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〔五木寛之〕嫌老社会:「流されゆく日々、嫌老社会の理想と現実」・【〔ご機嫌なシニア世代を目指せ!〕】   

2016年 02月 27日
〔五木寛之〕嫌老社会:「流されゆく日々、嫌老社会の理想と現実」・【〔ご機嫌なシニア世代を目指せ!〕】
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①〔団塊スタイル(五木寛之)83歳〕・嫌老社会を超えて

「流されゆく日々、嫌老社会の理想と現実」

【〔ご機嫌なシニア世代を目指せ!〕】
団塊の世代とその一つ上の世代の機嫌が悪いように感じる。

【〔五木寛之〕嫌老社会:「流されゆく日々、嫌老社会の理想と現実」】

だから、年寄りは嫌なんだよな!
いやになっているのは こちらもだ!
「嫌老感」は、まず自分に向けて芽生えるのである。


〔嫌老社会の時代〕
話の話題は80歳が起こすニュース、年金
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〔2015年敬老の日〕80歳以上人口が初めて1000万人を超える
高齢者人口3384万人で過去最多、総人口比は26.7%に
(総人口に占める割合が1/4を超えたのは前年の2014年に続き2年目)
高齢者の就業者数は、11年連続で増加し、681万人と過去最多
就業者総数に占める高齢者の割合は、10.7%と過去最高
(日本の高齢者の就業率は、主要国で最高)
【シルバーウィーク・敬老の日】(80歳以上の高齢者の数が一千万人をこえたという。「人生百年」)〔五木寛之〕

生き抜くヒント( 五木寛之) 週刊新潮2015/10/08 号

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【平蔵の独り言】
気が付いたら“嫌老感”の真っ只中を突き進んでいる。
何か団塊の世代はベビーブーム、高度成長、バブル崩壊、高齢化社会、
自身の意思と関係なく、あえて言えば“神”のみぞ知る。
流れの中に身を置いている。

”いやになっているのは こちらもだ!”
40引いても、50引いても まだ 20(才)も残る。
気が付けば、えっ! そんなに歩いて来たんだ。

身体を動かなくなるし、”よいしょ”と気合いを入れないと一日が始まらない。


「どう解決していけばいいのか?また高齢者たちは今後、社会においてどういう役割を担っていけばいいのか?」
と言っているが、先輩達の元気な生き方を見ながら、今日を歩いている。

小泉今日子(50歳)の特集を見ていたら、
「今日1日が人生“しなきゃと思ったことを明日に持っていけない”小泉今日子50歳」



【〔ご機嫌なシニア世代を目指せ!〕】
団塊の世代とその一つ上の世代の機嫌が悪いように感じる。
〔ご機嫌なシニア世代を目指せ〕逆張りの思考(成毛眞)週刊新潮2016/02/04号

私の上の世代、つまり団塊の世代とその一つ上の世代の機嫌が悪いように感じる。
不機嫌なシニアが量産されてしまっている理由はシニア世代のロールモデルがいなかったことだ。
団塊の世代には先輩が少なかった。
無論、戦争のせいである。
だから、どうしたらいい年の取り方ができるかが分からないまま年を取ってしまった。
日曜朝の放言番組などには不機嫌なシニアが見受けられる一方で、いくらか若いご機嫌なシニアたちもいる。

タモリ70歳、高田純次69歳、稲川淳二68歳、笑福亭鶴瓶64歳、なぎら健壱63歳、所ジョージ61歳。

老人と呼ぶにはまだまだ若い方々もいるが、しかし、今の30代、40代にしてみれば「ああいうシニアにならたい」という憧れの対象であるに違いない。
もちろん、彼らのように肩の力を抜いて、いい加減に生きているように見せるのにも苦労があるはずだが、それでも、自然と不機嫌になるよりは努力をしてご機嫌でいた方がいい。

無論、私の目標は彼らである。
さらに付け加えるならば、不機嫌な人たちが多い団塊以上の方々も今からでも遅くないのでご機嫌方面へと路線変更をした方がいいと思う。

不機嫌な人たちが多い世代だからこそ、ご機嫌な人は目立ち、
それは間違いなく若者から歓迎され、これからの人生が楽しくなる。

それに何より、駅や電車の中で私が心穏やかに過ごせるようになる。

【平蔵の独り言】
老人、高齢者、“「年寄り扱いするな」”に全面対決している自身が気が付けばいる。

〔老〕を生きてきた経験と感じて“嫌われてもいい”と話している自身もいる。
(嫌われれば、逃げていくだろうと自覚している)

元気に活躍している先輩(80歳に近い人から最高100歳(2.26事件を知っている))の話は楽しい。
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by asanogawa-garou | 2016-02-27 15:39 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔高橋幸枝(99歳)現役女医〕(一歩を踏み出す勇気)「第一歩は怖い 踏み出せるかどうかが分かれ目」   

2016年 02月 23日
〔高橋幸枝(99歳)現役女医〕(一歩を踏み出す勇気)「第一歩は怖い 踏み出せるかどうかが分かれ目」  やればできる。
98歳現役医師の“元気に長生き”の秘訣
団塊スタイル/「自分再発見!輝く女性たち」NHK 11月13日(金)20:00

98歳現役女医 髙橋幸枝先生 ~健康長寿のカギは、いつまでも衰えないチャレンジ精神~
テレビ東京 「主治医が見つかる診療所」2015年3月2日放送


〔高橋幸枝(99歳)現役女医〕(一歩を踏み出す勇気)「第一歩は怖い 踏み出せるかどうかが分かれ目」  やればできる。できなければ、どうすればできるか を考えればいい

〔92歳の時、大腿骨を骨折、寝たきりにならないようにリハビリに励んだ。〕
(92歳で大腿骨を骨折したにもかかわらず、寝たきりにならなかったのはどうしても家に帰りたいという執念がそうさせたと仰っています。)
(勇気を奮って踏み出した第一歩、すると嘘のように後は上がることができた。
勇気をもって最初の一歩を踏み出した)

〔(生涯発達)心の面も精神の面も〕死ぬまで、何らかの形で発達(成長)し続けることができる。

〔じゃあ一番苦手な絵に挑戦しよう〕
80歳になった頃、仕事一筋だった人生をふりかえり、
何か趣味を持とうと考えました。

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〔92歳の時、大腿骨を骨折、寝たきりにならないようにリハビリに励んだ。〕(92歳で大腿骨を骨折したにもかかわらず、寝たきりにならなかったのはどうしても家に帰りたいという執念がそうさせたと仰っています。)

〔92歳の時、大腿骨を骨折してしまったのです〕
大腿骨を金属で固定する手術をうけることにしましたが、
年齢を考えると、そのまま寝たきりになることも
しかし懸命にリハビリに励み、
(早く治さなくてはならない、家に帰ってこなくては話にならない)
リハビリの甲斐があって1か月後に退院。
自宅に戻る日がやってきました。

〔精神科医の自宅は3階〕
帰って来て3階の自宅の階段の第一歩を上がる時に震えるぐらい大変だった。
うんと考えてやっと上がって「上がれた!」と思ったの
(勇気を奮って踏み出した第一歩、すると嘘のように後は上がることができた。
勇気をもって最初の一歩を踏み出した)

「第一歩は怖い、踏み出せるかどうかが分かれ目、やってみる、やればできる。できなければ、どうすれぱできるかをまた考えればいい。」


〔(生涯発達)心の面も精神の面も〕死ぬまで、何らかの形で発達(成長)し続けることができる。

“踏み出さねば”生き残れない!


高橋幸枝さんは、神奈川県秦野市にある秦野(はたの)病院の理事をされていて
現在98歳の現役のお医者(精神科)、週に1回をされています。
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②「眠れないときが よくあるけれど」
まあ!あまり眠ろう眠ろうとすると 眠れないのよね
どうでもいいと開き直るくらいだと
知らない間に寝ちゃっているから


〔(生涯発達)心の面も精神の面も〕死ぬまで一生涯、何らかの形で発達(成長)し続けることができる。

“踏み出さねば”生き残れない!

私はね、死と手をつないでいるのよ。
あまり仲は良くないけど。

いつどうなるか分からないけど。
そろそろ辞めたいと思っているんだけれど
100歳になっちゃうもの、一世紀だもの

自宅は3階にあります。
自宅の階段はハード、階段は51段「けっこう3階ってあるのよね!」
もう30年以上この階段を使って自宅と病院を往復しています。
年寄りだからと甘えることなく、料理はもちろん自分でできることはやる。
それが高橋さんのもっとうです。

〔じゃあ一番苦手な絵に挑戦しよう〕
80歳になった頃、仕事一筋だった人生をふりかえり、
何か趣味を持とうと考えました。
そして始めたのが“水彩画”でした。
自分では全然描いたことのない、じゃあ一番苦手な絵に挑戦しよう!
「通信教育にこっそり出して(なんで、こっそりと)だってみっともないじゃないですか」
60の手習いならいいけれど、80の手習いじゃ


【平蔵の独り言】
(一歩を踏み出す勇気)「第一歩は怖い 踏み出せるかどうかが分かれ目」
勇気を奮って踏み出した第一歩、すると嘘のように後は上がることができた。

【独り言】
この26日で20年になる。
車いすから平行棒で歩く時、「歩けません。歩き方が分かりません」
→“何でもいいから、歩け!”
(第一歩は覚えていないが、このやり取りの後歩けた!)

この後、“杖を準備して下さい”
暫く杖を使った歩行練習をしていると
“杖を使うな”→「先生、この前杖を買いなさい!」

“杖を使わないで退院させるから”→今、杖を玄関の飾りになっている。

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98歳現役女医 髙橋幸枝先生 ~健康長寿のカギは、いつまでも衰えないチャレンジ精神~

80歳を超えても現役で活躍する名医に学ぶ健康法 第2弾
テレビ東京 「主治医が見つかる診療所」2015年3月2日放送


昨今話題のキーワード「健康寿命」。
これは日常生活を、介護などを必要とせず自立して生活できる期間の事。
これからは、いかに健康寿命を延ばしていくかが、健康長寿でいる為のポイント。
そして、健康で長生きするには、
「認知症にならず、生涯自分の足で歩く」ことが重要。

今回は、80歳を超えてもなお、現役で活躍する名医から、今からすぐにマネできる、
認知症にならず、生涯、自分の足で歩く為の
「健康寿命」獲得のヒントになる健康法をご紹介!

98歳現役女医 髙橋幸枝先生 ~健康長寿のカギは、いつまでも衰えないチャレンジ精神~
◎秦野病院 理事長 髙橋幸枝先生 98歳

<98歳現役女医 髙橋先生に密着>
午前中の診察が終了し、昼食のため自宅へ向かう高橋先生。
すると、51段の階段が…。
エレベーター無しで、自宅のある3階まで上っていく。
98歳とは思えない健脚ぶり。
普段の食事は基本的に自炊。

<髙橋医師 昼食>
里芋の煮付け、サワラの西京焼、大根の味噌漬け、豆の甘露煮、根菜の煮物、小盛のご飯

《髙橋流健康法》
毎食、必ず肉や魚など、タンパク質を摂る。
筋肉を維持するためにも重要な事。
昼食の後、80歳の時から始めた、趣味の水彩画を。
また、90歳の時からは、数字のパズルを始めた。
認知症予防で頭の体操として始めたが、今ではこれを行うと頭が休まるという。

そして最新チャレンジといえば…、98歳でカップ焼きそばデビュー!
「まだ毎日学ぶことがある。年寄りでも甘えちゃいけない。出来る事はする」と語る髙橋先生。

◆98歳現役医師、髙橋幸枝先生の健康長寿の秘訣は、「いつまでも衰えないチャレンジ精神」にあった。

≪番組主治医が選ぶ、髙橋先生の健康法でマネしたいポイント≫
【丁医師】即席焼きそばへのチャレンジ
新しいことへチャレンジする事は、幾つになっても必要。
【森医師】肉<魚 タンパク質を必ず摂る
タンパク質をよく摂っていて非常に元気。
同じ摂るなら、肉よりは魚を多めに摂るのが良い。
【南雲医師】年をとっても心まで年とらない
実年齢の事をつい考えがちだけど、精神年齢だけは若々しくいるべき。


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③自分の足で歩く為の健康法
【平蔵の独り言】
「健康寿命」のために一日の一週間、一月、一年の健康維持、病気との付き合い
が、増えて行っているが、“健康”ならば社会活動にみんなが付き合ってくれている。
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by asanogawa-garou | 2016-02-23 15:55 | 人生の質・人生の息吹 | Comments(0)

【クラマーさん】「人生最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」「次のカマモトを    

2016年 02月 19日
【デットマール・クラマーさん】「人生最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」「次のカマモトを見つけなければ」
 
【デットマール・クラマーさん】「人生最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」

日本サッカーのことを案じ「もう一度、日本に行きたい」

【クラマー氏死去】「次のカマモトを見つけなければ」 日本の「大和魂」を心から愛した

〔"日本サッカーの父"五輪8強導いた言葉の魔術師 デットトール・クラマー氏〕

〔「もう一度、日本に行きたい」〕

〔川淵氏「恩師」〕

<東京五輪後のクラマー氏5つの提言と現状>

〔釜本氏「クラマーさんにサッカーの神髄教わった」『蹴る』『止める』『運ぶ』〕

【川淵氏「人生の恩師」 教え子たち、クラマー氏悼む】



〔「日本サッカーの父」クラマー氏死去 東京五輪8強導く〕
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①1963年に当時の長沼健監督(左)と並んで日本代表の試合を見つめるクラマーさん

〔「人生最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」〕
75年にドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンを率いて欧州のカップ戦を制したときも
「人生最高の瞬間は日本が(68年)メキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」と語った

【クラマー氏死去】「次のカマモトを見つけなければ」 日本の「大和魂」を心から愛した
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②J2福岡のリトバルスキー監督(右)と話すデットマール・クラマー氏=2007年5月、福岡市東区
産経ニュース2015.9.18

 元日本代表コーチで日本サッカー界の発展に尽力し、 「日本サッカーの父」 と呼ばれたドイツ人指導者のデットマール・クラマー氏が17日、ドイツ南部ライトインビンクルの自宅で死去した。90歳だった。
今年初め、体調を崩されたという話は聞いていた。
 2006年7月、ドイツW杯取材の合間にお願いし、オーストリア国境にほど近いライトインビンクルの自宅を訪ねた。
クラマーさんは筋力トレーニング室で汗を流し、
「これが俺の若さの秘訣(ひけつ)だよ」と照れながらウインクしていた。
 当時も離れて久しい日本を真剣に憂えていた。
 「日本は次のカマモトを見つけなければ」
 「技術はあるがゴールを狙っているのか」

 往年の名ストライカーに匹敵する選手の不在を嘆き、低いシュート精度をズバリ指摘した。
 自宅の執務室には日本刀、日本代表の寄せ書きが飾られていた。

75年にドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンを率いて欧州のカップ戦を制したときも
「人生最高の瞬間は日本が(68年)メキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」と語った。
死力を尽くした日本選手の「大和魂」を心から愛した。
 約2時間の取材が終わった。
「おれがタクシーを呼ぶ」とわざわざ電話を入れ、約1時間後に車のクラクションが鳴った。玄関まで送ってくれた「父」は「また、いつでもおいで」と笑った。
 日本は2018年ロシアW杯アジア予選で苦戦している。
もう一度、山間の町に行って「父」の処方箋を聞きたかった。(榊輝朗)

〔"日本サッカーの父"五輪8強導いた言葉の魔術師デットトール・クラマー氏〕
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③出典www.foxsports.com
クラマー氏は1960年、東京五輪を控えたサッカー日本代表を指導するため、
コーチとして来日し、釜本邦茂、杉山隆一、川淵三郎といった往年の名選手を鍛え上げ、
64年東京五輪では日本代表を見事8強へと導きました。
国内リーグの必要性も提言し、65年の日本サッカーリーグ設立に導いた。
その後、アドバイザー的な立場で日本代表を支え、クラマー氏の指導を受けた日本代表は68年メキシコ五輪で銅メダルを獲得しています。

更に、離日する際にはJリーグの前身となる初の全国リーグJSL(日本サッカーリーグ)創設を提言するなど日本サッカーの礎を築いたの重要性を説くなどの提言を残し、サッカーのみならず日本スポーツ界の発展に極めて大きな影響を与えました。
 18日にJFAハウスで取材に応じた日本協会の大仁会長は「インサイドキックを徹底して教えられた。基本が大事なのだと。今の日本のサッカーにも教えは生きている」と話した。
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④67年、検見川のグラウンドで選手を指導するクラマー氏
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⑤05年、日本サッカー殿堂で、レリーフを前に笑顔のクラマー氏(左)と釜本氏

〔「もう一度、日本に行きたい」〕
 関係者によると、クラマー氏は4年ほど前からがんを患い、全身に転移。
何度も手術を繰り返し、最近1年以上は車椅子での生活を余儀なくされていた。
今年6月に都内で開催されたJSL創設50周年記念パーティーへの出席に意欲を見せていたが、医者に止められ断念。
病床で「もう一度、日本に行きたい」と語っていたというがクラマー杯U―13を視察した14年1月が最後の来日となった。

 60年に来日し、日本代表コーチに就任。
インサイドキックなど基礎練習を重視する指導法でチームを強化した。
口が悪かったことでも知られ、通訳を担当していた岡野俊一郎氏が罵声を直訳して泣きだす選手が出たという逸話も残る。
日本協会の大仁会長は「怖かったですし、厳しかったですよ」と振り返った。

 クラマー氏は全国リーグ創設、芝生グラウンドを増やすこと、
国際試合の重要性などを説き、東京五輪翌年の65年にJSLがスタート。
当時の提言は現在の日本サッカーの強化方針にも生かされている。
言葉の魔術師とも称され「サッカーは子供を大人にし、大人を紳士にする」
「タイムアップの笛は次の試合へのキックオフの笛である」など数々の名言も残した。

 07年には息子に先立たれた。
電話で連絡を受けた日本協会の川淵三郎最高顧問は初めてクラマー氏の涙声を聞き
「あなたは日本サッカーの父、あなたの息子は長沼、岡野、私、他にもいる。寂しくなったら日本の息子たちに会いに来てほしい」との手紙を書いたという。
バイエルンMやフランクフルト、西ドイツユース代表の監督などを歴任して母国でも優れた指導者として知られた。
05年に日本協会が制定した表彰制度「日本サッカー殿堂」の第1回受賞者。
周囲には「俺は100歳まで生きるから」と豪語していたが、願いはかなわなかった。

 ◆デットマール・クラマー 1925年4月4日生まれ、ドイツ・ドルトムント出身。現役時代はドイツの複数クラブでプレー。
ケガのために引退して指導者の道へ進み、
西ドイツユース代表監督時代にはベッケンバウアーをユース代表に抜てきした。
60年に日本代表コーチに就任。64年東京五輪8強に貢献し、
68年メキシコ五輪ではアドバイザー的立場で銅メダルに導いた。
その後はエジプト代表、米国代表、ヘルタ、バイエルンM、アルイテハド(サウジアラビア)、マレーシア代表、タイ代表などの監督を歴任。
97年まで現場で指導に当たっていた。
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⑥64年、東京五輪でアルゼンチンを破り、喜ぶ日本選手。右から2人目がクラマー氏
[ 2015年9月19日 05:30 ]

〔川淵氏「恩師」〕
[2015年9月19日7時12分 紙面から]
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⑦60年10月、日本代表を初指導するクラマー氏(左)。右は指導を受ける川淵三郎
60年に来日し、日本代表のコーチに就任。
64年東京五輪8強、68年メキシコ五輪では銅メダルに導いた。
組織や指導法など残した5つの提言が、その後の日本サッカーの礎となった。

 クラマー氏の死を、日本サッカー界が悼んだ。
今年6月に行われた日本リーグ発足50周年パーティーに出席できなかった際「体調がよくないらしい」という話は伝わっていた。
それでも、日本にとっての大恩人が他界したショックは大きい。
「今日の日本サッカーは、クラマーさんから始まった」と、日本協会の大仁邦弥会長は話した。
 指導者として、超一流だった。
60年にコーチに就任すると代表選手たちにボールの蹴り方から教え、基本を植え付けた。
64年東京五輪で8強進出に導いて日本を離れたが、その後も特別コーチとして指導。
68年メキシコ五輪で銅メダルに輝いたのは「クラマーの息子たち」だった。
 もちろん、日本だけでなく母国ドイツで、そして世界中で手腕を発揮した。
世界90カ国以上でサッカーを教え、Bミュンヘン監督として欧州チャンピオンズ杯(現欧州CL)連覇も達成した。
指導者として栄光に包まれながらも常に日本のことを気にかけ、何度も来日しアドバイスした。
「技術指導」だけではないクラマー氏の思いが、今の日本サッカーを形作った。
 64年東京五輪後に日本を離れる時、クラマー氏は5つの提言を残した。
リーグ戦の重要性を説いたことが翌65年の日本リーグ創設につながった。
当時、日本のスポーツ界はトーナメント戦が主流で、全国リーグという考えはなかった。
サッカーの後にバレーやバスケなどが次々と日本リーグを創設。
クラマー氏の考えは日本のスポーツ界にも大きな影響を残した。
 指導者育成や練習環境の整備、選手強化の方法など当時としては革新的なアイデアだった。
50年以上たって当然のようになったが、クラマー氏の教えを受けた長沼健(故人)、岡野俊一郎両氏らが中心になって改革を進めてきたからこそ、サッカーは日本スポーツ界の先陣を切れたのだ。
 選手のプロ化、プロリーグ化も、その延長。
Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎元日本協会会長は「人生そのものを教えてくれた恩師」と仰いだ。
日本サッカーの礎を築いたからこそクラマー氏は多くの人に愛され「日本サッカーの父」と呼ばれた。
その遺志を忘れず、さらに日本サッカーを発展させていくことが、最大の親孝行になる。

<東京五輪後のクラマー氏5つの提言と現状>
 (1)国際試合の経験を多く積むこと
→積極的な遠征やスポンサーの獲得などで試合数は急増した
 (2)高校から日本代表まで各2人のコーチを置くこと
→監督、コーチの他に多くのサポートスタッフが付き、環境を整えた
 (3)コーチ制度を導入すること 
→ライセンス制度導入によりSからDまでの公認コーチを誕生させた
 (4)リーグ戦を開催すること
→65年に日本リーグ発足。これをもとに93年にJリーグを誕生させた
 (5)芝生のグラウンドを数多くつくること
→小学校の校庭芝生化に取り組むなどで芝生のグラウンドを増やした

〔釜本氏「クラマーさんにサッカーの神髄教わった」『蹴る』『止める』『運ぶ』〕
[2015年9月19日7時47分 紙面から]
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⑧67年9月、メキシコ五輪予選のフィリピン戦で6得点を挙げた釜本
 元日本代表で1968年メキシコ五輪で得点王を獲得した「日本最高のストライカー」釜本邦茂氏(71)が、恩師のクラマー氏への思いを語った。
16歳で出会い、サッカーがうまくなるための礎を築いてくれた教えは、すでに日本のサッカー少年・少女へと伝授している。
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⑨関西の社会人と大学生の合宿に参加し、クラマー氏の指導を受ける山城高2年時の釜本邦茂氏(左)(釜本氏提供)
 「初めて会ったのは16歳や、高1。あの出会いがなかったら、ストライカー釜本邦茂はいなかったかもしれん。本当に感謝です」。
 60年秋。京都・山城高1年だった釜本氏は、指導者講習で全国行脚していたクラマー氏に出会った。
釜本氏の存在を知ったクラマー氏が希望して組んだ、関西選抜の講習会だった。
 「日本代表だけでなく、高校時代も大学時代も、ずっと気にかけてくれた。中学まではサッカーがどういうスポーツで、どうトレーニングすればいいかなんて教わったことなかった。プロ野球選手になろうと思っていたくらいだからね。サッカーの神髄を教わりましたよ。こういうことをすれば賢く、うまくなれますよってね」。

 指導は基本の繰り返しだった。
「言うことはいつも一緒。『蹴る』『止める』『運ぶ』それを、いかに速く正確にやること」。
当時の日本にもっとも必要なことをしっかり伝えてくれたドイツから来た伝道師だった。
「今何をしたらいいのかという、頭の良さや的確な状況判断は、それが出来れば、自然と体が動くんだとね」。
釜本氏は定期的に全国を回ってサッカー教室を行っている。
「私が子どもたちに言うことはクラマーの教えをそのまま伝えていますよ。基本は何十年たっても変わらんよ」。
指導された情景を思い浮かべるように懐かしんだ。
 練習中は非常に厳しく、ピッチ外では何でも相談に乗ってくれる父親のような存在だった。
だが、サッカー選手としての生活習慣だけは妥協を許さなかった。
日本代表のドイツ遠征中、試合後のレセプションで、カミナリを落とされたことがあった。
 「試合の後だからおいしいじゃない。代表メンバーみんなで冷たいビールを一気飲みしたんよ。そうしたら『おい、外出ろ』ってね。『まずはお茶でも飲んでからだ』ってね。それはもう怖かった」。
 胃が小さくなった時の体への負担を考えた愛情だ。すべてはサッカーのため。
最後に会えたのは3年前、日本でのパーティーだった。
「元気にしているのかって、声をかけてくれた。残念です」。
クラマー魂は、釜本氏も受け継いでいく。【鎌田直秀】

【川淵氏「人生の恩師」 教え子たち、クラマー氏悼む】
2015年9月19日05時02分
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⑩1964年の東京五輪でアルゼンチンに勝ち、杉山隆一選手(左)らと喜ぶクラマーさん(中央)=1964年10月14日、駒沢競技場

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⑪1964年東京五輪チェコスロバキア(当時)戦でのクラマーさん(左)=1964年10月18日、駒沢競技場
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⑫2007年に来日した際、子どもたちを指導するクラマーさん
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⑬半世紀以上の付き合いだったクラマーさん(左)と賀川浩さん=賀川さん提供
 17日に90歳で亡くなった日本サッカーの父、デットマール・クラマーさんの指導を受けた教え子たちは、恩師の教えを引き継いで、日本のサッカーの発展に力を注いだ。クラマーさんは50年以上、日本との絆を大切にしていたという。

〔「日本サッカーの父」クラマー氏死去 東京五輪8強導く〕

 日本代表コーチとしてクラマーさんの教えを受けた元IOC委員で元日本サッカー協会会長の岡野俊一郎さん(84)は「彼は僕を弟と呼ぶ、兄弟の関係でした。今年に入ってからも電話で何度か話して、『日本にもう一度、車いすでも行きたい』と言っていたのに、残念だ」と話した。
 日本のサッカーに科学を持ち込んだ一方で、スポーツマンとしての心構えも教えた人だったという。
「負けたら終わりの大会方式ではなく、リーグ戦の導入を提唱した。1964年東京五輪後にサッカーで日本リーグが誕生したのはクラマーさんの助言があったからです。その後、アイスホッケー、バレー、バスケット、卓球、バドミントンと、多くの競技が日本リーグを作った。日本のスポーツ界への功績は計りしれません」と岡野さんは話す。

選手として64年東京五輪8強を果たした川淵三郎・日本サッカー協会最高顧問(78)は「サッカーだけでなく人生そのものを教えて下さった恩師。
日本はアジアの弱小国だったが、選手を一人前の紳士として扱ってくれた。
心から感謝しています。安らかにお眠り下さい」と日本協会を通じてコメントした。クラマーさんが日本を離れてからも、助言や励ましの電話をもらっていたという。
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⑭05年、日本サッカー殿堂で、レリーフを前に笑顔のクラマー氏(左)と釜本氏

 日本協会の釜本邦茂顧問(71)は当時の指導をふりかえり「日本代表に入ったばかりのころ、『大和魂を見せてくれよ』と檄(げき)を飛ばされた。
試合終了のホイッスルが鳴るまであきらめないで倒れるまで戦い抜け、という意味だ。
自分は今でも子供たちにサッカーの指導をするときにはその精神を伝えている。
自分にとってもクラマーさんは父のような存在だった」と話した。

〈バイエルン・ミュンヘンのカールハインツ・ルンメニゲ会長〉
 「クラマー氏は多くの人にとってスポーツ界の人物以上の存在だった。私にとっては父親みたいな存在で、若い頃、プロ選手としての私に大きな影響を与えた。サッカー選手として成功できたことに感謝しないといけない。バイエルンは偉大なコーチ、特別な人物が亡くなったことに深い哀悼の意を表したい」

〈ドイツサッカー連盟のウォルフガング・ニールスバッハ会長〉
 「クラマー氏はドイツサッカーの親善大使として世界に広く認知されていた。彼の専門知識により、どこに行っても称賛されたし、ファンを愛し、慕われる人物だった。クラマー氏の成し遂げた仕事に大きな敬意を抱いている」

〈日本協会の大仁邦弥会長(70)〉
 「クラマーさんがいなかったら今の日本サッカーの発展はなかった。怖くて厳しかった。インサイドキックを徹底して教えてくれた。基本を教えられ、志も教えてもらった」

〈メキシコ五輪銅メダリストの松本育夫さん(73=現・日本サッカー後援会理事長)〉
 「1960年に自分が日本代表に初選出された時から、55年間、サッカーの師であり、人生の師だった。片腕をとられたような気持ちだ。指導は基本を徹底して、いつの時代にも通用するものだった。今の日本の若い指導者にも受けてほしかった。印象の残るクラマーさんの言葉は『物は目でなく、心で見ろ。耳でなく、心で聞け』。自分が指導者になってからの心構えになった」

〈国際サッカー連盟会長賞を受賞したサッカーライターの賀川浩さん(90)〉
「今年1月、国際サッカー連盟の表彰式でスイス・チューリヒに行った帰りに、ドイツのクラマーさんの自宅に寄って会ったのが最後になった。
彼は僕より半年若く、『2人で90歳のトークショーを日本でやろう』と話していたのに。
彼が1960年に指導者として来日してから半世紀以上の付き合い。
日本代表の強化だけでなく、子どもたちに基礎を教えるのも上手だった。
64年東京五輪では指導者の若返りを進言し、当時30代だった長沼健さんや、岡野俊一郎さんを監督、コーチに推した。
そうした教え子たちが、クラマーの薫陶を受け、日本サッカー界の発展に尽くした。偉大な恩人です」

■J全試合で黙禱へ
 Jリーグは18日、クラマーさんの死を悼み、19、20日に行われるJ1、J2、J3の全試合で黙禱(もくとう)すると発表した。

【平蔵の独り言】
昭和39年東京オリンピックは戦後の流れのままに
アベベのローマの石畳に続いてマラソン2連勝、
円谷が国立競技場のトラックでヒートリーに抜かれたが
陸上唯一のメダル(銅メダル)
自身はいつ終わるとも知れない棒高跳びを眺めていた。

しかし、メキシコのサッカー銅メダル、ストライカ-釜本!
サッカーって何だ!
クラマーさんを知る。そして今も記憶に残る!

西が丘サッカー場で休日、関東大学リーグを日長一日ルールもあまり詳しく
理解しないで観戦していた。

【平蔵の独り言】
 当時も離れて久しい日本を真剣に憂えていた。
 「日本は次のカマモトを見つけなければ」
 「技術はあるがゴールを狙っているのか」

【独り言】
 「技術はあるがゴールを狙っているのか」
  ゴール近くまで行くが、シュートを打たずにパス

 2016年、今年のオリンピック世代(U-23)をゴールを狙っている・・・・・
 AFC U-23選手権 カタール 2016 対韓国 3-2(後半3点)
 逆転勝利でアジア王者に!
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by asanogawa-garou | 2016-02-19 13:57 | サッカー | Comments(0)