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1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。1978年までW杯取材費は自腹   

2017年 02月 03日
1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。1978年までW杯取材費は自腹
〔91歳の現役最年長サッカー記者、1978年までW杯取材費は自腹〕
※週刊ポスト2017年1月1・6日号 2017.01.04 07:00


〔活躍を続ける90代は、自らの“老い”とどう向き合い、折り合いをつけているのか〕

〔1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。〕

〔91歳の現役最年長サッカー記者、1978年までW杯取材費は自腹〕


【90歳のサッカーライター賀川浩氏がFIFA会長賞を受賞「この上ない名誉」】
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①【特攻隊で生き残って現役最年長サッカー記者へ(賀川浩氏)】

〔活躍を続ける90代は、自らの“老い”とどう向き合い、折り合いをつけているのか〕
 長生きは本当に「めでたい」ことなのか。
歳を重ねれば体の不調や気力の落ち込みを実感することも増える。
各界で活躍を続ける90代は、自らの“老い”とどう向き合い、折り合いをつけているのか──。

 週2回、自らの資料を寄託した「神戸賀川サッカー文庫」を訪れる「現役最年長サッカー記者」の賀川浩氏(91)。本誌記者の質問に大学ノートを開き、固有名詞や地名をひとつひとつ記して丁寧に説明してくれた。

 * * *
 90歳になってから、サッカー関連の資料や蔵書を神戸市立中央図書館に寄託しました。
ボランティアの協力もあり、館内のスペースに「神戸賀川サッカー文庫」として陳列しています。

 若い頃にフットボールで体を鍛えて、今も3食しっかり取る。
仲間たちの配慮もあり、安心して生活しています。

 人生を振り返ると、サッカーが大好きでスポーツ紙の記者になり、大阪編集局長まで経験し、90歳を超えた今もフリーとしてサッカーの記事を書いている。
これ以上のことはありません。欲を言えば、もう少しお金があればいいけど(笑い)。

〔1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。〕
 日本でサッカーが人気になるずっと前から、世界中で愛されるスポーツが日本で流行らないのはおかしいと言い続けてきました。
あらゆる日本のスポーツが変わった1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。
〔91歳の現役最年長サッカー記者、1978年までW杯取材費は自腹〕
 サンケイスポーツ編集局次長だった1974年、初めて西ドイツのワールドカップを取材しました。
なぜ取材が必要かを会社に説明することから始まり、給料は出たものの費用はすべて自前でした。
当時、朝日新聞は社費で取材に来ていましたが、読売新聞の記者は私と同じく自費でしたね。

 1974年西ドイツ大会、1978年アルゼンチン大会と1回100万円を自腹で用意して取材すると、3回目から会社が費用を出すようになりました。
でも4年に1度、大金を使ったからか、私は長く結婚できなかった(苦笑)。
サッカー界を盛り上げるには、そこから始めるしかありませんでした。

 以降、2014年のブラジル大会まで10大会連続でワールドカップを取材し、現役最年長記者として2015年1月に国際サッカー連盟(FIFA)から表彰されました。

“お前、よぅ頑張ったなあ”と褒めてくれる先輩が誰もいなくなったことがやはり寂しかったですね。

 今は昔と比べて、日本でもサッカーが不動の人気になって選手の技術も向上し、日本代表も順調に強化しています。
自分の功績とは思いませんが、サッカーがここまで日本に根づいたことは私の密かなプライドです。

 実は私は、終戦前の1945年4月に陸軍の特攻隊第413飛行隊員になりました。
本土決戦に備え、朝鮮半島に渡って2枚翼の練習機で突っ込む訓練をして、出撃する直前に玉音放送が流れました。

 終戦後、現地の小学校の校舎で待機していたある雨の日、近所の子供とボールを蹴りました。
“日本に帰れば、またサッカーできるんだ”と嬉しかったことを覚えています。

 戦争から生きて帰ってきた時、70歳まで生きると思っていませんでした。
こんなに長生きして、周囲に迷惑をかけていないか、少し心配ですが、
90歳になっても、書く意欲やスポーツへの興味はまだまだ衰えません。

サッカーの技術論も世に出したいし、書きたい人物も残っています。

 神戸賀川サッカー文庫に顔を出す回数も増やしたい。
もちろん、この先もサッカーの取材でスタジアムを訪れるつもりです。

●かがわ・ひろし/兵庫県神戸市生まれ。神戸経済大卒業。サンケイスポーツ大阪編集局長を経験。2010年に日本サッカー協会より日本サッカー殿堂特別表彰。2015年にFIFA会長賞受賞。自身のサッカー関連蔵書を「神戸賀川サッカー文庫」として公開している。

※週刊ポスト2017年1月1・6日号


【90歳のサッカーライター賀川浩氏がFIFA会長賞を受賞「この上ない名誉」】
サッカーキング 2015.01.13
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②FIFAのブラッター会長(右)とスピーチをする賀川氏(左) [写真]=FIFA via Getty Images
 FIFA(国際サッカー連盟)主催のバロンドール表彰式が12日にスイスのチューリッヒで行われ、サッカーライターの賀川浩氏が日本人初となるFIFA会長賞を受賞した。

賀川氏は自身の公式サイト(http://kagawa.footballjapan.jp/)で、
授賞スピーチのオリジナル版を13日に掲載している。

 2014年12月29日に90歳となった賀川氏は、「バロンドールの表彰という、年に一度のFIFAのすばらしいセレモニーに出席できて光栄に思います。またFIFA会長賞というとても大きな賞を頂くことはこの上ない名誉です」と、喜びと感謝を示した。

 1974年の西ドイツ・ワールドカップから2014年のブラジル・ワールドカップまで、10大会連続で取材するなど、ジャーナリストとして62年間活躍を続けている賀川氏。

「10回取材をしたワールドカップについても、新聞や雑誌で多くのページを使いました。
その量と内容には多少の自負もあります」と語るが、「日本というローカルの記者にすぎません」とし、
同賞の受賞を悩んだことを告白している。

 しかし、「日本サッカーが近年に急速に成長したこと、その成長についてメディアが多少の役割を果たし、そのメディアのなかでの最年長者として(ブラッター)会長は私を表彰して下さるのだと思うようになりました」と続けると、「日本のフットボールジャーナリストの最年長者としてこの受賞の名誉をうけることで、FIFAがメディアを大切なものと考えていることを伝えたいと思います」として、受賞を決断したことを明かしている。

 また、ゼップ・ブラッター会長との関係について、
「会長は1979年第2回ワールドユース日本開催、ディエゴ・マラドーナが19歳で活躍した大会に、FIFAの担当者として大会の運営にあたられました。
そのときの記者会見でフランス語をブラッターさんが英語に訳し、その英語を私が日本語で記者たちに伝えたこともありました」と振り返り、

「そのとき以来、ブラッター会長は日本サッカーに対して常に好意的であり、バックアップして下さることをいつも感謝しています」と、同会長に感謝を示した。

 そして、賀川氏は「私の英語はそのとき以来進歩していないので、今日の授賞式参列もいささかちゅうちょした」と明かすも、
「私の若い仲間たちから、(マヌエル)ノイアーや(クリスティアーノ)ロナウドや(リオネル)メッシに会えるだけでもいいじゃないか、大スターたちのサインをもらうことを忘れないで、と励まされ送り出されました」と、出席の決断をした理由を冗談を交えて語っている。



90歳のサッカーライター賀川浩氏が日本人初のFIFA会長賞を受賞
15/1/13 03:29 【海外 一覧】
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③FIFA会長賞
「FIFAバロンドール2014」の授賞式が12日に行われ、90歳の現役サッカーライター、賀川浩氏が、日本人として初めてFIFA会長賞を受賞した。

 神戸出身の賀川氏は、1974年の西ドイツ大会から、2014年のブラジル大会まで10大会連続でW杯を取材しており、2014年12月に会長賞の受賞が決まっていた。

 スイス・チューリッヒで行われた表彰式に出席した賀川氏は、
「FIFAのブラッター会長、そして、みなさま、私は今日、この素晴らしいFIFAバロンドール授賞式に出席できて大変光栄です。
私にとって、この会長賞を受け取るのは、この上ない栄誉です。
1979年にブラッター氏は、FIFAの組織メンバーの一員でした。
そのとき、日本で第2回ワールドユースが開催され、19歳のディエゴ・マラドーナがプレーしました。
残念ながら、私の英語は、当時から少しも上達していないので、この授賞式に出席することを躊躇していました。

ですが、日本にいる若い友人に『マヌエル・ノイアー、クリスティアーノ・ロナウド、リオネル・メッシに会えるんだから、絶対に行くべきだ』と言われて、ここに来ました。
彼らには『3人にサインをもらってくるのを忘れないでね』とも言われました」と、英語で冗談を交えたスピーチを行い、会場に笑顔の花を咲かせた。

【平蔵の独り言】
1964年東京オリンピックを控えたサッカー日本代表を指導するため来日した
コーチ(テッドトール・クラマーさん)
1968年メキシコ五輪でエースストライカー釜本さんのゴール
日本のサッカー界の知れなかった歴史を教えてくれた。

【独り言】
〔1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。〕
そうですよね!
メキシコ五輪の銅メダル
これで少し”サッカー”って、なんだ?

1980トヨタカップ
1993Jリーグ
1994アメリカW杯
2002日韓W杯(決勝 ドイツvsブラジル  キーパー“カーン”がポストにへたり込んでいた)


トヨタカップがJリーグより以前に国立競技場で毎年12月に
クラブ世界一をヨーロッパvs南米 の優勝クラブで戦っていた・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2017-02-03 15:48 | サッカー | Comments(0)

【クラブW杯】「むしろ大変なのはこれから」――マドリーを追い詰めた柴崎の責任感と覚悟   

2016年 12月 23日
【クラブW杯】「むしろ大変なのはこれから」――マドリーを追い詰めた柴崎の責任感と覚悟
2016年12月19日広島由寛(サッカーダイジェスト)
「試合に勝っていれば、もっともっと喜べたと思います。ほとんど嬉しさはありません」
「2位も最下位も一緒。歴史的には優勝したレアル・マドリーの名前が残っていくだけ。そこに自分たちの名を刻みたかった」


【クラブワールドカップ2016の決勝で、レアル・マドリーを苦しめた鹿島アントラーズ。】
鹿島アントラーズ、この1ヶ月で手にした「賞金」がスゴいことに!

【クラブW杯】「むしろ大変なのはこれから」――マドリーを追い詰めた柴崎の責任感と覚悟
欧州王者を“本気”にさせたふたつのファインゴール。

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①「自信がないわけではない」という左足で2ゴールを挙げた柴崎。
2点目を目の前で見ていたL・バスケス(右)は「非常に良い形で2ゴールを決めたね」と称賛した。
写真:佐藤明(サッカーダイジェスト写真部)
[クラブW杯決勝]レアル・マドリー 4−2 鹿島アントラーズ/2016年12月18日/横浜国際総合競技場

 右足の負傷により今大会を欠場したガレス・ベイルの代役として、レアル・マドリーの優勝に小さくない貢献を見せたルーカス・バスケスが、鹿島の背番号10について次のように印象を語る。

「非常に良い形で2ゴールを決めたね。そのおかげで、こちらもやり辛くなった部分はあった」

 結果的には、その“2ゴール”が引き金となり、
先制しながらも逆転されたマドリーは「明らかにプレースピードが変わった」(土居聖真)。
すぐさまクリスチアーノ・ロナウドのPKで追いついてスコアを2-2とすると、
延長戦に入ってからさらにC・ロナウドが2点を追加し、激闘に決着をつけた。

 欧州王者を“本気”にさせたのが、柴崎岳だった。
0-1で迎えた前半終了間際、土居のクロスを起点に、
相手のクリアミスを見逃さず、鮮やかに左足ボレーを突き刺す。

 さらに52分には、軽やかなステップで目の前のDFをかわし、「自信がないわけではない」という左足のシュートで再び、ネットを揺らしてみせた。

 クラブ世界一を決めるファイナルの舞台で、あのマドリー相手に2ゴールの活躍ぶり。
しかし、柴崎本人は「僕だけの力ではない。チームとしての流れだったり、プレーがあったなかでの得点。みんなに感謝したい」と謙虚に語る一方、笑顔は見せなかった。

「試合に勝っていれば、もっともっと喜べたと思います。ほとんど嬉しさはありません」

 自身はハイパフォーマンスを披露も、「2ゴールしたとはいえ、チームを勝利に導けなかったのは、非常に悔しいです」と無念の表情を浮かべる。

 下馬評では圧倒的にマドリー有利だった。
当然だ。歴史、クラブ規模、個々のタレント力など、マドリーと鹿島では、すべての面で歴然とした差があることに異を唱えるものは皆無だろう。

 そんな相手に対し、鹿島こそ“本気”だった。真剣に優勝を狙っていた。

「2位も最下位も一緒。歴史的には優勝したレアル・マドリーの名前が残っていくだけ。そこに自分たちの名を刻みたかった」

きのう行なわれたクラブワールドカップ決勝は、欧州王者のレアル・マドリーがJリーグ王者の鹿島アントラーズを下し、2年ぶりのクラブ世界一に輝きました。
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【クラブワールドカップ2016の決勝で、レアル・マドリーを苦しめた鹿島アントラーズ。】
鹿島アントラーズ、この1ヶ月で手にした「賞金」がスゴいことに!
2016年12月19日 11時45分
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③クラブワールドカップ2016の決勝で、レアル・マドリーを苦しめた鹿島アントラーズ。
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④結局2-4で敗れ“クラブ世界一”の称号には及ばなかったものの、あのマドリーを本気にさせたという衝撃は大きい。
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⑤日本のみならず、世界中のサッカーファンが鹿島の奮闘に心を打たれたはずだ。
そんな鹿島といえば、Jリーグチャンピオンシップで準決勝からの出場となり、ここ1ヶ月はタイトなスケジュールが続いていた。
11月23日に行われた川崎フロンターレとの試合から数えて、この日のマドリー戦は7試合目。
今週末には天皇杯の準々決勝も予定されており、1ヶ月間で8試合を行う見込みだ。

それでも、タイトルのかかった一戦を数多くこなしてきたことから、
この1ヶ月間でしっかりとした賞金を手に入れた。
その内訳は以下の通り。
【J1 年間優勝】
・賞金1億円
【J1 年間勝点3位】
・賞金2000万円
【Jリーグチャンピオンシップ 準決勝勝利】
・賞金1500万円
【クラブワールドカップ 準優勝】
・賞金400万ドル(およそ4億7000万円)
【合計】
・賞金およそ6億500万円

クラブワールドカップの賞金は発表されていないため、英国『Mail Online』が伝えたものを参考としているが、その額なんと6億5000万円!
Jリーグが発表している「クラブ経営情報開示資料」によると、鹿島の2015年度の人件費は20億2300万円。
つまり、その1/3ほどの額を鹿島はこの1ヶ月で獲得したことになる。
また、6億5000万円というのは入場料収入(7億8000万円)にも近い額である。

なお、鹿島はJ1のファーストステージでも優勝しているため、
これとは別に「ステージ優勝ボーナス」として賞金5000万円を獲得。
また、クラブワールドカップではフェアプレー賞に輝いており、
2万5000ドル(およそ294万円)相当の小切手を手にしている。
この賞金は、ユース育成を目的とした備品購入に使用できるという。

【平蔵の独り言】
FIFAクラブワールドカップ(2016)にJリーグのクラブが決勝に
凄いことが起こった。
サッカーの二大勢力であった欧州と南米のサッカークラブ世界一決定戦が
トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップとして日本で開催されるようになって
12月はトヨタカップ、毎年楽しみにしていた。

ヨーロッパでは、ワールドカップよりチャンピオンズリーグの方が人気がある。
と聞いたことがあるが、
“ワールドカップ”は4年に一度、国を代表して選手を集めての大会
“チャンピオンズリーグ”はヨーロッパのクラブの毎年の大会
スペイン・リーガ
イングランド・プレミアリーグ
ドイツ・ブンデスリーガ
イタリア・セリエA

ヨーロッパ各国のリーグのクラブ優勝
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⑥UEFAチャンピオンズリーグ 2015-16 (UEFA Champions League 2015-16) は、61回目のヨーロッパクラブ王者を決める大会である。
UEFAチャンピオンズリーグとしては24回目であり、新しい大会方式では第7回目。
決勝戦はイタリア・ミラノのスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァで開催された[1]。
決勝戦ではレアル・マドリードがアトレティコ・マドリードを破り2大会ぶり11回目の優勝を果たし、2016 UEFAスーパーカップ及び、FIFAクラブワールドカップ2016の出場権を獲得した。

鹿島は開催国枠で出場したが、
来年はUAEで開催だから、アジアチャンピオンになる事が条件になる・・・・・
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by asanogawa-garou | 2016-12-23 16:45 | サッカー | Comments(0)

【クラマーさん】「人生最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」「次のカマモトを    

2016年 02月 19日
【デットマール・クラマーさん】「人生最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」「次のカマモトを見つけなければ」
 
【デットマール・クラマーさん】「人生最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」

日本サッカーのことを案じ「もう一度、日本に行きたい」

【クラマー氏死去】「次のカマモトを見つけなければ」 日本の「大和魂」を心から愛した

〔"日本サッカーの父"五輪8強導いた言葉の魔術師 デットトール・クラマー氏〕

〔「もう一度、日本に行きたい」〕

〔川淵氏「恩師」〕

<東京五輪後のクラマー氏5つの提言と現状>

〔釜本氏「クラマーさんにサッカーの神髄教わった」『蹴る』『止める』『運ぶ』〕

【川淵氏「人生の恩師」 教え子たち、クラマー氏悼む】



〔「日本サッカーの父」クラマー氏死去 東京五輪8強導く〕
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①1963年に当時の長沼健監督(左)と並んで日本代表の試合を見つめるクラマーさん

〔「人生最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」〕
75年にドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンを率いて欧州のカップ戦を制したときも
「人生最高の瞬間は日本が(68年)メキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」と語った

【クラマー氏死去】「次のカマモトを見つけなければ」 日本の「大和魂」を心から愛した
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②J2福岡のリトバルスキー監督(右)と話すデットマール・クラマー氏=2007年5月、福岡市東区
産経ニュース2015.9.18

 元日本代表コーチで日本サッカー界の発展に尽力し、 「日本サッカーの父」 と呼ばれたドイツ人指導者のデットマール・クラマー氏が17日、ドイツ南部ライトインビンクルの自宅で死去した。90歳だった。
今年初め、体調を崩されたという話は聞いていた。
 2006年7月、ドイツW杯取材の合間にお願いし、オーストリア国境にほど近いライトインビンクルの自宅を訪ねた。
クラマーさんは筋力トレーニング室で汗を流し、
「これが俺の若さの秘訣(ひけつ)だよ」と照れながらウインクしていた。
 当時も離れて久しい日本を真剣に憂えていた。
 「日本は次のカマモトを見つけなければ」
 「技術はあるがゴールを狙っているのか」

 往年の名ストライカーに匹敵する選手の不在を嘆き、低いシュート精度をズバリ指摘した。
 自宅の執務室には日本刀、日本代表の寄せ書きが飾られていた。

75年にドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンを率いて欧州のカップ戦を制したときも
「人生最高の瞬間は日本が(68年)メキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」と語った。
死力を尽くした日本選手の「大和魂」を心から愛した。
 約2時間の取材が終わった。
「おれがタクシーを呼ぶ」とわざわざ電話を入れ、約1時間後に車のクラクションが鳴った。玄関まで送ってくれた「父」は「また、いつでもおいで」と笑った。
 日本は2018年ロシアW杯アジア予選で苦戦している。
もう一度、山間の町に行って「父」の処方箋を聞きたかった。(榊輝朗)

〔"日本サッカーの父"五輪8強導いた言葉の魔術師デットトール・クラマー氏〕
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③出典www.foxsports.com
クラマー氏は1960年、東京五輪を控えたサッカー日本代表を指導するため、
コーチとして来日し、釜本邦茂、杉山隆一、川淵三郎といった往年の名選手を鍛え上げ、
64年東京五輪では日本代表を見事8強へと導きました。
国内リーグの必要性も提言し、65年の日本サッカーリーグ設立に導いた。
その後、アドバイザー的な立場で日本代表を支え、クラマー氏の指導を受けた日本代表は68年メキシコ五輪で銅メダルを獲得しています。

更に、離日する際にはJリーグの前身となる初の全国リーグJSL(日本サッカーリーグ)創設を提言するなど日本サッカーの礎を築いたの重要性を説くなどの提言を残し、サッカーのみならず日本スポーツ界の発展に極めて大きな影響を与えました。
 18日にJFAハウスで取材に応じた日本協会の大仁会長は「インサイドキックを徹底して教えられた。基本が大事なのだと。今の日本のサッカーにも教えは生きている」と話した。
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④67年、検見川のグラウンドで選手を指導するクラマー氏
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⑤05年、日本サッカー殿堂で、レリーフを前に笑顔のクラマー氏(左)と釜本氏

〔「もう一度、日本に行きたい」〕
 関係者によると、クラマー氏は4年ほど前からがんを患い、全身に転移。
何度も手術を繰り返し、最近1年以上は車椅子での生活を余儀なくされていた。
今年6月に都内で開催されたJSL創設50周年記念パーティーへの出席に意欲を見せていたが、医者に止められ断念。
病床で「もう一度、日本に行きたい」と語っていたというがクラマー杯U―13を視察した14年1月が最後の来日となった。

 60年に来日し、日本代表コーチに就任。
インサイドキックなど基礎練習を重視する指導法でチームを強化した。
口が悪かったことでも知られ、通訳を担当していた岡野俊一郎氏が罵声を直訳して泣きだす選手が出たという逸話も残る。
日本協会の大仁会長は「怖かったですし、厳しかったですよ」と振り返った。

 クラマー氏は全国リーグ創設、芝生グラウンドを増やすこと、
国際試合の重要性などを説き、東京五輪翌年の65年にJSLがスタート。
当時の提言は現在の日本サッカーの強化方針にも生かされている。
言葉の魔術師とも称され「サッカーは子供を大人にし、大人を紳士にする」
「タイムアップの笛は次の試合へのキックオフの笛である」など数々の名言も残した。

 07年には息子に先立たれた。
電話で連絡を受けた日本協会の川淵三郎最高顧問は初めてクラマー氏の涙声を聞き
「あなたは日本サッカーの父、あなたの息子は長沼、岡野、私、他にもいる。寂しくなったら日本の息子たちに会いに来てほしい」との手紙を書いたという。
バイエルンMやフランクフルト、西ドイツユース代表の監督などを歴任して母国でも優れた指導者として知られた。
05年に日本協会が制定した表彰制度「日本サッカー殿堂」の第1回受賞者。
周囲には「俺は100歳まで生きるから」と豪語していたが、願いはかなわなかった。

 ◆デットマール・クラマー 1925年4月4日生まれ、ドイツ・ドルトムント出身。現役時代はドイツの複数クラブでプレー。
ケガのために引退して指導者の道へ進み、
西ドイツユース代表監督時代にはベッケンバウアーをユース代表に抜てきした。
60年に日本代表コーチに就任。64年東京五輪8強に貢献し、
68年メキシコ五輪ではアドバイザー的立場で銅メダルに導いた。
その後はエジプト代表、米国代表、ヘルタ、バイエルンM、アルイテハド(サウジアラビア)、マレーシア代表、タイ代表などの監督を歴任。
97年まで現場で指導に当たっていた。
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⑥64年、東京五輪でアルゼンチンを破り、喜ぶ日本選手。右から2人目がクラマー氏
[ 2015年9月19日 05:30 ]

〔川淵氏「恩師」〕
[2015年9月19日7時12分 紙面から]
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⑦60年10月、日本代表を初指導するクラマー氏(左)。右は指導を受ける川淵三郎
60年に来日し、日本代表のコーチに就任。
64年東京五輪8強、68年メキシコ五輪では銅メダルに導いた。
組織や指導法など残した5つの提言が、その後の日本サッカーの礎となった。

 クラマー氏の死を、日本サッカー界が悼んだ。
今年6月に行われた日本リーグ発足50周年パーティーに出席できなかった際「体調がよくないらしい」という話は伝わっていた。
それでも、日本にとっての大恩人が他界したショックは大きい。
「今日の日本サッカーは、クラマーさんから始まった」と、日本協会の大仁邦弥会長は話した。
 指導者として、超一流だった。
60年にコーチに就任すると代表選手たちにボールの蹴り方から教え、基本を植え付けた。
64年東京五輪で8強進出に導いて日本を離れたが、その後も特別コーチとして指導。
68年メキシコ五輪で銅メダルに輝いたのは「クラマーの息子たち」だった。
 もちろん、日本だけでなく母国ドイツで、そして世界中で手腕を発揮した。
世界90カ国以上でサッカーを教え、Bミュンヘン監督として欧州チャンピオンズ杯(現欧州CL)連覇も達成した。
指導者として栄光に包まれながらも常に日本のことを気にかけ、何度も来日しアドバイスした。
「技術指導」だけではないクラマー氏の思いが、今の日本サッカーを形作った。
 64年東京五輪後に日本を離れる時、クラマー氏は5つの提言を残した。
リーグ戦の重要性を説いたことが翌65年の日本リーグ創設につながった。
当時、日本のスポーツ界はトーナメント戦が主流で、全国リーグという考えはなかった。
サッカーの後にバレーやバスケなどが次々と日本リーグを創設。
クラマー氏の考えは日本のスポーツ界にも大きな影響を残した。
 指導者育成や練習環境の整備、選手強化の方法など当時としては革新的なアイデアだった。
50年以上たって当然のようになったが、クラマー氏の教えを受けた長沼健(故人)、岡野俊一郎両氏らが中心になって改革を進めてきたからこそ、サッカーは日本スポーツ界の先陣を切れたのだ。
 選手のプロ化、プロリーグ化も、その延長。
Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎元日本協会会長は「人生そのものを教えてくれた恩師」と仰いだ。
日本サッカーの礎を築いたからこそクラマー氏は多くの人に愛され「日本サッカーの父」と呼ばれた。
その遺志を忘れず、さらに日本サッカーを発展させていくことが、最大の親孝行になる。

<東京五輪後のクラマー氏5つの提言と現状>
 (1)国際試合の経験を多く積むこと
→積極的な遠征やスポンサーの獲得などで試合数は急増した
 (2)高校から日本代表まで各2人のコーチを置くこと
→監督、コーチの他に多くのサポートスタッフが付き、環境を整えた
 (3)コーチ制度を導入すること 
→ライセンス制度導入によりSからDまでの公認コーチを誕生させた
 (4)リーグ戦を開催すること
→65年に日本リーグ発足。これをもとに93年にJリーグを誕生させた
 (5)芝生のグラウンドを数多くつくること
→小学校の校庭芝生化に取り組むなどで芝生のグラウンドを増やした

〔釜本氏「クラマーさんにサッカーの神髄教わった」『蹴る』『止める』『運ぶ』〕
[2015年9月19日7時47分 紙面から]
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⑧67年9月、メキシコ五輪予選のフィリピン戦で6得点を挙げた釜本
 元日本代表で1968年メキシコ五輪で得点王を獲得した「日本最高のストライカー」釜本邦茂氏(71)が、恩師のクラマー氏への思いを語った。
16歳で出会い、サッカーがうまくなるための礎を築いてくれた教えは、すでに日本のサッカー少年・少女へと伝授している。
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⑨関西の社会人と大学生の合宿に参加し、クラマー氏の指導を受ける山城高2年時の釜本邦茂氏(左)(釜本氏提供)
 「初めて会ったのは16歳や、高1。あの出会いがなかったら、ストライカー釜本邦茂はいなかったかもしれん。本当に感謝です」。
 60年秋。京都・山城高1年だった釜本氏は、指導者講習で全国行脚していたクラマー氏に出会った。
釜本氏の存在を知ったクラマー氏が希望して組んだ、関西選抜の講習会だった。
 「日本代表だけでなく、高校時代も大学時代も、ずっと気にかけてくれた。中学まではサッカーがどういうスポーツで、どうトレーニングすればいいかなんて教わったことなかった。プロ野球選手になろうと思っていたくらいだからね。サッカーの神髄を教わりましたよ。こういうことをすれば賢く、うまくなれますよってね」。

 指導は基本の繰り返しだった。
「言うことはいつも一緒。『蹴る』『止める』『運ぶ』それを、いかに速く正確にやること」。
当時の日本にもっとも必要なことをしっかり伝えてくれたドイツから来た伝道師だった。
「今何をしたらいいのかという、頭の良さや的確な状況判断は、それが出来れば、自然と体が動くんだとね」。
釜本氏は定期的に全国を回ってサッカー教室を行っている。
「私が子どもたちに言うことはクラマーの教えをそのまま伝えていますよ。基本は何十年たっても変わらんよ」。
指導された情景を思い浮かべるように懐かしんだ。
 練習中は非常に厳しく、ピッチ外では何でも相談に乗ってくれる父親のような存在だった。
だが、サッカー選手としての生活習慣だけは妥協を許さなかった。
日本代表のドイツ遠征中、試合後のレセプションで、カミナリを落とされたことがあった。
 「試合の後だからおいしいじゃない。代表メンバーみんなで冷たいビールを一気飲みしたんよ。そうしたら『おい、外出ろ』ってね。『まずはお茶でも飲んでからだ』ってね。それはもう怖かった」。
 胃が小さくなった時の体への負担を考えた愛情だ。すべてはサッカーのため。
最後に会えたのは3年前、日本でのパーティーだった。
「元気にしているのかって、声をかけてくれた。残念です」。
クラマー魂は、釜本氏も受け継いでいく。【鎌田直秀】

【川淵氏「人生の恩師」 教え子たち、クラマー氏悼む】
2015年9月19日05時02分
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⑩1964年の東京五輪でアルゼンチンに勝ち、杉山隆一選手(左)らと喜ぶクラマーさん(中央)=1964年10月14日、駒沢競技場

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⑪1964年東京五輪チェコスロバキア(当時)戦でのクラマーさん(左)=1964年10月18日、駒沢競技場
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⑫2007年に来日した際、子どもたちを指導するクラマーさん
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⑬半世紀以上の付き合いだったクラマーさん(左)と賀川浩さん=賀川さん提供
 17日に90歳で亡くなった日本サッカーの父、デットマール・クラマーさんの指導を受けた教え子たちは、恩師の教えを引き継いで、日本のサッカーの発展に力を注いだ。クラマーさんは50年以上、日本との絆を大切にしていたという。

〔「日本サッカーの父」クラマー氏死去 東京五輪8強導く〕

 日本代表コーチとしてクラマーさんの教えを受けた元IOC委員で元日本サッカー協会会長の岡野俊一郎さん(84)は「彼は僕を弟と呼ぶ、兄弟の関係でした。今年に入ってからも電話で何度か話して、『日本にもう一度、車いすでも行きたい』と言っていたのに、残念だ」と話した。
 日本のサッカーに科学を持ち込んだ一方で、スポーツマンとしての心構えも教えた人だったという。
「負けたら終わりの大会方式ではなく、リーグ戦の導入を提唱した。1964年東京五輪後にサッカーで日本リーグが誕生したのはクラマーさんの助言があったからです。その後、アイスホッケー、バレー、バスケット、卓球、バドミントンと、多くの競技が日本リーグを作った。日本のスポーツ界への功績は計りしれません」と岡野さんは話す。

選手として64年東京五輪8強を果たした川淵三郎・日本サッカー協会最高顧問(78)は「サッカーだけでなく人生そのものを教えて下さった恩師。
日本はアジアの弱小国だったが、選手を一人前の紳士として扱ってくれた。
心から感謝しています。安らかにお眠り下さい」と日本協会を通じてコメントした。クラマーさんが日本を離れてからも、助言や励ましの電話をもらっていたという。
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⑭05年、日本サッカー殿堂で、レリーフを前に笑顔のクラマー氏(左)と釜本氏

 日本協会の釜本邦茂顧問(71)は当時の指導をふりかえり「日本代表に入ったばかりのころ、『大和魂を見せてくれよ』と檄(げき)を飛ばされた。
試合終了のホイッスルが鳴るまであきらめないで倒れるまで戦い抜け、という意味だ。
自分は今でも子供たちにサッカーの指導をするときにはその精神を伝えている。
自分にとってもクラマーさんは父のような存在だった」と話した。

〈バイエルン・ミュンヘンのカールハインツ・ルンメニゲ会長〉
 「クラマー氏は多くの人にとってスポーツ界の人物以上の存在だった。私にとっては父親みたいな存在で、若い頃、プロ選手としての私に大きな影響を与えた。サッカー選手として成功できたことに感謝しないといけない。バイエルンは偉大なコーチ、特別な人物が亡くなったことに深い哀悼の意を表したい」

〈ドイツサッカー連盟のウォルフガング・ニールスバッハ会長〉
 「クラマー氏はドイツサッカーの親善大使として世界に広く認知されていた。彼の専門知識により、どこに行っても称賛されたし、ファンを愛し、慕われる人物だった。クラマー氏の成し遂げた仕事に大きな敬意を抱いている」

〈日本協会の大仁邦弥会長(70)〉
 「クラマーさんがいなかったら今の日本サッカーの発展はなかった。怖くて厳しかった。インサイドキックを徹底して教えてくれた。基本を教えられ、志も教えてもらった」

〈メキシコ五輪銅メダリストの松本育夫さん(73=現・日本サッカー後援会理事長)〉
 「1960年に自分が日本代表に初選出された時から、55年間、サッカーの師であり、人生の師だった。片腕をとられたような気持ちだ。指導は基本を徹底して、いつの時代にも通用するものだった。今の日本の若い指導者にも受けてほしかった。印象の残るクラマーさんの言葉は『物は目でなく、心で見ろ。耳でなく、心で聞け』。自分が指導者になってからの心構えになった」

〈国際サッカー連盟会長賞を受賞したサッカーライターの賀川浩さん(90)〉
「今年1月、国際サッカー連盟の表彰式でスイス・チューリヒに行った帰りに、ドイツのクラマーさんの自宅に寄って会ったのが最後になった。
彼は僕より半年若く、『2人で90歳のトークショーを日本でやろう』と話していたのに。
彼が1960年に指導者として来日してから半世紀以上の付き合い。
日本代表の強化だけでなく、子どもたちに基礎を教えるのも上手だった。
64年東京五輪では指導者の若返りを進言し、当時30代だった長沼健さんや、岡野俊一郎さんを監督、コーチに推した。
そうした教え子たちが、クラマーの薫陶を受け、日本サッカー界の発展に尽くした。偉大な恩人です」

■J全試合で黙禱へ
 Jリーグは18日、クラマーさんの死を悼み、19、20日に行われるJ1、J2、J3の全試合で黙禱(もくとう)すると発表した。

【平蔵の独り言】
昭和39年東京オリンピックは戦後の流れのままに
アベベのローマの石畳に続いてマラソン2連勝、
円谷が国立競技場のトラックでヒートリーに抜かれたが
陸上唯一のメダル(銅メダル)
自身はいつ終わるとも知れない棒高跳びを眺めていた。

しかし、メキシコのサッカー銅メダル、ストライカ-釜本!
サッカーって何だ!
クラマーさんを知る。そして今も記憶に残る!

西が丘サッカー場で休日、関東大学リーグを日長一日ルールもあまり詳しく
理解しないで観戦していた。

【平蔵の独り言】
 当時も離れて久しい日本を真剣に憂えていた。
 「日本は次のカマモトを見つけなければ」
 「技術はあるがゴールを狙っているのか」

【独り言】
 「技術はあるがゴールを狙っているのか」
  ゴール近くまで行くが、シュートを打たずにパス

 2016年、今年のオリンピック世代(U-23)をゴールを狙っている・・・・・
 AFC U-23選手権 カタール 2016 対韓国 3-2(後半3点)
 逆転勝利でアジア王者に!
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by asanogawa-garou | 2016-02-19 13:57 | サッカー | Comments(0)

ザックジャパン【2014ブラジルW杯】〔これは「方向性なき敗戦」ではない。GL敗退の日本、選手が信じた道   

2014年 07月 02日
【ブラジルW杯通信〔これは「方向性なき敗戦」ではない。GL敗退の日本、選手が信じた道〕】Number Web20140625

〔必死にゴールを狙う日本が喫した重い先制点。〕
〔岡崎の同点弾……も期待は長く続かなかった。〕
〔本田圭佑は、宙に向かって叫び声を上げた。〕
〔ドイツW杯での「方向性なき敗戦」とは違う。〕


【大会前から蔓延した満足感。日本代表、必然の苦戦。コロンビア戦で求められる「気持ち」でなく「心」の入れ替え】2014/06/25 11:15

〔岡田ジャパンでは成長しない? “相手の長所を潰すサッカー”は悪か〕
〔コロンビア戦へ「気持ちの切り替え」ではなく「心の入れ替え」を
 しかし、そんな中で唯一警鐘を鳴らしていた選手がいる。内田篤人だ。〕


【ザッケローニ監督が退任表明=敗退「責任は全て私に」】

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【ブラジルW杯通信〔これは「方向性なき敗戦」ではない。GL敗退の日本、選手が信じた道〕】Number Web20140625

〔必死にゴールを狙う日本が喫した重い先制点。〕
〔岡崎の同点弾……も期待は長く続かなかった。〕
〔本田圭佑は、宙に向かって叫び声を上げた。〕
〔ドイツW杯での「方向性なき敗戦」とは違う。〕

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 4万340人を飲み込んだクイアバのパンタナール・アリーナは、9割がコロンビアサポーターという完全アウェイの状態だった。
ホームさながらの雰囲気で戦った1、2戦目とは正反対という空気の中、ザックジャパンは「勝てば裏カードの結果次第で決勝トーナメントに進出」という奇跡を信じて、6月24日の戦いに挑んだ。
 肌を突き刺すような日差しと、乾いた空気。
雨のナイトゲームだった1、2戦目とは打って変わり、キックオフは午後4時、天気は快晴。
そして、30度を超える過酷な条件での大一番は「攻撃的なサッカーで戦い、未来を掴む」という、選手自身が示してきた命題への答えを出すための試合でもあった。
 すでに決勝トーナメント進出を決めているコロンビアはコートジボワールとの第2戦から先発8人を入れ替えた。
司令塔のMFハメス・ロドリゲスら主力は軒並みベンチスタート。
長友佑都のインテルの同僚、MFフレディ・グアリンら今大会初出場初先発となる選手が何人も先発に名を連ねた。
 一方の日本はギリシャとの第2戦から先発2人を替え、香川真司が先発に復帰。
ボランチの一角には青山敏弘が初めて入った。
1トップには大久保嘉人が入った。
〔必死にゴールを狙う日本が喫した重い先制点。〕
 日本ボールでキックオフ。
立ち上がりは押し込まれたものの、本田圭佑らを中心に徐々にボールポゼッションを高めながら、攻めの姿勢を見せていく。
 前半7分、本田の直接FK。同10分、大久保のシュート。
同14分には内田篤人が、そして長谷部誠がゴールを狙った。
もちろん、香川もシュートを打った。ポジションに関係なく、誰もが必死にゴールを奪おうとしたそのとき、落とし穴が待っていた。
 同16分、岡崎慎司がボールを奪われカウンターを食らうと、今野がペナルティーエリア内でアドリアン・ラモスを倒し、PKを献上。
フアン・クアドラドが冷静に蹴り込み、コロンビアが先制した。
カウンターの餌食。重い1点だ。
〔岡崎の同点弾……も期待は長く続かなかった。〕
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だが、ここでひるむことはなかった。
前半終了間際のラストプレー。
カウンターからのピンチを防いだ日本は、内田から右サイドに開いた本田にパス。
本田の左足クロスに岡崎がヘッドで合わせた。
 DFを引きずりながらのバックヘッドは、必死の横っ飛びを見せたGKの左手すれすれのところをすり抜けながらゴール右隅に吸い込まれた。
ここまでの2試合でいずれもシュートゼロに終わっていた岡崎の今大会初シュートで、日本は1-1に追いついた。
 そのころ、裏カードではギリシャが前半42分にサマリスのゴールで1-0としていた。
もしそのままで終われば、日本はコロンビアに勝利しさえすれば、スコアに関係なく決勝トーナメントに進むことができる――。

 だが、期待に胸を膨らませる時間は長くは続かなかった。
コロンビアは後半から今大会2得点中の背番号10、ロドリゲスを投入。
悪夢が訪れたのはその10分後だった。
ゴール正面付近でロドリゲスにパスが渡った瞬間、日本のDF陣3人がロドリゲスに引きつけられた。
 そこからパスがつながり、逆サイドのジャクソン・マルティネスがフリーで楽々とシュート。
またしても重い失点だ。

コートジボワール戦で後半途中から入ったドログバに意識が向かいすぎ、
他の選手のマークが甘くなってしまったのと同じ光景だったのも痛恨だった。
〔本田圭佑は、宙に向かって叫び声を上げた。〕
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その後は、既視感で塗りつぶされたように時間が過ぎていった。
足が止まった後半37分、マルティネスに決められて1-3。
さらには後半45分にロドリゲスにとどめのゴールを許し、万事休した。
 試合終了と同時に、呆然とした表情を浮かべた本田は、チームメートが観客席に向かい始めたとき、
すぐにはついていかずその場にとどまり、宙に向かって叫び声を上げた。
その咆哮はどこへつながっていくのか。

「負けたから、何を言ってもただの負け犬の遠吠えになる。勝ってないので、何言ってんねんという話になる」と弱気を見せながらも、最後の意地を振り絞るかのように、
「僕はこのスタンスでいくことが、個々の選手の成長にもつながると思っている」と言った。
〔ドイツW杯での「方向性なき敗戦」とは違う。〕
 今大会のザックジャパンは、直前合宿のメニューや強化試合の流れも含めて、
2006年ドイツ大会のジーコジャパンに似ていると言われてきた。
当時を知るただ一人の選手、遠藤保仁も「8年前に似ている。
国内でフィジカルを上げてから移動したのも同じ流れだった」と話していた。
 大会が始まれば、初戦で負け、2戦目で引き分け、第3戦にわずかな望みを残しつつシード国と対戦するということまで同じ軌跡をたどった。
こうして迎えたコロンビア戦の最終スコアは1-4。
さらには、相手の最後の交代がGKだということまでもが、8年前のドイツW杯と同じだった。
 ただ、8年前と明らかに違うことがあるのも確かだ。
ザックジャパンが4年間をかけて「攻撃的サッカー」を積み上げてきたこと。
そして苦しみながらも最後までそれを貫いたことだ。
ドイツ大会の日本代表は方向性なき敗戦だったが、今回はどうだろう。
 1-4は玉砕とも言えるスコアだが、先発したフィールドプレーヤー10人全員がシュートを打ったことは、未来に何かを残すことになりはしないか。
 長谷部は「自分たちには最後までやりきる使命があった。
状況はむずかしかったけど、攻める姿勢を最後まで貫いてああいう結果になったので、最後の部分は後悔はない。
この先のことは協会が決めることだが、僕個人の意見を言うなら、今までの方向性を継続していくのがいいと思っている」と提言した。
 反省すべき点を洗い直し、未来に向かって目指す方向を示す。
手を抜かずにこの作業を行なうことが、今最も必要とされることである。

【大会前から蔓延した満足感。日本代表、必然の苦戦。コロンビア戦で求められる「気持ち」でなく「心」の入れ替え】2014/06/25 11:15

〔岡田ジャパンでは成長しない? “相手の長所を潰すサッカー”は悪か〕
〔コロンビア戦へ「気持ちの切り替え」ではなく「心の入れ替え」を
 しかし、そんな中で唯一警鐘を鳴らしていた選手がいる。内田篤人だ。〕

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大会前から蔓延した満足感。日本代表、必然の苦戦。コロンビア戦で求められる「気持ち」でなく「心」の入れ替え
2試合を終えて勝ち点1。この現状に選手たちは「予想外」とコメントしている。
しかし、本当に予想外だったのだろうか。この苦戦は既に大会前のコメントから感じ取れていた。
2014年06月24日
大会前から「このチームで戦えたことは幸せだった」
 昨今の日本スポーツ界は世界の舞台で目覚ましい活躍を見せている。
なでしこジャパンは2011年のW杯で初優勝という偉業を成し遂げ、翌年の2012年ロンドン五輪では銀メダルを獲得する成果を残した。

 野球に目を向けてみると、2013年こそ敗れたものの06年、09年のWBCで大会連覇という快挙を達成した。
 さらに、ロンドン五輪の団体競技では男子体操団体、競泳男子400mメドレーリレー、フェンシング男子フルーレ団体、卓球女子団体が銀メダルを獲得。
さらに、競泳女子400mメドレーリレー、アーチェリー女子団体、女子バレーボールが銅メダルを獲得する活躍を見せた。
 そして、彼ら彼女たちが口を揃えて発言する言葉が「このチームで戦えたことは幸せだった」「1試合でも多くみんなと試合がしたかった」といったものだ。
 当然、試合を観ている我々にもチームの一体感や熱い思いが伝わってくる最高のチームだっただけに、この言葉は心の底から出てきたものだと分かるし、その感動がより一層高まる要素の一つとなっている。
 そして、このコメントにもう一つ共通する点といえば、もちろん「素晴らしい結果を出した後に発せられたもの」と言うことだ。

 しかし、どういう訳かブラジルW杯に臨むザックジャパンの選手たちからもこの言葉が飛び出していた。
 たしかに、4年という歳月を経てこの大会のためにチームを作り上げ、そして厳しい選考を勝ち残った選手たちだけにブラジルの地を踏んだ際には感慨深いものがあったのだろう。

 しかし、まだ本番が始まっておらず、何も成し遂げてはいない状況でこの言葉を耳にしたことには驚きを隠せなかった。
日本中を駆け巡った「“自分たちのサッカー”を表現出来なかった」

 もしかすると、他競技の選手たちが発する“名言”に憧れを抱いたのかも知れない。
北嶋康介が発する言葉、イチローが発する言葉はたしかにカッコいい。
しかし、それは同時に結果を残したから説得力が生まれるのだ。

 結果を残す以前に大会すら始まっていない選手がこの言葉を使えば、その裏には「結果がどうあれ満足」という意味が付随してしまうだろう。
そう言った意味では、ザックジャパンは戦う前から満足し、闘争心を持っていなかったということになる。
 そして、そのような心理で臨んだ初戦の後には「“自分たちのサッカー”を表現出来なかった」というコメントが日本中を駆け巡った。
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コートジボワール戦後にもギリシャ戦後にも日本側から相手を讃える意見はあまり聞こえてこない【写真:Getty Images】
 今回のチームは世界の厳しい予選を勝ち抜いた強豪ぞろいの大会に挑みながら、相手のことを全く見ずに自分たちのことのみを考えていたのだろうか。
 実際に、コートジボワール戦後にもギリシャ戦後にも日本側から相手を讃える意見はあまり聞こえてこない。
自分たちの長所を完璧に潰された相手、1人が退場しながら勝ち点1をもぎとられた相手に対してだ。
 そればかりか、選手からは前述の「“自分たちのサッカー”が…」や、コートジボワール戦後にはあろうことか「スカウティングとは違っていた」という発言まで飛び出す始末だった。
 ヤヤ・トゥーレやジェルビーニョ、サロモン・カルー、そしてディディエ・ドログバといった誰もが知っている選手たちを擁するチームが「スカウティングとは違う」というのは言い訳にもならない。
 しかも、コートジボワールが2014年に入って対戦したベルギー、ボスニア・ヘルツェゴビナ、エルサルバドルは日本とは選手も戦い方も違うチームだ。
ゲームプランに関してはスカウティングと違って当然と言えるだろう。
 逆に、日本は“自分たちのサッカー”を貫くために、どのチームと対戦しても同じ戦い方で臨んでいる。
相手を苦しめるためのゲームプランを持っておらず、対戦相手にとっては対策を練りやすい簡単な相手だったはずだ。
〔岡田ジャパンでは成長しない? “相手の長所を潰すサッカー”は悪か〕

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岡田武史監督【写真:Getty Images】
 対戦相手に合わせず、ポゼッションという一貫した哲学で戦い続けるチームなど世界のトップ・オブ・トップの一部のみだ。
そして、そのポッゼッションの“頂点”スペインも今大会は完璧な対策を練ってきたオランダ、チリに完敗を喫して早々に大会を去った。
 オランダという強豪でさえも伝統的な3トップの哲学を捨て、欧州予選終了後から5バック・2トップというシステムを導入して本大会に備えたのだ。

 W杯という世界最高峰の舞台で挑戦者としての立場で結果を残すためには、徹底的に相手を研究し組み合わせが決まった時点で様々なシミュレーションを行い、相手の長所を潰すことが必須ということだ。

 それどころか、日本はその“相手の長所を潰すサッカー”を実行して過去最高の結果を残した2010年南アフリカW杯のチームについて「あのサッカーで勝っても嬉しくない。成長はない」とコメントする選手もいた。
 守備的とは言え、カメルーンを1-0で下し、オランダに0-1と善戦し、デンマーク戦では3-1と快勝して日本中を熱狂の渦に巻き込んだチームに対してだ。

 あの大会があったからこそ、長友佑都はセリエAへの扉を開き、
本田圭佑は市場価値を上げたのではないだろうか(それによってCSKAモスクワから移籍しにくくなったのは皮肉だが)。

〔コロンビア戦へ「気持ちの切り替え」ではなく「心の入れ替え」を
 しかし、そんな中で唯一警鐘を鳴らしていた選手がいる。内田篤人だ。〕

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内田篤人【写真:Getty Images】
 内田は、ギリシャ戦に向けた練習後の取材に対して「“自分たちのサッカー”が出来れば勝てると思うのか、相手がやらせてくれないレベルだと思うのかは人それぞれ。W杯で勝つのが目標なのか、自分たちのサッカーが出来れば良いのか」と語った。
 さらに、「引くのが悪いって思われたくない。そう言う時間帯は必ずあるし、前からボールを取りにいく時間帯もある。試合中に選手が考えて、それを表現できるのも力かなと思う。それが試合前に分かればいいんだけどね。全部思い通りに行くわけではないし、相手もいることだから」と心境を述べている。

 この内田のコメントは、「“自分たちのサッカー”を表現出来なかった」という言葉が溢れる中で、唯一日本代表の現状を的確に伝えているものだろう。
 それでもまだ、わずかながらでも決勝トーナメント進出の可能性が残されたのは幸運と言える。
そして、コロンビア戦に向けて求められるのは「気持ちの切り替え」ではなく「心の入れ替え」だ。
 ザッケローニ監督には、出来ない理想を追求するのを止めてコロンビアを徹底的に分析し、長所を潰すゲームプランを期待したい。
選手たちはゲームプランを完璧に実行して、チャレンジャーとして全力で相手に立ち向かう姿勢を見せてほしい。
【了】

【ザッケローニ監督が退任表明=敗退「責任は全て私に」】
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記者会見で退任を表明するサッカー日本代表のザッケローニ監督=25日、ブラジル・イトゥ
 【イトゥ(ブラジル)時事】サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会で、1次リーグ敗退に終わった日本代表のアルベルト・ザッケローニ監督(61)は25日、ベースキャンプ地のイトゥで記者会見し、退任する意向を表明した。

「今回のメンバーは私が選び、戦術も私が決めた。責任は全て私にある。日本代表を離れなければならない」と、厳しい表情で語った。

 イタリア人のザッケローニ監督は前回の2010年W杯南アフリカ大会後、岡田武史前監督の後任に就いた。
11年のアジア・カップで優勝し、W杯アジア予選を突破して5大会連続5度目の本大会出場を果たした。
しかし、W杯本大会では1次リーグC組で1分け2敗の勝ち点1で最下位に終わり、2大会連続の決勝トーナメント進出を逃した。
4年間の通算成績は30勝12分け13敗。
 同監督は敗因を「短期決戦では最初のゲームでミスをすると修正するのは難しい」と話し、
初戦のコートジボワール戦の逆転負けが大きく響いたとの認識を示した。
4年間を振り返り、「日本人の技術は世界でも通用する。
格上の相手にも勇気を持って仕掛ける姿勢を植え付けてきたと思っている」と述べた。

 ザッケローニ監督はACミランやユベントスなど、イタリア1部リーグの主要クラブの監督を経て、イタリア人として初の日本代表監督となった。
イタリア国外で指揮を執るのも、代表チームを率いるのも初めてだった。 (2014/06/26-11:34)


【平蔵の独り言】
ひたむきにプレィをした選手は?????

内田が逞しくなった。

ブラジルワールドカップ「あったんですか?????」

自陣内でパスサッカー、インターセプトされてカウンター攻撃
まえががりの状態で「コートジボアール」の2点目が全てですね。

【ザッケローニ監督が退任表明=敗退「責任は全て私に」】
大胆な選手起用もない、
「本田と中心のチーム作り」

そして、誰もいなくなった・・・・・・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2014-07-02 16:05 | サッカー | Comments(0)

ザックジャパン(困った時の駒野(その後の駒野友一)) 【2013東アジア杯】キャプテン駒野   

2013年 07月 30日
2010 ワールドカップ(南アフリカ大会)は駒野選手のPKを外して
     日本のワールドカップはあっけなく終わってしまったが、

 【平蔵の独り言】
 駒野友一選手にとって、20年後この出来事がどのように
 語られるのか、確かめてみたい。
 何故なら、この経験に恵まれたのは 駒野選手ただ一人であるから

〔その後の駒野友一〕

2010年10月12日のアウェー韓国戦で悪質なタックルを受け、右上腕部を骨折する重傷を負って14日に手術。


2011年8月10日 駒野、躍動!骨折“借り”返した

サッカー・キリンチャレンジ杯(10日、日本3-0韓国、札幌ドーム)

2011年10月11日 駒野“笑顔”の代表初ゴール/W杯予選


困った時の駒野(2011/11/09)

2012年09月06日 駒野、2戦連続アシスト!長友不在の穴埋めた…キリン杯UAE戦
ハーフナーV弾!代表3発は全部駒野から…キリン杯UAE戦


2013年07月17日東アジア杯で新戦力が輝くカギを握る駒野友一。新キャプテンが担う大きな役割とは?

東アジアカップ2013 大会初制覇  主将務めた駒野友一、敵地での韓国戦勝利に「自信になった」
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2010年10月12日のアウェー韓国戦で悪質なタックルを受け、右上腕部を骨折する重傷を負って14日に手術。

来年1月のアジア杯は新生ザックジャパンにとっても初の公式戦。
現役時代、右サイドバックだったザッケローニ監督から個人指導を受け、
韓国戦でも右サイドバックに抜てきされた駒野が
6月のW杯パラグアイ戦ではPK失敗に泣くなどつらい経験が重なっているが、
早期復活への道は自身で切り開くしかない。
悲運のサイドバックがアジア杯出場に向け、突き進む。

2011年8月10日 駒野、躍動!骨折“借り”返した

サッカー・キリンチャレンジ杯(10日、日本3-0韓国、札幌ドーム)
右肩脱臼で欠場のDF長友(インテル・ミラノ)に代わり、
左サイドバックで先発したDF駒野が起用に応えた。
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日本-韓国 後半、本田(左端)のゴール後に、天に向かって指を突き上げる日本イレブン=札幌ドーム
(右 駒野  3)
後半8分、中央へ切り込み左足シュート。
相手GKが弾いたボールがMF本田につながり、2点目が生まれた。
「海外組が多くなって、個の力が上がっていますね」とJで頑張る30歳は謙遜したが、
昨年10月の韓国戦で右腕を骨折した“借り”をしっかり返した。


2011年10月11日 駒野“笑顔”の代表初ゴール/W杯予選

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前半35分、チーム3点目のゴールを右足で決める駒野(撮影・松本俊)
<W杯アジア3次予選:日本8-0タジキスタン>◇C組◇11日◇大阪・長居スタジアム
 もう涙はいらない-。
日本代表DF駒野友一(30=磐田)が代表初ゴールとなる前半35分の得点と2アシストの活躍で大勝に貢献した。
10年W杯南アフリカ大会の決勝トーナメント1回戦パラグアイ戦でPKを外し、泣きじゃくった男が苦難を乗り越えた。
フィールドプレーヤーでは日本代表史上、最も遅い国際Aマッチ65試合目での初得点で存在をアピールした。
 右足でぶち抜いた。DF駒野件が史上最も遅い65試合目で待望の代表初ゴールを決めた。
前半35分。
相手のクリアボールを低い弾道で蹴り込んだ。
「ゴールはずっと思っていたこと。やっとゼロが1になった。うれしい」。
苦労人らしく積み重ねた日々が“記録”となって結実した。
前半11分と後半2分には正確なクロスでFWハーフナーの2得点も生んだ。
右足から1得点2アシスト。圧勝への流れを作り上げた。
 歓喜のピッチで駒野件は笑っていた。心の底から笑っていた。
もう泣き顔など必要ない。昨年のW杯のパラグアイ戦。PKを外しそのまま敗退。ピッチ上で泣きじゃくった。
日本中にそのシーンが流れた。
ワイドショーも取り上げ、日本が進撃を演じた歓喜の裏で陰の主役のように扱われた。
 W杯帰国後は「あれで日本のW杯が終わってしまった」と自分を責めもした。重い十字架だった。
今年8月のスルガ銀行杯で“あれ”以来となるPKを蹴って成功させた。
スタンドで見守った夫人は成功の瞬間、涙をこぼした。
1年以上たってなお、駒野のまわりには涙があった。
どれだけ重い失敗だったか…。家族さえも、十字架を背負っていた。
 PK失敗後も苦難は続いた。
心の傷が癒えかけた昨年10月の韓国戦で右上腕部骨骨折の重傷。
代表復帰まで10カ月を要した。
ただ、日本代表における存在は揺らぐことはなかった。
若手を積極的に登用するザック政権下でもケガのブランクも関係なく招集。
この日の先発11人中、国際Aマッチ出場数はMF遠藤の112試合に次ぐ2番目。
右サイドバックの位置を争う内田をケガで欠く中“代役”と表現しては失礼なほどの働きだった。
 泣き顔と決別した駒野は、新たな1歩を踏み出した。
 「(PK失敗は)忘れたわけじゃない。でもあれがあるからこそ、立ち直って今の自分があるんだと思う。しっかりもう1度あの舞台に立てるようにしたい」
 つまずいても立ち上がる-。
そして強くなる-。そんな無言のメッセージ。記録的な圧勝劇を、心の強い男のドラマが彩った。【八反誠】
 [2011年10月12日8時37分 日刊スポーツ紙面から]

困った時の駒野(2011/11/09)
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気が付けば、先発出場は5試合連続に伸びた。
一時はザッケローニ監督の構想外かと思われた駒野(磐田)が、両サイドバックをこなせる貴重な戦力として信頼を勝ち取った。
「出たときはしっかりと結果を残すようにやっている」
と好不調の波がない30歳の守備職人は、
「左右のサイドが変わっても、しっかりとコンビネーションを心掛けてやりたい」「一度も自分は誰かの控えだと思ったことはない」
という駒野も、プレーの幅を広げている。
以前より効果的に得点機に絡むようになり、タジキスタン戦では代表65試合目にして初ゴール。


2012年09月06日 駒野、2戦連続アシスト!長友不在の穴埋めた…キリン杯UAE戦
ハーフナーV弾!代表3発は全部駒野から…キリン杯UAE戦

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クロスを上げる駒野 
◆キリンチャレンジ杯2012 日本1―0UAE(6日、新潟・東北電力ビッグスワンスタジアム)

 FIFAランク120位のアラブ首長国連邦(UAE)と対戦した同23位の日本は、
後半24分にFWハーフナー・マイク(25)=フィテッセ=の決勝ゴールで1―0と辛勝した。

11日のW杯最終予選・イラク戦に向け収穫と課題が同居する試合だった。
 左サイドバックで先発したDF駒野が、2試合連続アシストで自慢のキック精度を示した。
後半24分、左サイドでパスを受けると、利き足とは逆の左足でクロス。
飛び出したGKも触れない ボールを、FWハーフナーの頭に合わせ「クロスへの対応が弱点だと、試合前から聞いていた。DFとGKの間を狙ったのがうまくいきました」とうなずいた。

 8月15日のベネズエラ戦でも右サイドバックで先発し、MF遠藤のゴールをアシスト。
磐田でも右サイドが定位置だが、この日はDF長友が右足首痛で欠場した左サイドを務め、後半34分からは右サイドに移って万能性を示した。
だが、守備面では「体の向きがいつもと反対で、少しとまどった」と前半、相手のスルーパスから自らのサイドで裏を取られたプレーを反省しきり。
「次はもっと大事な試合なので、今日出た課題を修正したい」とすでに最終予選のイラク戦を見据えていた。

2013年07月17日東アジア杯で新戦力が輝くカギを握る駒野友一。新キャプテンが担う大きな役割とは?
東アジア杯で新戦力が輝くカギを握る駒野友一。新キャプテンが担う大きな役割とは?〔フットボールチャンネル7月17日(水)11時0分配信〕
〔若手主体のなか選ばれたベテラン〕
〔周りが合わせやすい選手〕
〔本来はキャプテン向きではないが…〕
【駒野主将「責任持つ」東アジア杯(2013/7/20)】
【東アジア杯のキャプテンに駒野を指名、ザック「彼しかいない」】
「駒野は代表チームに来るのが好きな選手ですから」と笑顔で語り、厚い信頼を寄せていた。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――
東アジアカップのメンバーが発表された。若手中心の選出のなか、キャプテンに指名されたのはベテランの駒野友一。
新戦力への期待が高まる大会ではあるが、31歳のサイドバックが担う役割は大きい。

〔若手主体のなか選ばれたベテラン〕
「サプライズ」と答えたザッケローニ監督が、東アジアカップに臨む若き日本代表のキャプテンに指名したのは駒野だった。
「これまでの代表への貢献度、これから(残り1年で)想定される貢献度、選手としてのキャリアなど考えると、彼しかいない。駒野は代表に呼ばれるのが好きな選手だからね」と選出理由を説明した。
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駒野友一【写真:松岡健三郎】
 東アジアカップでは「新しい選手にチャンスを与える」と語ったザッケローニ監督。
アジアカップに向けたメンバーは初選出の7人、合宿などに招集経験はあるがキャップ数ゼロの8人が含まれ、海外組に加え遠藤保仁、今野泰幸、中村憲剛、前田遼一といった国内組の主力が外れた。
 一方でGKの西川周作と権田修一、MFの高橋秀人は最終予選やコンフェデで出場機会に恵まれなかった選手たち。
DFの栗原勇蔵もコンディションが整わずにコンフェデ開幕を迎え、3試合目のメキシコ戦こそ先発したものの、不本意な結果で大会を終えた。
ザッケローニ監督としても良好な状態で改めてチェックしたいというのはあるだろう。
 そうした構成の中で、最も異質な存在が駒野友一だ。
アジア最終予選で長友や内田の欠場した穴を埋めるなど、安定したパフォーマンスでチームを支えてきたベテランだが、コンフェデは選考から漏れた。
とはいえザッケローニ監督が計算できる戦力であることは疑いの余地がなく、対戦相手もベストとは言えない今大会でテストする必要性は無い。
〔周りが合わせやすい選手〕
 それではなぜ駒野を入れたのか?
「できるだけ多くの選手を試したいが、同時にチームはバランスとパーソナリティを確保しなければならない」とザッケローニ監督。
新しい選手が中心といっても、チームのベースが全くなければバラバラになってしまう。駒野は彼らに方向性を与える指標となるべき存在だ。
 また今回の構成を見て分かる通り、本職のSBに関しては海外組4人+駒野の5人で足りている。
その比較的、テストの必要性が少ないポジションに経験豊富なベテランを戦術的、精神的な支柱として入れることで、代表チームのバランスとパーソナリティを確保しながら、他のポジションで新しい選手を積極的にテストしていけるのだ。
 SBに関してザッケローニ監督は、駒野、槙野、森脇の3人で基本的に回していく方針を明かした。
おそらく駒野はコンディションさえ問題無ければ、左右のどちらかで3試合全てに出場し、彼が右なら槙野が左SBに、左なら森脇が右SBに入ることが想定される。
 駒野はSBとしてバランス感覚の高い選手であり、周囲の選手にとっても合わせやすいはず。
ウィングやボランチが移動すれば、それに応じてポジションを調整することができ、流れに応じた縦のアップダウンも安定している。
 同じSBでも、長友のように率先したプレーでグイグイ引っ張っていくタイプではないが、チームとしてはほぼ初顔合わせの様なチームを正しい方向に導くには、持って来いの選手かもしれない。
〔本来はキャプテン向きではないが…〕
 駒野を戦術的な指標として位置づけた場合、同サイドで縦のコンビを組む山田や齋藤、クロスに合わせる豊田や大迫がこのベテランの助けを得ながら、彼らの持ち味をしっかり出していけるかは注目ポイントだ。
 個の発掘と強化は本大会までに課されたメインテーマではあるが、全体がバラバラでは個が最大限に引き出されない。
その意味でも駒野の存在は大きいが、周りの選手も限られた時間の中で彼と良い関係を構築していくことが求められる。
 物静かな選手で、本来はキャプテンの柄ではない。
しかし、すでに75試合のキャップ数を持つSBは、記者から質問を受ければ的確に試合を振り返り、改善すべきポイントを口にしてきた。
 思い返せば最初の合宿で、ザッケローニ監督と“青空談義”をしたのが駒野だった。
今回も指揮官の意図をくみ取り、若い選手たちとコミュニケーションを重ねながら、短期間でも意志の疎通をはかっていくはず。
 新戦力の台頭が期待される東アジアカップだが、彼らが思う存分、ストロングポイントを発揮するためにも、31歳のベテランが担う役割は重大なのだ。
【了】


【駒野主将「責任持つ」東アジア杯(2013/7/20)】
 若手が多い男子の日本代表で主将に指名された駒野(磐田)は、チーム最年長で大会期間中の25日に32歳になる。
代表デビューは8年前のこの大会の中国戦という巡り合わせもあり、記者会見では「最初に聞いたときはびっくりしたけれど、責任を持ってこの大会に臨みたい」と表情を引き締めた。
 自身にとってはコンフェデレーションズカップで代表から外れた悔しさをぶつける舞台。「優勝を目指して頑張りたい」と気合を入れた。(共同)

2013年07月21日
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【東アジア杯】キャプテン駒野が公式会見「責任を持って大会に臨む」
東アジア杯に出場する日本代表は19日、
ソウルワールドカップで公式会見を行い、アルベルト・ザッケローニ監督と
キャプテンを務めるDF駒野友一(磐田)が出席した。

「めずらしい時期の開催となるが、代表チームの監督は集まれる機会が短いと
文句ばかり言う中で、こうして集まることができてうれしく思う」。
21日に中国、25日にオーストラリア、28日に韓国と対戦するザックジャパン。
指揮官は「対戦相手も3つの違うタイプのチームがいる。素晴らしい大会だと思うので、
しっかりと取り組んでいきたい」と意気込んだ。

コンフェデレーションズ杯のメンバーで引き続き招集されたのは4人のみ。
A代表初選出10人を含むフレッシュな顔触れとなった。
「サッカーをする際、まず結果を求めないといけないが、我々の場合、
先の代表戦から比べると、多くのメンバーを入れ替えている。
チームのやり方、チーム力という部分では少し劣るところが出るかもしれない」。
そう語るザッケローニ監督は、新戦力にコンセプトを浸透させ、チーム力の
底上げを図るつもりだ。

キャプテンに指名された駒野は「最初に聞いたときはビックリした」と
正直な胸の内を語りながらも、「責任を持ってこの大会に臨みたいと思う。
キャプテンになったからといって、特別なことは考えずに、いつものようにやりたい」
と自然体を貫く。

6月のコンフェデレーションズ杯で招集を見送られ、6月4日のW杯アジア最終予選・
オーストラリア戦以来の代表復帰。
「積極的なプレーをすれば、日本のサッカーをすれば、世界と互角に戦える
試合が見れたと思う」と、外から見たコンフェデ杯を振り返り、
「アジアを代表する4チームが参加する大会なので、優勝を目指してがんばりたいと思う」と、
目の前の大会に集中していた。


【東アジア杯のキャプテンに駒野を指名、ザック「彼しかいない」】
13/7/15 17:09
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東アジア杯のキャプテンに駒野を指名、ザック「彼しかいない」
 日本サッカー協会は15日、東アジア杯(20〜28日、韓国)に出場する
日本代表メンバー23人を発表した。
海外組に加え、代表常連のFW前田遼一(磐田)、MF遠藤保仁、DF今野泰幸(以上、G大阪)、MF中村憲剛(川崎F)、負傷のDF伊野波雅彦(磐田)の招集を見送り、
若手主体の国内組のみの構成。FW柿谷曜一朗(C大阪)ら10選手がA代表初選出
で、23人中15人がA代表出場歴のない“ゼロキャップ選手”となった。

 記者会見を行ったアルベルト・ザッケローニ監督はキャプテンについて
「サプライズです」と語り、当初は本番まで秘密にしておくつもりだったようだ。ただ、報道陣からの質問があり、「若い選手であったり、出場ゼロの選手はきっとやらないだろう」と明かすと、会見の席でDF駒野友一(磐田)をキャプテンに指名した。

 コンフェデレーションズ杯では代表から漏れ、6月4日のW杯アジア最終予選・オーストラリア戦(1-1)以来の代表復帰となったベテランSB。
「駒野のこれまでの代表チームへの貢献度、これから想定される貢献度、彼のこれまでの歴史を考えると、彼しかいないと思う」。
国際Aマッチ出場75試合は、今回のメンバーでは断トツの数字(2番目に多いのはDF栗原勇蔵の17試合)。
「駒野は代表チームに来るのが好きな選手ですから」と笑顔で語り、厚い信頼を寄せていた。


東アジアカップ2013 大会初制覇  主将務めた駒野友一、敵地での韓国戦勝利に「自信になった」
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東アジアカップで初優勝を飾り、カップを掲げる駒野(中央)ワールドサッカーキング

 サッカー日本代表は28日、東アジアカップ2013の最終戦で韓国代表と対戦。2-1で競り勝ち、勝ち点7となり大会初制覇を果たした。

 試合後、日本代表の主将を務めた駒野友一は、以下のようにコメントしている。

―キャプテンマークを巻いての大会だったが?
「最後は勝てて、優勝できたのですごく嬉しいです」

―ブラジル・ワールドカップへのアピールの場でもあったと思うが?
「攻められる時間が長くて、低い位置にいることが多かったですけど、最後の得点の起点になれてよかったと思います」

―アウェー、そして相手が韓国で苦しいゲームだったのでは?
「攻められる一方でしたけど、カウンターから2点取れて、本当に勝ててよかったと思います」

―大きな自信につながるのでは?
「韓国はホームですし、すごく勢いもあったので、そのチームに勝てたことは、自分たちにも自信になったと思います」
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by asanogawa-garou | 2013-07-30 17:32 | サッカー | Comments(0)

日本サッカーの父 クラマー氏は4位を評価「大きな成果」「誰も想像しなかった」   

2012年 08月 16日

日本サッカーの父 クラマー氏は4位を評価「大きな成果」

クラマー氏は日本が44年ぶりの表彰台を逃したことをドイツの自宅で知り
ロンドン五輪サッカー男子3位決定戦 日本0―2韓国 (8月10日 カーディフ)
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 かつて日本で指導し、男子のメキシコ五輪銅メダルに大きな役割を果たしたクラマー氏は日本が44年ぶりの表彰台を逃したことをドイツの自宅で知り

「今回は大きな成果。北京五輪のころ、日本が4年後に男子も女子もここまで成長しているとは誰も想像していなかったのではないか」と4位に入ったことを高く評価した。

 日韓がともにベスト4入りしたことに大きな意義があるとし
「アジアにとってポジティブなこと。日本は負けた落胆を、今後の成長に向かうためのやる気に変えなければいけない」とエールを送った。(共同) 【男子決勝トーナメント】
[ 2012年8月11日 08:36 ]

クラマー氏は評価「誰も想像しなかった」



デットマール・クラマー

・1925年4月4日 87歳・ドイツ・ドルトムント出身
日本においては、日本代表の基礎を作った事から「日本サッカーの父」と呼ばれる。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

ドイツの複数クラブで選手としてプレーしたが、怪我のために引退し、指導者の道へ進んだ。

1960年、東京オリンピックを控えた日本代表を指導するため、コーチとして招聘された。
日本サッカー協会は代表強化のために外国人コーチを招くことを検討しており、成田十次郎の仲介や、会長である野津謙の決断で実現した人選だった。

クラマーは、自ら手本となるプレーを見せて実技指導を行った。
初歩的な練習の繰り返しに対しては批判もあったが、方針を変えることはなかった。
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当時の教え子には釜本邦茂、杉山隆一らがいた。
そして迎えた1964年の東京オリンピックでは、
日本代表はアルゼンチンを破るなどの活躍を見せ、
ベスト8の快挙を成し遂げた。

役目を終えたクラマーは、帰国にあたって5つの提言を残した。
1.強いチーム同士が戦うリーグ戦創設。
2.コーチ制度の確立。
3.芝生のグラウンドを数多く作り、維持すること。
4.国際試合の経験を数多く積むこと。
  代表チームは1年に1回は欧州遠征を行い、強豪と対戦すること
5.高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと。
— 三上孝道「日本サッカーの父 デッドマール・クラマーの言葉」

この提言により、1965年には日本サッカーリーグが発足した。
その後も釜本のドイツ留学を実現させるなど、日本のサッカーに貢献。

彼の指導を受けた選手・コーチを中心に構成された日本代表はメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した。
この試合を観戦していたクラマーは日本代表の活躍を喜んだという。
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■ デットマール・クラマーの名言集
きちんと基礎を固めてこそ、その上に立派なものが建つ。
基本がしっかりしていないものは、いつかは崩壊する。
________________________________________

上達に近道などない。
そこには、不断の努力があるだけである。
________________________________________

サッカーは子どもを大人にし、大人を紳士にする。
_______________________________________

タイムアップの笛は、次の試合へのキックオフの笛である。
________________________________________

サッカーは理論ではなく、試合を通して学べるもの。
________________________________________

サッカーは思いやりだよ。
パスを受ける人の立場になって、受けやすいボールを出すことから始まるんだよ。
これから何十年も続く君たちの人生も一緒だよ。
人を思いやる気持ちを大事にしなさい。

【平蔵の独り言】
〔2002年 ワールドカップ日韓共催 横浜スタジアム〕
ブラジルvsドイツ  終了のフィッスルがなった時
・ドイツ キーパー カーンがゴールポストにへたり込んだ。
・FIFAのマークのついた折鶴が舞い降りた。
〔なでしこジャパンが女子ワールドカップ優勝〕
〔メキシコ五輪依頼の銅メダル(かなわず)〕

クラマーさんからだったことを思い出させてくれました。

Help Him もクラマーさんの言葉!
(サッカーは自分が彼の為にプレーをする)
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by asanogawa-garou | 2012-08-16 15:58 | サッカー | Comments(0)

香川、2年半でJ2から世界最高峰のプレミア・マンチェスター・Uへ   

2012年 06月 14日
香川、2年半でJ2から世界最高峰のプレミア・マンチェスター・Uへ
【Soccer King】 2012/06/05(火) 18:07
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世界最高峰の舞台に挑戦することになった香川真司

日本代表FW香川真司(23=ドルトムント)が、
プレミアリーグの名門マンチェスターUへ移籍することで合意した。

香川は2006年、C大阪でプロとしてのキャリアをスタートさせた。
1年目は出場機会に恵まれず、ポジションをつかんだのは翌シーズン。
以降、レギュラーとして活躍し、
2009年にはJ2で44試合に出場、27得点という圧倒的なパフォーマンスを披露し、
チームをJ1昇格に導いた。

半年後にはドルトムントへ移籍。
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加入直後からレギュラーとして活躍した香川は、
2年連続でのブンデスリーガ(リーグ戦)を優勝、カップ戦(ドイツ杯)1度に大きく貢献するなど、
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若きドルトムントに必要不可欠な選手として世界的にも認識されるようになった。

そして今夏、ついに名門の扉をたたくことに。

わずか2年半前、J2でプレーしていた香川は、
押しも押されもせぬ日本を代表するプレーヤーへと成長し、
世界最高峰の舞台へと歩みを進めた。
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マンチェスター・ユナイテッドへの移籍が決まった日本代表MF香川真司
マンU移籍の香川、年俸3億超の4年契約か ドイツの地元紙報じる
2012.6.6 11:45
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 オマーン戦で攻め込む香川真司=3日、埼玉スタジアム

サッカーのイングランド・プレミアリーグ、マンチェスター・ユナイテッドへの移籍が決まった
日本代表MF香川真司の契約内容について、

ドイツの地元紙ウェストドイチェ・アルゲマイネ(電子版)は5日、
契約期間は4年で、年俸約320万ユーロ(約3億1千万円)になると報じた。
1週間あたり約6万ユーロ(約590万円)。
香川を移籍させるドイツ1部リーグのドルトムントが得る移籍金は推定1600万ユーロ(約15億7千万円)で、成績に応じさらに300万ユーロ(約2億9千万円)が加算されると伝えた。(共同)

◆マンチェスター・ユナイテッド
マンチェスターの鉄道員が中心となり、1878年に創立。
67-68年の欧州チャンピオンズ杯(欧州CLの前身)で初優勝。
その後低迷するが、86年にファーガソン監督が就任し、若手育成に成功するなどで復活。

主なタイトルは欧州CL3回、クラブW杯(トヨタ杯時代含む)2回。
12年の米経済誌フォーブスの調査によると、資産価値は約22億ドル(約1760億円)で8年連続サッカークラブ世界一。

本拠地オールドトラフォードは7万6312人収容。愛称「赤い悪魔」。
 [2012年6月6日10時0分 紙面から]日刊スポーツ

〔レヴィー・クルピに才能を見出された 18歳 香川真二〕
クルピ監督は若手の育成と抜擢に優れた指導者だ。(クルピ監督の先見性と育て方)
searchina:2012/05/17(木)
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クルピ時代のセレッソから3人目の攻撃的MFのブンデスリーガへの移籍
かねてより噂のあった清武のニュルンベルグへの移籍が正式に決まった。
香川真司と同じセレッソ大阪からの移籍。
現在ドイツでプレーする乾貴士(23)も含め、
クルピ時代のセレッソから3人目の攻撃的MFのブンデスリーガへの移籍が決定したことになる。

昨シーズンでセレッソ大阪を退団したブラジル人レヴィー・クルピは独創性と先見性に優れた監督だ。

以前、ブラジル代表監督の話があった時も
「将来のことを考えベテラン、ロマーリオは呼ばない」と発言、その発言でサポーター、
そしてロマーリオの反感を買い、代表監督の座を失っている。

セレッソで控えのボランチだった18歳の香川真司をレギュラーとしてシャドーストライカーの位置に起用し成功したのも今や有名な話だ。

香川に「得点を取ることでサッカーの道が開ける」とゴールの重要性を説いた。

 〔クルピ監督は若手の育成と抜擢に優れた指導者だ。〕
なおかつそのデリーケートな時期にメンタル面での教育を重要視する。
香川真司(23)を控えから18歳の若さでチームのエースに育て上げたのはまさにクルピの手腕を言っていい。

若くして成功する選手は気持ちの部分にスキが出来やすくサッカーに集中できない危険な状態に陥ることが多々ある。

傲慢さが生まれ自身への過大評価と周囲の軽視が生まれ、サッカー以外の雑事にとらわれてしまう。
その点、香川は自身のポテンシャルも高かったとはいえ、
その微妙な時期にクルピに出合えたのはまさに幸運だったと言えよう。

香川の今の落ち着きとサッカーに対する真摯な態度はこのクルピ時代に培われたと言っても過言ではない。

クルピはまた攻撃的選手に得点の重要性を説き続けてきた。
「得点を取ることで上が見える」という単純明快な、
しかし従来の日本では不足していた哲学は新時代の攻撃的MFを生みだした。

旧来の日本型MFはラストパスを至上とし、ゲームメーカーとしての立場を重んじる。
しかし香川、そして清武は自らペナルティエリアに飛び込み、
ゴール前からでもさらに一歩踏み込んでくる、
相手にとっては極めて危険なプレーヤーとなり得ている。

ブラジルにいるクルピの目の前でその成長を見せて欲しいものだと思う。
(おわり 編集担当:田村和彦)

〔香川、マンUへ 「あいつはいつかは本当にバルセロナに行くと思う」〕
2012.6.5 22:31 (1/2ページ)
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 オマーン戦で笑顔で写真に納まる香川真司=3日、埼玉スタジアム

10年近く前、当時C大阪のスカウトを務めていた小菊昭雄(現コーチ)は、
15歳の少年の第一印象をはっきりと覚えている。
宮城県仙台市を拠点とするクラブチーム、宮城バルセロナユースの練習試合。

ハーフタイムに関係者から教えてもらうまで、
その少年を見つけられなかったのは、目立たなかったからではない。

「メンバーはほとんどが高校3年生。
まさか中学生の彼が出ているとは思わなかった。
1人小さいけどよく動く選手がいるなとは思ったが…」。

スピードに乗ってピッチを駆け回る、あどけない表情のその少年こそが香川だった。
小菊にとっては、同じチームで2歳上のGK丹野研太(C大阪を経て現J2大分)と
セットでの視察だったが、
帰阪するとすぐに香川の獲得をクラブ幹部に具申した。

C大阪にとって、ユース出身者を除き、
その年齢の選手とプロ契約した例はなく、転校の問題もあった。
が、何よりも本人の意志が強かった。「チャレンジしたい」。

12歳で生まれ育った神戸の親元を離れ、
サッカー留学の道を選んだ少年にとって当然の選択だった。

C大阪では2007年途中から指揮を執ったレヴィー・クルピに、その才能を見いだされた。

守備的MFから攻撃的MFへのスイッチ。
「ゲームをつくらなくていいからゴール、アシストを徹底的に狙え」という意図だった。
最前線で貪欲に得点を重ねる今の香川のプレースタイルが確立された瞬間だった。
結果を出し、自ら試合の勝敗を決定づける醍醐(だいご)味を肌で感じ始めると、
新たなポジションに対する戸惑いは自然と解消された。


06年にJ2に降格して主力が次々と抜け、期待を背負わされたこともプラスに働いた。
09年にJ2の44試合で27得点、翌年は海を渡るまでのJ1の11試合で7得点と荒稼ぎした。
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若くしてプロ入りしながら紅白戦にすら出られず、
若手3、4人で居残って練習する香川の姿を見てきた小菊は強調する。

「日の丸をつける選手になるという直感はあったが、努力のたまもの」。
香川自身も「天才と呼ばれるのは嫌」が口癖だ。
目の前の壁に挑戦し続け、
一歩一歩階段を昇った23歳が思い描く夢を小菊はどうしても荒唐無稽とは思えない。


「あいつはチャレンジすることを楽しんでいる。
いつかは本当に(最終目標に掲げる)バルセロナに行くと思いますよ」
   =敬称略
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【平蔵の独り言】
Jリーグ発足から20年
サッカー最高峰のプレミアリーグの
それも“マンチェ”でプレーする選手

香川真司? 誰、どんな選手
〔キリンカップ2011:韓国戦までほとんど知らなかった〕
・経歴: 神戸NKサッカークラブ →FCみやぎバルセロナユース(’04)→セレッソ大阪(’06~)

Jリーグどこの所属?
セレッソ大阪:前身はヤンマー(ヤンマーの釜本)
(1968メキシコオリンピック銅メダルのエースストライカー)

ブンデスリーガのドルトムント?
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2010W杯に出ていた?
(代表メンバーから落ちていた。その翌日、ドルトムントへの完全移籍)
・ドルトムントが毎試合見に来てくれたり、熱意をすごく感じたので。
そういうのも含めて決めました

移籍会見で“スペインのバルセロナでプレーすることですが、”
と語っていたが、プレィのスピードはプレミアリーグが上だと思う。

マンチェスターでは背番号は?
背番号7は伝説の番号とされており、デビット・ベッカムやクリスティアーノ・ロナウドなど、名だたる選手がつけてきた背番号だが、香川真司がその番号
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●12歳で生まれ育った神戸の親元を離れ、サッカー留学の道を選んだ少年
10年近く前、当時C大阪のスカウトを務めていた小菊昭雄(現コーチ)は、
15歳の少年の第一印象をはっきりと覚えている。

宮城県仙台市を拠点とするクラブチーム、宮城バルセロナユースの練習試合。
ハーフタイムに関係者から教えてもらうまで、
その少年を見つけられなかったのは、目立たなかったからではない。
「メンバーはほとんどが高校3年生。
まさか中学生の彼が出ているとは思わなかった。
1人小さいけどよく動く選手がいるなとは思ったが…」。
スピードに乗ってピッチを駆け回る、あどけない表情のその少年こそが香川だった。

●〔レヴィー・クルピに才能を見出された 18歳 香川真二〕
C大阪では2007年途中から指揮を執ったレヴィー・クルピに、その才能を見いだされた。

守備的MFから攻撃的MFへのスイッチ。
「ゲームをつくらなくていいからゴール、アシストを徹底的に狙え」という意図だった。
最前線で貪欲に得点を重ねる今の香川のプレースタイルが確立された瞬間だった。
結果を出し、自ら試合の勝敗を決定づける醍醐(だいご)味を肌で感じ始めると、
新たなポジションに対する戸惑いは自然と解消された。
06年にJ2に降格して主力が次々と抜け、期待を背負わされたこともプラスに働いた。
09年にJ2の44試合で27得点、翌年は海を渡るまでのJ1の11試合で7得点と荒稼ぎした。

若くしてプロ入りしながら紅白戦にすら出られず、
若手3、4人で居残って練習する香川の姿を見てきた小菊は強調する。

「日の丸をつける選手になるという直感はあったが、努力のたまもの」。

香川自身も「天才と呼ばれるのは嫌」が口癖だ。

●〔セレッソ大阪2009J2→J1へ昇格、半年後ドルトムントに移籍〕
  香川は2006年、C大阪でプロとしてのキャリアをスタートさせた。
1年目は出場機会に恵まれず、ポジションをつかんだのは翌シーズン。
以降、レギュラーとして活躍し、2009年にはJ2で44試合に出場、27得点という圧倒的なパフォーマンスを披露し、チームをJ1昇格に導いた。
  半年後にはドルトムントへ移籍。加入直後からレギュラーとして活躍した香川は、2年間で、2年連続でのブンデスリーガ(リーグ戦)を優勝、カップ戦(ドイツ杯)1度に大きく貢献するなど、若きドルトムントに必要不可欠な選手として世界的にも認識されるようになった。
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志が強ければ(思いが強ければ)
吉田松陰の言葉に「志定まれば、気さかんなり」

・志を持ち行動することが、自分だけに影響を及ぼすものでもなく、
必ず周りがその人物を見る目が変化する。

「あの人はこんなことを望んでいる」「これを目標としている」ということが、
その行動や言動から回りに伝わる。
その志がはっきりしているほど、自然とその人が必要とするであろう情報を伝えようとする人が現れるものだ。
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●12歳で生まれ育った神戸の親元を離れ、サッカー留学の道を選んだ
●C大阪では2007年途中から指揮を執ったレヴィー・クルピに、その才能を見いだされた。
●2010年1月にC大阪と契約を1年更新した際、
今夏の海外移籍を妨げない内容の契約を結んでいた。
香川は「チームが(移籍を)前向きに支えてくれて感謝している」と話した。


大リーグへの道を作った 〔野茂秀雄〕
大リーグで活躍中の 〔イチロー〕

マンチェでのプレイの道をひた走る 〔香川真司〕

〔志〕を強く持ち、良き指導者に出会い恵まれ
2年半でサッカー界の最高峰でプレィする

志も国家感もないこの国の若者よ(青年よ大志を抱け)
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by asanogawa-garou | 2012-06-14 15:19 | サッカー | Comments(0)

マラドーナ選手の「神の手」ゴール   

2012年 04月 18日

マラドーナ選手の「神の手」ゴール


「神がアルゼンチン人だった日」とは
マラドーナ選手の「神の手」ゴールの記念日に組まれた地元紙の特集である。
むろん86年のサッカーW杯準々決勝のヘディングを装ったハンドのことだ

▲マラドーナ氏は7年前のテレビで、ゴールを見て戸惑うチームメートに

「早く自分を抱きしめないと審判が得点を認めないぞ」

と呼びかけた舞台裏も披露した。

そして何より振るっていたのが
「ゴールはマラドーナの頭と神の手によるものだ」
との当時のコメントだ

▲このコメントと、同じ試合での5人抜きゴールがなければ、
ハンドは単なる誤審スキャンダルに終わったろう。

余録:「神がアルゼンチン人だった日」とはマラドーナ選…
毎日新聞 2012年03月09日 01時38分
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【平蔵の独り言】
余録:「神がアルゼンチン人だった日」とはマラドーナ選…
には、マラドーナのことではないことが載っていたが、

伝説となった「神の手」の舞台裏のコメントが楽しい。

何でも、白黒/善悪でかたずけてしまう今の風潮から
このようなことはプレーと伝説は生まれないだろう。

人生 こういうことが楽しいと思うのであるが・・・・・
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by asanogawa-garou | 2012-04-18 15:47 | サッカー | Comments(0)

「ドーハの悲劇」を語ろう 1993年10月28日深夜 日本中が天を仰いだ・・・・   

2012年 03月 31日

「ドーハの悲劇」を語ろう

清雲栄純(日本代表コーチ(当時))×都並敏史(左サイドバック)
週刊現代(2012/3/31号) 今週のディープ・ピープル

1993年10月28日深夜 日本中が天を仰いだ・・・・


ロスタイム(1分)に入ってすぐ、イラクにコーナーキックを取られた。
イラクのコーナーキックは、ショートパスからセンタリングにFWが頭で合わせて同点に追いつかれてしまった。
そして、直後に試合終了のホイッスル。
その瞬間選手は一気にピッチにへたりこんでしまった。
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(都並)実は僕はそのあたりのことほとんど覚えてないんですよ。真っ白です。
(清雲)みんな茫然自失だったからね。
最後までロッカールームに残っていたのはGKの松永だった。
夢遊病者みたいになっていて、仕方ないからおぶってバスまで連れていったのを覚えている。
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〔ハーフタイムの混乱〕

(都並)最大の敵だった韓国を破って王手をかけたことで、
何かを勝ち取った気になっていた。みんな喜びすぎてたんですよ。
カズなんて韓国に勝ったとき、涙を流していた。

(清雲)でもラモス(瑠偉)だけはずっと警鐘を鳴らしていた。
「まだ何も終わってないよ!気をつけろ!」って。
みんながプールサイドに集まってトランプなんかやっていても、
ラモスは一度もこなかった。

(都並)やっぱりブラジルにはサッカーの歴史があるから、
ラモスさんはわかっていたんでしょうね。
そういう精神状態が危ないって。

でも僕らはメンタルをどう持っていけばいいのかまったくわからなかった。

試合が始まってみると、もう前半からおかしかった。
カズのゴールで先制して、リードしているんだけど、ピンチの連続だった。

(清雲)バタついちゃって、8番を捕まえきれない。
そうして前半45分が終了して、ハーフタイムは大パニックでした。

修正点を伝えて立て直さなければいけないんだけど、
まず選手がオプト(代表監督)のもとに集まってこないんだ。

(都並)みんな監督の方を見ないで、好き勝手に自分の考えや要求を言い合って
喧々囂囂(けんけんごうごう)になっている。
選手は選手で危機感を感じて、
どうにかしないといけないという焦りがあるから、
パニック状態に陥っていたんです。

するとそれまであまり声を荒げたことのなかったオプトが「シャラップ!」と怒鳴った。

(清雲)そうしている最中にブザーが鳴って、副審が入ってきた。
そして一方で、あと45分耐え切れば夢にまで見たW杯だ、という意識もどこかにある。
そういうグチャグチャの頭のまま、後半に臨んだ。


〔オフトのハイネケン〕

(都並)後半、イラクは前がかりになって、押せ押せ。
すると後半開始わずか10分で同点に追いつかれてしまった。
流れは完全にイラクのものでした。
(清雲)でも後半24分、相変わらず劣勢にもかかわらず、
すでに疲労の限界を超えているように見えたゴン(中山雅史)が決めて、
なんとか勝ち越しに成功した。

(都並)2-1のまま時計は45分まで進んだ。
まだロスタイムがあるんだけれど、
僕たち選手はそのとき「勝った!」と思ってしまった。

いまの日本に90分終わったからって喜ぶ選手はいないでしょう。
ロスタイムに痛い目にあうところを散々見てきているはずだし、
経験も積んでいるから。
でもあの頃の我々には、それがなかった。

(清雲)だからやられてしまった。
日本は重要な試合におけるメンタル管理に、あまりに無知だった。
これは事実だね。

(都並)日本チームでもささやかな打ち上げがあったんですよね。
(清雲)カタールは禁酒の国なんだけど、
オフトが手を回してハイネケンのビールを50ケースくらい用意してくれた。

(都並)みんな落ち込みきって、
もうサッカーの話はしたくないからギャグやっておどけたり、
ものの10分も経たないうちに、松永が「おううう」って泣き出しちゃって。
お開き(笑)

(清雲)夢はかなえられなかったけど、
夢を与えられるようなプレーヤーとしてやっていこうと誓った。

その証拠に選手22人とスタッフの全員が、サッカー界から去っていない。
「悲劇」というけど僕はドーハからのメッセージと言ってきたんだ。
ドーハの経験がみんなに伝わって行って、今のJリーグと日本代表がある。
だからもう「悲劇」じゃない。
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【平蔵の独り言】
この場面は今も覚えている。
このロスタイムの同点ゴールで、
日本のワールドカップ初出場は4年先のフランス大会まで、
待たされることになる。

フランス大会は別の意味で初めてのW杯
手配したチケットを日本で入手(間に合わない)できない。
フランスにとりあえず行こうということになったが
やはり、予約したチケットが入手できない。
旅行会社がダフ屋から手に入れた。

日本にとっては、手厳しい洗礼を受けたW杯になった。
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by asanogawa-garou | 2012-03-31 13:51 | サッカー | Comments(0)

◆この言葉で44年前のメキシコ五輪を思い起こした。   

2012年 03月 15日

「おれたちはロンドンへメダルを取りに行くぞ」
と2点目のゴールを決めたMF清武弘嗣選手。
その意気で行け!

◆この言葉で44年前のメキシコ五輪を思い起こした。


サッカーの日本チームが大健闘、銅メダルを獲得した1968年(昭和43年)の大会だ。
エースの釜本邦茂選手は6試合で7ゴールをあげる活躍で得点王になった

◆あれから44年の間にチームはフル代表からU―23代表に変わったが、
日本の男子サッカーが五輪で手にしたメダルは後にも先にもメキシコの銅のほかにはない

3月15日付 よみうり寸評
 「ロンドン五輪の切符獲得おめでとう」
――まずは男子サッカーの関塚監督以下、U―23日本代表イレブンにお祝いを申し上げる
◆日本2―0バーレーン。昨夜の国立競技場。「おれたちはロンドンへメダルを取りに行くぞ」と2点目のゴールを決めたMF清武弘嗣選手。その意気で行け!
◆この言葉で44年前のメキシコ五輪を思い起こした。
サッカーの日本チームが大健闘、銅メダルを獲得した1968年(昭和43年)の大会だ。
エースの釜本邦茂選手は6試合で7ゴールをあげる活躍で得点王になった
◆あれから44年の間にチームはフル代表からU―23代表に変わったが、
日本の男子サッカーが五輪で手にしたメダルは後にも先にもメキシコの銅のほかにはない
◆今回の予選突破は5大会連続9度目。昨夜の予選最終戦はイレブンの動きもよく、引き分けでも予選突破が決まるというゲームで比較的余裕をもって観戦できた
◆が、あくまでも戦いはロンドン。「メダルを取りに」を忘れずに。44年ぶりは険しい道になる。
(2012年3月15日14時12分 読売新聞)

【平蔵の独り言】
メキシコ五輪の釜本選手のゴール

サッカーというスポーツを興味持つきっかけになった。

西が丘のサッカー場
観客もまばらな、社会人リーグ・関東大学リーグ

の観戦が懐かしい。
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by asanogawa-garou | 2012-03-15 17:12 | サッカー | Comments(0)