ただ、浄化されてお仕舞いにしたいという野望はあります。
経典にある『薪尽きて火の滅するがごとし』が理想です。

【樹木希林「原点に戻ったよう」映画「あん」】
逆境で生きる力を表現
「寂しさと苦しさはとても言葉では言えないと思う。
でも、それを背負って生きている感じを見せない。
悲劇にしがみつくのではなく、それでも生きようとする力を持っている。人間っていいなと思いましたね」

〔壁なんかない〕
「自分で壁をつくって閉じこもっている若い人はいっぱいいる。
自由に生きていいのに自分で生きにくくしている、そのぜいたくさ。
壁なんかないのにね。
それが伝われば、この役を演じた意味はあったかな」
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【樹木希林】欲があるから人は弱くなる。〔女優というよりも人としてどう生きるかそれが大事なの〕

〔私は自分の人生、「上出来」だと思っています〕
個性派女優が本音で語った。
がんになってよかった。
夫には感謝しています。
女優が口にしたその言葉には、ただただ、重みがあった。


〔欲があるから人は弱くなる〕人としてどう生きるかが大事。
「私のことを怖いという人もいるみたいだけど、それは私に欲というものがないからでしょう。
欲や執着があると、それが弱みになって、人がつけこみやすくなる。
そうじゃない人間だから怖いと思われてしまうのね。
私は女優の仕事にも、別に執着があるわけじゃないの。

それよりもまず、人としてどう生きるかが大事。
だから普通に生きてますよ。
掃除もするし洗濯もする。普段から特別、役作りというのもしません。
現場で扮装をしたら勝手にその役の気持ちに入り込んでしまう。


私の場合、女優業ってそれくらいのことなの」
そもそも樹木が女優になったのは「成り行き上」だという。
「私は周りが心配するほど無口な少女だったの。
なのに不思議ねぇ、たまたま目に飛び込んできた新聞の小さな記事を見て『文学座』の試験を受けたら合格しちゃったわけ」

それが´61年、18歳の頃。樹木は「たまたま」と言うが、
1000人もの応募者の中から選ばれたのは10人だった。
「他は美人だらけだったから、一人くらいそうじゃないのも入れとこうかと思ったんじゃないかしら?
ただ、私は耳がいいと言われましたね。
人のセリフをよく聴いているって。
演技のセリフって、相手の出方によって、
自分がどういう言い方をするか変わってくるはずなんですよ。
でも、相手のセリフを聴いていない人って結構いるんです」

〔『寺内貫太郎一家』では貫太郎の母を演じ、沢田研二のポスターに向かって「ジュリー~!」と叫ぶ演技が話題に〕
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②樹木希林 「寺内貫太郎一家」
主役を張るタイプではなかった樹木だが、
共演者と軽妙な掛け合いができる演技力が評価され、
20歳の時に森繁久彌主演の『七人の孫』(´64年)でお手伝いさん役に抜擢される。
以降『時間ですよ』(´70年)『寺内貫太郎一家』(´74年)などで「怪演」を披露し、広く知られるようになっていった。

「『寺内貫太郎一家』に出た時は31歳だったの。
あれは自分から老婆をやりたいと言ったのだけど、
それからというものずっと老婆役ばっかり回ってきて。
私より年上の女優さんはズラッといるのに、みんな『私はまだ…』とか言って断っちゃうせいなんですよ。
『迷惑しました』って書いておいてくれない?」
30代早々から演じ続けた老婆役。
しかし、キャリアを重ね、やがて樹木自身の年齢が役に追いつく頃になると、
かつてはコミカルだったはずの老婆は、ごく自然体の、観る人の胸を打つ姿に変貌した。
´13年には『わが母の記』で2回目となる日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞している。
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③樹木さんは「『がんをやっつけようとすると、へばるのよ』。とわたしは思ってるから...。だから戦うっていう感覚がないんだね。生活の質を下げないで、自然にいるような道を見つけようという生き方なの...」

〔『がんをやっつけようとすると、へばるのよ』。〕
樹木が「全身がん」であることを告白したのは、その授賞式でのことだった。
「最初にがんに罹ったのは´04年です。その数年後に、13ヵ所に転移が見つかりました。
でもね、今はがんになって本当によかったと思っているんです。
自分の体と向き合うようになりましたから。」
´13年に公表した「全身がん」。
現在は放射線治療を経て、体に影響を及ぼすがんは消えている状態だという。

〔夫に出会って自分は意外とまともだと思えるようになった〕
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④別居30年...でも夫婦」内田裕也 ...
40年かけて知った夫婦の最適な関係
「内田がね、ここ最近、会うたびに『体調が悪い』ってうるさいの。
でも私が『それは辛いわねえ、わかるわよ。
私なんか全身がんだもの』って言うと、ピタッと黙るんです。
そんな効果もあるのよ」

「内田」とはもちろん、夫でロック歌手の内田裕也氏だ。
結婚したのは´73年。その壮絶な結婚生活についてはあまりにも有名だろう。
「DVが酷くて、こっちもやり返すものだから大変だったのよ。
近所の金物屋で『なんでオタクは包丁ばかり買いに来るの?』って訊かれたこともあったわね(笑)。
世間の人は私をDVの被害者だと思っているかもしれませんが、内田には感謝しているんです。
若い頃の私は、裡にマグマみたいな激しい感情や自我を抱えていて、
『こんな状態でどうやって生きていけばいいんだろう』と戸惑っていた。
そんな時、更に激しい自我を持つ内田に出会ったのね。
彼と一緒にいると、自分は意外とまともなんじゃないかと、楽な気持ちになれた。
だから、実は救われたのは私のほうなんです。

〔別居、DV騒動だけではなく、内田が勝手に離婚届を提出して裁判になるなど、波乱の結婚生活だった〕
そりゃ若い頃は大変だったわよ。
でも時が経って年を取るにつれ、ぶつかってばかりはいられなくなるし、
それにちょうどいい距離感というのがわかってくる。
それまでにちょっと時間がかかりすぎたかもしれないけどね(笑)」

〔ひっそりと燃え尽きたい〕
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⑧ひっそりと燃え尽きたい
´76年から約40年にわたって別居生活を続ける二人だが、現在は一年に2回ほど会っているという。
「そのぐらいが私たちにとってちょうどいいの。
たまに会う程度だから、お互いに話したいことがいっぱいあるし」

「家族に囲まれて、こんなに平穏無事な晩年を送ることができるとは夢にも思ってなかった。
私は自分の人生、『上出来』だと思っていますよ」

今月末には、孫の一人、内田伽羅と本格初共演した映画『あん』が公開される。
どら焼き屋を舞台に繰り広げられるこの人間ドラマで、
樹木はハンセン病の過去を持つ餡作りの名人・徳江を演じている。

「長年女優をやってきてどこが変わったかといえば、
演技が押しつけがましくなくなっている部分かもしれません。
今回は、重たい過去を背負った徳江さんという人が、
どう心を解きほぐして生きていくのかを考えて演じました。
映画に出るのは嬉しいのよ。宣伝活動はくたびれるけどね。
周りはこれが私の『遺作になる』と騒いでいるみたいだけど、
そんなことを望まれても困っちゃうわ(笑)」
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⑨樹木希林、 「療養の一年。体調は悪くなってない」
〔やり残したこと?そんなの、ありませんよ〕
映画のキャッチコピーは『やり残したことは、ありませんか?』というもの。
同じ質問を樹木に投げかけると、彼女はこう答えた。
「そんなの、ありませんよ。もともと欲がないんだから。
もちろん、自分の言動に反省することは日々死ぬまで続けていくと思いますけどね。
ただ、浄化されてお仕舞いにしたいという野望はあります。
経典にある『薪尽きて火の滅するがごとし』が理想です。
迷惑をかけた人達に『すいませんでした』と告げて、
パッと燃え尽きることができたら最高だなぁと思います。
私はね、女優としてではなく、一人の人間として、ひっそりと逝きたいのよ。
だからもし私が表舞台から姿を消しても、決して追いかけないでね」

【樹木希林「原点に戻ったよう」  映画「あん」】
逆境で生きる力を表現

【樹木希林】映画「あん」北國新聞2015/6/9(夕刊)
「寂しさと苦しさはとても言葉では言えないと思う。
でも、それを背負って生きている感じを見せない。
悲劇にしがみつくのではなく、それでも生きようとする力を持っている。人間っていいなと思いましたね」

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⑪河瀨直美×樹木希林の遺作(?)...『あん』
〔壁なんかない〕
「自分で壁をつくって閉じこもっている若い人はいっぱいいる。
自由に生きていいのに自分で生きにくくしている、そのぜいたくさ。壁なんかないのにね。
それが伝われば、この役を演じた意味はあったかな」


今月末には、孫の一人、内田伽羅と本格初共演した映画『あん』が公開される。
どら焼き屋を舞台に繰り広げられるこの人間ドラマで、
樹木はハンセン病の過去を持つ餡作りの名人・徳江を演じている。

「長年女優をやってきてどこが変わったかといえば、
演技が押しつけがましくなくなっている部分かもしれません。
今回は、重たい過去を背負った徳江さんという人が、
どう心を解きほぐして生きていくのかを考えて演じました。
映画に出るのは嬉しいのよ。宣伝活動はくたびれるけどね。
周りはこれが私の『遺作になる』と騒いでいるみたいだけど、
そんなことを望まれても困っちゃうわ(笑)」

【樹木希林「原点に戻ったよう」  映画「あん」】
逆境で生きる力を表現


リアリティーを重視し、ドキュメンタリー的な手法で撮影していく河瀬組の現場が新鮮だったと樹木。
「70を過ぎた役者でも予測通りにいかない。原点に戻ったような体験ができてよかった」

演じたのは、どら焼き屋の雇われ店長千太郎(永瀬正敏)に「働きたい」と懇願する徳江。
あん作りが得意な彼女の働きで店は繁盛し、徳江は常連の中学生ワカナ(内田伽羅)とも心を通わせる。
だが、徳江がハンセン病を患っていたといううわさが立ち…。
ハンセン病療養所に通い、偏見がもたらした残酷な歴史を知った。
国賠控訴などをニュースで耳にしていたが、その実態まで思いが至らなかったと話す。

「実感として世の中のことを何も知らない。
芸能界なんか井の中の蛙だって思ったわね」
出会った人々は自らの体験を淡々と語ったという。
「寂しさと苦しさはとても言葉では言えないと思う。
でも、それを背負って生きている感じを見せない。
悲劇にしがみつくのではなく、それでも生きようとする力を持っている。人間っていいなと思いましたね」

〔壁なんかない〕
徳江との出会いは、単調な日々をやり過ごしている千太郎や、
未来に希望を見いだせないワカナを変えていく。
「自分で壁をつくって閉じこもっている若い人はいっぱいいる。
自由に生きていいのに自分で生きにくくしている、そのぜいたくさ。壁なんかないのにね。
それが伝われば、この役を演じた意味はあったかな」

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⑫河瀨直美×樹木希林の遺作(?)...

【平蔵の独り言】
〔欲があるから人は弱くなる〕人としてどう生きるかが大事。
それよりもまず、人としてどう生きるかが大事。
だから普通に生きてますよ。
掃除もするし洗濯もする。普段から特別、役作りというのもしません。


【独り言】
普通に生きていますよ。
そうですよね。日々、特に変わったことをしていないですよね。

小泉今日子(キョンキョン)も言っているように
「一人の人間として、普通になんでもできる人じゃなければ、生きている意味がなくなる・・」
(2014/06/10 「平蔵の独り言」)


【平蔵の独り言】
〔ひっそりと燃え尽きたい〕
長年女優をやってきてどこが変わったかといえば、
演技が押しつけがましくなくなっている部分かもしれません。
〔やり残したこと?そんなの、ありませんよ〕
もちろん、自分の言動に反省することは日々死ぬまで続けていくと思いますけどね。

ただ、浄化されてお仕舞いにしたいという野望はあります。
経典にある『薪尽きて火の滅するがごとし』が理想です。

【独り言】
肩の力が抜けて、やりたい事もやったな!
こんな最後に向かって、毎日を過ごして行ければ・・・・・

20年前、これから6時間が“山”です。
「覚悟して下さい」と家人は言われたのだが、
今は 毎日生きているのは “自分のためなんですね”

今の自分と別れたくないから、今を生きる・・・・・


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by asanogawa-garou | 2015-06-15 15:17 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

「私は大会に出ない」伊達公子が引き起こした騒動とは・・・「ため息ばっかり」と試合中に叫んだことが   

2015年 06月 04日
「私は大会に出ない」伊達公子が引き起こした騒動とは・・・・伊達は「ため息ばっかり」と試合中に叫んだことが騒動となった。
【輝かしい成績】
【1996年のグラフとの名勝負】
〔フェドカップ〕
〔ウィンブルドン〕
【天才的なエピソード】
【良くも悪くも自由人】
〔アジア大会でのゴタゴタ〕
【引退の要因と復帰の理由】
〔引退を発表〕
〔2008年現役復帰〕
【テニス=ナブラチロワ、クルム伊達は「最初の引退が早過ぎた」】
【テニスを「文化」に 伊達公子が語る日本テニス界への危惧と錦織圭への評価】
〔その男の名前は佐藤次郎という。〕
〔このような昔のプレイヤーを知ることの大切さを説く人物がいる。〕
〔伊達は「ため息ばっかり」〕



「私は大会に出ない」伊達公子が引き起こした騒動とは・・・・伊達は「ため息ばっかり」と試合中に叫んだことが騒動となった。
Excite Bit コネタ 2015年5月22日 13時10分
ライター情報:さのゆう
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現在、日本のテニス界でもっとも有名な人物といえば錦織圭だろう。
しかし、クルム伊達公子を忘れてはいけない。
彼女は37歳で現役復帰後、ツアー優勝やトップ10の選手の撃破など信じられない活躍を見せている。
しかし、1回目の現役引退をする前はもっと凄かった。
今回はそんな彼女の全盛期の輝きを紹介していこう。

【輝かしい成績】

伊達公子の1回目のプロ生活は1989年にスタート。
相手の打ったボールをバウンドした直後に打ち返すという高度な「ライジングショット」を武器に1992年にツアー初優勝。
その後も活躍して四大大会では

全豪ベスト4(1994)
全仏ベスト4(1995)
全英ベスト4(1996)
全米ベスト8(1993・94)

という輝かしい成績を残した。
さらに世界ランキングでは95年11月に4位(錦織圭の最高ランキングと同じ)を記録するなど、名実ともに世界のトッププレイヤーの一員だった。

【1996年のグラフとの名勝負】
また伊達の凄さを象徴するのが、当時の"絶対女王"シュテフィ・グラフとの名勝負だ。
グラフは歴代の女性選手の中でも最強に近く、
男子に例えるなら全盛期のフェデラーと対戦するようなもの。
1996年、そのグラフに対して伊達は2度の名勝負を演じた。
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②1996年、フェド・カップで当時の”絶対女王”シュテフィ・グラフに勝利した伊達公子
〔フェドカップ〕
まず、4月に行われたフェドカップ。
伊達はグラフと対戦するが、歩くのさえ痛いほどの故障を足に抱えて練習もできないほどだった。
そのせいか、第1セットを0―5としてしまう。
しかし、ここから信じられない逆襲を見せた伊達は7―6と第1セットを奪う。
続く第2セットを落としたものの、最終セットでは12―10の大激戦の末、見事勝利した。
また、この試合では応援席で旗を振りまわして大声で応援する松岡修造が話題となった。

〔ウィンブルドン〕
続く7月に行われたウィンブルドン。
準決勝に進出した伊達は再びグラフと対戦する。
伊達は第1セットを落とすが、第2セットを6ゲーム連取で取る。…

流れは完全に伊達であったが、最終セットを向かえる前に日没順延になってしまう。
そして次の日に改めて行われた最終セットをグラフに取られて伊達は敗れてしまう。

とはいえ絶対女王のグラフと接戦を演じた伊達に多くの期待が寄せられた。
このままでは4大大会優勝の日も近いのではないかと。

しかし、そんな絶頂期ともいえる1996年の9月、突然引退を表明する。
当時まだ26歳、世界ランキングも8位という好位置であった。

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③自由人伊達公子
【天才的なエピソード】
なぜ引退したかに言及する前に伊達のルーツを紹介していこう。
伊達自身が「たまたま好きで始めたテニスが職業に」と語るように幼少から天才だった。
幼少期のコーチは
「どんな体勢からでもボールを自分のものにできる。
言葉で教えただけですぐ完璧なショットをマスターした」と語っている。
また、天性の動体視力も凄まじく、
高校時代にはバッティングセンターで野球経験がないのに、
120km/hのボールに一度も空振りしなかったエピソードが残っている。

【良くも悪くも自由人】
そんな天才的エピソードが豊富な彼女はかなりの自由人だ。
専属コーチつけずに自分で練習メニューをほぼ決めていたし、
契約等のマネージメントも本来、大手代理店がすべきことだが、
伊達自身や家族などの身近な人が行っていた。

しかし、そんな自由な性格が災いして騒動が多かった。

相手の応援団にボール打ち込む
92年ウィンブルドン、負けた伊達は相手の応援団にボールを打ち込むという暴挙に出た。
理由としては自分のミスに大喜びする応援団が気に食わなかったらしい。
数年前に話題になった、
自分のミスにため息をついた日本のファンに「ため息ばっかり!」と叫んだ場面とも重なるだろう。

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④良くも悪くも自由人
〔アジア大会でのゴタゴタ〕
1994年にはアジア大会を巡って日本協会と揉めた。
その過程では伊達は「私はアジア大会に出ない」と発言し、大きな騒動となった。
後日、交渉の成果もあり出場が決まったが、「私は協会を許したわけではない。…

自分のために出るから団体戦も出ないし、日本代表としての団体行動も一切しない」と主張。
その言葉通り、伊達はシングルス決勝で沢松奈生子と対戦したのだが、
沢松がジャパンのウェアなのに対し、伊達は普段通りのウェアで戦った。
さすがの伊達もこのときばかりは「負けたら辞めるしかない」と覚悟したらしい。

協会と再び確執
しかし、伊達は1996年、再び日本テニス協会と揉めた。
フェドカップを日本で開催するか否かの問題で、伊達は政争の具とされたのだ。
この一件をきっかけに伊達は、
日本テニス協会で唯一パイプのあった坂井利郎氏
(かつて伊達の個人コーチを務めた人物)との関係も途切れてしまう。

【引退の要因と復帰の理由】
〔引退を発表〕
このようないくつものゴタゴタを経て伊達はついに引退を選んだ。
理由については多くを話さないが、
後のインタビューでは「引退のときはツアー生活に疲れ、勝ち続けなければいけないプレッシャーもあってテニスが嫌いになった」と語っている。
海外を転々とするツアー生活・トップ選手であり続けるプレッシャー・数々の騒動などによって精神的に参ってしまったのが引退の要因と考えられる。
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⑤42歳の“ベスト32”進出者は、満面の笑みで逆質問する。「分からない。あなたはどう思う? 私は帰ってくると思う?」

〔2008年現役復帰〕
しかし、伊達はテニスコートに戻ってきた。
理由として「一度テニスを離れたことで、テニスの魅力を再認識したんです。」と答えている。
かつては好きで始めたテニスを一度は嫌いになったが、また好きになって帰ってきたのだ。
また、伊達は「日本中でテニスはポピュラーになり切れていない。だから今は魅力を多くの人に知ってもらいたい」と発言している。

かつて伊達が全盛のとき、テニスブームが日本で起きた。
しかし引退後にすぐ終わってしまった。
そのような事実を知っているからこそ、再びテニスを日本に根付かせたいと考えているのではないだろうか。
「負けない! ―挑戦することは楽しいこと―」(ポプラ社ノンフィクション)
(さのゆう)

【テニス=ナブラチロワ、クルム伊達は「最初の引退が早過ぎた」】
REUTERS ロイター 2013年 06月 29日 10:48 JST
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⑥テニス=ナブラチロワ、クルム伊達は「最初の引退が早過ぎた」
[ロンドン 28日 ロイター] - 元女子テニス選手で、四大大会の試合に47歳で勝利した最年長記録を持つマルチナ・ナブラチロワ(米国)は27日、
今年のウィンブルドン選手権女子シングルスで同大会最年長記録となる42歳で3回戦に進出したクルム伊達公子について、「最初の引退が早過ぎた」と述べた。
クルム伊達は1996年に引退し、結婚して12年後に現役復帰。

ナブラチロワはロイターに対し、
クルム伊達の引退をあまりにも早過ぎると当時感じたとし、
今回の42歳での快挙はその証明だとコメント。

「彼女は精神的にも肉体的にもフレッシュ。30歳ではないが、間違いなく42歳には見えない」と語った。
ウィンブルドンで9回優勝の実績を持つナブラチロワは、クルム伊達のサーブアンドボレーというプレースタイルについて「消えゆく技であり、うまくやるのはとても難しい」と称賛。
また、対戦者には「40代の相手には負けたくない」との気負いがあるともコメント。
自身が40代でプレーしていたときもそうだったと語った。

クルム伊達が3回戦で世界ランク1位のセリーナ・ウィリアムズ(米国)と当たることについて、ナブラチロワは「最近の対戦相手はセリーナからほとんど勝機をつかめないが、彼女ならセリーナを苦しめることができる」と、善戦を期待した。

ナブラチロワは、クルム伊達が96年大会の準決勝でシュテフィ・グラフ(ドイツ)を敗退の瀬戸際まで追い込んだことにも触れ、「グラフ戦のようにプレーできれば誰にでも勝てる」としつつも、「あれから17年もたっている」と語った。


【テニスを「文化」に 伊達公子が語る日本テニス界への危惧と錦織圭への評価】
Excite Bit コネタ 2015年2月10日 12時00分
ライター情報:さのゆう
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⑦錦織圭 全豪オープン
先日、約2週間にわたる全豪オープンテニスが幕を閉じた。
男子シングルスの優勝はジョコビッチとなり、期待された日本の錦織圭はベスト8に終わった。
ベスト8を残すことは無論素晴らしいことであるが、
優勝もと期待していたファンにとっては、
悔しさが残るとともに改めて「世界」の壁を実感した大会となった。

〔その男の名前は佐藤次郎という。〕
さて、そんな世界を舞台に奮闘する錦織のおよそ80年前、
日本テニス男子史上もっとも「世界」に近づいた選手がいたことをご存知だろうか。

その男の名前は佐藤次郎という。

彼の世界ランキングの最高順位は世界3位であった。
この時のテニス界はまだオープン化前(プロ選手の出場の解禁前)とはいえ、
錦織が現在5位であること等を考えるといかに凄いことかよく分かる。
そのランキングの実力どおり、
佐藤は4大大会で5回もベスト4という成績を残し、
伝説的な選手として知られるフレッド・ペリーに勝利したこともある。

その佐藤は、テニスをよく知る者からは「伝説」と呼ばれているが、
それは成績以外にも彼の悲劇的な最期が理由に挙げられる。
選手として絶頂期を迎えていた1934年、デビスカップ(現在も実施されている男子テニスの国別対抗戦)に向かう途中で、船から投身自殺をし、26歳の短い生涯を終えたのだ。


若くして世界の第一線で活躍
佐藤は身長168センチと小柄ながら、粘り強く、勇猛果敢なプレースタイルで「ブルドッグ・サトー」の愛称を持ち、世界の第一線で活躍するトッププレーヤーでした。
1930年に22歳の若さで全日本選手権を制した後、世界に渡って、わずか3年間のうちに、四大大会のシングルスで計5度のベスト4に進出するなど、輝かしい戦績を残しました。
世界ランキングも、四大大会で7連続決勝進出の記録を持つジャック・クロフォード、テニス界のレジェンドで、ファッションブランドでもお馴染みのフレッド・ペリーに続く、第3位にランクイン。
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⑧若くして世界の第一線で活躍(佐藤次郎)

この投身自殺の背景は「さらば麗しきウィンブルドン」によると、
デビスカップでの成績やそれを受けてのテニス協会の対応が一因となったのではと考えられる。
佐藤はデビスカップでの成績があまり良くなかった。

「国」を背負って戦うという意識が今と比べ物にならないほど強かった当時において、
国別対抗戦に当たるデビスカップのプレッシャーは相当なものだった。
そのプレッシャーの影響か、
佐藤はデビスカップの前には必ず神経性胃腸痛に悩まされ、
本来の実力を発揮できないでいた。
さらに追い討ちをかけるように、
当時のテニス協会は成績を残せない佐藤に対して"弁解の余地がない"、
"実に醜態"などと面前で批判している。…
佐藤の試合の結果が協会の資金にもろに直結する背景があるにしろ、あまりに常軌を逸する発言だ。

このような協会の態度や過度な期待、
デビスカップへのプレッシャーなどによって佐藤は次第に精神を病むようになり、
自殺に繋がってしまったのだろう。

〔このような昔のプレイヤーを知ることの大切さを説く人物がいる。〕
ところで、このような昔のプレイヤーを知ることの大切さを説く人物がいる。
ウィンブルドンベスト4という好成績を残した伊達公子だ。
彼女は「Number」(文藝春秋)での金子達仁とのインタビューで語る。

内容を簡単に紹介すると、
ヨーロッパでテニスが強く盛んなのは、テニスが「文化」になっているから。

その一方、日本ではまだ「文化」として根付いていないと主張する。
文化になるためには、テニスの歴史をよく知ることが重要だと語る。
例えば、先述したフレッド・ペリーや佐藤次郎などの過去の名選手たちについて知ることだ。
彼女がテニスが「文化」として日本に根付いていないことを危惧する理由は、
錦織がきっかけとなって巻き起こっているテニスブームが一過性で終わるのではないかと心配からだ。

かつて、伊達公子自身が全盛期のときに起きたテニスブームが彼女の引退後、すぐ終わってしまったように。

〔伊達は「ため息ばっかり」〕
また、伊達は「ため息ばっかり」と試合中に叫んだことが騒動となった。
日本での試合中、伊達のミスで失点した後に観客からため息が漏れたことに際して発せられたもの。
この件の真意に関して、伊達は「ため息が出ることは選手に感情移入しすぎだからだ」と語る。
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⑨伊達公子選手、試合で観客のため息に怒り爆発!
観客もまた、選手とともに「テニス」という劇場の担い手だという意識が薄いという主張は、テニスそのものというより、錦織圭自体のブームになっている今の日本での現状に一石を投じるものだろう。
そして、ため息がなくなれば、日本でテニスは「文化」に近づくと語る。

最後に、世界ランキング4位にまで登りつめた経験を持つ伊達は錦織のことをどう評価しているのだろう。
伊達は新たなショットを簡単に習得してしまう錦織のことを「天才」と称している。
また、錦織は伊達公子のみならず、松岡修造にも天才と絶賛されている。
そんな名選手たちから手放しの賞賛を受けている錦織は世界5位として今シーズンを戦う。
佐藤次郎、そして伊達公子でもなし得なかった日本人初の4大大会優勝達成を、
テニスを「文化」として捉えることを意識しながら応援したい。
(さのゆう)
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⑩クルム伊達公子<全豪オープン2013>
【平蔵の独り言】
〔伊達は「ため息ばっかり」〕
また、伊達は「ため息ばっかり」と試合中に叫んだことが騒動となった。
日本での試合中、伊達のミスで失点した後に観客からため息が漏れたことに際して発せられたもの。
この件の真意に関して、伊達は「ため息が出ることは選手に感情移入しすぎだからだ」と語る。
【独り言】
何故、サポーターとして応援団の立ち位置に日本人はなれないのか?

【平蔵の独り言】
〔世界中に衝撃を与えた投身自殺〕
佐藤はデビスカップでの成績があまり良くなかった。
「国」を背負って戦うという意識が今と比べ物にならないほど強かった当時において、国別対抗戦に当たるデビスカップのプレッシャーは相当なものだった。
そのプレッシャーの影響か、佐藤はデビスカップの前には必ず神経性胃腸痛に悩まされ、本来の実力を発揮できないでいた。
さらに追い討ちをかけるように、当時のテニス協会は成績を残せない佐藤に対して"弁解の余地がない"、"実に醜態"などと面前で批判している。…

【独り言】
 しかし68年1月、盟友の訃報が届く。円谷が自ら命を絶ったのだ。
遺書には「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」とあった。27歳の若さだった。

「円谷さんは東京五輪の直後から、『国民の前でぶざまな姿をさらしてしまった』と自らを責めていました。
亡くなる半年前の大会でも、腰に故障を抱えながら『メキシコで日の丸を掲げる』と思いつめていました。
友人として『そこまで追い込まなくても』と声をかけるべきでした。
自分になら救えた命だったかもしれません」(君原)

〔円谷幸吉〕円谷のメダルは、東京オリンピックでの日本陸上界唯一のメダルだった(2013/10/05)

1933年佐藤次郎
1968年円谷幸吉

日本は何も変わっていない。
伊達公子はそんな日本のスポーツ界に警鐘を鳴らしているのだと感じられる。

野茂英雄は自ら自由を求めて、野球界からベースボールへ渡米した。
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by asanogawa-garou | 2015-06-04 16:30 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)