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戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌。最愛の女性 五十回忌機に心境   

2017年 01月 19日

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。
<円谷幸吉>最愛の女性 五十回忌機に心境

河北新報 1/15(日) 12:31配信
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①「いちずな人でした」と円谷の思い出を語る女性

 1964年東京五輪マラソン銅メダリストの円谷幸吉(須賀川市出身、1940~68年)には、結婚を考えながら68年のメキシコ五輪前に破談になった女性がいた。
円谷の五十回忌を迎えたのを機に、女性が河北新報社のインタビューに応じた。

【円谷幸吉】ひたむきな姿 後世に
 女性は円谷の1歳下で福島県在住の74歳。
高校を卒業した円谷の最初の配属先、陸上自衛隊郡山駐屯地で62年まで1年間共に勤務した。
円谷の一目ぼれだったようで、遠征先で買ったかすりなどの民芸品の土産や手紙がこまめに送られてきた。
 「よく、にこにこして私がいた厚生課に顔を出していました。とてもいちずで、真面目な人柄。何事にも一生懸命だった」と振り返る。
 円谷の遺体が発見された68年1月9日のことはよく覚えているという。
「風が強い日で午前2時ぐらいに、住んでいたアパートの窓ガラスを人がたたくような音がしたんです」
 腰の手術をした実母が痛みが取れず苦労したのをそばで見ており、「(椎間板ヘルニアで悩んでいた)円谷さんのつらさはよく分かる」と言う。
円谷の訃報に接し「気の毒だと思った。周りに、(選手を)やめるように言ってくれる人がいなかった」と思いやる。
 66年、2人の縁談は自衛隊体育学校長が結婚時期や式場の場所で横やりを入れたことをきっかけに白紙となった。
女性は翌年秋、地元の男性に求愛されて結婚。
「私も自衛隊にいたから分かるが、結婚でも何でも、当時は上官には逆らえない雰囲気があった」
 3年半後に再び巡ってくる東京五輪に向け「野球・ソフトボールを被災地である福島県でぜひ開催してほしい。他の競技でも円谷さんのように、国民を元気にするような活躍を期待しています」と話した。

<円谷幸吉>破談を機に 心身疲弊
2017年01月14日
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②東京五輪マラソンで銅メダルに輝き、古里でパレードをする円谷(中央)=1964年11月、須賀川市中心部

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)

〔別れ/「国民的英雄」故の苦しみ〕

 東京五輪で国民的英雄になった円谷幸吉(須賀川市出身、1940~68年)。
祝賀会、招待レースと多忙を極めた。
自衛隊体育学校の同僚だった宮路道雄(79)=千葉県八街市=は当時の状況を「円谷は全自衛隊の代表。自衛隊が国民に溶け込む役目を期待されていた」と説明する。

<恩師が札幌へ異動>
 そんな中、問題は起きた。最愛の女性との別れだ。
 郡山駐屯地の元同僚。五輪前から手紙を送るなどして愛を温めてきた。
63年のニュージーランド合宿では帰途にダイヤモンドの指輪を買った。
姉の岩谷富美子(82)=東京都=は「弟はにこにこ顔で『婚約指輪はいつ渡せばいいの?』って言っていました」と思い出す。
 東京五輪から1年半たった66年の春。
体育学校の新しい校長が円谷の結婚について話し合うため、円谷家や相手方の親族に声を掛け、ある席を設けた。幹部候補生学校に進んでいた円谷は欠席した。

 円谷の遺族らによれば、校長は席上、
「メキシコ五輪が終わるまで結婚は反対」
「世界の円谷と結婚する覚悟はあるのか」
「五輪前にどうしても結婚と言うのなら式場は東京」などと主張。
これに円谷の父幸七が反発した。「地元でやる」

 校長と円谷家側のやりとりは平行線をたどるばかり。
女性側は元々、結婚には慎重で「上官が反対するのなら」とこれを機に縁談の白紙を申し入れた。
 この件で円谷寄りの姿勢を取ったコーチの畠野洋夫(故人)は校長と衝突し間もなく札幌へ異動。
円谷は恩師さえも失った。
 この頃、円谷が古里の長兄に宛てた手紙に心情を赤裸々につづっている。
「公私を混同された学校長のもとではやれない」と怒り、
自衛隊に対しても「方々を引っぱり廻して英雄視させる」と不満をぶちまけた。
 さらに引退もほのめかした。
「一応次の目標を目指すとは云ったものゝ(中略)疲労こん敗でいさゝかの余裕すらありません」
「各方面からの期待はありましても、一線クラスとしてこれ以上続けるには無理」
「一般部隊へ行ってのんびりした気持で若者達と純すいな気持でやりたいと云うのが私の夢」

 後に体育学校長も務めた同僚の三宅義信(77)=宮城県村田町出身=は回想する。
円谷は心身が疲弊しきっていて、「『この際、引退して指導者になった方がいい』って助言した」。
さらに「円谷は管理されていた。自分で決められなかった」と同情する。

<過度な練習で故障>
 失意の円谷は66年9月に幹部候補生学校を卒業。
思い詰めた表情で郡山駐屯地を訪れ、かつて陸上部創設で力を合わせた斎藤章司(83)=郡山市=に「メキシコへ向けた第一歩として、昔の練習コースを一緒に走りたい」と言った。
約10キロ。少しだけ笑顔が戻った。
2人が会ったのも伴走したのも、これが最後だった。

 君原健二(75)=北九州市在住、当時八幡製鉄=が円谷と最後に対決したのは67年5月の全日本実業団選手権。
円谷は5000メートル、1万メートル、2万メートルと2日間で4レース(予選含む)をこなした。
控室では「メキシコで日の丸を揚げ、国民との約束を果たす」と話したという。

 君原には円谷がもがいているように見えた。
「異常な出場数。(円谷の)焦りを感じた。メキシコでの金は国立競技場で抜かれたことの国民へのおわびだったのでは」と思っている。
 円谷の体は悲鳴を上げていた。遅れを取り戻そうと過度な練習を重ねた結果、椎間板ヘルニアが悪化し、アキレス腱(けん)も部分断裂。
8月に手術し入院は3カ月にも及んだ。だが、思うように回復しなかった。

 67年12月、衝撃的なニュースが飛び込む。
福岡国際マラソンでクレイトン(オーストラリア)が2時間9分36秒4の記録で優勝。
ついに9分台に突入した。
 年末、孤独なランナーは敗北感に打ちひしがれながら古里に帰る。(敬称略)

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)
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③円谷幸吉メモリアルホール

〔2万mの世界記録破る〕

 円谷幸吉(1940~68年)は陸上自衛隊の郡山駐屯地(福島県郡山市)時代、ランナーとして着実に成長を遂げる。5000メートルで60年熊本国体5位、61年秋田国体2位。秋田国体1カ月後の青森東京駅伝では3区間を走り、計15人抜き、全て区間新という離れ業をやってのけた。

<環境整い練習没頭>
 円谷は翌62年、自衛隊体育学校が五輪選手養成のために新設した特別体育課程に入る。陸上に専念できる環境がようやく整った。
 朝日新聞社で長く陸上記者を務めた三島庸道(86)=東京都=によると、円谷を一流選手に押し上げたのは体育学校コーチの畠野洋夫(故人)だという。「円谷はがむしゃらで周りが見えない。褒め上手で緻密な畠野が必要だった」
 畠野は現役時代、無名の長距離選手であった。だが、陸上競技連盟やライバルのコーチにも頭を下げ、練習法を独自に学んだ。身の回りの世話や腰の持病の管理もきちんとやった結果、円谷は練習に没頭できた。記録更新が続き62年の日本選手権は5000メートル、1万メートルで大会新で優勝を飾る。
 トラックで活躍する円谷への注目が高まる一方で、周囲ではある意見も出始めた。マラソンへの転向だ。
 28年アムステルダム五輪三段跳び金メダリストで、東京五輪の陸上日本代表総監督を務める織田幹雄(故人)は60年ローマ五輪の記録を見て、マラソンが耐久レースからスピード競走の時代に入ったと認識していた。「ロード出身の選手は東京で勝てない」。円谷が鍵を握る選手に見えた。

<織田ら強力後押し>
 織田は地ならしを始めた。マラソンとトラック関係者との間にあった垣根を、陸連の選手強化指導本部長としてより低いものとした。今でこそトラックもロードも走る選手は当たり前だが、当時ではほとんど例がなかった。いわば外堀を埋めた形とし、あとは円谷の成長を待つばかりだった。
 織田の強力な後押しで、円谷はトラック選手ながら東京五輪前年の63年、陸連によるマラソン組のニュージーランド合宿に参加。記録会で、ザトペック(当時チェコスロバキア)が持つ2万メートルの世界記録を破った。日本人があの「人間機関車」を抜いた-。世界が衝撃を受けた。円谷はスピード時代に対応できる世界レベルの選手に成長した。
 最後にプッシュしたのは、同じ東北生まれで53年ボストンマラソンを制した山田敬蔵(大館市出身)だった。
 実は61年の青森東京駅伝で円谷と同じ区間を走り、抜き去られた経験を持つ。
先を疾走していく円谷の姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。
東京五輪のマラソンを心配する山田は64年に入って間もなく自衛隊体育学校を訪れ、校長に円谷のマラソン転向を進言した。
 山田のあまりの熱弁ぶりに校長が折れた。
円谷の遠征先に電話して意向を確認すると、きっぱりと「ぜひ、やってみたい」。
記者の三島は回想する。
「山田さんは『東北からすごい若手が出てきた』とうれしそうに話していましたよ」
 円谷は後日、三島に「どうしてマラソンをやる気になったのか」と聞かれ、こう答えた。
「日本人が世界で戦うにはマラソンしかないじゃないですか」。
三島は「もともとマラソンへの憧れがあったが、ニュージーランドの成功で自信が付いたようだ」とみる。
 円谷は以後、マラソンで中日名古屋5位、毎日2位となり、五輪代表となる。代表3人は粘りの君原健二(75)=八幡製鉄=、経験の寺沢徹(82)=倉敷レイヨン=、そして「スピードの円谷」と称された。(敬称略)

<円谷幸吉>3位転落 歓声 悲鳴に
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④東京五輪マラソン。国立競技場のゴール直前でヒートリーの猛追を受ける円谷。気力だけで走っていた=1964年10月21日
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⑤東京五輪マラソンの入賞者と日本選手

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)

〔東京五輪の重圧/マラソン 異様な盛り上がり〕
 アジア初の五輪。1964年東京大会は戦災復興を世界にアピールする国家プロジェクトだった。国民は、その晴れの舞台を心待ちにした。

<冷静さ失った君原>
 マラソンは今も昔も五輪の華だ。それが日本開催となれば、国民やマスコミの熱狂ぶりは尋常ではなかった。メダルを期待されながら8位に沈んだ君原健二(75)=当時八幡製鉄=。その後メキシコ、ミュンヘン大会を経験し、「東京は異様な環境の中での戦いだった」と語る。
 「ステート・アマ養成機関」ともやゆされた自衛隊体育学校特別体育課程。在籍する円谷幸吉(福島県須賀川市出身、1940~68年)にとって入賞は「任務」でもあった。
 体育学校の同僚で後に校長を務めた重量挙げ金メダリスト三宅義信(77)=宮城県村田町出身=は振り返る。「自分のために戦う意識はなかった。国のためであり、金メダルは自分の使命だった。その責任の重さは半端じゃなかった」
 長距離で五輪代表から漏れた体育学校の同僚、宮路道雄(79)=千葉県八街市=は上官から「とにかく、国立競技場に日の丸を揚げたい。円谷に協力してくれ」と言われたのを覚えている。「自衛隊を国民に浸透させる目的もある」。そういう認識だったという。
 マラソン代表3人はレース1週間前、ざわつき始めた選手村を離れ、神奈川県逗子市で調整した。
 間もなく「本命」君原が自分を見失う。練習を終えると、電車で2時間かけ東京へ行き、各競技を観戦した。体がもたないとコーチが判断し、君原と寺沢徹(82)=当時倉敷レイヨン=は選手村に戻った。落ち着きのない行動は直前まで続いた。「完全に舞い上がっていた」と君原。一方で「円谷さんは冷静だった」とも。
 円谷は掛け持ちの1万メートル出場が奏功したといえる。6位。トラック種目で28年ぶりの五輪入賞。大舞台での大健闘に肩の荷が軽くなった。コーチの畠野洋夫(故人)は緊張をほぐそうと円谷に「これで責任の大半は果たした。マラソンは君原に任せろ」と伝えた。

<高速レースに疲弊>
 10月21日、どんよりとした曇り空の下、マラソンが始まった。序盤から高速レースの様相を呈した。金メダルは予想通りアベベ(エチオピア)。世界最高記録による2連覇だった。
 観衆の目は2位以下の争いに注がれた。円谷は25キロ地点で4位、30キロで3位通過、36キロで2位に浮上し、そのまま国立競技場へ。しかし、経験のないハイペースでスタミナは限界だった。第3コーナーで後方からスパートしてきたヒートリー(英国)に抜き去られた。歓声は悲鳴へ。抜き返す力はもうなかった。
 レース後、宮路は円谷から聞いた。「(ヒートリーの存在を知らせる)観客の叫びは『頑張れ』という声援にしか聞こえなかった」
 あの時、円谷は一度も振り返っていない。「後ろをきょろきょろ見るような、めぐせえ(見苦しい)ことはすんな」。少年時代の父の教えが耳に届いたのだろうか。
 記者会見で円谷は「メキシコ五輪で雪辱したい」と言った。傍らで畠野は「あと4年たてば、ちょうど年齢的にトップの時」と補った。
 銅メダルとはいえ、競技場で敗れたレース。栄光の陰で24歳の円谷は途方もない期待の重さに悩まされていく。(敬称略)

<円谷幸吉>孤独な走者 にじむ焦燥感
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⑥自衛隊体育学校時代の円谷(右)と神立さん=1966年12月、東京都練馬区の自衛隊体育学校
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 1964年東京五輪マラソンの銅メダリスト、円谷幸吉(福島県須賀川市出身)が自死の1カ月前に友人の神立修司さん(73)に宛てた手紙は何を物語るのか。
手術しても好転しない腰の持病と、迫ってきたメキシコ五輪の代表選考レース。
手紙からは焦燥感に耐える「孤独な長距離走者」の苦悩が透けて見える。
 腰の痛みは幼少期にさかのぼる。
飼っていた秋田犬の散歩中に転んで股関節を脱臼し、関節炎になったという。
その体に激しい練習を重ねた結果、椎間板ヘルニアは終生の病になった。

 「栄光と孤独の彼方(かなた)へ  円谷幸吉物語」(ベースボール・マガジン社)の著者で、円谷と親交があった元新聞記者三島庸道さん(86)=東京都在住=によれば、円谷は67年の術後、経過が芳しくなく、2度目の手術を検討していたという。
 退院後、円谷から「痛みが取れず、マラソンどころじゃない。もう一度手術を受けたい。医者を紹介してほしい」と依頼された。
口止めされたため、今日まで口外しなかったという。

 当時の円谷は練習や生活面の環境でも追い込まれていたようだ。
信頼していた自衛隊体育学校のコーチが札幌に異動したからだ。
メキシコ五輪前の67年、けがを押して出たマラソンで惨敗が続いた。
そんな中で神立さんら中央大時代の学友は、冗談を言い合うような心許せる存在だった。
 円谷がさらにショックを受けたとみられるのがマラソンのハイスピード化だ。
67年12月3日の福岡国際マラソンで、デレク・クレイトン(オーストラリア)が世界で初めて2時間10分の壁を破る2時間9分36秒4という驚異的な記録で優勝し、2位の佐々木精一郎も2時間11分台の日本最高をマークした。
円谷の自己ベストとクレイトンの差は7分近くまで開いた。

 手紙がつづられたのは12月11日で、福岡国際の8日後。
「走れそうにあっても、見通し暗いです」「自分の出来る範囲内でこれからコツコツ積み重ねていってみます」の文面に、痛々しい胸の内が垣間見える。

 円谷の兄、喜久造さん(84)=須賀川市在住=は「私たちも体育学校の最初のコーチも東京五輪で幸吉の体は限界と分かっていた。だから、家族は68年の正月はメキシコ五輪には触れないようにした」と話した。(スポーツ部・宮田建)

●円谷幸吉(つぶらや・こうきち)1940年5月13日、7人きょうだいの末子として福島県須賀川町(現須賀川市)で出生。須賀川市の小中学校、須賀川高を経て陸上自衛隊に入隊。八戸教育隊、第6特科連隊(郡山市)を経て自衛隊体育学校に1期生として入校。64年東京五輪で男子1万メートルで6位入賞、マラソンで銅メダル。自己ベストは2時間16分22秒8。67年3月、中央大第二経済学部を卒業。68年1月9日午前、自衛隊体育学校宿舎で頸(けい)動脈をカミソリで切って死んでいる姿で発見された。享年27歳。

<円谷幸吉>自死1カ月前 再起へ自ら鼓舞
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⑦「走れそうにあっても、見通し暗いです」と苦しい胸の内を率直に友人に打ち明けた円谷の手紙
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 1964年東京五輪のマラソンで銅メダルに輝いた円谷幸吉(福島県須賀川市出身、1940~68年)が、自死の1カ月前に友人に送った手紙が保管されていることが分かった。翌68年のメキシコ五輪出場を目指しながらもけがの回復が遅れて見通しが厳しいこと、ゼロから再出発する決意などが記されている。関係者は、自死前の心境を知る貴重な資料として注目している。
 手紙をもらい所有していたのは中央大第二経済学部(夜間)で同級生だった横浜市の無職神立(かみだて)修司さん(73)。円谷は67年8月に椎間板ヘルニアとアキレス腱(けん)の手術で都内の病院に入院し、11月上旬に退院した。
 手紙は見舞いや見舞状に対する返礼で封書に便箋2枚。退院1カ月後の12月11日に書かれている。投函(とうかん)は所属していた自衛隊体育学校(東京都練馬区)ではなく、大分県の別府駐屯地の温泉療養施設からだった。
 手紙の存在は円谷の死が来年1月で五十回忌を迎えるのを機に河北新報社が取材を進める中で分かった。神立さんや関係者によると、この手紙の公開は初めてとみられる。神立さんは「過去にもらった手紙と比べ、字が乱れている。やはり術後の回復が良くなかったのだろう。後半の文面は自分に言い聞かせる言葉だったように思える」と語る。
 円谷は68年1月9日、自衛隊体育学校の宿舎自室で、「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」という家族宛てと学校関係者宛ての遺書を残し、自死した姿で見つかった。

◎友情感じる交流/「マラソンと日本人」の著書があるスポーツライター武田薫さん(仙台市出身)の話>
 自死のわずか1カ月前に学友と交流があったことを裏付ける貴重な資料だ。手紙の相手は陸上選手でないだけに、2人の交流に友情を感じる。椎間板ヘルニアやアキレス腱(けん)といった深刻な故障を抱えながら、「見通し暗いです」と当時の人気芸人の言葉に心情を託したところに円谷らしさがのぞいている。

<円谷幸吉>国民の心打った英雄
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⑧親族に宛てた遺書
 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)

〔(1)今に生きる/駆け抜けた27年の生涯〕

 冬の風物詩、東京箱根間往復大学駅伝。
陸上の長距離走に親しむ者なら誰もが憧れる舞台だ。
今年、精鋭たちを率いた監督20人のうち5人までが福島県出身者だった。
 駒大の大八木弘明(会津若松市出身)、東洋大の酒井俊幸(石川町出身)、早大の相楽豊(郡山市出身)、日大の武者由幸(相馬市出身)、国士舘大の添田正美(須賀川市出身)。
 ランナーに目を向ければ、往路4区で須賀川市出身の阿部弘輝(明大1年、学法石川高出)が疾走した。
 長距離と福島。関係性を考えていくと、ある人物の姿が浮き上がってくる。

<地元に夢引き継ぐ>
 円谷幸吉(1940~68年)。1964年東京五輪のマラソン銅メダリストで生まれと育ちが須賀川市。
メキシコ五輪が行われる68年の1月9日、所属する自衛隊体育学校(東京都練馬区)の宿舎で右頸(けい)動脈をカミソリで切り、自死した姿で見つかった。
 時に、「明」よりも「暗」を強調される選手でありながらも、地元にはスポーツ少年団「円谷ランナーズ」や「円谷幸吉メモリアルマラソン大会」があり、第2の円谷を育てようという夢が引き継がれている。
 箱根を走った阿部はここから巣立った。
地元の岩瀬郡市陸上競技協会理事長の本田実(65)は「(阿部が箱根駅伝を走り)階段を一つ上ることができた。いつか五輪選手が出ればうれしい」と感慨深げだ。
 なぜ、円谷の名は半世紀たった今も色あせないのか。
瀬古利彦や有森裕子らはどうして生家や菩提(ぼだい)寺にまで足を運び、冥福を祈るのか。
 時計の針を68年に戻す。
社会全体は騒然としていた。
ベトナム反戦運動が国内外で高まりを見せ、全共闘が生まれて大学紛争が激しさを増した。この年、日本は国民総生産世界2位の経済大国になる一方で、公害や交通戦争など高度経済成長のひずみも顕在化した。
 いわば「時代の転換点」での円谷の死だった。

<栄光のメダル重く>
 遺体発見時、都内在住だった姉、岩谷富美子(82)は小さな子をおぶって親族で一番に駆け付けた。6男1女の末っ子幸吉とは6歳違い。
最愛の弟の頬を両手で包み込み、「泣きながらさすった時の冷たさを今も覚えている」。
それは、頼れる人がいなかった円谷の心に触れた、ともいえる。
 当時の河北新報は円谷の死をこう伝えた。
見出しは「重かった栄光のメダル」「故障続きにあせり?」。
東京五輪で国立競技場を埋め尽くした7万5000の大観衆の中、英国のヒートリーに抜かれ3位に後退。
レース後、「4年後のメキシコ大会を目指す」と国民に「約束」したことで、かえって円谷は呪縛に陥ったのか。
 期待の重圧に敗れ去っていく選手は、過去にも今にもあまたいる。
しかし、円谷は想像もできないほどの栄光を極め、やがて誰も経験したことのない挫折感に打ちのめされた。
人はそのことを知っている。
だからこそ、あの「遺書」に胸を締め付けられ、涙する。(敬称略)

●円谷幸吉(つぶらや・こうきち)1940年5月13日、福島県須賀川町(現須賀川市)で出生。同町の小中学校、須賀川高を経て陸上自衛隊に入隊。八戸教育隊、第6特科連隊(郡山市)を経て、62年自衛隊体育学校特別体育課程の1期生として入校。64年東京五輪の男子1万メートルで6位入賞、マラソンで銅メダル。65年河北文化賞受賞。67年3月、中大第二経済学部(夜間)を卒業。68年1月9日午前、体育学校幹部宿舎の自室で自死している姿で発見された。命日は同8日。163センチ、53キロ(東京五輪代表選出時)。
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【平蔵の独り言】
何故、円谷幸吉にアクセスカウントが突然増えた!

円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。
<円谷幸吉>最愛の女性 五十回忌機に心境

河北新報に掲載された。

【独り言】
東京オリンピック、円谷幸吉さん
リアルタイムに時代を生きてきた忘れられない 人生のワンシーン

<円谷幸吉>最愛の女性 五十回忌機に心境
を語れるようになったのも、時間の流れが・・・・・・・・・・

自身にも時間が必要なことが、
日常を取り戻すには“心の中”が難しいですよね!
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by asanogawa-garou | 2017-01-19 16:15 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

【つんく♂さん】声を取り戻していた 喉頭ガンによる声帯摘出から2年   

2017年 01月 18日
【つんく♂さん】声を取り戻していた 喉頭ガンによる声帯摘出から2年
【つんく♂ がん治療について語る「自分の感覚を信じるべき」『「だから、生きる。」』つんく♂ 著】
【つんく♂】一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選んだ


【つんく♂さん、声を取り戻していた 喉頭ガンによる声帯摘出から2年】
デイリー新潮 1/17(火) 15:59配信
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①「声帯を失った今、不幸せかというと、決してそうでない」とつんく♂さんは語る
 シャ乱Qのボーカルで音楽プロデューサーのつんく♂さんが、喉頭ガンのため声帯を摘出したのは2014年10月のこと。
その翌年4月に母校・近畿大学の入学式で、声を失ったことを発表した光景は、いまだ記憶に新しい。
そのつんく♂さんが、いま食道発声法によって「意思疎通が出来るようになってき」たことを、1月18日発売の新潮45・2月号の特集「病の『人生学』」に寄せた手記で明かした。

 ***

 食道発声法とは、声帯を失った人が口や鼻から空気を取り込み、それを逆流させて、食道入口付近の粘膜を振動させることによって声を出す、という方法である。
練習を要し、なかなか習得できないために諦めてしまう人も多いらしい。
つんく♂さんも自分で試したときは全く音にならなかったという。しかしレッスンの最初の日に「あ」というような音が出せた。
以来、練習を重ね、現在、騒がしい場所ではスマホのアプリを使って文字を書いて会話をしてはいるけれども、

「今は家族やスタッフとは何とか意思疎通できるようになってきました」

 と、記すのである。
その声は「特殊な音質」で「雑音に弱い」が、静かな場所であれば、会話が可能なのだという。

 喉頭摘出者の先輩によって行われる食道発声のレッスンはネットや本とは違って分かりやすかったそうで、ものを「教える」立場から、「教わる」立場に変わって褒められることの素晴らしさを実感したという体験談は、いかにもつんく♂さんらしい。

 声を取り戻しつつあるつんく♂さんだが、やはりガン患者としてさまざまな思いに翻弄されてきたようだ。
 つんく♂さんは、ガンとわかる前から大きな病院の声帯専門の医師のもとに通っていた。
それも「20年来同じ先生に診てもらって」いたが、シャ乱Q結成25周年記念ツアーのあと、声枯れが長く続いたため、検査してみるとガンと判明した。

 つんく♂さんは、手記の中で、自身を診てくれる医師を過信し、
セカンドオピニオンを「診てくれている医師に失礼」だと考えもせずにいたと反省する。


治療中には「寛解」と言われて他の病院で検査したら、ガンが消えていなかった、ということもあった。
だから、自身の医師を気遣いつつも、一人の医師だけでなく、セカンドオピニオンをもらう大切さを強調する。
 そして声帯全摘出に至ったつんく♂さんだが、今でも、

「もし、いろんな場面で別の選択をしていたら、今はまだ違う結果があったのかなぁ」

 と、考えてしまうという。ただ、

「声帯を失った今、不幸せかというと、決してそうでない」

 とも、つんく♂さんは記す。

 病気を発表したから、世の中に「たくさんたくさんのガンサバイバーの方」がいることを知ったし、
術後数ケ月して通い始めた「食道発声の会」では、「人からモノを教わる新鮮さ」を感じた。
病気のマイナスの面だけを見ていたわけではないのだ。

 最後につんく♂さんは書く。

「さあ、今日も楽しくいきますか!」

 その声を再びステージやテレビで聞く日も来るのかもしれない。

デイリー新潮編集部 新潮社

【つんく♂ がん治療について語る「自分の感覚を信じるべき」『「だから、生きる。」』つんく♂ 著】
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②『「だから、生きる。」』つんく♂ 著

 昨年10月喉頭がんで声帯を失う大手術を乗り越えた歌手で音楽プロデューサーのつんく♂さんが、がん治療について語った。
9月10日に発売された手記『「だから、生きる。」』(新潮社刊)のなかでつんく♂さんは「自分の感覚を信じてほしい」と何度も述べている。

■がんがみつかるまで
 歌手であるつんく♂さんは若い頃より、本業での負担に加え、
お酒や煙草でさらに喉に負担をかけてきたと自覚はしていた。
歌手として自分の身体が楽器であると考え、
体調不良になりそうな気配があるだけで病院へ行くようにしていた。

そのころから調子が悪くなると薬や点滴でどうにかする、という癖がつきだしたという。
喉に炎症が起こるとステロイドの吸入で乗り切っていた。
2013年9月、シャ乱Q結成25周年を記念したツアーを終えたころ喉に違和感を感じ、内視鏡で検査した際、目で見てわかるほど腫れ物ができていたという。
しかしそれもステロイドの吸引のしすぎで組織の一部が固まってしまっているというのがお医者さんの見立てだった。
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③2015年度近畿大学入学式でのつんく♂さん。(つんく♂著『「だから、生きる。」』より)

■99%悪性じゃない
 心配ではあったものの、その腫れ物が悪性の腫瘍、
つまりがんの可能性は「99%ない」とお墨付きをもらっており、楽観視していたという。
しかし三週間たってもよくならない。
それでもお医者さんが99%大丈夫と言い、生体検査もしようと言わないのだから、きっと大丈夫なんだろう、と思っていたという。

つんく♂さんはこのときセカンドオピニオンを聞くなど、
次の一手を考えるべきだった、と後悔していることを同書で明かしている。

■「自分の感覚」より「医師の判断」?
《たとえ医師や専門家の意見が「大丈夫」だったとしても、もっと自分の直観や本能と真剣に向き合っていたら、何を置いても一刻も早く生検をするという方法を選んでいただろうと思う。なのに、僕はこの大事な局面で、「自分自身の感覚」よりも「医師の判断」を信じてしまった。》

 つんく♂さんはその後、三か月以上経った2014年2月に病院で生体検査を受け、喉頭がんがみつかる。

■寛解を発表したものの
 つんく♂さんは喉頭がんに対し、放射線治療を行った。
治療は進み数カ月が経つもなかなか喉の調子はよくならない。
8月にはいりどうしてもおかしいと思ったつんく♂さんはもう一度生体検査を願い出る。
医師の答えは――。

《「がん細胞はみあたりませんでした。良かったですね」結果を聞いた僕は、とても嬉しかった。(中略)僕は心配性すぎたのだ。》
 そして九月半ば、つんく♂さんは医師のお墨付きをもらい、がん細胞の死滅を意味する「完全寛解」を宣言した。
ところが周りからは祝福されるものの、喉の調子は一向に改善しない。
呼吸はしづらく、仰向けに寝ると声帯が圧迫される感じがして苦しい。
もしがんが消えきらず、また大きくなってきていたら、全てつじつまは合うと考えたつんく♂さんは、再度生検を願い出た。

■ニューヨークで受けた最悪の宣告
 10月初旬、モーニング娘。のニューヨーク公演に帯同したつんく♂さんは、その旅を病気に打ち勝ち、
新たな一歩を踏み出すための人生の岐路だと考えていた。

つんく♂さんが16年前に立ちあげたグループが、NYのまんなかでライブを行う。
そんな輝かしい日になるはずだった。
しかしそのライブの二日前、NYに到着したばかりのつんく♂さんに、
日本から生体検査の結果を知らせる電話がかかってきた。

《「すいません。やはり癌でした。この腫れは三月の放射線で叩ききれなかった癌がさらに大きくなったんだと思われます」ずっと考えないようにしていた最悪の結果だった。
(中略)完全寛解から一気に地獄やな。
今までの検査はなんやったんやろか。
僕が自分の不調に気づいて訴えていた、あのあたりで発覚していたらここまで喉も腫れなかっただろうなぁ。》
 

そして「僕がもっと自分を信じて他の病院ででも調べてもらうべきだった」と述べる。
モーニング娘。のNY公演を見届けたつんく♂さんは緊急帰国、その後声帯を全摘する大手術となった。

■自分の感覚を信じてほしい
 つんく♂さんは同書を書いた理由として、自分の感覚を信じる大切さを伝えたかったと語っている。
自分で不調を感じていたのに、がんの発見が遅れてしまったことや、検査結果を鵜呑みにしてしまったことを悔やんでいるという。

《お医者さんも人間。時には見落とすこともある。あなたが医師に診察されるだけでなく、あなた自身が医師を見定めていくというくらいの気持ちが必要であると思います。》

 つんく♂さん自身の体験からでた真摯な言葉は、がんに限らず病気への対応を考えさせられる貴重な提言だ。
デイリー新潮編集部


【つんく♂祝辞全文】一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選んだ
デイリースポーツ 4月4日(土)13時21分配信
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④平成27年4月4日「声を捨て生きる道を選んだ」

近畿大学入学式プロデューサー  つんく♂
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⑤【つんく】一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選んだ
デイリースポーツ 4月4日(土)13時21分配信

 つんく♂さんは昨年2月に喉頭がんが見つかり、後に「完全寛解した」と発表したが、昨年10月に声帯の検査でがんが見つかったと公表していた。喉の治療をしてきたが、結果的にがんが治りきらず、「一番大事にしてきた声を捨て、生きる道」を選んだという。

【平蔵の独り言】
「声帯を失った今、不幸せかというと、決してそうでない」

 とも、つんく♂さんは記す。
 病気を発表したから、世の中に「たくさんたくさんのガンサバイバーの方」がいることを知ったし、術後数ケ月して通い始めた「食道発声の会」では、「人からモノを教わる新鮮さ」を感じた。
病気のマイナスの面だけを見ていたわけではないのだ。
 最後につんく♂さんは書く。

「さあ、今日も楽しくいきますか!」

【独り言】
「さあ、今日も楽しくいきますか!」

気合いを入れる時は思うこともあるが、

1.17阪神淡路大震災に中で経験を踏まえて、
熊本地震の被災者の避難所で「段ボールのパーテーション、簡易ベット」
 これだけでも“日常”に近いが如何に大切か!

つんく♂の声を取り戻していた

つんく♂の日常に少しでも近づくを見ていきたい。

【平蔵の独り言】
つんく♂ がん治療について語る「自分の感覚を信じるべき」

■自分の感覚を信じてほしい
 つんく♂さんは同書を書いた理由として、自分の感覚を信じる大切さを伝えたかったと語っている。
自分で不調を感じていたのに、
がんの発見が遅れてしまったことや、
検査結果を鵜呑みにしてしまったことを悔やんでいるという。

《お医者さんも人間。時には見落とすこともある。あなたが医師に診察されるだけでなく、あなた自身が医師を見定めていくというくらいの気持ちが必要であると思います。》

 つんく♂さん自身の体験からでた真摯な言葉は、
がんに限らず病気への対応を考えさせられる貴重な提言だ。


【独り言】
20余年前、大病をしてからは
〔歯周病〕で歯が一本すっぽり
治療を担当医に聞いて、インプラントを選択したが
先生「どんな経歴、経験ですか」
大学病院で顎が砕けてしまった治療をしてきました。
歯周病、ある日突然歯がすぽ!
もういやだ。

それから、9年メンテナンスは半年毎。

〔左冠動脈狭窄〕“狭窄度70%”
かかりつけ基幹病院を紹介状もらい
心臓CT、カテーテル・ローターブレーター手術
それから毎年検査

心臓CT、胃カメラ、大腸内視鏡(前回ポリープが見つかる)

“人生”という日常「もうなんでも有り」

つんく♂ の自分の感覚を信じて・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2017-01-18 16:08 | 人間模様 | Comments(0)

箱根駅伝の復路10区で神奈川大学選手とワゴン車があわや衝突のトラブル発生!   

2017年 01月 10日
箱根駅伝の復路10区で神奈川大学選手とワゴン車があわや衝突のトラブル発生!

箱根駅伝であわや事故 交通規制の連携ミス
•1月5日 15時26分
箱根駅伝の復路10区で神奈川大学選手とワゴン車があわや衝突のトラブル発生!
〔連携ミスで車止められず〕

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3日に行われた箱根駅伝の復路で、神奈川大学の選手が都内の交差点にさしかかった際、交通規制が適切に行われず、選手が車にはねられそうになっていたことがわかり、規制を担当していた警視庁は担当者の間に連携ミスがあったとしたうえで、「再発防止に努めたい」としています。

トラブルがあったのは、箱根駅伝の復路のゴール地点の手前にある東京・千代田区の日比谷交差点で、警視庁によりますと、3日午後1時半ごろ、神奈川大学の10区の選手が交差点にさしかかった際、交通規制が適切に行われず、左から来た車にはねられそうになりました。
選手が直前でスピードを緩めたため、事故にはならなかったということです。

この交差点の交通規制は、数人の警察官が選手の通過に合わせて断続的に車を止める方法で行われていました。
交差点の手前にいる警察官が選手の通過を確認すると、交差点内の警察官に車を止めるよう無線で連絡しますが、トラブルがあった際は担当者の間に連携ミスがあり、情報共有がうまくいかず、一部の車を止めることができなかったということです。

警視庁は「警察官の連絡方法の見直しなど、再発防止に努めたい」としています。
関東学連「再発防止を」
箱根駅伝を主催する関東学生陸上競技連盟は「大会の交通規制は、すべて警察にお願いしているが、これまでの大会でこのようなことはなかった。選手の安全を第一に考えているので、来年以降の大会でこうしたことが起きないように警察と協議して再発防止に努めていきたい」と話しています。

〔連携ミスで車止められず〕
トラブルがあった日比谷交差点は、日比谷通りと晴海通りが交わる交通量の多い場所で、警視庁によりますと、当時、神奈川大学の選手は、日比谷通りを大手町方面に走っていました。

この交差点の交通規制は、数人の警察官が選手の通過に合わせて断続的に車を止める方法で行われていて、当時、交差点からおよそ数十メートル手前の日比谷通りにいた警察官が選手の通過を確認すると、無線を使って交差点内の複数の警察官に車を止めるよう連絡しました。

その結果、霞が関方面に向かって走行していた車は止まりましたが、銀座方面に走行していた車は連携ミスで情報共有がうまくいかず、止めることができなかったということです。

【箱根駅伝の復路10区で神奈川大学選手とワゴン車があわや衝突のトラブル発生!】
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3日にあった第93回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)のコースになっていた東京都内の国道1号交差点で、車の規制ができておらず、神奈川大学の選手が車にはねられそうになっていたことがわかった。
規制にあたった警察官の連携ミスが原因といい、警視庁は「再発防止に努める」としている。
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トラブルは3日午後1時半ごろ発生。
主催者の関東学生陸上競技連盟や目撃者によると、復路10区で神奈川大の選手が日比谷交差点(千代田区)を通過しようとした際、左から横断する車列が途切れず、選手とワゴン車が衝突しそうになった。
直前で選手が速度を緩め、レースは続行した。
警視庁交通規制課によると、同交差点では選手の通過に合わせて断続的に車を止める規制を実施。
手前の地点で通過を確認した警察官が、交差点にいる警察官に無線で連絡し、規制する手順だった。
神奈川大の選手の時は、通過の連絡はしたが連携がうまくいかず、東進する3車線が規制されなかった。
対向車線は止まっていた。

他の選手が通過した際は、問題はなかったという。
警視庁は連携強化や配置する警察官の増員を検討しているという。
選手の約50メートル後ろを走る車に乗っていた
神奈川大の大後(だいご)栄治監督は「通過する直前になっても車が横切っていた。事故にならず、何とかゴールしてくれてよかった」と話した。
レース後にあった監督らの会議で状況を説明し、
「タイミングが悪ければ箱根駅伝の存続が危ぶまれる事態だった」と発言したという


近くで観戦した埼玉県の女子高校生は「選手が近づいているのに車が止まらず、大丈夫かと周りもざわついていた。車は減速せず、選手がひかれそうでハラハラした」。
関東学連の担当者は「あってはならないことで、来年に向けて態勢を確認したい」と話した。
過去の大会で、選手と車が接触する交通事故が起きたことはないという。
参照元:ヤフーニュース

【平蔵の独り言】
警視庁交通規制課によると、同交差点では選手の通過に合わせて断続的に車を止める規制を実施。
手前の地点で通過を確認した警察官が、交差点にいる警察官に無線で連絡し、規制する手順だった。
神奈川大の選手の時は、通過の連絡はしたが連携がうまくいかず、東進する3車線が規制されなかった。
対向車線は止まっていた。
レース後にあった監督らの会議で状況を説明し、
「タイミングが悪ければ箱根駅伝の存続が危ぶまれる事態だった」


【独り言】
対向車線は止まっていた。
ということは、見ればわかるような状態を
慌てて、警察官は何を見ていたのか?

走者を見ながら交通規制をしていたら、
このような状況にならなかっただろうに!
交通整理(車)、観衆、走者の順・・・・・・・・
責任を果たしてない。

もし、事故になっても「お詫び申し上げます」
と、頭を下げてはい!おわり・・・・・
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by asanogawa-garou | 2017-01-10 15:07 | 今 今日この頃 | Comments(0)