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〔五木寛之〕「深夜ですか」(シニアですか!)・「作家です」   

2017年 05月 20日
五木寛之〔生き抜くヒント〕「深夜ですか」(シニアですか!)・「作家です」

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五木寛之:「深夜ですか!」(シニアですか!)

先日、土曜の夕方、映画館へいった。
最近ではシネマ・コンプレックスとかいって、映画のデパートのようなビルがある。
そのなかで大人むきの映画を選んで、窓口でチケットを買おうとした。
すると窓口の若い女性が、こちらの顔を見て、

「深夜ですか」

と、きく。
まだ夕方なのに、なにを言ってるんだろうと戸惑った。
ははあ、なるほど土曜日だから夜中のレイト・ショウの前売りのことだな、と推理して、笑顔で

「いや、いまから見るんです」
と、言うと、面倒くさそうに、
「ですから、深夜だと料金が安くなりますけど」
「でも、いま見たいんだよ。ほら、まだ六時過ぎじゃないですか」

「深夜じゃないですか」
「くどいな。深夜じゃない」
と、つい言葉も乱暴になる。
「じゃあ、正規の料金でお願いします」
むっとして料金を払い釣り銭をもらったとき、窓口に小さく出ている表示に気づいた。

<シニア料金>
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として、うんと安い料金が表示されているではないか。
ガラス窓に映る自分の髪は真っ白で、百歳くらいに見えた。

耳が遠くなったわけではない。
最近、音が歪んできこえるのだ。
要するに加齢の一現象にすぎない。

あの売場のお嬢さんは、私が若く見られたいと必死でがんばっているように思ったにちがいない。
恥ずかしいというより、おかしくて、思わず笑ってしまった。
窓口にもどって、「すいません。シニアでした」
と、謝ってチケットをかえてもらおうかとも思ったが、面倒なのでやめた。


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③「すいません。シニアでした」
「さっききたジジィさ、いい年こいてシニアじゃないってがんばるんだよ。笑っちゃう」
とかなんとか同僚と話しているのだろうと思うと、映画を見る気もなくなって、そのまま帰ってきた。おかしかった。

【平蔵の独り言】
「深夜ですか」→「シニアじゃないですか」

高齢者とか前期高齢者とか、立ち向かって認めたくないが
市町村から年金に関する住民税・介護保険料の通知が自動的に
送られてきて、高齢者じゃなくて“シニア”と叫んでいるが
周りを見渡すと団塊世代で溢れている。

生き抜くヒント!粛々と笑う時代に
週刊新潮5月4・11日号



五木寛之:「作家です!」
地方在住のある作家が、ちょっとアル中気味なので、思いきって診療内科を訪れてみることにした。
診察室に座ると、若い医師が「御職業は?」ときく。
「作家です」
と答えた。

すると相手は心配そうに眉をひそめて、
「いつ頃からそう思うようになりました?」
と、きいたという。
いい話だ。

このおかしさが即座にわかれば、あなたはボケていないと思っていい。
しばらくして笑った人は要注意。


【平蔵の独り言】
診察室に座ると、若い医師が「御職業は?」ときく。
「作家です」

→? 即座に否、現在もわからない!

生き抜くヒント!(五木寛之)週刊新潮2017/04/27号




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by asanogawa-garou | 2017-05-20 16:58 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

【樹木希林】家族について語る「最期ぐらいは裕也さんの歌を聞きながら」〔“会社で見るな、人として見ろ。そのうえで考えろ”〕   

2017年 03月 27日
【樹木希林】家族について語る「最期ぐらいは裕也さんの歌を聞きながら」〔“会社で見るな、人として見ろ。そのうえで考えろ”〕

樹木希林、家族について語る「最期ぐらいは裕也さんの歌を聞きながら」
週刊女性2017年1月17・24日号


〔“会社で見るな、人として見ろ。そのうえで考えろ”〕あれで、たまにはいいこと言うのよ。

〔年とったら耳も遠くなるし、滑舌(かつぜつ)も悪くなるし。もう限界だと、〕

【“私の不満の人生の中で、危険なものをつかんだ。ここなら生きられると思った” という相手。】

〔本木さんとは全然性格が違うから、よくわからなかった〕ただ、みんな調整しながら、譲り合いながら乗り越えてきたんだわね

〔年をとっていくことに対して何も抵抗ないから、苦労もないし。もともと少欲なの。〕別に我慢や無理はしてないですよ。

【最期ぐらいは花を持たせてあげないと】

【内田裕也、毎年欠かさず被災地に贈る“ロック”な支援】
〔まあ、オレもいろいろと誤解されますけど、そんなに悪いやつじゃないですから、ヨロシク!〕


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①「いやっほぅ、撮れーっ!!!」(樹木)
________________________________________

 老夫婦の素敵な暮らしを描いた映画『人生フルーツ』でナレーションを担当した樹木希林さん。
ご自分の人生には、どんな果実を思い描いているのだろうか。
長い別居生活を過ごしつつ、今も夫婦でいる夫・内田裕也さんとの葛藤、娘と本木雅弘さんとの生活、そして自身の今後について語ってくれた。
☆  ☆  ☆
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②樹木希林さん 撮影/枦木 功
「私、女性週刊誌に出るのが嫌いなのよね。売るために面白いタイトルをつけるじゃない? 書かれるほうはつらいのよ」

〔“会社で見るな、人として見ろ。そのうえで考えろ”〕あれで、たまにはいいこと言うのよ。

 “週刊女性です”と名乗ったスタッフに、いきなりカウンターパンチをくださったのは樹木希林さん(73)。
「若いころ、マスコミから逃げ回っていたことがあるんだけど。
夫に“会社で見るな、人として見ろ。そのうえで考えろ”って言われてね。あれで、たまにはいいこと言うのよ。
私も作り手なら、気をひくタイトルをつけちゃうだろうしね」
 とフォローもあって、その押し引きは絶妙─。

「何かあるたびに、ここで記者会見を開くことになっちゃってるのよね(笑)」
 という、渋谷区にあるご自宅の応接間には、モノは持たない主義ということでグランドピアノと最小限の家具しかない。
その中で、ひときわ目立つ木製のテーブルは平幹二朗さんが使っていたものを、人づてにもらったのだとか。

「だから、何か事件があってうちで会見をするたびに平さんが“僕のテーブルが映ってる”と言ってたそうなんですよ(笑)。
直接面識はなかったけど、魅力的な方でしたね。
肺がんにかかられたのに、最期まで立派な役者として生きられて……」

杖はどこいった? じゃ、夫婦ゲンカにもならない
 自身もがんを患いながら仕事を続けている希林さんは、1月2日に公開された映画『人生フルーツ』でナレーションを担当。
完成品を見たプロデューサーが、
「地上と天空の間から発せられるような見事なナレーション。これは、呪文だ」
 と驚嘆したほどの、沁(し)みる声だった。
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〔年とったら耳も遠くなるし、滑舌(かつぜつ)も悪くなるし。もう限界だと、〕
「渡された台本を下読みもせずに、ただ読んだだけ。
まぁ、60年近く声で人を騙(だま)してきてるからね(笑)。
ナレーションはセリフを覚えなくていいからラクだと思ってたのに、年とったら耳も遠くなるし、滑舌(かつぜつ)も悪くなるし。
もう限界だと、スタッフには言ってるんだけど」

 映画で描かれているのは90歳の夫・津端修一さんと、87歳の妻・英子さんの暮らしと人生。
建築家の夫が建てた丸太小屋に住み、雑木林と畑で育てた約70種類の野菜と50種類の果物を季節に応じて収穫し、妻が丁寧に作った料理を、ふたりで食べる。
お互いに“さん”づけで呼び、ほぼ自給自足の生活を支え合い、ゆっくり豊かな時間を過ごしている。そんな夫婦に、やがて別れの時が訪れ─。

「英子さんは可愛らしい人でね。映画が完成した後、初めてお会いして一緒に居酒屋に行ったんですけど、いいエネルギーに満ちあふれていた。
ああいう女性は、修一さんのようないい旦那さんがちゃんと来るのね。
散らかさなくてつつましくて始末がよくて、でも大胆なところもある旦那さんで、本当に素敵なご夫婦。

 映画を見て“こんな人生を歩めたら言うことなし”だって、みんなそう思うんじゃない? 
もちろん、その人生がうらやましいとか、自分の人生がイヤだとか、そういうことはないのよ。
でも、それはそれ。こういうふうな道しか歩けない私は私。
だけど、津端さんのような人生も見事だなぁと思いますね」

【“私の不満の人生の中で、危険なものをつかんだ。ここなら生きられると思った” という相手。】
 反骨のロックンローラー・内田裕也さんとの結婚生活は43年になる。
 “私の不満の人生の中で、危険なものをつかんだ。ここなら生きられると思った”という相手。
警察ざたになるほど大ゲンカをしたこともあるし、離婚しかけたこともある。
しかし、長い別居生活を過ごしつつ、今も夫婦でいる。
「うちは年をとっても若いときと変わらない。
性格がまったく同じだから、何を考えてるか読み取れるし、争いにもなる。ただ、最近は年とってきてエネルギーがなくなったからケンカしなくなっただけ。
“この野郎!”となっても、“杖はどこいった?”じゃどうしようもない。そのうちに“面倒くさいかぁ”で終わり。

別に仲よくなったわけじゃないのよ。
『人生フルーツ』の英子さんは旦那さんのことを“年とっていい顔になった”と言ってるんだけど、うちは両方ともそんな境地じゃないわね。
たまに顔を見ると“この人、昔はもうちょっと男前だったのに。
どうしてこうなっちゃったのかなぁ”なんて思うもの。
それはお互いだろうけど、決していい顔にはなってない。
むしろ“奇っ怪(きっかい)”。とんでもないキャラクター商品って感じ(笑)」
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④撮影/枦木 功

〔本木さんとは全然性格が違うから、よくわからなかった〕ただ、みんな調整しながら、譲り合いながら乗り越えてきたんだわね
 30歳のときに出産したが、子育ても希林さん流だったという。
「私は、相手の気持ちに入り込むのが面倒くさいの。一歩引いてるというか。子育てもそう。例えばケーキをもらったら、私はまず自分が好きなのを取っちゃう。娘に“どれがいい?”と言って先に選ばせるなんてこと絶対にしない。だから、早く嫁に行ったんじゃない? きっとうちが居心地悪かったんだと思う」
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 娘の也哉子さんは19歳のとき、俳優の本木雅弘さんと結婚。
長らく二世帯で同居し、3人の孫にも恵まれた。
「今、娘一家はイギリスに行っちゃったけど、それまではうちの上に住んでました。
家族円満に見える? なんかねぇ。
円満になっちゃったのよね。
最初はそうじゃなかったのよ。
本木さんとは全然性格が違うから、よくわからなかったし。
ただ、みんな調整しながら、譲り合いながら乗り越えてきたんだわね。

〔年をとっていくことに対して何も抵抗ないから、苦労もないし。
もともと少欲なの。〕別に我慢や無理はしてないですよ。
 別に我慢や無理はしてないですよ。
ああ、そうなんだ、この人はこういう性格なんだと思うだけで、どうこうしようと思わない。
それは子どもや孫に対しても同じ。
まぁ、二世帯住宅で、台所も玄関も違うし、まったく会わない日がいっぱいあった。
距離がおける暮らしだから、やってこれたんでしょうね」

 同居しているときから、自分のことは自分でする主義。
石けんはひとつしか持たず、それで身体も食器も衣服も洗う。
お経をあげるのと、掃除をするのが日課だそうだ。
仕事もマネージャーはつけず、ひとりで現場に向かう。
「病気してからも普通に食べるし飲むし。
無理してる感じはないのよね。
年をとっていくことに対して何も抵抗ないから、苦労もないし。
もともと少欲なの。
仕事については、基本的に来た順番に引き受けているだけ。
あまり先のことだと、わからないからお断りすることもあるけどね」

【最期ぐらいは花を持たせてあげないと】
『人生フルーツ』では、夫と最期のお別れをするシーンがあるが、希林さん自身の人生の最期には、裕也さんが歌う『朝日のあたる家』を聴いて逝(い)きたいという。

「最期ぐらいは花を持たせてあげないと、怒るだろうと思って。
まぁ、歌自体がいい歌だしね。私が先にボケると信じてるので、もし、裕也さんが最期に駆けつけてくれたら、“まぁ、ご親切にしていただいて。……ところでおたくどちらさま?”と言って死ぬのが理想なんですよ。
ただ、本当は向こうが先に逝かないとあとが困るかなぁという心配もあるんですけどね。
向こうは向こうで“おまえ、ハンコのあり場所だけはちゃんとしとけよ”って言ってるから、自分のほうが長く生きるつもりらしいですよ」
 というところで、取材時間終了。
この後は、映画宣伝のため、自分で戸締まりして出かけることになっている。

「『週刊女性』としては、こんな話じゃもの足りないんじゃない? 
もっと中吊り広告のタイトルになるようなこと言えばよかったわね(笑)」
 女性週刊誌が嫌いと言いながら、キャッチになる言葉もけっこうしれっと語ってくれた、サービス精神旺盛な希林さんだった。
◎取材・文/伊藤愛子
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【左】津端さん夫妻の日常を描いた映画『人生フルーツ』は1月2日〜全国順次公開。(c)東海テレビ放送 【中・右】『あしたも、こはるびより。』『ひでこさんのたからもの。』(ともに主婦と生活社刊)。老夫婦のゆっくりと豊かな生活や絶品手料理のレシピなどを綴る

【内田裕也、毎年欠かさず被災地に贈る“ロック”な支援】
週刊女性4月1日号
2014/3/18
〔まあ、オレもいろいろと誤解されますけど、そんなに悪いやつじゃないですから、ヨロシク!〕
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 2011年3月11日の東日本大震災から4年。
震災直後、炊き出しや募金を精力的に行った芸能人はたくさんいたが、あれから4年がたった今も、以前と変わらず積極的な支援活動を続けている芸能人もいる。
 そのひとりが1995年の阪神・淡路大震災のときにも支援ライブを開いたり、物資を届けていた内田裕也。
今回、ある被災地に特別な“縁”を感じているという。
 本人がズバリその理由を語る。
「石巻は、英語でいえばロックンロール」
 震災から8日後の3月19日には東京・渋谷でゲリラ募金活動を敢行。集まった費用をもとに、4月5日には石巻で炊き出し&ミニライブを催した。
「友人のピザ店の協力で、ピザ&ミネストローネを400食分、バナナ690本、みかん690個を届けました。おにぎりとか、豚汁ばっかりのところだったから、若い人たちに喜ばれましたよ」
 また、2012 年に行われた恒例の年越しロックフェス『NEW YEARS WORLD ROCK FESTIVAL』に除染服姿で出演して、原発事故の収束を訴えたり、会場の隅では、『HELP募金』も始めた。
「それが貯まったお金で、被災地に行って支援活動をするんです。
でも、日本人って、そんなにお金集まんねーんだよ。
やっぱり忘れ去られていくもので、でも風化させないためにもロックンロールの役割は大事なんだよね。
社会への貢献を何かしらさりげなくやること。できる範囲内で被災地に駆けつけるというのは、人間の誠意としても大事だと確信しています」

 インタビューをした3月11日、ちょうど『東日本大震災三周年追悼式』が行われている国立劇場へ向かう途中だった内田。
「毎年お花を買って、必ず参加しています。エラい国会議員のみなさんたちと一緒じゃなくて、一般の方々と一緒に並ぶのがロックンロールらしいと思っています。
派手でなくても継続性が大事ですね。まあ、オレもいろいろと誤解されますけど、そんなに悪いやつじゃないですから、ヨロシク!」


【平蔵の独り言】
夫に“会社で見るな、人として見ろ。そのうえで考えろ”って言われてね。あれで、たまにはいいこと言うのよ。

【独り言】
社会に出て、看板を持って仕事をしている時は“楽”だった。
自然の流れとして、看板を無くした時、以前の先輩に言った言葉
「看板が無くなると大変ですよ!」
(看板があれば、「**会社の・・・」)
その先輩がある時「お前の言っていることが今、分かったよ」
でも、会社を見るな!は自身でも難しい。

【平蔵の独り言】
ただ、みんな調整しながら、譲り合いながら乗り越えてきたんだわね。
 別に我慢や無理はしてないですよ。
ああ、そうなんだ、この人はこういう性格なんだと思うだけで、どうこうしようと思わない。
【独り言】
みんな調整しながら、譲り合いながら。
これが難しい。
少しは出来ているかな!




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by asanogawa-garou | 2017-03-27 16:20 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

 【国谷裕子】「地球は人間なしで存続できても、私たちは地球がなければ存続できない。先に消えるのは、私たちなのです」地球維持する取り組み、伝えたい 国谷裕子さん   

2017年 02月 10日

 【国谷裕子】「地球は人間なしで存続できても、私たちは地球がなければ存続できない。先に消えるのは、私たちなのです」地球維持する取り組み、伝えたい 国谷裕子さん

朝日新聞デジタル20171310138

〔このままだと地球がもたない。〕

 「地球は人間なしで存続できても、私たちは地球がなければ存続できない。先に消えるのは、私たちなのです」


 
Gsのとりまとめに奔走したナイジェリア出身のアミーナ・モハメッドさんから聞いたことばが忘れられません。

 先ごろ国連の副事務総長に抜擢(ばってき)されたアミーナさんは、故郷でチャド湖を見ながら育ちました。

けれども、彼女が子どものころ海だと思っていた琵琶湖の40倍もある大きな湖は、今は温暖化と灌漑(かんがい)の影響で消滅の危機にあります。

 このままだと地球がもたない。

その危機感から各国が共同で変革に取り組んでいくために産み出されたのが、SDGsです。

 2年半に及ぶ多国間交渉でようやくまとまった国際合意なのですが、私は2015年9月に国連総会で採択される直前まで知りませんでした。

番組作りのためいろいろなアンテナを張って情報収集をしていたというのに、動きがあることすら知らなかった。

とても恥ずかしく思いました。

 採択目前に取材に入ったニューヨーク。

SDGsの合意形成に関わった人たちの間には、地球の限界が見えてしまっているという危機感が共有されていて、SDGsを手がかりに、世界を変えていくのだという強い思いを感じました。

 けれども日本では、SDGsは積極的に取り上げられませんでした。
1年以上たった今も、よく知られていません。

どこまでできるかわかりませんが、SDGsを伝えていく使命を感じています。


 ニュースキャスターとして16年3月まで23年間、日本社会の課題と世界の変化を追いながら、ありとあらゆるテーマに切り込みました。
そうしたなかで、ひとつの問題に向き合って解決策だと思ったことが、別の問題を引き起こすことがあり、課題解決の難しさを実感することが多くなっていました。

 そんな私にとって、SDGsとの出会いは、とても新鮮でした。

地球を維持していくための17の目標から逆算して、必要な行動を考える発想。

互いに深いところでつながっている課題を解決するために、経済、社会、環境などをつなげてとらえ、統合的に解決していく手法。

かつてない意欲的な取り組みに、大きな可能性を感じています。

 SDGsに合致しているかどうかを問うことが、政治や経済、生活のありようを変えていく糸口になります。

私たちは「新しいものさし」を、手に入れたのです。

それを使いこなしていくことは、政府だけでなく、企業や市民にも求められています。


 目標の達成に向けて、日本が弱いと指摘されている分野があります。貧困や
ジェンダー、エネルギー、気候変動などです。

一人ひとりの認識が変わらなければ、達成は遠のくばかりではないでしょうか。

 情報の発信と共有が必要です。

私もメディアの一員として、SDGsを広めていくお手伝いができたらと思っています。

20120825〔たまたま現在は、人類が地球の主人公ヅラしているけれど、太古は植物や恐竜が主人公だった。〕

サルの時代だってあったわけだから、われわれは大きなカオはできないのである。

水をグビグビ飲んでいるけれど、水が液体でいられるのは、
1気圧のもとで摂氏0度から100度までの、わずかの間だけ。
もしも地球と太陽との距離が、現在の
85パーセント以下に縮まると、
計算上、海の水はすべて蒸発してしまう。

逆に、現在の1.2倍以上に広がると、海は凍りついてしまう。

〔水が液体のままでいられる、地球と太陽の、この絶妙な距離の、何という幸運!〕
太陽は誕生してからほぼ46億年たっているそうだ。
あと50億年ほどは水素を燃やしながら輝きつづけたあと、膨張して太陽の表層が地球スレスレになる。
地球は蒸発して、消える。ただし人類は、とっくに死に絶えている。
あと10億年もしないうちに地球の表面温度が100度にまで上がる可能性があるからだ。
「地球にとって私たち人類のかわりはいくらでもいるのです」

人類が主人公でいてくれてよかったなあ!
と地球がシミジミつぶやいてくれるような生きかたを選ぶのか?

週刊現代2012/8/1825
人生のことば〔第76回〕轡田隆史

【平蔵の独り言】

 「地球は人間なしで存続できても、私たちは地球がなければ存続できない。先に消えるのは、私たちなのです」(国谷裕子)

太陽が膨張して地球がなくなる。(50億年)

10億年で地球の表面温度が100度(水がなくなる)


〔このままだと地球がもたない。〕

その前に このままだと地球がもたない。

 先ごろ国連の副事務総長に抜擢(ばってき)されたアミーナさんは、故郷でチャド湖を見ながら育ちました。

けれども、彼女が子どものころ海だと思っていた琵琶湖の40倍もある大きな湖は、今は温暖化と灌漑(かんがい)の影響で消滅の危機にあります。

やっぱり、何をチマチマと今の主人公はやっているのやら?
国谷裕子さん が教えてくれた。


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by asanogawa-garou | 2017-02-10 16:15 | 今 今日この頃 | Comments(0)

戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌。最愛の女性 五十回忌機に心境   

2017年 01月 19日

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。
<円谷幸吉>最愛の女性 五十回忌機に心境

河北新報 1/15(日) 12:31配信
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①「いちずな人でした」と円谷の思い出を語る女性

 1964年東京五輪マラソン銅メダリストの円谷幸吉(須賀川市出身、1940~68年)には、結婚を考えながら68年のメキシコ五輪前に破談になった女性がいた。
円谷の五十回忌を迎えたのを機に、女性が河北新報社のインタビューに応じた。

【円谷幸吉】ひたむきな姿 後世に
 女性は円谷の1歳下で福島県在住の74歳。
高校を卒業した円谷の最初の配属先、陸上自衛隊郡山駐屯地で62年まで1年間共に勤務した。
円谷の一目ぼれだったようで、遠征先で買ったかすりなどの民芸品の土産や手紙がこまめに送られてきた。
 「よく、にこにこして私がいた厚生課に顔を出していました。とてもいちずで、真面目な人柄。何事にも一生懸命だった」と振り返る。
 円谷の遺体が発見された68年1月9日のことはよく覚えているという。
「風が強い日で午前2時ぐらいに、住んでいたアパートの窓ガラスを人がたたくような音がしたんです」
 腰の手術をした実母が痛みが取れず苦労したのをそばで見ており、「(椎間板ヘルニアで悩んでいた)円谷さんのつらさはよく分かる」と言う。
円谷の訃報に接し「気の毒だと思った。周りに、(選手を)やめるように言ってくれる人がいなかった」と思いやる。
 66年、2人の縁談は自衛隊体育学校長が結婚時期や式場の場所で横やりを入れたことをきっかけに白紙となった。
女性は翌年秋、地元の男性に求愛されて結婚。
「私も自衛隊にいたから分かるが、結婚でも何でも、当時は上官には逆らえない雰囲気があった」
 3年半後に再び巡ってくる東京五輪に向け「野球・ソフトボールを被災地である福島県でぜひ開催してほしい。他の競技でも円谷さんのように、国民を元気にするような活躍を期待しています」と話した。

<円谷幸吉>破談を機に 心身疲弊
2017年01月14日
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②東京五輪マラソンで銅メダルに輝き、古里でパレードをする円谷(中央)=1964年11月、須賀川市中心部

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)

〔別れ/「国民的英雄」故の苦しみ〕

 東京五輪で国民的英雄になった円谷幸吉(須賀川市出身、1940~68年)。
祝賀会、招待レースと多忙を極めた。
自衛隊体育学校の同僚だった宮路道雄(79)=千葉県八街市=は当時の状況を「円谷は全自衛隊の代表。自衛隊が国民に溶け込む役目を期待されていた」と説明する。

<恩師が札幌へ異動>
 そんな中、問題は起きた。最愛の女性との別れだ。
 郡山駐屯地の元同僚。五輪前から手紙を送るなどして愛を温めてきた。
63年のニュージーランド合宿では帰途にダイヤモンドの指輪を買った。
姉の岩谷富美子(82)=東京都=は「弟はにこにこ顔で『婚約指輪はいつ渡せばいいの?』って言っていました」と思い出す。
 東京五輪から1年半たった66年の春。
体育学校の新しい校長が円谷の結婚について話し合うため、円谷家や相手方の親族に声を掛け、ある席を設けた。幹部候補生学校に進んでいた円谷は欠席した。

 円谷の遺族らによれば、校長は席上、
「メキシコ五輪が終わるまで結婚は反対」
「世界の円谷と結婚する覚悟はあるのか」
「五輪前にどうしても結婚と言うのなら式場は東京」などと主張。
これに円谷の父幸七が反発した。「地元でやる」

 校長と円谷家側のやりとりは平行線をたどるばかり。
女性側は元々、結婚には慎重で「上官が反対するのなら」とこれを機に縁談の白紙を申し入れた。
 この件で円谷寄りの姿勢を取ったコーチの畠野洋夫(故人)は校長と衝突し間もなく札幌へ異動。
円谷は恩師さえも失った。
 この頃、円谷が古里の長兄に宛てた手紙に心情を赤裸々につづっている。
「公私を混同された学校長のもとではやれない」と怒り、
自衛隊に対しても「方々を引っぱり廻して英雄視させる」と不満をぶちまけた。
 さらに引退もほのめかした。
「一応次の目標を目指すとは云ったものゝ(中略)疲労こん敗でいさゝかの余裕すらありません」
「各方面からの期待はありましても、一線クラスとしてこれ以上続けるには無理」
「一般部隊へ行ってのんびりした気持で若者達と純すいな気持でやりたいと云うのが私の夢」

 後に体育学校長も務めた同僚の三宅義信(77)=宮城県村田町出身=は回想する。
円谷は心身が疲弊しきっていて、「『この際、引退して指導者になった方がいい』って助言した」。
さらに「円谷は管理されていた。自分で決められなかった」と同情する。

<過度な練習で故障>
 失意の円谷は66年9月に幹部候補生学校を卒業。
思い詰めた表情で郡山駐屯地を訪れ、かつて陸上部創設で力を合わせた斎藤章司(83)=郡山市=に「メキシコへ向けた第一歩として、昔の練習コースを一緒に走りたい」と言った。
約10キロ。少しだけ笑顔が戻った。
2人が会ったのも伴走したのも、これが最後だった。

 君原健二(75)=北九州市在住、当時八幡製鉄=が円谷と最後に対決したのは67年5月の全日本実業団選手権。
円谷は5000メートル、1万メートル、2万メートルと2日間で4レース(予選含む)をこなした。
控室では「メキシコで日の丸を揚げ、国民との約束を果たす」と話したという。

 君原には円谷がもがいているように見えた。
「異常な出場数。(円谷の)焦りを感じた。メキシコでの金は国立競技場で抜かれたことの国民へのおわびだったのでは」と思っている。
 円谷の体は悲鳴を上げていた。遅れを取り戻そうと過度な練習を重ねた結果、椎間板ヘルニアが悪化し、アキレス腱(けん)も部分断裂。
8月に手術し入院は3カ月にも及んだ。だが、思うように回復しなかった。

 67年12月、衝撃的なニュースが飛び込む。
福岡国際マラソンでクレイトン(オーストラリア)が2時間9分36秒4の記録で優勝。
ついに9分台に突入した。
 年末、孤独なランナーは敗北感に打ちひしがれながら古里に帰る。(敬称略)

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)
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③円谷幸吉メモリアルホール

〔2万mの世界記録破る〕

 円谷幸吉(1940~68年)は陸上自衛隊の郡山駐屯地(福島県郡山市)時代、ランナーとして着実に成長を遂げる。5000メートルで60年熊本国体5位、61年秋田国体2位。秋田国体1カ月後の青森東京駅伝では3区間を走り、計15人抜き、全て区間新という離れ業をやってのけた。

<環境整い練習没頭>
 円谷は翌62年、自衛隊体育学校が五輪選手養成のために新設した特別体育課程に入る。陸上に専念できる環境がようやく整った。
 朝日新聞社で長く陸上記者を務めた三島庸道(86)=東京都=によると、円谷を一流選手に押し上げたのは体育学校コーチの畠野洋夫(故人)だという。「円谷はがむしゃらで周りが見えない。褒め上手で緻密な畠野が必要だった」
 畠野は現役時代、無名の長距離選手であった。だが、陸上競技連盟やライバルのコーチにも頭を下げ、練習法を独自に学んだ。身の回りの世話や腰の持病の管理もきちんとやった結果、円谷は練習に没頭できた。記録更新が続き62年の日本選手権は5000メートル、1万メートルで大会新で優勝を飾る。
 トラックで活躍する円谷への注目が高まる一方で、周囲ではある意見も出始めた。マラソンへの転向だ。
 28年アムステルダム五輪三段跳び金メダリストで、東京五輪の陸上日本代表総監督を務める織田幹雄(故人)は60年ローマ五輪の記録を見て、マラソンが耐久レースからスピード競走の時代に入ったと認識していた。「ロード出身の選手は東京で勝てない」。円谷が鍵を握る選手に見えた。

<織田ら強力後押し>
 織田は地ならしを始めた。マラソンとトラック関係者との間にあった垣根を、陸連の選手強化指導本部長としてより低いものとした。今でこそトラックもロードも走る選手は当たり前だが、当時ではほとんど例がなかった。いわば外堀を埋めた形とし、あとは円谷の成長を待つばかりだった。
 織田の強力な後押しで、円谷はトラック選手ながら東京五輪前年の63年、陸連によるマラソン組のニュージーランド合宿に参加。記録会で、ザトペック(当時チェコスロバキア)が持つ2万メートルの世界記録を破った。日本人があの「人間機関車」を抜いた-。世界が衝撃を受けた。円谷はスピード時代に対応できる世界レベルの選手に成長した。
 最後にプッシュしたのは、同じ東北生まれで53年ボストンマラソンを制した山田敬蔵(大館市出身)だった。
 実は61年の青森東京駅伝で円谷と同じ区間を走り、抜き去られた経験を持つ。
先を疾走していく円谷の姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。
東京五輪のマラソンを心配する山田は64年に入って間もなく自衛隊体育学校を訪れ、校長に円谷のマラソン転向を進言した。
 山田のあまりの熱弁ぶりに校長が折れた。
円谷の遠征先に電話して意向を確認すると、きっぱりと「ぜひ、やってみたい」。
記者の三島は回想する。
「山田さんは『東北からすごい若手が出てきた』とうれしそうに話していましたよ」
 円谷は後日、三島に「どうしてマラソンをやる気になったのか」と聞かれ、こう答えた。
「日本人が世界で戦うにはマラソンしかないじゃないですか」。
三島は「もともとマラソンへの憧れがあったが、ニュージーランドの成功で自信が付いたようだ」とみる。
 円谷は以後、マラソンで中日名古屋5位、毎日2位となり、五輪代表となる。代表3人は粘りの君原健二(75)=八幡製鉄=、経験の寺沢徹(82)=倉敷レイヨン=、そして「スピードの円谷」と称された。(敬称略)

<円谷幸吉>3位転落 歓声 悲鳴に
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④東京五輪マラソン。国立競技場のゴール直前でヒートリーの猛追を受ける円谷。気力だけで走っていた=1964年10月21日
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⑤東京五輪マラソンの入賞者と日本選手

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)

〔東京五輪の重圧/マラソン 異様な盛り上がり〕
 アジア初の五輪。1964年東京大会は戦災復興を世界にアピールする国家プロジェクトだった。国民は、その晴れの舞台を心待ちにした。

<冷静さ失った君原>
 マラソンは今も昔も五輪の華だ。それが日本開催となれば、国民やマスコミの熱狂ぶりは尋常ではなかった。メダルを期待されながら8位に沈んだ君原健二(75)=当時八幡製鉄=。その後メキシコ、ミュンヘン大会を経験し、「東京は異様な環境の中での戦いだった」と語る。
 「ステート・アマ養成機関」ともやゆされた自衛隊体育学校特別体育課程。在籍する円谷幸吉(福島県須賀川市出身、1940~68年)にとって入賞は「任務」でもあった。
 体育学校の同僚で後に校長を務めた重量挙げ金メダリスト三宅義信(77)=宮城県村田町出身=は振り返る。「自分のために戦う意識はなかった。国のためであり、金メダルは自分の使命だった。その責任の重さは半端じゃなかった」
 長距離で五輪代表から漏れた体育学校の同僚、宮路道雄(79)=千葉県八街市=は上官から「とにかく、国立競技場に日の丸を揚げたい。円谷に協力してくれ」と言われたのを覚えている。「自衛隊を国民に浸透させる目的もある」。そういう認識だったという。
 マラソン代表3人はレース1週間前、ざわつき始めた選手村を離れ、神奈川県逗子市で調整した。
 間もなく「本命」君原が自分を見失う。練習を終えると、電車で2時間かけ東京へ行き、各競技を観戦した。体がもたないとコーチが判断し、君原と寺沢徹(82)=当時倉敷レイヨン=は選手村に戻った。落ち着きのない行動は直前まで続いた。「完全に舞い上がっていた」と君原。一方で「円谷さんは冷静だった」とも。
 円谷は掛け持ちの1万メートル出場が奏功したといえる。6位。トラック種目で28年ぶりの五輪入賞。大舞台での大健闘に肩の荷が軽くなった。コーチの畠野洋夫(故人)は緊張をほぐそうと円谷に「これで責任の大半は果たした。マラソンは君原に任せろ」と伝えた。

<高速レースに疲弊>
 10月21日、どんよりとした曇り空の下、マラソンが始まった。序盤から高速レースの様相を呈した。金メダルは予想通りアベベ(エチオピア)。世界最高記録による2連覇だった。
 観衆の目は2位以下の争いに注がれた。円谷は25キロ地点で4位、30キロで3位通過、36キロで2位に浮上し、そのまま国立競技場へ。しかし、経験のないハイペースでスタミナは限界だった。第3コーナーで後方からスパートしてきたヒートリー(英国)に抜き去られた。歓声は悲鳴へ。抜き返す力はもうなかった。
 レース後、宮路は円谷から聞いた。「(ヒートリーの存在を知らせる)観客の叫びは『頑張れ』という声援にしか聞こえなかった」
 あの時、円谷は一度も振り返っていない。「後ろをきょろきょろ見るような、めぐせえ(見苦しい)ことはすんな」。少年時代の父の教えが耳に届いたのだろうか。
 記者会見で円谷は「メキシコ五輪で雪辱したい」と言った。傍らで畠野は「あと4年たてば、ちょうど年齢的にトップの時」と補った。
 銅メダルとはいえ、競技場で敗れたレース。栄光の陰で24歳の円谷は途方もない期待の重さに悩まされていく。(敬称略)

<円谷幸吉>孤独な走者 にじむ焦燥感
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⑥自衛隊体育学校時代の円谷(右)と神立さん=1966年12月、東京都練馬区の自衛隊体育学校
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 1964年東京五輪マラソンの銅メダリスト、円谷幸吉(福島県須賀川市出身)が自死の1カ月前に友人の神立修司さん(73)に宛てた手紙は何を物語るのか。
手術しても好転しない腰の持病と、迫ってきたメキシコ五輪の代表選考レース。
手紙からは焦燥感に耐える「孤独な長距離走者」の苦悩が透けて見える。
 腰の痛みは幼少期にさかのぼる。
飼っていた秋田犬の散歩中に転んで股関節を脱臼し、関節炎になったという。
その体に激しい練習を重ねた結果、椎間板ヘルニアは終生の病になった。

 「栄光と孤独の彼方(かなた)へ  円谷幸吉物語」(ベースボール・マガジン社)の著者で、円谷と親交があった元新聞記者三島庸道さん(86)=東京都在住=によれば、円谷は67年の術後、経過が芳しくなく、2度目の手術を検討していたという。
 退院後、円谷から「痛みが取れず、マラソンどころじゃない。もう一度手術を受けたい。医者を紹介してほしい」と依頼された。
口止めされたため、今日まで口外しなかったという。

 当時の円谷は練習や生活面の環境でも追い込まれていたようだ。
信頼していた自衛隊体育学校のコーチが札幌に異動したからだ。
メキシコ五輪前の67年、けがを押して出たマラソンで惨敗が続いた。
そんな中で神立さんら中央大時代の学友は、冗談を言い合うような心許せる存在だった。
 円谷がさらにショックを受けたとみられるのがマラソンのハイスピード化だ。
67年12月3日の福岡国際マラソンで、デレク・クレイトン(オーストラリア)が世界で初めて2時間10分の壁を破る2時間9分36秒4という驚異的な記録で優勝し、2位の佐々木精一郎も2時間11分台の日本最高をマークした。
円谷の自己ベストとクレイトンの差は7分近くまで開いた。

 手紙がつづられたのは12月11日で、福岡国際の8日後。
「走れそうにあっても、見通し暗いです」「自分の出来る範囲内でこれからコツコツ積み重ねていってみます」の文面に、痛々しい胸の内が垣間見える。

 円谷の兄、喜久造さん(84)=須賀川市在住=は「私たちも体育学校の最初のコーチも東京五輪で幸吉の体は限界と分かっていた。だから、家族は68年の正月はメキシコ五輪には触れないようにした」と話した。(スポーツ部・宮田建)

●円谷幸吉(つぶらや・こうきち)1940年5月13日、7人きょうだいの末子として福島県須賀川町(現須賀川市)で出生。須賀川市の小中学校、須賀川高を経て陸上自衛隊に入隊。八戸教育隊、第6特科連隊(郡山市)を経て自衛隊体育学校に1期生として入校。64年東京五輪で男子1万メートルで6位入賞、マラソンで銅メダル。自己ベストは2時間16分22秒8。67年3月、中央大第二経済学部を卒業。68年1月9日午前、自衛隊体育学校宿舎で頸(けい)動脈をカミソリで切って死んでいる姿で発見された。享年27歳。

<円谷幸吉>自死1カ月前 再起へ自ら鼓舞
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⑦「走れそうにあっても、見通し暗いです」と苦しい胸の内を率直に友人に打ち明けた円谷の手紙
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 1964年東京五輪のマラソンで銅メダルに輝いた円谷幸吉(福島県須賀川市出身、1940~68年)が、自死の1カ月前に友人に送った手紙が保管されていることが分かった。翌68年のメキシコ五輪出場を目指しながらもけがの回復が遅れて見通しが厳しいこと、ゼロから再出発する決意などが記されている。関係者は、自死前の心境を知る貴重な資料として注目している。
 手紙をもらい所有していたのは中央大第二経済学部(夜間)で同級生だった横浜市の無職神立(かみだて)修司さん(73)。円谷は67年8月に椎間板ヘルニアとアキレス腱(けん)の手術で都内の病院に入院し、11月上旬に退院した。
 手紙は見舞いや見舞状に対する返礼で封書に便箋2枚。退院1カ月後の12月11日に書かれている。投函(とうかん)は所属していた自衛隊体育学校(東京都練馬区)ではなく、大分県の別府駐屯地の温泉療養施設からだった。
 手紙の存在は円谷の死が来年1月で五十回忌を迎えるのを機に河北新報社が取材を進める中で分かった。神立さんや関係者によると、この手紙の公開は初めてとみられる。神立さんは「過去にもらった手紙と比べ、字が乱れている。やはり術後の回復が良くなかったのだろう。後半の文面は自分に言い聞かせる言葉だったように思える」と語る。
 円谷は68年1月9日、自衛隊体育学校の宿舎自室で、「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」という家族宛てと学校関係者宛ての遺書を残し、自死した姿で見つかった。

◎友情感じる交流/「マラソンと日本人」の著書があるスポーツライター武田薫さん(仙台市出身)の話>
 自死のわずか1カ月前に学友と交流があったことを裏付ける貴重な資料だ。手紙の相手は陸上選手でないだけに、2人の交流に友情を感じる。椎間板ヘルニアやアキレス腱(けん)といった深刻な故障を抱えながら、「見通し暗いです」と当時の人気芸人の言葉に心情を託したところに円谷らしさがのぞいている。

<円谷幸吉>国民の心打った英雄
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⑧親族に宛てた遺書
 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)

〔(1)今に生きる/駆け抜けた27年の生涯〕

 冬の風物詩、東京箱根間往復大学駅伝。
陸上の長距離走に親しむ者なら誰もが憧れる舞台だ。
今年、精鋭たちを率いた監督20人のうち5人までが福島県出身者だった。
 駒大の大八木弘明(会津若松市出身)、東洋大の酒井俊幸(石川町出身)、早大の相楽豊(郡山市出身)、日大の武者由幸(相馬市出身)、国士舘大の添田正美(須賀川市出身)。
 ランナーに目を向ければ、往路4区で須賀川市出身の阿部弘輝(明大1年、学法石川高出)が疾走した。
 長距離と福島。関係性を考えていくと、ある人物の姿が浮き上がってくる。

<地元に夢引き継ぐ>
 円谷幸吉(1940~68年)。1964年東京五輪のマラソン銅メダリストで生まれと育ちが須賀川市。
メキシコ五輪が行われる68年の1月9日、所属する自衛隊体育学校(東京都練馬区)の宿舎で右頸(けい)動脈をカミソリで切り、自死した姿で見つかった。
 時に、「明」よりも「暗」を強調される選手でありながらも、地元にはスポーツ少年団「円谷ランナーズ」や「円谷幸吉メモリアルマラソン大会」があり、第2の円谷を育てようという夢が引き継がれている。
 箱根を走った阿部はここから巣立った。
地元の岩瀬郡市陸上競技協会理事長の本田実(65)は「(阿部が箱根駅伝を走り)階段を一つ上ることができた。いつか五輪選手が出ればうれしい」と感慨深げだ。
 なぜ、円谷の名は半世紀たった今も色あせないのか。
瀬古利彦や有森裕子らはどうして生家や菩提(ぼだい)寺にまで足を運び、冥福を祈るのか。
 時計の針を68年に戻す。
社会全体は騒然としていた。
ベトナム反戦運動が国内外で高まりを見せ、全共闘が生まれて大学紛争が激しさを増した。この年、日本は国民総生産世界2位の経済大国になる一方で、公害や交通戦争など高度経済成長のひずみも顕在化した。
 いわば「時代の転換点」での円谷の死だった。

<栄光のメダル重く>
 遺体発見時、都内在住だった姉、岩谷富美子(82)は小さな子をおぶって親族で一番に駆け付けた。6男1女の末っ子幸吉とは6歳違い。
最愛の弟の頬を両手で包み込み、「泣きながらさすった時の冷たさを今も覚えている」。
それは、頼れる人がいなかった円谷の心に触れた、ともいえる。
 当時の河北新報は円谷の死をこう伝えた。
見出しは「重かった栄光のメダル」「故障続きにあせり?」。
東京五輪で国立競技場を埋め尽くした7万5000の大観衆の中、英国のヒートリーに抜かれ3位に後退。
レース後、「4年後のメキシコ大会を目指す」と国民に「約束」したことで、かえって円谷は呪縛に陥ったのか。
 期待の重圧に敗れ去っていく選手は、過去にも今にもあまたいる。
しかし、円谷は想像もできないほどの栄光を極め、やがて誰も経験したことのない挫折感に打ちのめされた。
人はそのことを知っている。
だからこそ、あの「遺書」に胸を締め付けられ、涙する。(敬称略)

●円谷幸吉(つぶらや・こうきち)1940年5月13日、福島県須賀川町(現須賀川市)で出生。同町の小中学校、須賀川高を経て陸上自衛隊に入隊。八戸教育隊、第6特科連隊(郡山市)を経て、62年自衛隊体育学校特別体育課程の1期生として入校。64年東京五輪の男子1万メートルで6位入賞、マラソンで銅メダル。65年河北文化賞受賞。67年3月、中大第二経済学部(夜間)を卒業。68年1月9日午前、体育学校幹部宿舎の自室で自死している姿で発見された。命日は同8日。163センチ、53キロ(東京五輪代表選出時)。
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【平蔵の独り言】
何故、円谷幸吉にアクセスカウントが突然増えた!

円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。
<円谷幸吉>最愛の女性 五十回忌機に心境

河北新報に掲載された。

【独り言】
東京オリンピック、円谷幸吉さん
リアルタイムに時代を生きてきた忘れられない 人生のワンシーン

<円谷幸吉>最愛の女性 五十回忌機に心境
を語れるようになったのも、時間の流れが・・・・・・・・・・

自身にも時間が必要なことが、
日常を取り戻すには“心の中”が難しいですよね!
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by asanogawa-garou | 2017-01-19 16:15 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

箱根駅伝の復路10区で神奈川大学選手とワゴン車があわや衝突のトラブル発生!   

2017年 01月 10日
箱根駅伝の復路10区で神奈川大学選手とワゴン車があわや衝突のトラブル発生!

箱根駅伝であわや事故 交通規制の連携ミス
•1月5日 15時26分
箱根駅伝の復路10区で神奈川大学選手とワゴン車があわや衝突のトラブル発生!
〔連携ミスで車止められず〕

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3日に行われた箱根駅伝の復路で、神奈川大学の選手が都内の交差点にさしかかった際、交通規制が適切に行われず、選手が車にはねられそうになっていたことがわかり、規制を担当していた警視庁は担当者の間に連携ミスがあったとしたうえで、「再発防止に努めたい」としています。

トラブルがあったのは、箱根駅伝の復路のゴール地点の手前にある東京・千代田区の日比谷交差点で、警視庁によりますと、3日午後1時半ごろ、神奈川大学の10区の選手が交差点にさしかかった際、交通規制が適切に行われず、左から来た車にはねられそうになりました。
選手が直前でスピードを緩めたため、事故にはならなかったということです。

この交差点の交通規制は、数人の警察官が選手の通過に合わせて断続的に車を止める方法で行われていました。
交差点の手前にいる警察官が選手の通過を確認すると、交差点内の警察官に車を止めるよう無線で連絡しますが、トラブルがあった際は担当者の間に連携ミスがあり、情報共有がうまくいかず、一部の車を止めることができなかったということです。

警視庁は「警察官の連絡方法の見直しなど、再発防止に努めたい」としています。
関東学連「再発防止を」
箱根駅伝を主催する関東学生陸上競技連盟は「大会の交通規制は、すべて警察にお願いしているが、これまでの大会でこのようなことはなかった。選手の安全を第一に考えているので、来年以降の大会でこうしたことが起きないように警察と協議して再発防止に努めていきたい」と話しています。

〔連携ミスで車止められず〕
トラブルがあった日比谷交差点は、日比谷通りと晴海通りが交わる交通量の多い場所で、警視庁によりますと、当時、神奈川大学の選手は、日比谷通りを大手町方面に走っていました。

この交差点の交通規制は、数人の警察官が選手の通過に合わせて断続的に車を止める方法で行われていて、当時、交差点からおよそ数十メートル手前の日比谷通りにいた警察官が選手の通過を確認すると、無線を使って交差点内の複数の警察官に車を止めるよう連絡しました。

その結果、霞が関方面に向かって走行していた車は止まりましたが、銀座方面に走行していた車は連携ミスで情報共有がうまくいかず、止めることができなかったということです。

【箱根駅伝の復路10区で神奈川大学選手とワゴン車があわや衝突のトラブル発生!】
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3日にあった第93回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)のコースになっていた東京都内の国道1号交差点で、車の規制ができておらず、神奈川大学の選手が車にはねられそうになっていたことがわかった。
規制にあたった警察官の連携ミスが原因といい、警視庁は「再発防止に努める」としている。
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トラブルは3日午後1時半ごろ発生。
主催者の関東学生陸上競技連盟や目撃者によると、復路10区で神奈川大の選手が日比谷交差点(千代田区)を通過しようとした際、左から横断する車列が途切れず、選手とワゴン車が衝突しそうになった。
直前で選手が速度を緩め、レースは続行した。
警視庁交通規制課によると、同交差点では選手の通過に合わせて断続的に車を止める規制を実施。
手前の地点で通過を確認した警察官が、交差点にいる警察官に無線で連絡し、規制する手順だった。
神奈川大の選手の時は、通過の連絡はしたが連携がうまくいかず、東進する3車線が規制されなかった。
対向車線は止まっていた。

他の選手が通過した際は、問題はなかったという。
警視庁は連携強化や配置する警察官の増員を検討しているという。
選手の約50メートル後ろを走る車に乗っていた
神奈川大の大後(だいご)栄治監督は「通過する直前になっても車が横切っていた。事故にならず、何とかゴールしてくれてよかった」と話した。
レース後にあった監督らの会議で状況を説明し、
「タイミングが悪ければ箱根駅伝の存続が危ぶまれる事態だった」と発言したという


近くで観戦した埼玉県の女子高校生は「選手が近づいているのに車が止まらず、大丈夫かと周りもざわついていた。車は減速せず、選手がひかれそうでハラハラした」。
関東学連の担当者は「あってはならないことで、来年に向けて態勢を確認したい」と話した。
過去の大会で、選手と車が接触する交通事故が起きたことはないという。
参照元:ヤフーニュース

【平蔵の独り言】
警視庁交通規制課によると、同交差点では選手の通過に合わせて断続的に車を止める規制を実施。
手前の地点で通過を確認した警察官が、交差点にいる警察官に無線で連絡し、規制する手順だった。
神奈川大の選手の時は、通過の連絡はしたが連携がうまくいかず、東進する3車線が規制されなかった。
対向車線は止まっていた。
レース後にあった監督らの会議で状況を説明し、
「タイミングが悪ければ箱根駅伝の存続が危ぶまれる事態だった」


【独り言】
対向車線は止まっていた。
ということは、見ればわかるような状態を
慌てて、警察官は何を見ていたのか?

走者を見ながら交通規制をしていたら、
このような状況にならなかっただろうに!
交通整理(車)、観衆、走者の順・・・・・・・・
責任を果たしてない。

もし、事故になっても「お詫び申し上げます」
と、頭を下げてはい!おわり・・・・・
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by asanogawa-garou | 2017-01-10 15:07 | 今 今日この頃 | Comments(0)

【ちょっと一息・一休み】たわいもない話〔『へ』は『おなら』を連想させるため〕   

2016年 12月 19日
【ちょっと一息・一休み】たわいもない話
〔『へ』は『おなら』を連想させるため、〕
〔アンデスメロン〕アンデス山脈とはいっさい関係ない
〔バツイチ〕さんまの額に(×印)を書いて臨み
〔男は狩人〕実は女の方こそ狩人なのかもしれない

〔『へ』は『おなら』を連想させるため、〕
ナンバープレートのひらがなに使われていない文字とは?

特別な理由から使われていないひらがなもある。

『お』・『し』・『へ』・『ん』

「『お』は『あ』と誤認される恐れがあるため、
『し』は『死』を連想させるため、
『へ』は『おなら』を連想させるため、
『ん』は発音しづらいため、
『ゐ・ゑ』は旧仮名遣いで、ほかに同じ発音の文字があるため――といった理由から使用されておりません」(国土交通省自動車情報課)
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【平蔵の独り言】
『お』・『し』・『ん』は“ふむふむ”と納得するけれど、
『へ』で『おなら』は如何にもその時の官僚(担当者)の
趣味の問題・・・・・・・


〔アンデスメロン〕
〔アンデスメロン〕アンデス山脈とはいっさい関係ない
元々、網目のあるメロンは一本にたった1個しか実らない栽培の難しい果物。
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これを一本のつるに複数実がなるように長年のかかって実現した。
このマスクメロンを作る人、売る人、買う人、3つに「安心です」
(メロンは“しん”を取って食べるから「安です」)を略す形で命名された冗談のようなネーミングから

【平蔵の独り言】
年少の頃はマクワ瓜(黄色い、種がたくさん詰まった)が病人のお見舞い果物に、
めったに口に入らないものだったが、
〔アンデスメロン〕安心です。の“しん”を取って食べるから「安です」
ネーミングした人の発想が楽しい。


〔バツイチ〕さんまの額に(×印)を書いて臨み
さんまが大竹しのぶと離婚の会見でさんまの額に(×印)を書いて臨み「バツイチですね」
あれから“バツイチ”という言葉が流行った。
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【平蔵の独り言】
さんまが何気なく書いた“×”がこんなに日常会話に受入られるとは
離婚が軽くなって“バツ!”“バツイチ”・・・・・


〔男は狩人〕実は女の方こそ狩人なのかもしれない
「男は狩人」恋の駆け引きにおいて、男は自分から動いて意中の女性にアプローチするものだと考えられてきた。
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しかし女だって恋はしたい。
意中の「狼」をパートナーにしたければ、
狼の前に弱そうな姿をさらすことで、
獲物にされるチャンスを作る。

意中の「狩人」をパートナーにしたければ、
相手の作戦にうまく乗り、
どこを撃てばハートに当たるのかそれとなく的を示し、
時に予想を裏切る行動をすることで相手をより近くへ引きつけ、
今こそ矢を射るときだと思わせる瞬間をそれとなく知らせる。

ううむ。
実は女の方こそ狩人なのかもしれない。

【平蔵の独り言】
草食系、絶食系、などと女から逃げる口実にしているが
元々“女” という動物は面倒くさい動物なのだから
男が狩人にならない限り、日本の発展は期待できないではないか?
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by asanogawa-garou | 2016-12-19 17:20 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔テレ東・狩野アナが「モヤさま」で学んだこと〕“間”を理解できず、“間”を埋めすぎてしまったり、   

2016年 10月 21日
〔テレ東・狩野アナが「モヤさま」で学んだこと〕“間”を理解できず、“間”を埋めすぎてしまったり、お二人の言葉で場が盛り上がった直後に言葉をかぶせてしまって

テレ東・狩野アナが「モヤさま」で学んだこと(20代に伝えたい、仕事との向き合い方)
“間”を理解できず、しゃべりたいときにしゃべりたいことをしゃべり、“間”を埋めすぎてしまったり、お二人の言葉で場が盛り上がった直後に言葉をかぶせてしまって

東洋経済オンライン2016/10/16

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①ありがとうございます
〔モヤさまで学んだこと〕周りから見られる仕事という意識さえなかった。
「いま、何が分からないかを伝えるのも、新人の役目なんだよ」とのお言葉。

〔モヤさまとの出会い〕きちんと周りを見て、人のアドバイスを聞きなさい。

〔モヤさまとの出会い〕
番組独特の“間”を理解できず、
しゃべりたいときにしゃべりたいことをしゃべり、
“間”を埋めて“間”を埋めすぎてしまったり、
お二人の言葉で場が盛り上がった直後に言葉をかぶせてしまって、
面白さを半減させてしまったりするようなことが何度もありました。

「オイ狩野!“間”というものをもっと楽しめ! 大人になれ。まぁ、おまえにはまだ難しすぎる話かな、ハハハ!」

〔伊藤Pの「心に響く言葉」〕「その場、その場に感謝して生きなさい」
伊藤P曰く……。
この番組についたのは狩野自身の引きの強さもあるかもしれないが、それを生かすのも殺すのも周り次第だ。

この番組のスタッフは皆、おまえを大事にしようとしてくれているのだから、常に周りの人たちに感謝をして、一回一回を大事にして仕事をしなさい、と。

〔「大江さん、なんで私なんですか」と号泣した夜。テレ東・狩野恵里書『半熟アナ』〕
大江麻理子アナウンサーの熱烈プッシュで抜擢「狩野恵里って、誰?」
大江アナは「私の時とは全然違った感じで、さまぁ~ずさんは狩野ちゃんに接してくれているね。きっとこんなふうになるって、私は思っていたんだよ」と語りかけたという。


狩野 恵里 :テレビ東京 アナウンサー 狩野 恵里テレビ東京 アナウンサー1986年10月29日生まれ、東京都出身。2009年、国際基督教大学教養学部卒業後、テレビ東京にアナウンサーとして入社。2013年4月より、大江麻理子キャスターに代わって「モヤモヤさまぁ~ず2」を担当、2016年秋までの約3年半、レギュラーを務めた。11月からは、新番組・経済ニュース『ゆうがたサテライト』のキャスター就任が決定している。
2016年10月16日
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②ついに「モヤさま」卒業!テレビ東京・狩野恵里アナが20代に伝えたい「仕事論」とは?
「半人前」から「一人前」に成長する過程で、人はふつう、多くの失敗を経験します。
そして、その失敗を「糧」にできた人が、一人前へと成長します。
しかし、たった一度の失敗に萎縮して本来の実力を出せなくなる人や、プライドが邪魔をして、他人の言葉に耳を傾けられず、成長のチャンスを逃す人も少なくありません。
そこで、今年20代を卒業し、10月16日(日)に「モヤモヤさまぁ~ず2」を卒業する『半熟アナ』の著者・狩野恵里アナウンサーに、20代に伝えたい「仕事の向き合い方」について聞きました。

何が分からないかを伝えるのも、新人の役目
新人の頃の私は、失敗ばかりのアナウンサーでした。
同期や先輩たちに追いつかなければ、という焦りだけで空回りしていました。

自分の中で「アナウンサーはこうあるべきだ」という気持ちが先行して、
がむしゃらにやってきたつもりでも、それは周囲から見れば、
独りよがりの「自己満足」でしかなかったのかもしれません。

入社して、半年ほどたった頃です。
席で予習などをしている自分に、デスクの先輩から声をかけられました。
「狩野。そろそろ自分で気づくかと思って見ていたけど、何も変わってないな。おまえ、この半年間、何やってた? 自分に何が足りないのか、自分で考えてみろ」

いきなりの出来事に、正直戸惑いが隠せません。
私は何をやらかしてしまったのだ。
誤読? 遅刻? いや、思い当たることはいまのところない……なんのことを言っているのだろう。
特定の仕事のことを指すわけでもなく、「自分で考えてみろ」というただその一言。
先輩の寡黙な背中に、「おまえはアナウンサー失格だ」と言われている気がしました。

〔モヤさまで学んだこと〕周りから見られる仕事という意識さえなかった。
テレ東・狩野アナが「モヤさま」で学んだこと 2016年10月16日

自分には何が足りないのか。
いまになって振り返ってみれば、
当時の自分はアナウンサーとしての技術はもちろん、
取り組み方や身だしなみ、普段の言葉遣いまで、足りないことばかりだったと分かります。
しょっちゅうノーメイクで出社していましたし、ラフな格好ばかりしていました。
アナウンサーというものが、周りから見られるものだという意識もありませんでした。

また、忙しそうな先輩方に発声を聞いてくださいと頼むのは厚かましい。
けれど、自分なりに練習してみたものの、その練習方法がまったく的を射ていなかったり……。

デスクから「考えろ」と言われた次の瞬間から、自分がどうしたらいいのか分からなくなりました。

それもこれも「言い訳」だと気付いた
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③迷った揚げ句、アナウンス部の先輩、水原恵理さんに相談したところ、

「いま、何が分からないかを伝えるのも、新人の役目なんだよ」とのお言葉。

自分ひとりで、ただがむしゃらに練習をするのではなく、いま、自分がどんな段階にいて、何がわからないかを周りに伝えるのも、新人の仕事だというのです。

それまでの自分は、わからないことがあっても、上司や先輩に聞くのは申し訳ない。
忙しそうな先輩たちに原稿読みを見てくれるように頼むなどというのは畏れ多い。
自分のために時間を割いてもらうだなんて、とんでもない! と思っていました。
でも、結局のところ、それは自分に都合のいい“言い訳”だったのかもしれません。
「こんなこともできないのか」と思われるのが嫌で、「教えてください」の一言が言えず、分からないことがあっても、「明日聞こう」と先延ばししていた気がします。

面倒くさい新人だと思われたくない。
恥ずかしい思いをしたくない。
そんな変なプライドも、あったかもしれません。
何もかもうまくいかないと落ち込んでいる自分に、水原さんはこうも言われました。
「うまくいくわけがないよ、新人なんだから。入って数カ月で、しかもひとりで何かをやろうと思ってはダメ。先輩は、後輩に聞かれるのも嬉しいときだってあるんだから」

〔モヤさまとの出会い〕きちんと周りを見て、人のアドバイスを聞きなさい。
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④癒やし系スマイルで人気の狩野恵里アナウンサー。
仕事で悩んだ際は「とにかく現場に出る! 考えすぎるとマイナスの方向へ行ってしまうから」と“行動派”だ=東京・虎ノ門

入社して8年目のいまになれば、その言葉の意味がよく分かります。
入社してすぐの新人が、ひとりで何かできると思うほうが、よほど、おこがましい。
すぐにできるほど簡単な仕事ではないし、もし本気でそう思っているとしたら、その仕事をなめているということになります。
デスクが言いたかったのも、こういうことだったのかもしれません。
仕事というのは、それほど簡単なものではない。
一人でできると思わず、きちんと周りを見て、人のアドバイスを聞きなさい。
仕事を軽くみてはいけない、ということだったのでしょう。
若いときに注意されること、しかられることは「残念」なことではありません。むしろ「幸せ」なことです。
何事も、言ってもらえるうちが華! なのです。
「狩野にはもう言っても仕方がない。もう成長しないのだから、言うのはやめた」
もしもそんなふうに思われてしまったら、失敗は放っておかれ、そのミスにも気づかないままお気楽に毎日を過ごしていたかもしれません。当然ながら、何も成長できずにいたはずです。しかられるのも、注意をされるのも、少なくとも、まだ伸びしろがあると思ってもらえているということ(だと思いたい)。
これからも「しかられることの幸せ」をかみ締めながら、日々精進していきます。

〔モヤさまとの出会い〕番組独特の“間”を理解できず、しゃべりたいときにしゃべりたいことをしゃべり、“間”を埋めて
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⑤大出世の狩野恵里アナ(C)日刊ゲンダイ
「モヤさま」ならではの”間”に苦戦するも…
2009年にテレビ東京に入社し、その後、「モーニングサテライト」や「ワールドビジネスサテライト」の現場を経た、2013年の春。「モヤモヤさまぁ~ず2」に携わることになりました。
今回、卒業となるまでの約3年半、私にとって初めてのバラエティ番組は、勉強の連続、かけがえのない財産になりました。
「モヤさま」は言わずと知れた、さまぁ~ずさんの番組です。
数々のレギュラー番組を持つお二人のいちばん近くで、もはや特等席でその楽しい現場を体感できている一方で、求められているその場での役割を何ら全うできていない自分に、毎度「喝!」を入れてきました。
『半熟アナ』にも書きましたが、偉大な先輩、大江麻理子キャスターからバトンを受け取った直後は、
番組独特の“間”を理解できず、しゃべりたいときにしゃべりたいことをしゃべり、“間”を埋めてこのかた20数年生きてきた自分としては、“間”を埋めすぎてしまったり、お二人の言葉で場が盛り上がった直後に言葉をかぶせてしまって、面白さを半減させてしまったりするようなことが何度もありました。

そのたびに周りからは、「狩野! 出すぎているぞ!」と注意を受けることもしばしば……。

「あああ、しまった。また調子にのって、つい出すぎてしまった……」
恥ずかしくなって、小さく小さく縮こまって静かにしていたときに、さまぁ~ずのお二人から、「狩野! 振られたら全力でいけよ! トライ精神をなくしたら人生終わりだぞっ!」と言われたことは忘れられません。
その言葉にどれだけ励まされて、背中を押されたことか……。

〔伊藤Pの「心に響く言葉」〕「その場、その場に感謝して生きなさい」

テレ東・狩野アナが「モヤさま」で学んだこと
20代に伝えたい、仕事との向き合い方


“間”恐怖症の私を救ってくれたのも、三村さんの言葉でした。番組の打ち上げのときのことです。
「オイ狩野!“間”というものをもっと楽しめ! 大人になれ。まぁ、おまえにはまだ難しすぎる話かな、ハハハ!」
……そうか。
「楽しむ」という考え方をしてみればいいのか。
ほろ酔い気分の三村さんが冗談ぽくおっしゃった言葉でしたが、その言葉で気持ちがラクになったことを思い出します。
その場、その場に感謝を
また、番組スタッフからも多くのことを学びました。
番組に携わるようになって、しばらく経った頃です。
「その場、その場に感謝して生きなさい」
プロデューサーの伊藤さん(伊藤P)が、そうアドバイスしてくれたことがあります。
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⑥初エッセイ『半熟アナ』。オビにはさまぁ~ずからの絶賛コメントも!?

「この表紙は写真写りが良すぎる!」とさまぁ~ずにツッコまれていたが、たしかにこの表紙の狩野アナは最高の写真写りだ。

伊藤P曰く……。
この番組についたのは狩野自身の引きの強さもあるかもしれないが、それを生かすのも殺すのも周り次第だ。
この番組のスタッフは皆、おまえを大事にしようとしてくれているのだから、常に周りの人たちに感謝をして、一回一回を大事にして仕事をしなさい、と。
「モヤさま」チームは、数ある番組のなかでも、特に一体感が強いことで知られています。
番組のスタッフは、「面白いものをつくろう」という一念で通じ合っています。
そのために、さまぁ~ずさんだけでなく、私をどう活かすかも考えてくださっていました。
そして、スタッフ全員に一致した明確な目標があるためか、非常によいチームワークで仕事をしています。
足を引っ張る人や、他人をねたむ人、不平不満を言うような人は、このチームにはいません。
もちろん、番組をつくるうえでの必要なアドバイスや提案はあります。失敗やミスをした本人に、あのときはこうしたほうがよかったとズバリ、ダメ出しをすることもあります。
厳しい言葉をいただくこともありますが、良いところも悪いところもフィードバックをしてもらえる環境はありがたく、いまの自分の成長に必要不可欠だったことは間違いありません。


〔「大江さん、なんで私なんですか」と号泣した夜。テレ東・狩野恵里書『半熟アナ』〕大江麻理子アナウンサーの熱烈プッシュで抜擢「狩野恵里って、誰?」

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⑦がんばれ!狩野アナ
彼女自身は「テレ東でしか開花しなかった」と思っているようだが、視聴者による印象はどうなのか?
 実は以前、狩野アナは視聴者からこんなツイートをされたという。
「『モヤさま』を観て、狩野アナをテレビ東京が採用した意味がわかりました。
『モヤさま』を観て、狩野アナを他局が採用しなかった意味もわかりました」
まさに、オリジナリティが問われるテレビ東京ならではの選球眼。
素晴らしい会社である。

〔大江麻理子アナウンサーの熱烈プッシュで抜擢〕

そんな狩野アナが「モヤさま」レギュラーに抜擢されたのは、2013年。
これは、当時ニューヨーク行きが決まっていた大江アナ自身による推薦が大きかったらしい。
何しろ、スタッフの多くは「狩野恵里って、誰?」なんてリアクションだったというのだから。
それまで主に報道番組を担当していた狩野アナの情報は、バラエティフロアに届いていなかった。
しかし「大江アナがそこまで言うなら……」と次第に風向きは変わり、
さまぁ~ずが「どんな人間がくるかはわからないけど、『体当たり』で受けてみよう」と答え、狩野アナの抜擢が決定したという。

でも、何度も言うが前任者が偉大すぎる。
やはりこの3年間、狩野アナは何度も壁にぶつかっていた。
「『モヤさま』を見てくださっている方はおわかりになるかもしれませんが、あの番組には独特の“間”があります。…アナウンサーにとってバラエティは、とりわけ「モヤさま」はすごく難しいはずだ。
場が静かになった時に「これは○○ですね」と情報を提供していくスキルこそが、アナウンサーに本来求められる技術である。
「たしかに、自分は“間”恐怖症で、いらないことばっかりをしゃべってしまっている……」

狩野アナが「モヤさま」のレギュラーになって1年が過ぎた頃、
ニューヨークから帰国した大江アナがロケ後の打ち上げに参加した。
こんな状況になれば、盛り上がらないわけがない。
「1年ぶりに会ったのに、息がぴったりで、お互いに言わんとすることをわかり合えている、この空気感。なんだか一人、取り残されたような気持ちになってしまいました。なんだ、この心地よい空気感は。そして、なんだ、この疎外感は……」

感極まった狩野アナは、遂には号泣してしまう。
「狩野ちゃん、どうしたの?」という大江アナの優しい言葉に、さらに号泣してしまう狩野アナ。
「大江さん、なんで、なんで私なんですか……」

この日の帰り道、狩野アナと二人きりになった大江アナは「私の時とは全然違った感じで、さまぁ~ずさんは狩野ちゃんに接してくれているね。きっとこんなふうになるって、私は思っていたんだよ」と語りかけたという。
家に帰った狩野アナは、一人でまたホロリ。
そして、やっぱりさすがは大江アナである。
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⑧子持ちの雰囲気

【平蔵の独り言】
“間”を理解できず、しゃべりたいときにしゃべりたいことをしゃべり、
“間”を埋めすぎてしまったり、
お二人の言葉で場が盛り上がった直後に言葉をかぶせてしまって

【独り言】
“もやさま”のすごい美人でもない、頭が良さそうに見せない
でも、飾らずに必死でさまーずに立ち向かっていく姿は日曜の午後何も残らない番組(ただ、楽しい)
(売れない芸人が仲間内でげらげらしている低俗な番組しか民放で放送していない中で)
唯一無二(笑点と双璧)であったが、著書「半熟アナ」で
“間”の話が出ている。
これが“もやさま”を見ていて心地いい原点?

“間”と〔余白〕
“間”話しの“間”を作る。
会話に相手から聞く、考える時間が次の会話につながる。(引き出す)
“間”を埋めて(被せて)はいけない。
“間”を「楽しむ」(“間”を「楽しめ」)
“間”から新しいこと(もの)が産まれてくる。

〔余白〕余白のある人生の方が楽しい、余白に書き込みができる。


「その場、その場に感謝して生きなさい」
〔“場”(その場)〕“場”が読めるか。その場に立てるか、立っているか?
立ち位置がわかっているか。
「その場、その場に感謝して生きなさい」:周りの人たちがいて(相手がいて)、その場にいる。

【平蔵の独り言】
〔「大江さん、なんで私なんですか」と号泣した夜。
テレ東・狩野恵里書『半熟アナ』〕大江麻理子アナウンサーの熱烈プッシュで抜擢「狩野恵里って、誰?」

【独り言】
当たり前だが、大江アナから「狩野恵里って、誰?」
ほんとうにさまーずに馴染んでなかった。(見る方も)・・・・・
でも最後まで、立ち向かっていく(ちょっとずれている)「狩野」楽しかった。
「狩野」のもやさまは“作為”がない、感情も全身全霊で不器用だから?
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by asanogawa-garou | 2016-10-21 17:09 | 今 今日この頃 | Comments(0)

【伊集院静】〔夏の終わりに〕“サヨナラニモ、チカラガアルンダヨ”   

2016年 10月 03日
【伊集院静】〔夏の終わりに〕“サヨナラニモ、チカラガアルンダヨ”
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別離(わかれ)に“サヨナラ”とは一言も言わなかった。

それでも歳月は、彼等、彼女たちの笑ったり、歌ったりしているまぶしい姿を、ふとした時に見せてくれる。
その姿を見た時、思う。

“さよならも力を与えてくれるものだ”

人の出逢いは、逢えば必ず別離を迎える。
それが私たちの“生”である。
生きていることがどんなに素晴らしいことかを、
さよならが教えてくれることがある。

時間は人間に容赦を与えぬ故に、
驚くほど残酷であり、後年になると、感心するほど寛容で、抱擁力を持つものだ。

“生きていた力”夏のおわりに。

それがどうした〔男たちの流儀〕伊集院静 週刊現代9/24,10/1号

【平蔵の独り言】
“生”生きているから生き抜く努力を
これでいいのかと信じて毎日を過ごしている。

この夏、また別離。
遺影を見ながら、話しかけた。

励ましてくれた人、さよならではなく“寂しくなった”

”寂しい” という言葉は・・・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2016-10-03 16:59 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

【樹木希林】「生きるのも日常、死んでいくのも日常」「死ぬときぐらい好きにさせて」「今を大事にしたい」   

2016年 03月 04日
【樹木希林】「生きるのも日常、死んでいくのも日常」 「死ぬときぐらい好きにさせてよ」
 樹木さん〝終活宣言〟「今を大事にしたい」


〔『生きるのも日常、死んでいくのも日常』〕
〔「死ぬときぐらい好きにさせてよ」〕



〔樹木希林〕【病気はたまわりもの】私たちは、ほんとうのもの、大切なものを見失っています。「今を大事にしたい」平成21年3月

〔『生きるのも日常、死んでいくのも日常』〕
今回の広告について樹木さんは
「『生きるのも日常、死んでいくのも日常』。
死は特別なものとして捉えられているが、死というのは悪いことではない。
そういったことを伝えていくのもひとつの役目なのかなと思いました」とコメントしている。

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①樹木希林さん、新聞広告で〝終活宣言〟に大反響 「死ぬときぐらい好きにさせてよ」

〔「死ぬときぐらい好きにさせてよ」〕
女優の樹木希林さん(72)が、新聞広告で「死ぬときぐらい好きにさせてよ」と〝終活宣言〟した。
洋画家の名作と重ね合わせた美しいビジュアルと、「死」をテーマにした衝撃的なキャッチコピーに、ネットなどで生死を考える書き込みが相次いでいる。(杉山聡)

■「死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく…」
 広告は5日の一部全国紙に掲載された。
見開きカラー刷りの特大広告だ。
出稿元は出版の宝島社。
広告は、英国の画家ジョン・エヴァレット・ミレイの名作『オフィーリア』をモチーフに、樹木さんが死を連想させるように森の小川の中で横たわっている。

「死ぬときぐらい好きにさせてよ」というキャッチコピーに以下のようなフレーズが添えられている。
 
人は必ず死ぬというのに。
 長生きを叶える技術ばかりが進歩して
 なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。
 死を疎むことなく、死を焦ることもなく。
 ひとつひとつの欲を手放して、
 身じまいをしていきたいと思うのです。
 人は死ねば宇宙の塵芥。
せめて美しく輝く塵になりたい。
 それが、私の最後の欲なのです。


■制作意図は「『死』を考える契機に」
 制作意図を宝島社は、長く生きることばかりに注目が集まり、
どのように死ぬかを考える人が少ない現状を踏まえ、
「いかに死ぬかは、いかに生きるかと同じであり、
それゆえ、個人の考え方、死生観がもっと尊重されてもいいのではないか、
という視点から、問いかけています」と説明する。
 
若い世代を含め、多くの人に「死」について考えることで、
どう生きるかを考えるきっかけになることを目的とした広告出稿だった。

 樹木さんは、2013年に「全身がん」であることを告白し、世間を驚かせた。

 今回の広告について樹木さんは「『生きるのも日常、死んでいくのも日常』。
死は特別なものとして捉えられているが、死というのは悪いことではない。
そういったことを伝えていくのもひとつの役目なのかなと思いました」とコメントしている。


■ネット上で書き込み続々、現在も
 「死」をテーマにした衝撃的な広告に、ネットでは話題が広がっている。
ツイッターには、広告掲載から1日経った6日時点でも次々と投稿されている。
その書き込みの多さや、内容のまじめさは、多くの人が「死」や「死生観」を身近な問題として考えている証左とも受け取れそうだ。

一例を挙げると以下のような書き込みが目に付いた。
 「私の中でモヤっとしていた気持ちが、適切な言葉で綴られていた」
 「読んだ人が死生観を改めて考えるきっかけになりそう」
 「とても綺麗だし、かいてある言葉が心に突き刺さる」
 「死生観について年齢を問わずに話す機会があってもいいと思うし、当人の死生観を尊重してもいいと思う」
 「樹木希林さんが終活なんて、、、なんだかな」
 「宝島社がすごいのか、樹木希林がすごいのか、これをドーンと載せちゃう新聞がすごいのか…」

■シニア層「樹木さんの考え深く知りたい」
 宝島社には主にシニア世代から電話で反響が寄せられたという。
 同社の担当者によると、
「安楽死や尊厳死の問題が取りざたされる中、すごく共感した」
「樹木希林さんの考えについて、掘り下げて知りたい」
「死に方について考えた」
との声があったという。

 担当者は、「おおむね好意的な反応だった。生き方、死に方について一石を投じたい」と予想以上の反響に満足そうだ。

宝島社は、1998年の田村隆一さんを起用した「おじいちゃんにも、セックスを。」、
2002年の「国会議事堂は、解体。」、
11年の「いい国つくろう、何度でも。」などで、インパクトのある企業広告を制作している。
今回の広告も同社の広告史を飾るものとなりそうだ。
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②「死ぬときぐらい…」宝島社企業広告が問う死生観に反響 2016.01.12
人々の記憶に残る企業広告で知られる宝島社の最新の新聞広告が掲載された。
女優の樹木希林さんを起用し、「死」をテーマに強烈なコピーとビジュアルで迫る内容に、ネットなどでは生死を考える書き込みが相次いでいる。
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2016.01.06

〔樹木希林〕【病気はたまわりもの】私たちは、ほんとうのもの、大切なものを見失っています。「今を大事にしたい」
平成21年3月

 今年、66歳を迎えた女優の樹木希林さんは、一時、網膜剥離で左目を失明し、その後、乳ガンの摘出手術を経験しました。
2つの病気をして分かったことは、「病気はたまわりもの」だということでした。

 樹木希林さんは、18歳のとき、女優としてスタートしました。
テレビドラマの「時間ですよ!」や「寺内貫太郎一家」などで活躍しました。
 若いころから、老け役が得意でした。
「寺内貫太郎一家」では、主役の小林亜星さんより10歳も年下なのに、小林亜星さんの母親役を演じました。
以来、老け役が、当たり役となりました。
出演したドラマや映画では、脇役ながら、個性的な演技で、主役をしのぐ演技力を発揮します。
また、ピップエレキバンやフジカラーのコマーシャルにも出演し、お茶の間の人気者となりました。

樹木希林さんは、お茶目な一面を見せたり、おっとりした風貌からの演技が売りです。
しかし、演技そのものに関しては厳しい人のようです。
自分にも厳しく、共演者にも妥協を許さない厳しさを要求し、共演の若手女優を泣かしてしまうこともあったようです。

 30歳の時、音楽家として活動していた内田裕也さんと結婚しました。
内田裕也さんは、ロックミュージックを得意とし、昭和35年ごろから、日本のロックミュージックの中心的存在として活躍しました。
1女に恵まれましたが、2人が同居したのはわずか2年足らずで、その後は別居生活になりました。
2人とも、芸能人です。すれ違いの多い生活でした。
お互いを理解する時間を持てないまま、別々に住むことになりました。
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③別居生活6年ほど経ったとき、内田裕也さんが、独断で離婚届を役所に提出しました。
夫の勝手な行動を許せなかった樹木希林さんは、離婚無効の裁判を起こしました。
裁判の途中、裁判官から、「あんなに分かれたがっているのだから、分かれてあげなさいよ!」と諭されたこともありました。

それでも、頑として離婚を承知しませんでした。
裁判に勝ち、離婚は無効となりました。
結果、戸籍はもとに戻りましたが、2人の別居生活は続きました。
 その間に、1人娘の也哉子さんが結婚しました。
相手は、本木雅弘さんです。
映画「おくりびと」でアカデミー賞を獲得した、あの本木雅弘さんです。

そんな慶事をよそに、60歳のとき網膜剥離で左目を失明しました。
担当医から手術するように言われましたが、手術しませんでした。
そのときのコメントが、「今まで色々なものが見えすぎた!」という達観したものでした。

これまでの、熱く燃え、がむしゃらに突っ走り、そして勇み足も多かった俳優人生が反省させられたのでしょう。
その後、左目の視力は少し回復しましたが、十分ではありません。
 その2年後、62歳のときです。
網膜剥離に追い打ちをかけるように、乳ガンが見つかりました。不安を感じて、摘出手術を受けました。
 連続して2つの病気を経験したことで、「死」を意識するようになりました。

今まで、遠いものと思っていた死が身近に迫っている、
他人事と思っていた死が自分のものになりつつあることを実感するようになりました。

死を身近に感じると、これまで持ったことのなかった、「今を大事にしたい」という感情が涌き出てきました。

 そのとき、夫の内田裕也さんに謝ろうと思い立ちました。

夫を恨んで死ぬのは良心が許さない、
夫婦の問題を残したままでは死ねない、
離婚問題を起こす原因となったであろう、
ほったらかしにしたことを謝ろうと決心しました。
 友人を介して食事の席を設け、内田裕也さんに謝りました。
そのときは、内田裕也さんから一言もありませんでした。
その後、2人はちょくちょく会うようになり、今では、2人で旅行にも行くようになりました。
 30年あまりの、夫婦の長い闘いは終わりました。

 樹木希林さんは、「死に向けて行う作業は、おわびですね。謝るのはお金がかからないし、謝ったら、すっきりするしね。ガンはありがたい病気よ! 周囲の人も真剣に向き合ってくれるから。そういう意味で、ガンはおもしろいんですよね!」とか、「病気によって、いろんなよじれが見えてきて、人生が変わる。病気はたまわりものだと思っています!」とも語ります。

 私たちは、病気をたまわりものだとは考えません。
病気は災難だと考えます。
やっかいものだとも考えています。
また、私たちは、歳をとることは、みじめだと考えます。
死は、終わりだとも考えています。

 樹木希林さんは、病気をしたことで、夫婦の真実に出会いました。
その出会いによって、病気を「たまわりもの」と引き受けました。
そうすると、歳をとることはみじめではなく、死は終わりでないという受け止め方もできるはずです。

歳を取れば、人生の深い智慧に出会い、それを蓄える楽しみがあります。

また、死は、映画「おくりびと」で、火葬場の職員を演じた笹野高史さんが言ったせりふ、「死は門だ。次のシーンへの旅立ちの門だ!」という受け止め方があることに気づきます。

 私たちは、ほんとうのもの、大切なものを見失っています。
樹木希林さんにとって、ほんとうのもの、大切なものに出会うきっかけ、縁となったのが、病気でした。

病気を縁として、真実に出会いました。
 だから、誰もが嫌う病気を、「たまわりもの」だと断言できるのです。

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▼2013年に「全身がん」であることを告白した

樹木希林『死ぬ死ぬ詐欺』(全身がん宣言)

【平蔵の独り言】
「生きるのも日常、死んでいくのも日常」
日常がこの数年、毎年実感している。

人生で大切な先輩、後輩の「死」が日常と感じる中で
旅立っていく人達が“心”の中に残る。

そして20年前、“今から6時間が山です”と、
家人に告げられていたが明け方、目が覚めた。

この時の自身の大きな出来事は、
最近の車運転中の突発的な事故の発生を想い、
車運転中に体の異変感じすぐ運転を中止したこと経験を残そうと思っている。

【平蔵の独り言】
私たちは、ほんとうのもの、大切なものを見失っています。
「今を大事にしたい」

「今日1日が人生“しなきゃと思ったことを明日に持っていけない”」小泉今日子50歳

【独り言】
“今日1日が人生”ですね。
日々、身の回りで起きていることは自身のことですから!
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by asanogawa-garou | 2016-03-04 15:26 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔五木寛之〕嫌老社会:「流されゆく日々、嫌老社会の理想と現実」・【〔ご機嫌なシニア世代を目指せ!〕】   

2016年 02月 27日
〔五木寛之〕嫌老社会:「流されゆく日々、嫌老社会の理想と現実」・【〔ご機嫌なシニア世代を目指せ!〕】
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①〔団塊スタイル(五木寛之)83歳〕・嫌老社会を超えて

「流されゆく日々、嫌老社会の理想と現実」

【〔ご機嫌なシニア世代を目指せ!〕】
団塊の世代とその一つ上の世代の機嫌が悪いように感じる。

【〔五木寛之〕嫌老社会:「流されゆく日々、嫌老社会の理想と現実」】

だから、年寄りは嫌なんだよな!
いやになっているのは こちらもだ!
「嫌老感」は、まず自分に向けて芽生えるのである。


〔嫌老社会の時代〕
話の話題は80歳が起こすニュース、年金
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〔2015年敬老の日〕80歳以上人口が初めて1000万人を超える
高齢者人口3384万人で過去最多、総人口比は26.7%に
(総人口に占める割合が1/4を超えたのは前年の2014年に続き2年目)
高齢者の就業者数は、11年連続で増加し、681万人と過去最多
就業者総数に占める高齢者の割合は、10.7%と過去最高
(日本の高齢者の就業率は、主要国で最高)
【シルバーウィーク・敬老の日】(80歳以上の高齢者の数が一千万人をこえたという。「人生百年」)〔五木寛之〕

生き抜くヒント( 五木寛之) 週刊新潮2015/10/08 号

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【平蔵の独り言】
気が付いたら“嫌老感”の真っ只中を突き進んでいる。
何か団塊の世代はベビーブーム、高度成長、バブル崩壊、高齢化社会、
自身の意思と関係なく、あえて言えば“神”のみぞ知る。
流れの中に身を置いている。

”いやになっているのは こちらもだ!”
40引いても、50引いても まだ 20(才)も残る。
気が付けば、えっ! そんなに歩いて来たんだ。

身体を動かなくなるし、”よいしょ”と気合いを入れないと一日が始まらない。


「どう解決していけばいいのか?また高齢者たちは今後、社会においてどういう役割を担っていけばいいのか?」
と言っているが、先輩達の元気な生き方を見ながら、今日を歩いている。

小泉今日子(50歳)の特集を見ていたら、
「今日1日が人生“しなきゃと思ったことを明日に持っていけない”小泉今日子50歳」



【〔ご機嫌なシニア世代を目指せ!〕】
団塊の世代とその一つ上の世代の機嫌が悪いように感じる。
〔ご機嫌なシニア世代を目指せ〕逆張りの思考(成毛眞)週刊新潮2016/02/04号

私の上の世代、つまり団塊の世代とその一つ上の世代の機嫌が悪いように感じる。
不機嫌なシニアが量産されてしまっている理由はシニア世代のロールモデルがいなかったことだ。
団塊の世代には先輩が少なかった。
無論、戦争のせいである。
だから、どうしたらいい年の取り方ができるかが分からないまま年を取ってしまった。
日曜朝の放言番組などには不機嫌なシニアが見受けられる一方で、いくらか若いご機嫌なシニアたちもいる。

タモリ70歳、高田純次69歳、稲川淳二68歳、笑福亭鶴瓶64歳、なぎら健壱63歳、所ジョージ61歳。

老人と呼ぶにはまだまだ若い方々もいるが、しかし、今の30代、40代にしてみれば「ああいうシニアにならたい」という憧れの対象であるに違いない。
もちろん、彼らのように肩の力を抜いて、いい加減に生きているように見せるのにも苦労があるはずだが、それでも、自然と不機嫌になるよりは努力をしてご機嫌でいた方がいい。

無論、私の目標は彼らである。
さらに付け加えるならば、不機嫌な人たちが多い団塊以上の方々も今からでも遅くないのでご機嫌方面へと路線変更をした方がいいと思う。

不機嫌な人たちが多い世代だからこそ、ご機嫌な人は目立ち、
それは間違いなく若者から歓迎され、これからの人生が楽しくなる。

それに何より、駅や電車の中で私が心穏やかに過ごせるようになる。

【平蔵の独り言】
老人、高齢者、“「年寄り扱いするな」”に全面対決している自身が気が付けばいる。

〔老〕を生きてきた経験と感じて“嫌われてもいい”と話している自身もいる。
(嫌われれば、逃げていくだろうと自覚している)

元気に活躍している先輩(80歳に近い人から最高100歳(2.26事件を知っている))の話は楽しい。
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by asanogawa-garou | 2016-02-27 15:39 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)