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梶芽衣子:バラエティーに出ない理由とは? マツコのお墨付き受けるも「全部お断り」「やっちゃうと、今までの女優生活は何だっていうことになる。俳優として全うしたいので、ちょっときついかな」   

2017年 05月 17日
梶芽衣子:バラエティーに出ない理由とは? マツコのお墨付き受けるも「全部お断り」「やっちゃうと、今までの女優生活は何だっていうことになる。俳優として全うしたいので、ちょっときついかな」

今年70歳になった梶。最近あるバラエティー番組に出演したところ、
「毒舌女優」として出演オファーが殺到してしまったそうだ。
東京出身、江戸っ子気質、正義感は強く思ったことははっきりと言ってしまうため、毒舌にみえてしまうのかもしれないと自分では思っている。


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①徹子の部屋


スポーツ報知 5/12(金) 13:08配信
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②梶芽衣子
 女優・梶芽衣子(70)が12日、テレビ朝日系「徹子の部屋」(月~金曜・正午)に出演し、バラエティー番組への出演依頼を全て断っている理由を明かした。

 梶は2015年4月、マツコ・デラックス(44)とナインティナインの矢部浩之(45)がMCを務めるフジテレビ系「アウト×デラックス」(木曜・後11時)でバラエティーに初出演。
歯切れの良いトークを披露し、マツコから「これからバラエティーで売れる」と絶賛された。

〔バラエティーのオファーは全部お断りしました。〕やっちゃうと、今までの女優生活は何だっていうことになる。

 梶は「すごい評判になったらしい。
毎日のように(バラエティーの)オファーがすごくて、1日に4本とか5本とか来ちゃうんです。
ありがたいことだけど、逆に戸惑っちゃう。全部お断りしました」と告白。

司会の黒柳徹子(83)から理由を尋ねられると
「やっちゃうと、今までの女優生活は何だっていうことになる。
俳優として全うしたいので、ちょっときついかな」と明かした。

 また、番組では独身を貫く理由も告白。
駆け出しの頃に婚約していたが、東映の「女囚さそり」シリーズがヒットしたことで仕事を優先せざるをえなくなり、別れを切り出したという。
その時に相手の男性に「一生誰とも結婚するな、死ぬまで仕事しろ」と言われ、その言葉を守り通してきた。
徹子は「私なんて、何も言われなくても独身でいますけどね」と感心していた。

〔梶芽衣子、婚約破棄と独身の理由を明かす「独身、後悔してません」〕
デイリースポーツ 5/12(金) 16:07配信
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③女優の梶芽衣子
 女優の梶芽衣子(70)が12日放送のテレビ朝日系「徹子の部屋」に出演し、かつての婚約破棄の真相と、いまだに独身を貫いている理由を告白した。

 1972年、梶の当たり役となった「女囚701号 さそり」が大ヒット。当時、梶は「婚約していた」が、ヒットが障害になったという。

 「『さそり』の当たり方が異常だったんですよ。
それでもう、私の意思とかナントカはもうこっち(かたわら)にあって、もうどんどんどんどんことが進んで行くだけなんですよ。
ある種、映画会社に入ったあたしたちにとっては商品じゃないですか。
ウケたらそれをやっぱりどんどん売りたいしっていうことが、しょうがないですよね。
『私の個人的なことでそうなんですけど』って言っても、もうそんなことは何にも、誰も聞いてくれない状況になって」と、とても結婚できる状況ではなくなっていた。

 そのうち、「一緒にいたんですけどあんまりうまくいかなくなっちゃって。どうする?っていうことになって。うまく言えないんですけど、フッとこうダメかなって思った瞬間って、ホントにダメになっちゃうんですね。そこから元に戻るってことはちょっと難しくて」と、婚約者との間にも溝ができた。

 梶が「(約束は)何でも守ります。どうしてほしいでしょうか?」と別れを切り出すと、婚約者に「一生、結婚、誰ともするな。仕事は死ぬまで続けろ。そういうことだろ?やめるってことは」と言われ、「あ、そうですね、分かりました」と答えたという。

 その約束を守って今に至るまで独身を貫いている梶は、婚約者とは「お別れしてから一度もお会いしたことないです。
ウワサも聞かない。45年以上になりますね、もう」といい、「独身、今、後悔してるかって言ったら後悔してませんね」と穏やかな笑顔で語っていた。

〔70歳 歌手も女優も現役で〕
「ものすごく“感謝しています”こんな私でも“生きてきた!”」

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④70歳 歌手も女優も現役で

2013/4/12梶芽衣子:「もう一度歌おうと思ったのは、今までいろんな苦労や失敗もして、経験を積んだ私たち世代だから」
〔「女優もアラ還にもなると切り捨てられていきますよ。自らプレッシャーを与えないと。
もう死ぬまでアウトローを通したいと思っています」〕

 「女優もアラ還にもなると切り捨てられていきますよ。
安住していては自分がダメになってしまうから、自らプレッシャーを与えないと。
この曲で果たして新たな道にいけるか分からないけど、私は簡単にはあきらめませんよ。それなりにアウトローを通してきましたけど、もう死ぬまでアウトローを通したいと思っています」

【平蔵の独り言】
〔「女優もアラ還にもなると切り捨てられていきますよ。自らプレッシャーを与えないと。
もう死ぬまでアウトローを通したいと思っています」〕

【独り言】
アラ還から古希にあっという間の10年!

やはり最近は“これでいいのかな”  と自問自答する日々が多いか!

【平蔵の独り言】
〔バラエティーのオファーは全部お断りしました。〕
「全部お断り」「やっちゃうと、今までの女優生活は何だっていうことになる。俳優として全うしたいので、ちょっときついかな」

「梶芽衣子オフィシャルブログ「あいつの好きそなブルース」5/13に

「徹子の部屋、ご覧くださった皆様ありがとう ございます。」・・・・・・

徹子の部屋の中で“こんな私でも”生きてきた“
〔70歳 歌手も女優も現役で〕
「ものすごく“感謝しています”こんな私でも“生きてきた!”」

【独り言】
2017/4/17〔蜷川幸雄(演出家)〕「歳を取る難しさは、立ち止まると“ボケる”んだよ。停止してしまうんだよ!。」
〔同じもの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す〕
でも、普通の生活って、繰り返すことじゃない。
ご飯食べて、働いて、帰って来て、家族を養って、寝る。
その中で自分を掻き立てる持つか、探して
そういうもの同じものの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す。

と梶芽衣子の言葉が重なってしまう!

〔同じもの繰り返し〕〔歳を取る難しさ〕
そうですね“感謝”と“ありがとう”、そして”これからも よろしく“

こんな手紙をもらった。
「1日1日いかされていることに感謝し、少しでも明るく心残りのない日々をすごしましょう」


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by asanogawa-garou | 2017-05-17 15:30 | 人間模様 | Comments(0)

〔蜷川幸雄(演出家)〕「歳を取る難しさは、立ち止まると“ボケる”んだよ。停止してしまうんだよ!。」   

2017年 04月 17日
〔蜷川幸雄(演出家)〕「歳を取る難しさは、立ち止まると“ボケる”んだよ。停止してしまうんだよ!。」

蜷川幸雄(演出家)俳優やめて31年〔不遇時代〕屈辱感、悔しさが自分を奮い起たせて屈折した思いが、恵まれた、苦労して来ているから(更新 2016/5/31 11:30)

【1回、立ち止まって見ようと思いませんか!】歳を取る難しさは

【人間ってあまり幸せだと穴を埋める冒険をしなくなる】


僕らの時代 蜷川幸雄×小栗旬×綾野剛
August 24 [Sun], 2014, 7:04
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屈辱感とか悔しさが自分を奮い起たせて、苦しむ穴を埋めようとする。

〔人間の一生は決まっている。〕
時間をどう使って、何を残すか。
意味のある時間を残さないともったいない。


〔同じもの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す〕
でも、普通の生活って、繰り返すことじゃない。
ご飯食べて、働いて、帰って来て、家族を養って、寝る。
その中で自分を掻き立てる持つか、探して
そういうもの同じものの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す。

人間って、あまり幸せだと“穴”を埋めるという努力をしなくなる。
「いい俳優」には不幸を知ってほしい。
何か欠落しているものがあるから衝動で、埋めたい。

〔コミュニケーションをとろうと努力したい〕
本当の自由を獲得するために永遠の“孤独”を完成させなければならない。

〔群衆役を大切にする理由〕自分を放棄して、その他大勢を演じている。
「俺よりスゴイものはそのまま持続してほしい」

〔俳優に求めるもの〕自分より強いもの
「初めに指示しないのは」やってやってと言うと俺の経験とか

〔蜷川幸雄(演出家80歳) 〕「ちょっと一回立ち止まらなくてはいけないと思ったことはないですか!」
“俺はキラキラしているのが好きなんだ”

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②「ボクらの時代」の放送で演出家、蜷川幸雄さんが

小栗旬さんと綾野剛さんに対して

【1回、立ち止まって見ようと思いませんか!】歳を取る難しさは

〔ちょっと、一回立ち止まらなくてはいけないと思ったことはないですか?〕
「歳を取る難しさは、立ち止まると“ボケる”んだよ。
停止してしまうんだよ!。」

〔「歳を取り方が難しいんだよ。難しいぞ!」〕

「もっと闘争的でありたい。
歳の取り方が難しいんだよ!
「難しいぞ!」」

もっと闘争的でありたいから「俺はキラキラしているのが好きなんだ」

止まるとボケる。歳をとるのは難しいぞぉ

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③立ち止まらない生き様
August 24 [Sun], 2014, 7:04

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④〔群衆役を大切にする理由〕

〔群衆役を大切にする理由〕自分を放棄して、その他大勢を演じている。

群衆役にも注目
蜷川幸雄は群衆役の稽古も力を抜かない。
その他大勢の一人として演じてほしくない。
大勢の中の一人から優秀な人材を探したい。
頑張っている人を見つけては名前を覚えようとした。
群衆役の俳優たちに友情を感じていた蜷川幸雄。
その中からスターになってほしかった。

俳優に求めているもの
蜷川幸雄が俳優に求めているものとは?
「発想の大きさ」
蜷川幸雄は初めて使う俳優は自由に演じさせる。
それは俳優の発想を殺さない為。
「俺よりスゴイものはそのまま持続してほしい」

【俳優やめて31年〔不遇時代〕】
蜷川幸雄はヒモだった
蜷川幸雄が娘が生まれた頃。
年収は60万円くらい。
女優だった妻の収入で暮らしていた。
その分、育児から家事までを担った。
長女・美花をおぶってテーブルの周りを回る。
泣きながらオッパイを探ろうとする娘。
情けなかったと振り返る蜷川幸雄。
今でも主夫力は健在。
時間があれば洗濯したり干したりもする。

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【人間ってあまり幸せだと穴を埋める冒険をしなくなる】
飢餓感が必要
育児も家事もこなす蜷川幸雄。
俳優たちには幸せな家庭を築いてもしょうがないと豪語している。
蜷川「人間ってあまり幸せだと穴を埋める冒険をしなくなる」
蜷川幸雄の人生は挫折の連続の人生だった。
高校落第、大学も落ちた、俳優も落第。
悔しかった。

「世界中の人を満足させていない」
そんな飢餓感が蜷川幸雄の原動力だった。


【1回、立ち止まって見ようと思いませんか!】歳を取る難しさは
「立ち止まると“ボケる”んだよ。停止してしまうんだよ」
立ち止まるとボケる
収録があった2年前。
小栗旬は蜷川幸雄ロス後を心配していた。
初めて舞台を経験するものにとって、
蜷川幸雄は登竜門。
それがなくなったら演劇はどうなるのか。
蜷川「若い人と仕事するのは長くないと思っている」
「100人いたら1人やろう思ってくる人がいたらいい」
小栗「立ち止まらないと思ったことはないですか?」
蜷川「立ち止まるとボケるんだよ」
常に闘争的でありたいと思っている蜷川幸雄。
蜷川「バタッて終わればいいやって思っている」
本当に最期まで走った人生でした。

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⑥立ち止まると“ボケる”んだよ
55年に劇団青俳に俳優として入団。
69年に演出家デビュー。
劇団現代人劇場、桜社を経て74年の日生劇場「ロミオとジュリエット」で商業演劇に進出。

現代劇からシェークスピア、ギリシャ悲劇と幅広い作品を手掛け、83年「王女メディア」欧州公演を皮切りに海外に進出。
02年英国の名誉大英勲章を授与され、04年に文化功労者、10年に文化勲章。
現代日本を代表する演出家のひとり。
海外でも評価が高く、「世界のニナガワ」とも呼ばれる。

蜷川幸雄さん逝く
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⑦蜷川幸雄さん=2011年3月、東京都渋谷区
【にながわ・ゆきお】 1935年生まれ。開成高校卒業後、東京芸術大学を落ち劇団「青俳」に入団。
「俳優よりも演出家が向いている」と演出家に。
ギリシャ悲劇の演出などで国際的評価を受ける。
2002年、名誉大英勲章第3位、2010年、文化勲章受章。
(2011年4月、夕刊連載「人生の贈りもの」より)

【平蔵の独り言】
〔同じもの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す〕
でも、普通の生活って、繰り返すことじゃない。
ご飯食べて、働いて、帰って来て、家族を養って、寝る。
その中で自分を掻き立てる持つか、探して
そういうもの同じものの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す。

【独り言】
思えば遠くへ来たもんだ!
気が付けば、”同じものの繰り返し”
目の前に”古希”
いろいろとあったけれど、「まあ、恵まれた人生!」

【平蔵の独り言】
【1回、立ち止まって見ようと思いませんか!】歳を取る難しさは
「立ち止まると“ボケる”んだよ。停止してしまうんだよ」
立ち止まるとボケる
〔「歳を取り方が難しいんだよ。難しいぞ!」〕

【独り言】
今、立ち止まるのが怖い!
一日一度は外に出る。(何かイベントを考える)
部屋にじっとしていると、身体も心も停止してしまう。

「衰えも失敗も全てこの身(手)で抱え込んでいく」(年を取るの難しい)
今日(いままで)と同じスピードで過ごせない。(進まない)
どう生きるか!合わせて、歩く!

段々とできることに時間が掛かってくるから、
“難しいぞ”が全くの実感ですね!





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by asanogawa-garou | 2017-04-17 17:17 | 人間模様 | Comments(0)

野茂英雄、空前絶後のノーヒットノーランの夜〔メジャーに愛された男〕【WBC準決勝で野茂英雄氏が始球式】   

2017年 04月 07日
野茂英雄、空前絶後のノーヒットノーランの夜〔メジャーに愛された男〕【WBC準決勝で野茂英雄氏が始球式】

【野茂英雄、空前絶後のノーヒットノーランの夜】
〔トルネードを封印〕
〔勝負所を掴む〕
〔メジャーに愛された男〕

【WBC準決勝で野茂英雄氏が始球式…鈴木が必死のジャンプ】
〔日米関係も改善〕

野茂英雄、空前絶後のノーヒットノーランの夜
1996年9月17日、気温5度のクアーズ・フィールドにて
NHK・プロデューサー 久保健一
時効スクープ ~今だから、聞けた

日経ビジネスONLINE 2017年4月4日(火)

 1968年、大阪で生まれたその男は、89年、ドラフトで史上最多の8球団競合の末、近鉄バファローズに入団、プロ野球選手となった。
恵まれた体躯をグイッとひねるトルネード投法は人々の目を釘付けにし、剛速球と鋭いフォークで三振の山を築く圧巻の投球はプロ野球ファンの心を鷲掴みにした。

道なき道を
 ルーキーイヤーに18勝で最多勝、さらに新人王、沢村賞、MVPなど賞を総なめにした後も勝ち星を重ね、入団から5年間で79勝を挙げた。

 しかし94年、退団。
そして、メジャーリーグへ。
ロサンゼルス・ドジャースとのマイナー契約から始まった挑戦は、全米に「NOMOマニア」を生み、2008年、日米通算201勝で引退するまで続いた。
 NHK-BS「アナザーストーリーズ」プロデューサーの久保健一は振り返る。

 「『大リーグで通用するはずがない』『日本プロ野球を捨てた裏切り者』…野茂さんの大リーグ挑戦に対するバッシングは酷いものでした。
僕はそれに猛烈な違和感と怒りを覚えました。
道なき道を切り開こうというチャレンジスピリットが、なぜ日本では認められないのか、と。
そしてその後、大リーグで大活躍すると、今度は一気の手のひら返し。
また、違和感です。
さらに言うと、引退までの数年間、なかなか勝ち星が重ねられなくなってからも、野茂さんはいくつもの球団を渡り歩きながらチャレンジを続けました。
僕は、その姿に強い共感を覚えましたが、報じられるのは試合結果のみ。
もちろん、自分もマスコミの人間ですから、限られた取材リソースをどこに配分するかという理屈は分かっているのですが、3Aで投げている野茂さんの姿こそ、開拓者だ!と何度となく思っていました。
その後、何度も野茂さんの番組を企画しながら実現しなかったのですが、ようやく今回『野茂ストーリー』にたどり着くことができました」

 NOMOマニアの一員である久保の記憶には、数々のエピソードが刻まれている。
その中から今回、スポットを当てたのは「ノーヒットノーランの夜」だ。

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①野茂の偉業の舞台となったクアーズ・フィールド。

標高1マイル(約1609メートル)という高地に位置するため、気圧が低く空気抵抗が少なく、打球が飛びやすい。
ここでの試合は乱打戦が多く、“打者天国”とも呼ばれる

 野茂英雄はメジャーリーグで二度、ノーヒットノーランを達成している。

その一度目は、新人王を獲得した翌年の1996年9月17日、強打打線を誇るコロラド・ロッキーズとの最終カードでのことだった。
場所はロッキーズの本拠地で、高地にありボールが飛びやすいことから打者有利とされるクアーズ・フィールド。
試合は雨のせいで予定より2時間以上遅れ、21時過ぎに始まった。気温は5度にまで下がっていた。

〔トルネードを封印〕
 野茂の立ち上がりは不安定だった。
体を大きくひねるトルネード投法から繰り出されるボールはコントロールがばらつき、1回裏、フォアボールでランナーを出し、盗塁も許す。
このパターンは2回裏も同様で、点を取られるのは時間の問題のように見えた。
 野茂は3回裏から、ランナーがいなくてもセットポジションで投げるようになる。
 ロッキーズの当時の監督、ドン・ベイラーはこのとき「野茂は何をすべきかに気付いた」と証言する。
その何かとは盗塁を阻止すること。
「自分で、この流れを止めないといけない、と分かったんだ」
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②対戦相手コロラド・ロッキーズの監督 ドン・ベイラー。試合前に「野茂の攻略は済んでいた」そうだが…

 一方で、野茂の150km/hを超えるストレート、魔球と呼ばれたフォークを受け続けてきたロサンゼルス・ドジャースの捕手のマイク・ピアッツァによると、
野茂がセットポジションで投げるのは制球力を高め、かつ、試合を速く進めるためだという。
実際に野茂は3回裏を三者凡退で切り抜けており、要した時間は2分42秒。
1回裏には8分16秒をかけていたので、3分の1近くに短縮されている。

 ではなぜ野茂は、試合のペースを速めようとしたのか。
ピアッツァは狙いをこう理解していた。
 「試合のペースが速まると、守備陣も守りやすくなります。
ピッチャーがテンポ良く投げると、守備陣の調子が上がり、打撃に良い影響が出るのです。野茂の狙いはそれでした」
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③野茂の女房役、正捕手マイク・ピアッツァ。“ノーヒットノーラン”のもう一人の立役者

しかし4回裏、またしても野茂はこの回の先頭打者バークスを四球で歩かせる。
そして、主審のビル・ホーンが「後になって考えると、分かれ目だった」というプレーが起こる。
 アウトをひとつとった後、ガララーガが放った鋭い打球は三遊間へ飛んだ。
ショートのギャグニーはぎりぎりでそれ追いつき、二塁に投げ、ファーストランナーのバークスをアウトにした。

 ショートゴロ。
このときのギャグニーの捕球体勢では、一塁に投げてアウトを取るのは難しい。

 ホーンは「もしランナー(バークス)がいなければ、(ショートへの内野安打となって)ガララーガは一塁セーフ。この時点でノーヒット・ノーランはなくなっていたでしょう。フォアボールでランナーを出していたことが幸いしたのです」と振り返る。
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④歴史的ゲームの主審を務めたビル・ホーン

〔勝負所を掴む〕
 6回にもまた、勝負所が訪れた。
 野茂はまたしても先頭打者のエリック・ヤングに四球を与えた。
ヤングは以前、野茂と対戦したときに1イニング3盗塁を決めていた俊足の持ち主だ。
当然、リードを大きく取る。
そこに野茂は牽制球を投じて一・二塁間に挟み、アウトをもぎ取る。
 その後、この日三度目の打席が回ってきたバークスは、いつもならセンター前に抜けていくような高く弾んだ打球を軽々と野茂に処理され、このピッチャーは記録を狙っているのではと強く意識するようになる。

 ロッキーズ打線が焦り始めたことを、ドジャースの正捕手は察知していた。
 「キャッチャーは、バッターがどれくらい打ち気にはやっているか、それを見抜くのが仕事です。相手が攻撃的になれば、それに応じて戦略を変えます」とピアッツァはいう。
 「彼らが早いカウントで打ってくるのに気付き、早め早めにフォークを使いました」

7回、8回もノーヒットに抑え、9回表に打者としての野茂がこのイニング3つめのアウトを献上した時点で、スコアは9対0。
ドジャースの勝ちは確実で、あとはロッキーズが本拠地で屈辱を味わうか、それを回避するかだけ。
敵将のベイラーは「誰かひとりでいい、ノーヒットノーランを破ってくれ」と願っていた。
 セカンドゴロが二つ続き、打席にはバークス。
6回にピッチャー強襲のゴロを打ったバッターだ。
狙いはストレート。フォークは見逃すか、カットしてファールにすることを決めていた。
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⑤エリス・バークス。コロラド・ロッキーズの強力打線“ブレイク・ストリート・ボンバーズ”の一人

 初球のフォークは見送ってボール。
2球目もやはりフォークで、これはカットしてファールに。
3球目はボール、4球目は空振り。
これでツーボール・ツーストライクの平行カウント。

〔メジャーに愛された男〕
 野茂は何度か首を横に振る。
ピアッツァは何のサインを出したか覚えていない。
バークスはストレートが来ると踏んでいた。
が、野茂の110球目はフルスイングしたバットから逃げるように落ちていった。
野茂が表情を変えずに小さく右手でガッツポーズを作ったとき、時刻は23時57分。終わってみれば、3時間を切るハイスピードゲームだった。

 あれから20年近くが経ったが、コロラド州デンバーにあるクアーズ・フィールドでノーヒットノーランを達成したことがあるのは、2016年のシーズン終了時点で野茂ただひとりだ。
この試合の模様はMLBが公開する動画「9/17/96: Nomo's No-No」で見ることができる。

 久保はなぜ、この試合を選んだのか。
 「力いっぱいの剛速球でバッターを豪快にねじ伏せていく。
野茂さんにはそんなイメージを持つ人が多いと思いますが、この試合には『別の一面』がよく表れています。
試合開始まで2時間も待たされ、震えるような寒さの中、ぬかるんだマウンドに立つ。
ただ力任せに投げるピッチャーが、そんな試合で好結果など期待すべくもないでしょう。

しかし彼は、試合の流れを冷静に捉え、トルネードを封印し、テンポを上げ、したたかにゲームを自分のものにして、誰ひとりなし得なかった偉業を達成しました。
NOMOが常に研究を怠らず、どれほど真摯にベースボールと向き合い続けたか。
それを知るからこそ、ともにプレーした選手やメディアは今も彼をリスペストしている。
道なき道を切り開き、メジャーリーグを愛し、そして愛されたNOMOのアナザーストーリーをぜひ改めて堪能してください」

 あの日を、本稿に登場した関係者への取材で振り返る『アナザーストーリーズ 野茂英雄ノーヒットノーラン~NOMOが伝説になった日~』は、4月4日火曜日21時、BSプレミアムでプレイボール。

【平蔵の独り言】
 NHK-BS「アナザーストーリーズ」プロデューサーの久保健一は振り返る。
 「『大リーグで通用するはずがない』『日本プロ野球を捨てた裏切り者』…野茂さんの大リーグ挑戦に対するバッシングは酷いものでした。
僕はそれに猛烈な違和感と怒りを覚えました。
道なき道を切り開こうというチャレンジスピリットが、なぜ日本では認められないのか、と。
そしてその後、大リーグで大活躍すると、今度は一気の手のひら返し。また、違和感です。

【独り言】
今でもアメリカ球界に愛される“野茂”
松井、イチロー 大リーグに移った時、
日本球界は“野茂”の時ほどでないにしても
後から石を投げるようなことを球界はしてきたと思う。
ここには “同調意識”の強い国民性が出ているか!

【WBC準決勝で野茂英雄氏が始球式…鈴木が必死のジャンプ】
SANSPO 特集:WBCニュース 2017.3.22
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⑥WBC準決勝の日本-米国戦で始球式を務める野茂英雄氏。右は元ドジャース監督のトミー・ラソーダ氏=ロサンゼルス(共同)

 WBC準決勝の日本-米国戦(ドジャースタジアム)。
試合前には感動的なセレモニーが開催された。
1995年から米大リーグ、ドジャースでプレーし、日本人選手初の新人王に輝いた野茂英雄氏(48)が、始球式に登場。
当時の監督で恩師のトミー・ラソーダ氏(89)がボールを手渡した。
侍ジャパンの背番号「16」でマウンドに登った野茂氏は捕手役の鈴木(広島)に投球。
高めに大きくそれたボールを鈴木が必死のジャンプで捕球し、スタンドからは大きな拍手が送られた。
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⑦始球式を務める野茂英雄氏。右はトミー・ラソーダ氏=ロサンゼルス(共同)
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⑧始球式を行う野茂英雄氏=ドジャースタジアム

〔日米関係も改善〕
野茂が救ったのはメジャーリーグだけではない。…

日米関係をも救ったのだ。
1995年当時は貿易摩擦などの影響で日米関係は冷え込んでいた。
そんな中、野茂が好投したことで関係に好ましい影響を与えたのだ。

米大手メディアのNY times紙は「野茂のおかげで日本の鎖国癖は消えつつある」で語り、
当時のクリントン大統領は「野茂は日本からの最高の輸出品」と讃えた。

このように野茂はただ「アメリカで活躍した」という事実以上に多くのものを残していったことが分かる。
日本人選手にメジャーリーグという選択肢を与えてくれたのは間違いなく野茂英雄だ。
あの黒田博樹もドジャースでメジャー生活のスタートを切ったときに
「野茂さんがいなければ我々は誰もアメリカに来られなかった」と語っている。


日本とアメリカの野球に橋を掛けて、日米球界に大きすぎる貢献をした彼はまさしく"英雄"ではないだろうか。
(さのゆう)

【平蔵の独り言】
 WBC準決勝の日本-米国戦(ドジャースタジアム)。
試合前には感動的なセレモニーが開催された。
1995年から米大リーグ、ドジャースでプレーし、日本人選手初の新人王に輝いた野茂英雄氏(48)が、始球式に登場。

【独り言】
大リーグは純粋にベースボールに記憶に残るプレーヤーをこのように歓待してくれる。

〔松井の今でもヤンキースタジアムでは大歓迎を受ける松井氏〕
今でもファンの心に強烈に刻まれており、セレモニーなどで松井氏がヤンキースタジアムに姿を現すと、スタンディングオベーションで迎えられる。



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by asanogawa-garou | 2017-04-07 16:44 | 人間模様 | Comments(0)

〔蜷川幸雄〕「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」   

2017年 03月 10日

〔蜷川幸雄〕「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」

玉しき都の泡沫(The beautiful city may be illusion.)より
『日本経済新聞』朝刊 2012/4/24 Nikkei〔私の履歴書〕
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〔「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」〕(子育て)
幼い実花をぼくは新宿の中央公園へつれていき、口笛の吹き方を教えた。
西口の雑踏で、ぼくは自分に言い聞かせるように、実花につぶやいていた。

「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」

〔70代にさしかかって「パンクじじいになる」と放言した。〕自分を壊し まだ駆ける(パンクじじい)
家には人を呼ばない。
芸能人で我が家を訪ねた人はほとんどいない。
親しくなりすぎると、関係がフェアでなくなるからだ。
〔50代の苦悩〕
「青梅街道の風になるんだ」といって失笑されたが、ひばりケ丘の自宅からベニサンまでバイクで走る。
〔俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。〕
「蜷川さん、水戸黄門の再放送を見たわよ。お公家さんやってたでしょ。あんなヘタな演技を見てしまったら、駄目出しが聞けなくなるわ。
もう、やめてちょうだい」
〔子育て〕「主夫」、仕事も抱えダウン(診断書は「育児疲れ」。)
朝起きてバギーに実花を乗せ、荒川の土手で遊ばせる。
洗濯し、それを取りこみ、実花をお風呂に入れる。
買い物をして夕ご飯の支度をし、洗い物をする。
スポック博士の育児書に忠実な主夫だった。

〔母親でさえ「長続きしないよ」と言ったくらいで、これも突然の結婚だった。〕
〔女優の妻が家計支える〕「アブカワさん、よろしくお願いします」。(結婚)
「アブカワさん、よろしくお願いします」。
結婚した真山知子がぼくに向かって最初にかけた言葉だ。
〔ぼくは「バカヤロー」を連発し、灰皿や時にはイスを投げた。〕
〔鋳物の街・川口〕飛び交う「バカヤロー」
〔内気、幼稚園1日で挫折〕(戦争の頃)
〔持ちあげられると、自分を引きずりおろしたくなる。〕
〔飼いならせぬ自意識と苦闘〕桜の憂鬱
〔「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」〕
演出家になる前は俳優をしていたが、この過剰な自意識が演技に災いした。自意識を飼いならせないから、うまく演じられない。

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〔70代にさしかかって「パンクじじいになる」と放言した。〕自分を壊し まだ駆ける(パンクじじい)
家には人を呼ばない。
芸能人で我が家を訪ねた人はほとんどいない。
親しくなりすぎると、関係がフェアでなくなるからだ。
舞台を批判されるのは仕方ない。
けれどもフェアでない劇評には抗議する。
劇場に壁新聞をはり、私家版のニナガワ新聞をロビーで配って劇評を批判したことがあるのは、そういう思いからだ。

幼いころから演劇の現場を知っている長女の実花は、女優になりたかったらしい。
ぼくは知らん顔をしていた。
父親が演出家では、女優として使われにくい。
自分も、娘から他人の演出について聞きたくない。
すると実花は美大に入って写真家になった。
蜷川幸雄の子だと思われるのが嫌だろうから、ぼくは展覧会場にもなかなか顔を出さない。
実花は自分で作品を雑誌に売りこみ、はじめから自立していた。
高校、大学のころ一緒に道を歩いていても、実花は風景を撮らず、花のアップを接写していた。
ぼくの部屋で資料の残酷絵を眺めていた。
不思議な子だと思っていたが、なにも言わなかった。
小さいころから実花に言っていたのは、こういうことだ。
「カッコいい生き方とはどういうものだろう。カッコいい女がいいよな」
たまにはほめて、と言っているようだが「まあまあだな」と言うくらい。
ただ撮った映画を見ると、映像は実花の方に才能がある。
ぼくも1981年に公開された「海よお前が―帆船日本丸の青春―」以来、映画を撮り続けている。
室内の演劇と異なる演技をロケで発見したり、カット割りしたりするのは楽しい。ただ演技のつけ方の細かさで演劇の経験は生きるが、どういうシチュエーションでその場を映像にするかという点では映画監督に、まだまだかなわない。
真山知子は女優をやめてキルト作家になり、次女の麻実は編集者になった。
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〔50代の苦悩〕路上の風が体中の細胞を再生してくれた。
50代に入り、メランコリーに侵されていたのだ。
神経過敏な状態に追いこむ仕事の仕方を改めるよう医師にさとされ、そう心がけたら、いい作品ができなくなった。
救ってくれたのは若い俳優たちだ。
商業演劇に出る若者に演技を見てほしいと頼まれたぼくは、80年代初めから蜷川教室をあちこちで開いていた。
それをもとに84年秋、ゲキシャ・ニナガワ・スタジオを結成する。
森下の染色工場を貸し稽古場にした紅三という会社の亘理幸造専務が、場所を提供してくれたのだ。
稽古場に付属する小劇場ベニサン・ピットで、チェーホフや清水邦夫の戯曲を実験的に演出した。
原点の小劇場に立ち返る日々、突然バイクに乗り始めた。
「青梅街道の風になるんだ」といって失笑されたが、ひばりケ丘の自宅からベニサンまでバイクで走る。
路上の風が体中の細胞を再生してくれた。

〔俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。〕
俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。
79年に上演された秋元松代さんの「近松心中物語」の稽古で、こういわれた。
「蜷川さん、水戸黄門の再放送を見たわよ。お公家さんやってたでしょ。あんなヘタな演技を見てしまったら、駄目出しが聞けなくなるわ。
もう、やめてちょうだい」
ぼくの俳優人生は50歳のころ、ようやく終わる。
演出家としては年収60万とか70万の時代が続いたが、妻が女優をやめても演出で食べられるように、やっとなった。

〔子育て〕「主夫」、仕事も抱えダウン(診断書は「育児疲れ」。)
「主夫」、仕事も抱えダウン
商業演劇巡り孤立、櫻社解散
東宝の舞台で初めて演出料をもらった。
40、50万円だった記憶がある。
日生劇場や帝国劇場で年1、2本の演出を手がけるようになったとはいえ、食べていけない。
そもそも演出家は職業として認められていなかった。
苦しかったこの1970年代、どうやって暮らしていたかと問われれば「女房のヒモだった」と答えるしかないだろう。
現代人劇場や櫻社を経済的に支えたのも、真山知子や皆が映画やテレビで稼ぐお金だった。
真山は子供をほしがったが、ぼくは演出で妥協したくなかったので拒んでいた。
現代人劇場が71年秋に解散したとき、真山は一冊の預金通帳を差し出した。夫婦でネパールへ行く資金として貯めていた100万円だった。
「しばらく働かなくて大丈夫。ネパールにするか、子供をつくるか選んで」と迫られた。
翌年生まれたのが、写真家になる長女の実花だ。
赤ちゃんの世話に熱中する真山にぼくは言った。
「君は女として駄目になる。育児はぼくがやるから仕事をすれば」
78年に次女の麻実が生まれ、育児役を真山と交代するまで、ぼくは優秀な主夫だった。
朝起きてバギーに実花を乗せ、荒川の土手で遊ばせる。
洗濯し、それを取りこみ、実花をお風呂に入れる。
買い物をして夕ご飯の支度をし、洗い物をする。
スポック博士の育児書に忠実な主夫だった。
母親は「ユキオがおしめをくわえて走り回っている」と驚いた。
台本を読んだり、資料を調べたりする時間は夜の10時以降になる。
商業演劇の初演出となる「ロミオとジュリエット」の上演を控えていたころ、
ついに過労でダウンする。診断書は「育児疲れ」。
稽古場や会議室にも実花をつれていった。
打ち合わせ中に「おむつ換えなきゃ」「離乳食の時間だ」と何度も席をはずすものだから、舞台美術の朝倉摂さんによく叱られた。
子連れ狼(おおかみ)ならぬ、子連れ演出家だ。
実花は劇場のロビーで遊び、監事室で芝居を見て育った子だ。
はじめ母乳だった実花は、あるとき乳首を求めて、ぼくの胸に顔を寄せてきた。母と子の結びつきはこんなに強いのか。
身をもって知る生き物の感覚は、ギリシャ悲劇で母子の関係を演出するとき役に立つ。子育ては学校だ。
家事が体にしみついているぼくは、いまでも手が空けば洗濯や炊事をする。家事は一番暇な人がすればいい。

さて、商業演劇の仕事をしたぼくは仲間から孤立する。
櫻社に帰って新しい舞台をつくろうと思っていたが、ある日参宮橋のスナックに呼び出された。
何十人もの俳優やスタッフに「なぜ商業演劇をやるのか」と批判された。
その場で解散が決まった。
74年夏のことだ。
帰り道、蟹江敬三が「キンちゃん、どうするの」と聞いた。
「しょうがないから商業演劇やるよ」。
蟹江は「ぼくもひとりでやる」と言った。
汝の道を歩め。
そして、人々をしてその語るに任せよ。
ひとりぼっちになったぼくは「資本論」の序に引かれたダンテの「神曲」の一節を心の支えとした。
幼い実花をぼくは新宿の中央公園へつれていき、口笛の吹き方を教えた。
西口の雑踏で、ぼくは自分に言い聞かせるように、実花につぶやいていた。
「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」(演出家)

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〔母親でさえ「長続きしないよ」と言ったくらいで、これも突然の結婚だった。〕
女優の真山知子と結婚したのは前の年だ。
母親でさえ「長続きしないよ」と言ったくらいで、これも突然の結婚だった。
俳優として精進し、稼がないといけないときだ。
ある日、夕食のしたくをする真山に「演出家になろうと思うんだ」と告げた。
「聞いてないわよ」と彼女は驚き、「結婚詐欺!」と叫んだ。
「俳優と結婚したのに」と不安の色を浮かべたが、最後は笑って受け入れてくれた。
川口の2Kの団地に新居を構えていたぼくは表札に「蜷川TENSAI」と掲げた。そこまでやれば必死に勉強するだろうとの思いつきだが、集金の人が廊下中に響く声で「ニナガワテンサイさーん」と呼ぶのには、まいった。


〔女優の妻が家計支える〕「アブカワさん、よろしくお願いします」。(結婚)
「アブカワさん、よろしくお願いします」。
結婚した真山知子がぼくに向かって最初にかけた言葉だ。
青俳の7期下だった真山は東映のニューフェース出身だった。
テレビの仕事で名古屋に行ったとき、新幹線で偶然席が隣り合わせになった。
ぼくは激化するベトナム戦争について解説したらしい。
それがきっかけだった。

劇団では何カ月で別れるか賭けられていた。
「4カ月」に賭けた人が一番多かったそうだ。
真山は「将来性のない俳優とよく結婚するね、と言われた」と笑っていた。
ぼくはサルトルとボーヴォワールに影響されて互いを束縛しない別居結婚を提案したが、これには真山が反対した。
1966年5月、目白の椿山荘で結婚。
媒酌人は岡田英次、和田愛子夫妻。新婚旅行は軽井沢と八ケ岳だった。
結婚する直前まで、ぼくはNHKの「チコちゃん日記」という子供向けのドラマに出ていた。
夕方6時半の放送なのでテレビや映画の関係者が見ない。
終わると仕事が途絶えた。
結婚したのに夫は金がない。
倍近いギャラをとる妻が家計を支えていた。
目をかけてくれた文学座の制作者の方が仕事を持ってきてくれた。
それは愛のもつれを描く斬新な映画だった。
美容室を経営する百合子が年下の愛人杉野と別れの旅に出る。
百合子の昔の恋人今井を交え、危険な旅が続く。
68年に公開された吉田喜重監督の「樹氷のよろめき」という映画だった。
百合子が岡田茉莉子さん、今井が木村功さん、杉野がぼくだった。
別れをこばむ杉野と百合子のラブシーンがあった。
たばこを当時吸っていたぼくは撮影当日、じっと我慢した。

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〔ぼくは「バカヤロー」を連発し、灰皿や時にはイスを投げた。〕
ぼくは「バカヤロー」を連発し、灰皿や時にはイスを投げた。
サングラスをかけている俳優がいる。
「おい、はずせ、そのサングラス!」
スリッパをはき、ほうきを逆にして、えいえいと殺陣をやっている。
「なんだそれ!ルネサンスの街でスリッパはいてんのか」。
稽古場でコーヒーが出るのに感動しながらも、商業演劇に慣れきった俳優を罵倒し続けた。
幸四郎さんと中野良子さんを舞台で全力疾走させた。
愛の神話を伝説化する民衆のまなざしを示したかったのだ。
階級構造を示す3層の装置の最上段で大公は民衆に大声を出す。
はじめ、蚊の鳴くような声だった。
走っていって「本気で声出してください」と頼むと「声がつぶれるよ」。
「明日つぶれるなら今日つぶれろ」とにらみ合った。

稽古初日の翌日、商業演劇の重鎮だった森繁久弥さんが「日生に威勢のいいのが来たんだって?」と話していたらしい。
数年後、お呼びがかかった。
楽屋で焼き穴子のお雑煮をいただきながら
「蜷川君、『どん底』やろう。新劇俳優が嫌いだろ、違う配役でやろう」と切り出された。
「なんの役をやりたいですか」と尋ねると「オレはサーチンだよ」。
人を手玉にとるルカならいいが、二枚目のサーチンでは……。
話はお蔵入りになった。

〔鋳物の街・川口〕飛び交う「バカヤロー」
夏場は皆塩をなめ、汗だくになって働いていた。
工場の中は明かり取りの窓から光が入るだけで薄暗い。
入り口は道に面しているから、子供でものぞける。
ちょこちょこ遊んでいようものなら「どけどけどけ!」と火がつくように怒られた。
一瞬の油断が命取りになりかねない。
この街では「ぼやぼやしていると危ないですよ」が「気をつけろ、バカヤロー」になるのだった。
のちに演出家になったぼくは稽古場で「バカヤロー」を連発した。
口が悪いとか、こわいと思われたようだ。
それは「おい元気か、バカヤロー」があいさつになる川口っ子にとっては普通の言葉。
照れくささと親しみがこもった表現なのだ。
ぼくの演出する舞台は開幕からの3分を大切にする。
懸命に働いた人たちが夢を見ようと足を運ぶところが劇場だ。
幕が開いたとたん眠気に襲われる芝居であってはならない。
そう戒めている。

〔内気、幼稚園1日で挫折〕(戦争の頃)
ぼくは近所の人にユキ坊とかユキちゃんと呼ばれていたが、
このユキ坊、ひどい人見知りだった。
幼稚園には1日しか行かない。
同じ年の子供がたくさんいるのが嫌で、すぐ帰ってきてしまったのだ。
先生が嫌なのではなく、人がいっぱいいるのに耐えられなかったのだと思う。
「もう行かない」と駄々をこねた。
川口市の第一国民学校(今の本町小学校)に入学しても、
臨海学校や山間学校には一度も行かなかった。
夏に千葉の房総にあった寮へ行くのを皆が楽しみにしていたが、
ぼくは行かなかった。
参加するのは日帰りの遠足まで。
それでも先生や両親から何か言われた記憶はない。
「ユキ坊はそういう子だ」と許容されていた。

演出家になってからも相変わらず人見知りで、人が多いのは苦手だった。
稽古場で俳優やスタッフともみ合っていると、
幼稚園を逃げ出したときと同じような衝動がこみあげてきて、
一目散に家に帰りたくなることがある。
部屋に飛びこんで本と向きあいたくなるのだ。
稽古を終えて俳優と飲みにいく演出家もいるが、ぼくはそういうことはしない。
つきあうのは打ち上げだけだ。

〔持ちあげられると、自分を引きずりおろしたくなる。〕
ぼくは生まれつき自意識過剰で、ことあるごとに恥ずかしいという気持ちに襲われる。
小学生のころから変わらないのは、遅刻しないこと。
遅れて教室に入ると皆がふりかえる。
その恥ずかしさを絶対経験したくないという思いがもとになって、
大人になっても遅刻はしない。
新幹線で寝るときも人に顔を見られたくないから、上着で隠す。
賞をいただき、晴れがましい席に出るのが耐えがたい。
出席してもすぐ帰る。
持ちあげられると、自分を引きずりおろしたくなる。
秋元松代さんの「近松心中物語」の演出で芸術祭大賞を受賞したあと、
日劇ミュージックホールのストリップを手がけたのも、
芸術という言葉への恥ずかしさからだった。

〔飼いならせぬ自意識と苦闘〕桜の憂鬱
戦争が終わってまもないころ、
ぼくらの小学校では給食の調理に用いる薪を役所まで大八車で取りにいくのが日課だった。
ある日、なぜか車に足を突っ込みたくなった。
わけのわからない衝動だった。誘惑に負け、足を入れた。
まんまと車は足をひき、激痛が走った。
爪が紫色に腫れあがる。
人には言わず、黙って学校に行って我慢した。
深層心理的なコンプレックスなのかどうかわからない。
ただ、ぼくにはどうも自己処罰の衝動のようなものがある。

〔「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」〕
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演出家になる前は俳優をしていたが、この過剰な自意識が演技に災いした。
自意識を飼いならせないから、うまく演じられない。
演出家になってしばらくして、いまは亡き太地喜和子さんが言った。
「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」

高校で落第し、東京芸大に落ちて画家をあきらめ、
俳優になってもヘタクソだった。
職業として社会的に認められていたとは言いがたい演出家になってからは、
胃痛に苦しんだ。
ラーメンが嫌いになり、新宿がうとましくなったのも、
胸しめつけられる演劇の思い出と結びついたからだ。
桜と同じく回復には時間がかかった。
演出の発想はいつも危地から生まれ出てきた。
本当は避けたいのに、自己を危険にさらす。
あえて自分を引き裂かれる目にあわせたい。
傷だらけのぼくの人生はその繰り返しだった。(演出家)

【平蔵の独り言】
〔「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」〕(子育て)
幼い実花をぼくは新宿の中央公園へつれていき、口笛の吹き方を教えた。
西口の雑踏で、ぼくは自分に言い聞かせるように、実花につぶやいていた。

「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」

【独り言】
「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」
これが難しいが、自立心を持って行けば自然に“これでいいのか”と思うば、人は人・・・・・・・・

【平蔵の独り言】
〔「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」〕
〔俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。〕
「蜷川さん、水戸黄門の再放送を見たわよ。お公家さんやってたでしょ。あんなヘタな演技を見てしまったら、駄目出しが聞けなくなるわ。
もう、やめてちょうだい」

【独り言】
太地喜和子:やはり心の熱い女優、惜しい女優を亡くした。
三国連太郎が狂った女優、中村勘三郎が恋した女優


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by asanogawa-garou | 2017-03-10 15:42 | 人間模様 | Comments(0)

【つんく♂さん】声を取り戻していた 喉頭ガンによる声帯摘出から2年   

2017年 01月 18日
【つんく♂さん】声を取り戻していた 喉頭ガンによる声帯摘出から2年
【つんく♂ がん治療について語る「自分の感覚を信じるべき」『「だから、生きる。」』つんく♂ 著】
【つんく♂】一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選んだ


【つんく♂さん、声を取り戻していた 喉頭ガンによる声帯摘出から2年】
デイリー新潮 1/17(火) 15:59配信
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①「声帯を失った今、不幸せかというと、決してそうでない」とつんく♂さんは語る
 シャ乱Qのボーカルで音楽プロデューサーのつんく♂さんが、喉頭ガンのため声帯を摘出したのは2014年10月のこと。
その翌年4月に母校・近畿大学の入学式で、声を失ったことを発表した光景は、いまだ記憶に新しい。
そのつんく♂さんが、いま食道発声法によって「意思疎通が出来るようになってき」たことを、1月18日発売の新潮45・2月号の特集「病の『人生学』」に寄せた手記で明かした。

 ***

 食道発声法とは、声帯を失った人が口や鼻から空気を取り込み、それを逆流させて、食道入口付近の粘膜を振動させることによって声を出す、という方法である。
練習を要し、なかなか習得できないために諦めてしまう人も多いらしい。
つんく♂さんも自分で試したときは全く音にならなかったという。しかしレッスンの最初の日に「あ」というような音が出せた。
以来、練習を重ね、現在、騒がしい場所ではスマホのアプリを使って文字を書いて会話をしてはいるけれども、

「今は家族やスタッフとは何とか意思疎通できるようになってきました」

 と、記すのである。
その声は「特殊な音質」で「雑音に弱い」が、静かな場所であれば、会話が可能なのだという。

 喉頭摘出者の先輩によって行われる食道発声のレッスンはネットや本とは違って分かりやすかったそうで、ものを「教える」立場から、「教わる」立場に変わって褒められることの素晴らしさを実感したという体験談は、いかにもつんく♂さんらしい。

 声を取り戻しつつあるつんく♂さんだが、やはりガン患者としてさまざまな思いに翻弄されてきたようだ。
 つんく♂さんは、ガンとわかる前から大きな病院の声帯専門の医師のもとに通っていた。
それも「20年来同じ先生に診てもらって」いたが、シャ乱Q結成25周年記念ツアーのあと、声枯れが長く続いたため、検査してみるとガンと判明した。

 つんく♂さんは、手記の中で、自身を診てくれる医師を過信し、
セカンドオピニオンを「診てくれている医師に失礼」だと考えもせずにいたと反省する。


治療中には「寛解」と言われて他の病院で検査したら、ガンが消えていなかった、ということもあった。
だから、自身の医師を気遣いつつも、一人の医師だけでなく、セカンドオピニオンをもらう大切さを強調する。
 そして声帯全摘出に至ったつんく♂さんだが、今でも、

「もし、いろんな場面で別の選択をしていたら、今はまだ違う結果があったのかなぁ」

 と、考えてしまうという。ただ、

「声帯を失った今、不幸せかというと、決してそうでない」

 とも、つんく♂さんは記す。

 病気を発表したから、世の中に「たくさんたくさんのガンサバイバーの方」がいることを知ったし、
術後数ケ月して通い始めた「食道発声の会」では、「人からモノを教わる新鮮さ」を感じた。
病気のマイナスの面だけを見ていたわけではないのだ。

 最後につんく♂さんは書く。

「さあ、今日も楽しくいきますか!」

 その声を再びステージやテレビで聞く日も来るのかもしれない。

デイリー新潮編集部 新潮社

【つんく♂ がん治療について語る「自分の感覚を信じるべき」『「だから、生きる。」』つんく♂ 著】
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②『「だから、生きる。」』つんく♂ 著

 昨年10月喉頭がんで声帯を失う大手術を乗り越えた歌手で音楽プロデューサーのつんく♂さんが、がん治療について語った。
9月10日に発売された手記『「だから、生きる。」』(新潮社刊)のなかでつんく♂さんは「自分の感覚を信じてほしい」と何度も述べている。

■がんがみつかるまで
 歌手であるつんく♂さんは若い頃より、本業での負担に加え、
お酒や煙草でさらに喉に負担をかけてきたと自覚はしていた。
歌手として自分の身体が楽器であると考え、
体調不良になりそうな気配があるだけで病院へ行くようにしていた。

そのころから調子が悪くなると薬や点滴でどうにかする、という癖がつきだしたという。
喉に炎症が起こるとステロイドの吸入で乗り切っていた。
2013年9月、シャ乱Q結成25周年を記念したツアーを終えたころ喉に違和感を感じ、内視鏡で検査した際、目で見てわかるほど腫れ物ができていたという。
しかしそれもステロイドの吸引のしすぎで組織の一部が固まってしまっているというのがお医者さんの見立てだった。
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③2015年度近畿大学入学式でのつんく♂さん。(つんく♂著『「だから、生きる。」』より)

■99%悪性じゃない
 心配ではあったものの、その腫れ物が悪性の腫瘍、
つまりがんの可能性は「99%ない」とお墨付きをもらっており、楽観視していたという。
しかし三週間たってもよくならない。
それでもお医者さんが99%大丈夫と言い、生体検査もしようと言わないのだから、きっと大丈夫なんだろう、と思っていたという。

つんく♂さんはこのときセカンドオピニオンを聞くなど、
次の一手を考えるべきだった、と後悔していることを同書で明かしている。

■「自分の感覚」より「医師の判断」?
《たとえ医師や専門家の意見が「大丈夫」だったとしても、もっと自分の直観や本能と真剣に向き合っていたら、何を置いても一刻も早く生検をするという方法を選んでいただろうと思う。なのに、僕はこの大事な局面で、「自分自身の感覚」よりも「医師の判断」を信じてしまった。》

 つんく♂さんはその後、三か月以上経った2014年2月に病院で生体検査を受け、喉頭がんがみつかる。

■寛解を発表したものの
 つんく♂さんは喉頭がんに対し、放射線治療を行った。
治療は進み数カ月が経つもなかなか喉の調子はよくならない。
8月にはいりどうしてもおかしいと思ったつんく♂さんはもう一度生体検査を願い出る。
医師の答えは――。

《「がん細胞はみあたりませんでした。良かったですね」結果を聞いた僕は、とても嬉しかった。(中略)僕は心配性すぎたのだ。》
 そして九月半ば、つんく♂さんは医師のお墨付きをもらい、がん細胞の死滅を意味する「完全寛解」を宣言した。
ところが周りからは祝福されるものの、喉の調子は一向に改善しない。
呼吸はしづらく、仰向けに寝ると声帯が圧迫される感じがして苦しい。
もしがんが消えきらず、また大きくなってきていたら、全てつじつまは合うと考えたつんく♂さんは、再度生検を願い出た。

■ニューヨークで受けた最悪の宣告
 10月初旬、モーニング娘。のニューヨーク公演に帯同したつんく♂さんは、その旅を病気に打ち勝ち、
新たな一歩を踏み出すための人生の岐路だと考えていた。

つんく♂さんが16年前に立ちあげたグループが、NYのまんなかでライブを行う。
そんな輝かしい日になるはずだった。
しかしそのライブの二日前、NYに到着したばかりのつんく♂さんに、
日本から生体検査の結果を知らせる電話がかかってきた。

《「すいません。やはり癌でした。この腫れは三月の放射線で叩ききれなかった癌がさらに大きくなったんだと思われます」ずっと考えないようにしていた最悪の結果だった。
(中略)完全寛解から一気に地獄やな。
今までの検査はなんやったんやろか。
僕が自分の不調に気づいて訴えていた、あのあたりで発覚していたらここまで喉も腫れなかっただろうなぁ。》
 

そして「僕がもっと自分を信じて他の病院ででも調べてもらうべきだった」と述べる。
モーニング娘。のNY公演を見届けたつんく♂さんは緊急帰国、その後声帯を全摘する大手術となった。

■自分の感覚を信じてほしい
 つんく♂さんは同書を書いた理由として、自分の感覚を信じる大切さを伝えたかったと語っている。
自分で不調を感じていたのに、がんの発見が遅れてしまったことや、検査結果を鵜呑みにしてしまったことを悔やんでいるという。

《お医者さんも人間。時には見落とすこともある。あなたが医師に診察されるだけでなく、あなた自身が医師を見定めていくというくらいの気持ちが必要であると思います。》

 つんく♂さん自身の体験からでた真摯な言葉は、がんに限らず病気への対応を考えさせられる貴重な提言だ。
デイリー新潮編集部


【つんく♂祝辞全文】一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選んだ
デイリースポーツ 4月4日(土)13時21分配信
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④平成27年4月4日「声を捨て生きる道を選んだ」

近畿大学入学式プロデューサー  つんく♂
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⑤【つんく】一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選んだ
デイリースポーツ 4月4日(土)13時21分配信

 つんく♂さんは昨年2月に喉頭がんが見つかり、後に「完全寛解した」と発表したが、昨年10月に声帯の検査でがんが見つかったと公表していた。喉の治療をしてきたが、結果的にがんが治りきらず、「一番大事にしてきた声を捨て、生きる道」を選んだという。

【平蔵の独り言】
「声帯を失った今、不幸せかというと、決してそうでない」

 とも、つんく♂さんは記す。
 病気を発表したから、世の中に「たくさんたくさんのガンサバイバーの方」がいることを知ったし、術後数ケ月して通い始めた「食道発声の会」では、「人からモノを教わる新鮮さ」を感じた。
病気のマイナスの面だけを見ていたわけではないのだ。
 最後につんく♂さんは書く。

「さあ、今日も楽しくいきますか!」

【独り言】
「さあ、今日も楽しくいきますか!」

気合いを入れる時は思うこともあるが、

1.17阪神淡路大震災に中で経験を踏まえて、
熊本地震の被災者の避難所で「段ボールのパーテーション、簡易ベット」
 これだけでも“日常”に近いが如何に大切か!

つんく♂の声を取り戻していた

つんく♂の日常に少しでも近づくを見ていきたい。

【平蔵の独り言】
つんく♂ がん治療について語る「自分の感覚を信じるべき」

■自分の感覚を信じてほしい
 つんく♂さんは同書を書いた理由として、自分の感覚を信じる大切さを伝えたかったと語っている。
自分で不調を感じていたのに、
がんの発見が遅れてしまったことや、
検査結果を鵜呑みにしてしまったことを悔やんでいるという。

《お医者さんも人間。時には見落とすこともある。あなたが医師に診察されるだけでなく、あなた自身が医師を見定めていくというくらいの気持ちが必要であると思います。》

 つんく♂さん自身の体験からでた真摯な言葉は、
がんに限らず病気への対応を考えさせられる貴重な提言だ。


【独り言】
20余年前、大病をしてからは
〔歯周病〕で歯が一本すっぽり
治療を担当医に聞いて、インプラントを選択したが
先生「どんな経歴、経験ですか」
大学病院で顎が砕けてしまった治療をしてきました。
歯周病、ある日突然歯がすぽ!
もういやだ。

それから、9年メンテナンスは半年毎。

〔左冠動脈狭窄〕“狭窄度70%”
かかりつけ基幹病院を紹介状もらい
心臓CT、カテーテル・ローターブレーター手術
それから毎年検査

心臓CT、胃カメラ、大腸内視鏡(前回ポリープが見つかる)

“人生”という日常「もうなんでも有り」

つんく♂ の自分の感覚を信じて・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2017-01-18 16:08 | 人間模様 | Comments(0)

「大リーグの歴史変えた40人」に選ばれた野茂英雄、〔野茂37位に 米誌が特集〕   

2016年 12月 08日
「大リーグの歴史変えた40人」に選ばれた野茂英雄、〔野茂37位に 米誌が特集〕
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①米誌の「大リーグの歴史を変えた40人」に選ばれた野茂英雄氏=共同
日本経済新聞 夕刊2016/11/29付

 米スポーティング・ニューズ誌がこのほど「大リーグの歴史を変えた40人」を特集し、ドジャースなどで通算123勝を挙げた野茂英雄が37位に選ばれた。
選手だけでなく、大リーグの発展に寄与した人物を選定する企画で、日本選手でただ一人のランク入りだった。
 野茂は1995年にメジャーに挑戦し、ストライキの影響で短かった同年に13勝を挙げて新人王に輝いた。「イチローや松井秀喜ら新世代の日本人の先導役となった」とたたえられた。

 1位に選ばれたのはベーブ・ルースだ。
草創期に通算714本塁打を放って人気を広め「野球にとって初めての象徴的存在で、今日でも最高の選手であり続けている」としている。
 2位は黒人初の大リーガーとなったジャッキー・ロビンソン。
有色人種にメジャーへの扉を開いた功績が認められた。
(共同)

【野茂英雄のトルネードに球場が沸く「今でも応援してくれるファンがいる」】
野茂英雄のトルネードに球場が沸く「今でも応援してくれるファンがいる」
名球会ベースボールフェスティバル2016が1月11日
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②名球会ベースボールフェスティバル2016が1月11日、ヤフオクドームで行われ、往年の名選手達が躍動した。

一際注目を集めたのが、日米両球界で活躍し、通算201勝を挙げた野茂英雄氏。
往年のトルネード投法を見せると、球場全体が沸いた。
「今でも応援してくれるファンがいる」と語っていた野茂氏はファンの前で全力投球。
伝家の宝刀フォークも投げるなど、以前と変わらないピッチングに大観衆が酔いしれた。

また、自身も所属していたロサンゼルス・ドジャースへの入団が決まった元広島の前田健太投手に対しては、「チャンピオンリングを獲ってくれれば自分もうれしい」とエールを送った。

これに対して、「野茂はやっぱり野茂だった。ブランクがあるのに、あまりそれを感じさせないよな。トレーニングしてるのかな」「清原とか楽しそうだったね。それにしてもスゴいメンバーだった」「清原と佐々木の対決とか興奮した。野茂のトルネードが見れてうれしかった」など、ファンからはさまざまな声が寄せられていた。
《浜田哲男》
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③野茂英雄(2003年3月31日)

【「最高の輸出品」クリントン大統領も讃えた! 野茂英雄の偉大なる功績】
Excite Bit コネタ 2015年5月19日 12時01分
ライター情報:さのゆう
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④「野茂英雄―日米の野球をどう変えたか」
近年、多くの日本人野球選手が海を渡ってメジャーリーガーとなっている。
もはや日本のスター選手、例えば最近でいうとマー君やダルビッシュがメジャー移籍を表明した際も「ついにこの日が来たか」とそこまでファンも驚かなかったのではないだろうか。
しかし、つい20年ほど前までは日本のスター選手がメジャーに行くことなど、誰もが夢物語のように思い、非現実的なことだった。
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⑤「野茂は日本からの最高の輸出品」
【当時のクリントン大統領は「野茂は日本からの最高の輸出品」と讃えた】
では、誰がメジャーへの扉をこじ開けたのだろう。
それは「野茂英雄」である。
野茂の名は知っている人も多いのではないだろうか。
1989年、史上最多となる8球団からドラフト1位指名を受けた野茂は競合の末、近鉄に入団。
その後、ルーキーイヤーから4年連続で最多奪三振と最多勝を獲得し、名実ともに日本最強投手だった。
しかし、まだまだ選手としてはこれからという6年目のシーズンに日本を離れメジャーリーグのドジャースへと移籍したのだ。
今回は「野茂英雄―日米の野球をどう変えたか」(著:ロバート・ホワイティング/PHP研究所)を参考に、どのようにアメリカに渡った野茂は野球界を変えてパイオニアと呼ばれるようになったのか探っていこう。

【パイオニア】
野茂はなんと言っても日本人がメジャーに行く道をつくった人物だ。
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⑥「自分の夢を叶えたかった」などではなく意外なものだ。
そもそも野茂がアメリカに渡った最大の理由は「自分の夢を叶えたかった」などではなく意外なものだ。

それは当時在籍していた近鉄バファローズと揉めたから。
監督だった鈴木啓示の「とにかく走れ」という根性論の練習、複数年契約などを認めない球団フロントに愛想をつかせた。
その後、野茂は団野村(スポーツ代理人。サッチーの連れ子でもある)とともに、なんとかアメリカへ行く道はないかと模索した結果、「任意引退」という野球協約の抜け穴を発見する。
しかし、かつて同じように野球協約の抜け穴で巨人入りを目指した「江川事件」がバッシングを受けたように野茂も多くのバッシングを受けることになる。…

マスコミ・プロ野球オーナー・王や長嶋なども含めたプロ野球OB・近鉄の球団社長、挙句の果てには実の父親からも非難された。
しかし、図太い性格の野茂は「売国奴」、「どうせしっぽを巻いて逃げる」などと周囲に言われてもなんとも思わなかった。
「正しいことをしているから」と信じて最終的にはロサンゼルス・ドジャースと契約を結んだ。
後で詳しく説明するが、野茂は1年目から大方の予想を裏切り大活躍。
それまで野茂に罵声を浴びせていた日本人はとたんに「日本の誇りだ」と手のひら返しを見せたのである。

この野茂の活躍により、日本人でもメジャーで活躍できるのだと証明され、MLBの球団は日本人の有力選手を物色するようになる。
また、野茂の活躍を契機に日本でも海を渡るための制度化が進み、イチローなども利用したポスティングシステム導入へとつながった。
最近の日本選手が障害なくメジャーへ行けるのは、「任意引退」という手段を使ってでもアメリカへ渡った野茂の壮絶な覚悟のおかげなのだ。
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⑦野茂の活躍により
【成績も凄かった】
ドジャースで1995年シーズンを迎えた野茂は初登板から好投する。
その後の登板でも好投が続き、最終的には1年目のシーズンは13勝をマークすると同時に、最多奪三振・新人王のタイトルを獲得する。
また、日本人初となる(そして現在でも野茂ただ一人)オールスターでの先発投手を務めたり、リーグ最終登板でチームをPO進出に導くピッチングをしたりと記憶の面でもかなり大きな印象を与えた。
このように野茂が初年度から活躍できたのは「トルネード投法」と呼ばれる独特のフォーム、そして150km/hを超えるストレートと信じられないほどの落差のフォークボールがあったからだ。

当時、野茂と対戦した大打者たちはみな絶賛のコメントを残している。
例えばバリー・ボンズは「あんな投手見たことない」と話し、
サミー・ソーサは「あんな打ちにくいフォークは初めてだ」と話した。

【ノーヒッターに】
そしてメジャーでの2年目のシーズン、野茂はより大きなインパクトを日米のファンに残した。…

"常識外"とも言えるノーヒットノーランをロッキーズ戦で達成したのだ。
というもの、野茂が記録達成した球場「クアーズ・フィールド」はかなり標高が高く打球が飛びやすい。
そのため投手にとってはかなり不利な球場だ。
事実、「クアーズ・フィールド」を本拠地とするロッキーズはそれまで直近7試合の平均得点は10点を超える(そのすべての試合で2ケタ安打を記録する)ほどだった。
野茂はそんな球場、しかも試合当日は気温が低く雨も降るという投手にとって最悪の環境の中で達成。
ドジャース監督は「史上最高のピッチングとして歴史に残すべき」と話し、
「完全試合より価値があるノーヒットノーランだ」とも言われた。
また、野茂はその後、ア・リーグでもノーヒットノーランを記録し、メジャー史上5人目となる両リーグでのノーヒッターとなった。

【ファン人気が凄かった】
それまで見たことのないフォームで快投を続ける野茂に日本のファンのみならず、アメリカファンも熱狂。
そんな彼らは「NOMO マニア」と呼ばれ、「野茂が投げれば大丈夫」と歌われたテーマ曲まで登場した。
人気は数字にも表れ、スタジアムの 観客動員数が野茂登板の時には4%アップすると言われたほど。
また、ジム・キャリー主演の「ライアーライアー」の中では、ジム・キャリー演じる主人公の息子が「僕はノモになる!」と叫ぶシーンまで登場する。
ハリウッド映画に登場するほど当時の野茂は人気があった。

このようなフィーバーを通して野茂は「メジャーリーグの救世主」と呼ばれるようになった。
なぜそこまで称賛されたかというと、野茂が渡米する前年、メジャーは大規模なストライキが起きてファン離れが深刻だった。
そんな中、野茂が彗星のごとく登場してスタジアムへとファンを呼び戻したからだ。ラソーダ(当時のドジャース監督)も「彼がMLBを救った」と語っている。
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⑧野茂は「メジャーリーグの救世主」
【日米関係も改善】
野茂が救ったのはメジャーリーグだけではない。…

日米関係をも救ったのだ。
1995年当時は貿易摩擦などの影響で日米関係は冷え込んでいた。
そんな中、野茂が好投したことで関係に好ましい影響を与えたのだ。
米大手メディアのNY times紙は「野茂のおかげで日本の鎖国癖は消えつつある」で語り、
当時のクリントン大統領は「野茂は日本からの最高の輸出品」と讃えた。

このように野茂はただ「アメリカで活躍した」という事実以上に多くのものを残していったことが分かる。
日本人選手にメジャーリーグという選択肢を与えてくれたのは間違いなく野茂英雄だ。
あの黒田博樹もドジャースでメジャー生活のスタートを切ったときに
「野茂さんがいなければ我々は誰もアメリカに来られなかった」と語っている。

日本とアメリカの野球に橋を掛けて、日米球界に大きすぎる貢献をした彼はまさしく"英雄"ではないだろうか。
(さのゆう)

【平蔵の独り言】
小学生の時、巨人ファンであったが、
千葉茂が移籍して監督をしたパリーグは近鉄ファンになっていた。

近鉄は巨人の水原、三原・川上、千葉のライバル関係で出された
三原監督、千葉茂監督で在籍し、
仰木彬さんで野球人生を開花した、野茂英雄・・・・・
思い返せば、愉しい球団だった。
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by asanogawa-garou | 2016-12-08 15:50 | 人間模様 | Comments(0)

〔永六輔〕栗が入っていないのに「栗せんべい」はダメと公正取引委員会。   

2016年 10月 10日
〔永六輔〕栗が入っていないのに「栗せんべい」はダメと公正取引委員会。が地方のお煎餅屋にクレームをつけてきた。

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〔永六輔さんのラジオ番組〕「七円のハガキ」に助けて、と送ってきた。  
(2010年8月20日東京新聞 に掲載されたようだ)
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①栗せんべい
≪クリの形をした、「栗(くり)せんべいが」というお菓子について、クレームがついた≫
そのクレームを知って起こった永さん、
当局に、こんなふうにやり返したのだそうだ。


『では、キリンビールにはキリンが入っているのか?かっぱえびせんにはカッパは入っているのか?』
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②キリンビール
メロンパンもメロンが入っているのか!
とクレームをラジオでしたらしい。

ブルドックソースにブルドックがはいってんですか。
ひよこ饅頭にひよこがはいっちゃ、大変だわ!
と公正取引委員会のお役人もくれた笑ったそうです。
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③ブルドック        ④ブルドッグソース

永六輔さんから楽しいを残して。

【平蔵の独り言】
如何にも、こんなことを考えて職業としている人達がいてクレームを付けてくるとは!

栗煎餅の前にキリンビールにクレームを付けるかな!
アサヒビールはアサヒが入っている?・・・・・

戯作者・松崎菊也が永六輔さんに捧げる「“永七輔”語録」
•2016年7月20日
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永六輔さんはギャハハと笑っていた(C)日刊ゲンダイ
 永六輔さんラジオ語録。

「栗せんべい売っていた老夫婦を、厚生省が栗の入っていないせんべいの製造販売は不当表示になると規制をかけたのね。これとっっってもおかしいでしょ? じゃハトサブレには鳩が入ってんのか、メロンパンにメロンが入ってんのか」

 喝采。


「くり煎餅が不当表示である」と公取から煎餅屋さんが言われて、永六輔に「何とかしてほしい」と訴えたそうだ。それをラジオで説明していた。

“駄菓子に近いのだけど、くり煎餅という煎餅があるのだけど。
くりの形をしてんの、
ところが、この煎餅にはくりが入っていないのに、
くり煎餅っていうのはおかしいって、公取(公正取引委員会)からクレームが入ったのですよ。

「永さん、なんとかしてください」
 お役人と闘うというってことがあった。
 ボクも交渉の場へ行きました。
「ウグイス餅にウグイスは入っていませんよ。
 キリン麦酒にキリンは入っていませんよ。
 ブルドックソースにブルドッグは入っていません」
 お役人が法律を決めるときに、文化ってことを考えていない。
 零細企業ですよくり煎餅屋さんなんて。

変だなと思ったら、それは「変だ!」って、声をあげなさい。変なのに黙っているのは、それこそおかしいんじゃないかい?永さんはいつも思ってた。なんか分からなくても、ちょっと分かったふりをして過ぎてしまうことがあるじゃないですか。永さんはそれを絶対なさらなかったんですよね!
 くり煎餅! くり煎餅という名称を「日本文化」と考えていくのが60才以上だったら、普通だけど、
今の風潮は許さないのかもしれない。
  法律っていう条文にしなくても、不文律という決まり、常識をもって解決すると考えるべきだ。
息苦しい社会にしている。
 法律、条例が毎月、毎年多くなって、一度一掃しないと、動きが取れなくなってしまいそうだけど、どうなんだろう。


【平蔵の独り言】
世の中、もっと曖昧でいいことがあっていいと思うし、
生き方が少し“ズボラ”なところがあってもいいと思う。

でも今の世の中、マニュアル通りに働く事を良しとすることが
コンビニ、ファミレスetc

団塊の世代に力をくれていた “永六輔”さん
”栗せんべい”を「七円のはがき」で取り上げてくれて

旅立っても楽しいことを残してくれている。

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by asanogawa-garou | 2016-10-10 18:06 | 人生の質・人生の息吹 | Comments(0)

【桃井かおり】〔半分アメリカに〕〔今、女優として目指すもの〕“お前、生きているんだから「やれよ」”   

2016年 05月 17日
【桃井かおり】〔半分アメリカに住んでいるのは〕実は消えるための作戦でもあった。
〔今、女優として目指すもの〕先に死んだ俳優たちや監督たちが
“お前、生きているんだから「やれよ」”

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【桃井かおり】 「サワコの朝 桃井かおりさん」”64歳で人生が変わった” (TBS系全国ネット)のゲストは、女優・桃井かおり。
昔の“桃井かおり”ではない!?
(自然体・桃井の現在の仕事と結婚生活に迫る)
毎日新聞2016年3月9日

今年のベルリン国際映画祭では、
桃井自らが監督・脚本・主演を務めた映画「火 Hee」が正式出品され、大きな話題を呼んでいる。
若い頃でも映画は1年に2本までしか出なかったという桃井は、
64歳の昨年、出演映画と監督を務めた映画、合わせて5本に携わり、
さらにプライベートでは9歳の頃からの幼馴染みと結婚もした。

「仕事中心をやめたら、日常生活が本当にいいものに感じるようになった」という
桃井が、阿川に伝授した“落とした石の中にダイヤがあるかも”の言葉の意味とは!?
仕事もプライベートも充実した桃井の近況に阿川が迫る。

【桃井かおり】初めて知った“なじむ”愛情、普通の生活は素晴らしい!

〔個性派女優の原点は「劣等感」〕
プリマドンナになりたくて渡ったロンドン。
誰もがキレイだった。
白鳥の中のアヒルだと感じた桃井かおり。
女優になってもアヒルだと感じていた。

女優として自信を持てずにいた
桃井かおりを演じ続けてつまらなくなった 

時代は個性を求めていた。
松田優作と桃井かおりが個性の時代を作った。
松田優作のように死んだら伝説。

生きている自分はどうすればいいのか。


〔今、女優として目指すもの〕
先に死んだ俳優たちや監督たちが“お前、生きているんだから「やれよ」”

松田優作、桃井かおり:男でもない女でもない“個性”という“性”で

桃井かおりをやっているだけで、キャラクターの個性派女優が上手くなって何が面白いのか!

サワコの朝3月12日
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〔半分アメリカに住んでいるのは〕実は消えるための作戦でもあった。
桃井かおりアメリカでドロン?!、
アメリカで住もうと思ったのはうまくフェードアウトしようと思った。
知らない内に忘れられるようにと願った。

女優として自信を持てずにいた。
桃井かおりしか演じていなかった。
小銭もあるし辞められるなと思った。
19歳から女優をやっていたら演技も上手くなってくる。

今はアメリカで“桃井かおり”が知られていないのでどんな役でも出来る。
おじいさんの役でもやってやる気持ちを持っている。

「50歳を過ぎたくらいとか、もっとやれた事あるんじゃないかなと年頃だと思う」

50代は自分を見つめなおすチャンス。
勇気と元気があったのやってみた。
そうしたら仕事が来るから、やってみている。

最新作では監督出演を務めた「火 Hee」監督、脚本、主演。
ベルリン国際映画会で出展して話題になっている。
アメリカの自宅を使って10日で撮影した。

昔からの桃井かおりを知っている仲間は、
いつか孤独死をしているだろう桃井かおりを想像していた。
幸せにならないだろうと思われていたが、喜んでくれている。

半分アメリカに住んでいる桃井かおり。
実は消えるための作戦でもあった。
あの人は今・・・なんてことにならない為の作戦。
桃井かおりからの脱皮
強烈な個性が光る桃井かおり。
女優をやっていても結婚詐欺の気分。
どの役も桃井かおり自身。
こんなんでやっていけるわけない。
しかし、続けていくと上手くなる。
演技力は付いたが、面白味がなくなった。

桃井かおりを知らないアメリカ。

〔64歳で劇的に変わった人生〕
幼なじみと結婚した。

〔普通の生活は素晴らしい!(こんなに日常生活が素晴らしい)〕
誰も桃井かおりを知らない。
普通に近所付き合いをして生活を楽しんでいる。
普通の生活って、実態があるんだから近所付き合いとか、お散歩するとか、わぁ!普通の生活面白いと思った。(無名であることの心地よさ)


サワコの朝3月12日
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アメリカで生活を楽しむ
54歳で出演した映画「SAYURI」でハリウッド初出演。
英語がわからないと思っていたが、暮らしに困らなかった。
生活の方がわからなかった。
いつごみを出すかとか。
アメリカで生活を極めたくてロスに住んだ。

ロスでは“生活”を楽しんでいる。
これまでは仕事にフォーカスしていた。仕事中心だった。
今は生活がある。
普通の生活は素晴らしい。
近所付き合いをやっている。
前のイメージ「つながりたくない女優の印象」。
無名であることの心地よさ。

日本では仕事中心の生活。
自信のない生活。
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〔実は消えるための作戦でもあった。〕

女優引退は考えていない。
依頼が来なくなると引退。
来ている内は「おまえやれよ」と言われている。
今は仕事が増えている。5本の映画(1本は監督)に出た。
いちばん売れている時に2本/年だった。

【桃井かおりについて】
松田が亡くなった際には、彼は伝説的な存在になると確信し、
「これで自分が死んでも伝説になることはない。
なら、長生きしてやる」と奮起したそうです。

その活躍の場はハリウッドにまで広がっていて、
まさに日本を代表する女優の一人と言える人物です。

俳優の松田優作は文学座の1期後輩で、桃井が失恋して泣いているときに
松田がしつこく絡んできたのが初対面だったそうです。
一切妥協を許さない桃井は、松田とも衝突することも少なくありませんでした。
ドラマで共演することになった際には、
映画にこだわりを持ちドラマを適当にやろうとしているように映った松田に、
「ドラマをなめんじゃないわよ!映画でもドラマでも真剣にやんなさいよ!」と一喝したこともあったそうです。


〔桃井かおりの元気になれる名言まとめ〕LAUGHY[ラフィ]2014.10.24
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桃井かおりの元気になれる名言まとめ
倦怠感のあるハスキーボイスが魅力的な女優、桃井かおりさん。
声だけじゃない彼女の魅力、発せられた名言をまとめてみました。
+〔桃井かおりの名言〕

〔役者は “自前の顔” をもってる奴の勝ちだと思うんですけど〕

松田が亡くなった際には、彼は伝説的な存在になると確信し、
「これで自分が死んでも伝説になることはない。なら、長生きしてやる」
と奮起したそうです。

着物って最初はうまく着れなくても、
毎日着ているうちに、着慣れてきて、着こなして、粋に着崩すでしょう?
人もさ、毎日生きてるうちに、生き慣れて、生きこなしていって、
そして長生きして今度は「生き崩す」んだと思うのよ。
長生きって“こじゃれている”と思うのよ。

いいタイミングで死んで伝説になりたいじゃないですか。
自殺は卑怯だし、早死にはもうできない。
ならば長生きしかないでしょう。
40歳になって、長生きしようと決めたら、
生きることが本当に好きになりましたしね。
どんなに気取って生きていても死んだら抹殺というか、
この世からいなくなっちゃうわけだから、
いっぱい生きたい


〔(輝いて生きる秘訣を聞かれて)〕
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たぶん勇気だと思う。
勇気とか元気とか。

とにかくやりたいことに対して、
勇気を持って一歩踏み出すんです。

力を発揮するために大切なのは、安全じゃない方向に歩き出すこと

〔夢を追う人へ贈りたい桃井かおりの名言〕

たとえきれいな夕焼けに出会えなくても、
そこで思わぬ体力がついていることの方がすごいでしょ。

夢を追いかけるときに力がついてくる事実の方が、
夢を手に入れたかどうかよりも、

もっと素敵なことなんじゃないの。


・夢って、頭で考えるものではなく、体で見るもの。

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・人間には、失敗する権利だってある。

・バカモノと、ワカモノが、大好き。

・若者とは未熟なのではなく、未経験なだけだ

〔過去の自慢話しか、しない大人が多い〕
過去の自慢話しか、
しない大人が多いじゃないですか。

今、何をやるか。
これから何をやれるか。

何に面白がれるか。
それしか素敵じゃないでしょ。
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〔三十すぎたら同い年〕

・友達って、人生の旨みだからさ

・映画監督をして、初めて人に頭を下げられるようになりました

・50歳過ぎてからって、思ったよりもずっと面白いわけ。
ごめんね~。悪いけど、このままいくと老後はもっと幸せになれそうなのよ

・幸せって感じは、自分だけがみえなくて、他人にしか見えない変なものだね

・年齢を重ねるカッコ良さを伝えたい。
若ぶっている肌じゃなくて60代の肌はこういうものというものを

【平蔵の独り言】“生ききる”
〔今、女優として目指すもの〕
先に死んだ俳優たちや監督たちが“お前、生きているんだから「やれよ」”

【独り言】
古希が近づいてくると、いろいろと考える。
“お前、生きているんだから「やれよ」”
ですね・・・・・・・・

また、存在感のある人が旅立った。  演出家 蜷川幸雄(80歳)
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by asanogawa-garou | 2016-05-17 16:29 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

突然すくっと立ち上がって「おれは反対だ!」小澤征爾が大西順子と共演した『ラプソディー・イン・ブルー』   

2016年 04月 13日
突然すくっと立ち上がって「おれは反対だ!」と叫ぶという異例の事態、というかハプニングになったわけです。
小澤征爾が大西順子と共演した『ラプソディー・イン・ブルー』


【厚木からの長い道のり】考える人 2013年 11月号
小澤征爾が大西順子と共演した『ラプソディー・イン・ブルー』
大西順子はこの「松本Gig」のおかげで仕事を失ったのだ。
この七月、サイトウ・キネンの公演に演出するために、
アルバイト先に二週間の休暇とシフトの変更を申し出たら、「もう来なくていいよ」と通告された。
「だから東京に帰って、明日からまた仕事探しをしなくちゃならないんです。大変ですよ」と彼女は苦笑いしながら言う。

突然すくっと立ち上がって「おれは反対だ!」
【小澤征爾×大西順子 夢の共演】2013/09/18
【なぜ “ラプソディー・イン・ブルー”を大西さんとやるか、について】

【(文化往来)大西順子が直接指導、ジャズのピアノラボ】2014/5/29
大西順子〔ジャズフェスティバル「第14回東京JAZZ」〕
ジャズ・シーン復帰〔2015年9月7日〕
【大西順子】今年の「名古屋JAZZ」に登場!
「大西順子」Web 限定インタビュー 取材日:2015.08.07


【(文化往来)大西順子が直接指導、ジャズのピアノラボ】
2014/5/29付 日本経済新聞 朝刊
 日本を代表するジャズピアニストの大西順子(47)が4月、マンツーマンでジャズピアノの演奏法を指導する講座「大西順子ピアノラボ」を川崎市内に開講した。

2000年からの長期休養を経て07年に活動を再開したが、
12年末のライブで引退を表明。今後は後進のピアニストの育成に力を注ぐ。

 「体に力が入りすぎて、いい音が出し切れない若手ピアニストが結構多い。彼らにうまく弾くためのコツを伝えたい」と思ったのが、講座開講のきっかけだったという。
大西本人が、ほどよく力を抜いて力強くピアノを弾くための体と指の使い方や、ブルース、スイング、ビバップといったジャズの核となる基本スタイルの演奏法を直接指導する。
講座は1回90分の完全予約制で、指導は1日最大4人まで。
受講方法は公式サイトに掲載した。

 昨年、長野県松本市で開かれた音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」では、9月に指揮者の小澤征爾(78)が率いるオーケストラと共演し、1日限りの“現役復帰”を果たした。「自分の中では演奏者としてはやりきったという思いが強い」と大西は語る。
「これからは長年の経験を生かし、1人でも多くの素晴らしいピアニストを送り出したい」と意欲を見せる。

大西順子、〔ジャズフェスティバル「第14回東京JAZZ」〕
ジャズ・シーン復帰〔2015年9月7日〕
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日野皓正(左から2人目、トランペット)、ラリー・カールトン(同3人目、ギター)のスーパーバンドに参加した大西順子(左端、ピアノ)=東京国際フォーラム

 秋恒例のジャズフェスティバル「第14回東京JAZZ」が6日、最終日を迎え、東京国際フォーラムのホール公演(THE HALL)
昼の部で、世界的ジャズピアニストの大西順子(48)がトランペットの日野皓正(72)とギターのラリー・カールトン(67)のスーパーバンドに参加し、ジャズ・シーンへの復帰を果たした。

 大西は2012年に引退を表明。
13年に小澤征爾氏(80)の指揮するサイトウ・キネン・オーケストラとの共演で一時復帰したが、今回はジャズが誇るヒノテル、カールトンという世界的なスーパースターとの共演だ。
 黒いチューブトップに黒いパンツ姿の大西は、両巨頭のド派手なプレーをグランドピアノとエレクトリック・ピアノで支えつつ、2、5曲目ではグランドピアノ、4曲目ではエレピで迫力あるソロを披露。
笑顔で手を振って観客に応える場面もあり、本格的な復帰への期待を抱かせた。


【大西順子】今年の「名古屋JAZZ」に登場!
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「大西順子」Web 限定インタビュー 取材日:2015.08.07

人気実力ともに日本ジャズ界のトップを走り続け、シーンを牽引してきた大西順子。
2012年、突然の引退宣言で世間を驚かせたのも記憶に新しいところです。
そんな彼女が、今年の「名古屋JAZZ」に登場!
日米のトッププレイヤーが一堂に会するジャズの一大フェスで
どんな音を聴かせてくれるのか…。
ジャズファンならずとも必聴のステージは目前です。

今年も「名古屋JAZZ」には錚々たる顔ぶれが揃います。
それぞれのアーティストとは、これまでにも共演なさっていると思いますが。
カリーム・リギンスは若いときから知っていますね。
ジョン・パティトゥッチとはヨーロッパのジャズフェスティバルでセッションしたことがありますが、ちゃんとガッツリやるのは今回が初めて。
ラリー・カールトンには、まだお会いしたことがないんです。
日野さんは、私がまだニューヨークでいろんなバンドでやっていたときに知り合いまして、その頃からいろいろアシストしてくださって、頭が上がらない存在です。
何年か前にプロモーション用か何かでちょっとご一緒したことはあるんですけど、ちゃんと仕事として共演するのは20年ぶりですね。

〔日野さんと大西さんは、師弟関係のような間柄ですか?〕

日野さんは偉そうにしたり、若い人に説教したりするようなところは全くありません。
知り合った当時のニューヨークには、仕事としてジャズにきちんと取り組んでいる人はほとんどいなかったんですよ。
そんな中で、同じフィールドをしっかり味わっている数少ない日本人同士という感覚がありました。
私の方が年齢もキャリアもずっと下ですが、同じシーンの中で久しぶりに会った日本人という感覚がお互いにあって…私よりもずっと長くそのシーンで苦労されてきた方なので、ちょっと言えばすぐ通じるみたいな感覚が嬉しかった。
それ以来、私にとっては頭が上がらない存在です。

深いところでつながっている感覚をお互いに持っていらっしゃる。
そうですね。アート・ブレイキーとか、ああいう本当のレジェンドと実際に演奏するという経験を運良くできたのは、私が最後の世代じゃないかと思うんです。
日野さんは、もっと長く一緒にいる時間があったと思います。
ジャズのレジェンドをリアルに知っているという皮膚感覚は、今の若い世代のプレイヤーにはありませんから、彼らと同じことをやろうとしていてもなんとなくズレが出てくる…日野さんとは、同じ感覚で話ができるんです。

〔大西さんから見た日野さんの音の魅力はどのようなものでしょうか?〕
日野さんはトランペッターとしても素晴らしいんですけど、実は作曲者として名曲をたくさん作っていらっしゃるんですよね。
今回のライヴでそれがフィーチャーされるということで、私はとても楽しみにしています。
小さい頃に流行っていた曲、よく聴いた曲を本物と一緒に自分が演奏できるというのは、それこそアート・ブレイキーの「モーニング」を本人と一緒に演奏するようなもの。すごく光栄ですね。

昔から聴いていたミュージシャンの曲を本人と一緒に演奏するにあたって、どんな気持ちでプレイにのぞみますか?
日野さんの場合は特に、テレビをつけると日野皓正の曲が流れているという時期が本当にありましたよね。
だから、譜面を見なくても覚えているような曲もあります。
今からいろいろ考えてはいますが、当日どう変わるのかも楽しみです。
私のキャリアのスタートは、サイドマンとしてサポートを始めたことでした。だから、サポートをするのがすごく楽しいんですよ。
リーダーを映えさせてその曲を忠実に再現するんですが、その上で特にピアニストというのは味付けがいろいろできるので、それによってどんどん変わっていったりする。
相手もちゃんと聴いているわけですから、リーダーとかフロントの人たちも私のピアノをきっかけにどんどん変わっていくことがすごく楽しいんですよね。たまたまデビューしちゃったので、その後は自分のバンドばかりやっていたんですけど、本当はスタジオマンになりたかった(笑)。
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今回はエスペランサ・スポルディングも登場します。
若い世代ですし、彼女のほかにもロバート・グラスパーなどが活躍し、ジャズシーンに新たな流れができているように思います。

大西さんは2012年に引退宣言をなさいました。
その後、一昨年には小澤征爾さん率いるサイトウ・キネン・オーケストラとの共演で表舞台にも立たれましたが、今、オーディエンスの前で演奏することについて、どのような心境をお持ちですか?

引退したときは、音楽を作る上で自分があまりにエンプティだなと感じてしまっていたんです。
空っぽになってしまって。
何かしら弾けと言われたら弾けるんですけど、何を弾くかというところが未だにわからない。弾けないんです。
ただ、小澤さんは「ラプソディ・イン・ブルー」というお題を出してくださった。
今回も日野さんが「ちょっと一緒にやろうよ」と声をかけてくださって、しかも日野さんの当時のあの曲というお題もあります。
それに応えたいという音楽的欲求はあるから、こうやってまた出てきちゃっているんですけど…。
今、菊地成孔さんからも声をかけていただいているんですね。
「自分にいろいろアイデアがあるから、こういうことをやって欲しい」と。
そういうありがたいオファーをいただくと、ぜひやってみたいなと思うんです。もしかしたら、こういうことを続けているうちに本当に自分から発信できる何かが出てくるかもしれないし、出てこないかもしれない。
そこはわからないですね。
これまで、あまりに長く自分の楽曲をやり過ぎたから…。

アーティストとして非常にレベルの高いところでご自身の音楽やジャズという音楽について考えていらっしゃる…。
言い当てようとすると、自己表現とかオリジナリティとか…そんな言葉になってしまいますし、そんなの当たり前じゃないという話なんですけどね。
やればやるほど「これ、前にもあったじゃん」という感じを覚えてしまう。
ジャズは1920年代から1970年代初頭ぐらいまでにアメリカで出来上がった音楽なので、ちょっと太刀打ち出来ないんですよね。
どの方向を見ても、すでに全部ありますからね。
あまりに分厚い壁なんです。
そこに対してどれだけ妥協…というか「ま、いいか」と思えるようになるのか、もっと反抗するのかはわかりません。
ただ、やっぱりピアノを弾くことは好きだし、こういう面白い題目を提供されると喜んでやりたいと思うので、それを繰り返しているうちにうやむやになって、またやるんじゃないかな。

引退宣言の前には、名古屋のジャズクラブ「jazz inn LOVELY」でもライヴをなさいました。
名古屋のジャズファンの印象や思い出をお聞かせください。
まだデビューして間もない頃、ラブリーに7日間連続で出演したんですよ。
しかも7日間、私以外のメンバーが毎日違う。
毎日午後3時からリハーサルをして夜中の3時ぐらいまでああだこうだ言ってやった覚えがありますね。疲れました(笑)。
当時はやりたいことだらけだったから、それを全部やって。
毎晩、青臭い音楽を聴かされるお店の人たちも大変だったと思いますよ(笑)。
だから、名古屋にはすごく愛着があります。
いつも慌ただしくて、ゆっくり街を歩いたりはできないんですけど、アメリカから帰ってきて味噌煮込みうどんを初めて食べたときは感動しましたね。
東京に帰って赤味噌を買って作ってみたんだけど、全然違うんですよ。

9/10 THURSDAY 名古屋JAZZ


【厚木からの長い道のり】考える人 2013年 11月号
サイトウ・キネン・フェスティバル松本Gig 2013年9月6日

満場のスタンディング・オーベーション。
奇跡の『ラプソディー・イン・ブルー』に、拍手はいつまでも鳴りやまなかった。
ClassicとJazz、小澤征爾と大西順子、そして村上春樹。
その夜、それぞれの魂が響きあい、困難を乗り越え、ナチュラルな喜びに満ちた音楽が誕生したのだ。
小さなジャズ。クラブからサイトウ・キネン・オーケストラとのステージへ。

良き音楽のために、道は続いて行く―〔村上春樹〕

 コンサートのあと、楽屋で小澤さんにオリジナル・パートと大西さんの即興パートのバランスについて尋ねられた。
「ねえ春樹さん、あれくらいで良かったと思う?」と。
「いや、完璧です」と僕は答えるしかなかった。
それ以外の答えを思いつくことができなかった。

 やはり楽屋で大西さんに言われた。
「うまく指が動かないところが一箇所あって、普通そんなことってないんだけど、やはり緊張していたんですね。参ったな。」と言われた。
「いや、完璧だったよ」と僕は言った。
それ以外に言うべき言葉は見つからなかった。
 そう、すべては完璧だったのだ。少なくとも僕にとっては……。
それ以外にいったい何が言えるだろう。

 いや、完璧でないことも少しはあった。

それはここにしっかり明記しておかなくてはならない。
大西順子はこの「松本Gig」のおかげで仕事を失ったのだ。
この七月、サイトウ・キネンの公演に演出するために、アルバイト先に二週間の休暇とシフトの変更を申し出たら、「もう来なくていいよ」と通告された。
「だから東京に帰って、明日からまた仕事探しをしなくちゃならないんです。大変ですよ」と彼女は苦笑いしながら言う。


 どこかの音楽大学なりの教育機関なりがこの女性ピアニストに、落ち着いて後進を育成し、場合に応じて自分の演奏をも追究できるような、安定したポストを提供するべきなのだ。
僕は心からそう思う。

彼女は若いミュージシャンたちを指導することに、とても強い興味と意欲を持っている。
また今回の松本の「ジャズ勉強会」で彼女が残した実績が、彼女の教育者としての能力を見事に証明しているはずだ。
年若いピアニストたちの短期間における見事な成長ぶりに、みんなが(小澤さんをも含めて)舌を巻いた。
この人を―日本が誇りとするべき傑出したジャズ・ピアニストを―アルバイト探しに走り回らせているような日本の音楽状況に対して、僕は不満と怒りを覚えないわけにはいかない。

「そんなのは間違っている!」僕は小澤征爾さんにならって、ここで立ち上がって大声で叫ばなくてはならない。
「でもたとえばビルの清掃なんて、一時期のソニー・ロリンズみたいで、ちょっとかっこいいじゃないですか」と彼女は笑って言う。
もちろん冗談だろうけど。

 うん、でも、そういえばそうかもな、と僕はふと思う。
少なくともソニー・ロリンズは数年間の隠遁のあとに、ジャズ界に力強く復帰したではないか。
大西さんも同じように……と僕はつい期待してしまうのだが。

【平蔵の独り言】
小澤征爾が大西順子と共演した『ラプソディー・イン・ブルー』
大西順子はこの「松本Gig」のおかげで仕事を失ったのだ。

【独り言】
引退を表明したら、大西順子に見えていなかった。財産が見えてきた。
村上春樹さん、小澤征爾さん 
小澤征爾が大西順子と共演した『ラプソディー・イン・ブルー』

(文化往来)大西順子が直接指導、ジャズのピアノラボ 2014/05/29
大西順子、〔ジャズフェスティバル「第14回東京JAZZ」〕
ジャズ・シーン復帰〔2015年9月7日〕
【大西順子】今年の「名古屋JAZZ」に登場!2015.08.07

自身が昭和49年後楽園球場の長嶋茂雄引退試合を観戦して
面接をスッポカして、職がなくなった時
“遊んでいるのか”と助けくれた元上司
昭和55年伴侶のいる地に移り住んだ際
“遊んでいるのなら手伝ってくれ”と声をかけてくれた元同僚

気が付けば、助けられている人生ですね・・・・・・

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【プロの誇り守り引退】2012/11/26
日本のジャズシーンをけん引してきたピアニスト大西順子が、突然引退を表明した。
演奏家として円熟期にあっただけに、なぜ!という戸惑いと惜しむ声が広がる。
ツアー最後のライブを終えた大西に、引退の理由とその背景を聞いた。
11月8日、最後のライブは神奈川県厚木市の小さなライブハウスで開かれた。
会場いっぱいに集まった観客。
大西と親交のある指揮者小澤征爾や作家村上春樹の姿も。

突然すくっと立ち上がって「おれは反対だ!」
【小澤征爾×大西順子 夢の共演】2013/09/18
【なぜ “ラプソディー・イン・ブルー”を大西さんとやるか、について〔小澤征爾〕】
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① (ピアニスト「大西順子」日本のジャズ界けん引)
何度か、春樹さんに誘われて大西順子さんのライブを聴きに行きました。
今回は急なことでしたが、春樹さんから大西順子さんが引退をするらしくその最後のライブが厚木のライブハウスであるんだと聞いて驚き、娘の征良と連れ立って聴きに行きました。
 大西さんトリオの素晴らしいライブで、これが最後だなんてたいへん残念である、かつ、もったいないなぁと思いながら聴いていました。
アンコールを弾き終わった後で、
彼女がマイクをもって、残念だけれどこれが最後です、みたいなことを話し始めたんで、
僕は聴いている人たちみんなもそう思うだろうと思ったから、それには「反対∼!」と思わず叫んでしまいました。

【大西順子さん「世界のオザワ」に挑んだ夏】 2013/09/18
【信じられない展開〔村上春樹〕】
〔マエストロの「引退反対!」宣言〕
〔挑戦する姿を若手に見せたい〕
〔カムバックを期待する声も〕

【信じられない展開〔村上春樹〕】
彼女が演奏活動から引退を表明したときはがっかりしないわけにはいきませんでした。
そして「彼女の最後のライブが厚木の小さなジャズクラブであるんですよ」という話をしたとき、
「じゃあ、おれも行く」ということになりました。
そして大西さんが最後に感無量のおももちで「残念ながら、今夜をもって引退します」と聴衆の前でしみじみ話しているときに、
突然すくっと立ち上がって「おれは反対だ!」と叫ぶという異例の事態、
というかハップニングになったわけです。
僕も隣で本当にびっくりして、言葉もありませんでした。
でも思わずそう叫びたくなる小澤さんの気持ちは、痛いほどよくわかります。
それくらい素晴らしい演奏だったのです。

そのあとで、打ち上げの会に呼ばれて行ったときに、僕は彼女に、今ここでピアノを止めちゃうなんていうのはまったくもったいない話で絶対続けるべきだ、と話しました。
そして、春樹さんといっしょに「サイトウ・キネン・オーケストラと一緒にガーシュウィンのラプソディー・イン・ブルーもやらないか」と、突飛な提案もしました。
 最初、彼女はびっくりして目を丸くして聞いていたけれども、NOという答えじゃなくて「これからかんがえよう」と、僕からすると、日本語で言えば前向きな答えをもらったつもりでした。
 村上さんからも説得してもらって、今年9月6日に松本でのフェスティバル千秋楽の公演として、彼女にラプソディー・イン・ブルーを弾いてもらうことになったわけです。
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毎年夏に開催されるクラシックとオペラの国際音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で、ことしはクライマックスにちょっと異色のプログラムが組まれました。
ドラムスとウッドベース、ピアノのジャズトリオが、小澤征爾さん指揮するオーケストラと「ラプソディー・イン・ブルー」を共演したのです。
力強いピアノを披露したのは人気ジャズピアニストの大西順子さん。
去年、演奏活動から引退を表明した大西さんが「世界のオザワ」と組んでクラシックの祭典にサプライズ出演をした理由には、同じく世界的に活躍している、ある作家の存在がありました。
〔マエストロの「引退反対!」宣言〕
大西順子さん(46)は22歳のときにアメリカでプロデビューし、力強いタッチとスウィング感あふれる演奏で人気を集め、数々の大物ミュージシャンと共演してきましたが、「自分にできることはやり尽くした」として去年、引退を表明しました。
しかし去年11月に開かれた最後のライブでハプニングが起きました。
「ツアー最終日にマエストロ(小澤征爾さん)に来ていただきまして。
自分としては最後になる演奏のMC(あいさつ)をしている途中で、突然(小澤さんが)スクッと立ち上がって『引退反対!』って・・」(大西順子さん)

小澤さんを連れてきたのが、作家の村上春樹さんでした。
大西さんの長年のファンである村上さんが知人の小澤さんを誘い、そのライブのあとの出来事が、今回の出演につながったということです。
「ライブのあと、打ち上げみたいなものがありまして、そのときに村上春樹さんもいらっしゃって。
春樹さんは私とマエストロが一緒にいるところを見て、『2人でラプソディー・イン・ブルーなんてやってるのを聴けたら最高だな』って。
そういう話というのはその場のノリで終わってしまうことが多いんですけれど、もう次の日から電話がかかってきて、ずっとしゃべり続けで、気がついたら私が『はい』って言ってる、みたいな」(大西さん)

〔挑戦する姿を若手に見せたい〕
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今回あえてステージに上がることにしたのは、巨匠・小澤征爾さんに挑む姿を見せることも、若手のためになると考えたからでした。
「昔のジャズのレジェンド(伝説的名手)たちと同じステージに上がって、怒られながらも自分が何か学んでいくっていう手応えというのは、経験としては本当にすばらしいものだったので。もしあのときと同じようなことが起こるのであればそれは願ってもない、というのはどこかにありましたよね」(大西さん)

〔カムバックを期待する声も〕
本番当日、楽しみにしていることは「終わったあとの一杯」と語った大西さん。


【小澤征爾×大西順子 夢の共演】2013.9.11 16:30(SANKEI EXPRESS)
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「ラプソディー・イン・ブルー」を演奏するジャズピアニストの大西順子さんと指揮をする小澤征爾さん(手前右)=9月6日夜、長野県松本市(提供写真)

 音楽家の小澤征爾さん(78)が指揮するサイトウ・キネン・オーケストラとジャズピアニストの大西順子さん(46)率いるピアノトリオが、長野県松本市で開催されていた音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)松本」で初めて共演した。
 曲は、米国の作曲家、ジョージ・ガーシュイン(1898~1937年)がジャズピアノのテイストを取り入れて作った名曲「ラプソディー・イン・ブルー」。
小澤さんは大西さんを振り向きながら、息を合わせて指揮。
体をスイングさせたり、足踏みをしたりしながら30分近くを振り切り、
病気療養からの本格復帰を印象づけた。

演奏後、約2000人の観客からは大歓声があがり、会場からは長い間、拍手がやまなかった。

 この共演は、作家の村上春樹さん(64)が昨年秋、引退を表明していた大西さんの最終ライブに小澤さんを誘ったことがきっかけで実現した。

ライブ終了後、大西さんと会った小澤さんが「ここでピアノをやめちゃうというのはまったくもったいない。
絶対続けるべきだ」と話し、村上さんも大西さんを説得して共演が決まったという。村上さんは「本当に夢のような展開」とコメントしている。

 夢の共演となったコンサートには村上さんも姿を見せ、
演奏が終わると立ち上がって大きな拍手を送っていた。

【平蔵の独り言】
2012/11 目に留まった 「大西順子さん 引退」を
 【独り言】今頃何故?
村上春樹さん、小澤征爾さん の力で「大西順子さん」が甦っていた。

【小澤征爾×大西順子 夢の共演】2013/09/18
【なぜ “ラプソディー・イン・ブルー”を大西さんとやるか、について】
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by asanogawa-garou | 2016-04-13 16:28 | 今 今日この頃 | Comments(0)

〔高橋幸枝(99歳)現役女医〕(一歩を踏み出す勇気)「第一歩は怖い 踏み出せるかどうかが分かれ目」   

2016年 02月 23日
〔高橋幸枝(99歳)現役女医〕(一歩を踏み出す勇気)「第一歩は怖い 踏み出せるかどうかが分かれ目」  やればできる。
98歳現役医師の“元気に長生き”の秘訣
団塊スタイル/「自分再発見!輝く女性たち」NHK 11月13日(金)20:00

98歳現役女医 髙橋幸枝先生 ~健康長寿のカギは、いつまでも衰えないチャレンジ精神~
テレビ東京 「主治医が見つかる診療所」2015年3月2日放送


〔高橋幸枝(99歳)現役女医〕(一歩を踏み出す勇気)「第一歩は怖い 踏み出せるかどうかが分かれ目」  やればできる。できなければ、どうすればできるか を考えればいい

〔92歳の時、大腿骨を骨折、寝たきりにならないようにリハビリに励んだ。〕
(92歳で大腿骨を骨折したにもかかわらず、寝たきりにならなかったのはどうしても家に帰りたいという執念がそうさせたと仰っています。)
(勇気を奮って踏み出した第一歩、すると嘘のように後は上がることができた。
勇気をもって最初の一歩を踏み出した)

〔(生涯発達)心の面も精神の面も〕死ぬまで、何らかの形で発達(成長)し続けることができる。

〔じゃあ一番苦手な絵に挑戦しよう〕
80歳になった頃、仕事一筋だった人生をふりかえり、
何か趣味を持とうと考えました。

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〔92歳の時、大腿骨を骨折、寝たきりにならないようにリハビリに励んだ。〕(92歳で大腿骨を骨折したにもかかわらず、寝たきりにならなかったのはどうしても家に帰りたいという執念がそうさせたと仰っています。)

〔92歳の時、大腿骨を骨折してしまったのです〕
大腿骨を金属で固定する手術をうけることにしましたが、
年齢を考えると、そのまま寝たきりになることも
しかし懸命にリハビリに励み、
(早く治さなくてはならない、家に帰ってこなくては話にならない)
リハビリの甲斐があって1か月後に退院。
自宅に戻る日がやってきました。

〔精神科医の自宅は3階〕
帰って来て3階の自宅の階段の第一歩を上がる時に震えるぐらい大変だった。
うんと考えてやっと上がって「上がれた!」と思ったの
(勇気を奮って踏み出した第一歩、すると嘘のように後は上がることができた。
勇気をもって最初の一歩を踏み出した)

「第一歩は怖い、踏み出せるかどうかが分かれ目、やってみる、やればできる。できなければ、どうすれぱできるかをまた考えればいい。」


〔(生涯発達)心の面も精神の面も〕死ぬまで、何らかの形で発達(成長)し続けることができる。

“踏み出さねば”生き残れない!


高橋幸枝さんは、神奈川県秦野市にある秦野(はたの)病院の理事をされていて
現在98歳の現役のお医者(精神科)、週に1回をされています。
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②「眠れないときが よくあるけれど」
まあ!あまり眠ろう眠ろうとすると 眠れないのよね
どうでもいいと開き直るくらいだと
知らない間に寝ちゃっているから


〔(生涯発達)心の面も精神の面も〕死ぬまで一生涯、何らかの形で発達(成長)し続けることができる。

“踏み出さねば”生き残れない!

私はね、死と手をつないでいるのよ。
あまり仲は良くないけど。

いつどうなるか分からないけど。
そろそろ辞めたいと思っているんだけれど
100歳になっちゃうもの、一世紀だもの

自宅は3階にあります。
自宅の階段はハード、階段は51段「けっこう3階ってあるのよね!」
もう30年以上この階段を使って自宅と病院を往復しています。
年寄りだからと甘えることなく、料理はもちろん自分でできることはやる。
それが高橋さんのもっとうです。

〔じゃあ一番苦手な絵に挑戦しよう〕
80歳になった頃、仕事一筋だった人生をふりかえり、
何か趣味を持とうと考えました。
そして始めたのが“水彩画”でした。
自分では全然描いたことのない、じゃあ一番苦手な絵に挑戦しよう!
「通信教育にこっそり出して(なんで、こっそりと)だってみっともないじゃないですか」
60の手習いならいいけれど、80の手習いじゃ


【平蔵の独り言】
(一歩を踏み出す勇気)「第一歩は怖い 踏み出せるかどうかが分かれ目」
勇気を奮って踏み出した第一歩、すると嘘のように後は上がることができた。

【独り言】
この26日で20年になる。
車いすから平行棒で歩く時、「歩けません。歩き方が分かりません」
→“何でもいいから、歩け!”
(第一歩は覚えていないが、このやり取りの後歩けた!)

この後、“杖を準備して下さい”
暫く杖を使った歩行練習をしていると
“杖を使うな”→「先生、この前杖を買いなさい!」

“杖を使わないで退院させるから”→今、杖を玄関の飾りになっている。

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98歳現役女医 髙橋幸枝先生 ~健康長寿のカギは、いつまでも衰えないチャレンジ精神~

80歳を超えても現役で活躍する名医に学ぶ健康法 第2弾
テレビ東京 「主治医が見つかる診療所」2015年3月2日放送


昨今話題のキーワード「健康寿命」。
これは日常生活を、介護などを必要とせず自立して生活できる期間の事。
これからは、いかに健康寿命を延ばしていくかが、健康長寿でいる為のポイント。
そして、健康で長生きするには、
「認知症にならず、生涯自分の足で歩く」ことが重要。

今回は、80歳を超えてもなお、現役で活躍する名医から、今からすぐにマネできる、
認知症にならず、生涯、自分の足で歩く為の
「健康寿命」獲得のヒントになる健康法をご紹介!

98歳現役女医 髙橋幸枝先生 ~健康長寿のカギは、いつまでも衰えないチャレンジ精神~
◎秦野病院 理事長 髙橋幸枝先生 98歳

<98歳現役女医 髙橋先生に密着>
午前中の診察が終了し、昼食のため自宅へ向かう高橋先生。
すると、51段の階段が…。
エレベーター無しで、自宅のある3階まで上っていく。
98歳とは思えない健脚ぶり。
普段の食事は基本的に自炊。

<髙橋医師 昼食>
里芋の煮付け、サワラの西京焼、大根の味噌漬け、豆の甘露煮、根菜の煮物、小盛のご飯

《髙橋流健康法》
毎食、必ず肉や魚など、タンパク質を摂る。
筋肉を維持するためにも重要な事。
昼食の後、80歳の時から始めた、趣味の水彩画を。
また、90歳の時からは、数字のパズルを始めた。
認知症予防で頭の体操として始めたが、今ではこれを行うと頭が休まるという。

そして最新チャレンジといえば…、98歳でカップ焼きそばデビュー!
「まだ毎日学ぶことがある。年寄りでも甘えちゃいけない。出来る事はする」と語る髙橋先生。

◆98歳現役医師、髙橋幸枝先生の健康長寿の秘訣は、「いつまでも衰えないチャレンジ精神」にあった。

≪番組主治医が選ぶ、髙橋先生の健康法でマネしたいポイント≫
【丁医師】即席焼きそばへのチャレンジ
新しいことへチャレンジする事は、幾つになっても必要。
【森医師】肉<魚 タンパク質を必ず摂る
タンパク質をよく摂っていて非常に元気。
同じ摂るなら、肉よりは魚を多めに摂るのが良い。
【南雲医師】年をとっても心まで年とらない
実年齢の事をつい考えがちだけど、精神年齢だけは若々しくいるべき。


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③自分の足で歩く為の健康法
【平蔵の独り言】
「健康寿命」のために一日の一週間、一月、一年の健康維持、病気との付き合い
が、増えて行っているが、“健康”ならば社会活動にみんなが付き合ってくれている。
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by asanogawa-garou | 2016-02-23 15:55 | 人生の質・人生の息吹 | Comments(0)