<   2017年 03月 ( 4 )   > この月の画像一覧   

【樹木希林】家族について語る「最期ぐらいは裕也さんの歌を聞きながら」〔“会社で見るな、人として見ろ。そのうえで考えろ”〕   

2017年 03月 27日
【樹木希林】家族について語る「最期ぐらいは裕也さんの歌を聞きながら」〔“会社で見るな、人として見ろ。そのうえで考えろ”〕

樹木希林、家族について語る「最期ぐらいは裕也さんの歌を聞きながら」
週刊女性2017年1月17・24日号


〔“会社で見るな、人として見ろ。そのうえで考えろ”〕あれで、たまにはいいこと言うのよ。

〔年とったら耳も遠くなるし、滑舌(かつぜつ)も悪くなるし。もう限界だと、〕

【“私の不満の人生の中で、危険なものをつかんだ。ここなら生きられると思った” という相手。】

〔本木さんとは全然性格が違うから、よくわからなかった〕ただ、みんな調整しながら、譲り合いながら乗り越えてきたんだわね

〔年をとっていくことに対して何も抵抗ないから、苦労もないし。もともと少欲なの。〕別に我慢や無理はしてないですよ。

【最期ぐらいは花を持たせてあげないと】

【内田裕也、毎年欠かさず被災地に贈る“ロック”な支援】
〔まあ、オレもいろいろと誤解されますけど、そんなに悪いやつじゃないですから、ヨロシク!〕


c0219232_16242975.jpg
①「いやっほぅ、撮れーっ!!!」(樹木)
________________________________________

 老夫婦の素敵な暮らしを描いた映画『人生フルーツ』でナレーションを担当した樹木希林さん。
ご自分の人生には、どんな果実を思い描いているのだろうか。
長い別居生活を過ごしつつ、今も夫婦でいる夫・内田裕也さんとの葛藤、娘と本木雅弘さんとの生活、そして自身の今後について語ってくれた。
☆  ☆  ☆
c0219232_16343323.jpg
②樹木希林さん 撮影/枦木 功
「私、女性週刊誌に出るのが嫌いなのよね。売るために面白いタイトルをつけるじゃない? 書かれるほうはつらいのよ」

〔“会社で見るな、人として見ろ。そのうえで考えろ”〕あれで、たまにはいいこと言うのよ。

 “週刊女性です”と名乗ったスタッフに、いきなりカウンターパンチをくださったのは樹木希林さん(73)。
「若いころ、マスコミから逃げ回っていたことがあるんだけど。
夫に“会社で見るな、人として見ろ。そのうえで考えろ”って言われてね。あれで、たまにはいいこと言うのよ。
私も作り手なら、気をひくタイトルをつけちゃうだろうしね」
 とフォローもあって、その押し引きは絶妙─。

「何かあるたびに、ここで記者会見を開くことになっちゃってるのよね(笑)」
 という、渋谷区にあるご自宅の応接間には、モノは持たない主義ということでグランドピアノと最小限の家具しかない。
その中で、ひときわ目立つ木製のテーブルは平幹二朗さんが使っていたものを、人づてにもらったのだとか。

「だから、何か事件があってうちで会見をするたびに平さんが“僕のテーブルが映ってる”と言ってたそうなんですよ(笑)。
直接面識はなかったけど、魅力的な方でしたね。
肺がんにかかられたのに、最期まで立派な役者として生きられて……」

杖はどこいった? じゃ、夫婦ゲンカにもならない
 自身もがんを患いながら仕事を続けている希林さんは、1月2日に公開された映画『人生フルーツ』でナレーションを担当。
完成品を見たプロデューサーが、
「地上と天空の間から発せられるような見事なナレーション。これは、呪文だ」
 と驚嘆したほどの、沁(し)みる声だった。
c0219232_16372087.jpg

〔年とったら耳も遠くなるし、滑舌(かつぜつ)も悪くなるし。もう限界だと、〕
「渡された台本を下読みもせずに、ただ読んだだけ。
まぁ、60年近く声で人を騙(だま)してきてるからね(笑)。
ナレーションはセリフを覚えなくていいからラクだと思ってたのに、年とったら耳も遠くなるし、滑舌(かつぜつ)も悪くなるし。
もう限界だと、スタッフには言ってるんだけど」

 映画で描かれているのは90歳の夫・津端修一さんと、87歳の妻・英子さんの暮らしと人生。
建築家の夫が建てた丸太小屋に住み、雑木林と畑で育てた約70種類の野菜と50種類の果物を季節に応じて収穫し、妻が丁寧に作った料理を、ふたりで食べる。
お互いに“さん”づけで呼び、ほぼ自給自足の生活を支え合い、ゆっくり豊かな時間を過ごしている。そんな夫婦に、やがて別れの時が訪れ─。

「英子さんは可愛らしい人でね。映画が完成した後、初めてお会いして一緒に居酒屋に行ったんですけど、いいエネルギーに満ちあふれていた。
ああいう女性は、修一さんのようないい旦那さんがちゃんと来るのね。
散らかさなくてつつましくて始末がよくて、でも大胆なところもある旦那さんで、本当に素敵なご夫婦。

 映画を見て“こんな人生を歩めたら言うことなし”だって、みんなそう思うんじゃない? 
もちろん、その人生がうらやましいとか、自分の人生がイヤだとか、そういうことはないのよ。
でも、それはそれ。こういうふうな道しか歩けない私は私。
だけど、津端さんのような人生も見事だなぁと思いますね」

【“私の不満の人生の中で、危険なものをつかんだ。ここなら生きられると思った” という相手。】
 反骨のロックンローラー・内田裕也さんとの結婚生活は43年になる。
 “私の不満の人生の中で、危険なものをつかんだ。ここなら生きられると思った”という相手。
警察ざたになるほど大ゲンカをしたこともあるし、離婚しかけたこともある。
しかし、長い別居生活を過ごしつつ、今も夫婦でいる。
「うちは年をとっても若いときと変わらない。
性格がまったく同じだから、何を考えてるか読み取れるし、争いにもなる。ただ、最近は年とってきてエネルギーがなくなったからケンカしなくなっただけ。
“この野郎!”となっても、“杖はどこいった?”じゃどうしようもない。そのうちに“面倒くさいかぁ”で終わり。

別に仲よくなったわけじゃないのよ。
『人生フルーツ』の英子さんは旦那さんのことを“年とっていい顔になった”と言ってるんだけど、うちは両方ともそんな境地じゃないわね。
たまに顔を見ると“この人、昔はもうちょっと男前だったのに。
どうしてこうなっちゃったのかなぁ”なんて思うもの。
それはお互いだろうけど、決していい顔にはなってない。
むしろ“奇っ怪(きっかい)”。とんでもないキャラクター商品って感じ(笑)」
c0219232_16382276.jpg
④撮影/枦木 功

〔本木さんとは全然性格が違うから、よくわからなかった〕ただ、みんな調整しながら、譲り合いながら乗り越えてきたんだわね
 30歳のときに出産したが、子育ても希林さん流だったという。
「私は、相手の気持ちに入り込むのが面倒くさいの。一歩引いてるというか。子育てもそう。例えばケーキをもらったら、私はまず自分が好きなのを取っちゃう。娘に“どれがいい?”と言って先に選ばせるなんてこと絶対にしない。だから、早く嫁に行ったんじゃない? きっとうちが居心地悪かったんだと思う」
c0219232_16390069.jpg

 娘の也哉子さんは19歳のとき、俳優の本木雅弘さんと結婚。
長らく二世帯で同居し、3人の孫にも恵まれた。
「今、娘一家はイギリスに行っちゃったけど、それまではうちの上に住んでました。
家族円満に見える? なんかねぇ。
円満になっちゃったのよね。
最初はそうじゃなかったのよ。
本木さんとは全然性格が違うから、よくわからなかったし。
ただ、みんな調整しながら、譲り合いながら乗り越えてきたんだわね。

〔年をとっていくことに対して何も抵抗ないから、苦労もないし。
もともと少欲なの。〕別に我慢や無理はしてないですよ。
 別に我慢や無理はしてないですよ。
ああ、そうなんだ、この人はこういう性格なんだと思うだけで、どうこうしようと思わない。
それは子どもや孫に対しても同じ。
まぁ、二世帯住宅で、台所も玄関も違うし、まったく会わない日がいっぱいあった。
距離がおける暮らしだから、やってこれたんでしょうね」

 同居しているときから、自分のことは自分でする主義。
石けんはひとつしか持たず、それで身体も食器も衣服も洗う。
お経をあげるのと、掃除をするのが日課だそうだ。
仕事もマネージャーはつけず、ひとりで現場に向かう。
「病気してからも普通に食べるし飲むし。
無理してる感じはないのよね。
年をとっていくことに対して何も抵抗ないから、苦労もないし。
もともと少欲なの。
仕事については、基本的に来た順番に引き受けているだけ。
あまり先のことだと、わからないからお断りすることもあるけどね」

【最期ぐらいは花を持たせてあげないと】
『人生フルーツ』では、夫と最期のお別れをするシーンがあるが、希林さん自身の人生の最期には、裕也さんが歌う『朝日のあたる家』を聴いて逝(い)きたいという。

「最期ぐらいは花を持たせてあげないと、怒るだろうと思って。
まぁ、歌自体がいい歌だしね。私が先にボケると信じてるので、もし、裕也さんが最期に駆けつけてくれたら、“まぁ、ご親切にしていただいて。……ところでおたくどちらさま?”と言って死ぬのが理想なんですよ。
ただ、本当は向こうが先に逝かないとあとが困るかなぁという心配もあるんですけどね。
向こうは向こうで“おまえ、ハンコのあり場所だけはちゃんとしとけよ”って言ってるから、自分のほうが長く生きるつもりらしいですよ」
 というところで、取材時間終了。
この後は、映画宣伝のため、自分で戸締まりして出かけることになっている。

「『週刊女性』としては、こんな話じゃもの足りないんじゃない? 
もっと中吊り広告のタイトルになるようなこと言えばよかったわね(笑)」
 女性週刊誌が嫌いと言いながら、キャッチになる言葉もけっこうしれっと語ってくれた、サービス精神旺盛な希林さんだった。
◎取材・文/伊藤愛子
c0219232_16393548.jpg

【左】津端さん夫妻の日常を描いた映画『人生フルーツ』は1月2日〜全国順次公開。(c)東海テレビ放送 【中・右】『あしたも、こはるびより。』『ひでこさんのたからもの。』(ともに主婦と生活社刊)。老夫婦のゆっくりと豊かな生活や絶品手料理のレシピなどを綴る

【内田裕也、毎年欠かさず被災地に贈る“ロック”な支援】
週刊女性4月1日号
2014/3/18
〔まあ、オレもいろいろと誤解されますけど、そんなに悪いやつじゃないですから、ヨロシク!〕
c0219232_16400769.jpg

 2011年3月11日の東日本大震災から4年。
震災直後、炊き出しや募金を精力的に行った芸能人はたくさんいたが、あれから4年がたった今も、以前と変わらず積極的な支援活動を続けている芸能人もいる。
 そのひとりが1995年の阪神・淡路大震災のときにも支援ライブを開いたり、物資を届けていた内田裕也。
今回、ある被災地に特別な“縁”を感じているという。
 本人がズバリその理由を語る。
「石巻は、英語でいえばロックンロール」
 震災から8日後の3月19日には東京・渋谷でゲリラ募金活動を敢行。集まった費用をもとに、4月5日には石巻で炊き出し&ミニライブを催した。
「友人のピザ店の協力で、ピザ&ミネストローネを400食分、バナナ690本、みかん690個を届けました。おにぎりとか、豚汁ばっかりのところだったから、若い人たちに喜ばれましたよ」
 また、2012 年に行われた恒例の年越しロックフェス『NEW YEARS WORLD ROCK FESTIVAL』に除染服姿で出演して、原発事故の収束を訴えたり、会場の隅では、『HELP募金』も始めた。
「それが貯まったお金で、被災地に行って支援活動をするんです。
でも、日本人って、そんなにお金集まんねーんだよ。
やっぱり忘れ去られていくもので、でも風化させないためにもロックンロールの役割は大事なんだよね。
社会への貢献を何かしらさりげなくやること。できる範囲内で被災地に駆けつけるというのは、人間の誠意としても大事だと確信しています」

 インタビューをした3月11日、ちょうど『東日本大震災三周年追悼式』が行われている国立劇場へ向かう途中だった内田。
「毎年お花を買って、必ず参加しています。エラい国会議員のみなさんたちと一緒じゃなくて、一般の方々と一緒に並ぶのがロックンロールらしいと思っています。
派手でなくても継続性が大事ですね。まあ、オレもいろいろと誤解されますけど、そんなに悪いやつじゃないですから、ヨロシク!」


【平蔵の独り言】
夫に“会社で見るな、人として見ろ。そのうえで考えろ”って言われてね。あれで、たまにはいいこと言うのよ。

【独り言】
社会に出て、看板を持って仕事をしている時は“楽”だった。
自然の流れとして、看板を無くした時、以前の先輩に言った言葉
「看板が無くなると大変ですよ!」
(看板があれば、「**会社の・・・」)
その先輩がある時「お前の言っていることが今、分かったよ」
でも、会社を見るな!は自身でも難しい。

【平蔵の独り言】
ただ、みんな調整しながら、譲り合いながら乗り越えてきたんだわね。
 別に我慢や無理はしてないですよ。
ああ、そうなんだ、この人はこういう性格なんだと思うだけで、どうこうしようと思わない。
【独り言】
みんな調整しながら、譲り合いながら。
これが難しい。
少しは出来ているかな!




[PR]

by asanogawa-garou | 2017-03-27 16:20 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

幸せは自分で作れる 実践している人たちの10の習慣   

2017年 03月 23日
幸せは自分で作れる 実践している人たちの10の習慣
2017/03/04 10:00 @Forbesjapan
c0219232_15372224.jpg

1. 小さなことに感謝する:
日常生活の小さなことに対する感謝の気持ち

2. 体を動かす:
たった10分間の運動をするだけでも、

3. 人のためにお金を使う:
誰かのためにお金を使うことは、幸福感をもたらす。

4. 「適切な」人と付き合う:
幸福感は、人を介して広がる。

< 習慣で「気持ち」を変えて幸せに>
5. 常に前向きでいる:
誰にでも、嫌なことは起きる。最善の策を講じて、前に進もうとする。

6. 十分な睡眠を取る:
幸せな人たちが眠ることを優先するのは、気分に影響が出ることを知っているからだ。

7. 「深い」会話をする:
幸せな人たちは、うわさ話や世間話をせず、他の人を批判することもせず、人とは意義深い交流を持とうとする。

8. 人を助ける:
誰かを助けることは、快楽物質であるドーパミンの分泌を促す。
ハーバード大学の研究で明らかになっているとおり、同僚たちを助けることができる従業員は仕事に対する集中力が10倍高く、昇進できる可能性が40%高い。

9. 幸せになる努力をする:
日常生活の繰り返しの中で、常に自分自身の気分を観察し、幸福感を意識しながら、さまざまなことを決断している。

10. 成長を志向する:
変化を受け入れ、新しいことを学ぶ機会

職場での昇進、新しい車、恋人──何であれ、私たちは常に何かを追い求めている。
そして、それは私たちに、「~が実現すれば幸せになれる」という誤った考えを抱かせてしまう。

望んでいた何かが起これば、確かに私たちは幸せを感じる。
だが、その幸福感は長続きしない。
米ノースウェスタン大学が実施した調査の結果、宝くじで大金を当てた人の幸福度も、一年たてば他の人たちと同じレベルにまで戻ってしまうことが分かっている。

幸福感は、自分で作り出すことができるものだ。
そして、あなたが習慣によって自ら生み出した幸福感は、消えることがない。
次に紹介する習慣を身に付けることで変化が起きるかどうか、試してみてほしい。

c0219232_15390820.jpg

1. 小さなことに感謝する
人間の行動は習慣化する。
それはある意味、私たちにとって良いことだ。
頭を使わずに済む上に、慣れは快適さにつながる。
だが、私たちは慣れ過ぎてしまうと、日常生活の小さなことに対する感謝の気持ちを失ってしまう。

いつもハッピーな人たちは、
食事を味わうこと、
会話を大いに楽しむこと、
外に出て新鮮な空気を深く吸い込むことの大切さをよく理解している。

2. 体を動かす
たった10分間の運動をするだけでも、脳を鎮静化させ、衝動を抑制する神経伝達物質、GABAが放出される。
幸せな人たちは時間を作り、定期的に運動している。
それが自分の心の状態に好影響をもたらすことを知っているからだ。

3. 人のためにお金を使う
誰かのためにお金を使うことは、自分自身のために何かを買ったりすることよりも、ずっと大きな幸福感を与えてくれる。
これは、研究結果からも明らかになっている。
特に、友人が気に入ることが分かっている本を買いに行くなど、ちょっとした労力をかけるようなことが幸福感をもたらす。

4. 「適切な」人と付き合う
幸福感は、人を介して広がる。
幸せな人たちに囲まれていることは、自分に自信を持たせ、創造性を刺激してくれる。
それに、ただただ楽しいと思えることだ。
一方、ネガティブな人と一緒にいれば、これらとは逆の影響を受けることになる。
次ページ > 習慣で「気持ち」を変えて幸せに

5. 常に前向きでいる
誰にでも、嫌なことは起きる。
幸せな人たちは過去を振り返って不満を言う代わりに、現時点でできる限りの最善の策を講じようとする。
そして、前に進もうとする。悲観することほど、不幸を増長させるものはない。

6. 十分な睡眠を取る
脳は日中の活動によって蓄積された有害なタンパク質を睡眠中に除去し、新たなエネルギーを蓄える。
ストレス要因がない場合でも、睡眠が不足すればそれだけで、ストレスホルモン値は上昇する。
幸せな人たちが眠ることを優先するのは、気分に影響が出ることを知っているからだ。

7. 「深い」会話をする
幸せな人たちは、幸福感には実体があることを知っている。
そのため、うわさ話や世間話をせず、他の人を批判することもせず、人とは意義深い交流を持とうとする。
その方が満足感を得ることができるからだ。

より奥の深い話をすることで、その相手とは感情的なつながりを築くことができる。
また、会話は物事を学ぶための興味深い方法の一つでもある。

8. 人を助ける
人を助けるために時間を割くことは、その相手だけではなくあなたも幸せにする。
誰かを助けることは、子宮を収縮させるホルモンのオキシトシンや脳内物質のセロトニン、快楽物質であるドーパミンの分泌を促す。
これらはいずれも、満足感をもたらすものだ。

ハーバード大学の研究で明らかになっているとおり、同僚たちを助けることができる従業員は仕事に対する集中力が10倍高く、昇進できる可能性が40%高い。

9. 幸せになる努力をする
私たちは日常生活の繰り返しの中で、自分の感情を観察したり、積極的に幸福感を得ようとしたり、前向きになろうとしたりすることを忘れてしまいがちだ。
幸せな人たちは、そのことをよく知っている。
そして、常に自分自身の気分を観察し、幸福感を意識しながら、さまざまなことを決断している。

10. 成長を志向する
人の中核をなす考え方には、「固定した」考え方と「成長する」考え方の2つがある。
前者は「自分は自分であり、変えることはできない」という考え方。
後者は「努力すれば改善できる」という考え方だ。

そして、人を幸せにするのは後者だ。
困難な状況にもうまく対応することができ、変化を受け入れ、新しいことを学ぶ機会だと受け止めることができるからだ。

最後に

幸福感を維持することは、場合によっては難しい。
だが、適切な習慣を身に着ける努力をすれば、効果は得られる。
このリストに紹介したいくつかの習慣を取り入れるだけでも、気持ちの状態には大きな変化が現れるはずだ。

c0219232_15421588.jpg

【平蔵の独り言】
1. 小さなことに感謝する:日常生活の小さなことに対する感謝の気持ち
2. 体を動かす:たった10分間の運動をするだけでも、
3. 人のためにお金を使う:誰かのためにお金を使うことは、幸福感をもたらす。
4. 「適切な」人と付き合う:幸福感は、人を介して広がる。
< 習慣で「気持ち」を変えて幸せに>
5. 常に前向きでいる:誰にでも、嫌なことは起きる。最善の策を講じて、前に進もうとする。
6. 十分な睡眠を取る:幸せな人たちが眠ることを優先するのは、気分に影響が出ることを知っているからだ。
7. 「深い」会話をする:幸せな人たちは、うわさ話や世間話をせず、他の人を批判することもせず、人とは意義深い交流を持とうとする。
8. 人を助ける:誰かを助けることは、快楽物質であるドーパミンの分泌を促す。
ハーバード大学の研究で明らかになっているとおり、同僚たちを助けることができる従業員は仕事に対する集中力が10倍高く、昇進できる可能性が40%高い。
9. 幸せになる努力をする:日常生活の繰り返しの中で、常に自分自身の気分を観察し、幸福感を意識しながら、さまざまなことを決断している。
10. 成長を志向する:変化を受け入れ、新しいことを学ぶ機会

【独り言】
1.小さなことに感謝する:一時“感謝”“感謝”と言い聞かせていた時があった。
2.体を動かす:朝晩のストレッチ(NHKのテレビ体操、ラジオ第一・第二)が不意の血圧上昇がなくなった。
3.人のためにお金を使う:プレゼント(上げたら(自分の手元を離れたら、忘れる))
4.「適切な」人と付き合う:自身の価値観、距離感を大切にする。
5.常に前向きでいる:人生少しズボラ(楽天的)でもいい!
6.十分な睡眠を取る:寝る前はくよくよしているが、気が付けば寝ている。
7.「深い」会話をする:盛り上がる、うわさ話や世間話には入っていけない。
 以前入院中に相部屋同室の話がまあ!ダメだった。
8. 人を助ける:難しいが自己満足で少しやったいるかな?
9. 幸せになる努力をする:“健康”が一番の幸せ!
10. 成長を志向する:必然的に付いて行かないと老いて行かれる。
   (30年前、弁当箱のような携帯・98パソコン20年前ガラ携・ノートパソコン10年前スマフォ・タブレット)




[PR]

by asanogawa-garou | 2017-03-23 16:01 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

「お笑いビッグ3」タモリだけがうまく生きている。タモリ曰く「自分も含めて皆、大した人間じゃない」。「気負わずもっと自然体で生きればいいんだよ」   

2017年 03月 22日
「お笑いビッグ3」タモリだけがうまく生きている。タモリ曰く「自分も含めて皆、大した人間じゃない」。「気負わずもっと自然体で生きればいいんだよ」

「お笑いビッグ3」タモリだけがうまく生きている「これだけの理由」 「今を肯定して生きればいい」 現代ビジネス 3/12(日) 15:26配信

 タモリ曰く「自分も含めて皆、大した人間じゃない」。
「気負わずもっと自然体で生きればいいんだよ」


〔今は自分の好きなことだけをやっている。〕
〔常識的だから常識を壊せる〕
〔『常識的な人間でなければ非常識な面白さはわからない』〕
〔いい意味で適当〕
〔たけしさん、さんまさんは常に前へ前へのタイプ〕
〔タモリが「他人に期待していない」〕
〔無理に気張らずに適度に肩の力を抜いてやろうよ〕
〔「人に好かれようとする自分が嫌い」〕
〔ネチネチもくよくよもしない〕
〔タモリ曰く「自分も含めて皆、大した人間じゃない」。〕

c0219232_16192798.jpg
①写真:現代ビジネス
 いつも飄々として楽しそう。
でも正直、何を考えているのかよく分からない。
すべてをさらけださない。
いつの間にかお笑いという枠からも外れて、独自の道を歩く。
そんなタモリがうらやましい。
好きなことだけやる

 作家の吉行淳之介氏は、かつてタモリを評してこう言っている。
 「ああいうタイプの人というのは、過去だれかいましたか。いたでしょうかね。ああいうの。いや、お笑いタレントというのでもない。『芸人』という感じでもないね。なんだろうね、あれは」

 タモリ(71歳)は、つかみどころのない人である。
でもなぜか「あんなふうに生きられたら楽しそうだな」「幸せそうだな」と思わせる不思議な雰囲気を持っている。

長年『笑っていいとも! 』(フジテレビ系)の構成作家を務めてきた鶴間政行氏はこう語る。
c0219232_16214182.jpg

 「『いいとも! 』時代、タモリさんはよく『毎日、新宿のアルタに、午前10時に来て13時半すぎに帰る。その繰り返し。だから俺は新宿に通うサラリーマンなんだよ』と言っていました。

〔今は自分の好きなことだけをやっている。〕普通の人が興味を持ちそうなことに本気で興味を持ってやっている。

 今、地方に行ってその土地を巡る『ブラタモリ』(NHK)が人気ですが、あれはタモリさんにピッタリな企画だと思います。

 これまでは『いいとも! 』という制約があって地方に行くことができなかった。
その分、今は自分の好きなことだけをやっている。
これは32年も休むことなく『いいとも! 』を続けてきた『ご褒美』なのかもしれません」

 もともとタモリは内輪ウケの「密室芸」を得意とした「キワモノ素人」としてテレビに登場。

『今夜は最高! 』('81年、日本テレビ系)などいわゆる「夜の顔」だったのが、『いいとも! 』で昼の顔となり、老若男女から親しまれる存在となった。
なぜ本来、大衆的でないタモリに人は好意を抱くのか。どこに魅力を感じるのか。

 まずはその知識の豊富さ、頭の良さだろう。

 タモリとの共演も多いミュージシャンでタレントのなぎら健壱氏が語る。

 「僕もよくゲストに呼んでもらう『タモリ倶楽部』(テレ朝系)では、タモリさんが台本を開いているのを見たことがない。全部頭の中に入っているんでしょう。そんなタモリさんがこだわりを持って、やりたいことをやるから面白い。

 タモリさんは普通の人が興味を持ちそうなことに本気で興味を持ってやっている。
タモリさん自身が、物事を楽しみたいという気持ちが強い。それが視聴者を惹きつけている」

 鉄道、ヨット、アマチュア無線、古地図……多趣味としても知られるタモリだが、趣味を仕事にまで「昇華」するのが彼の特技だと言える。

〔常識的だから常識を壊せる〕
 タモリと二人で結成した「日本坂道学会」で会長を務める山野勝氏もこう語る。
c0219232_16231681.jpg

 「タモリさんと初めて会ったのは銀座のバーでした。僕が会社の人と坂道の話をしていると、タモリさんが『加わらせてもらってもいいですか』とスッと入ってこられてね。

タモリさんは、決してウンチクを傾けるわけではなく、ちょっと違う視点で気づきを与えてくれるので、

 タモリさんは、決してウンチクを傾けるわけではなく、ちょっと違う視点で気づきを与えてくれるので、聞いているほうも心地よい感覚になるんです。
『ブラタモリ』での一緒に歩く女性アナウンサーとの軽妙な掛け合いも面白くて、ふざけたことを言っても嫌みにならない。
『こういう大人になりたいな』と思わせるものがありますね」

 博識のタモリだが、決してそれを自分からひけらかしたりはしない。
タモリとの共演も多いタレントの勝俣州和氏が言う。

 「タモさんはよく『知識をひけらかす料理人なんてろくなもんじゃない。客に緊張させる店は二流だ』と言っていました。その言葉通り、自分は決して威張らない。後輩であろうが垣根を作らず、『人の輪』を大切にされる方ですね」

〔『常識的な人間でなければ非常識な面白さはわからない』〕滅茶苦茶なようで、言って良いことと悪いことの見極めはきちんとしている。

 このタモリの姿勢はどこで培われたのか。
タモリがデビューするきっかけを作ったジャズピアニスト・山下洋輔氏が語る。
c0219232_16252514.jpg
④ 「最初にタモリと会ったのは福岡のホテルでした。コンサートの打ち上げで盛り上がっていると、突然、知らない男が中腰で踊りながら入ってきた。サックスの中村誠一がデタラメな韓国語で怒ったら、何倍も上手い言葉で返してきた。

 こちらは喜んでもっとやれと囃し立てた。
あとでタモリに入って来た理由を聞いたら『面白そうだったから』。
その瞬間、こいつはデキると確信した。

 今考えるとタモリは根っからの『ジャズ体質』なんですね。
ジャムセッションと一緒で、楽器を持って急に入ってきても、上手ければ許せることを知っていた。
当然気が合って、皆に見せたいと上京を誘ったんです。

 タモリはやはり頭がいい。
滅茶苦茶なようで、言って良いことと悪いことの見極めはきちんとしている。
何が常識的かは子供の頃から見抜いていた。
かつて作家の星新一さんが『常識的な人間でなければ非常識な面白さはわからない』と言っていましたが、まさにタモリはそれですね」

 常識を理解しながら、それを壊していく――こうしてタモリはビートたけし(70歳)、明石家さんま(61歳)らと共に「ビッグ3」と呼ばれる芸能界の大御所となった。
その「ビッグ3」も今やサラリーマンであれば定年を迎え、余生を過ごす年齢である。だが、3人の現在の生き方はそれぞれ異なる。
c0219232_16265750.jpg

〔いい意味で適当〕
 タモリが自分の趣味ややりたい仕事だけを厳選し、人生を楽しんでいる一方、たけしやさんまは今も「お笑い」にこだわり戦い続けている。
だが最近は「ちょっと世間からズレてきた」と感じさせることもある。

 昨年末、コカイン疑惑により俳優の成宮寛貴が芸能界を引退したことについて、たけしは「やめなくたっていいんじゃないの。
相手が『FRIDAY』なんだから、俺みたいにずうずうしく、いきゃあいいんだよ。じゃんじゃん嫌がらせの電話とか。俺が言えた柄じゃないけど」と自虐的にコメント。

 続けて「それだけ気にかけられることは、売れてるってことだと思わないと」と持論を述べたが、ネット上では「売れていることと薬物疑惑は関係ない」との意見も挙がった。

 もう一人の「ビッグ3」であるさんまは、いい意味でも悪い意味でも「お笑いモンスター」として突き進んでいる。
今でも「自分が一番面白い存在である」ことを示そうと、若手芸人に混じって番組ではしゃぎまわっている。

 こちらもネットでは「老害」「痛々しい」といった声が挙がることもある。
二人とも少なからず好感度を落としているのである。

〔たけしさん、さんまさんは常に前へ前へのタイプ〕
 「たけしさん、さんまさんは常に前へ前へのタイプ。もちろん二人とも凄いんだけど、濃すぎるから毎日見ていると疲れてしまう。

〔タモリが「他人に期待していない」〕
 でもタモリさんなら毎日見ていられる。
決して自分の主張を強く出すこともなく、自分と違う意見の人を攻撃することもない。
それでいて『ボソッ』と的を射た発言をする。
タモリさんにはどこか『品』があるんです」(前出の鶴間氏)
c0219232_16281937.jpg
⑥ タモリと昨年亡くなった大橋巨泉氏との共通点を指摘する人も多い。
二人ともジャズ畑出身。
知識が豊富で、遊びの達人、名司会者でもある。
だが巨泉氏が国政や社会について警告を発し続けたのとは違い、タモリにはどこか世間を達観しているような部分がある。

 それは、タモリが「他人に期待していない」からかもしれない。
タモリはインタビューで「他人に期待などしなければ、つまらないことで感情的にならずにすむ。そうすれば人間関係に波風も立たなくなり、円満にだれとでも付き合える」と語っている。

〔無理に気張らずに適度に肩の力を抜いてやろうよ〕
 『タモリ伝』の著者である片田直久氏は、こう分析する。

 「元々早稲田大学でジャズをやっていたのも影響していると思う。本当は熱いんだけど、それを押し付けがましく見せない。一種のダンディズムを感じます。決して力まず、ジャズらしい脱力感を大切にしている」

 「やる気のあるものは去れ」――これはタモリが、ニッポン放送の新年行事でスタッフに向けて書いた有名な格言だ。

 「ガツガツしてもいいんだけど、それを表面に出すことをタモリさんはあまり好まない。
誤解してほしくないのは、適当っていうのは、いい加減という意味ではなく、無理に気張らずに適度に肩の力を抜いてやろうよということ。
それがタモリさんの哲学なんです。タモリさん自身がいい意味で適当な人間ですから」(前出の片田氏)

〔「人に好かれようとする自分が嫌い」〕
 タモリ自身は好感度について昔からまったく意識していない。
実際「人に好かれようとする自分が嫌い」とも語っている。

c0219232_16311271.jpg
⑦ そんなタモリの性格を表すような発言がある。
昨年『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)で、ビストロSMAPの最終回のゲストとして出演した際のこと。

 タモリは解散するSMAPのメンバーに対して「友達なんかいらないって。
俺、あの歌が大嫌いなんだよ、小学校に入ったら『ともだち100人できるかな』って。
そんなことで人生決めんじゃないよ。今どんどん友達減らしていってる」と語った。
この発言に「タモリさんに救われた」と、共感の声が一気に広がった。

〔ネチネチもくよくよもしない〕
 そもそもタモリは、お笑い芸人やスターになりたいと思って、この世界に入ってきたわけではない。
前出の山下氏が振り返る。

 「タモリは昔からギラギラしてなくてヘラヘラしていました。
むしろ『どうせ俺は……』みたいな感じで、目標とか野望が垣間見えることはなかった。
でもそれが逆によかった。タモリの今があるのも、生き方自体にそんなにこだわりがなく、流されるまま面白そうなところについていったからだと思いますよ。

 タモリは何事にもこだわらないところが良い。
変にネチネチしていない。きっと自由を愛しているんです。
さんまさんやたけしさんは、芸人であるということをしっかりと自覚されているけど、タモリは自分で芸人だとは思ってないでしょう」

 あくまで「自然体」で生きる――くよくよしない。
それがタモリの生き方である。

c0219232_16320737.jpg

〔タモリ曰く「自分も含めて皆、大した人間じゃない」。〕
 「タモリさんは未来にも過去にもこだわらない人なんです。
『現状維持』というのがタモリさんの座右の銘であるように、
5年先のことなんて誰も分からないし、いくら過去を悔やんでも取り戻せないんだから反省もしない。
それだったら今を肯定して生きればいいと。

 だから年齢にもまったく縛られていない。
ある時から『いいとも! 』でもタモリさんの誕生日を祝うのをやめました。タモリさんにとっては何歳になったというのは重要じゃないんです」(前出の鶴間氏)

 タモリ曰く「自分も含めて皆、大した人間じゃない」。
「気負わずもっと自然体で生きればいいんだよ」とタモリは教えてくれている。


 「週刊現代」2017年3月11日号より

【独り言】
〔タモリ曰く「自分も含めて皆、大した人間じゃない」。〕
:生まれた時は覚えていない。
死ぬ(最近、先輩・同僚・後輩)を身近に
“何も持って行けない”
「座右の銘」を“今、生きているのが大事”と特に持ってない。

〔無理に気張らずに適度に肩の力を抜いてやろうよ〕
:少しズボラがあってもいいのでは!

〔「人に好かれようとする自分が嫌い」〕
:媚ることはできないな!

〔ネチネチもくよくよもしない〕
:くよくよかどうかわからないが、寝るまでつまらない事に捕まる。



[PR]

by asanogawa-garou | 2017-03-22 16:33 | 人生の質・人生の息吹 | Comments(0)

〔蜷川幸雄〕「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」   

2017年 03月 10日

〔蜷川幸雄〕「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」

玉しき都の泡沫(The beautiful city may be illusion.)より
『日本経済新聞』朝刊 2012/4/24 Nikkei〔私の履歴書〕
c0219232_15484441.jpg
〔「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」〕(子育て)
幼い実花をぼくは新宿の中央公園へつれていき、口笛の吹き方を教えた。
西口の雑踏で、ぼくは自分に言い聞かせるように、実花につぶやいていた。

「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」

〔70代にさしかかって「パンクじじいになる」と放言した。〕自分を壊し まだ駆ける(パンクじじい)
家には人を呼ばない。
芸能人で我が家を訪ねた人はほとんどいない。
親しくなりすぎると、関係がフェアでなくなるからだ。
〔50代の苦悩〕
「青梅街道の風になるんだ」といって失笑されたが、ひばりケ丘の自宅からベニサンまでバイクで走る。
〔俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。〕
「蜷川さん、水戸黄門の再放送を見たわよ。お公家さんやってたでしょ。あんなヘタな演技を見てしまったら、駄目出しが聞けなくなるわ。
もう、やめてちょうだい」
〔子育て〕「主夫」、仕事も抱えダウン(診断書は「育児疲れ」。)
朝起きてバギーに実花を乗せ、荒川の土手で遊ばせる。
洗濯し、それを取りこみ、実花をお風呂に入れる。
買い物をして夕ご飯の支度をし、洗い物をする。
スポック博士の育児書に忠実な主夫だった。

〔母親でさえ「長続きしないよ」と言ったくらいで、これも突然の結婚だった。〕
〔女優の妻が家計支える〕「アブカワさん、よろしくお願いします」。(結婚)
「アブカワさん、よろしくお願いします」。
結婚した真山知子がぼくに向かって最初にかけた言葉だ。
〔ぼくは「バカヤロー」を連発し、灰皿や時にはイスを投げた。〕
〔鋳物の街・川口〕飛び交う「バカヤロー」
〔内気、幼稚園1日で挫折〕(戦争の頃)
〔持ちあげられると、自分を引きずりおろしたくなる。〕
〔飼いならせぬ自意識と苦闘〕桜の憂鬱
〔「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」〕
演出家になる前は俳優をしていたが、この過剰な自意識が演技に災いした。自意識を飼いならせないから、うまく演じられない。

c0219232_15504673.jpg

〔70代にさしかかって「パンクじじいになる」と放言した。〕自分を壊し まだ駆ける(パンクじじい)
家には人を呼ばない。
芸能人で我が家を訪ねた人はほとんどいない。
親しくなりすぎると、関係がフェアでなくなるからだ。
舞台を批判されるのは仕方ない。
けれどもフェアでない劇評には抗議する。
劇場に壁新聞をはり、私家版のニナガワ新聞をロビーで配って劇評を批判したことがあるのは、そういう思いからだ。

幼いころから演劇の現場を知っている長女の実花は、女優になりたかったらしい。
ぼくは知らん顔をしていた。
父親が演出家では、女優として使われにくい。
自分も、娘から他人の演出について聞きたくない。
すると実花は美大に入って写真家になった。
蜷川幸雄の子だと思われるのが嫌だろうから、ぼくは展覧会場にもなかなか顔を出さない。
実花は自分で作品を雑誌に売りこみ、はじめから自立していた。
高校、大学のころ一緒に道を歩いていても、実花は風景を撮らず、花のアップを接写していた。
ぼくの部屋で資料の残酷絵を眺めていた。
不思議な子だと思っていたが、なにも言わなかった。
小さいころから実花に言っていたのは、こういうことだ。
「カッコいい生き方とはどういうものだろう。カッコいい女がいいよな」
たまにはほめて、と言っているようだが「まあまあだな」と言うくらい。
ただ撮った映画を見ると、映像は実花の方に才能がある。
ぼくも1981年に公開された「海よお前が―帆船日本丸の青春―」以来、映画を撮り続けている。
室内の演劇と異なる演技をロケで発見したり、カット割りしたりするのは楽しい。ただ演技のつけ方の細かさで演劇の経験は生きるが、どういうシチュエーションでその場を映像にするかという点では映画監督に、まだまだかなわない。
真山知子は女優をやめてキルト作家になり、次女の麻実は編集者になった。
c0219232_15513658.jpg

〔50代の苦悩〕路上の風が体中の細胞を再生してくれた。
50代に入り、メランコリーに侵されていたのだ。
神経過敏な状態に追いこむ仕事の仕方を改めるよう医師にさとされ、そう心がけたら、いい作品ができなくなった。
救ってくれたのは若い俳優たちだ。
商業演劇に出る若者に演技を見てほしいと頼まれたぼくは、80年代初めから蜷川教室をあちこちで開いていた。
それをもとに84年秋、ゲキシャ・ニナガワ・スタジオを結成する。
森下の染色工場を貸し稽古場にした紅三という会社の亘理幸造専務が、場所を提供してくれたのだ。
稽古場に付属する小劇場ベニサン・ピットで、チェーホフや清水邦夫の戯曲を実験的に演出した。
原点の小劇場に立ち返る日々、突然バイクに乗り始めた。
「青梅街道の風になるんだ」といって失笑されたが、ひばりケ丘の自宅からベニサンまでバイクで走る。
路上の風が体中の細胞を再生してくれた。

〔俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。〕
俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。
79年に上演された秋元松代さんの「近松心中物語」の稽古で、こういわれた。
「蜷川さん、水戸黄門の再放送を見たわよ。お公家さんやってたでしょ。あんなヘタな演技を見てしまったら、駄目出しが聞けなくなるわ。
もう、やめてちょうだい」
ぼくの俳優人生は50歳のころ、ようやく終わる。
演出家としては年収60万とか70万の時代が続いたが、妻が女優をやめても演出で食べられるように、やっとなった。

〔子育て〕「主夫」、仕事も抱えダウン(診断書は「育児疲れ」。)
「主夫」、仕事も抱えダウン
商業演劇巡り孤立、櫻社解散
東宝の舞台で初めて演出料をもらった。
40、50万円だった記憶がある。
日生劇場や帝国劇場で年1、2本の演出を手がけるようになったとはいえ、食べていけない。
そもそも演出家は職業として認められていなかった。
苦しかったこの1970年代、どうやって暮らしていたかと問われれば「女房のヒモだった」と答えるしかないだろう。
現代人劇場や櫻社を経済的に支えたのも、真山知子や皆が映画やテレビで稼ぐお金だった。
真山は子供をほしがったが、ぼくは演出で妥協したくなかったので拒んでいた。
現代人劇場が71年秋に解散したとき、真山は一冊の預金通帳を差し出した。夫婦でネパールへ行く資金として貯めていた100万円だった。
「しばらく働かなくて大丈夫。ネパールにするか、子供をつくるか選んで」と迫られた。
翌年生まれたのが、写真家になる長女の実花だ。
赤ちゃんの世話に熱中する真山にぼくは言った。
「君は女として駄目になる。育児はぼくがやるから仕事をすれば」
78年に次女の麻実が生まれ、育児役を真山と交代するまで、ぼくは優秀な主夫だった。
朝起きてバギーに実花を乗せ、荒川の土手で遊ばせる。
洗濯し、それを取りこみ、実花をお風呂に入れる。
買い物をして夕ご飯の支度をし、洗い物をする。
スポック博士の育児書に忠実な主夫だった。
母親は「ユキオがおしめをくわえて走り回っている」と驚いた。
台本を読んだり、資料を調べたりする時間は夜の10時以降になる。
商業演劇の初演出となる「ロミオとジュリエット」の上演を控えていたころ、
ついに過労でダウンする。診断書は「育児疲れ」。
稽古場や会議室にも実花をつれていった。
打ち合わせ中に「おむつ換えなきゃ」「離乳食の時間だ」と何度も席をはずすものだから、舞台美術の朝倉摂さんによく叱られた。
子連れ狼(おおかみ)ならぬ、子連れ演出家だ。
実花は劇場のロビーで遊び、監事室で芝居を見て育った子だ。
はじめ母乳だった実花は、あるとき乳首を求めて、ぼくの胸に顔を寄せてきた。母と子の結びつきはこんなに強いのか。
身をもって知る生き物の感覚は、ギリシャ悲劇で母子の関係を演出するとき役に立つ。子育ては学校だ。
家事が体にしみついているぼくは、いまでも手が空けば洗濯や炊事をする。家事は一番暇な人がすればいい。

さて、商業演劇の仕事をしたぼくは仲間から孤立する。
櫻社に帰って新しい舞台をつくろうと思っていたが、ある日参宮橋のスナックに呼び出された。
何十人もの俳優やスタッフに「なぜ商業演劇をやるのか」と批判された。
その場で解散が決まった。
74年夏のことだ。
帰り道、蟹江敬三が「キンちゃん、どうするの」と聞いた。
「しょうがないから商業演劇やるよ」。
蟹江は「ぼくもひとりでやる」と言った。
汝の道を歩め。
そして、人々をしてその語るに任せよ。
ひとりぼっちになったぼくは「資本論」の序に引かれたダンテの「神曲」の一節を心の支えとした。
幼い実花をぼくは新宿の中央公園へつれていき、口笛の吹き方を教えた。
西口の雑踏で、ぼくは自分に言い聞かせるように、実花につぶやいていた。
「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」(演出家)

c0219232_15521515.jpg

〔母親でさえ「長続きしないよ」と言ったくらいで、これも突然の結婚だった。〕
女優の真山知子と結婚したのは前の年だ。
母親でさえ「長続きしないよ」と言ったくらいで、これも突然の結婚だった。
俳優として精進し、稼がないといけないときだ。
ある日、夕食のしたくをする真山に「演出家になろうと思うんだ」と告げた。
「聞いてないわよ」と彼女は驚き、「結婚詐欺!」と叫んだ。
「俳優と結婚したのに」と不安の色を浮かべたが、最後は笑って受け入れてくれた。
川口の2Kの団地に新居を構えていたぼくは表札に「蜷川TENSAI」と掲げた。そこまでやれば必死に勉強するだろうとの思いつきだが、集金の人が廊下中に響く声で「ニナガワテンサイさーん」と呼ぶのには、まいった。


〔女優の妻が家計支える〕「アブカワさん、よろしくお願いします」。(結婚)
「アブカワさん、よろしくお願いします」。
結婚した真山知子がぼくに向かって最初にかけた言葉だ。
青俳の7期下だった真山は東映のニューフェース出身だった。
テレビの仕事で名古屋に行ったとき、新幹線で偶然席が隣り合わせになった。
ぼくは激化するベトナム戦争について解説したらしい。
それがきっかけだった。

劇団では何カ月で別れるか賭けられていた。
「4カ月」に賭けた人が一番多かったそうだ。
真山は「将来性のない俳優とよく結婚するね、と言われた」と笑っていた。
ぼくはサルトルとボーヴォワールに影響されて互いを束縛しない別居結婚を提案したが、これには真山が反対した。
1966年5月、目白の椿山荘で結婚。
媒酌人は岡田英次、和田愛子夫妻。新婚旅行は軽井沢と八ケ岳だった。
結婚する直前まで、ぼくはNHKの「チコちゃん日記」という子供向けのドラマに出ていた。
夕方6時半の放送なのでテレビや映画の関係者が見ない。
終わると仕事が途絶えた。
結婚したのに夫は金がない。
倍近いギャラをとる妻が家計を支えていた。
目をかけてくれた文学座の制作者の方が仕事を持ってきてくれた。
それは愛のもつれを描く斬新な映画だった。
美容室を経営する百合子が年下の愛人杉野と別れの旅に出る。
百合子の昔の恋人今井を交え、危険な旅が続く。
68年に公開された吉田喜重監督の「樹氷のよろめき」という映画だった。
百合子が岡田茉莉子さん、今井が木村功さん、杉野がぼくだった。
別れをこばむ杉野と百合子のラブシーンがあった。
たばこを当時吸っていたぼくは撮影当日、じっと我慢した。

c0219232_15530923.jpg
〔ぼくは「バカヤロー」を連発し、灰皿や時にはイスを投げた。〕
ぼくは「バカヤロー」を連発し、灰皿や時にはイスを投げた。
サングラスをかけている俳優がいる。
「おい、はずせ、そのサングラス!」
スリッパをはき、ほうきを逆にして、えいえいと殺陣をやっている。
「なんだそれ!ルネサンスの街でスリッパはいてんのか」。
稽古場でコーヒーが出るのに感動しながらも、商業演劇に慣れきった俳優を罵倒し続けた。
幸四郎さんと中野良子さんを舞台で全力疾走させた。
愛の神話を伝説化する民衆のまなざしを示したかったのだ。
階級構造を示す3層の装置の最上段で大公は民衆に大声を出す。
はじめ、蚊の鳴くような声だった。
走っていって「本気で声出してください」と頼むと「声がつぶれるよ」。
「明日つぶれるなら今日つぶれろ」とにらみ合った。

稽古初日の翌日、商業演劇の重鎮だった森繁久弥さんが「日生に威勢のいいのが来たんだって?」と話していたらしい。
数年後、お呼びがかかった。
楽屋で焼き穴子のお雑煮をいただきながら
「蜷川君、『どん底』やろう。新劇俳優が嫌いだろ、違う配役でやろう」と切り出された。
「なんの役をやりたいですか」と尋ねると「オレはサーチンだよ」。
人を手玉にとるルカならいいが、二枚目のサーチンでは……。
話はお蔵入りになった。

〔鋳物の街・川口〕飛び交う「バカヤロー」
夏場は皆塩をなめ、汗だくになって働いていた。
工場の中は明かり取りの窓から光が入るだけで薄暗い。
入り口は道に面しているから、子供でものぞける。
ちょこちょこ遊んでいようものなら「どけどけどけ!」と火がつくように怒られた。
一瞬の油断が命取りになりかねない。
この街では「ぼやぼやしていると危ないですよ」が「気をつけろ、バカヤロー」になるのだった。
のちに演出家になったぼくは稽古場で「バカヤロー」を連発した。
口が悪いとか、こわいと思われたようだ。
それは「おい元気か、バカヤロー」があいさつになる川口っ子にとっては普通の言葉。
照れくささと親しみがこもった表現なのだ。
ぼくの演出する舞台は開幕からの3分を大切にする。
懸命に働いた人たちが夢を見ようと足を運ぶところが劇場だ。
幕が開いたとたん眠気に襲われる芝居であってはならない。
そう戒めている。

〔内気、幼稚園1日で挫折〕(戦争の頃)
ぼくは近所の人にユキ坊とかユキちゃんと呼ばれていたが、
このユキ坊、ひどい人見知りだった。
幼稚園には1日しか行かない。
同じ年の子供がたくさんいるのが嫌で、すぐ帰ってきてしまったのだ。
先生が嫌なのではなく、人がいっぱいいるのに耐えられなかったのだと思う。
「もう行かない」と駄々をこねた。
川口市の第一国民学校(今の本町小学校)に入学しても、
臨海学校や山間学校には一度も行かなかった。
夏に千葉の房総にあった寮へ行くのを皆が楽しみにしていたが、
ぼくは行かなかった。
参加するのは日帰りの遠足まで。
それでも先生や両親から何か言われた記憶はない。
「ユキ坊はそういう子だ」と許容されていた。

演出家になってからも相変わらず人見知りで、人が多いのは苦手だった。
稽古場で俳優やスタッフともみ合っていると、
幼稚園を逃げ出したときと同じような衝動がこみあげてきて、
一目散に家に帰りたくなることがある。
部屋に飛びこんで本と向きあいたくなるのだ。
稽古を終えて俳優と飲みにいく演出家もいるが、ぼくはそういうことはしない。
つきあうのは打ち上げだけだ。

〔持ちあげられると、自分を引きずりおろしたくなる。〕
ぼくは生まれつき自意識過剰で、ことあるごとに恥ずかしいという気持ちに襲われる。
小学生のころから変わらないのは、遅刻しないこと。
遅れて教室に入ると皆がふりかえる。
その恥ずかしさを絶対経験したくないという思いがもとになって、
大人になっても遅刻はしない。
新幹線で寝るときも人に顔を見られたくないから、上着で隠す。
賞をいただき、晴れがましい席に出るのが耐えがたい。
出席してもすぐ帰る。
持ちあげられると、自分を引きずりおろしたくなる。
秋元松代さんの「近松心中物語」の演出で芸術祭大賞を受賞したあと、
日劇ミュージックホールのストリップを手がけたのも、
芸術という言葉への恥ずかしさからだった。

〔飼いならせぬ自意識と苦闘〕桜の憂鬱
戦争が終わってまもないころ、
ぼくらの小学校では給食の調理に用いる薪を役所まで大八車で取りにいくのが日課だった。
ある日、なぜか車に足を突っ込みたくなった。
わけのわからない衝動だった。誘惑に負け、足を入れた。
まんまと車は足をひき、激痛が走った。
爪が紫色に腫れあがる。
人には言わず、黙って学校に行って我慢した。
深層心理的なコンプレックスなのかどうかわからない。
ただ、ぼくにはどうも自己処罰の衝動のようなものがある。

〔「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」〕
c0219232_15535071.jpg

演出家になる前は俳優をしていたが、この過剰な自意識が演技に災いした。
自意識を飼いならせないから、うまく演じられない。
演出家になってしばらくして、いまは亡き太地喜和子さんが言った。
「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」

高校で落第し、東京芸大に落ちて画家をあきらめ、
俳優になってもヘタクソだった。
職業として社会的に認められていたとは言いがたい演出家になってからは、
胃痛に苦しんだ。
ラーメンが嫌いになり、新宿がうとましくなったのも、
胸しめつけられる演劇の思い出と結びついたからだ。
桜と同じく回復には時間がかかった。
演出の発想はいつも危地から生まれ出てきた。
本当は避けたいのに、自己を危険にさらす。
あえて自分を引き裂かれる目にあわせたい。
傷だらけのぼくの人生はその繰り返しだった。(演出家)

【平蔵の独り言】
〔「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」〕(子育て)
幼い実花をぼくは新宿の中央公園へつれていき、口笛の吹き方を教えた。
西口の雑踏で、ぼくは自分に言い聞かせるように、実花につぶやいていた。

「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」

【独り言】
「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」
これが難しいが、自立心を持って行けば自然に“これでいいのか”と思うば、人は人・・・・・・・・

【平蔵の独り言】
〔「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」〕
〔俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。〕
「蜷川さん、水戸黄門の再放送を見たわよ。お公家さんやってたでしょ。あんなヘタな演技を見てしまったら、駄目出しが聞けなくなるわ。
もう、やめてちょうだい」

【独り言】
太地喜和子:やはり心の熱い女優、惜しい女優を亡くした。
三国連太郎が狂った女優、中村勘三郎が恋した女優


[PR]

by asanogawa-garou | 2017-03-10 15:42 | 人間模様 | Comments(0)