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「人の行く裏に道あり花の山」パブロフの犬のように反射的に従うイエスマンでない点は、リーダーになり得る   

2015年 12月 23日
【「人の行く裏に道あり花の山」パブロフの犬のように反射的に従うイエスマンでない点は、リーダーになり得る資質のひとつである。】

「人の行く裏に道あり花の山」を地で行き記録破りの増収増益
富士重工業 吉永泰之社長 日経ビジネス リーダーシップの源泉 森 一夫 2015年9月9日

〔飼いならされなかったから社長になった〕パブロフの犬のように反射的に従うイエスマンでない点
上司の言うことに、パブロフの犬のように反射的に従うイエスマンでない点は、リーダーになり得る資質のひとつである。

〔「偉くしてくれなくて結構」とゴルフをやらなかった〕
上から「ゴルフをやらないと偉くしないぞ」と半ば業務命令のように言われても、「偉くしてくれなくて結構です」と断った。

〔富士重工の社長にされて、ぼろぼろになるのだけは絶対に嫌だ〕
「100億円以上の赤字だったスバル国内営業が、三ケタの億円の黒字になったのですから、本当にうれしかったですね。」

〔人は人、自分は自分なのだろう〕
「なぜ他人に合わせなくてはいけないのか」
『あなたは耳を作ったの。すごいわね』とほめます。


〔「人の行く裏に道あり花の山」〕
「少しくらい売るのが下手でも、しっかりしたモノ作りによって、誇りの持てる製品を作っている会社」を探した。
一番早く内定をくれた会社に行こうと決めていたので

【「現場を実際に経験して、得をしています」】吉永君が偉くなっても、現場でこういう仕事をして頑張っている奴が、この会社を支えていることを覚えておいてくれよ

〔無駄足でも名刺を置いて回った〕ターゲットを決めると、半年あまり、毎日、同じ場所に無駄足でも、「福岡スバルの吉永です」と名刺を置いて回った。

〔「課長の分際でなんだ」となった末の栄転〕腹の座った先輩、上司のおかげで救われた。

〔危機感を持つ仲間3人と執行役員に〕「人間の社会には妬みとか嫉みがあるから1人だけ目立つのはよくない」

〔女子社員に「当たり前じゃないですか」とどやされた〕誰にもこびず、おごらず、地のままを通してきた。

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〔「偉くしてくれなくて結構」とゴルフをやらなかった〕
 吉永泰之社長は快進撃を続ける富士重工業の顔である。
明るく、ざっくばらんで、サラリーマン経営者だが、俗な言葉で言えばキャラが立つ。
大手の真似をせず我が道を行く同社の今を体現する個性派である。

 「昔を知らない若い人は今の富士重工を見て、社長をやりたいと思うかもしれません。私を見て、けらけら笑って明るくやっているように見えるでしょうからね」。
こう言いながら吉永は、いたずらっぽく笑う。
確かに、同社は記録破りの増収増益を続けており、社長はさぞかし居心地が良いだろうと思うのだが。

「当社には業績の良かった社長なんかいなかったんですよ。」

「偉くしてくれなくて結構」とゴルフをやらなかった
 今はピカピカの会社だが、つい10年ほど前までは貧乏会社だった。
流れが変わったのは前任者の森からである。
 「昔は、興銀では副頭取を、日産さんだと副社長を務めた方が社長に来られたので、みな60歳代後半でした。
私が社長になった時、57歳の勢いのいいのがポッと出てきて、よくしゃべるので、外の方から『社風が変わったんですか』なんて訊かれたものです」

〔人が抱く先入観を裏切ることを楽しむ風がある〕
 吉永はいかにも愉快そうで、人が抱く先入観を裏切ることを楽しむ風がある。
とにかく人と同じことをするのが嫌いなたちである。
例えばゴルフをしない。「時間の無駄」というわけだ。
上から「ゴルフをやらないと偉くしないぞ」と半ば業務命令のように言われても、「偉くしてくれなくて結構です」と断った。
「やれと言われれば言われるほど、やりたくなくなる。
人から指図されるのが嫌なのです」。

〔飼いならされなかったから社長になった〕パブロフの犬のように反射的に従うイエスマンでない点
 それでも社長にまでなったのは、仕事ができるのは当然として、逆説的だが、
サラリーマンとして飼いならされなかったからだろう。

上司の言うことに、パブロフの犬のように反射的に従うイエスマンでない点は、リーダーになり得る資質のひとつである。

 しかし本人は「社長にはなりたくないと思っていた」そうだ。
業績が停滞する中、2006年に就任した森社長とともに戦略本部長の吉永は、新たな中期経営計画を作る。
翌07年に国内営業本部長になるが、これはびっくり人事だったらしい。
 中計を発表する前夜、森社長に呼ばれて「国内営業本部長をやって」と言われた。
「私がですか」と聞き返したら、「一緒に中計を作ったのだから、企画の仕事はもういいから、国内営業を自分でやってよ」である。
伸びる米国に力を集中する方針を決めたので、その分、販売台数が減っている国内にさらにしわ寄せが行くのは必定だった。

【国内市場赤字の時代に終止符】
 スバル国内営業本部長が難しい仕事になるのは、吉永も当然わかっている。
課題は、縮小する国内市場に合わせた販売体制の再編成、誰にやらせるかが鍵である。
国内市場赤字の時代に終止符
 中心になって道筋を決めた吉永に、そのまま実行させるとは妙案である。
「森さんはなかなかの人だな」と吉永も感心するほかなったが、案の定、ことは簡単には進まなかった。
まず販売網については、店も人も1割減らし、固定費を減らして損益分岐点を下げるのが狙いである。
9月に起きたリーマンショックが後押ししてくれた。
「車が全然売れなくなったため、ディーラーさんはもともと赤字だったので、これは吉永の言うことを聞くしかないと変わりました。それから一気に進みだして、半年もしたら利益が結構出始めたんです」と、吉永は振り返る。

 衝突回避システムの「アイサイト」を載せた車が大当たりしたのも幸いした。
国内営業でずっと続いていた赤字の時代に終止符を打てた。
「100億円以上の赤字だったスバル国内営業が、三ケタの億円の黒字になったのですから、本当にうれしかったですね。ぼろぼろになりかねなかったのが、みんなのおかげで逆に名本部長になっちゃったんです」。

〔富士重工の社長にされて、ぼろぼろになるのだけは絶対に嫌だ〕
 当時、吉永はこう考えたという。
「サラリーマンとして、これ以上望めない良い思いをしたのだから、これで引退しよう。社長にされて、ぼろぼろになるのだけは絶対に嫌だ」。
本音だろうか。
吉永の来し方を見ると、仕事魔であることは確かだが、肩書そのものへの執着はあまりないようである。
 前述のように昔は貧乏会社だったが、今は違う。
15年3月期連結決算では、スバル車の販売台数は全世界で前期比10.4%増えて91万1000台になった。
売上高は同19.5%増の2兆8779億円、営業利益は同29.6%増の4230億円で、売上高営業利益率は14.7%である。
販売台数、売上高、営業利益、経常利益、純利益は3期連続して過去最高である。今期も増収増益の見通しだ。

前任社長から折り紙付きで後継者に指名
 4年前、前任の森社長は「わが社のエース的存在」と折り紙を付けて、吉永を後継者に指名した。
「森さんから11年の2月上旬に言われました。『社長やって。断れないよ』の二言だけでした。森さんは既定路線と思っていたのかもしれませんが、私はそうは思っていませんでした」と、吉永は言う。

 「ホンダの創業者の本田宗一郎さんと藤沢武夫さんのコンビのような組み合わせが富士重工にはふさわしいと思っていたのです。技術系で車にめちゃくちゃ詳しいのがトップになって、事務系が支えるというのがいいとね」。
吉永は事務系である。
「森さんも賛同していたのですが、実際に社長を選ぶのは別だということなのでしょう」。
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② 吉永の意図に反したかどうかはともかく、結果は当たりである。
 
〔「人の行く裏に道あり花の山」〕「少しくらい売るのが下手でも、しっかりしたモノ作りによって、誇りの持てる製品を作っている会社」を探した。

相場の格言にある「人の行く裏に道あり花の山」である。
人が群がる所よりも、ひっそりとした裏山に良い花があるといった意味で、つまり逆張りの勧めである。

吉永には、自分でモノを作りリスクを取って売る製造業の方が好ましく思えた。
しかも「少しくらい売るのが下手でも、しっかりしたモノ作りによって、誇りの持てる製品を作っている会社」を探した。
 その中で一番早く内定をくれた会社に行こうと決めていたので、
「最初から自動車会社に入りたいと思っていたわけではないのです」と言う。
ほかに選んだ会社を聞くと、なるほど渋い。
 その結果、「生き馬の目を抜く」からは程遠い「地味な富士重工」に決まったわけである。
「富士重工は中島飛行機から始まって、良いものを作るけど、シェアが低くて、売るのが下手みたいだな」という印象を持っていた。
富士重工は航空機なども兼営しているが、主力のスバル車で他社にない路線に徹して変わった。吉永は、それにぴたり合っていた。
今に至る展開を見れば、まさに「人の行く裏に道あり花の山」である。

〔人は人、自分は自分なのだろう〕
「なぜ他人に合わせなくてはいけないのか」
『あなたは耳を作ったの。すごいわね』とほめます。


吉永は父親の仕事の関係であちこち転校した。
「友達はどんどんできる方なのですが、転校が多かったので、悩みを打ち明け合うような幼馴染は意外にいないんです。本当に深い話ができるという点では、孤独なのかもしれません。引っ越しばかりしていましたから」。
 幼稚園から小学校1年にかけて米国のシアトルに住んでいた時である。
個性を認める教育に接して、ある種の刷り込みを経験したのかもしれない。
粘土細工で、「人間を作りなさい」と言われると、向こうの子供たちは思い思いに作る。
「ある子は顔だけ、ある子は耳だけ、ある子は鼻だけという具合です。
それを見て先生は『あなたは耳を作ったの。すごいわね』とほめます。
日本では、顔だけ作ると先生が『みんなが手足を付けているのに、どうしてあなたは顔だけなの』と言うので、ものすごく反発しました」。
幼いころから「なぜ他人に合わせなくてはいけないのか」という考えが身についていた。

 今、社長になって注意しているのは、普通の自動車メーカーと同じように量を追う経営になることである。
スバル車は独特の水平対向エンジンと4輪駆動によって、スポーティーな走りが特長である。
水平対向エンジンは4輪車向けでは世界で同社とドイツのスポーツカーメーカーのポルシェしか生産していない。
 同社の90万台強の生産台数は、トヨタ自動車の10分の1で、自動車メーカーとしては小さい。
しかし今や2ケタ成長である。
2年ほど前は、「100万台以上は目指さない方がいいと思う」と、吉永は話していた。大手メーカーと違う道を指向するからだ。
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【「現場を実際に経験して、得をしています」】
吉永君が偉くなっても、現場でこういう仕事をして頑張っている奴が、この会社を支えていることを覚えておいてくれよ

 富士重工業の社長、吉永泰之は、経営企画の仕事が長いのだが、「現場育ち」を自任している。
入社して5年間、工場勤務と自動車セールマンを経験しており、「あれがものを考える原点になっています」と語る。
 入社した1977年は石油ショックの後で、事務系の大卒採用は9人しかいなかった。
全員、まず工場に入る。半年は生産現場で実習である。
それから工場の総務や経理などに配属される。
フォークリフトで部品を運び続ける日々
 吉永は当時エンジンやトランスミッションを生産していた東京の三鷹製作所に入った。
組み立てラインでの実習は、受け持つ工程が毎日変わった。
「日替わりで初めての仕事をやるのですから大変でした」と振り返る。

9月30日、10月からの正式な配属先の辞令をもらった。
 「生産部工務課」である。
どんな仕事か尋ねたら、「フォークリフトの運転手をやってくれ」である。
想像もしたことのない仕事で、「いやあ、びっくりしました」と言う。
早速、免許を取って、1年半、毎日フォークリフトでトラックから部品を降ろして、生産ラインに運び続けた。
当時、三鷹製作所では2年ごとに大卒の新入社員に、フォークリフトの運転手をさせていたのです」

「おそらく所長さんの発想だと思います。慧眼ですね」と、吉永は思っている。

事務系の大卒でも、長い目で見て貴重な経験になるとの狙いが込められていたのだろう。
現場を経験して「得をしています」
 現場の人とも親しくなる。
今も心に刻み込んでいるある中年工員の言葉がある。
「オレは中学しか出ていない。毎日、ピストンリングを組み付ける仕事をする、しがない工員だけど、息子を大学に行かせた。
吉永君が偉くなっても、現場でこういう仕事をして頑張っている奴が、この会社を支えていることを覚えておいてくれよ」。
 「あのおじさんが言う『偉い人』とは課長のことだと思いますが、会社を支えているのは現場の人たちだということを一瞬たりとも忘れません。
工場にいても管理業務だけでは、本当の現場はよくわからないでしょう」。
吉永は三鷹製作所の計らいに感謝している。

 今も工場に行くと、若かりし頃フォークリフトを運転していただけに、「懐かしい」そうだ。
生産現場の社員たちの中に、自然に入って行ける。
彼らの気持ちも皮膚感覚で理解できる。
「現場を実際に経験して、得をしています」と言う。

〔無駄足でも名刺を置いて回った〕
ターゲットを決めると、半年あまり、毎日、同じ場所に無駄足でも、「福岡スバルの吉永です」と名刺を置いて回った。

 入社3年目のセールス出向では、「行ったことのない遠い所に行きたい」と希望した。
願いがかなって九州の福岡スバルに赴いたが、西日本では「スバル」の知名度は低く、難しい市場だった。
飛び込みセールスに精を出したが、案の定、売れない。
2カ月半あまりたって、やっと待望の1台が売れた。
無駄足でも名刺を置いて回った

 それまで「セールスの仕事が嫌になるというより、焦りましたね」と語る。
来る日も来る日も売れなくて、「途中から真っ青ですよ。
もしも3年間の出向期間中に1台も売れなかったら、オレの人生はどうなるんだろうと思いました」。
 1台売れたといっても、また一からである。
他のセールスマンとお客を取り合うような競争はしたくない。
違う方法を考えた。
複数メーカーの車を売る業販店や農協に販路を開拓すれば、安定的に売ってもらえる。
しかしそこには当然、他のメーカーが既に入っている。
ターゲットを決めると、半年あまり、毎日、同じ場所に無駄足でも、「福岡スバルの吉永です」と名刺を置いて回った。

雨の日もずぶ濡れになって1日も欠かさず顔を出し続けた吉永に声がかかった。
相手にしてくれなった係長の方から「もういいから、こっちに来い。オレが売ってやるから」と言ってくれた。
「ラッキーでしたね」と吉永は言うが、もちろん棚からボタ餅ではない。
努力が実ると、月販5台のノルマは楽に達成できた。
 フォークリフトでの部品の運搬作業に自動車セールスという、いわば泥臭い仕事を続けている吉永に、友人たちは「早く辞めた方がいい」と勧めた。
しかし、しんどい仕事だったが、本人は「自ら望んでメーカーに就職したのだから当たり前」と、ポジティブにとらえていたそうだ。

見込まれている実感があったから3人分働けた
 本社勤務になってからも猛烈に働いた。
国内営業本部の営業管理課で3年過ごし、入社9年目に販売企画部企画課に異動する。
国内営業の企画を担う業務で、「そこから私は企画的な仕事になって行くのです」と吉永は言う。
数カ月たつと、3人分の仕事を任された。
実際に2人を他に異動させたので、掛け値なしに3人分の仕事である。
 さすがに驚いたが、「君ならできる。3倍働けば大丈夫だよ」と課長は太鼓判を押した。
おかげで「もう酒を飲みにも行けず、毎晩、本社ビルが閉まる11時45分ぎりぎりまで仕事ですよ」。
予算の策定、販売目標台数の管理、販売奨励金の立案といった仕事を、1人でこなし、忙しさは尋常ではない。

 頑張れたのは、能力を見込まれての措置だと感じていたからだろう。
吉永に訊くと、「思えば、その課長に見込まれていましたし、その上の部長、さらに本部長にも見込まれていました」と顧みる。
本来業務に加えて、本部長だった松崎常務から頻繁に仕事を出された。
 「毎日のように与えられた宿題を仕上げて、常務に持って行くと、出来の悪さを指摘され『こんなこともわからないのか』と怒鳴られっぱなしでした」。
これが半年も続いて、ようやく合格点をもらえた。
以後は吉永が管理職になってからも、書類の決裁を求めると、即座に判を押してくれた。

〔「課長の分際でなんだ」となった末の栄転〕腹の座った先輩、上司のおかげで救われた。
 仕事を通じての手荒いしごきには、人材を育てたいという思いがこもっていた。
吉永は「先輩方に恵まれました。
しこたま叱られて鍛えられ、本当に有り難いことです」と受け止めている。
「課長の分際でなんだ」となった末の栄転
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④ したがって柔なイエスマンではなく骨っぽい人材を求めていたようだ。
当時の尊敬すべき上司たちについて吉永はこう語る。

「志が高くて、かつ悔しい思いをした先輩が何人もいました。昭和29年(1954年)に富士重工の自動車部門に入った人たちは、今のような業界で最後尾の会社に入ったのとはわけが違います。当時は、どこが自動車産業の覇者になるのか決まっていなくて、富士重工も今のトヨタになれたかもしれないのです」。
 販売企画部の企画課長の時に、吉永は役員とぶつかった。
ある指示が納得できず、実務の担当者として拒否した。
「課長の分際でなんだ」と当然なる。
それでも「会社のためにならない」と従わないため、出されることになった。
普通の左遷であれば、今日の吉永はなかった。

 ところが松崎らの助力で、総合企画部に移ることができた。
会社全体の経営企画の仕事に代わったのだから左遷ではなくて栄転である。
「こんなことは自分ではできません。私はただのサラリーマンですからね」。
吉永の言う通りで、腹の座った先輩、上司のおかげで救われた。
 5年間常務会の事務局を担当して会議に毎回出て書記を務めた。
最高意思決定が実質的にどのように行われるのか、垣間見るまたとない機会を得た。

〔危機感を持つ仲間3人と執行役員に〕「人間の社会には妬みとか嫉みがあるから1人だけ目立つのはよくない」
 サラリーマンにしては破天荒な性格で、それが如実に現れたのは、2005年に51歳で執行役員になった時の経緯である。
人事担当の伊能専務執行役員も吉永を買っていた。
「伊能さんは、心配しなくていいからどんどんやれと発破をかける親分みたいな人でした」と吉永も信頼していた。

危機感を持つ仲間3人と執行役員に
 その伊能が「君は1人だけで執行役員にならない方がいいな」と言う。
「人間の社会には妬みとか嫉みがあるから1人だけ目立つのはよくない」というわけだ。
そんなことがあって1年あまりたったころ、伊能が「この会社をどうしてもいい会社にしたいから、執行役員をやれ」と言いだした。
 川合がいったん立て直したものの、再び富士重工は業績が低迷していた。

吉永は「会社を変えろと言われても、私1人が頑張っても無理ですよ。私も含めて4人くらい一緒に執行役員にしてくれないと、力になりません」と注文を付けた。伊能は「そうか。あと誰だ?」と、まともに訊いてくれた。
 実は吉永は「このままでは会社はつぶれてしまう」と、ともに危機感を持つ仲間3人と夜な夜な集まり、どうすべきか議論していた。
経営企画の吉永と、商品企画の武藤直人、技術の馬渕晃、製造の鴨川珠樹の4人で、それぞれの分野で実務を担うキーパーソンである。
このメンバーの名前を伊能に話した。
そろって執行役員になって力を合わせれば、経営改革を推進できると思い描いていたのだ。

 次の役員人事の季節が来て、「そうしたからな」と伊能から密かに告げられた。希望通り4人を執行役員にするという。
「すごいなと思いましたよ」。
さすがの吉永も驚いたらしい。
竹中恭二社長に呼ばれて、「執行役員をやってくれ」と内示された時、4人は既に知っていた。
「その晩、飲み会を予定していて、4人で酒を飲んで『あいつら、おかしいんじゃないかと言われるくらい働こうな』と話し合いました。本当に働きましたよ」。
その時のことを吉永は鮮やかに覚えている。

〔女子社員に「当たり前じゃないですか」とどやされた〕誰にもこびず、おごらず、地のままを通してきた。
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⑤吉永には安閑としていられない事情がある。
社長になって4年あまり、「業績は非常によい状態ですが、本当の意味でよい会社と言えるでしょうか」と自問する。

「スバルは一流のブランドになったかというと、その入り口にやっと立てただけだと思います。米国ではスバル車を初めて買うお客様が6割です。そうしたお客様に『買ったはいいが、いまいちだね』と思われたら、続きません」。
具体的には、スバル車の購入者が満足するサービス体制の強化である。

 女性社員たちと食事をした時、「後継者を間違えたら駄目ですよ」と釘を刺された。
「そうなの?」と言ったら、「当たり前じゃないですか」とどやされた。
「ここまでみんなが遠慮なく言える社風もすごいなと思いましたよ」と、吉永は楽しそうに語る。
誰にもこびず、おごらず、地のままを通してきた。そして、これからも。


【平蔵の独り言】
車歴 ブルーバード510SSS → 足のいい奴 カリーナ・カリーナサーフ → ・・・・・→ HR-V

サアーて、そろそろ 次(乗りたい車がない!)
“俺は車だ” と顔をしているのがない。

ハイブリッドはイヤ!(おもちゃのチョロQだ)

辿り着いた「スバルインプレッサ」 →(子供と被った → 先日契約した。3ケ月待ちとのこと)

車を楽しむ、最後の選択になるだろうが・・・・・・

【平蔵の独り言】
誰にもこびず、おごらず、地のままを通してきた。

梶芽衣子”〔:私の様に媚びない、めげない、挫けない、加えて酒飲めない となっては大変。〕

人間“個”を歩くということは同じですね!
自身でよく、「他の男は知らないけれど・・・・・」
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by asanogawa-garou | 2015-12-23 15:39 | 今 今日この頃 | Comments(0)