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向田邦子「眠る盃」〔中野のライオン〕〔新宿のライオン〕   

2018年 01月 07日
向田邦子「眠る盃」〔中野のライオン〕〔新宿のライオン〕

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【中野のライオン】
今の住まいは青山だが、二十代は杉並に住んでいた。
日本橋にある出版社に勤め、通勤は中央線を利用していたのだが、
夏の夕方の窓から不思議なものを見た。

場所は、中野駅から高円寺寄りの下り電車の右側である。

その日は、どうした加減か人並みの時間に吉祥寺行きの電車に乗っていた。
当時のラッシュ・アワーは、クーラーなど無かったから車内は蒸し風呂であった。
吊皮にブラ下り、大きく開け放った窓から夕暮の景色を眺めていた。

私が見たのは、一頭のライオンであった。
お粗末な木造アパートの、これも大きく開け放した窓の手すりのところに、一人の男が坐っている。
三十歳位のやせた貧相な男で、何度も乱暴に水をくぐらせたらしいダランと伸びてしまったアンダー・シャツ一枚で、ぼんやり外を見ていた。

その隣りにライオンがいる。
たてがみの立派な、かなり大きい雄のライオンで、男とならんで、外を見ていた。
すべてはまたたく間の出来ごとに見えたが、この瞬間の自分とまわりを正確に描くことはすこぶるむつかしい。

私は、びっくりして息が詰まったようになった。
当然のように、まわりの、少なくとも私とならんで、吊皮にブラ下がり、外を見ていた乗客が、
「あ、ライオンがいる」
と騒ぎ出すに違いないと思ったが、誰も何ともいわないのである。
両隣りのサラリーマンは、半分茹で上ったような顔で、
口を利くのも大儀といった風で揺られている。

その顔を見ると、
「いま、ライオンがいましたね」とは言えなかった。
私は、ねぼけていたのだろうか。
幻を見たのであろうか。
そんなことは、絶対にない。
あれは、たしかにライオンであった。
縫いぐるみ、といわれそうだが、それは、現在の感覚である。
二十何年前には、いまほど精巧な縫いぐるみはなかった。
この時も私は少しぼんやりしてしまい、駅前の古びた喫茶店でコーヒーを二はい飲んでから、うちに帰った。

〔早口の東京弁で、おしゃべりで、おまけに気が弱いものだから、少しでも他人さまによく思われたい一心で、時々はなしを面白くしてしゃべる癖がある〕

「中野にライオンがいるわよ」
「中央線の窓からライオンを見たのよ」
私ではいつもの嘘ばなしか、暑気当りと片づけられるのがオチである。


そのあとも、私は、中央線に乗り、例の場所が近づくと、身を乗り出すようにして外をのぞいたが、同じような窓が並んでいるだけで、アンダー・シャツの男もライオンの姿も見えず、その後中野方面でライオンが逃げたというニュースも聞いていない。

ーーーしかしーーー
いまだに、あれはほんもののライオンとしか思えないのである。
人にしゃべると、まるで嘘みたい、と言われそうな光景が、現に起っている。
それを五十人だか百人だかの人間が見ているのに、その中にいて、見なかった人間が、一人はいたのである。
ここまで来たら、もうどっちでもいいや、という気持もある。
記憶の証人は所詮自分ひとりである。
そう思って居直りながら、気持ちのどこかで待っているものがある。

実は、二十年ほど前に、中野のアパートでライオンを飼っていました、という人があらわれないかな、という夢である。
つい最近も中央線の同じ場所を通り、同じように窓の外に身を乗り出して眺めて来たばかりである。
(別冊小説新潮/1979春季号)

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【新宿のライオン】
うちの電話はベルを鳴らす前に肩で息をする。

〔「実は、中野でライオンを飼ってた者なんですが」〕

その電話が掛かったのは夕方であった。
中年と思われる男の声が、もう一度私の名前をたしかめ、
ひと呼吸あってからこう言った。
「実は、中野でライオンを飼ってた者なんですが」
咄嗟に私が何と答えたのか覚えがない。
いたずら電話でないか確かめかけ、相手の声の調子で、
これは本物に間違いないとすぐ判り、
それでもまだ半分は信じられなくて、
「本当ですか。本当にライオンは居たんですか」
と繰り返した。

相手は、物静かなたちの人らしく、はにかみを含んだ訥弁で、
「あなたの書かれたものを読み、当時を思い出して懐かしくなり失礼かと思ったが電話した。ライオンは確かに自分が飼っていた」と言い、
岡部という者ですとつけ加えられた。

この電話のあった5日ほど前に店頭に出た別冊小説新潮(1979年春季号)に私は「中野のライオン」と題する小文を書いている。
二十年ほど前の夏の夕方、中央線の窓から不思議なものを見たーーー。

『私が見たのは、一頭のライオンであった。
お粗末なアパートの、これも大きく開け放した窓の手すりのところに、一人の男が坐っている。
三十歳位のやせた貧相な男で、何度も乱暴に水をくぐらせたらしいダランと伸びてしまったアンダー・シャツ一枚で、ぼんやり外を見ていた。その隣りにライオンがいる。
たてがみの立派な、かなり大きい雄のライオンで、男とならんで、外を見ていた。』

私はびっくりして息が詰まったようになり、
まわりを見まわしたが、ならんで吊皮にブラ下がり、
外を見ていた乗客は誰ひとりとして騒がない。
半分茹で上がった顔で口を利くのも大儀といった風に揺られている両隣りのサラリーマンを見ると、
「いまライオンがいましたね」とは言い出せず、
ねぼけていたのか、幻を見たのか、
いや、あれはまさしくライオンだったと自問自答を繰り返しながら、
狐につままれたような気持ちになり、
駅前の古びた喫茶店でコーヒーを二はい飲んでうちへ帰ったのである。

ことがあれば面白おかしくしゃべり廻るところがあるのだが、
これだけは親兄弟にもしゃべらなかった。
中央線に乗って中野駅あたりを通過すると、
記憶の底から鎌首をもたげることもあったが、
それすら二十年の歳月のかなたに霞みかけていた。
たまたま文章にしたものの、
九十九パーセントは自信はないものだから、
五十人だか百人が見た交通事故現場からそんなものは見もしなかった、という風に全く気づかず立ち去った一人の婦人のことを書き、
百人見て一人見ないこともあるなら、一人が見て百人が見なかったことだってありえないことではないと屁理屈をこねた。

もうどっちでもいいやと居直りながら気持のどこかで待っているものがある。


〔中野にライオンはいたのである。〕

実は二十年ほど前に、中野のアパートでライオンを飼っていましたという人があらわれないかな、という夢である。
絶対に帰ってこない、くる筈のない息子を待つ「岸壁の母」の息子は、二十年ぶりに帰ってきた。
中野にライオンはいたのである。
私は受話器を握ったまま、こみ上げてくる笑いを押え切れず、
裂けた夕刊に顔を押しつけ声をたてて笑ってしまった。
悲しくもないのに涙がにじんでくる。
洟も出てくる。


岡部氏は、私の笑いの鎮まるのを待って、
ポツリポツリと話して下すった。
ライオンは、もともとは新宿御苑のそばで「八洲鶴」という酒の店をやっていた岡部氏の姉上が飼っておられた。
姉上がなくなったあと、岡部氏が引き継ぎ、
のちにライオンごと中野へ引越したのだが、
私が見た当時は百キロ近い体重があった。
一番おどろいたのは、ライオンが牝だったことである。
どこでどう取り違えたのか、私は記憶の中で、ライオンにたてがみを生やしてしまった。MGM映画の見過ぎかも知れない。
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二十年前に電車の窓から一瞬見えた、いや、見たと思いながら、
あれは幻だったのだと自分で打ち消していたライオンが本当にいた、
私は間違っていなかった。
大吉を知らせる電話は、
私に刀の柄に手を掛けるゆとりを与えず、
いきなり真っ向唐竹割りにしたのである。

牡だと思ったライオンは、牝であった。
見えなかったが、ライオンのまわりには鉄の格子があった。
電車の窓から見当をつけた場所も少し違っていた。
二階だと思ったのは一階であった。

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5月に入って、新宿で一夕ライオン青年とお目にかかる段取りが整った。

ライオン青年は二十年昔のライオンを語り、
牝ライオンは、名前を”ろん子”といった。
はじめは猫ほどの大きさだったがみるみる大きくなった。
「あいつは、ただの一度もほえなかった」
だから街なかで飼えたのでしょうと、かなしく笑われた。
せまい中で飼っていたので佝僂病になり、
多摩動物公園で預かってもらった。


それにしても、たのしくも不思議な一夜であった。

あと二十年か三十年したら、耄碌した私はこんなことを言うかも知れない。
「昔、新宿でライオンとお酒のんだことあったのよ」
(別冊小説新潮/1979・夏季号) 


【平蔵の独り言】
お客様は、2010/1/23にこの商品を注文しました。

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〔向田邦子〕「眠る盃」のあとがき

「荒城の月」の「めぐる盃かげさして」の一節を「眠る盃」と覚えてしまった少女時代の回想に、戦前のサラリーマン家庭の暮しの手触りをいきいきと甦らせる表題作をはじめ、片々とした日常から鮮やかな人生を截りとる珠玉の随筆集。
知的なユーモアと鋭い感性を内に包んだ温かな人柄が偲ばれるファン待望の書。・・・・・「眠る盃」(向田邦子)

一番おどろいたのは、ライオンが牝だったことである。
どこでどう取り違えたのか、私は記憶の中で、ライオンにたてがみを生やしてしまった。


【独り言】
「めぐる盃かげさして」の一節を「眠る盃」
牡だと思ったライオンは、牝であった。

市井の人の日常はそんなに変わったことが起こらない。
しかし、向田邦子の手に掛かると起きている。

2010年に読んでいたが8年経って、
週刊現代 それがどうした〔男たちの流儀〕伊集院静2017/12/9号
で蘇ったのだ!

向田邦子は20年前に見たライオンが1979年に蘇ったのだ!

【平蔵の独り言】
それにしても、たのしくも不思議な一夜であった。
あと二十年か三十年したら、耄碌した私はこんなことを言うかも知れない。
「昔、新宿でライオンとお酒のんだことあったのよ」

【独り言】
耄碌した向田邦子から“新宿のライオン”の話、
何ていうか聞きてみたい。
でも、聞くことは叶わない!


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by asanogawa-garou | 2018-01-07 17:14 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

【伊集院静】〔人生はこちらが考えているより、まだまだ楽しい〕中央線から見えたライオン   

2018年 01月 02日
【伊集院静】〔人生はこちらが考えているより、まだまだ楽しい〕中央線から見えたライオン
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〔人生はこちらが考えているより、まだまだ楽しい〕
それがどうした〔男たちの流儀〕中央線から見えたライオン【伊集院静】

〔大人になるとさして面白いことなどないのが人生であるから〕
〔人生はこちらが考えているより、まだまだ楽しい、面白いことであふれてるんじゃないか〕

〔人生は君たちが考えているより長いし、考えているより短い〕

自分の半生の大半が旅路の中にあったことは、この連載でも何度か書いた。
少年の頃から自転車でも、トラックの荷台でも、頬に風が当たり、流れる風景を見るとワクワクした。

それは今も同じで、電車でも飛行機でも、車窓に映る景色を眺めているだけでまたたくうちに時間が過ぎる。

待てよ、もしかして私はこれまでの半生でかなりの時間を風景を見続けていたのか?
そうだとしたら、恵まれた半生と言える。

〔人生はこちらが考えているより、まだまだ楽しい〕
通院している歯科医院が阿佐ヶ谷にあるので、時折、昼間の中央線に乗る。
その時、私はドアの側に立つ。
そこで沿線の家々や木々、空、雲などを眺める。
見ていて飽きないし、もうすぐ冬だナとかと、
オヤ、こんな時に祭りか、子供御輿しはあるのかと、
その日、その時間でしか遭遇しないものに目が引かれる。

〔中央線から見えたライオン〕
たしか作家の向田邦子さんだったと思うが、
中央線に乗っていて、
或る家の窓から”ライオン”がこっちを見ている姿が目に留まり、
自分の錯覚ではと思い、
その後も電車がそこを通る度に目を凝らして車窓を見ている文章があった。
まさかと思われようが、
結論としてそこに”ライオン”が暮らしていたのである。

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〔大人になるとさして面白いことなどないのが人生であるから〕
楽しい話である。何が楽しいか?
大人になるとさして面白いことなどないのが人生であるから、
その手のことにめぐり逢うのは、
どこか誰かからのプレゼントに思えてしまう。

〔人生はこちらが考えているより、まだまだ楽しい、面白いことであふれてるんじゃないか〕
そう思えるだけで、
現状の些細なことに悩んでいた自分がこまか過ぎるのではと思えて来る。
人生は考え方ひとつで違う風景になる。
ユーモアとはそういう力を持っている。

〔人生は君たちが考えているより長いし、考えているより短い〕
それがどうだ!
通院の折の車両に乗る人たちの7割近くがスマホを覗いている。
初めはたいした普及だと思ったが、すぐに思った。
ーーーこの風景は不気味じゃないか?
そう、不気味どころか、何かが間違っているし、
おかしい時間の過ごし方なのである。

おぞましい光景から目を離し、
私は午後の武蔵野の空を、雲を眺める。
あの雲はどこへ行くのだろうか。
どこかの窓辺で、どこかの散歩道で、
何ごとかをかかえた人たちが、イイ雲だナ、と仰ぎ見ている。

スマホが悪いとは言わぬ。
ライオンを見つけないとも勿論言わぬ。

しかし人生は君たちが考えているより長いし、考えているより短い。
短さは、君の周囲にかつていて、
若くしてこの世を去った人たちを思い出せばわかる。
人は決して順番でこの世を去ることはない。
人は寿命で生を終える。

週刊現代 それがどうした〔男たちの流儀〕伊集院静 2017/12/9号

【平蔵の独り言】
〔人生は君たちが考えているより長いし、考えているより短い〕
それがどうだ!
通院の折の車両に乗る人たちの7割近くがスマホを覗いている。
初めはたいした普及だと思ったが、すぐに思った。
ーーーこの風景は不気味じゃないか?
そう、不気味どころか、何かが間違っているし、
おかしい時間の過ごし方なのである。

〔中央線から見えたライオン〕
以前読んだ記憶があるので、向田邦子を検索したら〔眠る盃〕と出てきた。
本棚から〔眠る盃〕を出して、読み返してみた。

〔中野のライオン〕
今の住まいは青山だが、二十代は杉並に住んでいた。
日本橋にある出版社に勤め、通勤は中央線を利用していたのだが、
夏の夕方の窓から不思議なものを見た。

場所は、中野駅から高円寺寄りの下り電車の右側である。

その日は、どうした加減か人並みの時間に吉祥寺行きの電車に乗っていた。
当時のラッシュ・アワーは、クーラーなど無かったから車内は蒸し風呂であった。
吊皮にブラ下り、大きく開け放った窓から夕暮の景色を眺めていた。

私が見たのは、一頭のライオンであった。
お粗末な木造アパートの、これも大きく開け放した窓の手すりのところに、一人の男が坐っている。
三十歳位のやせた貧相な男で、何度も乱暴に水をくぐらせたらしいダランと伸びてしまったアンダー・シャツ一枚で、ぼんやり外を見ていた。
その隣りにライオンがいる。たてがみの立派な、かなり大きい雄のライオンで、男とならんで、外を見ていた。
すべてはまたたく間の出来ごとに見えたが、この瞬間の自分とまわりを正確に描くことはすこぶるむつかしい。

【独り言】”中野のライオン”は木造のアパートにいたのである!
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「荒城の月」の「めぐる盃かげさして」の一節を「眠る盃」と覚えてしまった少女時代の回想に片々とした日常から鮮やかな人生を截りとる珠玉の随筆集。

ガラ携の“一斉メール”で知らないでいいことが送られてきたり、
“フェイスブック(Facebook)”やりましょう!→「やりません!」
→“せっかく誘ってあげているのに、いつもそうなんだから”

若い頃から今でも興味のある記事、本、情報から得るもので
結構忙しい・・・・・・・・・

「眠る盃」を読み返してみたら、さすが“向田邦子”
2014/11/13(向田邦子)日常の些細な風景も、この人が描けばたちまち色鮮やかに生まれ変わった。

日常の些細な風景(出来事)がこんなに記憶に残るのか!

「中野のライオン」「新宿のライオン」をアップする!
(講談社文庫 と 向田邦子 に許してもらおう)


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by asanogawa-garou | 2018-01-02 16:04 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

<古稀>古稀の壁と扉(なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから)   

2017年 12月 12日

<古稀>古稀の壁と扉(なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから。)


〔古稀〕(人生七十年生きる人は古くから稀 (まれ)である)
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〔古稀を抗うか受け入れるか!〕

〔定年退職者が居場所と孤独に戸惑うのは日本も米国も同じ
60歳からの「黄金の15年」をどう生きるか〕

【〔定年後~60歳からの「黄金の15年」をどう生きるか〕】
〔米国の男性定年退職者も大変〕
〔無気力になって一人ぼっちで過ごす日々〕
〔自分で人とのつながりを築かなければならない〕

【最高の人生の見つけ方】「大切なものは自分の足元にあるのだ」
〔やりたいことをやり尽くしてみると・・・〕
〔覚悟ができていない日本の男性定年退職者〕

【寂聴さん曰く「男はつくづく純情だと思います」】
〔なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから〕

〔褒めちぎるのがいい〕
〔褒められてひとは元気になる〕

―――――――――――――――――――――――
〔古稀〕(人生七十年生きる人は古くから稀 (まれ)である)
「人生七十古来稀なり」・唐の詩人杜甫の詩・曲江(きょっこう)
(人生七十年生きる人は古くから稀(まれ)である)に由来している。
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唐の詩人杜甫

〔古稀を抗うか受け入れるか!〕→〔古稀〕の壁、扉

→「古稀を受け入れる」ことから、新たな人生(扉)が開く。
抗っていても、古稀の壁があるだけ。

(扉)を開けて、踏み出せば、(そこには踏み出すしかない)喜寿を信じて歩んで行く。
“ロードモデル”がない世代、自ら切り開いて行く。

〔定年退職者が居場所と孤独に戸惑うのは日本も米国も同じ
60歳からの「黄金の15年」をどう生きるか〕

DIAMONDOnline 2017.11.8
楠木 新[ビジネス書作家]
生命保険会社に勤務するかたわら、「働く意味」をテーマに執筆、講演などに取り組む。
12万部を超えるベストセラーになった『人事部は見ている。』(日経プレミアシリーズ)、『就職に勝つ!わが子を失敗させない「会社選び」』(ダイヤモンド社)など著書多数。近著に『定年後』(中公新書)がある。

【〔定年後~60歳からの「黄金の15年」をどう生きるか〕】
〔米国の男性定年退職者も大変〕
〔無気力になって一人ぼっちで過ごす日々〕
〔自分で人とのつながりを築かなければならない〕


【最高の人生の見つけ方】「大切なものは自分の足元にあるのだ」
〔やりたいことをやり尽くしてみると・・・〕

〔覚悟ができていない日本の男性定年退職者〕


「いつかは、その日が来る」。
それはだれもがわかっているが、近づかないとピンとこない。
いつまでも「この仕事」が続くかのように感じていても、それは、いずれ終わる。
60歳が定年だとすると、家族の扶養義務からも解放されて、かつ他人の介助も受けずに裁量をもって活動できる75歳位までは案外と長い。
それを「黄金の15年」にできるなら、人生の締めくくりとして素晴らしい。
では、その15年をどのように生きるか。
また、その時が来てから慌てないために、いつから、どんな備えをすればいいか。
書籍『定年後』(中公新書)の著者である楠木新氏が語る。

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③『定年後』

「定年後」の生活は、必ずしも事前に思い描いたようには運ばない。
試行錯誤をしながらも、最後に戻るところは、「誰かの役に立つこと」、「自らの家族のところに戻ること」。
2本の米国映画を題材に、あるべき定年後を考えてみよう。(ビジネス書作家 楠木 新)

〔米国の男性定年退職者も大変〕
 『アバウト・シュミット』(2002年制作)という米国映画をご存じだろうか。
名優ジャック・ニコルソンが演じる主人公シュミットが、保険会社の部長代理で定年退職日の終業を迎えるのがオープニングである。彼は60代半ばである。
 その夜、彼のハッピーリタイアメントを祝う会がレストランで盛大に行われる。
妻と一緒にメインの席に座り、昔からの友人や仕事の後任者からスピーチを受ける。
後任者は「いつでも会社に遊びに来てくれ」と言い、引き続き仕事の指導もお願いしたいと述べる。
 彼は妻と、今は離れて暮らす娘との三人家族で、仕事一筋だったまじめな男だ。
会社中心の生活リズムが染みついていたせいか退職後は手持ち無沙汰になる日々が続いた。
 家では部屋で横になってリモコンをパチパチしてチャンネルを変える姿がスクリーンに現れる。
これは日本でも米国でも変わらないようだ。
 退職後にシュミットが会社に立ち寄ると、「いつでも来てくれ」と言っていた後任者は忙しいからと嫌がる態度を見せる。
また自分が作成した引継ぎ書類がダンボール箱に入れられたまま放置されていることを知ってショックを受ける。

〔無気力になって一人ぼっちで過ごす日々〕
 退職して何もすることがなかったからか、彼はテレビコマーシャルでアフリカの子どもたちを援助するプログラムを知り、6歳の少年ンドゥグの養父になって彼に手紙を書くようになる。
 間もなくして妻が急死してしまう。
妻の手紙を整理していて彼女と親友が過去に不倫をしていたことを知り、親友に対して怒りをぶちまける。
その後、彼は家で一人ぼっちになって食事の片付けもせずに無気力な日々を過ごす。
 シュミット自身もこれではいけないと思い、
「人生は短い。無駄に過ごすわけにはいかない」
と自ら車を運転して旅に出る。
自分が生まれた土地や通った大学にも行ってみるが、
過去のいい思い出が蘇ることはなく、
逆に厳しい現実が次々とシュミットを襲う。

 さらに、一人娘の婚約相手の実家を訪ねてみると、
婚約者本人もその家族もどうみても彼にはまともにはみえない。
娘に結婚をやめるように諭すが全く耳を貸さない。
シュミットは結婚式で心にもないスピーチを終えると、
すぐにトイレにかけ込み、自らの怒りを鎮めるのがやっとだった。
 結婚式を終えて帰宅したシュミットは留守中に届いていたチャリティ団体からの手紙を見つける。
その中にンドゥグが描いた太陽の下で手をつなぐ人の絵があった。
それを見た彼は思わず涙を流してしまうのがラストシーンだ。
 この映画は、シュミットの日常の姿を淡々と描きながら、彼の戸惑いと孤独を見事に描いている。
ジャック・ニコルソンの演技力には舌を巻く。
日本ではここまでリアルに定年後を扱っている作品はないだろう。

〔自分で人とのつながりを築かなければならない〕
 最後の場面は感動的ではあるが、一人になったシュミットに対して新たな助け船は出ない。
自分自身で人とのつながりを築いていかなければならないことを暗示しており、後味にも厳しさが残る作品になっている。
 私は10年以上前にこの映画を見ていたが、自身が定年退職したうえで改めて鑑賞すると、すべての場面でシュミットと自分を置き換えてみることができた。

【最高の人生の見つけ方】「大切なものは自分の足元にあるのだ」
「最高の人生の見つけ方」
 面白いことに、偶然であろうが、名優ジャック・ニコルソンは別の映画で定年後に対処すべきヒントを示している。
 映画『最高の人生の見つけ方』(2007年制作)は、大金持ちの実業家(ジャック・ニコルソン)と、勤勉実直に生きてきた自動車修理工(モーガン・フリーマン)が、入院先の病院で知り合い、ともに余命6ヵ月であると宣告されるストーリーで、病室で意気投合した二人は、残された時間でやりたいことをすべてやりつくすために病院を脱出する。


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④ジャック・ニコルソン

〔やりたいことをやり尽くしてみると・・・〕

 二人は「やりたいことリスト(棺桶リスト)」を作成し、実にさまざまなことに挑戦する。
専用ジェット機をチャーターして、インドのタージマハル、エジプトのピラミッド、ヒマラヤ山脈などの世界旅行を楽しみ、高級料理を食べ歩き、レーシングカーで競争したり、スカイダイビングで空を舞ったりもする。
その中で二人は互いにかけがえのない友情を育む。
 ややもすると、陳腐な内容になりかねないストーリーであるが、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンという二人の名優のやり取りがリアリティーを出している。
 そして「やりたいことリスト」をやりつくした二人が地元に帰ってくると、実業家は今までうまくいっていなかった娘の自宅を訪問して、ぎこちないながらも孫とも時間を過ごす。
また「社会のために」と資産の寄付を申し出る。
家族思いだった自動車修理工は、以前と同様に温かい家族の元に戻る。
「大切なものは自分の足元にあるのだ」
 残りの人生をとにかく好きなことをやり尽くそうと世界中を巡り、いろいろ行動した2人であったが、最後に戻るところは、「誰かの役に立つこと」、「自らの家族のところに戻ること」だと示していた。
「大切なものは自分の足元にあるのだ」とこの映画は主張しているように私には思えたのである。
米国の定年後も、日本の定年後も「想定通りにはいかない」
 この二編の映画を見ていると、自立して個人で生きていくスタンスが強い米国の老人の方が、より大きな孤独に耐えなければならないのではないかと感じた。

〔覚悟ができていない日本の男性定年退職者〕
 一方で、妻や家族を頼りにしていて一人で生きていく覚悟ができていない日本の男性定年退職者は少なくない。
そして彼らは自分が介護や援助をしてもらうことを前提に考えている。
しかし必ずしもそうなるとは限らない。
 例えば、ある地域では親や配偶者の介護をしている人たちの定期的な会合があって、互いに有効な情報を交換したり、普段の苦しい思いを共有することによって精神的な負担の軽減を図っているそうだ。
その会合の世話役を担っている女性によると、参加者の3分の1は中高年の男性だそうだ。
配偶者との間に年齢差があっても、亡くなったり、病に倒れる順番は決まっているわけではない。
 定年退職者の男性が一人で親の面倒を見ている例や、定年を目前にして妻が若年性認知症を患い、片時も目を離せない状況になって介護に努めている男性の話を聞く機会があった。
「50歳の頃は、定年後は海外旅行にでも行こうと二人で話し合っていたのに、想定していなかった事態に陥った」と語っていた。
私のみならず話を聞いていた男性はみな、身につまされる思いだった。
 会合の世話役の女性に対して、「中高年の男性は、定年後を見据えてどう対応すればよいと思われますか?」と私が聞くと、「会社の仕事だけでなく地域の人ともつながりを持ち、最低限の家事ができること、普段から家族とのコミュニケーションをきちんと取っておくこと」という回答が返ってきた。
 米国でも日本でも、定年後に向けて準備することにはそれほど変わりはないようだ。
(ビジネス書作家 楠木 新)

【寂聴さん曰く「男はつくづく純情だと思います」】
〔なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから〕

〔褒めちぎるのがいい〕
〔褒められてひとは元気になる〕


寂聴さん曰く「男はつくづく純情だと思います」
『95歳まで生きるのは幸せですか?』瀬戸内寂聴さんに聞く
日経ビジネス編集部 2017年11月16日(木)
彼女の元には、いまも多くの迷える男女が法話を聞きに訪れます。
ところが、問題は「男のほう」でした。

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⑤迷える「男のほう」
 新刊『95歳まで生きるのは幸せですか?』では、ジャーナリストの池上彰さんと対談されました。
〔なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから〕
なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから。
そしていったん、うつになっちゃうとそこから逃げ出すのはとっても大変です。
 私も出家する直前、40代のころにうつになったことがあるんです。
そのとき診てくださったのが、古沢平作さんという日本の精神分析の権威の先生でした。
古沢先生はなんと戦前のウィーンであのフロイトに直接習った、フロイトのお弟子さんなんです。
古沢先生の、私は最後の患者さん。
その古沢先生のやり方がとってもユニークでした。
とにかく褒めるの、患者の私のことを。
うつになるってことは、自信を失っている。

〔褒めちぎるのがいい〕
だからひたすら一生懸命褒めてあげる。
ああ、あなたは着物の趣味がいいなあ。性格がいいなあ。
古沢先生は、徹底的に私のことを褒めてくださいました。
そうしたらね、治ったの、私のうつ。
褒められてひとは元気になる
褒めちぎるのがいい、と。
歯が浮くような台詞を並べて褒めても大丈夫。
そのくらい盛大に褒めるのが、うつには一番効くんです。
古沢先生に教わった「うつの人は褒めてあげよう」は、その後の私の人生の指針のひとつになりました。
いま、私のところには、法話を聞きにたくさんの人々が訪れます。
法話を聞きたい人には、人生がつらいって人がとても多い。
だから、私はそんな人たちのことを徹底的に褒めます。
お話をうかがって、とにかく褒めてあげる。
するとね、ちゃんと治るのよ。
いままで何人のうつを治したか数えきれないほどです。
どうやって褒めるんですか?
うつ状態のひとはとにかく自信を失っています。
その自信を取り戻すのが目的ですから、褒める内容はなんでもいいんです。あなたはとってもチャーミングよ、今日の洋服の色はとっても素敵だわ、いい声しているわよね。ほんとうにたわいもないことでいいから、そのひと自身の個性を褒めてあげる。
会うたびに褒めてあげる。
すると何度か顔を合わせるうちに、だんだん元気を取り戻してくるんです。
 「日経ビジネスオンライン」の読者でもある、中年以上の男性も褒められると元気になるんでしょうか?


私の法話を聞きにいらっしゃる方たちの中にも、うつっぽくなった中高年の男性、多いですから。
 そもそも、人間、歳をとったら、だいたいうつ状態になりやすくなります。
なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから。
そしていったん、うつになっちゃうとそこから逃げ出すのはとっても大変です。
もう定年で職場を去らないといけない。
でも、そのあとの人生の希望や展望が見えない。
僕はどうすればいいんだろう。

〔褒められてひとは元気になる〕
 褒めちぎるのがいい、と。
 歯が浮くような台詞を並べて褒めても大丈夫。
そのくらい盛大に褒めるのが、うつには一番効くんです。
古沢先生に教わった「うつの人は褒めてあげよう」は、その後の私の人生の指針のひとつになりました。
 いま、私のところには、法話を聞きにたくさんの人々が訪れます。
法話を聞きたい人には、人生がつらいって人がとても多い。
だから、私はそんな人たちのことを徹底的に褒めます。
お話をうかがって、とにかく褒めてあげる。
するとね、ちゃんと治るのよ。
いままで何人のうつを治したか数えきれないほどです。
 どうやって褒めるんですか?
 うつ状態のひとはとにかく自信を失っています。
その自信を取り戻すのが目的ですから、褒める内容はなんでもいいんです。あなたはとってもチャーミングよ、今日の洋服の色はとっても素敵だわ、いい声しているわよね。
ほんとうにたわいもないことでいいから、そのひと自身の個性を褒めてあげる。会うたびに褒めてあげる。すると何度か顔を合わせるうちに、だんだん元気を取り戻してくるんです。

『95歳まで生きるのは幸せですか?』(PHP研究所)


【平蔵の独り言】
〔古稀〕(人生七十年生きる人は古くから稀 (まれ)である)

【独り言】
〔古稀〕の知ると、抗うことも受け入れることも
同じことだと思う。
抗うことを受け入れて「一日一日を過ごす」

【平蔵の独り言】
〔定年退職者が居場所と孤独に戸惑うのは日本も米国も同じ
60歳からの「黄金の15年」をどう生きるか〕
【最高の人生の見つけ方】「大切なものは自分の足元にあるのだ」

【独り言】
「黄金の15年」ということは、現在“古稀”で10年は過ぎた。
まだ、抗う日々の気持ち「そうか、居場所と孤独か!」
喜寿まで 7年、受け入れれば・・・・・

【平蔵の独り言】
【寂聴さん曰く「男はつくづく純情だと思います」】
〔なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから〕

【独り言】
 面白いこと、感激することが経験的になくなってくるのか
“純情”???



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by asanogawa-garou | 2017-12-12 16:27 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

【団塊絶壁!】ベビーブームに経済成長、画一教育ーーー。こうした“環境”の中で育ってきたのが、われら団塊世代の特徴である。   

2017年 10月 23日
【団塊絶壁!】ベビーブームに経済成長、画一教育ーーー。こうした“環境”の中で育ってきたのが、われら団塊世代の特徴である。

『週刊新潮』2017/4/13号 から始まった大江舜さん(ジャーナリスト)の「団塊絶壁!」(最終回)

「団塊の世代とは、800万人もの巨大な人口の塊です。」
『団塊の世代』昭和22,23,24年の第一次ベビーブーム期に生まれた世代を指す。


〔「団塊の世代」を設計製作したのは誰か?〕(堺屋太一)
「団塊の世代とは、官僚が創造した作品なのです」


〔官僚が団塊の世代に対して行ったことは5つ〕

1つ目が情報・産業中枢・芸能界・文化創造活動などの
    東京一極集中化
2つ目が流通の無言化。
3つ目が職場単属人間化
4つ目が人生の規格化
5つ目がウサギ小屋と欧米から揶揄された80平方㍍以下の小住宅多部屋主義。


〔こうした状況で育った「団塊の世代」〕

「こうした状況で育った団塊の世代を一言で表すなら『猛烈なエンジン』でしょうか。

〔団塊ジュニア世代以下の「欲ない、夢ない、やる気ない」という形〕


【断崖絶壁!】「おいらたち本当に恵まれていると思うよ。戦争に巻き込まれることもなく、貧乏からバブルまで経験した」(ビートたけし)

戦争に巻き込まれることもなく、貧乏からバブルまで経験した。
〔どうせ死ぬんだからおたおたするんじゃねえってことよ!〕
死ぬまでみんなで夢を見て、わいわいお祭り騒ぎ。
それが団塊絶壁世代らしい生き方というものさ。

――――――――――――――――――――――――
「団塊の世代とは、800万人もの巨大な人口の塊です。」

『団塊の世代』
<一九六〇年代の「若者の反乱」は、戦後直後に生まれた人口の膨らみが通り過ぎる嵐であった。
かってハイティーンと呼ばれ、ヤングといわれた、
この「団塊の世代」は、過去においてそうであったように、
将来においても数数の流行と需要を作り、過当競争と過剰施設とを残しつつ、年老いていくことであろう>

まさにその“予言”は当たった。
われら団塊、正も負もたくさんの「遺産」を残し、老いさらばえようとしている。
でも、まだ終わったわけじゃない。
せめて、あと10年あると思いたい。
お楽しみはむしろこれからなのだ。
よろしいか……そう願いたいではないか。
お楽しみと言うには、いささか気が引けるが、日本列島は千年ぶりの「大地動乱期」に入ったと警鐘を鳴らす学者がいる。
東京オリンピックなどに浮かれていても、かつて寺田寅彦が喝破したごとく、天災は忘れた頃にやってくる。


『団塊の世代』昭和22,23,24年の第一次ベビーブーム期に生まれた世代を指す。
作家・堺屋太一氏が1976年に小説『団塊の世代』を著して広まった造語。

共通の経験として、
①戦争とモノ不足を知らない、
②人生の最初から高度経済成長の中に育った、
③物心がついた頃にはテレビがあった、などが挙げられ、

「安全は至上の正義、暴力は絶対の悪と信じる」
「経済成長を当然と感じ、既存の体制と組織と習慣に全幅の信頼を置く」
「平等思想に染まっている」
などが共通の性格と捉えられている。

「団塊」とは鉱業の用語。
「堆積岩中に周囲と成分の異なる物質が丸みをもった塊となっている状態」を指す。

〔「団塊の世代」を設計製作したのは誰か?〕(堺屋太一)

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①堺屋太一●1935年、大阪府生まれ。東京大学経済学部卒業とともに通産省入省。
日本万国博覧会を企画、実現する。78年通産省を退官、執筆・評論活動に入る。
98年、小渕内閣の経済企画庁長官に就任。現在、上海万博日本産業館総合プロデューサー、早稲田大学大学院ファイナンス研究科学督。『知価革命』『団塊の世代』『秀吉』など著書多数。


「団塊の世代とは、官僚が創造した作品なのです」
戦後は文民官僚によってベビーブーマーたちが「望ましき日本人」に育つよう設計図が引かれたということなのか。
「日本の戦後史をひもとくと、マッカーサーによる占領時代、その後の吉田茂内閣から佐藤栄作内閣までは政治主導だったが、田中角栄の時代になると、官僚丸投げとなります」

〔官僚が団塊の世代に対して行ったことは5つ〕
1つ目が情報・産業中枢・芸能界・文化創造活動などの東京一極集中化
2つ目が流通の無言化。
3つ目が職場単属人間化
4つ目が人生の規格化
5つ目がウサギ小屋と欧米から揶揄された80平方㍍以下の小住宅多部屋主義。


ご自身も『日本列島改造論』の執筆者の一人だった堺屋氏は、戦後、官僚が団塊の世代に対して行ったことは5つあるという。

「1つ目が情報・産業中枢・芸能界・文化創造活動などの東京一極集中化です。
これは田中内閣が“新潟の人間だって、俺のように東京に来て成功できるようにしてやれ”と進めた施策。
だからこそ新幹線はすべて東京から伸びている。
これが首都圏への過度の人口集中を招き、地方との成長格差を助長した。
現在地方都市にみられるシャッター通りはその象徴です。


2つ目が流通の無言化。
かつては雑貨屋の前で店主と奥さんたちが話したりしたものですが、それだと生産性が落ちるので、スーパー、コンビニ、自動販売機など『無言の流通』が拡がった。
このため買い物は『楽しみ』から『仕事』になってしまった。

3つ目が職場単属人間化です。
親類や近所の人とも付き合わず、職場内の人間関係だけで生きる職場人間群の造出です」

都会に出て誰とも話さず、職場にこもって仕事する。
これじゃまるで出稼ぎロボットだ。

「4つ目が人生の規格化。
生まれてから死ぬまでの流れを官僚が決めてしまったのです。
“生まれたら早くから幼児教育を行い、小学校から大学まで浪人をせずストレートに進学し、卒業後はすぐに就職。
ニートになるのは不良だ。就職したら蓄財しろ、お金が溜まったら結婚し子供を作って、夫婦で子育てをしろ。
持ち家を早くローンで購入して、払い終わった頃には中高年。
年金を積んで子供に頼るな。
官僚に年金を払ってくれたら、頭のいい俺たちが上手に運用するからね、そして老後は老人だけで寂しく暮らせ”というものです。
こうした家庭にまで及んだ官僚主導の施策のため、結果として2世代、3世代で住む昔ながらの暮らし方は激減しました。
親と同居すると、嫁姑問題が起きて苦労するといったドラマを盛んに流して、老夫婦単独世帯化に拍車をかけました。
これは、現在の老老介護や孤独死問題につながっていきます。

5つ目がウサギ小屋と欧米から揶揄された80平方㍍以下の小住宅多部屋主義。
この頃の小住宅が空き家になって問題化しているのはご存じの通りです」

これらを、人生の規格化は文部省、小住宅多部屋主義は建設省、流通無言化は通産省……と、各省庁が分担。
さらに官僚制度は終身雇用・年功序列・正社員優遇だから、社会の方もそれに準じさせたというから開いた口が塞がらない。

〔こうした状況で育った「団塊の世代」〕
「こうした状況で育った団塊の世代を一言で表すなら『猛烈なエンジン』でしょうか。
ただしこのエンジンは後押しをするばかりで肝心の方向舵がありません。
操縦席に座るのは、私たち、ひとつ前の世代の官僚です。
大きな力の方向性は私たち官僚と、私たち世代の企業家が決めていたわけです」

それゆえ団塊の世代には、世代的特徴として、自主性・創造性が希薄だという。
「正確に言えば、もちろん、自主性・創造性はあるけれど、集団の中では、そういったものを発揮しない方が得なんです。
その証拠に800万人もいるのに、ユニクロの柳井(正)さんらを除けばこの世代はユニークな企業家を生み出していませんし、ノーベル賞の受賞者もいない」


えろうすんません。不甲斐ないなあ、団塊の世代。
「私が関わった1970年の大阪万博のとき、官僚のシナリオ通りに育った団塊の世代は、大学を出たばかり。
彼らは、消費者として、車やクーラーなど大量生産品を生み出し、経済のパイを大きくしてくれた。
そして会社で中堅社員になる頃、社内のポスト競争に勝ち抜くためにたちあげた過剰なプロジェクトこそバブルの遠因になったのではないか」


〔団塊ジュニア世代以下の「欲ない、夢ない、やる気ない」という形〕

その結果、しわ寄せはそういう親を見て育った、団塊ジュニア世代以下の「欲ない、夢ない、やる気ない」という形で出てきた。
「日本は、安全・安心・正確・清潔の4点では世界1位水準。
すべてに満足をしてしまい、生物として最も根源的な『子孫を増殖させたい』という欲望がなくなってしまった。
むしろ、地獄の風を吹かせて、活力と苛立ちのある競争社会を作った方がいいのかも」

何だ、結局われらは、官僚というお釈迦様の手の平で遊ばされていた孫悟空だったということか。
こう聞くと懸命に生きてきた70年弱が何だかむなしい感じになりませんかね。
猿ではなく、人間に戻るチャンスはまだあるのか。
これからの10年で挽回できるのか。


【断崖絶壁!】「おいらたち本当に恵まれていると思うよ。戦争に巻き込まれることもなく、貧乏からバブルまで経験した」(ビートたけし)

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②おそらく日本で最も知られた「団塊の世代」人、(ビートたけし)
ある意味、「団塊」の枠から外れた生き方をしてきた氏は、こんな風に“総括”する。
「おいらたち本当に恵まれていると思うよ。
戦争に巻き込まれることもなく、貧乏からバブルまで経験した。
なぜか70歳まで生きてしまった。
いまだに金も稼いだりしてホントに困ったもんだ。
バイク事故の後、今こうやって話しているのが夢で、本当は管に繋がれて植物人間で生きているかも。
どっちが夢だか現実だか」

〔どうせ死ぬんだからおたおたするんじゃねえってことよ!〕
死ぬまでみんなで夢を見て、わいわいお祭り騒ぎ。
それが団塊絶壁世代らしい生き方というものさ。

〔オイラは生かされてしまった〕あの人、あの言葉( ビートたけし) 〔ビートたけし〕オイラは生かされてしまった

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③8月2日深夜、原付バイクで走行中に転倒、頭を激しく損傷し入院していたビートたけしが、9月27日に退院会見を行った。
たけしは顔面の半分が麻痺状態という重い後遺症を残していた。
だが、普通であれば即死だったといわれるほどの大事故を生き延び、
約2ヶ月で話せるまでに回復したのは、本人も言うとおりまさに「奇跡」だった。
入院生活中、胸中をずっと占めていたこの思いから、
己の生き方について改めて考え直したというたけしは
「テレビだけじゃ残りの人生つまらない」と語り、
今後の活動に意欲をみせた。
現在の多方面での活躍ぶりは、言わずもがなである。


あの人、あの言葉週刊現代2017/10/14.21号

〔たけしとたけし軍団〕
収録の時にスタジオの床に釘が落ちていたと。

そこで普段は穏やかなたけしさんが
「こんな危ないところで、うちのもんにやらせられるか」と激怒した。

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【平蔵の独り言】
〔「団塊の世代」を設計製作したのは誰か?〕(堺屋太一)
〔官僚が団塊の世代に対して行ったことは5つ〕
1つ目が情報・産業中枢・芸能界・文化創造活動などの東京一極集中化
2つ目が流通の無言化。
3つ目が職場単属人間化
4つ目が人生の規格化
5つ目がウサギ小屋と欧米から揶揄された80平方㍍以下の小住宅多部屋主義。

【独り言】
官僚が設計製作したシナリオに従って、団塊の世代はイケイケどんどん
その結果が年金支給60歳から65歳そして年金では暮らせない社会

東京一極集中、スーパー・コンビニ、
仕事人間、不寛容社会、(ニュータウンとかっこよく蜂の巣(団地))

“うんうん”と納得!

団塊の世代は“痛い”
67%は働いている。

古希を前に、年金を貰い働いていることに“感謝”
42の厄の年にキツイ仕事で話していた言葉を思い出す。
「俺たち何か悪いことしたか!」
定年になったら、年金をもらって・・・・・

この友は60を前に年金も貰わずに旅立った!

【平蔵の独り言】
【断崖絶壁!】「おいらたち本当に恵まれていると思うよ。戦争に巻き込まれることもなく、貧乏からバブルまで経験した」(ビートたけし)
〔どうせ死ぬんだからおたおたするんじゃねえってことよ!〕
死ぬまでみんなで夢を見て、わいわいお祭り騒ぎ。
それが団塊絶壁世代らしい生き方というものさ。

【独り言】
団塊の世代は話をしていて分かる。
同じ匂いがしている。
気が付けば、いい時代を歩いてきたのか・・・・・


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by asanogawa-garou | 2017-10-23 14:58 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔人生〕“人生って”普通じゃダメなんですか!〔「人生設計」っていうけれど、「人生」って「設計」できるのだろうか?〕   

2017年 10月 05日
〔人生〕“人生って”普通じゃダメなんですか!〔「人生設計」っていうけれど、「人生」って「設計」できるのだろうか?〕

〔人生〕人生って“普通”じゃ、ダメなんですか?

〔「人生設計」っていうけれど、「人生」って「設計」できるのだろうか?〕

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〔理不尽が付きまとう人生〕

〔人生、いまが好きだ。そんな人生になればいいな!〕
そんな充足感は健康でなければ、味わえない。

心も身体も“時の移ろうんだから”合わせて、年齢に応じて変えていかないと!


〔「年のせい!」〕

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「年のせい!」という病気はない。「どう幸せ!」になるか病気に向き合う。

30代で悩んでいたようなことを80代でもやっぱり悩んでいるし
それはいくつになったって同じ

若そうにしても、60歳になれば60歳が、70歳になれば70歳〕

“誉められる”と嬉しいし力が湧くもんだ!
旅はまだ続く(人生まだまだ続く)

〔人生は働くことよ〕(1943年生まれ73歳)メルボルン女性

〔つるむな!〕
人生、欲しく欲しくでもうまく思い通りにいかない!

〔才能はないけど、努力ならできる〕


2017/9/25〔人生は山あり谷あり「それって普通じゃねえか」〕【ビートたけしの一言】

〔君は、いまある自分と、違う自分を想像できるか。〕
想像だけならたやすいが、真剣にそれを考えることができるか。
私は歳だから、もうそういうことはやめる。
「50歳過ぎたら開き直りだ」〔北方謙三1947年生〕


〔人生は山あり谷あり「それって普通じゃねえか」〕ビートたけしの一言
人生は山あり谷あり。良い時もあれば、つらい時もあるものです。


〔だいたい生きるってことが“たの苦しいこと”ですからね〕佐藤愛子
「本音を言えば、「本が売れて、何がめでたい」(笑)」


「生きているなんて辛いなんて思ったことはない。生きているからいろんなことができた(内海桂子(94歳))」

93歳!今なお現役 爆笑漫才師・内海桂子

大正、昭和、そして平成と生き抜く女性は、今もなお三味線と都々逸などを舞台で披露している。
その人は〝芸人〟内海桂子さん、93歳。

「人間、持って生まれた性分で、精一杯生きるより仕方ないんでしょ?精一杯生きる。誰もそれしかないんだな」(新撰組沖田総司)
人事を尽くして天命を待つ。

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【平蔵の独り言】
〔「人生設計」っていうけれど、「人生」って「設計」できるのだろうか?〕

【独り言】
時折思い描いて、歩いてきた道が「人生」だと思うから「設計」は・・・・・

【平蔵の独り言】
〔「年のせい!」〕

「年のせい!」という病気はない。「どう幸せ!」になるか病気に向き合う。

30代で悩んでいたようなことを80代でもやっぱり悩んでいるし
それはいくつになったって同じ

〔若そうにしても、60歳になれば60歳が、70歳になれば70歳〕
“誉められる”と嬉しいし力が湧くもんだ!

【独り言】
古希になって、「健康」と向き合い、悩んでいることは変わらない。
気が付けば、年齢は重ねてきたが、人間としての経験は積んできたのか!

これが「年のせい!」




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by asanogawa-garou | 2017-10-05 15:05 | 今 今日この頃 | Comments(0)

〔人生は山あり谷あり「それって普通じゃねえか」〕【ビートたけしの一言】   

2017年 09月 25日
〔人生は山あり谷あり「それって普通じゃねえか」〕【ビートたけしの一言】

〔北方謙三氏「50歳過ぎたら開き直りだ」〕

〔だいたい生きるってことが“たの苦しいこと”ですからね〕佐藤愛子

〔93歳!今なお現役 爆笑漫才師・内海桂子〕
「生きているなんて辛いなんて思ったことはない。生きているからいろんなことができた(内海桂子(94歳))」

―――――――――――――――――――――――――――――――――
【〔人生〕人生って“普通”じゃ、ダメなんですか?】

〔人生は山あり谷あり「それって普通じゃねえか」 → 苦しい時に読みたいビートたけしの一言〕
2017/2/5ビートたけし, 北野武

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①人生は山あり谷あり「それって普通じゃねえか」

人生は山あり谷あり。良い時もあれば、つらい時もあるものです。


〔「人生設計」っていうけれど、「人生」って「設計」できるのだろうか?〕

〔君は、いまある自分と、違う自分を想像できるか。〕想像だけならたやすいが、真剣にそれを考えることができるか。
私は歳だから、もうそういうことはやめる。〔北方謙三1947年生〕

北方謙三氏「50歳過ぎたら開き直りだ」

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②北方謙三氏「50歳過ぎたら開き直りだ」
遊びも決して手抜きをするな! 創刊記念インタビュー

 JAGZY創刊記念インタビューの第1弾として、小説家の北方謙三氏に人生充実の生き様について聞いた。
遊ぶために働き、働くために遊ぶ。
「俺にオン・オフはないのさ」と言い切る北方氏。船に乗り釣りをすることも、スポーツーカーで疾走することも、銀座で飲み歩くことも、すべて小説のネタになるから全力で遊ぶ。
「すべてが必要経費なんだよ」と言うが、税務署だけは認めてくれないという。
齢は“定年”過ぎの65歳。しかし、パワフルな生き方は、ますます磨きがかかっている。その秘訣とは。(写真=八木澤芳彦)


〔だいたい生きるってことが“たの苦しいこと”ですからね〕
佐藤愛子
「本音を言えば、「本が売れて、何がめでたい」(笑)」

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「生きているなんて辛いなんて思ったことはない。生きているからいろんなことができた(内海桂子(94歳))」span>

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93歳!今なお現役 爆笑漫才師・内海桂子

大正、昭和、そして平成と生き抜く女性は、今もなお三味線と都々逸などを舞台で披露している。
その人は〝芸人〟内海桂子さん、93歳。
終戦後の当時まだ〝女性漫才コンビ〟が珍しい時代に、内海桂子・好江でコンビを結成。28歳だった桂子さんはすでに2児の母だった。
一方、コンビを組むことになった好江さんは14歳。
倍ほどの年齢差があり、ひとたび舞台を降りれば2人はコンビではなく師弟関係。稽古を積み、テンポの良い"江戸っ子漫才"で、やがて人々を笑いの渦に引き込んでいく。
そして結成から30年後、漫才界では初となる「芸術選奨 文部大臣賞」を受賞。名実ともに、漫才界を代表するコンビとなった。
さらに、桂子さんは64歳の時に出会った24歳年下の男性と交際。
その13年後、周囲の反対を押し切り晴れて夫婦となる。
今ではその年下の夫がマネージャーに。
93歳の今も、24時間、夫と離れる時はない。
今回は、数々の困難を乗り越えてきた、内海桂子さんの波乱万丈の人生を紹介する。


【独り言】
〔人生〕人生って“普通”じゃ、ダメなんですか?

毎年、身近な人とのお別れ、行きつけの喫茶店が今月2店閉店
“いつか”とか“そのうち”とか口にしている日々に

“今”、“今日”生きている人生が“普通”なんですね・・・・・・・・・

人生って“普通”


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by asanogawa-garou | 2017-09-25 16:27 | 今 今日この頃 | Comments(0)

〔人生は取り越し苦労の連続か〕これまで思い悩んだことのうち、98%は取り越し苦労だった(マーク・トウェイン)   

2017年 09月 06日
〔人生は取り越し苦労の連続か〕これまで思い悩んだことのうち、98%は取り越し苦労だった(マーク・トウェイン)


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①「シガー ラベルの世界」〜葉巻の箱の小さな芸術〜
MARK TWAIN マーク・トウェイン
葉巻会社:Wolf Brothers Cigar Company (米国)
制作年 :1915年

『トム・ソーヤーの冒険』などの作者であるマーク・トウェインの死(1910年)を悼んで制作された。
•身長:174 cm
•書籍:ハックルベリー・フィンの冒険、もっと見る
マーク・トウェイン、本名サミュエル・ラングホーン・クレメンズは、
アメリカ合衆国の作家、小説家。ミズーリ州出身。


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②Mark Twain
マーク・トウェイン(1835年~1910年)
米国の小説家。「トム・ソーヤーの冒険」の著者。
「マーク・トウェイン」の由来、”by the mark, twain”は、水深約3.6mのことで、蒸気船が座礁せず通航できる限界の浅さ。

〔人生は取り越し苦労の連続か〕これまで思い悩んだことのうち、98%は取り越し苦労だった(マーク・トウェイン)

思ったようにいかないこともある。トラブルに見舞われることもある。
周囲の人に誤解されることもある。
一生懸命やっていることをきちんと評価してもらえないと感じるかもしれない。

身近なグループから疎外されていると感じることもある。
順風ばかりが吹くわけではなく、いつまで続くか分からない逆風にさらされることもあるのだ。
身近に支え合う仲間がいれば耐えられるのに、
つらいときに限って、誰にも相談できず、
たった一人で立ち向かわなくてはならない状況だったりもする。

いったいどうしたらいいのだろう。このままでは失敗してしまう。
つらくて耐えられない。逃げ出したい。
自分が至らなかったからこうなったのか。力が足りないのかもしれない。余計なことをしたのがまずかったのか。

答えはない。特効薬もなさそうだ。ただ耐えるしかないのだろうか。
思い悩んでもどうにもならないとき、今の悩みは、後から振り返ると、きっと、取り越し苦労だったと思えるようになる。
マーク・トウェイン(アメリカの小説家)


きょうの言葉 北國新聞2017/08/14

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③「マーク・トウェイン」の由来、”by the mark, twain”は、水深約3.6mのことで、蒸気船が座礁せず通航できる限界の浅さ。

英語の名言・格言【マーク・トウェイン】

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④【マーク・トウェイン】名言・格言
・人生で必要なものは無知と自信だけだ。
 これだけで成功は間違いない。

・自分が多数派の側にいると気づいたら、もう意見を変えてもいいころだ。

・やったことは、例え失敗しても、20年後には、笑い話にできる。
しかし、やらなかったことは、20年後には、後悔するだけだ。

私がこれまで思い悩んだことのうち、98パーセントは取り越し苦労だった。

夢を捨ててはいけない。
夢がなくても、この世にとどまることはできる。
しかし、そんな君はもう生きることをやめてしまったのだ。

私に批判的な人たちが、私のことを何と言おうと、
彼らが真実を語らない限りは気にしない。

我々が皆同じ考え方をしたからといって、
それが一番いいということにはならない。
競馬だって、意見の違いがあるからこそ成り立つのだ。

気の利いた即席のスピーチの準備には、大抵3週間以上かかる。

48歳より前に悲観主義者になる者は物事を知りすぎ、
48歳を越えてもなお楽観主義者である者は物事を知らなさすぎる。

若いうちはどんなルールにも従っておくのが良い。どうせ歳をとればルールを破る力が手に入るのだから。


【平蔵の独り言】
〔人生は取り越し苦労の連続か〕これまで思い悩んだことのうち、98%は取り越し苦労だった(マーク・トウェイン)

古希を前に“くよくよ”して対して成長していない!
こんな“きょうの言葉”が目に留まった!

【独り言】
思い悩んでもどうにもならないとき、今の悩みは、後から振り返ると、きっと、取り越し苦労だったと思えるようになる。

古希になっても悩んでいることは同じだろうし、
いままでの悩みも過ぎて見れば、何だろうと忘れているのだから、
毎日“取り越し苦労”と付き合っていく“生きている証拠”・・・・・



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by asanogawa-garou | 2017-09-06 15:34 | 今 今日この頃 | Comments(0)

この歳になって、我慢するのをやめました。(遅咲きの名優が辿り着いた境地)【笹野高史(66歳)】   

2017年 08月 24日
この歳になって、我慢するのをやめました。(遅咲きの名優が辿り着いた境地)【笹野高史( 66歳)】

〔どんな小さな役柄でも、その登場人物にも歴史や毎日の暮らしがありますよね。〕 2015/12/26

この歳になって、我慢するのをやめました。

〔デザートをいくつ頼んでもいいと知って人生が変わった〕
「津川雅彦さんと食事をする機会があったんです。
デザートを選ぶ段になって
津川さんが『僕はね、これと、これと、これと』ってオーダーをされまして。

『デザートって、そんなに頼んでいいの?』って思わず言ったら
『いいのいいの。もういい年なんだから。したいことすればいいの』って。

〔知らないうちにできてる「刷り込み」ってやつが怖いんだね、なんでも〕


どんな小さな役柄でも、その登場人物にも歴史や毎日の暮らしがありますよね。
シェークスピア劇の門番も、家に帰れば家族がいて、夕飯時に奥さんから隣近所への愚痴を聞かされたりするわけでしょう。
そういう想像をどんどんしていくと役に魂が入るんじゃないかって思う。
これが面白くてたまらない。


〔デザートをいくつ頼んでもいいと知って人生が変わった〕

漠然とした不安を抱えていた矢先、ある光景を見て、自由に生きて行こうと決めた。
「津川雅彦さんと食事をする機会があったんです。
デザートを選ぶ段になって
津川さんが『僕はね、これと、これと、これと』ってオーダーをされまして。
『デザートって、そんなに頼んでいいの?』って思わず言ったら
『いいのいいの。もういい年なんだから。したいことすればいいの』って。

〔知らないうちにできてる「刷り込み」ってやつが怖いんだね、なんでも〕
目からうろこ、でしたよ。
僕の食事の常識には、デザートは一つ、って刷り込まれていたんです。
でも欲張っていいんだと思ってね。
自分を抑えていたいろんな刷り込みを一気に消してみた。
そうしたら、齢50過ぎにして人生観が変わりましたよ」


「いろいろ我慢してきた反動ですかね。
でも物欲は仕事の原動力ですし、もっと言えばその好奇心が生命力そのものなのかな、と。
もちろん不安はあるけど、『この先はどうしよう』って悩んでても埒があかない。
いつ死ぬかさえわからないんだから。
撮影現場でポックリ逝けたら最高だけど、そんなに上手くいかないだろうねぇ」

高齢化する日本では「普通の人の生活や感情がきちんと反映された上質の作品」が必要になると考えているという。
そんな自分だから演じられる役に、まだまだめぐり合えそう。
主役でもワンシーンでも楽しませてもらいます。


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【平蔵の独り言】
『デザートって、そんなに頼んでいいの?』って思わず言ったら
『いいのいいの。もういい年なんだから。したいことすればいいの』って。

【独り言】『もういい年なんだから。したいことすればいいの』
〔同じもの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す〕蜷川幸雄
これから何が起こるのか! 考えても仕方ないし。

〔今、“何でもありと”〕 と最近思い始めているが!




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by asanogawa-garou | 2017-08-24 16:00 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔人生で大切なことは〕一に健康、二に話し相手、三に身の丈の金である。〔生き方は〕「無思想、無批判、無節操な生き方がいい」   

2017年 08月 14日
〔人生で大切なことは〕一に健康、二に話し相手、三に身の丈の金である。
〔生き方は〕「無思想、無批判、無節操な生き方がいい」

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〔人生で大切なことは〕一に健康、二に話し相手、三に身の丈の金である。

一に健康:何百億円手にしても病気がちだったら、なんの意味もない。
     まず体が“健康”でなければ、
     折角の人生を愉しむことはできない。

二に話し相手:人間は1人では生きていけない。
     “話し相手”が必要だ。
     それも相性のいい話し相手がベストである。

三に身の丈の金:金は天下のまわりものである。
     出ていく分がはいればいいことだ。
     自身を通過した金は私になにかを遺してくれた。
     それがわたしの“身の丈の金”なのである。


〔生き方は〕「無思想、無批判、無節操な生き方がいい」

〔無思想〕信ずる思想も主義もまったくなかった。
〔無批判〕特定個人への批判や攻撃がないとよくいわれる。
〔無節操〕人生を怖ろしい冗談の連続だと思っている。
     それを受け止めるためには、
     巨大なユーモアの城壁がないと息苦しい。
     無節操な他愛もないことがユーモアの原点

下手な主義主張や正義があると、むしろ行動力のブレーキになってしまう。
無思想でも無批判でも無節操でもいい。
ただひとつ不屈で元気で燃えるようなエネルギーがあればいいのである。


はじめに言葉ありき おわりに言葉ありき(島地勝彦“シマジ流”格言エッセイ集)

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最初、上手いこと言うな!
「男と女は誤解して愛し合い、理解して別れる」

【平蔵に独り言】

〔人生で大切なことは〕健康、話し相手、身の丈の金
“健康”:これが今は一番、
   内科(血圧/血糖)
   循環器内科(心臓カテーテル)
   消化器内科(胃カメラ/大腸内視鏡)、

   歯科(歯周病・インプラント:歯のメンテナンス 季節ごと)
   眼科(ドライアイ、視野検査)

いつの間にかこんなに・・・・・

“相性のいい話し相手”:自身で相性がいいと思っている話し相手は一人ずつ・・・・・

“身の丈の金”:自身を通過した金は私になにかを遺してくれた。
これは納得、20代から通過した金は今の自分に遺してくれた。
気が付けば、高度成長いい時代を過ごしてきた。
あの世には手ぶらでしか行けない。

毎日の食事、運動
(喫煙15年、禁煙35年、禁酒して22年)


【平蔵に独り言】
〔生き方は無思想、無批判、無節操〕

ノンポリ、ずぼら、ぶれない
ノンポリ、ずぼら:ゆらゆら時と場合
ぶれない:これは変わらない

【独り言】
よく、「余計なエネルギーを使うのは止しましょう」
と口にしているが元気で燃えるようなエネルギーがあれば
もう少しいけるか!



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by asanogawa-garou | 2017-08-14 16:53 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

日野原重明先生〔『さあ、今日もやるぞー!』。なぜなら、果たすべきミッション(使命)があるからです」〕「私は疲労というものを感じたことがないのです」   

2017年 07月 26日
日野原重明先生〔『さあ、今日もやるぞー!』。なぜなら、果たすべきミッション(使命)があるからです」〕「私は疲労というものを感じたことがないのです」

日野原重明氏「死はGoodbyeではない」
予防医療の普及など日本に大きな影響を与えた医の伝道者
•日経ビジネス編集部2017年7月19日(水)

〔「2020年の東京オリンピックのとき、私は109歳なわけですが、いまからその準備を…」〕

〔『さあ、今日もやるぞー!』。なぜなら、果たすべきミッション(使命)があるからです」〕「私は疲労というものを感じたことがないのです」

〔「シニア会員」・「ジュニア会員」・「サポート会員」〕
〔成人病を「生活習慣病」と言い換えるように提言〕
〔「長寿ニッポン」を支える制度作りにも寄与〕『人間ドック』「病気にならないこと」
〔死はグッバイではなくシー・ユー・アゲインです〕



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①『生きかた上手』など数々のベストセラーを持つ医師、日野原重明氏が亡くなった(写真:村田 和聡)

 聖路加国際病院名誉院長の日野原重明氏が死去したことが7月18日、分かりました。105歳でした。

〔「2020年の東京オリンピックのとき、私は109歳なわけですが、いまからその準備を…」〕
 在りし日の日野原氏が講演のたびに使っていたフレーズです。
その度に会場は笑いに包まれますが、本人はいたって真面目でした。
残念ながら東京五輪をその目で見ることはかないませんでしたが、日野原氏の生き方はこれからも多くの日本人に影響を与え続けていくでしょう。

 本稿では日野原氏の言葉を振り返りながら、日野原氏の功績の一部をご紹介します。改めて、ご冥福をお祈りいたします。

〔「果たすべきミッション(使命)がある」〕 「私は疲労というものを感じたことがないのです」

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 「私は疲労というものを感じたことがないのです」
 日野原氏は100歳を超えてからも現役医師として、講演のために全国を飛び回る。著書も130冊を超え、毎年のように新著を上梓してきた。
 原稿の締め切りが迫っている時には、明け方まで執筆を続け、2~3時間の睡眠で家を飛び出すこともある。
そんな日の朝食はクッキー2枚とコップ1杯の牛乳だけだ。
 「この歳ですから、そりゃあ肉体的な疲労はありますよ。でも一晩寝ると、朝はすっきりして、『さあ、今日もやるぞー!』とフレッシュな気持ちで目覚めるわけです。なぜなら、果たすべきミッション(使命)があるからです」

〔『さあ、今日もやるぞー!』。なぜなら、果たすべきミッション(使命)があるからです」〕
 日野原氏が自らに課しているミッションのうち最大のものが、2000年から続けている「新老人運動」である。
 日本の65歳以上人口は2015年9月、3384万人に達し、人口全体に占める割合は26.7%となった。
一方、働き手となる生産年齢人口(15~64歳)は減り続け、2013年には8000万人を割り込んでいる。
これは32年ぶりのことで、少子高齢化は今後も間違いなく加速する。
 この絶望的なほどの厳しい状況を、老人自らが動くことで良い方向に向けていこうというのが、日野原氏の「新老人運動」だ。
 「90歳になったとき『新しいことを創はじめたい』と思いました。そこで立ち上げたのが『新老人の会』です。老人が慰め合うだけの会ではありません。自分たちの社会に対するミッションを見つけ、それを実践する集まりです」

〔「シニア会員」・「ジュニア会員」・「サポート会員」〕

「新老人の会」の「シニア会員」になれるのは75歳以上。
60~74歳は「ジュニア会員」、60歳未満は「サポート会員」である。
日野原氏の発案だ。
 60~74歳を「ジュニア」と呼ぶことに若干の違和感があるが、女性会員などに話を聞くと「私は、まだジュニア会員ですから」とうれしそうに話す。
社会的には「高齢者」と呼ばれる人々が、ここでは「ジュニア」。
そう位置付けられるだけで、人の心持ちは変わる。
 いつも注意深く患者の声に耳を傾け、患者との対話から治療を始める日野原氏は、言葉の効用をよく知っている。

〔成人病を「生活習慣病」と言い換えるように提言〕

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③全国を飛び回る生活を送っていた日野原重明氏。
東京・世田谷の自宅にいるときも、熱心に執筆に取り組んでいた(写真:村田 和聡)
 「政府は75歳以上のお年寄りを後期高齢者などと呼びますがね、あれはダメです。老人という言葉には『人生経験を重ねた思慮深い人』という畏敬の念が入っている。中国語で立派な人を『大人(ダーレン)』と呼ぶでしょう。あれに近いニュアンスですね」
 「一方で、高齢者という言葉には『物理的に年を取った人』という意味しかない。おまけに『後期』などと線引きをする。あれはお役人の発想ですよ。そう呼ばれた人たちがどう感じるか、人の気持ちを考えていない」
 「私は、75歳以上のお年寄りを『新老人』と呼びたい。
世界のどこよりも早く超高齢化社会に入った日本の75歳以上は、国民の寿命が延びたことによって生まれた新しい階層だからです。
新老人たちが生き生きと活躍する社会を作ること。
それこそが私に与えられたミッションだと考えています」
 「後期高齢者」を「新老人」と呼び換える。
「たったそれだけのことで何が変わるのか」と思われる方が多いかもしれない。しかし言葉には人々の考え方を変える力がある。
日野原氏はかつて、言葉による日本人の意識改革に成功している。
 「昔は糖尿病や心疾患、脳血管疾患のことを『成人病』と呼びましたね。
そう呼ぶと患者さんたちが『成人になったのだから、成人病にかかるのは仕方ない』と思ってしまう」
 「しかし、こうした病気は食生活や日頃の運動によって予防できるし、治癒もできる。生活習慣が原因なら、それを改めればよいのです。
『成人病』を『生活習慣病』と呼び換えるだけで、人々の意識は変わるのです。だから公的な文書でもそう呼び換えるよう、政府に働きかけました」
 厚生省(現厚生労働省)は1980年頃から糖尿病などを「成人病」と表記してきたが、日野原氏らの提言を受け入れる形で90年代後半から「生活習慣病」に呼び変えた。
 生活習慣病という言葉は日本人の間に広く定着。
それを予防するために多くの人が自分の体重や血圧を気にかけ、適度な運動を始めたり、食生活を改善したりし始めた。

〔「長寿ニッポン」を支える制度作りにも寄与〕『人間ドック』「病気にならないこと」


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④日野原重明氏は、「長寿ニッポン」を支える制度の定着にも貢献した(写真:村田 和聡)
 戦後間もない1947年、日本の医療事情は劣悪で、病院も医師も薬も、すべてが不足していた。
日本人の平均寿命は男性50.1歳、女性54.0歳だった。
 そんな時代にいち早く、「病気を治す」ことではなく「病気にならないこと」に注目した医師がいた。
聖路加国際病院の橋本寛敏元院長と、国立東京第一病院(現国立国際医療研究センター)の坂口康蔵元院長である。
日野原重明氏は橋本院長の右腕として予防医療の制度立ち上げに奔走した。
 「病院は病気の人が来るところというのがそれまでの常識でしたが、病気を予防するためには健康な人が病院で受診する必要があるのです。
寿命が延びていけば、やがて健康な人がどう老いていくかという問題が重要になると我々は考えました」
 「最初は『定期健康検査』と呼んでいましたが、これを聞きつけた新聞記者が船を点検・修理するドックからの連想で『人間ドック』と書き、いつの間にかこの呼び方が定着しました。
最初の利用者は政治家です。政権についている時の政治家は激務に追われますが、内閣が辞職するとしばらく暇になる。
その期間に『体のお手入れをされたらどうですか』とお勧めしたのです」
 聖路加の内科医長だった日野原氏は、国立東京第一の小山善之医長と組んで、人間ドックの仕組み作りを進めた。
人間ドックを健康保険の対象にしてもらうため、日野原氏と小山氏は東京・乃木坂にある健康保険組合連合会の本部にも通った。
 血圧測定、血液検査、検尿、心電図、レントゲンといった健康診断の定番メニューはこの時に固まった。
 「今は技術が進んだおかげで、日帰りでほとんどの検査が受けられますが、当時は検査機器の性能が劣っていたので、検査をするのに1週間かかりました。優れた装置がなくて、当初は肝臓の検査はできませんでした」
 こうして54年、国立東京第一と聖路加は日本初の人間ドックを開始した。両病院合わせて7床でのスタートだった。
 「健康な時に病院に行くという習慣は、当時の日本人にはありませんでした。
我々は病気を予防したり、早期に発見したりするためには、自覚症状がなくても定期的に健診を受けた方がいい、という考え方を日本中に広めなくてはなりませんでした」
 人間ドックを普及させるうえで、国民の誰もが名前を知っている政治家に受診してもらうことは大いに効果があった。
ある日、とある大物が聖路加の人間ドックにやってきた。
読売新聞のオーナーで衆院議員も務めていた正力松太郎氏である。
 「1週間の健診の最後に会食の時間があったのですが、正力さんに会いたい人たちが皆さん受診に来ましたよ」
 この頃から日野原氏は正力氏の主治医になり、正力氏の最期をみとることになる。こうしてまずは政財界の有力者から始まった人間ドックが徐々に一般の人々にも広がり、「長寿ニッポン」を支える制度として定着していく。

〔死はグッバイではなくシー・ユー・アゲインです〕

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⑤増大が続く医療費について、医学界と経済界を代表する2人が話し合った(「日経ビジネス」2015年6月1日号特集より、年齢は対談を行った2015年当時。写真:山田 哲也)
 高齢化社会に突き進む日本では老人の医療費増大が止まらない。
だが、老人を悪者にしても何も始まらない。
医学界と経済界を代表する2人の賢人は、「医を仁術に終わらせてはならない」と声をそろえた。
国民医療費は2025年に50兆円を超え、そのうち6割以上を65歳以上の医療費が占める見込みだ。
〔人生の質〕
日野原重明氏:医療界だけではなく、社会全体で考えるべき問題だと思います。
まず無駄な医療をやめることです。
医療を営業と考える医者は延命治療に夢中になりがちです。
患者や家族には「長生きは良いことだ」という思い込みがあり、医者も延命した方がもうかるからです。
しかしチューブにつながれて最期を迎えることが患者や家族にとって本当の幸せでしょうか。
社会的にみれば膨大なコストがかかっている。
 お年寄りに「長生きするな」と言っているのではありませんよ。
人生の質を言っているのです。
私は日本におけるホスピスの普及に力を注いできました。
ホスピスでは、天から与えられた命を、最後まで質高く全うすることに重きを置きます。
患者には「最期が来ましたよ」と自覚してもらい、「また天国でお会いしましょう」と家族とお別れしてもらいます。
グッバイではなくシー・ユー・アゲインです。
 延命治療をやめれば、住み慣れた自宅で最期を迎える人が増えるでしょう。
病院より、自分がずっと生きてきた場所で最期を迎えたいと望む人は多いのではないでしょうか。
これを実現するには医者も患者も家族も考え方を改めなくてはなりません。死に抗うのではなく、死を受け入れる考え方が必要です。
 欧米ではこうした考え方の下、ホスピスや在宅医療の体制が整備されています。
努力すれば日本でも、コストを抑制しながら医療の質を上げることは可能だと思います。
そのためには教育から変えていかなくてはならない。
 ルネ・サンド(1928年に国際社会福祉協議会を設立したベルギーの医学者)は「国民の参与なくして国民の健康は作られない」と言っています。
まず社会の中のいろいろな層の人々による協力体制を作る必要があります。「真の健康社会を作る」ことを国民の総意にしなくてはならない。
稲盛和夫氏:サンドの言葉は経営にも通じると思います。
全従業員の参与がなければ良い経営は実現できません。
 私が再建に関わった日本航空(JAL)を例に取ればパイロット、客室乗務員から整備のエンジニア、荷物を運ぶ人、機内食を作る人、機内や空港を掃除する人まで、すべての人がそれぞれの役割をきちんと果たし、なおかつ自分の持ち場で収益を考えてもらう必要がありました。
 医療も同じだと思うのです。ドクターから看護師さん、食事を担当する人まで、医療に関わるすべての人が、どうすればコストを上げずに、患者さんに良い医療を提供できるか。
皆で考えるところから始めたらいいのではないでしょうか。
書籍『日野原重明先生の生き方教室』

【平蔵の独り言】
〔『さあ、今日もやるぞー!』。なぜなら、果たすべきミッション(使命)があるからです」〕
 日野原氏が自らに課しているミッションのうち最大のものが、2000年から続けている「新老人運動」である。
 日本の65歳以上人口は2015年9月、3384万人に達し、人口全体に占める割合は26.7%となった。
一方、働き手となる生産年齢人口(15~64歳)は減り続け、2013年には8000万人を割り込んでいる。
これは32年ぶりのことで、少子高齢化は今後も間違いなく加速する。
 この絶望的なほどの厳しい状況を、老人自らが動くことで良い方向に向けていこうというのが、日野原氏の「新老人運動」だ。
 「90歳になったとき『新しいことを創はじめたい』と思いました。そこで立ち上げたのが『新老人の会』です。老人が慰め合うだけの会ではありません。自分たちの社会に対するミッションを見つけ、それを実践する集まりです」
 「新老人の会」の「シニア会員」になれるのは75歳以上。
60~74歳は「ジュニア会員」、60歳未満は「サポート会員」である。
日野原氏の発案だ。
 60~74歳を「ジュニア」と呼ぶことに若干の違和感があるが、女性会員などに話を聞くと「私は、まだジュニア会員ですから」とうれしそうに話す。
社会的には「高齢者」と呼ばれる人々が、ここでは「ジュニア」。
そう位置付けられるだけで、人の心持ちは変わる。
 いつも注意深く患者の声に耳を傾け、患者との対話から治療を始める日野原氏は、言葉の効用をよく知っている。

【独り言】〔七十にして惑わず〕
気合を入れないと1日が始まらない。
日野原重明先生の『さあ、今日もやるぞー!』
をもらおう!

【平蔵の独り言】
 「政府は75歳以上のお年寄りを後期高齢者などと呼びますがね、あれはダメです。老人という言葉には『人生経験を重ねた思慮深い人』という畏敬の念が入っている。中国語で立派な人を『大人(ダーレン)』と呼ぶでしょう。あれに近いニュアンスですね」

【独り言】
それにしても“前期高齢者”“後期高齢者”、高齢者でくくるな!
まあ、定年退職後の年金世代を管理しやすいように官僚が考えた言葉

「シニア会員、ジュニア会員」
シニアの自立をする社会環境を作っていけばいいのに・・・・・・・


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by asanogawa-garou | 2017-07-26 15:12 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)