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野茂英雄、空前絶後のノーヒットノーランの夜〔メジャーに愛された男〕【WBC準決勝で野茂英雄氏が始球式】   

2017年 04月 07日
野茂英雄、空前絶後のノーヒットノーランの夜〔メジャーに愛された男〕【WBC準決勝で野茂英雄氏が始球式】

【野茂英雄、空前絶後のノーヒットノーランの夜】
〔トルネードを封印〕
〔勝負所を掴む〕
〔メジャーに愛された男〕

【WBC準決勝で野茂英雄氏が始球式…鈴木が必死のジャンプ】
〔日米関係も改善〕

野茂英雄、空前絶後のノーヒットノーランの夜
1996年9月17日、気温5度のクアーズ・フィールドにて
NHK・プロデューサー 久保健一
時効スクープ ~今だから、聞けた

日経ビジネスONLINE 2017年4月4日(火)

 1968年、大阪で生まれたその男は、89年、ドラフトで史上最多の8球団競合の末、近鉄バファローズに入団、プロ野球選手となった。
恵まれた体躯をグイッとひねるトルネード投法は人々の目を釘付けにし、剛速球と鋭いフォークで三振の山を築く圧巻の投球はプロ野球ファンの心を鷲掴みにした。

道なき道を
 ルーキーイヤーに18勝で最多勝、さらに新人王、沢村賞、MVPなど賞を総なめにした後も勝ち星を重ね、入団から5年間で79勝を挙げた。

 しかし94年、退団。
そして、メジャーリーグへ。
ロサンゼルス・ドジャースとのマイナー契約から始まった挑戦は、全米に「NOMOマニア」を生み、2008年、日米通算201勝で引退するまで続いた。
 NHK-BS「アナザーストーリーズ」プロデューサーの久保健一は振り返る。

 「『大リーグで通用するはずがない』『日本プロ野球を捨てた裏切り者』…野茂さんの大リーグ挑戦に対するバッシングは酷いものでした。
僕はそれに猛烈な違和感と怒りを覚えました。
道なき道を切り開こうというチャレンジスピリットが、なぜ日本では認められないのか、と。
そしてその後、大リーグで大活躍すると、今度は一気の手のひら返し。
また、違和感です。
さらに言うと、引退までの数年間、なかなか勝ち星が重ねられなくなってからも、野茂さんはいくつもの球団を渡り歩きながらチャレンジを続けました。
僕は、その姿に強い共感を覚えましたが、報じられるのは試合結果のみ。
もちろん、自分もマスコミの人間ですから、限られた取材リソースをどこに配分するかという理屈は分かっているのですが、3Aで投げている野茂さんの姿こそ、開拓者だ!と何度となく思っていました。
その後、何度も野茂さんの番組を企画しながら実現しなかったのですが、ようやく今回『野茂ストーリー』にたどり着くことができました」

 NOMOマニアの一員である久保の記憶には、数々のエピソードが刻まれている。
その中から今回、スポットを当てたのは「ノーヒットノーランの夜」だ。

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①野茂の偉業の舞台となったクアーズ・フィールド。

標高1マイル(約1609メートル)という高地に位置するため、気圧が低く空気抵抗が少なく、打球が飛びやすい。
ここでの試合は乱打戦が多く、“打者天国”とも呼ばれる

 野茂英雄はメジャーリーグで二度、ノーヒットノーランを達成している。

その一度目は、新人王を獲得した翌年の1996年9月17日、強打打線を誇るコロラド・ロッキーズとの最終カードでのことだった。
場所はロッキーズの本拠地で、高地にありボールが飛びやすいことから打者有利とされるクアーズ・フィールド。
試合は雨のせいで予定より2時間以上遅れ、21時過ぎに始まった。気温は5度にまで下がっていた。

〔トルネードを封印〕
 野茂の立ち上がりは不安定だった。
体を大きくひねるトルネード投法から繰り出されるボールはコントロールがばらつき、1回裏、フォアボールでランナーを出し、盗塁も許す。
このパターンは2回裏も同様で、点を取られるのは時間の問題のように見えた。
 野茂は3回裏から、ランナーがいなくてもセットポジションで投げるようになる。
 ロッキーズの当時の監督、ドン・ベイラーはこのとき「野茂は何をすべきかに気付いた」と証言する。
その何かとは盗塁を阻止すること。
「自分で、この流れを止めないといけない、と分かったんだ」
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②対戦相手コロラド・ロッキーズの監督 ドン・ベイラー。試合前に「野茂の攻略は済んでいた」そうだが…

 一方で、野茂の150km/hを超えるストレート、魔球と呼ばれたフォークを受け続けてきたロサンゼルス・ドジャースの捕手のマイク・ピアッツァによると、
野茂がセットポジションで投げるのは制球力を高め、かつ、試合を速く進めるためだという。
実際に野茂は3回裏を三者凡退で切り抜けており、要した時間は2分42秒。
1回裏には8分16秒をかけていたので、3分の1近くに短縮されている。

 ではなぜ野茂は、試合のペースを速めようとしたのか。
ピアッツァは狙いをこう理解していた。
 「試合のペースが速まると、守備陣も守りやすくなります。
ピッチャーがテンポ良く投げると、守備陣の調子が上がり、打撃に良い影響が出るのです。野茂の狙いはそれでした」
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③野茂の女房役、正捕手マイク・ピアッツァ。“ノーヒットノーラン”のもう一人の立役者

しかし4回裏、またしても野茂はこの回の先頭打者バークスを四球で歩かせる。
そして、主審のビル・ホーンが「後になって考えると、分かれ目だった」というプレーが起こる。
 アウトをひとつとった後、ガララーガが放った鋭い打球は三遊間へ飛んだ。
ショートのギャグニーはぎりぎりでそれ追いつき、二塁に投げ、ファーストランナーのバークスをアウトにした。

 ショートゴロ。
このときのギャグニーの捕球体勢では、一塁に投げてアウトを取るのは難しい。

 ホーンは「もしランナー(バークス)がいなければ、(ショートへの内野安打となって)ガララーガは一塁セーフ。この時点でノーヒット・ノーランはなくなっていたでしょう。フォアボールでランナーを出していたことが幸いしたのです」と振り返る。
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④歴史的ゲームの主審を務めたビル・ホーン

〔勝負所を掴む〕
 6回にもまた、勝負所が訪れた。
 野茂はまたしても先頭打者のエリック・ヤングに四球を与えた。
ヤングは以前、野茂と対戦したときに1イニング3盗塁を決めていた俊足の持ち主だ。
当然、リードを大きく取る。
そこに野茂は牽制球を投じて一・二塁間に挟み、アウトをもぎ取る。
 その後、この日三度目の打席が回ってきたバークスは、いつもならセンター前に抜けていくような高く弾んだ打球を軽々と野茂に処理され、このピッチャーは記録を狙っているのではと強く意識するようになる。

 ロッキーズ打線が焦り始めたことを、ドジャースの正捕手は察知していた。
 「キャッチャーは、バッターがどれくらい打ち気にはやっているか、それを見抜くのが仕事です。相手が攻撃的になれば、それに応じて戦略を変えます」とピアッツァはいう。
 「彼らが早いカウントで打ってくるのに気付き、早め早めにフォークを使いました」

7回、8回もノーヒットに抑え、9回表に打者としての野茂がこのイニング3つめのアウトを献上した時点で、スコアは9対0。
ドジャースの勝ちは確実で、あとはロッキーズが本拠地で屈辱を味わうか、それを回避するかだけ。
敵将のベイラーは「誰かひとりでいい、ノーヒットノーランを破ってくれ」と願っていた。
 セカンドゴロが二つ続き、打席にはバークス。
6回にピッチャー強襲のゴロを打ったバッターだ。
狙いはストレート。フォークは見逃すか、カットしてファールにすることを決めていた。
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⑤エリス・バークス。コロラド・ロッキーズの強力打線“ブレイク・ストリート・ボンバーズ”の一人

 初球のフォークは見送ってボール。
2球目もやはりフォークで、これはカットしてファールに。
3球目はボール、4球目は空振り。
これでツーボール・ツーストライクの平行カウント。

〔メジャーに愛された男〕
 野茂は何度か首を横に振る。
ピアッツァは何のサインを出したか覚えていない。
バークスはストレートが来ると踏んでいた。
が、野茂の110球目はフルスイングしたバットから逃げるように落ちていった。
野茂が表情を変えずに小さく右手でガッツポーズを作ったとき、時刻は23時57分。終わってみれば、3時間を切るハイスピードゲームだった。

 あれから20年近くが経ったが、コロラド州デンバーにあるクアーズ・フィールドでノーヒットノーランを達成したことがあるのは、2016年のシーズン終了時点で野茂ただひとりだ。
この試合の模様はMLBが公開する動画「9/17/96: Nomo's No-No」で見ることができる。

 久保はなぜ、この試合を選んだのか。
 「力いっぱいの剛速球でバッターを豪快にねじ伏せていく。
野茂さんにはそんなイメージを持つ人が多いと思いますが、この試合には『別の一面』がよく表れています。
試合開始まで2時間も待たされ、震えるような寒さの中、ぬかるんだマウンドに立つ。
ただ力任せに投げるピッチャーが、そんな試合で好結果など期待すべくもないでしょう。

しかし彼は、試合の流れを冷静に捉え、トルネードを封印し、テンポを上げ、したたかにゲームを自分のものにして、誰ひとりなし得なかった偉業を達成しました。
NOMOが常に研究を怠らず、どれほど真摯にベースボールと向き合い続けたか。
それを知るからこそ、ともにプレーした選手やメディアは今も彼をリスペストしている。
道なき道を切り開き、メジャーリーグを愛し、そして愛されたNOMOのアナザーストーリーをぜひ改めて堪能してください」

 あの日を、本稿に登場した関係者への取材で振り返る『アナザーストーリーズ 野茂英雄ノーヒットノーラン~NOMOが伝説になった日~』は、4月4日火曜日21時、BSプレミアムでプレイボール。

【平蔵の独り言】
 NHK-BS「アナザーストーリーズ」プロデューサーの久保健一は振り返る。
 「『大リーグで通用するはずがない』『日本プロ野球を捨てた裏切り者』…野茂さんの大リーグ挑戦に対するバッシングは酷いものでした。
僕はそれに猛烈な違和感と怒りを覚えました。
道なき道を切り開こうというチャレンジスピリットが、なぜ日本では認められないのか、と。
そしてその後、大リーグで大活躍すると、今度は一気の手のひら返し。また、違和感です。

【独り言】
今でもアメリカ球界に愛される“野茂”
松井、イチロー 大リーグに移った時、
日本球界は“野茂”の時ほどでないにしても
後から石を投げるようなことを球界はしてきたと思う。
ここには “同調意識”の強い国民性が出ているか!

【WBC準決勝で野茂英雄氏が始球式…鈴木が必死のジャンプ】
SANSPO 特集:WBCニュース 2017.3.22
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⑥WBC準決勝の日本-米国戦で始球式を務める野茂英雄氏。右は元ドジャース監督のトミー・ラソーダ氏=ロサンゼルス(共同)

 WBC準決勝の日本-米国戦(ドジャースタジアム)。
試合前には感動的なセレモニーが開催された。
1995年から米大リーグ、ドジャースでプレーし、日本人選手初の新人王に輝いた野茂英雄氏(48)が、始球式に登場。
当時の監督で恩師のトミー・ラソーダ氏(89)がボールを手渡した。
侍ジャパンの背番号「16」でマウンドに登った野茂氏は捕手役の鈴木(広島)に投球。
高めに大きくそれたボールを鈴木が必死のジャンプで捕球し、スタンドからは大きな拍手が送られた。
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⑦始球式を務める野茂英雄氏。右はトミー・ラソーダ氏=ロサンゼルス(共同)
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⑧始球式を行う野茂英雄氏=ドジャースタジアム

〔日米関係も改善〕
野茂が救ったのはメジャーリーグだけではない。…

日米関係をも救ったのだ。
1995年当時は貿易摩擦などの影響で日米関係は冷え込んでいた。
そんな中、野茂が好投したことで関係に好ましい影響を与えたのだ。

米大手メディアのNY times紙は「野茂のおかげで日本の鎖国癖は消えつつある」で語り、
当時のクリントン大統領は「野茂は日本からの最高の輸出品」と讃えた。

このように野茂はただ「アメリカで活躍した」という事実以上に多くのものを残していったことが分かる。
日本人選手にメジャーリーグという選択肢を与えてくれたのは間違いなく野茂英雄だ。
あの黒田博樹もドジャースでメジャー生活のスタートを切ったときに
「野茂さんがいなければ我々は誰もアメリカに来られなかった」と語っている。


日本とアメリカの野球に橋を掛けて、日米球界に大きすぎる貢献をした彼はまさしく"英雄"ではないだろうか。
(さのゆう)

【平蔵の独り言】
 WBC準決勝の日本-米国戦(ドジャースタジアム)。
試合前には感動的なセレモニーが開催された。
1995年から米大リーグ、ドジャースでプレーし、日本人選手初の新人王に輝いた野茂英雄氏(48)が、始球式に登場。

【独り言】
大リーグは純粋にベースボールに記憶に残るプレーヤーをこのように歓待してくれる。

〔松井の今でもヤンキースタジアムでは大歓迎を受ける松井氏〕
今でもファンの心に強烈に刻まれており、セレモニーなどで松井氏がヤンキースタジアムに姿を現すと、スタンディングオベーションで迎えられる。



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by asanogawa-garou | 2017-04-07 16:44 | 人間模様 | Comments(0)

「大リーグの歴史変えた40人」に選ばれた野茂英雄、〔野茂37位に 米誌が特集〕   

2016年 12月 08日
「大リーグの歴史変えた40人」に選ばれた野茂英雄、〔野茂37位に 米誌が特集〕
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①米誌の「大リーグの歴史を変えた40人」に選ばれた野茂英雄氏=共同
日本経済新聞 夕刊2016/11/29付

 米スポーティング・ニューズ誌がこのほど「大リーグの歴史を変えた40人」を特集し、ドジャースなどで通算123勝を挙げた野茂英雄が37位に選ばれた。
選手だけでなく、大リーグの発展に寄与した人物を選定する企画で、日本選手でただ一人のランク入りだった。
 野茂は1995年にメジャーに挑戦し、ストライキの影響で短かった同年に13勝を挙げて新人王に輝いた。「イチローや松井秀喜ら新世代の日本人の先導役となった」とたたえられた。

 1位に選ばれたのはベーブ・ルースだ。
草創期に通算714本塁打を放って人気を広め「野球にとって初めての象徴的存在で、今日でも最高の選手であり続けている」としている。
 2位は黒人初の大リーガーとなったジャッキー・ロビンソン。
有色人種にメジャーへの扉を開いた功績が認められた。
(共同)

【野茂英雄のトルネードに球場が沸く「今でも応援してくれるファンがいる」】
野茂英雄のトルネードに球場が沸く「今でも応援してくれるファンがいる」
名球会ベースボールフェスティバル2016が1月11日
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②名球会ベースボールフェスティバル2016が1月11日、ヤフオクドームで行われ、往年の名選手達が躍動した。

一際注目を集めたのが、日米両球界で活躍し、通算201勝を挙げた野茂英雄氏。
往年のトルネード投法を見せると、球場全体が沸いた。
「今でも応援してくれるファンがいる」と語っていた野茂氏はファンの前で全力投球。
伝家の宝刀フォークも投げるなど、以前と変わらないピッチングに大観衆が酔いしれた。

また、自身も所属していたロサンゼルス・ドジャースへの入団が決まった元広島の前田健太投手に対しては、「チャンピオンリングを獲ってくれれば自分もうれしい」とエールを送った。

これに対して、「野茂はやっぱり野茂だった。ブランクがあるのに、あまりそれを感じさせないよな。トレーニングしてるのかな」「清原とか楽しそうだったね。それにしてもスゴいメンバーだった」「清原と佐々木の対決とか興奮した。野茂のトルネードが見れてうれしかった」など、ファンからはさまざまな声が寄せられていた。
《浜田哲男》
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③野茂英雄(2003年3月31日)

【「最高の輸出品」クリントン大統領も讃えた! 野茂英雄の偉大なる功績】
Excite Bit コネタ 2015年5月19日 12時01分
ライター情報:さのゆう
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④「野茂英雄―日米の野球をどう変えたか」
近年、多くの日本人野球選手が海を渡ってメジャーリーガーとなっている。
もはや日本のスター選手、例えば最近でいうとマー君やダルビッシュがメジャー移籍を表明した際も「ついにこの日が来たか」とそこまでファンも驚かなかったのではないだろうか。
しかし、つい20年ほど前までは日本のスター選手がメジャーに行くことなど、誰もが夢物語のように思い、非現実的なことだった。
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⑤「野茂は日本からの最高の輸出品」
【当時のクリントン大統領は「野茂は日本からの最高の輸出品」と讃えた】
では、誰がメジャーへの扉をこじ開けたのだろう。
それは「野茂英雄」である。
野茂の名は知っている人も多いのではないだろうか。
1989年、史上最多となる8球団からドラフト1位指名を受けた野茂は競合の末、近鉄に入団。
その後、ルーキーイヤーから4年連続で最多奪三振と最多勝を獲得し、名実ともに日本最強投手だった。
しかし、まだまだ選手としてはこれからという6年目のシーズンに日本を離れメジャーリーグのドジャースへと移籍したのだ。
今回は「野茂英雄―日米の野球をどう変えたか」(著:ロバート・ホワイティング/PHP研究所)を参考に、どのようにアメリカに渡った野茂は野球界を変えてパイオニアと呼ばれるようになったのか探っていこう。

【パイオニア】
野茂はなんと言っても日本人がメジャーに行く道をつくった人物だ。
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⑥「自分の夢を叶えたかった」などではなく意外なものだ。
そもそも野茂がアメリカに渡った最大の理由は「自分の夢を叶えたかった」などではなく意外なものだ。

それは当時在籍していた近鉄バファローズと揉めたから。
監督だった鈴木啓示の「とにかく走れ」という根性論の練習、複数年契約などを認めない球団フロントに愛想をつかせた。
その後、野茂は団野村(スポーツ代理人。サッチーの連れ子でもある)とともに、なんとかアメリカへ行く道はないかと模索した結果、「任意引退」という野球協約の抜け穴を発見する。
しかし、かつて同じように野球協約の抜け穴で巨人入りを目指した「江川事件」がバッシングを受けたように野茂も多くのバッシングを受けることになる。…

マスコミ・プロ野球オーナー・王や長嶋なども含めたプロ野球OB・近鉄の球団社長、挙句の果てには実の父親からも非難された。
しかし、図太い性格の野茂は「売国奴」、「どうせしっぽを巻いて逃げる」などと周囲に言われてもなんとも思わなかった。
「正しいことをしているから」と信じて最終的にはロサンゼルス・ドジャースと契約を結んだ。
後で詳しく説明するが、野茂は1年目から大方の予想を裏切り大活躍。
それまで野茂に罵声を浴びせていた日本人はとたんに「日本の誇りだ」と手のひら返しを見せたのである。

この野茂の活躍により、日本人でもメジャーで活躍できるのだと証明され、MLBの球団は日本人の有力選手を物色するようになる。
また、野茂の活躍を契機に日本でも海を渡るための制度化が進み、イチローなども利用したポスティングシステム導入へとつながった。
最近の日本選手が障害なくメジャーへ行けるのは、「任意引退」という手段を使ってでもアメリカへ渡った野茂の壮絶な覚悟のおかげなのだ。
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⑦野茂の活躍により
【成績も凄かった】
ドジャースで1995年シーズンを迎えた野茂は初登板から好投する。
その後の登板でも好投が続き、最終的には1年目のシーズンは13勝をマークすると同時に、最多奪三振・新人王のタイトルを獲得する。
また、日本人初となる(そして現在でも野茂ただ一人)オールスターでの先発投手を務めたり、リーグ最終登板でチームをPO進出に導くピッチングをしたりと記憶の面でもかなり大きな印象を与えた。
このように野茂が初年度から活躍できたのは「トルネード投法」と呼ばれる独特のフォーム、そして150km/hを超えるストレートと信じられないほどの落差のフォークボールがあったからだ。

当時、野茂と対戦した大打者たちはみな絶賛のコメントを残している。
例えばバリー・ボンズは「あんな投手見たことない」と話し、
サミー・ソーサは「あんな打ちにくいフォークは初めてだ」と話した。

【ノーヒッターに】
そしてメジャーでの2年目のシーズン、野茂はより大きなインパクトを日米のファンに残した。…

"常識外"とも言えるノーヒットノーランをロッキーズ戦で達成したのだ。
というもの、野茂が記録達成した球場「クアーズ・フィールド」はかなり標高が高く打球が飛びやすい。
そのため投手にとってはかなり不利な球場だ。
事実、「クアーズ・フィールド」を本拠地とするロッキーズはそれまで直近7試合の平均得点は10点を超える(そのすべての試合で2ケタ安打を記録する)ほどだった。
野茂はそんな球場、しかも試合当日は気温が低く雨も降るという投手にとって最悪の環境の中で達成。
ドジャース監督は「史上最高のピッチングとして歴史に残すべき」と話し、
「完全試合より価値があるノーヒットノーランだ」とも言われた。
また、野茂はその後、ア・リーグでもノーヒットノーランを記録し、メジャー史上5人目となる両リーグでのノーヒッターとなった。

【ファン人気が凄かった】
それまで見たことのないフォームで快投を続ける野茂に日本のファンのみならず、アメリカファンも熱狂。
そんな彼らは「NOMO マニア」と呼ばれ、「野茂が投げれば大丈夫」と歌われたテーマ曲まで登場した。
人気は数字にも表れ、スタジアムの 観客動員数が野茂登板の時には4%アップすると言われたほど。
また、ジム・キャリー主演の「ライアーライアー」の中では、ジム・キャリー演じる主人公の息子が「僕はノモになる!」と叫ぶシーンまで登場する。
ハリウッド映画に登場するほど当時の野茂は人気があった。

このようなフィーバーを通して野茂は「メジャーリーグの救世主」と呼ばれるようになった。
なぜそこまで称賛されたかというと、野茂が渡米する前年、メジャーは大規模なストライキが起きてファン離れが深刻だった。
そんな中、野茂が彗星のごとく登場してスタジアムへとファンを呼び戻したからだ。ラソーダ(当時のドジャース監督)も「彼がMLBを救った」と語っている。
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⑧野茂は「メジャーリーグの救世主」
【日米関係も改善】
野茂が救ったのはメジャーリーグだけではない。…

日米関係をも救ったのだ。
1995年当時は貿易摩擦などの影響で日米関係は冷え込んでいた。
そんな中、野茂が好投したことで関係に好ましい影響を与えたのだ。
米大手メディアのNY times紙は「野茂のおかげで日本の鎖国癖は消えつつある」で語り、
当時のクリントン大統領は「野茂は日本からの最高の輸出品」と讃えた。

このように野茂はただ「アメリカで活躍した」という事実以上に多くのものを残していったことが分かる。
日本人選手にメジャーリーグという選択肢を与えてくれたのは間違いなく野茂英雄だ。
あの黒田博樹もドジャースでメジャー生活のスタートを切ったときに
「野茂さんがいなければ我々は誰もアメリカに来られなかった」と語っている。

日本とアメリカの野球に橋を掛けて、日米球界に大きすぎる貢献をした彼はまさしく"英雄"ではないだろうか。
(さのゆう)

【平蔵の独り言】
小学生の時、巨人ファンであったが、
千葉茂が移籍して監督をしたパリーグは近鉄ファンになっていた。

近鉄は巨人の水原、三原・川上、千葉のライバル関係で出された
三原監督、千葉茂監督で在籍し、
仰木彬さんで野球人生を開花した、野茂英雄・・・・・
思い返せば、愉しい球団だった。
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by asanogawa-garou | 2016-12-08 15:50 | 人間模様 | Comments(0)

〔仰木マジック〕あなたがいたから野球が面白かった。パ・リーグを盛り上げた奇策の数々   

2015年 03月 19日
〔仰木マジック〕あなたがいたから野球が面白かった。パ・リーグを盛り上げた奇策の数々
熱討スタジアム/仰木マジックを語ろう
   仰木彬、中西太、金村義明、吉井理人、オリックス、近鉄
今週のディープ・ピープル(中西太×金村義明×吉井理人)
週刊現代 2014年 11/1号

〔選手を怒鳴りつけるのは日常茶飯事。しかし細かいことは、一切言わない。魔法とまで称されたその野球は、並外れて器のでかいこの男だからできるものだった〕
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〔一軍をかけて酒場で勝負〕

金村:あのとき、たまたま審判部の人たちが同じ店に来ていて、呆れてた。
「お前らアホか。近鉄はおかしいんちゃうか」って。
吉井:シーズン中のスタメンも、一気飲みで決めたりしていましたよね。

〔気を抜く奴は許さない〕
吉井:野球はチームスポーツ。
仰木さんは輪を乱す選手に厳しかった。
金村:エラーはしゃあない。
でも気が抜けている奴は許さなかった。
セカンドだった村上隆行が、エラーをしたにもかかわらず、
イニングの合間にロッカールームで整髪料をつけていた。
それを仰木さんが見つけて、
「きさん!なにを髪の毛いじっとんねん。
おまえ、内野はクビや!外野に行け!」と怒鳴った。

〔教え子が集まった「生前葬」〕

「この人は過去にこだわるよりも、いまに生きている」と選手達に思わせた。(仰木彬)

金村:´04年の野球殿堂入りのパーティーに、教え子をみんな集めた。
近鉄の選手たちはもちろん、野茂、イチローらメジャーリーガーもみんな来た。
吉井:「生前葬だ」と言ってましたもんね。僕も駆けつけました。
中西:彼の人徳だよ。
仰木くんは他人の悪口や陰口は一切言わなかった。
豪快で、優しくて、男気があった。
だからこそ、誰からも慕われたんだ。

〔いまも忘れられない【仰木彬の伝説】〕
〔敵チームを怒らせる達人だった〕
〔闘将が見せた唯一の涙〕

僕は一度だけ見たことがあるんです。
´88年の「10・19」。
負けたのが悔しくて僕が便所で号泣していると、後から仰木さんが入ってきた。
僕がいることに気づいて、すぐに顔を洗ってごまかしてたけど、明らかに泣いてました。
その後、「見たな~」って表情で僕をにらんでた。

〔遠征先でなぜか犬を散歩させていた〕

―――――――――――――――――――――――――――
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仰木マジック
〔一軍をかけて酒場で勝負〕
中西:仰木くんが亡くなってから、来年で10年になるのか。早いなぁ。
金村:仰木さんほどの人物は、この先はもう出てこないでしょうね。
本当に豪快な人でした。
吉井:人柄だけでなく、実績も素晴らしかった。
近鉄とオリックスでの通算14年の監督生活で、
日本一1回、リーグ優勝3回、Aクラス11回。
いまのパ・リーグ人気の礎を築いたのは、仰木さんでしょう。
金村:監督就任1年目から「仰木マジック」が炸裂。あの「10・19」を演出したからな。
吉井:´88年10月19日、優勝がかかっていたロッテとのバブルヘッダー。
惜しくも優勝は逃しましたが、あの熱戦はいまでもプロ野球ファンの間で語り草になっていますよね。
中西:前年最下位だったチームを改革して、よく結果を出したよ。
ベテラン陣に退いてもらって、活きのいい若手を起用していった。
金村:僕ら野手はベッドコーチの太さんに鍛えてもらって、投手陣は権藤(博)さんがまとめていた。
そして当時はまだ若く血気盛んだった仰木さんが、リーダーとしてチームを引っ張ってくれた。
吉井:仰木さんは人心掌握に長けていました。
´87年の夏場に、当時ベッドコーチだった仰木さんと偶然ウェットルームで会ったとき、
「ヨシよ、来年はいいところで使うからな」って言ってもらったんです。
僕はそれまで活躍できていなかったけど、その言葉がすごく励みになった。
そして本当に、´88年はよく投げさせてくれました。
金村:伸び悩んでいたショート真喜志泰永も「2割5分打ったら時計やる」って言われて
レギュラーに定着。
ほんまにロレックスをもらったからね。
ショックでしたわ。僕にくれると言うたはずなのに(笑)
中西:給料が安くて頑張っている選手を気にかけてたんだよ。
お前はそこそこもらっとっただろ。
吉井:仰木さんは、選手の起用法では、伝説のエピソードが山ほどあります。
金村:伝説といえば、シーズン前の北海道遠征や。覚えてるよな。
吉井:忘れるわけないじゃないですか。
中西:わしは知らんぞ。
金村:遠征中、食事にいったとき、
仰木さんが一軍の椅子をかけたビールの一気飲み大会を開催したんです。
飲みっぷりで一軍に残す選手を決めると。
吉井:チームの台所事情で、ピッチャーを一人だけ二軍に落とさないといけなくなった。
   それで、僕と加藤哲郎と品田操士の3人で勝負させられたんです。
金村:吉井は下戸だったから、みんな負けると思っていた。
だけどスタートがかかると、ものすごい勢いで飲んで勝ちよった。
吉井:一軍がかかってるんだから当然でしょ!もう必死でしたよ。
金村:あのとき、たまたま審判部の人たちが同じ店に来ていて、呆れてた。
  「お前らアホか。近鉄はおかしいんちゃうか」って。
吉井:シーズン中のスタメンも、一気飲みで決めたりしていましたよね。
中西:うーん、仰木くんはそれで負けん気を見ていたんやろ(笑)
金村:仰木さん自身、無類の酒好きでした。
門限が過ぎた時間に店でばったり会って逃げようとすると
「待て!飲め!」と怒らずに飲ませてくれた。
中西:現役中(西鉄ライオンズ)からよく飲み歩いていたよ。
わしが夜中まで部屋で素振りをしていると、
「モテた、モテた」と言いながら帰ってくる。
博多雀を何人も泣かせとった。
金村:ファンにも野次られとった。
大阪球場で「おーい仰木、昨日、新大阪で女連れて歩いてたやろ!」って(笑)
吉井:それでも、仰木さんは堂々としてましたね。
金村:全部ほんまの話やったからな。
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〔気を抜く奴は許さない〕
中西:でも野球に対しては、彼ほど熱心な男はいなかったよ。
綿密なデータをもとに、徹底的に研究していた。
金村:ベンチでもようメモを取っていました。
吉井:僕、一度メモ書き見たことがあるんです。
広告のチラシの裏みたいな紙に殴り書きでギッシリ。
しかもいろんな向きで字が書いてあって、これで読めるんかなと思いました。
選手の特徴や癖、気づいたことを書いていましたね。
中西:運の要素も見てたわ。
あいつはいい当たりでも守備の正面ばかりや、とかな。
金村:魔術師と称されましたが、データ野球が仰木マジックの根幹。
奇策と見えるような選手起用にも、ちゃんと根拠がありました。
吉井:分業制がまだ確立していなかった当時にあって、
5回途中で先発投手を交代させたりしてましたね。
金村:勝利投手目前で替えれば、投手は怒るわな。
中西:それに、近鉄のライバルだった西武戦に、
ローテーションをずらしてわざとエースの野茂(英雄)をぶつけたりな。
吉井:「猫の目打線」も有名でしたよね。
予告先発を見て、打順や選手をいつも入れ替えてた。
金村:内野手が複数のポジションを兼任するのは当たり前。
外野だった谷佳知や田口壮が内野を守ることもあったけど、
それがことごとく当たった。
中西:相手チームとの兼ね合いが大きな理由だけど、
選手の競争心を煽る目的もあった。 
スタメンを約束されないほうが、選手はハングリーになるからな。
吉井:野球はチームスポーツ。仰木さんは輪を乱す選手に厳しかった。
金村:エラーはしゃあない。
   でも気が抜けている奴は許さなかった。
セカンドだった村上隆行が、エラーをしたにもかかわらず、
イニングの合間にロッカールームで整髪料をつけていた。
それを仰木さんが見つけて、
「きさん!なにを髪の毛いじっとんねん。おまえ、内野はクビや!外野に行け!」と怒鳴った。
中西:村上はそれで、本当にコンバートされたからな。
吉井:「きさん」は小倉弁で貴様。頭に血が上ると「きさん!」とよく言っていました。
ブライアントら外国人選手にも容赦はなかった。
中西:チャーリー(マニエル)なんてケツを蹴り上げられてたもんな。
金村:叱られたといえば、ショートの米崎薫臣。
ある試合でサヨナラエラーをした米崎は、ホテルに帰っても放心状態。
そこにたまたま仰木さんの奥さんから俺に電話があって、
「うちの人がそんなことで怒るわけないでしょ」と励ましてくれて、食事に誘ってくれた。
それで俺と米崎と奥さんの3人で、飲めに行ったんやけど……。
吉井:いい話じゃないですか。
金村:それがちゃうねん。
その後、その店に仰木さんが偶然来てしもたんや。
中西:そうだそうだ。そのときはわしも一緒だった。
   エラーをした選手が、自分の嫁と寿司食ってビール飲んどる。
そら腹立つわな。
金村:米崎を見つけるなり、顔を真っ赤にして「きさん、奥に来い!」と。
   米崎は引っ張られていって、正座させられ、説教を食らったんやけど、
同時に飲まされてました。
怒られてるのに、ビールをどんどん注がれて「飲め飲め」って。どっちやねん(笑)。
吉井:仰木さんらしいな。
でも、怒っても試合には使ってくれるんですよね。
僕も仰木さんとはよくぶつかっていましたけど、ずっと使ってもらいました。
金村:お前くらいやで。
試合が終わったあと監督が差し出した握手にソッポを向いて、外野のほうに走って逃げたのは。
吉井:理由は忘れたけど、何か、ムカついてたんでしょうね。
中西:仰木くんにしてみれば、血の気が多くて可愛い奴じゃのう、
くらいの気持ちだったはずだよ。
吉井:そうなんですよね。
晩年に、オリックス時代に、「お前はちょっと怒らしているくらいのほうがエエ球投げたからな」って言われて、すべて計算ずくやったんやとわかりました。
中西:指導者は長所、個性を生かすのが仕事。仰木くんはそれができる男だった。
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〔教え子が集まった「生前葬」〕
吉井:技術的なことに関して、細かいことを言われた覚えはありません。
自主性を重んじて、のびのびやらせてくれた。
金村:それが、仰木さんの教え子たちの多くがメジャーリーガーになれた理由かもな。
野茂、イチロー、吉井、長谷川滋利、田口、佐野慈紀まで行っている。
中西:教え子がメジャーに行くのを、仰木くんは喜んでいた。
金村:晩年、がんの闘病中でも、一人一人、順番に会いに行ってましたね。
中西:イチローのところに行っているときは一番嬉しそうだったな。
これもろうて来たって、イチローの帽子を見せてくれたりしたよ。
金村:仰木さん、アメリカのメディアに「ジャパニーズマフィア」と思われてたらしい。
上半身裸でサングラスをかけたパンチパーマのおっさんに
イチローがぺこぺこしているから、
イチローがジャパニーズマフィアに脅されたって(笑)
吉井:裸になるのが好きだった。
僕らがウェイトトレーニングをしていると、仰木さんも一緒にやるんですが、
いつも上半身裸でした。
金村:それと日焼けな。
サイパンでのキャンプのときも、暑い中、裸でよく走っていた。
サンオイル代わりになぜかメンソレータムを顔に塗って(笑)。
それで練習が終わったらプールや船着き場に行って、また焼きついている。
面積の小さな三角水着でね。
中西:真っ黒けに日焼けしとったな。
金村:船着き場に呼ばれて、夕日を見ながら一緒にビールをガンガン飲んでいました。 
楽しかったなあ。
吉井:あの時代は面白かったですね。
金村:あの人は生き方そのものが豪快だった。
  ´05年には、「ユニフォームを着たまま死ねたら本望」と、
病を押してオリックスの監督を引き受けたんやから。
中西:仰木くんには常にパリーグ魂があったんよ。
盛り上げるために、いろいろ工夫してた。
金村:俺にピッチャーやらせたりね。
ヤクルトとのオープン戦の前日、「明日、カネを投げさせる」と
マスコミに言って本当に投げさせた。
あれも何とか近鉄に注目してもらうためや。
吉井:僕はオリックスを´04年にクビになったんですが、
翌年に仰木さんが監督に就任して拾ってくれた。
ただそれにも、パリーグを盛り上げようという計算があった。
後になって聞かされたんですが、
「お前のようなおっさんがチャレンジ精神を持って頑張っている姿を、
(球界再編で近鉄と)合併して新しくできたチームの若手に見せたかった。
だからお前を雇ったんや。活躍するかどうかはどうでもよかった」って。
金村:清原(和博)をオリックスに呼んだのも仰木さん。
巨人でクサクサしてた清原を見かねて、
「キヨ、大阪に帰って来い。最後に俺がいやっちゅうほど試合に出してやる」言えてな。
中西:仰木くんは清原を買ってたからな。
金村:清原も仰木さんだけは尊敬していました。
清原と仰木さんがばったり新幹線のホームで会ったときのこと。
清原は直角に身体を折ってお辞儀をして、仰木さんの乗る新幹線が走り去るまで見送っていた。
吉井:でもキヨが実際に入団したときには、仰木さんはすでに他界していた。
中西:フロントとしてオリックスに残る話が出とったのにな。
監督辞めて2ヶ月で逝ったんやからな、最後は急やった。
金村:僕、ひとつ落ち込んだことがあるんですよ。
   仰木さんが亡くなって、お通夜のときに奥さんに家に入れていただいたんです。
   光栄なことだったんですけど、その後、応接間に入ってがっくりしました。
吉井:なにがあったんですか。
金村:応接間には教え子の写真がバーッと飾られているの。
   でもメジャーに行った選手ばかりで、どれだけ見渡しても俺の写真は1枚もない。
中西:ははは。
金村:そうしたら奥さんが「カネちゃん、来て」って。
ついていくとトイレの便器の横に貼ってあった。
中西:くさい仲、いうことやな。
金村:まいりましたよ。
なぜかトイレの床には、皆川睦雄さんの写真が貼ってあるし(笑)。
中西:仰木くんは子供がいなかった。
だけど、かわいい教え子がたくさんいた。
それが財産やという話をいつもしていたよ。
金村:´04年の野球殿堂入りのパーティーに、教え子をみんな集めた。
近鉄の選手たちはもちろん、野茂、イチローらメジャーリーガーもみんな来た。
吉井:「生前葬だ」と言ってましたもんね。僕も駆けつけました。
中西:彼の人徳だよ。
仰木くんは他人の悪口や陰口は一切言わなかった。
豪快で、優しくて、男気があった。
だからこそ、誰からも慕われたんだ。
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仰木彬監督(右)の野球殿堂入りを記念するパーティーで、仰木彬監督と談笑するイチロー

〔いまも忘れられない【仰木彬の伝説】〕
〔敵チームを怒らせる達人だった〕
監督に就任したばかりの頃は血気盛んだった仰木くんだが、後年は老獪な一面もあった。
選手交代を告げるとき、わざとゆっくり審判に伝えたりするんや。
マウンドまでの歩くコースまでシミュレーションしとった。
打者が外国人のときなんかは、「早くしろ!」と明らかにカッとなっていた。
勝負は冷静さを欠いたほうが負ける。
仰木くんは相手に怒鳴られても、「何や」と泰然としとったよ(中西)

〔闘将が見せた唯一の涙〕
「人前で泣いたことがない」。
それが自慢だった仰木さんですが、
僕は一度だけ見たことがあるんです。
´88年の「10・19」。
負けたのが悔しくて僕が便所で号泣していると、後から仰木さんが入ってきた。
僕がいることに気づいて、すぐに顔を洗ってごまかしてたけど、明らかに泣いてました。
その後、「見たな~」って表情で僕をにらんでた。
後年、「あの一回だけや」って認めてましたね。(金村)

〔遠征先でなぜか犬を散歩させていた〕
ある年の東京遠征のときのこと。
朝、僕はウェイトトレーニングをしたくて、
チームメイトとトレーニングできる場所をタクシーで探していたんです。
すると、見覚えのあるパンチパーマの人がジャージ姿で犬を散歩させている。
あれ、と思って近づくと、仰木さんでした。
朝帰りばかりしているとは聞いていましたけど、驚きました。
この人いったい、どこに泊まっとるんやろって思いました。(吉井)
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【平蔵の独り言】
仰木さんが旅立ってから、来年で早10年!
これほど記憶に残って語られる人はいないと思う。

記録に残っていても、イチロー、野茂が登場するたびに
仰木さんが語られる。

吉井、金村、中西 が熱く語っているように、
野球人として人間として魅力のある人が・・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2015-03-19 15:31 | 人間模様 | Comments(0)

〔森脇浩司・オリックス監督〕 オリックス・森脇浩司監督『地味力』で勝つ!   

2014年 11月 25日
【オリックス・森脇浩司監督『地味力』で勝つ!】
観客の度肝を抜く華麗な采配はない。
有無を言わさず選手を従わせる迫力もない。
それでも森脇浩司は、万年弱小だったオリックスを強くした。

【愛読書は『葉隠』です】

〔ファンを実力で黙らせた〕

〔重視したのは守備だけではない。足を使った野球をチームに定着させた〕
〔苦悩の時代があった〕

〔名将に学んだ哲学〕

 西本幸雄
森脇はふと、視線を感じた。
すると、森脇の練習を黙ってじっと見守る西本の姿が目に入った。
王貞治
さらに王からは、こんな言葉もかけられた。
「『監督やコーチには野球理論が必要。
その裏付けは必ず、偉人と呼ばれる人々の名言から学べるので、たくさん本を読むように』とアドバイスされたそうです。
それ以来、森脇さんは歴史書や伝記を読むようになった」

それが闘将でも知将でもない名将・森脇浩司という男だ。

【謙虚な森脇新監督「監督の実績は僕が12球団で一番下」】2012/10/21
【森脇監督、入団時指揮官に誓った 西本イズム継承】2012/11/27 

【オリ森脇監督「心からおわび申し上げます」】 2013/10/07
【オリックス森脇監督、準備・集中で勝負弱さ改善】 2014/7/6
【オリックス執念実らず 142試合目で力尽く】2014/10/03


【オリックス・森脇浩司監督『地味力』で勝つ!】
観客の度肝を抜く華麗な采配はない。
有無を言わさず選手を従わせる迫力もない。
それでも森脇浩司は、万年弱小だったオリックスを強くした。
彼のもとで戦った選手だけが知る、人間力に迫った。


【愛読書は『葉隠』です】

〔ファンを実力で黙らせた〕
今シーズンの開幕前、
オリックスの快進撃を予想した野球評論家は皆無に近かった。
しかし蓋を開けてみれば、開幕から好調を維持し、
ソフトバンクと1ゲーム差の2位につけている(8月28日現在)。
打率首位を走る糸井嘉男や12球団ナンバーワンの防御率を誇る投手陣など、
躍進の要因に挙げられる選手は何人もいる。

だが、彼らのモチベーションを高め、
「勝てるチーム」を作り上げたのは、間違いなくこの男だ。
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 森脇浩司、54歳。
‘97年から2009年までダイエー(‘05年からソフトバンク)で内野守備走塁コーチや二軍監督を務め、
11年には巨人の二軍コーチに就任。
12年からはオリックスに移り、内野守備走塁コーチを務めた後、
岡田彰布前監督の解任に伴い、シーズン終了直前から指揮をとり始めた。

オリックス前監督の岡田彰布が言う。
「実はね、森脇をオリックスに引きぬいたのは俺なんだ。
試合において重要な役割を果たす優秀なサードコーチャーを探していて、
当時巨人にいた森脇に目をつけた。
巨人でも大事にされているみたいで、渋っていたけど、
最後は俺が直接原監督に電話してなんとか譲ってもらった。

真面目な男で酒は飲まないし、会議でも余計な口出しをしない。
ノックも抜群に上手くて、内野手の指導は全て任せたよ。
選手からの信頼も厚かったわ」

監督就任からわずか2年足らず。
過去10年、優勝はおろか、1度しかAクラスに入れなかったオリックスを、
森脇はどうやって変えたのか。

誰だこいつは!
なんでこんな打てない奴を使うんだ!―――。
昨シーズン、安達や伊藤ら「地味な選手」を多用する森脇に対し、
口の悪い関西のオリックスファンからはそういった不満が噴出した。

しかし森脇は、それらの批判には一切耳を貸さず、己の見る目を信じた。

そして今シーズン、彼らをチームを支える縁の下の力持ちに育てて見せ、
ファンに指導者としての実力を証明したのだ。

〔重視したのは守備だけではない。足を使った野球をチームに定着させた〕
オリックスは昨季オフに大砲が抜けた。
長打力が足りないと、周囲は心配しました。
しかし森脇監督は美味そうにコーヒーをすすりながら、
『(走れない)各駅停車がいなくなったぶん、自分の理想である走る野球ができる』と嬉しそうでした。
事実、走塁での変化は、データに表れている。
‘12年はわずか49だった盗塁数が、13年には84にまで増え、
今季は32試合を残してすでに97に達しているのだ。
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〔苦悩の時代があった〕
守備では派手さはないが堅実な選手を積極的に起用し、
攻撃では単打をつなぎながら泥臭く一つ先の塁を狙って得点を奪う。
まさに「地味力」ともいえる部分を強化し、好調を維持している今季のオリックス。

森脇本人は、その野球哲学をこう語っている。
「微差は大差なんです。開幕して、いきなり10ゲームも離されることはありません。
勝ったり負けたりしながらペナントレースは進んでいく。
ところがシーズンも終盤に近づくと、気がつけばもう挽回不可能な差になっているんです。
これは、どこに原因があるのか。
その日だけ見れば、ほんの小さな差でも、積み重なっていけば大きな差になってしまう。
雪だるまと一緒ですよ。
そうならないためには現実を直視して反省し、次に向かって準備をするしかない。
それを繰り返すことによって、チームも選手も成長できるんです」

森脇は現役時代、決して輝かしい実績を残した選手ではなかった。
攻守を買われ、‘79年に兵庫・社高からドラフト2位で近鉄に入団。
その後順調に成長し、4年目にはショートとして開幕スタメンに名を連ねた。
端正なマスクと確かな守備力。
周囲からは、「近鉄に新たなスターが生まれた」ともてはやされた。
しかし森脇は、ケガに泣かされた。
肩の脱臼、太ももの肉離れ、そして一軍定着後3年目には靭帯を損傷した。
戦線離脱を繰り返した森脇は近鉄から見切りをつけられ、
5年目のシーズン終了後、広島にトレードされた。

しかし移籍先の広島でも、森脇は不幸に見舞われる。
‘86年のキャンプ中、腰の骨を折る重傷を負ったのだ。
1ヶ月以上の入院。その後もリハビリ生活を強いられた。

〔名将に学んだ哲学〕
西本幸雄、仰木彬、古葉竹識、根本陸夫、王貞治、
彼らのような球史に残る名将たちのもと、
選手・コーチとして経験を積んだことも、
指導者になるにあたって大きな糧となった。

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2001年の日本シリーズ。
ヤクルトスワローズvs.近鉄バファローズの試合で始球式にのぞんだ81歳の西本氏

特に、近鉄時代に闘将・西本幸雄から学んだものは多い。
森脇には忘れられないエピソードがある。
森脇が近鉄の本拠地だった藤井寺球場の室内練習場でバッティング練習をしていたときのことだ。
森脇はふと、視線を感じた。
すると、森脇の練習を黙ってじっと見守る西本の姿が目に入った。
当時の藤井寺の室内練習場は、土が深く、スパイクでなければ靴が汚れてしまった。
しかし西本は、スラックスに革靴姿のまま、森脇の練習に最後まで付き合ってくれた。
「あの当時、俺はまだ駆け出しの選手。そんな俺の努力を見ていてくれた。これには感動した」。
本人はいまでもそのことを振り返っては、そう語る。
目立たない選手にも気配り、力を引き出してあげる。

その西本の姿こそ、森脇の指導者としての原点になっている。
西本だけでなく、12年にわたりその謦咳に接した王貞治もまた、森脇に与えた影響は大きかった。

‘06年、ソフトバンクの監督だった王に胃がんが発覚。
監督を一時退くことが発表され、代理として森脇に白羽の矢が立った。
「手術直後、『スポーツ新聞を持ってきてくれ』と王さんは言ったそうです。
試合の結果が気になって仕方なかったんでしょうね。
大変な手術を終えたばかりなのに、自分の体よりも、もうチームのことを気にかけている。
その姿に森脇監督は感銘を受けたようです」

さらに王からは、こんな言葉もかけられた。
「『監督やコーチには野球理論が必要。
その裏付けは必ず、偉人と呼ばれる人々の名言から学べるので、
たくさん本を読むように』とアドバイスされたそうです。
それ以来、森脇さんは歴史書や伝記を読むようになった」

なかでも森脇の愛読書は、
江戸中期に佐賀鍋島藩の藩士が武士としての心得を書いた『葉隠』。
「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」の一節で知られる武道書だ。
地味で温厚だが、心は熱く、義を重んじる。
そんな『葉隠』の理念は、森脇の目指すべき人間像と一致し、彼の胸に響いたのだろう。
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そんな森脇だけに、その指導は細やかで徹底している森脇の指導を受けて
「采配の面で、奇抜だったり、大胆だったりということはありませんでした。
ただ、練習そして試合に向けた準備については驚くほど熱心でした。
『球場に着いたらファールゾーンの広さを確認したほうがいいんじゃないか。
走った歩幅で確かめると試合での感覚をつかめるぞ』
とおっしゃっていたのをよく覚えています。
バッティングに関しても、気持ちの持ち方から、場面に応じた戦術まで指導してくれました。
知識が豊富でしたね。
そしてミーティングでまた、それらを細かく丁寧に説明する。
当然時間は長くなります。
しゃべり方もゆっくりで、わかるまで丁寧に説明してくれます。
そして必ず、『こうするべきじゃないか、こうしたほうがいいんじゃないか』という言い方で、
上からではないんですね。
いつも森脇さんからフレンドリーに話しかけてくれますし、
厳しく言われている選手は、見たことも聞いたこともないですね」


〔話し、信頼し、任せる〕

代理ではなく、明確なトップに立ったいまもその姿勢に一切変わりはない。
「『調子はどうだ』、こう言いながら、毎日一人ひとりに声をかけていますね。
選手を気にかけ、ときには寮にまで顔を出し、
若手と一緒の布団で寝ることまであるそうです。
さらに特徴的なのは、
スタメンから外した選手や代打を出された選手に、その理由を直接説明すること。
そんなことをやっている監督はいないでしょう。
『実力が足りないから外した。監督命令は絶対』が当たり前の世界ですから。
でも森脇監督は、きちんと説明した上に、最後は必ず『だから次はこうしよう』と前向きに励まして締める。
今季は8番に打順を下げられることも多いTー岡田なんかは、『直接言われれば、頑張らなきゃと思いますやん』と言っています」

地味で温厚だが、選手への愛と野球への情熱は誰よりも熱い。
それが闘将でも知将でもない名将・森脇浩司という男だ。

週刊現代2014/10/11号プロ野球特別読み物

【謙虚な森脇新監督「監督の実績は僕が12球団で一番下」】
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フェニックスリーグを視察に訪れた森脇監督(左)はファンにサインをする
Photo By スポニチ
 低姿勢は12球団一!?
 オリックスの森脇新監督が20日、宮崎でフェニックスリーグを視察した。
戦った相手・ロッテの新監督に決まった伊東勤氏に触れ「監督で比べれば、僕が勝つことはない」とポツリ。チョー謙虚な発言に終始した。

 イケメン度とダンディー度では12球団トップクラスだが、謙虚さは間違いなくナンバーワンだろう。
「僕が年上だけど、キャリアは伊東監督が上。実績十分の監督だから。監督の実績は僕が12球団で一番下」。温厚で実直な人柄がそのまま表れたコメントだった。

[ 2012年10月21日 06:00


【森脇監督、入団時指揮官に誓った 西本イズム継承】
 
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オリックスの森脇浩司監督(52)が、亡き恩師にバファローズ魂の継承を誓った。
26日、近鉄入団時の監督だった故西本幸雄氏(享年91)の自宅を訪問。
監督就任あいさつとともに来季の飛躍を約束した。
西本氏が率いた阪急、近鉄の流れをくむオリックスの指揮官として迎える13年シーズン。
Aクラス入りが最低限のノルマになる。

 誓いを新たに来季を見据えた。
「最善を尽くすので、どうか見守っていてください」―。
西本氏の一周忌だった25日は新人選手入団会見と重なり、この日の訪問となった。

近鉄でプロ生活をスタートさせたのは79年。初めて名前で呼んでもらえたこと。
秋季キャンプで怒鳴られ、バットで叩かれたこと。
公式戦で本塁打を放ち、初めて握手を交わした時のぬくもり…。
思い出は数え切れない。

 「西本監督には短い期間でしたが、たくさんのことを教えていただいた。
練習の際は各選手の動きにいつも目を光らせておられた。
ランニングをする時は、その走る姿勢を見ておられた。
難しい技術のことより基本や姿勢、スタイルを大事にされていたと思います」

 勇退までの3年間、時に鉄拳、時にスキンシップで、プロで生き抜く礎を築いてくれた。
西本氏こそ最高のお手本だ。
森脇監督は「一生懸命やらせていただくという誓いをしました。
仕事、チーム、選手に本気で向き合った方。
今の自分のスタンスの一つになっています」と言葉に力を込めた。
[ 2012年11月27日 06:00


【オリ森脇監督「心からおわび申し上げます」】
デイリースポーツ2013年 10月7日(月)22時21分配信
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本拠地最終戦を終え、来季へ向け5位からの巻き返しを誓ったオリックス・=京セラドーム(撮影・岡田育磨)
 「オリックス1‐0ロッテ」(7日、京セラド)

 オリックスが本拠地、京セラドームでの最終戦を白星で飾った。
竹原の適時二塁打で奪った1点のリードを前田から馬原、佐藤達、最後は平野佳と4投手の完封リレーで締めた。

 森脇監督は試合後のセレモニーで「今シーズンは苦しい、悔しい試合が多い中で1年間、温かい声援をありがとうございました」とあいさつ。
「素晴らしい声援をいただきながら不本意な成績に終わり、心からおわび申し上げます。この成績を真摯(しんし)に受け止め、悔しさを胸に刻み、一回りも二回りも大きくなって京セラドームに戻ってきます。
来年こそは皆様と一緒にクライマックス・シリーズを戦うシーズンにしたい」と、5位からの逆襲を誓った。

【オリックス森脇監督、準備・集中で勝負弱さ改善】
日本経済新聞〔監督たちの戦い〕スポーツライター 浜田昭八 2014/7/6 7:00

 オリックス・森脇浩司監督の口癖は「準備」と「集中」。
それに「今やるべきことを、当たり前にやる」だ。
試合前後の談話に頻繁に出てくる。
ミーティングでも話の根幹は、これで貫いている。
派手ではないが、同監督のぶれない姿勢が如実に示されている。
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好調に首位を走るオリックス。森脇監督が目指すのはあくまでも頂点=共同

■うっとうしがられてもお構いなし
 長期ペナントレースの間には、選手も首脳陣もつい惰性に陥ることがある。
頻繁に対戦する相手でも、状態は日々に変わる。
その姿を観察、分析し、戦う備えに怠りはないか。
疲れや慣れが災いして、集中力を欠いていないか。
そして、勝つための役目をしっかり把握しているか。

 プロ生活を5年も送れば、監督のこんな話はうっとうしい。
だが森脇はお構いなしだ。
ダイエー(現ソフトバンク)のコーチ時代から終始一貫、これで通した。
優勝を狙える位置にいる今は、これに「1ランク上の準備」や「より集中」などの、強調し、念を押す言葉が加わるようになった。

 監督に昇格した昨季は打線が振るわず、5位に終わった。
それも、終盤に大崩れして最下位に落ちた日本ハムに助けられた形だった。
優勝は2005年に発足した楽天。
オリックスは21世紀になって優勝のない、パ・リーグ唯一の球団になった。

■渋い球団が大補強、覚悟を迫られ
 補強に渋い球団が、今季は大補強した。
そっぽ向いてきたフリー外国人やFA選手の争奪に、積極的に参戦した。
4番候補のペーニャ、捕手・山崎(ソフトバンク)、三塁・ヘルマン(西武)、ベテラン外野手の谷(巨人)、鉄平(楽天)を次々に獲得した。
 さらにキャンプ前には、現役大リーガーでオジー・スミス2世といわれた内野手・ベタンコートを加えた。
李大浩をソフトバンク、バルディリスをDeNAに取られたが、これで穴は埋まった。
 ドラフトでは吉田一将(JR東日本)、東明大貴(富士重工)ら、即戦力の投手に狙いを定めて取った。
「さあ、この戦力で戦え」と、森脇は覚悟を迫られたのだ。

言われるまでもなく、戦う意欲は十分だった。
序盤でつまずいた前年の失敗を繰り返すまいと、慎重にスタート。
4月初めに7連勝して勢いに乗った。金子、西、ディクソンの先発陣が足並みをそろえ、比嘉、馬原、佐藤達、平野佳の救援陣が接戦を締めた。
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金子をはじめ西、ディクソンの先発陣が足並みをそろえてチームを引っ張る=共同

 前年は宮内義彦オーナーに「1点差の試合をなんとかできないか」と苦言を寄せられるほど、接戦に弱かった。
だが、今季は「1点をしぶとく取り、1点差を粘り強く守る」という展開を心掛け、勝負弱い体質は大幅に改善された。

■最強救援陣にやや綻びが気がかり
 気がかりといえば、12球団の中でも最強といわれた救援陣に、
このところ少し綻びが目立つようになったことだ。
セットアッパー佐藤達の速球の威力が落ち気味で、制球ミスも多い。
ストッパー平野佳は、セーブをマークした試合でもすんなりと逃げ切ることが少なくなった。
“勤続疲労”だとすれば、早く手を打たねばならない。
 森脇は「勝つために切り替えを迫られることはあるだろうが
、耐えることも必要」と言い、投手陣の再編までは考えていない。
ただ、夏場を乗り切るために、これまでフル稼働していない井川、東野、新人吉田一らの戦列復帰が待たれる。
 攻撃陣は粒のそろったソフトバンクに比べて、やや見劣りする。
だが、足を使ったキメ細かい攻撃で頑張っている。
大きな誤算は期待のベタンコートがほとんど戦力にならず、足を痛めて治療のために帰国したことだ。

■頂点へ「挑戦者の姿勢貫いて進む」
 来日当初から、太り気味の体を心配する声があった。
グラブさばきには名人の趣があったが、フットワークは最盛期にほど遠く、打撃にもパワーが感じられなかった。
そこで、球団はカージナルス傘下3Aから外野手バトラーを緊急補強した。
28歳の若さに魅力を感じるが、救世主になる力を備えているかどうかはまだ分からない。
 今後のペナント争いはソフトバンクとのマッチレースになると予想される。
「ボクの采配を含めて、ウチに足りないものは多い。だが、挑戦者の姿勢を貫いて進む」と森脇。
クライマックスシリーズ(CS)進出は確定的という声には耳を貸さず、あくまでも頂点を目指している。

【オリックス執念実らず 142試合目で力尽く】
2014年10月03日 10時57分
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敗戦後、ファンに挨拶する森脇監督(手前)らオリックスナイン
<ソフトバンク2-1オリックス(2日)>歓喜の渦をぼうぜんと対岸から見つめるしかなかった。
常勝軍団を土俵際まで追い詰めた森脇オリックスが142試合目で力尽きた。

 あと一歩及ばなかった。
先発のディクソンが2回に一死二、三塁のピンチを招き、細川に先制の中犠飛を許す。
オリックスは7回に二死二塁から代打・原拓の右前打で同点と執念を見せ、馬原、佐藤達、平野佳の必勝継投も跳ね返された。

 気負いはなかった。
試合前のウオーミングアップではいつも通り、
球場に響くソフトバンクの応援歌「いざゆけ 若鷹軍団」に合わせて「それそれそれそれ!」の掛け声で盛り上がり、
糸井が「ここまでみんなで力を合わせてやってきた。頑張ります」と笑顔で話せば、岸田も「緊張感を楽しみたい」と硬い表情は見られなかった。

 加えて相手が急失速したことで「あんなすごい戦力でも追い詰められると勝てない。五十嵐が1イニングが4つの押し出し(四球)なんて普通なら考えられない。自信になりますよ。普通のチームと思った方がいいですね」(ある選手)とニンマリ。
精神的にも優位に立っていたはずだったが…。

 18年ぶりの優勝はかなわなかった。
オリックスCS雪辱へ「結束力ならウチが上」
東スポWeb 10月3日(金)11時16分配信

――――――――――――――――――――――――
【平蔵の独り言】
2014年【オリックス執念実らず 142試合目で力尽く】
シーズン最後まで戦い抜いて楽しましてくれた
森脇オリックスバッファローズ
これから、どんなドラマを観せてくれるか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

――――――――――――――――――――――――
2013年1月 の【独り言】2005年仰木彬さんが命をかけた“オリックスバファローズ”に今シーズンから監督をする森脇さん

だが、「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。そんな期待を抱いている。
「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。
西本さん:大毎オリオンズ→阪急ブレーブス→近鉄バファローズ、名選手ではない
仰木さん:三原さん(娘婿の中西さん)近鉄バファローズの監督の時→西本さんを後任に
→西本さん(仰木さんを高く評価、毎年のコーチ人事でも仰木放出だけは反対していた。)

〔「世の中には無名でも陰日向なく一生懸命働いている人間がいる。オレはそういう人間の努力は、いつか報われるということを野球で証明したいんだよ」〕
とりわけ闘将・西本幸雄の立ち居振る舞いから得たものは何物にも代え難かった。
と、あった。

現役を18年間
西本幸雄、古葉竹識、王貞治らの下で野球を学び
王さんから〔森脇に監督代行・ロッカールームに戻った森脇に、王は静かに告げた。 「あとは頼むぞ」〕

森脇に監督代行の座が回ってきたのは、ソフトバンクのチーフコーチだった'06年だ。7月5日、福岡ヤフードーム。西武戦が始まる前、王はコーチたちに向かって、こう言った。 
「オレは今日を最後に、しばらくチームから離れる」
ソフトバンクで監督代行として指揮を執り、30勝22敗3分。
オリックスの9試合を合わせると、37勝24敗3分。勝率6割7厘。
この数字は指揮官としての非凡さを物語っている。 
森脇には“心の師”がいる。一昨年11月に他界した西本幸雄だ。
森脇が近鉄に入団した時の監督である。「西本さんには叱り方に愛情があった」。

仰木さん、西本さんと森脇さん  近鉄バファローズ

オリックスバファローズ   森脇監督の今シーズンに期待!
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by asanogawa-garou | 2014-11-25 15:36 | 人間模様 | Comments(0)

【野茂英雄】野茂英雄氏がドジャースタジアムで始球式   

2013年 12月 24日
野茂英雄氏がドジャースタジアムで始球式
【野茂氏トルネードで始球式「緊張」】
〔ドジャースタジアムから野茂英雄へ――ヒーローに贈られた熱い声援と喝采〕
〔野茂英雄、ドジャー・スタジアムで始球式を行う【MLB反応】〕
〔野茂氏がドジャース戦で始球式 黒田は「感謝しています」〕


メジャーリーグで日本人選手がプレーできるようになったのは、野茂さんが扉を開いてくれた
【近鉄・鈴木啓示監督とエース・野茂英雄の確執が生まれた瞬間】
【仰木彬氏「野茂に怒られるの怖かった」とトルネード投法黙認】
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【野茂氏トルネードで始球式「緊張」】
野茂英雄氏がドジャースタジアムで始球式
2013年08月11日 12:20 発信地:ロサンゼルス/米国 【写真】 【ブログ】
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始球式を行う野茂英雄氏
MLBは10日、各地で試合が行われ、ロサンゼルス・ドジャース(Los Angeles Dodgers)は本拠地ドジャー・スタジアム(Dodger Stadium)でタンパベイ・レイズ(Tampa Bay Rays)と対戦し、
試合前には元ドジャースの野茂英雄(Hideo Nomo)氏が始球式を行った。

始球式を行う野茂英雄氏(2013年8月10日撮影)。(c)AFP/Getty Images/Harry How
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ドジャース対レイズ戦を前にトルネード投法で始球式をする野茂氏(撮影・菅敏)

 1995年からドジャースに在籍した野茂英雄氏(44)が10日(日本時間11日)、
かつて数々の好投を披露したドジャースタジアムで始球式を行った。
この日は先着5万人に同氏の首振り人形が配布された。
 野茂氏がドジャースタジアムを訪れるのは5年ぶりのこと。
功績を称える映像がスクリーンに映し出された後、大歓声を浴びながら登場。
背番号「16」のユニホームを着てマウンドの手前に立つと、一世を風靡(ふうび)したトルネード投法で、捕手役を務めた元チームメイトのエリック・キャロスが持つミットに速球を投げ込んだ。
ボールはやや高めに浮き、ストライクとはいかなかったが、
球場に集まったファンからスタンディングオベーションを受けた。

 野茂氏は「今日は少し緊張しています。(どうしてかは)分からないです(笑い)。今振り返ってみても、球団のオマリーさん(当時オーナー)、ラソーダさん(当時監督)、球団のスタッフの助けがないと、多分僕は成績残せなかった気がします。こういう日を作ってもらえたのも、スタッフの人たちが、自分がやりやすいように、自分がパフォーマンスしやすいように、環境を作ってくれたおかげなので本当に感謝しています」と感慨深そうに話した。
 [2013年8月11日7時40分]

〔ドジャースタジアムから野茂英雄へ――ヒーローに贈られた熱い声援と喝采〕
SportsNavi 2013年8月12日 12:45
「NOMO!」
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ドジャースタジアムで始球式を行った野茂英雄氏。その表情には穏やかな笑みが浮かんでいた【写真:AP/アフロ】

 日本人ファンの姿が目立つと思っていた。
 だが、実際にはそうではなかった。

 8月10日(現地時間)、日本の野球選手にメジャーへの扉を開いた野茂英雄氏が、
ドジャースタジアムで始球式を行った。
先着5万人には同氏の首振り人形もプレゼントされた。
 その記念すべき日に、多くの日本人ファンが足を運ぶと思った。
野茂氏が登板するたびにスタンドのあちらこちらで日本人の姿が見られたように――。

 だが実際には、多くの地元ファンがドジャースタジアムに詰め掛け、野茂氏に熱い声援を送った。
 野茂氏がグラウンドに出てくるとスタンドから「NOMO!」という声と拍手が大きく響き渡った。
球場のスクリーンに活躍をたたえる映像が流れた後、
場内アナウンスで紹介された野茂氏は、腕を高々と挙げてファンに応えた。
ドジャースタジアムでの野茂氏のテーマソング「上を向いて歩こう」が流れる中、マウンドへ。
トレードマークだった“トルネード投法”でボールを投げ込むと、
立ち上がったファンは一層大きな歓声を挙げた。

 そこにいたのは、“日本人が誇る野茂”だけではなかった。
ロサンゼルスで生まれたメジャーリーガー。
つまり“ロサンゼルスが誇る野茂”がいたのだ。
ドジャースタジアムを埋め尽くしたファンは、チーム史に残るかつてのヒーローに惜しみない拍手喝采を浴びせた。
マウンドを降りて5年 “The tornado”再び
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ラソーダ元監督(左)、チームメートで主砲だったキャロス(右)と談笑する野茂【写真:AP/アフロ】
 1995年に近鉄から米大リーグのドジャースに入団した。
1年目から13勝を挙げて同シーズンの新人王を得ると、
翌年とレッドソックスに所属していた01年にノーヒット・ノーランを達成。
ア・ナ両リーグで同快挙を成し遂げた、メジャー史上4人目の投手となった。

ルーキー時と2001年には各リーグの最多奪三振も記録した。
 大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独自の投法は“The tornado(竜巻)”と呼ばれ、そこからバシバシ三振を奪う勇敢な姿が人気を呼び、米国で“野茂旋風”が巻き起こった。

 劇的なデビューから18年が経った。
 始球式を前に記者会見場に現れた野茂氏は「グラウンド(現役時)の方が緊張しなくて良かった。今日は少し緊張しています」と話した。
現役時は数々の大舞台に立ってきた大物投手。
それほどの選手の「緊張」という言葉に「なぜか?」という質問が向けられると「分からないです」と苦笑いを浮かべた。

 少年野球の日本選抜チームを連れて毎年夏にロサンゼルスを訪れる野茂氏だが、ドジャースタジアムは5年ぶりだという。
自分が連れてきた少年たちにはドジャースの練習を間近で見られる機会を与える。
しかし、自らが少年と一緒にグラウンドに現れることはない。

 それだけに今回の始球式の要請を受けた時は「どうしようかと思った」と言う。
しかし「こういうことができるのも最初にスタッフの人たちが、自分がパフォーマンスをやりやすいように環境を作ってくれたおかげ」。

当時のオーナー、ピーター・オマリー氏やトミー・ラソーダ元監督らへの感謝の気持ちから受け入れることにした。

 野茂氏がメジャーに足を踏み入れてから、数々の名選手が海を渡り、
ヤンキースのイチロー選手や黒田博樹投手、レンジャーズのダルビッシュ有投手ら米大リーグの歴史に名選手として名を刻むレベルの選手も出てきた。
 それに伴い、自らの記録が塗り替えられる時代もやってきた。

しかし野茂氏は
「僕の成績はそんな大したことないですし、ダルビッシュだと僕よりも全然レベルの高いピッチングをしている。野球は実力社会ですしそれはしょうがないです」。
そう言った後、「しょうがないというより、楽しみに見ています」と言い直した。

 自らがメジャーのマウンドから降りて5年が経った。
久しぶりに16番のユニホームに腕を通した感想を聞かれ、
しばらく間を置いた後にポツリと言った。
「もう一度選手としてやりたい感じがします」

サイ・ヤング賞投手が語る ある日の光景
 野茂氏の始球式を終えて、ドジャースタジアムのマウンドに立ったのはザック・グリンキー。
レイズ相手に6回3分の1を6安打無失点の好投でドジャースに勝利をもたらし、自らも今季10勝目(3敗)をマークした。
 そのグリンキーは野茂氏のメジャーキャリア最後となる2008年に、ロイヤルズでわずかな期間をともに過ごした。

 2009年のサイ・ヤング賞投手(ア・リーグ)はその時の思い出をこう語る。

「彼は40歳近い年齢だったのに、2時間にわたる打撃練習でもずっと球拾いをしていた。球拾いをやめて中に入ってはどうかと声を掛けても他の選手と一緒にずっと球拾いをしていた。彼がキャリアでどれだけのことを成し遂げてきたかは誰もが知っていたけれど、彼は決してそれを鼻にかけるようなことはしなかった。ああいう一面を僕も見習いたいと思った」

 多くの日本人選手が野茂氏を追い掛けてきた。
 しかし、同氏がメジャーに所属した12年の間に、日本人選手だけでなく多くのメジャーリーガーが、彼の背中を見て育ってきた。
 だから、「NOMO」は日本人ファンだけの思い出の選手ではないのだ。

 野茂英雄は、日本の野球だけでなくメジャーリーグという世界に大きなインパクトを与えた。
 それゆえに、日本人ファンだけではない多くの人々が、ドジャースタジアムに集まった。そう、彼の功績を称えるために。

<了>

〔2013.08.11 野茂英雄、ドジャー・スタジアムで始球式を行う【MLB反応】〕
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野茂英雄、ドジャー・スタジアムで始球式を行う
1995年からドジャースに在籍した野茂英雄氏(44)が10日(日本時間11日)、
かつて数々の好投を披露したドジャースタジアムで始球式を行った。
この日は先着5万人に同氏の首振り人形が配布された。

野茂氏がドジャースタジアムを訪れるのは5年ぶりのこと。
功績を称える映像がスクリーンに映し出された後、大歓声を浴びながら登場。
背番号「16」のユニホームを着てマウンドの手前に立つと、
一世を風靡(ふうび)したトルネード投法で、捕手役を務めた元チームメイトのエリック・キャロスが持つミットに速球を投げ込んだ。
ボールはやや高めに浮き、ストライクとはいかなかったが、球場に集まったファンからスタンディングオベーションを受けた。

野茂氏は「今日は少し緊張しています。(どうしてかは)分からないです(笑い)。今振り返ってみても、球団のオマリーさん(当時オーナー)、ラソーダさん(当時監督)、球団のスタッフの助けがないと、多分僕は成績残せなかった気がします。こういう日を作ってもらえたのも、スタッフの人たちが、自分がやりやすいように、自分がパフォーマンスしやすいように、環境を作ってくれたおかげなので本当に感謝しています」と感慨深そうに話した。

〔野茂氏がドジャース戦で始球式 黒田は「感謝しています」〕
MLB.jp(GyaO!) 8月11日(日)12時9分配信
メジャーリーグで日本人選手がプレーできるようになったのは、野茂さんが扉を開いてくれた
 1995年からロサンゼルス・ドジャースでプレーし、新人王を獲得するなど活躍した野茂英雄氏が現地10日、ドジャースタジアムで行われた古巣ドジャース対タンパベイ・レイズの試合前に始球式を務めた。

 野茂氏は、日本人選手だけでなくアジア圏の選手にもメジャーリーグへの道を切り開いたパイオニアとなった。
この日は、ドジャースでメジャーのキャリアをスタートさせた黒田博樹投手(現ヤンキース)もビデオ出演。
「メジャーリーグで日本人選手がプレーできるようになったのは、野茂さんが扉を開いてくれたからだと思っています。それを可能にしてくれて感謝しています」とメッセージを贈った。

 野茂氏はトレードマークのトルネード投法で、捕手を務めた元チームメイトのエリック・キャロス氏に向かって投球を行った。
その後の会見では「普段は緊張しないが、今日は緊張した」と述べていた。

【近鉄・鈴木啓示監督とエース・野茂英雄の確執が生まれた瞬間】
 1994年のシーズン開幕前、「今年は野茂と心中する」と公言した近鉄・鈴木啓示監督は、開幕投手に野茂英雄を指名。
4月9日の西武球場での開幕戦で、野茂は8回まで西武打線をノーヒットに抑えた。
 9回に近鉄が3点を先制。
しかしその裏、先頭の清原和博が初安打を放つと、四球と失策で1死満塁。
前年、18打数7安打と野茂と相性の良い伊東勤を打席に迎えると、鈴木監督はなんと野茂を諦め、赤堀元之をマウンドへ送った。
 しかし伊東に逆転サヨナラ満塁弾を浴び敗北。
開幕戦で早くも「心中」してもらえなかった野茂と、鈴木の確執はここから始まったとされる。
 野茂はこのシーズンが終わると近鉄を退団し、翌年2月にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだ。
5月にはメジャーへ昇格、31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとして活躍した。
※週刊ポスト2013年10月11日号

【仰木彬氏「野茂に怒られるの怖かった」とトルネード投法黙認】
※週刊ポスト2012年3月23日号
仰木:野茂に怒られるのが怖いから変えんかっただけや。
アイツに殴られてみい。どないなる? 吹っ飛ぶぜオレ!(笑い)
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 プロ野球開幕まであとわずか! 
BS・CS放送「J SPORTS」が、毎年11月~翌年2月のオフシーズンに放送する『ガンバレ日本プロ野球!?』は、普段は見られないような選手の素顔、そして本音を聞けるとあって、プロ野球ファンの間でも人気が高い。

 2004年には、新球団・オリックス・バファローズの監督に就任した仰木彬氏が番組に登場(2004年11月6日OA)。
“仰木マジック”で知られた名将が明かした選手の操縦術(?)とは……。
メインMCの金村義明氏(元近鉄、中日、西武)と大塚光二氏(元西武)と、
仰木氏の会話を振り返ろう。

大塚:鈴木一郎(の登録名)をイチローにしたり、佐藤和弘をパンチ佐藤にしたり。
発想はどこから出るんですか?

仰木:酒飲んどったら出るねん。飲まんと出ない、それは間違いない(笑い)。
というのは、広報部長とか、記者の連中とかが、
酒席で色んな話をしとるうちにアイデアを出してくれる。

金村:仰木さんは勝つだけじゃない。
例えば野茂が入ってきたときには天王寺の駅前で、明日野茂が投げます~っていったりな。
大塚:野茂が入った時、このフォームは絶対変えなくちゃいけないっていわれた(が変えなかった)。
仰木:野茂に怒られるのが怖いから変えんかっただけや。
アイツに殴られてみい。どないなる? 吹っ飛ぶぜオレ!(笑い)

金村:あと、イチローには何ていってましたっけ。
「オレが監督やってる間は(メジャーに)行くな」って?
仰木: アハハハ!
大塚:やっぱし!(笑い)
仰木:……ところでこれ(対談)はテレビの収録なの?
金村&大塚:仰木さん、もう(収録が)始まって2時間経ってますよ!(笑い)
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【平蔵の独り言】
近鉄バファローズファンになって、50余年
仰木さん、野茂英雄 に夢をもらっている。

【仰木彬氏「野茂に怒られるの怖かった」とトルネード投法黙認】
野茂は仰木さんに育てられた と思う。

11月凄いニュースが飛び込んできた
“米野球殿堂入り候補者にノミネート”
2014年1月に決定するらしいが
楽しみに待つ事にしよう。
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by asanogawa-garou | 2013-12-24 16:53 | 人間模様 | Comments(0)

〔森脇浩司〕『人生は微差が大差を生む』それに気づいたから、いまの自分がある。勝負の厳しさを誰よりも   

2013年 01月 31日
〔森脇浩司・オリックス監督〕『人生は微差が大差を生む』
それに気づいたから、いまの自分がある。勝負の厳しさを誰よりも知る男。
二宮清純レポート  2013年01月12日(土)週刊現代

勝負の厳しさを誰よりも知る男 森脇浩司 オリックス監督
「人生は微差が大差を生む」それに気づいたから、いまの自分がある
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【変化を恐れてはいけない】
〔オリックス・バファローズ〕
この10年で8人もトップが入れ替わった。
日本の政治の話ではない。オリックスのことだ。

現役時代から、決して目立つ男ではなかった。
彼のもとに飛んだ打球は、自然とアウトになってしまう。
本塁打より圧倒的に犠打の数の方が多かった。
そして今、気づけば監督になっている。


「変わることは義務だ」―――ブレない男の信念を読む。

〔我々にとって変化は義務なんですよ〕
〔変化の大敵は固定観念と先入観〕
〔僅差こそは実力差であり、微差がやがて大差になるという森脇の見立て〕


【プロとして恥ずかしいこと】〔11年の巨人二軍内野守備走塁コーチ時代〕
こうした意識づけを若手たちに徹底して行ったのが、
'11年の巨人二軍内野守備走塁コーチ時代である。 
春のキャンプ中、森脇は選手たちの動きを見ていて、あることに気づいた。

【努力は必ず報われるか】〔‘79 近鉄バファローズ〕
〔「世の中には無名でも陰日向なく一生懸命働いている人間がいる。オレはそういう人間の努力は、いつか報われるということを野球で証明したいんだよ」〕
とりわけ闘将・西本幸雄の立ち居振る舞いから得たものは何物にも代え難かった。

【友人を絶対に見捨てない】〔広島で森脇は生涯の友と巡り合う。〝炎のストッパー〟〕
その年の暮れ、森脇は華燭の典を挙げた。
会場には津田の席も用意され、他の出席者と同じメニューが運ばれた。
津田の席の隣に座ったのが当時、近鉄でプレーしていた金村義明だ。
金村はルーキーの頃、森脇を兄のように慕っていた。 
「(選手寮に)入寮した当時の僕はパンチパーマで誰も口を利いてくれなかった。
唯一、普通に接してくれたのがモリ(森脇)さん。
ピッチャーから内野手に転向した僕に守備の基本を教えてくれたのもモリさん。
あれほど人間的に素晴らしい人はいないですよ」

【わずかな準備不足を見逃すな】〔‘96 ダイエーの二軍内野守備走塁コーチ〕
球界随一と言われたのがノックの腕である。
かゆいところに手が届くような精密なノックで川崎宗則(前マリナーズ)や本多雄一らを鍛え上げ、小久保裕紀ら主力を奮い立たせた。 
'96年に18年間の現役生活にピリオドを打った森脇は、
そのまま王貞治率いるダイエーの二軍内野守備走塁コーチに就任した。 
球界随一と言われたのがノックの腕である。

〔森脇に監督代行・ロッカールームに戻った森脇に、王は静かに告げた。 
「あとは頼むぞ」〕
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【変化を恐れてはいけない】〔オリックス・バファローズ〕
この10年で8人もトップが入れ替わった。
日本の政治の話ではない。オリックスのことだ。

現役時代から、決して目立つ男ではなかった。
彼のもとに飛んだ打球は、自然とアウトになってしまう。
本塁打より圧倒的に犠打の数の方が多かった。
そして今、気づけば監督になっている。
「変わることは義務だ」―――ブレない男の信念を読む。
私見ながら、この人事はオリックスにとっては久々のヒットだ。
コーチとしての実績はもちろん、人柄も申し分ない。ビジョンも明確だ。
「一度は監督をやらせてみたい」と思っていたのは私だけではあるまい。 

〔我々にとって変化は義務なんですよ〕
まず、“我々は弱いんだ”ということを素直に認めるべきです。
強いチームがもっと強くなろうと努力しているのに、弱いチームが変わらなくてどうするのか。

〔変化の大敵は固定観念と先入観〕
“今まではこうだった”と言ってみたところで、それは通用しません。
人間というものは“もう失うものはない”
と言いながら、それでも保身に走ろうとする。
これを打破しない限り、強いチームに生まれ変わることはできません。

〔僅差こそは実力差であり、微差がやがて大差になるという森脇の見立て〕
「微差は大差なんです。開幕して、いきなり10ゲームも離されることはありません。
勝ったり負けたりしながらペナントレースは進んでいく。
ところがシーズンも終盤に近づくと、気がつけばもう挽回不可能な差になっているんです。
これは、どこに原因があるのか。
その日だけ見れば、ほんの小さな差でも、積み重なっていけば大きな差になってしまう。
雪だるまと一緒ですよ。
そうならないためには現実を直視して反省し、次に向かっていい準備をするしかない。
それを繰り返すことによって、チームも選手も成長できるんです」

【プロとして恥ずかしいこと】〔11年の巨人二軍内野守備走塁コーチ時代〕
こうした意識づけを若手たちに徹底して行ったのが、
'11年の巨人二軍内野守備走塁コーチ時代である。 
春のキャンプ中、森脇は選手たちの動きを見ていて、あることに気づいた。
左ピッチャーがマウンドにいる際、
一塁ランナーはピッチャーと目があっただけで帰塁しかける。
まるで〝パブロフの犬〟のように。 
確かにセットポジションで向き合う左ピッチャーから二塁を奪うのは容易ではない。
リードを広げて逆を突かれると牽制で刺されるリスクも高くなる。
アウトになって咎められるくらいなら自重しよう……。
森脇の目に巨人の二軍選手の姿はそう映った。 
こうした消極的な姿勢を一掃するため、森脇はあるキーワードを用意した。 
「疑わしきは沈め!」
牽制球がくるかどうかわからない時は、いちいち帰塁しかけるのではなく、
体勢を低くして、まず様子を窺えと指示したのだ。 
この狙いについて聞いた私に、森脇はこう答えた。 
「もし一塁まで戻りかけたところでピッチャーが本塁に投げ、
バッターがボテボテの三遊間のゴロを打ったらどうなるか。
わざわざ戻ったりしなければ、かなり高い確率で二塁はセーフになるでしょう。
しかし、戻ってから再スタートを切っても二塁はアウト。
下手したら併殺になる危険性もある。
これはバントの時も同じことが言えます。
左ピッチャーが右足を上げたところで一塁に戻ろうと動いてしまえば、
よほどいいバントをしない限り、二塁でアウトです。
一度戻るのと、そのまま走るのとでは3歩の差が出る。
つまり、簡単に(塁に)戻ろうとする行為はプロとして恥ずかしいことなんです」 

森脇の指導の甲斐あって、この年のイースタンリーグにおける
巨人二軍の盗塁数は前年の60から152へと2・5倍に増加した。
巨人が目指していた〝脱大艦巨砲主義〟を森脇はファームで実践し、成功させたのである。

〔全国的には無名の県立高からプロに身を投じた森脇にとっては見るもの聞くものすべてが新鮮だった。〕
'79年、兵庫・社高からドラフト2位で近鉄に入団した森脇に内野手としてのイロハを叩きこんだのは、当時の二軍コーチ、安井俊憲(当時・智規)である。
安井は現役時代、俊足巧守を売り物にし、'68年にはパ・リーグの盗塁王に輝いている。 
「キャッチャーに背中を見せるな!」
安井は事あるごとに口を酸っぱくして、そう言った。
その言葉には、どんな意図が隠されていたのか。 
安井は説明する。 
「内野の守備はバッターが打ってから動き出すようでは遅い。
キャッチャーのサインを見て、ピッチャーが投げるコースや球種を踏まえ、バッターが打つ前に動き出さなければならない。
わずか一歩の違いがチームを救うかどうかの境目になる。
そのためには常にバッテリーに意識を集中させておく必要があるんです」 

高校時代は県予選の“三回戦ボーイ”。
全国的には無名の県立高からプロに身を投じた森脇にとっては
見るもの聞くものすべてが新鮮だった。
森脇は安井の教えを、次のように咀嚼した。
「野球は“ながら”のスポーツ。動きながら判断する。
あるいは判断しながら動く。
特に内野手は常にピッチャーとキャッチャーを視野に入れておかなければならない。
一度でもボールから目を切ると、何かハプニングが起きた時に対応できなくなる。
内野手はピッチャーにボールを返して守備位置に戻る時でも背中を見せてはいけないんです。
もしランナーがいて、ピッチャーがボールを落としたら、どうするんですか」


【努力は必ず報われるか】〔‘79 近鉄バファローズ〕
強肩攻守。守備を買われ頭角を現した。
プロ4年目の82年にはショートで開幕スタメンに名を連ねた。
ネット裏からは「近鉄は向こう10年、ショートで苦労することはない」との声があがった。
にもかかわらず、彼はプレイヤーとして大成することはなかった。
肩の脱臼に太ももの肉離れと、度重なるケガに泣かされた。
5年目のシーズンが終わると広島にトレードされた。
球団は森脇の将来性に見切りをつけたのだ。
ただし、近鉄での5年間は後に指導者になる上での“含み資産”を森脇にもたらした。
〔「世の中には無名でも陰日向なく一生懸命働いている人間がいる。オレはそういう人間の努力は、いつか報われるということを野球で証明したいんだよ」〕
とりわけ闘将・西本幸雄の立ち居振る舞いから得たものは何物にも代え難かった。

「当時、(近鉄の本拠地の)藤井寺球場のライトスタンド下の室内練習場には2つだけバッティングの鳥かご(ゲージ)がセッティングされていた。
バッティングの下手クソは黙々とそこで打ち込んでいました。
ふと向こう側を見ると柱の後ろに人影がある。
誰だろうと思って目を凝らすと西本さんでした。
当時の藤井寺の室内は土が深く、普通の靴だと汚れてしまうんです。
ところが西本さんはスラックスに革靴のまま、駆け出しの選手の練習を最後まで見守ってくれていた。これには感動しました」
森脇は、ある日、西本が腕組みをしたままポツリとつぶやいた一言を今でも覚えている。
そして、これこそは森脇の指導者としての原点でもある。
「世の中には無名でも陰日向なく一生懸命働いている人間がいる。オレはそういう人間の努力は、いつか報われるということを野球で証明したいんだよ」

トレード先の広島で森脇は生涯の友と巡り合う。〝炎のストッパー〟と呼ばれた津田恒実だ。
'93年に32歳の若さながら悪性の脳腫瘍が原因で世を去った。 
「今度入った森脇だ。よろしくな!」
「あぁ・・・・・・」
同い年ということもあって気軽に声をかけた森脇だが、あにはからんや津田は無愛想だった。 
「だから最初は〝なんだよ、アイツ〟という感じでした。
ナマイキというか、付き合いにくそうなヤツやなぁと・・・・・・。
ところが、しばらくすると肌が合うというか、なぜか一緒に行動するようになっていたんです」

【友人を絶対に見捨てない】〔広島で森脇は生涯の友と巡り合う。〝炎のストッパー〟〕
津田が森脇に体の異変を訴えたのは'91年の3月だ。
森脇は'87年途中に南海('89年より福岡ダイエー)へトレードされていた。
平和台球場でのオープン戦を終えた2人は久しぶりに食事をともにした。
その席で津田は珍しく弱音を吐いた。 
「最近、疲れが取れないんや・・・・・・」
脳腫瘍であることが発覚したのは、この1ヵ月後である。
津田はすぐさま入院し、この年限りで広島を退団した。
余命は年内いっぱいと医師から告げられた。ところが奇跡が起きる。
津田は驚異的な回復をみせ、クリスマスイブの日に病院を出るのである。 
奇跡は長くは続かなかった。再び病状は悪化し、2年後の7月、永遠の眠りについた。 
その年の暮れ、森脇は華燭の典を挙げた。
会場には津田の席も用意され、他の出席者と同じメニューが運ばれた。
津田の席の隣に座ったのが当時、近鉄でプレーしていた金村義明だ。
金村はルーキーの頃、森脇を兄のように慕っていた。 
「(選手寮に)入寮した当時の僕はパンチパーマで誰も口を利いてくれなかった。唯一、普通に接してくれたのがモリ(森脇)さん。ピッチャーから内野手に転向した僕に守備の基本を教えてくれたのもモリさん。あれほど人間的に素晴らしい人はいないですよ」

森脇は87年途中に南海(89年より福岡ダイエー)へトレードされていた。

【わずかな準備不足を見逃すな】〔‘96 ダイエーの二軍内野守備走塁コーチ〕
'96年に18年間の現役生活にピリオドを打った森脇は、
そのまま王貞治率いるダイエーの二軍内野守備走塁コーチに就任した。 

球界随一と言われたのがノックの腕である。
かゆいところに手が届くような精密なノックで川崎宗則(前マリナーズ)や本多雄一らを鍛え上げ、小久保裕紀ら主力を奮い立たせた。 
ダイエーで3年間プレーした経験を持つ森山一人(現アイランドリーグ徳島コーチ)も森脇のノックの洗礼を浴びた選手のひとり。 
「僕は外野手だったんですが、フェンス際やライン際に位置をちょっとずつ変えながら打ってくる。すべての打球に〝これは、どうや?〟というメッセージが詰まっていました」

〔森脇に監督代行・ロッカールームに戻った森脇に、王は静かに告げた。 
「あとは頼むぞ」〕


森脇に監督代行の座が回ってきたのは、ソフトバンクのチーフコーチだった'06年だ。
7月5日、福岡ヤフードーム。西武戦が始まる前、王はコーチたちに向かって、こう言った。 
「オレは今日を最後に、しばらくチームから離れる」
寝耳に水とは、このことだ。もちろん、この時点で王が胃ガンであることを知る者は皆無だった。 
試合前のシートノックが終わった直後だ。ロッカールームに戻った森脇に、王は静かに告げた。 
「あとは頼むぞ」
ソフトバンクで監督代行として指揮を執り、30勝22敗3分。
オリックスの9試合を合わせると、37勝24敗3分。勝率6割7厘。
この数字は指揮官としての非凡さを物語っている。 
長きにわたって・世界の王・の謦咳に接した男は勝率4割2分5厘('12年)のチームを、どうやって再建するのか。 

森脇浩司、52歳。全国的には無名だが無力ではない。
それどころか、この男、相当なやり手である。
オリックスの来季の最大の新戦力は監督力かもしれない。


二宮清純レポート:「週刊現代」2013/1/5・12号

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【森脇浩司】
〔近鉄バファローズ〕1979-1984
社高校から1979年、ドラフト2位で近鉄バファローズに入団。
〔広島東洋カープ〕1984-1987
1984年、加藤英司・大原徹也との2対2の交換トレードで、福井保夫と共に広島東洋カープに移籍。
同年、控えの内野手として一軍に昇格。
〔南海ホークス・福岡ダイエーホークス〕1987-1996
1987年、西山秀二との1対2の交換トレードで、永田利則と共に南海ホークスに移籍。
1993年、三塁手の定位置を掴み、活躍した。
また同年、一塁・藤本博史、二塁・湯上谷宏、三塁・森脇、遊撃・小川史の「ヒロシ」内野カルテットを見せた。
守備の名手として鳴らし、控えの野手、守備固めとしての起用が多かった。

1996年、現役引退。
1997年、スコアラーに転身。
1999年、福岡ダイエーホークスの二軍内野守備走塁コーチに就任。
2001年、一軍内野守備・走塁コーチに昇格。同年よりホークスの三塁コーチを務める。

2006年、チーフ兼任となる。オープン戦にて、WBC出場の王貞治監督の代理を務めた。
また、王監督の病気療養のため、同年7月6日より、福岡ソフトバンクホークス監督代行を務める。
2009年、退団。
〔野球解説者〕2010
2010年から野球解説者に転身。
同時に編成アドバイザーとしてホークスに引き続き携わる。
〔読売ジャイアンツ〕2011
2011年、読売ジャイアンツの二軍コーチに就任。
〔オリックス・バファローズ〕2012
2012年、オリックス・バファローズの野手チーフコーチに就任。
同年9月25日から休養した岡田彰布監督の代理。
2013年、オリックス・バファローズの監督に就任。

【森脇浩司は理論を武器に、オリックス再建に挑む。】
~“代行”での経験値を生かして~
現役時代はスター選手ではなかったかもしれない。
だが、「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。そんな期待を抱いている。

【第569回 西本イズム継承、森脇監督にオリックス再建期待】
  二宮清純「唯我独論」(水曜日更新)2013-01-19
今季のパ・リーグは6人の指揮官のうち、監督としてリーグ優勝を経験した者が5人を占める。
北から北海道日本ハムの栗山英樹、東北楽天の星野仙一、埼玉西武の渡辺久信、千葉ロッテの伊東勤、福岡ソフトバンクの秋山幸二。

 こう書くと、あとのひとりは誰だという話になる。
オリックスの新監督・森脇浩司。監督としては新参者だが、その腕を侮ってはいけない。監督代行としてソフトバンク、オリックスの2チームで指揮を執り37勝24敗3分、勝率6割7厘。この数字は指揮官としての非凡さを物語っていやしまいか。

【野球:オリックス・森脇新監督、名将から学んだこと  2012-12-25】
これまでの野球人生、決してスポットライトを浴びる場所にいたわけではない。
ただ、西本幸雄、古葉竹識、王貞治らの下で野球を学び、その中で培われた指導哲学は卓越したものがある。
組織改革に乗り出した新指揮官は名将たちから、どんな影響を受けてきたのか。
二宮清純が訊いた。

【第415回 骨太の指導でダイヤの原石をどう磨くか 巨人・森脇浩司2軍内野守備走塁コーチ】  二宮清純「プロ野球の時間」(火曜更新)投稿日時: 2010-11-30

【ソフトバンクは25日、森脇浩司ヘッド兼内野守備走塁コーチ(49)の退団を電撃発表。】[ 2009年11月26日 ]
 秋山監督も「(森脇ヘッドとは)来年の話もしていた。球団主導でやるというから仕方ないことだった」と、まだ戸惑いを隠せなかった。
この決断が吉と出るか、凶と出るか…。
いずれにせよ、思い切った、突然すぎる血の入れ替えだった。

「今回の例(この時期の通告)は自分で最後にしてもらいたい」と球団にくぎを刺した森脇氏。
功労者は思いもしない形でホークスのユニホームを脱ぐことになった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【平蔵の独り言】
近鉄バファローズ、西本監督の時 ”森脇?”名前だけ微かに憶えている。

2005年仰木彬さんが命をかけた“オリックスバファローズ”に今シーズンから監督をする森脇さん

「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。
西本さん:大毎オリオンズ→阪急ブレーブス→近鉄バファローズ、名選手ではない
仰木さん:三原さん(娘婿の中西さん)近鉄バファローズの監督の時→西本さんを後任に
→西本さん(仰木さんを高く評価、毎年のコーチ人事でも仰木放出だけは反対していた。)

〔「世の中には無名でも陰日向なく一生懸命働いている人間がいる。オレはそういう人間の努力は、いつか報われるということを野球で証明したいんだよ」〕
とりわけ闘将・西本幸雄の立ち居振る舞いから得たものは何物にも代え難かった。
と、あった。

現役を18年間
西本幸雄、古葉竹識、王貞治らの下で野球を学び
王さんから〔森脇に監督代行・ロッカールームに戻った森脇に、王は静かに告げた。 「あとは頼むぞ」〕

森脇に監督代行の座が回ってきたのは、ソフトバンクのチーフコーチだった'06年だ。7月5日、福岡ヤフードーム。西武戦が始まる前、王はコーチたちに向かって、こう言った。 
「オレは今日を最後に、しばらくチームから離れる」
ソフトバンクで監督代行として指揮を執り、30勝22敗3分。
オリックスの9試合を合わせると、37勝24敗3分。勝率6割7厘。
この数字は指揮官としての非凡さを物語っている。 

仰木さん、西本さんと森脇さん  近鉄バファローズ

オリックスバファローズ   森脇監督の今シーズンに期待!

〔二宮清純レポート〕との出会いに感謝!

シーズン終了時どのような結果が・・・・・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2013-01-31 17:36 | 人間模様 | Comments(0)

〔森脇浩司・オリックス監督〕「現役時代はスター選手ではなかったかもしれない。名選手=名監督にあらず」   

2013年 01月 30日
〔森脇浩司・オリックス監督〕現役時代はスター選手ではなかったか
もしれない。
だが、「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。そんな期待を抱いている。



【森脇浩司は理論を武器に、オリックス再建に挑む。】
~“代行”での経験値を生かして~
現役時代はスター選手ではなかったかもしれない。
だが、「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。
そんな期待を抱いている。



【第569回 西本イズム継承、森脇監督にオリックス再建期待】

  二宮清純「唯我独論」(水曜日更新)2013-01-19
今季のパ・リーグは6人の指揮官のうち、監督としてリーグ優勝を経験した者が5人を占める。
北から北海道日本ハムの栗山英樹、東北楽天の星野仙一、埼玉西武の渡辺久信、千葉ロッテの伊東勤、福岡ソフトバンクの秋山幸二。

 こう書くと、あとのひとりは誰だという話になる。
オリックスの新監督・森脇浩司。監督としては新参者だが、その腕を侮ってはいけない。
監督代行としてソフトバンク、オリックスの2チームで指揮を執り37勝24敗3分、勝率6割7厘。この数字は指揮官としての非凡さを物語っていやしまいか。


【野球:オリックス・森脇新監督、名将から学んだこと  2012-12-25】

これまでの野球人生、決してスポットライトを浴びる場所にいたわけではない。
ただ、西本幸雄、古葉竹識、王貞治らの下で野球を学び、
その中で培われた指導哲学は卓越したものがある。
組織改革に乗り出した新指揮官は名将たちから、どんな影響を受けてきたのか。
二宮清純が訊いた。


【第415回 骨太の指導でダイヤの原石をどう磨くか 巨人・森脇浩司2軍内野守備走塁コーチ】

  二宮清純「プロ野球の時間」(火曜更新)投稿日時: 2010-11-30


【ソフトバンクは25日、森脇浩司ヘッド兼内野守備走塁コーチ(49)の退団を電撃発表。】
[ 2009年11月26日 ]
 秋山監督も「(森脇ヘッドとは)来年の話もしていた。
球団主導でやるというから仕方ないことだった」と、まだ戸惑いを隠せなかった。
「今回の例(この時期の通告)は自分で最後にしてもらいたい」と球団にくぎを刺した森脇氏。
功労者は思いもしない形でホークスのユニホームを脱ぐことになった。

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【森脇浩司】
〔近鉄バファローズ〕1979-1984
社高校から1979年、ドラフト2位で近鉄バファローズに入団。
〔広島東洋カープ〕1984-1987
1984年、福井保夫と共に広島東洋カープに移籍。
同年、控えの内野手として一軍に昇格。
〔南海ホークス・福岡ダイエーホークス〕1987-1996
1987年、永田利則と共に南海ホークスに移籍。
1993年、三塁手の定位置を掴み、活躍した。
守備の名手として鳴らし、控えの野手、守備固めとしての起用が多かった。

1996年、現役引退。
1997年、スコアラーに転身。
1999年、福岡ダイエーホークスの二軍内野守備走塁コーチに就任。
2001年、一軍内野守備・走塁コーチに昇格。同年よりホークスの三塁コーチを務める。

2006年、チーフ兼任となる。オープン戦にて、WBC出場の王貞治監督の代理を務めた。
また、王監督の病気療養のため、同年7月6日より、福岡ソフトバンクホークス監督代行を務める。
2009年、退団。
〔野球解説者〕2010
2010年から野球解説者に転身。
同時に編成アドバイザーとしてホークスに引き続き携わる。
〔読売ジャイアンツ〕2011
2011年、読売ジャイアンツの二軍コーチに就任。
〔オリックス・バファローズ〕2012
2012年、オリックス・バファローズの野手チーフコーチに就任。
同年9月25日から休養した岡田彰布監督の代理。
2013年、オリックス・バファローズの監督に就任。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

【森脇浩司は理論を武器に、オリックス再建に挑む。】
~“代行”での経験値を生かして~
現役時代はスター選手ではなかったかもしれない。
だが、「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。
そんな期待を抱いている。

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オリックスの森脇新監督(左)は、秋季キャンプ初日からT-岡田ら主力に対して熱心に指導を続けた。
最下位に沈んだオリックスの再建を託されたのは、内野守備走塁コーチのスペシャリスト森脇浩司だった。
岡田彰布前監督が球団ワーストタイの11連敗を喫した直後に解任されると、監督代行に。
今季最終戦直後の10月8日、かつてソフトバンクでも経験した“代行”の肩書が外れ、「武者震いがする」と指揮官としての決意を語った。
森脇は'79年に兵庫・社高からドラフト2位で近鉄に入団し、内野手として広島、南海、ダイエーでプレー。
'96年に引退後、ソフトバンクのコーチに就任すると、左右広角に打ち分けるノックにより、川崎宗則や本多雄一を育て上げた。
'06年には、当時の王貞治監督が胃の全摘出手術で休養した際に、監督代行を経験。
試合を終えた後、“現状報告”をファクスで送り続け、「すべてを安心して任せられる」と王から絶大な信頼を得ていた。
今季、オリックスでは、監督代行となるやエンドランやスクイズなどを多用し、徹底した“つなぎ”の野球を実行。
指揮した9試合で7勝2敗と結果を残す一方、“チームの現状とこれからの方針”を日々、球団に報告していたという。
その結果、「チームを上向きにさせられる人物」という宮内義彦オーナーの評価を勝ちとった。
『葉隠』や『戦争論』を愛読する指揮官が目指す“つなぐ野球”。
「新監督として日本ハムをリーグ制覇させた栗山(英樹)流の人心掌握術は、ものすごく勉強になった」
こう語る森脇のもとには、今季まで日ハムでコーチを務めた福良淳一のヘッドコーチ就任が決定。
他のコーチ陣は、球団主導で投手コーチに西本聖、打撃コーチに石嶺和彦、内野守備走塁コーチに真喜志康永とOBで固められた。
スマートな風貌と礼儀正しい物腰で知られる森脇だが、好き嫌いがはっきりしている一面もある。
OBコーチ陣をうまく操縦できるかが課題だろう。
愛読書は『葉隠』や『戦争論』という勉強家は、若い選手を理論で説く。
勝つ野球に飢えているオリックスの若手には、森脇が標榜する“走り、守り、つなぐ野球”が少しずつ浸透しつつあるようだ。
現役時代はスター選手ではなかったかもしれない。
だが、「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。そんな期待を抱いている。


【第569回 西本イズム継承、森脇監督にオリックス再建期待】

  二宮清純「唯我独論」(水曜日更新)2013-01-19
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今季のパ・リーグは6人の指揮官のうち、監督としてリーグ優勝を経験した者が5人を占める。
北から北海道日本ハムの栗山英樹、東北楽天の星野仙一、埼玉西武の渡辺久信、千葉ロッテの伊東勤、福岡ソフトバンクの秋山幸二。

 こう書くと、あとのひとりは誰だという話になる。
オリックスの新監督・森脇浩司。監督としては新参者だが、その腕を侮ってはいけない。
監督代行としてソフトバンク、オリックスの2チームで指揮を執り37勝24敗3分、勝率6割7厘。この数字は指揮官としての非凡さを物語っていやしまいか。

 森脇には“心の師”がいる。一昨年11月に他界した西本幸雄だ。
森脇が近鉄に入団した時の監督である。「西本さんには叱り方に愛情があった」。
森脇は言い、続けた。
「入団した年の合同自主トレです。もう、ひたすら走ってばかり。ロッカーに引き上げる時、西本さんがハンドマイクでこう怒鳴った。“森脇、ケツ落ちとる!”普通なら背番号で呼ぶでしょう。ところが西本さんは高校から入ったばかりの僕の名前を、もうしっかり覚えてくれていた。“オマエのことをしっかり見てるんや!”というメッセージだったんでしょうね」

 また、こんなこともあった。
当時、藤井寺球場のライトスタンド下の室内練習場には、バッティングケージが2つ設営されていた。森脇は苦手なバッティングを克服すべく、手の皮がむけるまで黙々と打ち込んだ。
 ある日のことだ。ふと向こう側を見ると、柱の後ろで人影がソロリと動いた。
長い沈黙が室内を支配した。目を凝らすと、視界の中で白髪がかすかに揺れた。
「西本さんでした。当時の藤井寺の室内は土が深く、普通の靴だと汚れてしまうんです。
ところが西本さんはスラックスに革靴姿のまま、駆け出しの選手の練習を最後まで見守ってくれていた。これには感動しました」

 周知のようにオリックスの前身である阪急は、かつて“灰色の球団”と呼ばれていた。
それを60年代後半から70年代にかけて“パ・リーグの雄”に育て上げた人物こそ、誰あろう西本である。
 それがどうだ。21世紀に入ってからAクラスは、わずか1回のみ。
この10年間で最下位5回。チームは再び灰色に染まりつつある。
それをどう立て直すのか。森脇には西本イズムの継承者としての期待がかかる。

<この原稿は13年1月9日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


【野球:オリックス・森脇新監督、名将から学んだこと  2012-12-25】

これまでの野球人生、決してスポットライトを浴びる場所にいたわけではない。
ただ、西本幸雄、古葉竹識、王貞治らの下で野球を学び、その中で培われた指導哲学は卓越したものがある。
組織改革に乗り出した新指揮官は名将たちから、どんな影響を受けてきたのか。
二宮清純が訊いた。
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この10年で最下位5度、8回の監督交代……低迷が続くオリックスの再建を託されたのが、来季から指揮を執る森脇浩司である。
現役時代は内野のユーティリティープレーヤーとして3球団を渡り歩いた。
指導者になってからは長く内野守備走塁コーチなどを務めた。
これまでの野球人生、決してスポットライトを浴びる場所にいたわけではない。
ただ、西本幸雄、古葉竹識、王貞治らの下で野球を学び、その中で培われた指導哲学は卓越したものがある。
組織改革に乗り出した新指揮官は名将たちから、どんな影響を受けてきたのか。
二宮清純が訊いた。

二宮:近鉄にドラフト2位でプロ入りした際の監督は西本さんでした。
実際に闘将の下でプレーしての印象は?
森脇:3年間、お世話になりましたが、非常に厳しい方でした。
でも、厳しさ以上に愛情を感じました。
当時、一緒にやっていた他の方に聞いても、同様のことを言われますから誰に対しても愛情を持って接していただろうなと思います。

二宮:思い出に残っているエピソードは?
森脇:1軍に上がって、監督と握手をしたい、ハイタッチをしたいという気持ちが常にありました。
でも、監督とそういう場面をつくるには初ホームランを打つしかない。
ただ、初ホームランだと、僕も舞い上がってしまってバッティンググローブをつけたまま握手してしまうかもしれないと思ったんです。
だから、練習中から手袋をつけずにバッティングをしていました。
実際、3年目にホームランを打ち、ベンチに戻ってきて、最後にがっちり握手できた時はうれしかったですね。
そんなことを考えて実行してしまうほど、監督の人間性に心からひかれていましたし、リーダーとはこうあるべきだと背中で教えていただいたように感じます。

二宮:その後、広島に移籍した際の監督は古葉さんでした。
森脇:西本さんと共通して野球に対しては厳しかったですね。
西本さん同様、熱い一面もある一方で、非常に冷静沈着なところがあった。
正しい判断ができるよう、すぐに気持ちを切り替えてコントロールできる点は素晴らしかったですね。

二宮:古葉さんは監督の心得として「試合が始まったら、ボールから絶対に目を離してはいけない」と。
何が起きても瞬時に対応できるようにしておくべきだと話していました。
森脇:プレーから目を切らないというのは、単に目の前で起こっている出来事に対応するためだけではないと僕は考えています。
目の前のプレーには、必ず次のプレーの伏線やヒントが隠されている。
それを即座に読み取って、次への準備を怠らないようにする。
この準備がどれだけできているかで、結果は当然、変わっていきます。
古葉監督が「ボールから目を離してはいけない」とおっしゃるのは、そういった意味も含まれていたのだと感じますね。

二宮:近鉄、広島ともに当時はリーグ優勝を重ねる強いチームでした。
勝てるチームゆえに、勉強になった点も多かったでしょう?
森脇:強いチームは練習から緊張感がある。
これは共通項ですね。
キャンプ中のシートノックでも西本さんや古葉さんがドーンと後ろから見ているだけで、グラウンド内の空気は張り詰めていました。
(山本)浩二さんやキヌ(衣笠祥雄)さんといった主力でさえ、ひとつのミスも許されない雰囲気でしたから、僕らのような控え組は言うまでもありませんよね。
練習からこういったところでやっていると、試合だからといって改めて構える必要がない。練習と同じ精神状態で試合に臨めるのは結果を残す上では大事なことです。

二宮:そして南海(ダイエー)に移り、現役時代最後の監督は王さんでした。
引退後もコーチとして仕えることになりましたが、王さんから受けた影響は?
森脇:王さんの言葉や姿から発信されるエネルギーは非常に強いものがありました。その源はどこにあるかと考えると、ありきたりな言葉かもしれませんが「どんなことがあっても諦めない」ことに尽きると感じます。
王さんが福岡に来てからは苦しいこともたくさんありました。
敗戦に怒ったファンから卵を投げつけられたり、球場で「頼むからヤメテクレ」といった横断幕を掲げられたり……。
でも、そういった屈辱的な出来事があったとしても、王さんは絶対に白旗を挙げなかった。
むしろ「いつか見返してやるんだ」という強烈な思いにあふれていましたね。
 僕も今季、オリックスのコーチとしてファンの皆さんに申し訳ない1年を過ごして「臥薪嘗胆」という言葉を自分の胸に刻んでいます。
「どんなことがあっても、1%でも可能性がある限り諦めない」という王さんの姿勢は、このオリックスでも受け継ぎたいし、選手たちにも伝えていきたいと考えています。

二宮:オリックスの新監督として、何から変えていきますか?
森脇:王さんは「優勝したからこそ、我々は変わらなくてはいけないんだ」とおっしゃっていました。
強いチームでさえ、さらなる上を目指して変わろうとしているのに、最下位のチームが変わらないほうがおかしい。
僕はそう考えています。
何を変えるかということも確かに大事ですが、まずは変化に時間をかけていてはダメなんです。
何でもいいから、とにかく一歩を踏み出さないと何も始まらない。
固定観念を捨てて思い切って前へ進む。
秋季キャンプでは、そのことを選手たちに発信し続けてきました。
幸いなことに選手たちもこの点は理解してくれて新たな一歩を踏み出しつつあります。全員が変わることを恐れない組織になっていけば、次は何を改善すべきかという具体論にも入りやすくなると感じています。

【第415回 骨太の指導でダイヤの原石をどう磨くか 巨人・森脇浩司2軍内野守備走塁コーチ】
  二宮清純「プロ野球の時間」(火曜更新)投稿日時: 2010-11-30
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 今季、森脇浩司は中途半端な立場に置かれていた。
福岡ソフトバンク編成・育成部アドバイザー。
コーチではない。かといって実権を持ったフロントスタッフでもない。
 昨季は監督に昇格した秋山幸二の下でヘッド兼内野守備走塁コーチの要職にあったが、オリックスの監督を解任された大石大二郎にその座を追われてしまった。
先の仕事は、言葉は悪いが“閑職”であり、本人も望んだものではなかっただろう。

 現役時代(近鉄-広島-南海・ダイエー)は守備の名手として鳴らした。
内野ならどこでも守った。
 通算打率2割2分3厘ながら18年間も現役を張ることができたのは、その器用さを買われたからだ。
 引退後はホークスで内野守備走塁コーチ、2軍監督などを務めた。丁寧な指導ぶりで選手たちからの信頼も厚かった。また彼はノックの名人としても知られている。

 今季限りで育成・編成部アドバイザーを退任した森脇に真っ先に声をかけたのが巨人だった。
 フリーになった時点で森脇は私にこう言った。
「スポーツ紙には阪神入り、広島入りといった記事が出ていますが、具体的な話はまだありません。僕としては最初に声をかけていただいた球団にお世話になるつもりです」

 巨人が森脇に用意したポストは2軍内野守備走塁コーチ。
4年前、天下の王貞治が胃ガンの手術を受けた際にはソフトバンクの監督代行として指揮を執った。
そんな男に対して、ちょっとこのポストは「軽量なのでは……」との声もあったが、実は森脇が望んだものだった。

「僕も50歳。あと何年か経ったら若い選手と向き合えなくなる。体が動くうちに僕の持っているノウハウを伝えたいと思っていました」
 マスクは甘いが、指導法は骨太である。巨人に入団が決まる前、森脇はこうも語った。
「一生懸命やったから仕方がない。負けようと思って負けているわけじゃない。僕に言わせれば、そんなことを言う選手は財布を持たずに買い物をするようなもの。プロとしての基本がなっていない。
 結果が良ければ人一倍、いい思いができる。
そのかわり、悪かったらマスコミやファンに叩かれる。プロとして、それは当たり前。
強いチームと弱いチームを比較した場合、同じ一生懸命でもその度合いが違う。
僕ならまず、そこから指導します」

 巨人の2軍には大田泰示を筆頭に、中井大介、藤村大介ら鍛え甲斐のあるダイヤモンドの原石がゴロゴロいる。
選手層が厚いチームだけに熾烈な1軍のレギュラー争いに割って入るのは容易ではないが、下からの突き上げがなければ、チームは活性化されない。監督の原辰徳もそれを望んでいるのだろう。
 50歳にして初の東京住まい。名ノッカーに課された使命は重い。

<この原稿は2010年12月12日号『サンデー毎日』に掲載されたものです>

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【ソフトバンクは25日、森脇浩司ヘッド兼内野守備走塁コーチ(49)の退団を電撃発表。】[ 2009年11月26日 ]
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 秋山監督も「(森脇ヘッドとは)来年の話も
していた。球団主導でやるというから仕方ないことだった」と、まだ戸惑いを隠せなかった。
この決断が吉と出るか、凶と出るか…。いずれにせよ、思い切った、突然すぎる血の入れ替えだった。

「今回の例(この時期の通告)は自分で最後にしてもらいたい」と球団にくぎを刺した森脇氏。
功労者は思いもしない形でホークスのユニホームを脱ぐことになった。

その後、前オリックス監督の大石大二郎氏(51)を来季からヘッドコーチに招聘(しょうへい)すると発表した。
秋季キャンプ後の主要コーチポストの人事は極めて異例。
球団は23年間ユニホームを着た功労者・森脇氏の退任による活性化を期待し、秋山幸二監督(47)の参謀役となるヘッドコーチの入れ替えに踏み切った。

 6年連続V逸のソフトバンクが決断した。球団納会を翌日に控えた25日午前11時35分、森脇ヘッド兼内野守備走塁コーチの解任を電撃発表。
その約8時間後の午後7時28分には、前オリックス監督の大石ヘッドコーチの招聘が発表された。

 本人に通告されたのは前日24日という。

 角田雅司球団代表は「組織の活性化ということ」と説明したが、秋季キャンプにも参加し、来季の構想が見え始めた矢先の解任は、チームに波紋を起こしかねない。

 秋山監督も「(森脇ヘッドとは)来年の話もしていた。
球団主導でやるというから仕方ないことだった」と、まだ戸惑いを隠せなかった。
この決断が吉と出るか、凶と出るか…。いずれにせよ、思い切った、突然すぎる血の入れ替えだった。
「今回の例(この時期の通告)は自分で最後にしてもらいたい」と球団にくぎを刺した森脇氏。
功労者は思いもしない形でホークスのユニホームを脱ぐことになった。

〔ソフトバンク退団の森脇前コーチ、球団に異例の“再発防止”申し入れ〕
ソフトバンクを退団した前ヘッド兼内野守備走塁コーチの森脇氏が25日、ヤフードームを訪れ、球団に異例の申し入れを行った。
「自分だけのことならば、何も言わないでおこうと思ったが、家族の泣く顔も見たくない。
私のようなことがあってはならない」と同氏。
各球団など来季の体制がほぼ、固まった時点で解任されたことに対し抗議し“再発防止”を申し入れた。

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【平蔵の独り言】2005年仰木彬さんが命をかけた“オリックスバファローズ”に今シーズンから監督をする森脇さん

「名選手=名監督にあらず」という格言を証明する新たな指揮官になるのではないか。
西本さん:大毎オリオンズ→阪急ブレーブス→近鉄バファローズ、名選手ではない
仰木さん:三原さん(娘婿の中西さん)近鉄バファローズの監督の時→西本さんを後任に
→西本さん(仰木さんを高く評価、毎年のコーチ人事でも仰木放出だけは反対していた。)

〔「世の中には無名でも陰日向なく一生懸命働いている人間がいる。オレはそういう人間の努力は、いつか報われるということを野球で証明したいんだよ」〕
とりわけ闘将・西本幸雄の立ち居振る舞いから得たものは何物にも代え難かった。
と、あった。

現役を18年間
西本幸雄、古葉竹識、王貞治らの下で野球を学び
王さんから〔森脇に監督代行・ロッカールームに戻った森脇に、王は静かに告げた。 「あとは頼むぞ」〕

森脇に監督代行の座が回ってきたのは、ソフトバンクのチーフコーチだった'06年だ。7月5日、福岡ヤフードーム。西武戦が始まる前、王はコーチたちに向かって、こう言った。 
「オレは今日を最後に、しばらくチームから離れる」
ソフトバンクで監督代行として指揮を執り、30勝22敗3分。
オリックスの9試合を合わせると、37勝24敗3分。勝率6割7厘。
この数字は指揮官としての非凡さを物語っている。

森脇には“心の師”がいる。一昨年11月に他界した西本幸雄だ。
森脇が近鉄に入団した時の監督である。「西本さんには叱り方に愛情があった」。

イチローが”師と呼べるのは 〔仰木さん〕だけです”
と言っていた。

仰木さん、西本さんと森脇さん  近鉄バファローズ

オリックスバファローズ   森脇監督の今シーズンに期待!
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by asanogawa-garou | 2013-01-30 15:35 | 人間模様 | Comments(0)

「仰木彬」50年の野球人生( グランドで死ねれば本望だ)   

2011年 04月 14日
「仰木彬」50年の野球人生
・・・・・・・(グランドで死ねれば本望だ)


18年間でつかんだ「人づくりの極意」(近鉄コーチ時代)
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【仰木】さんは「近鉄」がなくなって、
「オリックスバファローズ」の監督を癌を隠し、70歳で
「パ・リーグの灯を消してはならない…」
病魔と闘い、命を削って戦い続けた!
シーズン終了、辞任後78日で帰らぬ人となった。(2005年12月15日)

(粋)が魅力で野球を遊び心で語れる人
サングラスが似合う
(肺がんの治療の副作用を隠していたと知った)

「人の流れをよく見ておけ」

仰木が自分自身に触れて、
「弱いヤツほど強がっているものさ」と言っている。
自分の弱さを隠そうとしているように見えることがあった。
(これはわからない)
(余分なことを言わないで辞している)
「仰木さんの生きざま」


酒を飲む。
「理屈は偉い人に任せていればいいの。(好きだから)で、すべては解決する」
と余計なことは言わなかった。

【野茂秀雄、イチロー】大リーガーを育てた。
「原石」は磨けば光るもので、規格にはめようとすれば、
全体のバランスが壊れ、光るものも光らなくなる。

(野茂、イチロー)規格にはめようとしたが、潰されそうになったが
・野茂英雄のトレーニング方法から調整法
自己流を認めず「草魂監督(鈴木啓示)」と対立が明確になり
任意引退の切り札を出し野茂は海を渡った。
(大リーガー野茂の誕生は鈴木啓示のおかげ)
自由に気持ちよく投げさせたのが、仰木彬

・鈴木一朗のバッティングフォームの改造をめぐって
当時の監督の土井正三と意見が対立し、干されていたが、
(フォームを直せ、直さなければ使わないと言われた。
それなら二軍に行きますと言って土井の辞任をじっと待っていた)

仰木は親しみやすいイチローに変えて、その真価を発揮させた。

仰木さんによって光り輝いた。
(イチローが「師」と仰ぐ人は仰木さんだけです)

野茂、イチローがメジャーリーガーとして活躍
(メジャーへの移籍を平気でできる監督はそんなにいない)
「自分を貫ける男はメジャーでも通用する」(野茂英雄)
「目標を持っている選手は目の輝きが違う」(イチロー)

野茂・イチローの夢を実現!(仰木彬の先見力)

「管理野球を否定し、(自由の恐ろしさ)を体でわからせる」
自由ほど責任が重いこと、自己管理が必要なだということも仰木は知っていたのだろう。
・管理されないところのほうが管理されているより厳しい(管理なき管理)

「自由に空を飛び回れる飛行機ほど、
線路を走るしかない電車よりいろいろな約束事で成り立っているのですからね。
飛んで行こうと思えばいくらでも行ける約束事ですけれどね」
と、仰木は言う。

「イチローがプライベート」で食事出ようとしてばったり仰木に会った。
イチローに「楽しんでこいよ」
他の監督なら「マスコミには気をつけろよ」と憎まれ口をきいて出す。
仰木はマスコミ受けして、他の監督は憎まれる結果になる。

王道だけを歩んでなかった仰木の人生のヒダの深さ、いろいろな痛みを知った仰木の生き方そのもの!
昔から自分が世話になっていたスポーツ紙には、絶対その仕事は断らない、ほかの監督が目を向けないような夕刊紙を大事にしている。
先入観でものを見ないで自分の目で確かめて使ってみるのが仰木流

「困った時には選手の意見を聞いてモチベーションに賭ける」
・権威とか実績とかをバックにものを言う監督は完全にスポイルされてしまう。
権威を笠に着て見下した話しをする(権威主義)

仰木はといえば、決して権威主義ではなく、それに対して反発している部分があった。
放任という名の管理をしているし、細かいことに対しては目をつぶる姿勢を貫いているのだ。

「困った時には、これはどうだろうかと相談をすることにしている。その時に返ってきた答えによって、相手は何を考えているか、どうしたいかがわかるようになってきた」
「どっちの結論になっても大した結果ではない時がある。それならば、選手に気分よく仕事をやらせたほうがいい。そうすれば、相手だって意気に感じるはず」

【イチローにおまえ、何番を打ちたいのか、思っていることを言ってくれ】
「一番です」
(一番にそこまでこだわっていたのか)とすぐに一番に戻している。

【仰木さんの生き方】
仰木さんがプロ入りする時
中日、南海は契約金100万円
そんななかで、おっとり刀でやってきた西鉄の三原脩監督は、
「ボクに任せておきなさい。悪いようにしないから来なさい」
仰木はあっさり陥落。契約金60万円、年俸60万円と一番安かった。
でも、仰木はカネではないと思っている。

西鉄の黄金時代への息吹きが出始めていた。
中西太、豊田泰光、高倉照幸、大下弘、関口清治

仰木彬

監督:三原から娘婿の中西が監督になった時中西の人のよさに対して、
仰木の持つしたたかさが必要と中西の下でコーチ専任となる。
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コーチ、18年間でつかんだ「人づくりの極意」
・兼任コーチにされ
・コーチ専任になり、
・近鉄コーチに三原監督から呼んでもらい。
「三原野球が盗める」と大喜びで移ったとたん、たった一年で三原は住んでいたアパートに住めと言い、「あとは頼む」と去っていった。
三原が大洋から近鉄の監督に行った時、仰木だけが呼ばれた。
その時の周囲からの悲哀からの知恵が近鉄コーチとして18年間(三原、岩本、西本、関口、岡本)につながっていく。

西本監督は当時の仰木を評して、
「目立たないヤツで、コーチとしての仕事を本当にしておるんかいなと思った」

仰木は三原に『知の野球』を教わり、
西本に『情の野球』を教わった。
と言っている。

西本が勇退を決意した段階で、
仰木に「監督になったら選手と絶対に麻雀をするな」と一言を言っている。
西本は情に厚いゆえに最後の最後に勝ちに恵まれず、
悲運の名将といわれる。
以来、仰木は選手との麻雀をいっさいしなくなった。
仰木の采配は【優勝が優先順位が1位、個人タイトルが2位】
しかし個人タイトルに全面協力する。
仰木采配で多くの選手が大成長できた。


西本監督になった時、73年2軍行きを命じられる。
仰木が再び一軍に戻されたのは3年目の75年であった。
79年西本野球が開花して、
日本シリーズで『江夏の21球』第7戦9回無死満塁の場面でスクイズ失敗、三塁コーチは仰木であった。

仰木は18年間のコーチ生活で、トップに立つ人間に一番大切なことは「決断すること」だと確信しているのだった。

万年監督候補にお鉢が回ってきたのは、
西本が勇退を決意してから6年の歳月が流れていた。
仰木が自分の人脈でないと
『ねたみ、そねみの根がはびこって』あれこれ醜聞を流して、
仰木の女性問題でいろいろ取り沙汰されて監督になるのを邪魔されている。

監督になった時、
はっきり「優秀なのがたくさんいます。2、3年待ってください」と言いきった。
近鉄で18年コーチをしているので、選手個々の潜在能力把握することができていた。
仰木が監督になると中西をヘッドコーチにする。
投手コーチとして、自分とつながりのない人物(権藤)を平気で連れてくる潔さもあった。
1988.10.19「近鉄vsロッテ」ダブルヘッダーは昭和最後のプロ野球名勝負、ダブルヘッダーに2勝すれば、優勝であったが、1勝1分
監督就任1年目「仰木マジック」これだけの快挙をやってのけた!

翌年優勝して巨人との日本シリーズは3連勝のあと、
ピッチャー加藤哲の「巨人打線はロッテ以下」発言で4連敗してしまう。
93年ユニフォームを脱ぐ。
その理由は「もう何を仕掛けてもマスコミに注目されなくなったから」

24年間にわたって指導者としてユニフォームを着続けたこと、
西鉄に入団以来、一度もユニフォームを脱ぐことなく39年間も過ごして、
「評論家」をやり決していい評論家ではなかったと思う。
「野球人というのは、ユニフォームを着て現場にた立っていなければダメだということがわかりましたよ」

94年オリックスの監督に就任
2年目の95年のペナントレースは『がんばろうKOBE』
パ・リーグ制覇
その翌年、巨人を破って日本一の座に

00年に監督生活12年目で初めてBクラス
翌01年もBクラスに低迷したのを機にユニフォームを脱いだ。
その間、体調不良で入院生活を!

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04年には殿堂入り。
そのパーティーは、みずから【生前葬】と位置づけて、
自分の手元から大リーグに巣だった選手が一堂に会しての盛大な祝宴となった。
そして、オリックス、近鉄の合併を受けて、請われてユニフォームを着た。

みずからが語ったように、
「グランドで死ねれば本望」という覚悟の復帰だったのだ

オリックスバファローズの監督になって18年間をコーチとして、
6年間を監督として過ごしたチームの話しはいっさいしなかった。
「この人は過去にこだわるよりも、いまに生きている」と選手達に思わせた。
管理を撤廃した。
(きちんと決めても自身が守れないと思った?)
「管理されないところのほうが管理させているより厳しい」
と選手の自覚が自然と出てきた。

仰木は弱さを見せる選手が嫌いだ。
一生懸命さよりも、がむしゃらが好きだ。
「いいかげんさ」もゆるす。

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同世代の楽天監督の野村克也は
「ワシよりもずっとしたたかでタヌキだよ」と言う。

広島の高橋慶彦が「江夏豊」と「山本浩二」を比較して
「江夏さんは道路のいつもはじっこを歩いていた。
道路の右側を歩いていて、右の側溝に落ちて、その痛みを知った。
今度は左側を歩いていて、左の側溝に落ちて、そこの痛みを知る。
だから、道は真ん中を歩こうと思えばいいんです。
最初から浩二さんのように真ん中を歩いていたら、
その痛みはわからんですよ」
まさにその通りである。

人の痛みを知るために、人生のヒダを深めるために、いろいろな痛みを知ったほうがいいということだろうが、
仰木の生き方はまさにそれだった。


仰木彬「夢実現」の方程式・水谷脩(著) 他

【平蔵の独り言】―――――――――――――――――――
小学校4年から「近鉄」ファンだった

セは「巨人」
パは「近鉄」

「巨人」が水原から川上に監督に代わった時(両雄並び立たず)で去ったのが千葉茂。
千葉はパの弱小球団
「近鉄パールズ」の監督になる。
如何にも弱小球団にふさわしい、「パールズ」を「近鉄バッファローズ」
その時から「近鉄」が無くなるまで、ファンであった。
そして、今も…

野茂の素質を見出だしたのは(仰木さん)
それを潰そうとした(鈴木啓示)この人のおかげで「大リーガー」野茂英雄が生まれた。
(野茂を見出だした仰木さん、潰そうとした鈴木啓示)がいなければ、
「大リーガー野茂英雄」は存在しなかったように思う。
正確にいえば、野茂が近鉄を去った頃から野球に対する熱がサッカーに変わって行った。
弱小球団「近鉄」を注目していたおかげで
・日本シリーズ「広島」江夏の21球
・日本シリーズ「巨人」加藤のインタビューの一言「巨人はロッテより弱い」で3連勝の後の4連敗
(唯一日本一なれなかった球団)
・ロッテとダブルヘッダー最終戦(2連勝)すれば優勝(一勝一分け)
・「がんばろうKOBE」
95年阪神淡路大震災の神戸をバックに
・近鉄の監督には「三原さん」も「西本さん」もいた。

何故か「仰木さん」の魅力が今でも残っている。

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人生の4コーナー最終ストレッチに入ったであろう自分に
どう向き合っていけばいいのか!

まだまだ、ヒダは薄いが、人生ワンクール(7年)10クール目を【ちょっと急ぎ過ぎ?】
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by asanogawa-garou | 2011-04-14 16:22 | 人間模様 | Comments(0)