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1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。1978年までW杯取材費は自腹   

2017年 02月 03日
1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。1978年までW杯取材費は自腹
〔91歳の現役最年長サッカー記者、1978年までW杯取材費は自腹〕
※週刊ポスト2017年1月1・6日号 2017.01.04 07:00


〔活躍を続ける90代は、自らの“老い”とどう向き合い、折り合いをつけているのか〕

〔1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。〕

〔91歳の現役最年長サッカー記者、1978年までW杯取材費は自腹〕


【90歳のサッカーライター賀川浩氏がFIFA会長賞を受賞「この上ない名誉」】
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①【特攻隊で生き残って現役最年長サッカー記者へ(賀川浩氏)】

〔活躍を続ける90代は、自らの“老い”とどう向き合い、折り合いをつけているのか〕
 長生きは本当に「めでたい」ことなのか。
歳を重ねれば体の不調や気力の落ち込みを実感することも増える。
各界で活躍を続ける90代は、自らの“老い”とどう向き合い、折り合いをつけているのか──。

 週2回、自らの資料を寄託した「神戸賀川サッカー文庫」を訪れる「現役最年長サッカー記者」の賀川浩氏(91)。本誌記者の質問に大学ノートを開き、固有名詞や地名をひとつひとつ記して丁寧に説明してくれた。

 * * *
 90歳になってから、サッカー関連の資料や蔵書を神戸市立中央図書館に寄託しました。
ボランティアの協力もあり、館内のスペースに「神戸賀川サッカー文庫」として陳列しています。

 若い頃にフットボールで体を鍛えて、今も3食しっかり取る。
仲間たちの配慮もあり、安心して生活しています。

 人生を振り返ると、サッカーが大好きでスポーツ紙の記者になり、大阪編集局長まで経験し、90歳を超えた今もフリーとしてサッカーの記事を書いている。
これ以上のことはありません。欲を言えば、もう少しお金があればいいけど(笑い)。

〔1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。〕
 日本でサッカーが人気になるずっと前から、世界中で愛されるスポーツが日本で流行らないのはおかしいと言い続けてきました。
あらゆる日本のスポーツが変わった1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。
〔91歳の現役最年長サッカー記者、1978年までW杯取材費は自腹〕
 サンケイスポーツ編集局次長だった1974年、初めて西ドイツのワールドカップを取材しました。
なぜ取材が必要かを会社に説明することから始まり、給料は出たものの費用はすべて自前でした。
当時、朝日新聞は社費で取材に来ていましたが、読売新聞の記者は私と同じく自費でしたね。

 1974年西ドイツ大会、1978年アルゼンチン大会と1回100万円を自腹で用意して取材すると、3回目から会社が費用を出すようになりました。
でも4年に1度、大金を使ったからか、私は長く結婚できなかった(苦笑)。
サッカー界を盛り上げるには、そこから始めるしかありませんでした。

 以降、2014年のブラジル大会まで10大会連続でワールドカップを取材し、現役最年長記者として2015年1月に国際サッカー連盟(FIFA)から表彰されました。

“お前、よぅ頑張ったなあ”と褒めてくれる先輩が誰もいなくなったことがやはり寂しかったですね。

 今は昔と比べて、日本でもサッカーが不動の人気になって選手の技術も向上し、日本代表も順調に強化しています。
自分の功績とは思いませんが、サッカーがここまで日本に根づいたことは私の密かなプライドです。

 実は私は、終戦前の1945年4月に陸軍の特攻隊第413飛行隊員になりました。
本土決戦に備え、朝鮮半島に渡って2枚翼の練習機で突っ込む訓練をして、出撃する直前に玉音放送が流れました。

 終戦後、現地の小学校の校舎で待機していたある雨の日、近所の子供とボールを蹴りました。
“日本に帰れば、またサッカーできるんだ”と嬉しかったことを覚えています。

 戦争から生きて帰ってきた時、70歳まで生きると思っていませんでした。
こんなに長生きして、周囲に迷惑をかけていないか、少し心配ですが、
90歳になっても、書く意欲やスポーツへの興味はまだまだ衰えません。

サッカーの技術論も世に出したいし、書きたい人物も残っています。

 神戸賀川サッカー文庫に顔を出す回数も増やしたい。
もちろん、この先もサッカーの取材でスタジアムを訪れるつもりです。

●かがわ・ひろし/兵庫県神戸市生まれ。神戸経済大卒業。サンケイスポーツ大阪編集局長を経験。2010年に日本サッカー協会より日本サッカー殿堂特別表彰。2015年にFIFA会長賞受賞。自身のサッカー関連蔵書を「神戸賀川サッカー文庫」として公開している。

※週刊ポスト2017年1月1・6日号


【90歳のサッカーライター賀川浩氏がFIFA会長賞を受賞「この上ない名誉」】
サッカーキング 2015.01.13
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②FIFAのブラッター会長(右)とスピーチをする賀川氏(左) [写真]=FIFA via Getty Images
 FIFA(国際サッカー連盟)主催のバロンドール表彰式が12日にスイスのチューリッヒで行われ、サッカーライターの賀川浩氏が日本人初となるFIFA会長賞を受賞した。

賀川氏は自身の公式サイト(http://kagawa.footballjapan.jp/)で、
授賞スピーチのオリジナル版を13日に掲載している。

 2014年12月29日に90歳となった賀川氏は、「バロンドールの表彰という、年に一度のFIFAのすばらしいセレモニーに出席できて光栄に思います。またFIFA会長賞というとても大きな賞を頂くことはこの上ない名誉です」と、喜びと感謝を示した。

 1974年の西ドイツ・ワールドカップから2014年のブラジル・ワールドカップまで、10大会連続で取材するなど、ジャーナリストとして62年間活躍を続けている賀川氏。

「10回取材をしたワールドカップについても、新聞や雑誌で多くのページを使いました。
その量と内容には多少の自負もあります」と語るが、「日本というローカルの記者にすぎません」とし、
同賞の受賞を悩んだことを告白している。

 しかし、「日本サッカーが近年に急速に成長したこと、その成長についてメディアが多少の役割を果たし、そのメディアのなかでの最年長者として(ブラッター)会長は私を表彰して下さるのだと思うようになりました」と続けると、「日本のフットボールジャーナリストの最年長者としてこの受賞の名誉をうけることで、FIFAがメディアを大切なものと考えていることを伝えたいと思います」として、受賞を決断したことを明かしている。

 また、ゼップ・ブラッター会長との関係について、
「会長は1979年第2回ワールドユース日本開催、ディエゴ・マラドーナが19歳で活躍した大会に、FIFAの担当者として大会の運営にあたられました。
そのときの記者会見でフランス語をブラッターさんが英語に訳し、その英語を私が日本語で記者たちに伝えたこともありました」と振り返り、

「そのとき以来、ブラッター会長は日本サッカーに対して常に好意的であり、バックアップして下さることをいつも感謝しています」と、同会長に感謝を示した。

 そして、賀川氏は「私の英語はそのとき以来進歩していないので、今日の授賞式参列もいささかちゅうちょした」と明かすも、
「私の若い仲間たちから、(マヌエル)ノイアーや(クリスティアーノ)ロナウドや(リオネル)メッシに会えるだけでもいいじゃないか、大スターたちのサインをもらうことを忘れないで、と励まされ送り出されました」と、出席の決断をした理由を冗談を交えて語っている。



90歳のサッカーライター賀川浩氏が日本人初のFIFA会長賞を受賞
15/1/13 03:29 【海外 一覧】
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③FIFA会長賞
「FIFAバロンドール2014」の授賞式が12日に行われ、90歳の現役サッカーライター、賀川浩氏が、日本人として初めてFIFA会長賞を受賞した。

 神戸出身の賀川氏は、1974年の西ドイツ大会から、2014年のブラジル大会まで10大会連続でW杯を取材しており、2014年12月に会長賞の受賞が決まっていた。

 スイス・チューリッヒで行われた表彰式に出席した賀川氏は、
「FIFAのブラッター会長、そして、みなさま、私は今日、この素晴らしいFIFAバロンドール授賞式に出席できて大変光栄です。
私にとって、この会長賞を受け取るのは、この上ない栄誉です。
1979年にブラッター氏は、FIFAの組織メンバーの一員でした。
そのとき、日本で第2回ワールドユースが開催され、19歳のディエゴ・マラドーナがプレーしました。
残念ながら、私の英語は、当時から少しも上達していないので、この授賞式に出席することを躊躇していました。

ですが、日本にいる若い友人に『マヌエル・ノイアー、クリスティアーノ・ロナウド、リオネル・メッシに会えるんだから、絶対に行くべきだ』と言われて、ここに来ました。
彼らには『3人にサインをもらってくるのを忘れないでね』とも言われました」と、英語で冗談を交えたスピーチを行い、会場に笑顔の花を咲かせた。

【平蔵の独り言】
1964年東京オリンピックを控えたサッカー日本代表を指導するため来日した
コーチ(テッドトール・クラマーさん)
1968年メキシコ五輪でエースストライカー釜本さんのゴール
日本のサッカー界の知れなかった歴史を教えてくれた。

【独り言】
〔1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。〕
そうですよね!
メキシコ五輪の銅メダル
これで少し”サッカー”って、なんだ?

1980トヨタカップ
1993Jリーグ
1994アメリカW杯
2002日韓W杯(決勝 ドイツvsブラジル  キーパー“カーン”がポストにへたり込んでいた)


トヨタカップがJリーグより以前に国立競技場で毎年12月に
クラブ世界一をヨーロッパvs南米 の優勝クラブで戦っていた・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2017-02-03 15:48 | サッカー | Comments(0)

戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌。最愛の女性 五十回忌機に心境   

2017年 01月 19日

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。
<円谷幸吉>最愛の女性 五十回忌機に心境

河北新報 1/15(日) 12:31配信
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①「いちずな人でした」と円谷の思い出を語る女性

 1964年東京五輪マラソン銅メダリストの円谷幸吉(須賀川市出身、1940~68年)には、結婚を考えながら68年のメキシコ五輪前に破談になった女性がいた。
円谷の五十回忌を迎えたのを機に、女性が河北新報社のインタビューに応じた。

【円谷幸吉】ひたむきな姿 後世に
 女性は円谷の1歳下で福島県在住の74歳。
高校を卒業した円谷の最初の配属先、陸上自衛隊郡山駐屯地で62年まで1年間共に勤務した。
円谷の一目ぼれだったようで、遠征先で買ったかすりなどの民芸品の土産や手紙がこまめに送られてきた。
 「よく、にこにこして私がいた厚生課に顔を出していました。とてもいちずで、真面目な人柄。何事にも一生懸命だった」と振り返る。
 円谷の遺体が発見された68年1月9日のことはよく覚えているという。
「風が強い日で午前2時ぐらいに、住んでいたアパートの窓ガラスを人がたたくような音がしたんです」
 腰の手術をした実母が痛みが取れず苦労したのをそばで見ており、「(椎間板ヘルニアで悩んでいた)円谷さんのつらさはよく分かる」と言う。
円谷の訃報に接し「気の毒だと思った。周りに、(選手を)やめるように言ってくれる人がいなかった」と思いやる。
 66年、2人の縁談は自衛隊体育学校長が結婚時期や式場の場所で横やりを入れたことをきっかけに白紙となった。
女性は翌年秋、地元の男性に求愛されて結婚。
「私も自衛隊にいたから分かるが、結婚でも何でも、当時は上官には逆らえない雰囲気があった」
 3年半後に再び巡ってくる東京五輪に向け「野球・ソフトボールを被災地である福島県でぜひ開催してほしい。他の競技でも円谷さんのように、国民を元気にするような活躍を期待しています」と話した。

<円谷幸吉>破談を機に 心身疲弊
2017年01月14日
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②東京五輪マラソンで銅メダルに輝き、古里でパレードをする円谷(中央)=1964年11月、須賀川市中心部

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)

〔別れ/「国民的英雄」故の苦しみ〕

 東京五輪で国民的英雄になった円谷幸吉(須賀川市出身、1940~68年)。
祝賀会、招待レースと多忙を極めた。
自衛隊体育学校の同僚だった宮路道雄(79)=千葉県八街市=は当時の状況を「円谷は全自衛隊の代表。自衛隊が国民に溶け込む役目を期待されていた」と説明する。

<恩師が札幌へ異動>
 そんな中、問題は起きた。最愛の女性との別れだ。
 郡山駐屯地の元同僚。五輪前から手紙を送るなどして愛を温めてきた。
63年のニュージーランド合宿では帰途にダイヤモンドの指輪を買った。
姉の岩谷富美子(82)=東京都=は「弟はにこにこ顔で『婚約指輪はいつ渡せばいいの?』って言っていました」と思い出す。
 東京五輪から1年半たった66年の春。
体育学校の新しい校長が円谷の結婚について話し合うため、円谷家や相手方の親族に声を掛け、ある席を設けた。幹部候補生学校に進んでいた円谷は欠席した。

 円谷の遺族らによれば、校長は席上、
「メキシコ五輪が終わるまで結婚は反対」
「世界の円谷と結婚する覚悟はあるのか」
「五輪前にどうしても結婚と言うのなら式場は東京」などと主張。
これに円谷の父幸七が反発した。「地元でやる」

 校長と円谷家側のやりとりは平行線をたどるばかり。
女性側は元々、結婚には慎重で「上官が反対するのなら」とこれを機に縁談の白紙を申し入れた。
 この件で円谷寄りの姿勢を取ったコーチの畠野洋夫(故人)は校長と衝突し間もなく札幌へ異動。
円谷は恩師さえも失った。
 この頃、円谷が古里の長兄に宛てた手紙に心情を赤裸々につづっている。
「公私を混同された学校長のもとではやれない」と怒り、
自衛隊に対しても「方々を引っぱり廻して英雄視させる」と不満をぶちまけた。
 さらに引退もほのめかした。
「一応次の目標を目指すとは云ったものゝ(中略)疲労こん敗でいさゝかの余裕すらありません」
「各方面からの期待はありましても、一線クラスとしてこれ以上続けるには無理」
「一般部隊へ行ってのんびりした気持で若者達と純すいな気持でやりたいと云うのが私の夢」

 後に体育学校長も務めた同僚の三宅義信(77)=宮城県村田町出身=は回想する。
円谷は心身が疲弊しきっていて、「『この際、引退して指導者になった方がいい』って助言した」。
さらに「円谷は管理されていた。自分で決められなかった」と同情する。

<過度な練習で故障>
 失意の円谷は66年9月に幹部候補生学校を卒業。
思い詰めた表情で郡山駐屯地を訪れ、かつて陸上部創設で力を合わせた斎藤章司(83)=郡山市=に「メキシコへ向けた第一歩として、昔の練習コースを一緒に走りたい」と言った。
約10キロ。少しだけ笑顔が戻った。
2人が会ったのも伴走したのも、これが最後だった。

 君原健二(75)=北九州市在住、当時八幡製鉄=が円谷と最後に対決したのは67年5月の全日本実業団選手権。
円谷は5000メートル、1万メートル、2万メートルと2日間で4レース(予選含む)をこなした。
控室では「メキシコで日の丸を揚げ、国民との約束を果たす」と話したという。

 君原には円谷がもがいているように見えた。
「異常な出場数。(円谷の)焦りを感じた。メキシコでの金は国立競技場で抜かれたことの国民へのおわびだったのでは」と思っている。
 円谷の体は悲鳴を上げていた。遅れを取り戻そうと過度な練習を重ねた結果、椎間板ヘルニアが悪化し、アキレス腱(けん)も部分断裂。
8月に手術し入院は3カ月にも及んだ。だが、思うように回復しなかった。

 67年12月、衝撃的なニュースが飛び込む。
福岡国際マラソンでクレイトン(オーストラリア)が2時間9分36秒4の記録で優勝。
ついに9分台に突入した。
 年末、孤独なランナーは敗北感に打ちひしがれながら古里に帰る。(敬称略)

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)
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③円谷幸吉メモリアルホール

〔2万mの世界記録破る〕

 円谷幸吉(1940~68年)は陸上自衛隊の郡山駐屯地(福島県郡山市)時代、ランナーとして着実に成長を遂げる。5000メートルで60年熊本国体5位、61年秋田国体2位。秋田国体1カ月後の青森東京駅伝では3区間を走り、計15人抜き、全て区間新という離れ業をやってのけた。

<環境整い練習没頭>
 円谷は翌62年、自衛隊体育学校が五輪選手養成のために新設した特別体育課程に入る。陸上に専念できる環境がようやく整った。
 朝日新聞社で長く陸上記者を務めた三島庸道(86)=東京都=によると、円谷を一流選手に押し上げたのは体育学校コーチの畠野洋夫(故人)だという。「円谷はがむしゃらで周りが見えない。褒め上手で緻密な畠野が必要だった」
 畠野は現役時代、無名の長距離選手であった。だが、陸上競技連盟やライバルのコーチにも頭を下げ、練習法を独自に学んだ。身の回りの世話や腰の持病の管理もきちんとやった結果、円谷は練習に没頭できた。記録更新が続き62年の日本選手権は5000メートル、1万メートルで大会新で優勝を飾る。
 トラックで活躍する円谷への注目が高まる一方で、周囲ではある意見も出始めた。マラソンへの転向だ。
 28年アムステルダム五輪三段跳び金メダリストで、東京五輪の陸上日本代表総監督を務める織田幹雄(故人)は60年ローマ五輪の記録を見て、マラソンが耐久レースからスピード競走の時代に入ったと認識していた。「ロード出身の選手は東京で勝てない」。円谷が鍵を握る選手に見えた。

<織田ら強力後押し>
 織田は地ならしを始めた。マラソンとトラック関係者との間にあった垣根を、陸連の選手強化指導本部長としてより低いものとした。今でこそトラックもロードも走る選手は当たり前だが、当時ではほとんど例がなかった。いわば外堀を埋めた形とし、あとは円谷の成長を待つばかりだった。
 織田の強力な後押しで、円谷はトラック選手ながら東京五輪前年の63年、陸連によるマラソン組のニュージーランド合宿に参加。記録会で、ザトペック(当時チェコスロバキア)が持つ2万メートルの世界記録を破った。日本人があの「人間機関車」を抜いた-。世界が衝撃を受けた。円谷はスピード時代に対応できる世界レベルの選手に成長した。
 最後にプッシュしたのは、同じ東北生まれで53年ボストンマラソンを制した山田敬蔵(大館市出身)だった。
 実は61年の青森東京駅伝で円谷と同じ区間を走り、抜き去られた経験を持つ。
先を疾走していく円谷の姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。
東京五輪のマラソンを心配する山田は64年に入って間もなく自衛隊体育学校を訪れ、校長に円谷のマラソン転向を進言した。
 山田のあまりの熱弁ぶりに校長が折れた。
円谷の遠征先に電話して意向を確認すると、きっぱりと「ぜひ、やってみたい」。
記者の三島は回想する。
「山田さんは『東北からすごい若手が出てきた』とうれしそうに話していましたよ」
 円谷は後日、三島に「どうしてマラソンをやる気になったのか」と聞かれ、こう答えた。
「日本人が世界で戦うにはマラソンしかないじゃないですか」。
三島は「もともとマラソンへの憧れがあったが、ニュージーランドの成功で自信が付いたようだ」とみる。
 円谷は以後、マラソンで中日名古屋5位、毎日2位となり、五輪代表となる。代表3人は粘りの君原健二(75)=八幡製鉄=、経験の寺沢徹(82)=倉敷レイヨン=、そして「スピードの円谷」と称された。(敬称略)

<円谷幸吉>3位転落 歓声 悲鳴に
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④東京五輪マラソン。国立競技場のゴール直前でヒートリーの猛追を受ける円谷。気力だけで走っていた=1964年10月21日
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⑤東京五輪マラソンの入賞者と日本選手

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)

〔東京五輪の重圧/マラソン 異様な盛り上がり〕
 アジア初の五輪。1964年東京大会は戦災復興を世界にアピールする国家プロジェクトだった。国民は、その晴れの舞台を心待ちにした。

<冷静さ失った君原>
 マラソンは今も昔も五輪の華だ。それが日本開催となれば、国民やマスコミの熱狂ぶりは尋常ではなかった。メダルを期待されながら8位に沈んだ君原健二(75)=当時八幡製鉄=。その後メキシコ、ミュンヘン大会を経験し、「東京は異様な環境の中での戦いだった」と語る。
 「ステート・アマ養成機関」ともやゆされた自衛隊体育学校特別体育課程。在籍する円谷幸吉(福島県須賀川市出身、1940~68年)にとって入賞は「任務」でもあった。
 体育学校の同僚で後に校長を務めた重量挙げ金メダリスト三宅義信(77)=宮城県村田町出身=は振り返る。「自分のために戦う意識はなかった。国のためであり、金メダルは自分の使命だった。その責任の重さは半端じゃなかった」
 長距離で五輪代表から漏れた体育学校の同僚、宮路道雄(79)=千葉県八街市=は上官から「とにかく、国立競技場に日の丸を揚げたい。円谷に協力してくれ」と言われたのを覚えている。「自衛隊を国民に浸透させる目的もある」。そういう認識だったという。
 マラソン代表3人はレース1週間前、ざわつき始めた選手村を離れ、神奈川県逗子市で調整した。
 間もなく「本命」君原が自分を見失う。練習を終えると、電車で2時間かけ東京へ行き、各競技を観戦した。体がもたないとコーチが判断し、君原と寺沢徹(82)=当時倉敷レイヨン=は選手村に戻った。落ち着きのない行動は直前まで続いた。「完全に舞い上がっていた」と君原。一方で「円谷さんは冷静だった」とも。
 円谷は掛け持ちの1万メートル出場が奏功したといえる。6位。トラック種目で28年ぶりの五輪入賞。大舞台での大健闘に肩の荷が軽くなった。コーチの畠野洋夫(故人)は緊張をほぐそうと円谷に「これで責任の大半は果たした。マラソンは君原に任せろ」と伝えた。

<高速レースに疲弊>
 10月21日、どんよりとした曇り空の下、マラソンが始まった。序盤から高速レースの様相を呈した。金メダルは予想通りアベベ(エチオピア)。世界最高記録による2連覇だった。
 観衆の目は2位以下の争いに注がれた。円谷は25キロ地点で4位、30キロで3位通過、36キロで2位に浮上し、そのまま国立競技場へ。しかし、経験のないハイペースでスタミナは限界だった。第3コーナーで後方からスパートしてきたヒートリー(英国)に抜き去られた。歓声は悲鳴へ。抜き返す力はもうなかった。
 レース後、宮路は円谷から聞いた。「(ヒートリーの存在を知らせる)観客の叫びは『頑張れ』という声援にしか聞こえなかった」
 あの時、円谷は一度も振り返っていない。「後ろをきょろきょろ見るような、めぐせえ(見苦しい)ことはすんな」。少年時代の父の教えが耳に届いたのだろうか。
 記者会見で円谷は「メキシコ五輪で雪辱したい」と言った。傍らで畠野は「あと4年たてば、ちょうど年齢的にトップの時」と補った。
 銅メダルとはいえ、競技場で敗れたレース。栄光の陰で24歳の円谷は途方もない期待の重さに悩まされていく。(敬称略)

<円谷幸吉>孤独な走者 にじむ焦燥感
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⑥自衛隊体育学校時代の円谷(右)と神立さん=1966年12月、東京都練馬区の自衛隊体育学校
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 1964年東京五輪マラソンの銅メダリスト、円谷幸吉(福島県須賀川市出身)が自死の1カ月前に友人の神立修司さん(73)に宛てた手紙は何を物語るのか。
手術しても好転しない腰の持病と、迫ってきたメキシコ五輪の代表選考レース。
手紙からは焦燥感に耐える「孤独な長距離走者」の苦悩が透けて見える。
 腰の痛みは幼少期にさかのぼる。
飼っていた秋田犬の散歩中に転んで股関節を脱臼し、関節炎になったという。
その体に激しい練習を重ねた結果、椎間板ヘルニアは終生の病になった。

 「栄光と孤独の彼方(かなた)へ  円谷幸吉物語」(ベースボール・マガジン社)の著者で、円谷と親交があった元新聞記者三島庸道さん(86)=東京都在住=によれば、円谷は67年の術後、経過が芳しくなく、2度目の手術を検討していたという。
 退院後、円谷から「痛みが取れず、マラソンどころじゃない。もう一度手術を受けたい。医者を紹介してほしい」と依頼された。
口止めされたため、今日まで口外しなかったという。

 当時の円谷は練習や生活面の環境でも追い込まれていたようだ。
信頼していた自衛隊体育学校のコーチが札幌に異動したからだ。
メキシコ五輪前の67年、けがを押して出たマラソンで惨敗が続いた。
そんな中で神立さんら中央大時代の学友は、冗談を言い合うような心許せる存在だった。
 円谷がさらにショックを受けたとみられるのがマラソンのハイスピード化だ。
67年12月3日の福岡国際マラソンで、デレク・クレイトン(オーストラリア)が世界で初めて2時間10分の壁を破る2時間9分36秒4という驚異的な記録で優勝し、2位の佐々木精一郎も2時間11分台の日本最高をマークした。
円谷の自己ベストとクレイトンの差は7分近くまで開いた。

 手紙がつづられたのは12月11日で、福岡国際の8日後。
「走れそうにあっても、見通し暗いです」「自分の出来る範囲内でこれからコツコツ積み重ねていってみます」の文面に、痛々しい胸の内が垣間見える。

 円谷の兄、喜久造さん(84)=須賀川市在住=は「私たちも体育学校の最初のコーチも東京五輪で幸吉の体は限界と分かっていた。だから、家族は68年の正月はメキシコ五輪には触れないようにした」と話した。(スポーツ部・宮田建)

●円谷幸吉(つぶらや・こうきち)1940年5月13日、7人きょうだいの末子として福島県須賀川町(現須賀川市)で出生。須賀川市の小中学校、須賀川高を経て陸上自衛隊に入隊。八戸教育隊、第6特科連隊(郡山市)を経て自衛隊体育学校に1期生として入校。64年東京五輪で男子1万メートルで6位入賞、マラソンで銅メダル。自己ベストは2時間16分22秒8。67年3月、中央大第二経済学部を卒業。68年1月9日午前、自衛隊体育学校宿舎で頸(けい)動脈をカミソリで切って死んでいる姿で発見された。享年27歳。

<円谷幸吉>自死1カ月前 再起へ自ら鼓舞
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⑦「走れそうにあっても、見通し暗いです」と苦しい胸の内を率直に友人に打ち明けた円谷の手紙
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 1964年東京五輪のマラソンで銅メダルに輝いた円谷幸吉(福島県須賀川市出身、1940~68年)が、自死の1カ月前に友人に送った手紙が保管されていることが分かった。翌68年のメキシコ五輪出場を目指しながらもけがの回復が遅れて見通しが厳しいこと、ゼロから再出発する決意などが記されている。関係者は、自死前の心境を知る貴重な資料として注目している。
 手紙をもらい所有していたのは中央大第二経済学部(夜間)で同級生だった横浜市の無職神立(かみだて)修司さん(73)。円谷は67年8月に椎間板ヘルニアとアキレス腱(けん)の手術で都内の病院に入院し、11月上旬に退院した。
 手紙は見舞いや見舞状に対する返礼で封書に便箋2枚。退院1カ月後の12月11日に書かれている。投函(とうかん)は所属していた自衛隊体育学校(東京都練馬区)ではなく、大分県の別府駐屯地の温泉療養施設からだった。
 手紙の存在は円谷の死が来年1月で五十回忌を迎えるのを機に河北新報社が取材を進める中で分かった。神立さんや関係者によると、この手紙の公開は初めてとみられる。神立さんは「過去にもらった手紙と比べ、字が乱れている。やはり術後の回復が良くなかったのだろう。後半の文面は自分に言い聞かせる言葉だったように思える」と語る。
 円谷は68年1月9日、自衛隊体育学校の宿舎自室で、「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」という家族宛てと学校関係者宛ての遺書を残し、自死した姿で見つかった。

◎友情感じる交流/「マラソンと日本人」の著書があるスポーツライター武田薫さん(仙台市出身)の話>
 自死のわずか1カ月前に学友と交流があったことを裏付ける貴重な資料だ。手紙の相手は陸上選手でないだけに、2人の交流に友情を感じる。椎間板ヘルニアやアキレス腱(けん)といった深刻な故障を抱えながら、「見通し暗いです」と当時の人気芸人の言葉に心情を託したところに円谷らしさがのぞいている。

<円谷幸吉>国民の心打った英雄
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⑧親族に宛てた遺書
 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)

〔(1)今に生きる/駆け抜けた27年の生涯〕

 冬の風物詩、東京箱根間往復大学駅伝。
陸上の長距離走に親しむ者なら誰もが憧れる舞台だ。
今年、精鋭たちを率いた監督20人のうち5人までが福島県出身者だった。
 駒大の大八木弘明(会津若松市出身)、東洋大の酒井俊幸(石川町出身)、早大の相楽豊(郡山市出身)、日大の武者由幸(相馬市出身)、国士舘大の添田正美(須賀川市出身)。
 ランナーに目を向ければ、往路4区で須賀川市出身の阿部弘輝(明大1年、学法石川高出)が疾走した。
 長距離と福島。関係性を考えていくと、ある人物の姿が浮き上がってくる。

<地元に夢引き継ぐ>
 円谷幸吉(1940~68年)。1964年東京五輪のマラソン銅メダリストで生まれと育ちが須賀川市。
メキシコ五輪が行われる68年の1月9日、所属する自衛隊体育学校(東京都練馬区)の宿舎で右頸(けい)動脈をカミソリで切り、自死した姿で見つかった。
 時に、「明」よりも「暗」を強調される選手でありながらも、地元にはスポーツ少年団「円谷ランナーズ」や「円谷幸吉メモリアルマラソン大会」があり、第2の円谷を育てようという夢が引き継がれている。
 箱根を走った阿部はここから巣立った。
地元の岩瀬郡市陸上競技協会理事長の本田実(65)は「(阿部が箱根駅伝を走り)階段を一つ上ることができた。いつか五輪選手が出ればうれしい」と感慨深げだ。
 なぜ、円谷の名は半世紀たった今も色あせないのか。
瀬古利彦や有森裕子らはどうして生家や菩提(ぼだい)寺にまで足を運び、冥福を祈るのか。
 時計の針を68年に戻す。
社会全体は騒然としていた。
ベトナム反戦運動が国内外で高まりを見せ、全共闘が生まれて大学紛争が激しさを増した。この年、日本は国民総生産世界2位の経済大国になる一方で、公害や交通戦争など高度経済成長のひずみも顕在化した。
 いわば「時代の転換点」での円谷の死だった。

<栄光のメダル重く>
 遺体発見時、都内在住だった姉、岩谷富美子(82)は小さな子をおぶって親族で一番に駆け付けた。6男1女の末っ子幸吉とは6歳違い。
最愛の弟の頬を両手で包み込み、「泣きながらさすった時の冷たさを今も覚えている」。
それは、頼れる人がいなかった円谷の心に触れた、ともいえる。
 当時の河北新報は円谷の死をこう伝えた。
見出しは「重かった栄光のメダル」「故障続きにあせり?」。
東京五輪で国立競技場を埋め尽くした7万5000の大観衆の中、英国のヒートリーに抜かれ3位に後退。
レース後、「4年後のメキシコ大会を目指す」と国民に「約束」したことで、かえって円谷は呪縛に陥ったのか。
 期待の重圧に敗れ去っていく選手は、過去にも今にもあまたいる。
しかし、円谷は想像もできないほどの栄光を極め、やがて誰も経験したことのない挫折感に打ちのめされた。
人はそのことを知っている。
だからこそ、あの「遺書」に胸を締め付けられ、涙する。(敬称略)

●円谷幸吉(つぶらや・こうきち)1940年5月13日、福島県須賀川町(現須賀川市)で出生。同町の小中学校、須賀川高を経て陸上自衛隊に入隊。八戸教育隊、第6特科連隊(郡山市)を経て、62年自衛隊体育学校特別体育課程の1期生として入校。64年東京五輪の男子1万メートルで6位入賞、マラソンで銅メダル。65年河北文化賞受賞。67年3月、中大第二経済学部(夜間)を卒業。68年1月9日午前、体育学校幹部宿舎の自室で自死している姿で発見された。命日は同8日。163センチ、53キロ(東京五輪代表選出時)。
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【平蔵の独り言】
何故、円谷幸吉にアクセスカウントが突然増えた!

円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。
<円谷幸吉>最愛の女性 五十回忌機に心境

河北新報に掲載された。

【独り言】
東京オリンピック、円谷幸吉さん
リアルタイムに時代を生きてきた忘れられない 人生のワンシーン

<円谷幸吉>最愛の女性 五十回忌機に心境
を語れるようになったのも、時間の流れが・・・・・・・・・・

自身にも時間が必要なことが、
日常を取り戻すには“心の中”が難しいですよね!
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by asanogawa-garou | 2017-01-19 16:15 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

【クラマーさん】「人生最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」「次のカマモトを    

2016年 02月 19日
【デットマール・クラマーさん】「人生最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」「次のカマモトを見つけなければ」
 
【デットマール・クラマーさん】「人生最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」

日本サッカーのことを案じ「もう一度、日本に行きたい」

【クラマー氏死去】「次のカマモトを見つけなければ」 日本の「大和魂」を心から愛した

〔"日本サッカーの父"五輪8強導いた言葉の魔術師 デットトール・クラマー氏〕

〔「もう一度、日本に行きたい」〕

〔川淵氏「恩師」〕

<東京五輪後のクラマー氏5つの提言と現状>

〔釜本氏「クラマーさんにサッカーの神髄教わった」『蹴る』『止める』『運ぶ』〕

【川淵氏「人生の恩師」 教え子たち、クラマー氏悼む】



〔「日本サッカーの父」クラマー氏死去 東京五輪8強導く〕
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①1963年に当時の長沼健監督(左)と並んで日本代表の試合を見つめるクラマーさん

〔「人生最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」〕
75年にドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンを率いて欧州のカップ戦を制したときも
「人生最高の瞬間は日本が(68年)メキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」と語った

【クラマー氏死去】「次のカマモトを見つけなければ」 日本の「大和魂」を心から愛した
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②J2福岡のリトバルスキー監督(右)と話すデットマール・クラマー氏=2007年5月、福岡市東区
産経ニュース2015.9.18

 元日本代表コーチで日本サッカー界の発展に尽力し、 「日本サッカーの父」 と呼ばれたドイツ人指導者のデットマール・クラマー氏が17日、ドイツ南部ライトインビンクルの自宅で死去した。90歳だった。
今年初め、体調を崩されたという話は聞いていた。
 2006年7月、ドイツW杯取材の合間にお願いし、オーストリア国境にほど近いライトインビンクルの自宅を訪ねた。
クラマーさんは筋力トレーニング室で汗を流し、
「これが俺の若さの秘訣(ひけつ)だよ」と照れながらウインクしていた。
 当時も離れて久しい日本を真剣に憂えていた。
 「日本は次のカマモトを見つけなければ」
 「技術はあるがゴールを狙っているのか」

 往年の名ストライカーに匹敵する選手の不在を嘆き、低いシュート精度をズバリ指摘した。
 自宅の執務室には日本刀、日本代表の寄せ書きが飾られていた。

75年にドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンを率いて欧州のカップ戦を制したときも
「人生最高の瞬間は日本が(68年)メキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ」と語った。
死力を尽くした日本選手の「大和魂」を心から愛した。
 約2時間の取材が終わった。
「おれがタクシーを呼ぶ」とわざわざ電話を入れ、約1時間後に車のクラクションが鳴った。玄関まで送ってくれた「父」は「また、いつでもおいで」と笑った。
 日本は2018年ロシアW杯アジア予選で苦戦している。
もう一度、山間の町に行って「父」の処方箋を聞きたかった。(榊輝朗)

〔"日本サッカーの父"五輪8強導いた言葉の魔術師デットトール・クラマー氏〕
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③出典www.foxsports.com
クラマー氏は1960年、東京五輪を控えたサッカー日本代表を指導するため、
コーチとして来日し、釜本邦茂、杉山隆一、川淵三郎といった往年の名選手を鍛え上げ、
64年東京五輪では日本代表を見事8強へと導きました。
国内リーグの必要性も提言し、65年の日本サッカーリーグ設立に導いた。
その後、アドバイザー的な立場で日本代表を支え、クラマー氏の指導を受けた日本代表は68年メキシコ五輪で銅メダルを獲得しています。

更に、離日する際にはJリーグの前身となる初の全国リーグJSL(日本サッカーリーグ)創設を提言するなど日本サッカーの礎を築いたの重要性を説くなどの提言を残し、サッカーのみならず日本スポーツ界の発展に極めて大きな影響を与えました。
 18日にJFAハウスで取材に応じた日本協会の大仁会長は「インサイドキックを徹底して教えられた。基本が大事なのだと。今の日本のサッカーにも教えは生きている」と話した。
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④67年、検見川のグラウンドで選手を指導するクラマー氏
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⑤05年、日本サッカー殿堂で、レリーフを前に笑顔のクラマー氏(左)と釜本氏

〔「もう一度、日本に行きたい」〕
 関係者によると、クラマー氏は4年ほど前からがんを患い、全身に転移。
何度も手術を繰り返し、最近1年以上は車椅子での生活を余儀なくされていた。
今年6月に都内で開催されたJSL創設50周年記念パーティーへの出席に意欲を見せていたが、医者に止められ断念。
病床で「もう一度、日本に行きたい」と語っていたというがクラマー杯U―13を視察した14年1月が最後の来日となった。

 60年に来日し、日本代表コーチに就任。
インサイドキックなど基礎練習を重視する指導法でチームを強化した。
口が悪かったことでも知られ、通訳を担当していた岡野俊一郎氏が罵声を直訳して泣きだす選手が出たという逸話も残る。
日本協会の大仁会長は「怖かったですし、厳しかったですよ」と振り返った。

 クラマー氏は全国リーグ創設、芝生グラウンドを増やすこと、
国際試合の重要性などを説き、東京五輪翌年の65年にJSLがスタート。
当時の提言は現在の日本サッカーの強化方針にも生かされている。
言葉の魔術師とも称され「サッカーは子供を大人にし、大人を紳士にする」
「タイムアップの笛は次の試合へのキックオフの笛である」など数々の名言も残した。

 07年には息子に先立たれた。
電話で連絡を受けた日本協会の川淵三郎最高顧問は初めてクラマー氏の涙声を聞き
「あなたは日本サッカーの父、あなたの息子は長沼、岡野、私、他にもいる。寂しくなったら日本の息子たちに会いに来てほしい」との手紙を書いたという。
バイエルンMやフランクフルト、西ドイツユース代表の監督などを歴任して母国でも優れた指導者として知られた。
05年に日本協会が制定した表彰制度「日本サッカー殿堂」の第1回受賞者。
周囲には「俺は100歳まで生きるから」と豪語していたが、願いはかなわなかった。

 ◆デットマール・クラマー 1925年4月4日生まれ、ドイツ・ドルトムント出身。現役時代はドイツの複数クラブでプレー。
ケガのために引退して指導者の道へ進み、
西ドイツユース代表監督時代にはベッケンバウアーをユース代表に抜てきした。
60年に日本代表コーチに就任。64年東京五輪8強に貢献し、
68年メキシコ五輪ではアドバイザー的立場で銅メダルに導いた。
その後はエジプト代表、米国代表、ヘルタ、バイエルンM、アルイテハド(サウジアラビア)、マレーシア代表、タイ代表などの監督を歴任。
97年まで現場で指導に当たっていた。
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⑥64年、東京五輪でアルゼンチンを破り、喜ぶ日本選手。右から2人目がクラマー氏
[ 2015年9月19日 05:30 ]

〔川淵氏「恩師」〕
[2015年9月19日7時12分 紙面から]
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⑦60年10月、日本代表を初指導するクラマー氏(左)。右は指導を受ける川淵三郎
60年に来日し、日本代表のコーチに就任。
64年東京五輪8強、68年メキシコ五輪では銅メダルに導いた。
組織や指導法など残した5つの提言が、その後の日本サッカーの礎となった。

 クラマー氏の死を、日本サッカー界が悼んだ。
今年6月に行われた日本リーグ発足50周年パーティーに出席できなかった際「体調がよくないらしい」という話は伝わっていた。
それでも、日本にとっての大恩人が他界したショックは大きい。
「今日の日本サッカーは、クラマーさんから始まった」と、日本協会の大仁邦弥会長は話した。
 指導者として、超一流だった。
60年にコーチに就任すると代表選手たちにボールの蹴り方から教え、基本を植え付けた。
64年東京五輪で8強進出に導いて日本を離れたが、その後も特別コーチとして指導。
68年メキシコ五輪で銅メダルに輝いたのは「クラマーの息子たち」だった。
 もちろん、日本だけでなく母国ドイツで、そして世界中で手腕を発揮した。
世界90カ国以上でサッカーを教え、Bミュンヘン監督として欧州チャンピオンズ杯(現欧州CL)連覇も達成した。
指導者として栄光に包まれながらも常に日本のことを気にかけ、何度も来日しアドバイスした。
「技術指導」だけではないクラマー氏の思いが、今の日本サッカーを形作った。
 64年東京五輪後に日本を離れる時、クラマー氏は5つの提言を残した。
リーグ戦の重要性を説いたことが翌65年の日本リーグ創設につながった。
当時、日本のスポーツ界はトーナメント戦が主流で、全国リーグという考えはなかった。
サッカーの後にバレーやバスケなどが次々と日本リーグを創設。
クラマー氏の考えは日本のスポーツ界にも大きな影響を残した。
 指導者育成や練習環境の整備、選手強化の方法など当時としては革新的なアイデアだった。
50年以上たって当然のようになったが、クラマー氏の教えを受けた長沼健(故人)、岡野俊一郎両氏らが中心になって改革を進めてきたからこそ、サッカーは日本スポーツ界の先陣を切れたのだ。
 選手のプロ化、プロリーグ化も、その延長。
Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎元日本協会会長は「人生そのものを教えてくれた恩師」と仰いだ。
日本サッカーの礎を築いたからこそクラマー氏は多くの人に愛され「日本サッカーの父」と呼ばれた。
その遺志を忘れず、さらに日本サッカーを発展させていくことが、最大の親孝行になる。

<東京五輪後のクラマー氏5つの提言と現状>
 (1)国際試合の経験を多く積むこと
→積極的な遠征やスポンサーの獲得などで試合数は急増した
 (2)高校から日本代表まで各2人のコーチを置くこと
→監督、コーチの他に多くのサポートスタッフが付き、環境を整えた
 (3)コーチ制度を導入すること 
→ライセンス制度導入によりSからDまでの公認コーチを誕生させた
 (4)リーグ戦を開催すること
→65年に日本リーグ発足。これをもとに93年にJリーグを誕生させた
 (5)芝生のグラウンドを数多くつくること
→小学校の校庭芝生化に取り組むなどで芝生のグラウンドを増やした

〔釜本氏「クラマーさんにサッカーの神髄教わった」『蹴る』『止める』『運ぶ』〕
[2015年9月19日7時47分 紙面から]
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⑧67年9月、メキシコ五輪予選のフィリピン戦で6得点を挙げた釜本
 元日本代表で1968年メキシコ五輪で得点王を獲得した「日本最高のストライカー」釜本邦茂氏(71)が、恩師のクラマー氏への思いを語った。
16歳で出会い、サッカーがうまくなるための礎を築いてくれた教えは、すでに日本のサッカー少年・少女へと伝授している。
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⑨関西の社会人と大学生の合宿に参加し、クラマー氏の指導を受ける山城高2年時の釜本邦茂氏(左)(釜本氏提供)
 「初めて会ったのは16歳や、高1。あの出会いがなかったら、ストライカー釜本邦茂はいなかったかもしれん。本当に感謝です」。
 60年秋。京都・山城高1年だった釜本氏は、指導者講習で全国行脚していたクラマー氏に出会った。
釜本氏の存在を知ったクラマー氏が希望して組んだ、関西選抜の講習会だった。
 「日本代表だけでなく、高校時代も大学時代も、ずっと気にかけてくれた。中学まではサッカーがどういうスポーツで、どうトレーニングすればいいかなんて教わったことなかった。プロ野球選手になろうと思っていたくらいだからね。サッカーの神髄を教わりましたよ。こういうことをすれば賢く、うまくなれますよってね」。

 指導は基本の繰り返しだった。
「言うことはいつも一緒。『蹴る』『止める』『運ぶ』それを、いかに速く正確にやること」。
当時の日本にもっとも必要なことをしっかり伝えてくれたドイツから来た伝道師だった。
「今何をしたらいいのかという、頭の良さや的確な状況判断は、それが出来れば、自然と体が動くんだとね」。
釜本氏は定期的に全国を回ってサッカー教室を行っている。
「私が子どもたちに言うことはクラマーの教えをそのまま伝えていますよ。基本は何十年たっても変わらんよ」。
指導された情景を思い浮かべるように懐かしんだ。
 練習中は非常に厳しく、ピッチ外では何でも相談に乗ってくれる父親のような存在だった。
だが、サッカー選手としての生活習慣だけは妥協を許さなかった。
日本代表のドイツ遠征中、試合後のレセプションで、カミナリを落とされたことがあった。
 「試合の後だからおいしいじゃない。代表メンバーみんなで冷たいビールを一気飲みしたんよ。そうしたら『おい、外出ろ』ってね。『まずはお茶でも飲んでからだ』ってね。それはもう怖かった」。
 胃が小さくなった時の体への負担を考えた愛情だ。すべてはサッカーのため。
最後に会えたのは3年前、日本でのパーティーだった。
「元気にしているのかって、声をかけてくれた。残念です」。
クラマー魂は、釜本氏も受け継いでいく。【鎌田直秀】

【川淵氏「人生の恩師」 教え子たち、クラマー氏悼む】
2015年9月19日05時02分
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⑩1964年の東京五輪でアルゼンチンに勝ち、杉山隆一選手(左)らと喜ぶクラマーさん(中央)=1964年10月14日、駒沢競技場

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⑪1964年東京五輪チェコスロバキア(当時)戦でのクラマーさん(左)=1964年10月18日、駒沢競技場
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⑫2007年に来日した際、子どもたちを指導するクラマーさん
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⑬半世紀以上の付き合いだったクラマーさん(左)と賀川浩さん=賀川さん提供
 17日に90歳で亡くなった日本サッカーの父、デットマール・クラマーさんの指導を受けた教え子たちは、恩師の教えを引き継いで、日本のサッカーの発展に力を注いだ。クラマーさんは50年以上、日本との絆を大切にしていたという。

〔「日本サッカーの父」クラマー氏死去 東京五輪8強導く〕

 日本代表コーチとしてクラマーさんの教えを受けた元IOC委員で元日本サッカー協会会長の岡野俊一郎さん(84)は「彼は僕を弟と呼ぶ、兄弟の関係でした。今年に入ってからも電話で何度か話して、『日本にもう一度、車いすでも行きたい』と言っていたのに、残念だ」と話した。
 日本のサッカーに科学を持ち込んだ一方で、スポーツマンとしての心構えも教えた人だったという。
「負けたら終わりの大会方式ではなく、リーグ戦の導入を提唱した。1964年東京五輪後にサッカーで日本リーグが誕生したのはクラマーさんの助言があったからです。その後、アイスホッケー、バレー、バスケット、卓球、バドミントンと、多くの競技が日本リーグを作った。日本のスポーツ界への功績は計りしれません」と岡野さんは話す。

選手として64年東京五輪8強を果たした川淵三郎・日本サッカー協会最高顧問(78)は「サッカーだけでなく人生そのものを教えて下さった恩師。
日本はアジアの弱小国だったが、選手を一人前の紳士として扱ってくれた。
心から感謝しています。安らかにお眠り下さい」と日本協会を通じてコメントした。クラマーさんが日本を離れてからも、助言や励ましの電話をもらっていたという。
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⑭05年、日本サッカー殿堂で、レリーフを前に笑顔のクラマー氏(左)と釜本氏

 日本協会の釜本邦茂顧問(71)は当時の指導をふりかえり「日本代表に入ったばかりのころ、『大和魂を見せてくれよ』と檄(げき)を飛ばされた。
試合終了のホイッスルが鳴るまであきらめないで倒れるまで戦い抜け、という意味だ。
自分は今でも子供たちにサッカーの指導をするときにはその精神を伝えている。
自分にとってもクラマーさんは父のような存在だった」と話した。

〈バイエルン・ミュンヘンのカールハインツ・ルンメニゲ会長〉
 「クラマー氏は多くの人にとってスポーツ界の人物以上の存在だった。私にとっては父親みたいな存在で、若い頃、プロ選手としての私に大きな影響を与えた。サッカー選手として成功できたことに感謝しないといけない。バイエルンは偉大なコーチ、特別な人物が亡くなったことに深い哀悼の意を表したい」

〈ドイツサッカー連盟のウォルフガング・ニールスバッハ会長〉
 「クラマー氏はドイツサッカーの親善大使として世界に広く認知されていた。彼の専門知識により、どこに行っても称賛されたし、ファンを愛し、慕われる人物だった。クラマー氏の成し遂げた仕事に大きな敬意を抱いている」

〈日本協会の大仁邦弥会長(70)〉
 「クラマーさんがいなかったら今の日本サッカーの発展はなかった。怖くて厳しかった。インサイドキックを徹底して教えてくれた。基本を教えられ、志も教えてもらった」

〈メキシコ五輪銅メダリストの松本育夫さん(73=現・日本サッカー後援会理事長)〉
 「1960年に自分が日本代表に初選出された時から、55年間、サッカーの師であり、人生の師だった。片腕をとられたような気持ちだ。指導は基本を徹底して、いつの時代にも通用するものだった。今の日本の若い指導者にも受けてほしかった。印象の残るクラマーさんの言葉は『物は目でなく、心で見ろ。耳でなく、心で聞け』。自分が指導者になってからの心構えになった」

〈国際サッカー連盟会長賞を受賞したサッカーライターの賀川浩さん(90)〉
「今年1月、国際サッカー連盟の表彰式でスイス・チューリヒに行った帰りに、ドイツのクラマーさんの自宅に寄って会ったのが最後になった。
彼は僕より半年若く、『2人で90歳のトークショーを日本でやろう』と話していたのに。
彼が1960年に指導者として来日してから半世紀以上の付き合い。
日本代表の強化だけでなく、子どもたちに基礎を教えるのも上手だった。
64年東京五輪では指導者の若返りを進言し、当時30代だった長沼健さんや、岡野俊一郎さんを監督、コーチに推した。
そうした教え子たちが、クラマーの薫陶を受け、日本サッカー界の発展に尽くした。偉大な恩人です」

■J全試合で黙禱へ
 Jリーグは18日、クラマーさんの死を悼み、19、20日に行われるJ1、J2、J3の全試合で黙禱(もくとう)すると発表した。

【平蔵の独り言】
昭和39年東京オリンピックは戦後の流れのままに
アベベのローマの石畳に続いてマラソン2連勝、
円谷が国立競技場のトラックでヒートリーに抜かれたが
陸上唯一のメダル(銅メダル)
自身はいつ終わるとも知れない棒高跳びを眺めていた。

しかし、メキシコのサッカー銅メダル、ストライカ-釜本!
サッカーって何だ!
クラマーさんを知る。そして今も記憶に残る!

西が丘サッカー場で休日、関東大学リーグを日長一日ルールもあまり詳しく
理解しないで観戦していた。

【平蔵の独り言】
 当時も離れて久しい日本を真剣に憂えていた。
 「日本は次のカマモトを見つけなければ」
 「技術はあるがゴールを狙っているのか」

【独り言】
 「技術はあるがゴールを狙っているのか」
  ゴール近くまで行くが、シュートを打たずにパス

 2016年、今年のオリンピック世代(U-23)をゴールを狙っている・・・・・
 AFC U-23選手権 カタール 2016 対韓国 3-2(後半3点)
 逆転勝利でアジア王者に!
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by asanogawa-garou | 2016-02-19 13:57 | サッカー | Comments(0)

「俺がやらねば、誰がやる!今やらずしていつできる」東京五輪重量挙げで金メダル〔三宅義信〕(74)   

2014年 10月 15日
「俺がやらねば、誰がやる!今やらずしていつできる」東京五輪重量挙げで金メダル〔三宅義信〕(74)

〔三宅氏は「俺がやらねば誰がやる。今やらずしていつできる」という言葉を6年後の代表選手へ送った〕

『74歳で選手に復帰!東京オリンピック重量挙げ金メダリスト・三宅義信さん』
〔モーニングバード(週刊人物大辞典)〕2014年10月10日

『自らの手で2020年東京五輪の金メダリストを育てたい』
復帰のきっかけは3年前胃がんの手術をし、死を考えたこと。
胃がんの手術やすい臓を患い長期の入院生活を送りました。

そこで今後の人生を見つめ直し、「自分にはウエイトリフティングしかない」。
「好きなことをしよう」と思い、
さらに2020年東京オリンピック開催が決定し、
「自らの手で金メダリストを育てたい」と感じたという。


食事の時は「早食いしない」「音をたてない!」と注意される
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〔三宅氏は「俺がやらねば誰がやる。今やらずしていつできる」という言葉を6年後の代表選手へ送った〕
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三宅氏は「俺がやらねば誰がやる。今やらずしていつできる」という言葉を6年後の代表選手へ送った(撮影・高橋朋彦)

◆重量挙げ男子・三宅義信氏「感謝する気持ちを表してほしい」

 東京五輪はすべてにおいて、人生で一度あるかないかの、最高のイベントでした。
金メダルは本当に運。
「必ず表彰台の中央に上がらなければならならない」。
これを使命として考えて、4年間苦しんできましたが、無駄ではありませんでした。
 五輪は蓋を開けてみないとわからないですよ。
番狂わせがいっぱいある。
自分は4回出場しましたが、毎回感触が違った。

過去の実績はあてにならない。
本命が金メダル取るのはまれで、確実にメダルを取れる競技なんてないんですよ。

 2度目の東京五輪が決まり、自分の人生が変わりました。
4月から東京国際大の監督として若い選手を指導しています。
マスターズ大会にも出ました。
そうやって、がんばっている姿をみて、高齢者が運動する何かのきっかけになればいいですね。

 五輪はあまりにも商業的になり、スポーツマンシップがなくなっています。
2020年の開会式には世界各国の人々が訪れるでしょう。
五輪ではその国の文化を象徴する何かをみせるべき。
日本選手団には客席にお辞儀をし、感謝する気持ちを表してほしいですね。

三宅 義信(みやけ・よしのぶ)
 1939(昭和14)年11月24日生まれ、74歳。宮城・村田町出身。
元重量挙げ選手。
法大-自衛隊。
五輪は4大会連続で出場し、
60年ローマ大会バンタム級銀、
64年東京大会、68年メキシコ大会フェザー級金、
ミュンヘン大会同級4位。

ことし4月から東京国際大重量挙げ部監督。

5月に42年ぶりの公式戦出場を果たし、8月には全日本マスターズ選手権に出場。
2012年ロンドン五輪重量挙げ女子48キロ級銀の三宅宏実は姪。

【東京五輪開幕から50年】メダリストからの“金”言!
(SANSPO.COM 2014/10/10)


『74歳で選手に復帰!東京オリンピック重量挙げ金メダリスト・三宅義信さん』
〔モーニングバード(週刊人物大辞典)〕2014年10月10日

『自らの手で2020年東京五輪の金メダリストを育てたい』
復帰のきっかけは3年前胃がんの手術をし、死を考えたこと。
胃がんの手術やすい臓を患い長期の入院生活を送りました。
そこで今後の人生を見つめ直し、「自分にはウエイトリフティングしかない」。
「好きなことをしよう」と思い、
さらに2020年東京オリンピック開催が決定し、「自らの手で金メダリストを育てたい」と感じたという。

食事の時は「早食いしない」「音をたてない!」と注意される

現役復帰
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三宅義信さんは、1964年の東京オリンピックで、重量挙げの選手として日本人金メダル第一号に輝いた方。続くメキシコシティーオリンピックでも金メダルを獲得し、銅メダルの弟・義行さんと兄弟そろって表彰台にも上りました。

また、姪の宏美選手はロンドン五輪で銀メダルを獲得するなど、三宅ファミリーを率いる義信さんはウエイトリフティング界のレジェンドといえます。
そんな三宅さんが、今週日曜日、オリンピック選手の育成をめざし、道場を新設しました。
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実はその前、8月には42年ぶりに選手として競技会にも復帰していた三宅さん。
そんな三宅さんの毎日は7時半に起床するとまずは朝風呂に直行し、そこで棒を持って50回運動。
筋肉がほぐれたところでトレーニングの開始となり、30キロのバーベル挙げを1時間ほど行っています。

復帰のきっかけは3年前。
胃がんの手術やすい臓を患い長期の入院生活を送りました。
そこで今後の人生を見つめ直し、「自分にはウエイトリフティングしかない」。
さらなる闘志を掻き立てたのが、2020年のオリンピックが東京開催となったことで、「自らの手で金メダリストを育てたい」。
そのためには自分がバーベルを挙げなければ指導はできないと、本格的なトレーニングを始めたのです。

筋力アップのため週一回は練習場に通い、体が痛くても45キロ以上のバーベルを挙げるそうです。
健康管理や食事にも人一倍気を配っており、油ものはNGだそうです。

東京オリンピックの年に結婚し50年連れ添った奥様は「本当に重量挙げが好き。彼は生きがいを感じている。褒めてやらなきゃ」と応援しているようです。

三宅さんの今後の夢は2021年に日本で行われる世界マスターズに出場すること。
「俺がやれば世界新です!お年寄りに夢や希望を与えられる。ウエイトリフティングに関わっていく、そういう生きざま。それが俺の使命」。

74歳、まだ夢の半ば。2021年をめざし、不屈の精神でバーベルを挙げる三宅さんです。

週刊人物大辞典
42年ぶりに現役復帰 燃え続ける“アスリート魂”
きょうの人物は東京五輪重量挙げで金メダル三宅義信さん(74)。
42年ぶりに現役復帰し、新たな道場も完成させ育成にも力を入れている。
今週日曜日、オリンピック選手の育成を目指し三宅さんの道場が新設された。
三宅さんは1964年の東京オリンピックで日本人金メダル第1号に輝いた人物。
つづくメキシコシティーオリンピックでも金メダルを獲得。
さらに姪の三宅宏実選手はロンドンオリンピックで銀メダル。
義信さんはまさにウェイトリフティング界のレジェンド。

ことし8月には全日本マスターズ選手権にて42年ぶりに現役復帰を果たした。
義信さんの一日を紹介。
きっかけは3年前胃がんの手術をし、死を考えたこと。
「好きなことをしよう」と思い、さらに2020年東京オリンピック開催が決定し、「自らの手で金メダリストを育てたい」と感じたという。

妻・恵子さんは「誰もやりたがらない重い物を持ち上げることに生きがいを感じている。褒めてやらなきゃ」と語った。
義信さんは全日本マスターズ選手権で2位。そして、新たな目標をたてたという。

東京オリンピック・金メダリストの三宅義信さん、74歳の夢は2021年に日本で開催されるマスターズの世界大会に出場したいとのこと。
バーベルをあげ続けることが使命だ、などと話した。

三宅義信さんは以前より「俺がやらねば誰がやる!今やらずしていつできる!」と語っているなどと話されていた。
ただし妻には頭が上がらないということで、出かける時は服装・ネクタイで注意される、食事の時は「早食いしない」「音をたてない!」と注意する、休日家にいると「どこか行く所ないの?」と言われるなどあげられた。


【平蔵の独り言】
〔三宅氏は「俺がやらねば誰がやる。今やらずしていつできる」という言葉を6年後の代表選手へ送った〕

『自らの手で2020年東京五輪の金メダリストを育てたい』
復帰のきっかけは3年前胃がんの手術をし、死を考えたこと。
胃がんの手術やすい臓を患い長期の入院生活を送りました。
そこで今後の人生を見つめ直し、「自分にはウエイトリフティングしかない」。
「好きなことをしよう」と思い、さらに2020年東京オリンピック開催が決定し、「自らの手で金メダリストを育てたい」と感じたという。

食事の時は「早食いしない」「音をたてない!」と注意される


――――――――――――――――――――――――――― 


【独り言】
「俺がやらねば、誰がやる!今やらずしていつできる」

自分の自身の人生ですよね!
今出来る事は今やっておかないと・・・・・・・・・・・・・

【独り言】
復帰のきっかけは3年前胃がんの手術をし、死を考えたこと。
胃がんの手術やすい臓を患い長期の入院生活を送りました。
そこで今後の人生を見つめ直し、「自分にはウエイトリフティングしかない」。
「好きなことをしよう」と思い

「好きなことをしよう」
身体は動かなくなるし、動かないなりに何ができるか

所ジョージは言っている
“過去はね、いい思い出があれば戻りたいと思うかもしれないけれど、所詮無理、
ましてや未来なんて知りようがない“

結局できることは、今を満喫するために努力することなんですよ。

さあ! 一週間、毎日テレビ体操(30分)、ヒンズースクワット

そして「好きなことはしよう」

2020年 東京オリンピック2回目が元気で見えるように・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2014-10-15 17:34 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

誰のために走ったか(東京五輪)〔マラソン 円谷幸吉〕   

2014年 08月 07日
誰のために走ったか(東京五輪)〔マラソン 円谷幸吉〕
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〔婚約破棄、故障〕
円谷には交際している女性がいた。
だが、体育学校長の反対で婚約は破談となり、
結婚を勧めた理解者の畠野は札幌に転勤を命ぜられる。

〔国民との約束〕
円谷は4年後のメキシコ五輪の活躍を誓う。

〔誰のために走るのか〕
ヒートリーは「ユニオンジャック(英国旗)のために走ることは名誉だと思うけど、
私は自分のために走った」と、当時を回想した。

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誰のために走ったか(東京五輪)〔マラソン 円谷幸吉〕

1964年10月21日午後3時すぎ、
国立競技場は東京五輪のハイライト、マラソンの勇者を迎え、興奮に包まれていた。

エチオピアのアベベが2時間12分11秒2の世界最高記録で五輪2連覇を達成、
4分ほどして、歓声が悲鳴に変わる。
2位で戻ってきた円谷幸吉が残り200メートルで英国のヒートリー(80)に抜かれ、
3位でゴールした。

衝撃的なレース展開は、円谷が「敗れた」かの印象を与えたが、
関係者はメーンポールに「日の丸」が掲揚されたことを喜んだ。

陸上で戦後初のメダル。
163センチ、55キロの小柄な男が不振の日本を救った。

翌日、防衛庁長官から第一級防衛功労章が贈られ、
円谷は4年後のメキシコ五輪の活躍を誓う。
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〔婚約破棄、故障〕

この「約束」が結果的に重くなって、歯車が狂ってゆく。
婚約破棄、コーチの転属、足腰の故障・・・。孤独な戦いが続いた。


メキシコ五輪の年を迎えた68年1月9日、
自衛隊体育学校の幹部宿舎で自殺した円谷が発見される。27歳だった。

遺書には「父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまってはしれません」。

兄の円谷喜久造(82)は無念を口にした
「あれは本当に嫌な言葉だ。それほどまでに走らせなければよかった。
幸吉は枠の中から逃げることもできない。やむを得ないです」

須賀川高校から陸上自衛隊に入隊。郡山に配属され、健脚が認められる。
東京五輪を目標に、62年に発足した体育学校の陸上班に選ばれた。
64年4月、最終選考の毎日マラソンで2位に入り、五輪代表に抜てされる。
体育学校の畠野洋夫がコーチ、南三男と宮路道雄(77)が練習パートナー。

3人は鹿児島出身だ。
宮路は「円ちゃんにメダルを取らせようと、鹿児島トリオで応援した」と懐かしむ。
4人のチームは団結し、円谷を支えた。生涯で最も充実した日々だった。
五輪のマラソンに備えて逗子市で合宿した。
レースの朝、東京に出発、給水ポイントには、マヨネーズのチューブに入ったチーム特製のドリンクが置かれた。

最初の10キロが13位。次第に順位を上げ、40キロを2位で通過。
アベベが独走し、3位のヒートリーとは1分15秒差。
銀メダルを望まれたが、円谷に余力はなかった。

喜久造は弟の疲労した姿に驚いた。『倒れないで、何とかゴールしてくれ』。
父の教えを守って後ろを振り返らなかった。
振り返ったとしても、逆転を阻むことは難しかった。

円谷には交際している女性がいた。
だが、体育学校長の反対で婚約は破談となり、
結婚を勧めた理解者の畠野は札幌に転勤を命ぜられる。

競技に専念し、次の五輪を目指すことを求められた。

東京五輪で活躍が期待された君原健二(73)は8位に終わり、絶望のふちに立たされた。
2年後に結婚して立ち直り、メキシコで銀メダルを手にする。

円谷にも伴侶がいれば、違った人生は送っていたのではないか。
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〔国民との約束〕

67年5月、全日本実業団選手権が最後の競技会となった。
君原はメキシコで日の丸を揚げることを、円谷が「国民との約束」と話すのを聞いた。

3ヵ月後に椎間板ヘルニアとアキレスけんを手術。
世界では2時間10分を切る選手が現れ、日本人も11分台をマークした。
円谷のベストは東京五輪の2時間16分22秒8だ。
焦りが募り、袋小路に追い込まれてゆく。

〔誰のために走るのか〕
誰のために走るのか。
ヒートリーは「ユニオンジャック(英国旗)のために走ることは名誉だと思うけど、私は自分のために走った」と、当時を回想した。

東京五輪陸上総監督の織田幹雄は
「指導者として生きる道はあったのに残念でならない」
と円谷の死を悼んだ。
引退する選択肢はあったのか。

喜久造は言う。
「幸吉は決められなかった。上司の命令だから」

北国新聞2014/8/2 東京五輪半世紀

【平蔵の独り言】
衝撃的なレース展開は、
円谷が「敗れた」かの印象を与えたが、
関係者はメーンポールに「日の丸」が掲揚されたことを喜んだ。
陸上で戦後初のメダル。

父の教えを守って後ろを振り返らなかった。

円谷には交際している女性がいた。
だが、体育学校長の反対で婚約は破談となり、
結婚を勧めた理解者の畠野は札幌に転勤を命ぜられる。

【独り言】
円谷幸吉さん 陸上で戦後初のメダル   なんですよ。
後ろを振り向かなかった
交際している女性がいた。

東京オリンピックが日本の高度成長の大きな節目の時代

昭和33年 長嶋茂雄 巨人入団
昭和39年 東京オリンピック
昭和45年 大阪万博

2002年 ワールドカップ(W杯日本開催)

団塊の世代にとって、思い起こさせてくれる 円谷幸吉さん
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by asanogawa-garou | 2014-08-07 18:00 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔佐藤真海氏が語る〕「もし私が車いすだとしたら、日本に住みたいとは思わないですね……」   

2014年 02月 14日
〔佐藤真海氏が語る〕
「もし私が車いすだとしたら、日本に住みたいとは思わないですね……」

車いすだったら、日本に住みたくない

五輪招致の顔、佐藤真海氏が語る7年後の東京

〔競技だけじゃない「世界との壁」〕
22歳から10年間、世界各国を回る中で、佐藤氏は「世界との違い」に何度も愕然とした。
 例えば、日本選手の練習環境。
 一方、ロンドンでは、障害者がスポーツに取り組むハードルは、極めて低いという。
選手の環境やスポーツの世界だけではない。
東京の街中を歩いてみると、違いは歴然だ。
電車に乗れば「お手伝いを必要とされているお客様がいます」と注目を浴び、
階段を上ろうとすれば仰々しい専用エレベーターが登場する。

海外では、障害者が「特別扱い」されることなく健常者と共生しているのに、なぜ――。

〔過去の五輪で、パラリンピックが特に注目を浴びたということは、残念ながらありませんでした。〕

〔ロンドンでは、企業や団体が行った活動やそうした活動に共鳴する個人の姿に感銘を受けたと聞きました。〕

〔東京、さらに日本という国は、どのように変わっていくべきなのでしょうか。〕

 まだたくさんやることがありますよね。
“まだまだまだまだ”ある、と「まだ」を何個つけても足りないくらい(笑)。
「たったの7年」だと思っています。



〔オリンピックとパラリンピックを一緒にやる意味〕

〔選手の練習環境についても、日本は「これから」でしょうか。〕

【楽天優勝で再認識した「スポーツの力」】

〔選手ひとり一人の意識も変わっていく必要があるのでしょうか。〕


日経ビジネス 染原 睦美 2013年11月25日(月)
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 2013年9月7日、アルゼンチンのブエノスアイレスで開催された
五輪招致プレゼンテーションで見事なスピーチを披露し、五輪開催を一気に引き寄せた佐藤真海氏。自身が19歳で経験した骨肉腫との闘い、
2011年に地元宮城県気仙沼を襲った東日本大震災を振り返り、
「大切なのは、私が持っているものであって、私が失ったものではない」
とプレゼンをし、スポーツの力を訴えた。

 あのプレゼンテーションから2カ月経った11月上旬。
改めて佐藤氏に話を聞いた。その中で、彼女がぽつりとこぼした一言が印象的だった。

「もし私が車いすだとしたら、日本に住みたいとは思わないですね……」

〔競技だけじゃない「世界との壁」〕
 佐藤氏は、早稲田大学在学中に骨肉腫を発症。
2002年から義足での生活を余儀なくされた。
リハビリを兼ねて始めた陸上競技で、2004年にアテネパラリンピックに出場。
その後、北京、ロンドンとパラリンピックを経験した。
22歳から10年間、世界各国を回る中で、佐藤氏は「世界との違い」に何度も愕然とした。
 例えば、日本選手の練習環境。
パラリンピック選手は一部の特例を除いて、
日本オリンピック委員会が運用する「味の素ナショナルトレーニングセンター」を利用できない。
オリンピック選手用の施設として位置づけられているため、
パラリンピック選手の利用は限られるのだ。
練習環境のみならず、五輪選手のコーチや競技団体も健常者と障害者でそれぞれ別に存在しているケースが少なくない。

 一方、ロンドンでは、障害者がスポーツに取り組むハードルは、極めて低いという。
障害者スポーツ発祥の地といわれるロンドンのストークマンデビル病院では、
リハビリ施設のほか、すぐ近くにスタジアムや体育館を設置。

過去に入院していた現役パラリンピック選手が訪れ、ボランティアで競技を教える。
一般的な陸上競技施設では、健常者と障害者が同じフィールドで練習を行っていることも珍しくない。
 ロンドン五輪では、スポンサー企業も精力的にパラリンピックを盛り上げた。
例えば、英国大手スーパーマーケットチェーンのセインズベリーが手がけた「1ミリオン・キッズ・チャレンジ」。
子供にパラリンピックの競技に興味を持ってもらうべく、
数年前から取り組まれたキャンペーンだ。
 選手の環境やスポーツの世界だけではない。
東京の街中を歩いてみると、違いは歴然だ。

電車に乗れば「お手伝いを必要とされているお客様がいます」と注目を浴び、
階段を上ろうとすれば仰々しい専用エレベーターが登場する。

海外では、障害者が「特別扱い」されることなく健常者と共生しているのに、なぜ――。
 こうした日本の状況を7年でいかに変えていくべきなのか。

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撮影:鈴木愛子
〔過去の五輪で、パラリンピックが特に注目を浴びたということは、残念ながらありませんでした。〕
 そうですね。
前回のロンドンのときは、パラリンピック開催前に、
すでに東京でオリンピック出場選手の凱旋パレードがありましたし……。

 翻って、ロンドンで何が起きていたかというと、
パラリンピック期間開催中ずっと、スタジアムが8万人の観客であふれかえっていたんです。
朝の部も夜の部も満員。
オリンピックと同じかそれ以上の盛り上がりがあると現地の人も言っていて、
まさしく目指すべきパラリンピックの姿だなと感じました。
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〔ロンドンでは、企業や団体が行った活動やそうした活動に共鳴する個人の姿に感銘を受けたと聞きました。〕
 まず、メディアの取り上げ方ですね。
それまでBBCが持っていた放送権をパラリンピックだけチャンネル4という民放が取得して、
朝から晩まで生中継で放映し続けました。
競技をやっている時間帯の放映だけでなく、
期間中にいかにパラリンピックを盛り上げるかという仕掛け作りも興味深かったです。
チャンネル4が作ったCMは、日本でも話題を呼びましたよね。
パラリンピック選手を「Superhumans」として、
真正面からアスリートとして捉えていて、観る人にも選手にも刺激を与えたと思います。

 メディア戦略だけでなく、スポンサー企業も一緒になってパラリンピックを盛り上げていました。
 セインズベリーが行った「1 Million Kids Challenge(ワンミリオン・キッズ・チャレンジ)」もその1つです。

パラリンピック開催の数年前からスタートして、
100万人の子供たちにパラリンピックスポーツを経験させるというプログラムです。

 例えばシッティングバレーボールという、
床にお尻を着けてバレーボールをするというのは健常者でもできますよね。
あとはブラインドサッカーといって、目隠しをして、
鈴入りのボールでサッカーをするのも可能です。
そうしたスポーツを体験できるようなキットを、
セインズベリーが率先して学校や団体に配布したんです。
場合によっては、パラリンピックの選手を学校に連れて行って一緒にやることもしたようです。
さらに、キャンペーンのアンバサダーはサッカー選手のデビット・ベッカム選手でした。

 子供たちは、工夫次第で一緒にスポーツができるということを学び、意識も変わったと思います。
実際、スタジアムでも子供たちが家族の手を連れて引っ張っていくという光景があちこちで見られました。

 ボランティアの姿も印象的でした。
みんな同じポロシャツを着ていて、競技会場や練習会場、街の中にもたくさんいて、みんなでゲームを盛り上げていくという感じでした。

ボランティアを「ゲームメーカー」と呼んで、ゲームをつくる大切な人たちという意識だったように思います。
街をうろうろしていると、地図を渡してきてくれて、どこに行きたいの? と聞いてくれる。
練習場所やバス停、街のあちこちにいるんです。
 現地の人との接点は、思い出の大事な要素になりますよね。
現地の人がかけてくれた言葉、見せてくれた笑顔、
そうしたものが国の印象に直結することさえある。
 良い意味で、企業や団体が、パラリンピックを「よりよい社会」を実現させるためにうまく利用して、
それに共鳴するように個人を巻き込む活動ができているなという印象を受けました。


〔東京、さらに日本という国は、どのように変わっていくべきなのでしょうか。〕
 まだたくさんやることがありますよね。
“まだまだまだまだ”ある、と「まだ」を何個つけても足りないくらい(笑)。

「たったの7年」だと思っています。
 私が一番これから大事だなと思うのは、障害者に対してという目線じゃなくて、
すべての人に対して配慮の視点を持つ、ということだと思うんです。
例えば超高齢化社会の日本を見渡せば、
足が不自由なお年寄りや弱視のお年寄りもたくさんいると思います。
バギーを持っているお母さんたちも街にはたくさんいます。
 いつ自分がそういう立場になるか分かりませんし、皆必ず年はとります。
そういう点では、他者への配慮ということを考えれば、
障害者だけでない身近な問題と考えられると思うんです。
「おもてなし」を訴える日本だからこそ、こうした配慮が大切になってくると思います。

〔オリンピックとパラリンピックを一緒にやる意味〕
 現在、日本では、ハードはハード、ソフトはソフトというものが多い気がしています。
例えば、スロープ一つとっても、いきなり急勾配になるスロープが普通にある。
「スロープがあればいい」というハード面だけからの考えではなく、
そこを通る人の気持ちに立ったソフト設計が重要だと思います。

ヨーロッパでは、車いすの人をよく見かけるんです。
よく見るということは、動きやすいからなんだと思います。
 かくいう私も、パラリンピックに行かなかったら、
目の不自由な人の誘導をどうするかといったことは分からなかったかもしれません。

障害と一言に言っても様々。
目の不自由な人であれば、ただ肩を貸して歩いてあげるだけで助かることもあります。
駅で白杖を突いている人がいたら、改札で声を掛けてみる。
もし大丈夫ですと言われたら、じゃあ、気を付けて、と送り出す。
お互い心を開いて接して、初めて見えてくる配慮の仕方があるはずです。

 2020年には、オリンピックやパラリンピックを観戦する多くの外国人が訪日し、
街全体で「東京」という都市を目で見て、肌で感じるはず。

そのときの東京がモデルになって、
世界の都市にも広がっていくような街になっているといいなと思います。
 それこそが、まさしくオリンピックだけじゃなくパラリンピックも一緒にやることの意味だと思っています。

〔選手の練習環境についても、日本は「これから」でしょうか。〕
 パラリンピック選手が世界を目指すのに、必ずしも環境が整っているとは思いません。
私は今、「夢の島競技場」というところで、中高生や大学生と一緒にお金を払って使っています。
それで十分といえば十分なんですが、例えば、味の素ナショナルトレーニングセンターは、
オリンピック選手のための強化施設なので、
基本的にはパラリンピック選手は使えなかった。

現在は、少しずつ使えるようにはなってきてはいます。
素晴らしい環境が整っていて、初めて使わせてもらったときは、
オリンピック選手って恵まれているなと思いました(笑)。

 例えば、いくつかの体育館がある中の1つぐらいは、
車いすバスケット用にする、といった対応があってもよいと思います。

こうした話をするとすごい大きなことと思われがちですが、
足りないところを今ある施設でどう補うかを知恵を絞れば、難しいことではありません。

パラリンピック専用のトレーニングセンターを作る必要はないんです。
オリンピック選手とパラリンピック選手が一緒になって練習しているという姿が、
モデルとなって社会に広がっていくことこそが大事なんだと思っています。

【楽天優勝で再認識した「スポーツの力」】
 実際、イギリスだと、オリンピックの陸上選手とパラリンピックの陸上選手が一緒に合宿したり、練習したりしていているんです。
すごくクオリティーが高い練習だと思います。
よりハイレベルな知識を持ったコーチングの方が、やはりトップに行く近道ですから。

 パラリンピック選手に対して、特別な指導が必要かというと、決してそんなことはない。
私も現在、オリンピック選手に指導してもらっていますが、
テクニックやトレーニングメニュー、フィジカル面でも、共通する部分が多く、
あとは、ほんのちょっとの工夫なんです。

 私は、今年の初めから味の素ナショナルトレーニングセンターの運営団体・日本スポーツ振興センターのアンバサダーになりましたが、
今まで以上に健常者と障害者のアスリートの架け橋になっていければと思います。

〔選手ひとり一人の意識も変わっていく必要があるのでしょうか。〕
 そうですね。選手も主体的になる必要があるし、
「やってもらう」という考えではいけないと思います。
自分たちに何ができるかということを考えるべき。
 震災後、多くのアスリートが、自分たちにできることは何だろうかと考えましたよね。
それを今度、2020年に向けて、何ができるかということを主体的に考えながらやっていく時期だと思います。
 お金を出してもらって支援してくださいというのでは、企業や団体にとってただの負担になってしまうし、社会の理解も得られないかもしれない。

一方、選手たちにしかできないこともあるはず。
それを企業や社会に還元していくという視点を持ちたいと思っています。
選手でないと分からない視点、気持ち、経験。
すべてを生かして、社会をよりよくしていくという姿勢を選手自身も持つべきだと思います。

 「スポーツの力」って、本当にあると思っています。

実は、私、先日の東北楽天ゴールデンイーグルスの優勝シーンをたまたま現地で見ることができたんです。
仕事で仙台に行っていて、「見たい見たい」と言ってたら、本当にチケットが1枚舞い降りてきた(笑)。
 球場で観客席を見渡すと、みんなが本当に笑顔になっていた。

子供たちが選手の名前を大きな声で呼んでいて、スタジアム全体が一つになっていました。
スポーツが社会の中で役立つということを本当に体現しているなと思ったんですね。
 東京五輪でも、まさしくこうした姿が見られるようになっていたらいいなと思います。

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【平蔵の独り言】
海外では、障害者が「特別扱い」されることなく健常者と共生しているのに、なぜ――。
【独り言】
以前、〔「自立」とは〕いかに多くの人に頼ることができるか
【自立】は【孤立】ではない。

アメリカは【自立】する社会を作っている。
【自立】して【孤立】しないで生きていけるように多くの人がサポート体制していく社会が形成されている。

と〔自立〕社会のことを述べたことがある。(2012年8月)

佐藤真海さんが語っていることは、日本にはサポートする社会が未熟だということだと思う。

一人一人は何かできればと思っているのが、
どうしたらいいかわからない。
そのような社会の仕組み、文化がない。

以前、リハビリを三ヶ月受けて社会復帰して
今、毎週リハビリを受けている身として
同感することが多々あるが外国の事情がわからないので
自身のことを語れる時が来たら、語ってみたい。

ただひとつ言えることは、“公”から手を差し伸べてくれる社会でなく、
“障害者”であっても、“公”にサポートのお願いを依頼する後進国であることを、
教えてくれた。
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by asanogawa-garou | 2014-02-14 13:26 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

「日本人が不幸になったのは…」山田洋次監督が語る“寅さん”と“東京五輪”   

2013年 12月 30日
「日本人が不幸になったのは…」山田洋次監督が語る“寅さん”と“東京五輪”

管理されていない状態にいる人間に対する憧れかな。
                       産経新聞 10月5日(土)12時44分配信

〔管理された社会、窮屈 → 自由〕
一つは、管理されていない状態にいる人間に対する憧れかな。
今の時代は、本当に日本人がどんどん厳しく管理され始めている。
映画館に行ったって、指定券見せて入って、
入ったら私語は交わさないでくださいとか、盗撮は犯罪ですとかいろいろとある。

そういう窮屈さを今、日本人は感じ始めているのではないか。
それは今のこの国の政治状況からいって、どんどん窮屈になるんじゃないかと思う。
そんな中で寅さんは自由で、なんの拘束も受けない。
それは発想が自由ということ。
考え方がだんだん管理されているということが一番怖いことです。
寅さんの発想は管理されていないから、極めて自由である。

〔 --なぜ寅さんは今でも愛されているのでしょう〕
一つは、管理されていない状態にいる人間に対する憧れかな。

〔 --「寅さんを作った理由は渥美清さんに会ったから」と言われていますね〕
渥美さんは自由な人だったんじゃないかな。
あの人はおそらく、どこにも所属したことがないんじゃないか。
拘束されるのは似合わないし、誰にも縛られない。

【--「男はつらいよ」で描かれた昭和という時代について聞かせてください】
〔 --戦後は〕オリンピックまで。東京五輪以後は
〔 --番組では「オリンピックが日本をめちゃくちゃにした」と言われてましたね〕

【 --7年後にまた東京で五輪が開かれます】
 --東京五輪に反対だったのですか
 --来年公開される「小さなおうち」は、何をテーマに描きたかったのですか
 --監督が理想とする日本人の家庭の姿が、戦前にあったと


【 --大事な文化を失ってしまったということですが、映画で描きたいのはそういう部分ですか】
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山田洋次監督(栗橋隆悦撮影)(写真:産経新聞)

 日本映画界の巨匠、山田洋次監督(82)が、
「男はつらいよ」全48作を順次放送するBSジャパンの新番組「土曜は寅さん!」
(土曜午後6時54分)が10月12日から始まるのを前に、産経新聞のインタビューに応じた。

山田監督は「男はつらいよ」の主人公、寅さんが最近、
若者を中心に人気を集めるようになった事情や、
56年の時を隔てて行われる2度の東京五輪についての考えなどを語った。

〔 --なぜ寅さんは今でも愛されているのでしょう〕
一つは、管理されていない状態にいる人間に対する憧れかな。
 「今でもというか、ずっと人気があったんじゃなくて、近年また人気がありますね。
どうしてなのかな。

 一つは東日本大震災の後、あちこちで寅さんの上映会をずっとやってきて、
つらい時、悲しいことがたくさん起きたときって、
その人たちが求めるのは笑いなんだなって。
その笑いも、バラエティーのような笑いじゃなくて、寅さんの持っている笑い。
寅さんのような人間に会いたい、なぐさめられたい。
そういう役割を寅さんは持っているということを、
一昨年の震災後に感じたことはあります。

 それがきっかけになって、映画館でもちろん見たことのない若い人、
おじいさんが好きだったとか、父親がテレビの再放送を見て笑っているのを見て
『なんでうちの親父はあんなもの見て笑っているんだろう』
と言っているような若者が、寅さんを見てみたら面白かったって。
『寅さんって面白いな』という感じが、スクリーンから離れてフィードバックを始めている。
それを僕も面白いと思っている。

 じゃあ人気の理由は何なんだ、と。
一つは、管理されていない状態にいる人間に対する憧れかな。
今の時代は、本当に日本人がどんどん厳しく管理され始めている。
映画館に行ったって、指定券見せて入って、
入ったら私語は交わさないでくださいとか、
盗撮は犯罪ですとかいろいろとある。
そういう窮屈さを今、日本人は感じ始めているのではないか。
それは今のこの国の政治状況からいって、
どんどん窮屈になるんじゃないかと思う。
そんな中で寅さんは自由で、なんの拘束も受けない。
それは発想が自由ということ。

考え方がだんだん管理されているということが一番怖いことです。
寅さんの発想は管理されていないから、極めて自由である。
そんなことへの憧れが今、改めて若者たちに、寅さんを通して感じられる気がする」

〔 --BSジャパンの番組(10月8、15日午後9時から放送の「昭和は輝いていた」)では、「寅さんを作った理由は渥美清さんに会ったから」と言われていますね〕

 「(寅さんのキャラクターは)2人で作ったんだよ。
渥美清という人間から触発されて、
この寅さんというキャラクターはますます膨らんでいった。
渥美さんは自由な人だったんじゃないかな。
あの人はおそらく、どこにも所属したことがないんじゃないか。
拘束されるのは似合わないし、誰にも縛られない。考え方も縛られない」
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【--「男はつらいよ」で描かれた昭和という時代について聞かせてください】

 「昭和といったって、3種類ある。まず戦前。戦中はない。これは消えてしまいたい時代。
全く最低な時代。戦中は昭和に入らない」


〔 --戦後は〕
オリンピックまで。東京五輪以後は
 「復興の時代。(昭和39年の)オリンピックまで。
このころ、もう一回自分たちの生活を回復しようと思って、日本人は一生懸命頑張った。
それまで日本人が築いてきた生活をもう一度取り戻そうと。
昭和20年代から30年代にかけて、あの時代が僕は本当に懐かしい。
みんな元気で、子供がいっぱいいて。
あのころの写真は本当に子供がいっぱい写っているよね。
小さいお店がたくさんある。乾物屋さんとか、小間物屋さん、魚屋さん、八百屋さん。
あの時代は日本人は元気だったんじゃないかな。労働組合も元気だったし、学生運動も盛んだったし。そういう活気にあふれていた」
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〔 --では東京五輪以後は…〕
 「高度成長になって、競争社会になっていく。
学歴社会になり、管理社会への道が始まっていくんじゃないかなあ。
風景もどんどん味気なくなってきたし」

〔 --番組では「オリンピックが日本をめちゃくちゃにした」と言われてましたね〕
 「めちゃくちゃにしましたよ。
この国がどういう国であるべきかというイメージがあのとき作られなかったことに問題がある。
だから、モータリゼーションもあるし、日本中に高速道路を走らせ、何千億も金をかけて道をつくり、車に乗って日本中が移動しだす。
どんどん線路が消えていく。
そのことで幸せになったのか、ということがある」

【 --7年後にまた東京で五輪が開かれます】
 --東京五輪に反対だったのですか
 --来年公開される「小さなおうち」は、何をテーマに描きたかったのですか
 --監督が理想とする日本人の家庭の姿が、戦前にあったと


 「期待していない。
オリンピックが終わった後がどんなに悲惨かというのは、ロンドンであり北京であり見えているんじゃないかな。
施設のあとが荒涼としてしまう。東京もああなるかと思うとぞっとする。
今大切なのは、オリンピックじゃなくて、福島じゃないですかね。
この国は安全だって宣言しちゃったけど、本当にそうなのか。
絶対そうじゃないと僕は思うな。
だって毎日汚染水が見つかって海に流れ込んでいるんでしょ。
何の見通しもなくて、どうして100%安全だって言えるのだろうか」

〔 --東京五輪に反対だったのですか〕
 「オリンピックがいいとはあんまり言わないね。
だってあれは日本人が言い出したことじゃないでしょ。
政治主導で言い出したことでしょ」

〔 --来年公開される「小さなおうち」は、何をテーマに描きたかったのですか〕 「戦前の昭和です。東京の郊外のサラリーマンの家庭で、そこにはある穏やかな生活があった。
それは戦後の昭和とはだいぶ違う。
物語の中身は、人妻が若い青年に恋をする危ない話。
そういうことを含めて、戦前の昭和のサラリーマンの家庭の穏やかな暮らし方を思い返したい、見つめてみたいということ。これは僕の少年時代の思い出でもあるわけだ」

〔 --監督が理想とする日本人の家庭の姿が、戦前にあったと〕
 「理想というと大げさだけれど、一つの形があった。
つつましく暮らすということ。
オリンピック以降は、うんとぜいたくな暮らしをしようとか、海外旅行だとか、豪華マンションとか、欲望が果てしなくなり、日本人が欲望の充足に貪欲になっていった。
それが僕はとても不幸だと思う」

〔 --「男はつらいよ」のDVDマガジンで、監督は寅さんの子供時代について小説を書いています。あれを映画化するという話は?〕

 「そういう夢もありますけどね」

〔 --今の時代に、新しい寅さんを見てみたい〕

 「(寅さんの子供時代は)昭和10年代だからね。
今の若者は、東京というか、日本の暮らしのなかで、
お店屋さんを知らなくなっているんじゃないかね。
日本の子供たちはかつてお店屋さんに育てられた。
お豆腐屋さんにお豆腐買いに行ったり、
八百屋さんにネギ買いに行って、
豆腐屋のおじさんや八百屋のおばさんにしかられたり、
『お父ちゃん元気か』って言われたり。

 今は不便になって、
この前、鉛筆買いに行ったら、近くに文房具屋がありゃしない。
コンビニ行きゃあるんだけど、
もうちょっと面倒くさいものだとコンビニに売ってないでしょ。
文房具屋がなくなる、
本屋がなくなる、
金物屋でちょっとした針金、トンカチ、くぎとかを買うために、
なんとかセンターまで行かなきゃいけない。
ネット(通販)になったり。
昔はそれをお店に買いに行った。

お店がなくなってしまったということは、日本人は大事な文化を失ってしまった。
オリンピック以後だな。
国の発展、人々の暮らしの形が変わった。
(「東京物語」などの監督)小津安二郎は、ぜんぶ戦後の昭和20~30年代でしょ。
かつての日本人の暮らし方を表現しているね。
今度は、お祭り騒ぎはこの国には似合わないと思うな。静かに暮らしたいと思う」

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【 --大事な文化を失ってしまったということですが、映画で描きたいのはそういう部分ですか】

 「そんな風に大げさに考えているわけじゃないよ。
そういう思いをいつも抱いているわけで、それぞれの映画にはそれぞれのテーマがある。小津安二郎の映画が世界で大変な評価を受けているのは、それじゃないかな。
日本人の暮らしに驚くっていうか。
日本人の暮らしにあるさまざまな礼儀作法とか、たたずまいとかしぐさとか。
それを外国の人は驚くんじゃないのかな」

〔 --今年1月に公開された「東京家族」では、そういう部分にこだわった〕

 「そうですね。暮らしというか、ちゃんと見るということをしようと思った。
だから、日本人の文化っていうか、日本人を簡単に表現するにはどうすればいいかは、これから先、戸惑うことになる気がする。
オリンピックの話を聞いたとき、最初に思ったのがそれよ。
オリンピックの開会式なんて何をやるのだろう。
最も日本人を表現するものとは。阿波踊りとかになっちゃうのかね」

〔 --監督は開会式の芸術監督になる気は?〕

 「全くその気はない(笑)生きてないよ、そのときは」

〔 --監督にとって映画とは何でしょう〕

 「あまりそういうことを考えたことはない。
君にとって新聞記者とは何か。
僕の仕事よ、商売よ。
僕は映画を作ってそれで生計を立てている。
新聞社の試験を通っていれば新聞記者になっていた。そういうものですよ」
(聞き手 本間英士)
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万博  太陽の塔

【平蔵の独り言】
〔管理された社会、窮屈 → 自由〕
オリンピックまでは、1円5円を握り締めて
お金がなくても1日を楽しく暮らしていた。
こずかいは“お駄賃・おつり”
朝の”豆腐”、きざみタバコ“ききょう”、”寶の焼酎“
テレビ、電話も他所の家に・・・・・・

団地が出来た頃から
みんなと同じ(こと)なら、安心。

昭和45年大阪万博  「見に行った」ということで
満足していた。
(どのパピリオンも並んでいて、何も見ていない、3日間)
記憶に残るのは“太陽の塔” 爆発だ!(岡本太郎)

管理された社会に気がつかないうちを歩み始めていた。

やはり、市井の人が・・・・・・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2013-12-30 17:47 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔円谷幸吉〕円谷のメダルは、東京オリンピックでの日本陸上界唯一のメダルだった   

2013年 10月 05日
〔円谷幸吉〕円谷のメダルは、東京オリンピックでの日本陸上界唯一のメダルだった
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【マラソンで死闘を演じた3人の男たちは、それぞれ数奇な運命をたどった】
〔「疲れ切って走れません」東京五輪後自殺した円谷幸吉の人生〕
〈週刊朝日〉9月21日(土)11時36分配信

 2020年夏季五輪の開催地に東京が選ばれた。
56年前に開催された1964年の東京五輪のマラソンで命がけの戦いを演じたメダリストは何を思い、その後どんな人生を歩んだのか。

 マラソンで死闘を演じた3人の男たちは、それぞれ数奇な運命をたどった。

 アベベ・ビキラ(エチオピア)は、60年ローマ五輪で代名詞にもなった裸足ではなく、プーマのランニングシューズを履き、五輪連覇を達成した。

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〔ツブラヤ、すごく疲れていた〕

 霧雨が舞うロンドン郊外。
バジル・ヒートリーは穏やかな笑顔で迎えてくれた。
1964年、東京五輪のマラソン銀メダリストだ。今年で79歳になる。
 「トーキョー」の記憶は今も鮮明だ。湿度が高かった。

折り返し地点手前で先行する前回ローマ五輪の覇者アベベ・ビキラとすれ違った。
そして、7万人が詰めかけた国立競技場で日本人選手を抜いた……。

競技場までヒートリーの前を走っていたのは円谷幸吉。
当時24歳の陸上自衛官だった。

 「ツブラヤが僕に気づいていたのか、分からない。
ただ、彼はすごく疲れていた」とヒートリー。

ゴールの200メートルほど手前で勝手に体が動いた。
「本能が『行け』と言ったんだ」
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東京五輪のマラソンのゴール間近、国立競技場のトラックでヒートリー(左)に抜かれる円谷幸吉=1964年10月21日
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マラソンでは、円谷幸吉がベイジル・ヒートリー(イギリス)に国立競技場内に入ってから抜かれたものの見事銅メダルを獲得

 円谷幸吉はゴール直前で英国選手に抜かれたが、堂々の銅メダルを獲得した。
円谷と同学年の君原健二は半年前に同じコースで開かれた前哨戦で優勝。
アベベがレース6週間前に盲腸の手術をしていたこともあり、金メダル候補とも言われた。
だが、8位に沈んだ。

「調整はしっかりできたのですが、期待の大きさに耐えられず、当日は完全にアガってしまいました。ゴール後に選手控室に行くと、茫然とした様子でベッドに横たわる円谷さんがいました」(君原)

 日本にとって陸上唯一のメダル。円谷は喜びに浸ることもなく、すぐに「4年後のメキシコ五輪を目指す」と宣言した。

 一方の君原は、五輪の重圧で心身ともに疲弊していた。
所属先に退部届を出し、マラソンから遠ざかる。
だが、のちに結婚することになる女性との交際を機に意欲を取り戻し、66年2月にマラソンに復帰。メキシコ五輪を想定した高地トレーニングも始めた。

 しかし68年1月、盟友の訃報が届く。円谷が自ら命を絶ったのだ。
遺書には「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」とあった。27歳の若さだった。

「円谷さんは東京五輪の直後から、『国民の前でぶざまな姿をさらしてしまった』と自らを責めていました。
亡くなる半年前の大会でも、腰に故障を抱えながら『メキシコで日の丸を掲げる』と思いつめていました。
友人として『そこまで追い込まなくても』と声をかけるべきでした。
自分になら救えた命だったかもしれません」(君原)

 メキシコ五輪に出場した君原さんは、「円谷さんの分も」と意気込み、最終盤まで2位につけた。
ゴールとなる競技場の手前で、後続に迫られた。
後ろを振り返ってそれを確認すると、新たなパワーが沸き起こった。
2位を死守し、銀メダルに輝いた。

「なぜあのとき、普段はしない『振り返り』をしたのか、実はいまでもわかりません。きっと、天国からの円谷さんのメッセージだったと思います」

 このレースには五輪3連覇を目指したアベベも出場していたが、
故障もあり17キロ付近で棄権した。
その後は母国に戻り、英雄として恵まれた立場にいたが、
交通事故で半身不随となり、73年に41歳で亡くなった。

 君原は31歳で挑んだミュンヘン五輪で5位入賞を果たして、第一線を退いた。
72歳となったいまも、市民ランナーとして、フルマラソンに挑戦し続けている。
昨年の東京マラソンは3時間37分で完走した。

 円谷の故郷、福島県須賀川市で開かれる「円谷メモリアルマラソン大会」に、毎年参加している。
今年の10月に走るときは、「円谷さん、東京に五輪が戻ってきますよ」と墓前に報告するつもりだ。

※週刊朝日  2013年9月27日号

【平蔵の独り言】
陸上のお山の大将、大きな大会に出場すると・・・・・・
いくつか記憶に残っているが、円谷さんとは比較にはならないが
最終トラックをトップ“ワッー!”  横をスッと抜かれていた。
この悔しさが、その後練習に励んだ糧になった。

そんな走ることの真っ只中だったので、
国立競技場のトラックに入ってから、円谷をヒートリー にスッと抜いて

円谷さん 
東京オリンピックでの日本陸上界唯一のメダルだったんですよ!

2020年東京オリンピックを語りたい!
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by asanogawa-garou | 2013-10-05 16:16 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

佐藤真海選手(1人のパラリンピアンが伝えた)一語一語に人生が詰まる。   

2013年 09月 15日
佐藤真海選手(1人のパラリンピアンが伝えた)一語一語に人生が詰まる。
「新たな夢と笑顔を育む力、希望をもたらす力、人々を結びつける力」
五輪を引き寄せた名スピーチ

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【佐藤真海選手「スポーツの力」訴えたスピーチ】
 〔そして、佐藤の目にも…。招致の命運は、彼女とともにあった。〕
 〈スポーツは人生で大切な価値を教えてくれた〉
【秘策!佐藤真海プレゼンが五輪引き寄せた】
 「私がここにいるのはスポーツによって救われたからです」
 「自分が立場に追いついてないな」
【東京招致委最終プレゼン全文〔佐藤真海〕】
 一語一語に人生が詰まる。
 「新たな夢と笑顔を育む力、希望をもたらす力、人々を結びつける力」
 五輪を引き寄せた名スピーチ

【被災地アスリート、訴えるのは「スポーツの力」】
 「パラリンピックの代表として、(招致)チームの一員であることを誇りに思う」
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【佐藤真海選手「スポーツの力」訴えたスピーチ】
〔そして、佐藤の目にも…。招致の命運は、彼女とともにあった。〕
2020年東京五輪・パラリンピック招致を呼び込んだ立役者の一人、
パラリンピック走り幅跳び代表の佐藤真海(まみ)さん(31)。

 右足を切断し、その後、東日本大震災で故郷・宮城県が被災しながら「スポーツの力」で乗り越えた経験を、国際オリンピック委員会(IOC)総会の最終演説で笑顔で訴えた。
支えてきた人たちは「彼女らしい素晴らしいスピーチ」とたたえた。
〈スポーツは人生で大切な価値を教えてくれた〉
 佐藤さんの義足を20個以上作った義肢装具士の臼井二美男さん(58)はこのスピーチを聞き、「彼女の誠実さや周囲の人たちへの感謝の気持ちが伝わってきた」と言う。
出会いは03年春。
大学生の佐藤さんが骨肉腫で右ひざから下を切断した後だった。
「義足でスポーツを続けたい」と相談されたが、初めは歩くことさえやっと。
臼井さんは義足を調整しながら練習に付き添ってきた。

 日本を出発する2日前の8月26日。
佐藤さんが「10年間のお返しをしたい」と、臼井さんの誕生会を開いた。
「長生きしてくれなきゃ困るからね」。冗談交じりに臼井さんを気遣ったという。
 「スピーチ、素晴らしかったよ」。決定後、臼井さんはメールでねぎらった。
(2013年9月9日15時38分 読売新聞)

【秘策!佐藤真海プレゼンが五輪引き寄せた】
日刊スポーツ - 2013年9月9日(月)9時22分
「私がここにいるのはスポーツによって救われたからです」
「自分が立場に追いついてないな」
「位の高い人からスピーチするのが常では」
そんな声に、日本社会の常識を打破した先に、
新しい日本を作るための東京五輪があると信じた。

 佐藤が抜てきを伝えられたのは、アルゼンチンにわたる1週間前。
「そんな大役…。びっくりして、できるのか心配になったけど、信じてくれる人のために頑張ろうと」。
一語一語に人生が詰まる。
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プレゼンテーションで東京招致をアピールする佐藤真海(撮影・菅敏) 
 東京に五輪がやってくる! 国際オリンピック委員会(IOC)は7日(日本時間8日早朝)にブエノスアイレスで開いた総会で、2020年の第32回夏季五輪・パラリンピック大会の開催都市に東京を選んだ。
64年の第18回東京大会以来56年ぶりのスポーツの祭典。

最終プレゼンテーションでは、走り幅跳びでパラリンピック3度出場の佐藤真海(31=サントリー)をトップバッターに起用する秘策で「スポーツの力」を訴え、招致成功をたぐり寄せた。
 日本時間2013年9月8日午前5時21分、1枚の白い紙が、半世紀ぶりの祝祭の到来を告げた。
       「TOKYO 2020」
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 その瞬間、ロゲ会長の前に座る招致団が、オールジャパンがはじけた。
最終プレゼンターの太田はいすから跳び上がる。
その後ろで滝川クリステルが泣きだしそうなかれんな表情で、喜び合う相手を探す。
太田は顔を両手で覆い、チームメートの千田が、太田に笑顔で手を差し伸べた。
体操女子の田中も最初は笑顔だったが、太田と抱き合うと目に涙があふれた。
そして、佐藤の目にも…。招致の命運は、彼女とともにあった。
 命運を分けた最終プレゼン。
東京は大胆で、緻密で、情感豊かな45分間を披露した。
高円宮妃久子さまが被災地復興支援に謝意を述べられた後にプレゼンが始まった。

壇上に立ったのは世界的には無名のパラリンピアンの佐藤だった。
プレゼンメンバーの紹介をチアリーダー仕込みの高らかな声で、明るく華やかにスタート。
 少し間をおき、東京決定へ流れをつくったエレガントなスピーチは始まった。

彼女は、「私がここにいるのはスポーツによって救われたからです」と静かに語りかけた。
目線はカメラに。両端に設置されたプロンプターは見ない。

フワリと黒髪を揺らしながら、カメラ越しにIOC委員1人1人に語りかける。
抜てきに「自分が立場に追いついてないな」と話していた3日前がうそのよう。
 「骨肉腫で足を失ってしまいました」。
右足膝下を切断したつらい過去には、言葉が詰まりそうになる。

故郷の宮城県気仙沼市が東日本大震災で津波の被害を受けた。
スクリーンには被災地の様子、佐藤が肉親と笑うシーンが映される。
一瞬、佐藤はあふれそうになる涙に言葉が出なくなった。
悲しみがあふれ出す寸前、佐藤は耐え、必死に話し続けた。

 だが、幾度もスポーツに支えられた体験をアピールするうち、自然と笑みがこぼれた。
決してオーバーアクションではなく、時に胸に手を当て、かみしめるよう。
実感こもる姿に、聴衆は引き込まれていった。
 人生を貫く「スポーツの力」。
演技では表せない自然な笑顔、悲しい表情を交えて、約4分間。
自分の人生をさらけ出し、IOC委員に届けた。「気持ちを込めて話せたな」。
それは確かに人々の心を打った。

 「とても印象的(impressive)でした」。
プレゼンを終え、佐藤がロゲ会長にあいさつすると、耳元で優しくささやかれた。
同会長は報道陣の前では「ベリーグッド」と親指を立て、佐藤のスピーチをたたえた。
モナコ公国のアルベール2世公は「エモーショナルで感動的だった。
他のIOC委員にも響いたはずだ」と絶賛。

それは、東京が温めた「秘策」が成就した瞬間だった。
 昨年12月だった。
英語によるスピーチの実績がない佐藤を、最終プレゼン1番手で起用する案が検討された。
東京が掲げる「スポーツの力」を体現する存在であり、宮城県の出身。
被災地と開催地東京。
その2つをスポーツで結ぶ、シンボルになれると考えたから。
 12年ロンドン、14年ソチでともに招致を成功させたプレゼン指導のプロ、ニューマン氏とバーリー氏らは議論を重ねた。
日本社会に根深く残る年功序列がちらつく。
「位の高い人からスピーチするのが常では」。
そんな声に、日本社会の常識を打破した先に、新しい日本を作るための東京五輪があると信じた。

 佐藤が抜てきを伝えられたのは、アルゼンチンにわたる1週間前。
「そんな大役…。びっくりして、できるのか心配になったけど、信じてくれる人のために頑張ろうと」。一語一語に人生が詰まる。


最終プレゼン前夜にはお風呂で身ぶり手ぶりを交えて練習しながら、感情が高ぶって号泣した。
「でも(涙を)出し切ってお湯と一緒に流したら、そのおかげですっきりした」。
本番では「ゾーンに入っていたかな」と足も震えなかった。
 その後に登壇した猪瀬知事は「チームジャパンでバトンリレーを本当によくできた」と、佐藤の役割をたたえた。
先頭でIOC委員を引き込み、皆が流れに乗った。
安倍首相も懸念される汚染水問題で「状況はコントロールされている」と説明。
滑らかな流れは最後までよどみなく続いた。
 決選投票の結果は、東京60、イスタンブール36。
日本の常識を超えたプレゼンで勝ち取った祭典は、低迷する日本社会へのくさびになる。

1人のパラリンピアンが伝えた「スポーツの力」は7年後、さらにその先まで日本を支えていくだろう。
「新たな夢と笑顔を育む力、希望をもたらす力、人々を結びつける力」。
五輪を引き寄せた名スピーチに、佐藤が懸命に生きてきた強さの礎が込められていた。【阿部健吾】
 ◆投票経過 1回目の投票でイスタンブールとマドリードが26票で2位タイ。どちらかを除外するために2カ国での除外決選投票が行われ、イスタンブールが過半数を取り、東京との開催都市決選投票に進む。開催都市決選投票で投票数が96になったのは除外されたスペインの委員3人が投票に加わり、そのうちの1人が欠席したため。

【東京招致委最終プレゼン全文〔佐藤真海〕】
2013.9.8 01:21産経ニュース[五輪 東京招致委最終プレゼン 2013・9]
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 IOC総会で、東京のプレゼンテーションをするパラリンピック陸上の佐藤真海選手=7日、ブエノスアイレス(ゲッティ=共同)
2020年五輪東京招致委の最終プレゼンテーション(日本語訳)

【パラリンピック女子走り幅跳び代表・佐藤真海】 
 会長、そしてIOC委員の皆様。佐藤真海です。
 私がここにいるのは、スポーツによって救われたからです。

スポーツは私に人生で大切な価値を教えてくれました。
それは、2020年東京大会が世界に広めようと決意している価値です。
本日は、そのグローバルなビジョンについてご説明いたします。
 
 19歳のときに私の人生は一変しました。
私は陸上選手で、水泳もしていました。
また、チアリーダーでもありました。
そして、初めて足首に痛みを感じてから、たった数週間のうちに骨肉種により足を失ってしまいました。
もちろん、それは過酷なことで、絶望の淵に沈みました。

 でもそれは大学に戻り、陸上に取り組むまでのことでした。
私は目標を決め、それを越えることに喜びを感じ、新しい自信が生まれました。
 そして何より、私にとって大切なのは、私が持っているものであって、私が失ったものではないということを学びました。
 私はアテネと北京のパラリンピック大会に出場しました。
スポーツの力に感動させられた私は、恵まれていると感じました。
2012年ロンドン大会も楽しみにしていました。

しかし、2011年3月11日、津波が私の故郷の町を襲いました。
6日もの間、私は自分の家族がまだ無事でいるかどうかわかりませんでした。
そして家族を見つけ出したとき、自分の個人的な幸せなど、国民の深い悲しみとは比べものにもなりませんでした。

 私はいろいろな学校からメッセージを集めて故郷に持ち帰り、私自身の経験を人々に話しました。
食糧も持って行きました。
ほかのアスリートたちも同じことをしました。
私達は一緒になってスポーツ活動を準備して、自信を取り戻すお手伝いをしました。
 そのとき初めて、私はスポーツの真の力を目の当たりにしたのです。
新たな夢と笑顔を育む力。希望をもたらす力。人々を結びつける力。

200人を超えるアスリートたちが、日本そして世界から、被災地におよそ1000回も足を運びながら、5万人以上の子どもたちをインスパイアしています。
 私達が目にしたものは、かつて日本では見られなかったオリンピックの価値が及ぼす力です。
そして、日本が目の当たりにしたのは、
これらの貴重な価値、卓越、友情、尊敬が、言葉以上の大きな力をもつということです。
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【被災地アスリート、訴えるのは「スポーツの力」】
被災地出身の佐藤さんに海外メディアから質問が飛んだ。
 「震災と東京の五輪招致はどう結びつくのか」。
佐藤さんは質問者を真っすぐに見つめると、決して滑らかではないが、英語で懸命に話し始めた。
 「日本のアスリートたちは復興に向けて努力しています。東北は私が生まれた土地。2020年までこうした素晴らしい活動を継続するチャンスがあります」
 続けて「パラリンピックの代表として、(招致)チームの一員であることを誇りに思う」。
堂々と答えた。
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アスリートによる東京招致への宣言をする会見で、招致への情熱を語るパラリンピアンの佐藤真海さん(5日、ブエノスアイレスで)=増田教三撮影
 【ブエノスアイレス=土方慎二】東京が招致を目指す2020年夏季五輪・パラリンピックの開催都市を決める国際オリンピック委員会(IOC)総会が6日夜(日本時間7日午前)、ブエノスアイレスで幕を開けた。
 勝敗を分けるとされる最終演説で、東京のキーマンはパラリンピック走り幅跳び代表の佐藤真海(まみ)さん(31)。
宮城県気仙沼市出身のアスリートが、被災地で感じたスポーツの持つ無限の力を全世界に発信し、東京の勝利を呼び込む。
 現地のホテルで5日午前(同5日夜)、招致委員会が開いた日本のアスリートによる記者会見。
被災地出身の佐藤さんに海外メディアから質問が飛んだ。
 「震災と東京の五輪招致はどう結びつくのか」。佐藤さんは質問者を真っすぐに見つめると、決して滑らかではないが、英語で懸命に話し始めた。
 「日本のアスリートたちは復興に向けて努力しています。東北は私が生まれた土地。2020年までこうした素晴らしい活動を継続するチャンスがあります」
 続けて「パラリンピックの代表として、(招致)チームの一員であることを誇りに思う」。堂々と答えた。
(2013年9月7日13時12分 読売新聞)

【チャレンジする姿を見てほしい…佐藤真海さん】
IOC総会のスピーチには、「自分の物語が、『スポーツの力』を訴える日本のテーマになるなんて」と驚く。
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インタビューに答える佐藤真海さん(13日午前、都内で)=松本剛撮影
 2020年夏季五輪・パラリンピックの東京開催が決まった国際オリンピック委員会(IOC)総会で、東京のプレゼンターを務めたパラリンピック走り幅跳び代表、佐藤真海(まみ)さん(31)が13日、東京都内で読売新聞のインタビューに応じた。
 障害者スポーツの未来、周囲の反応、アスリートとしてのこれから……。
帰国後の思いを打ち明けた。

 佐藤さんは、障害者スポーツへの国内の認知度について
「これまでは、はれものに触る感じだったが、総会の最終演説のスピーチで、関心の高まりを感じている」と話した。

 日本代表として世界を転戦し、日本は障害者スポーツへの支援が足りないと痛感していた。
ロンドンパラリンピックの1年後にロンドンで開かれた障害者スポーツの国際大会は、
8万人収容の競技場が満員になったが、
「日本ではどんな大会でも観客席はガラガラだった」。

 10月12日に東京で全国障害者スポーツ大会が開幕し、佐藤さんも参加する。
「まだ障害者スポーツを見たことのない人が多い。興味を持ってくれるきっかけになってほしい」と期待を寄せた。

 骨肉腫で右足の膝から下を失ってから、競技に取り組む意識は大きく変化したという。
佐藤さんは「以前は根性ばっかりで、スポーツを楽しめなかったが、義足を装着することで逆に心からスポーツを楽しめるようになった」と振り返る。
 31歳の今も自己ベストを次々と更新。

20年大会については「まだ見通せないが、自分で自分の限界が見えません。
1年、1年続け、限界を作らずチャレンジする姿を見てほしい」と笑顔を浮かべた。

 震災や障害を乗り越えた体験に触れたIOC総会のスピーチには、
「自分の物語が、『スポーツの力』を訴える日本のテーマになるなんて」と驚く。
 スピーチの終了直後から、知人をはじめ、多くの人から電話やメールなどで「みんなの思いをつないでくれてありがとう」「2020年に向けて希望が持てた」といった声が寄せられたという。
同じ障害を抱える人からもあり、「明日に向けて一歩でも前を向いてもらえたらいいなと思った」と話した。
 最終演説後、ロンドン五輪組織委員会会長のセバスチャン・コー氏に肩をたたかれた。
佐藤さんは「『素晴らしいスピーチだったね』と言われて、(ロンドンから)バトンを引き継いだ思い。20年大会の成功に向けて尽力したい」と語った。
(2013年9月13日14時35分 読売新聞)

【平蔵の独り言】
一語一語に人生が詰まる。
「新たな夢と笑顔を育む力、希望をもたらす力、人々を結びつける力」
五輪を引き寄せた名スピーチ

日本社会に根深く残る年功序列がちらつく。
「位の高い人からスピーチするのが常では」。

 佐藤が抜てきを伝えられたのは、アルゼンチンにわたる1週間前。
「そんな大役…。びっくりして、できるのか心配になったけど、信じてくれる人のために頑張ろうと」。
一語一語に人生が詰まる。
最終プレゼン前夜にはお風呂で身ぶり手ぶりを交えて練習しながら、感情が高ぶって号泣した。
「でも(涙を)出し切ってお湯と一緒に流したら、そのおかげですっきりした」。本番では「ゾーンに入っていたかな」と足も震えなかった。

七年後2020年の2度目のオリンピックが日本人に日本にどのような
夢と希望をもたらしてくれるのか・・・・・・・

50年前は何もない 日本、日本人に夢、希望が実現したのであるが

見ることが出来るか・・・・・・・・・・・・・

〔1964年東京オリンピック〕
オリンピックマーチ、日本選手団の赤いブレザーの行進、聖火台への点火
マラソン・アベベ→円谷幸吉 すぐ後ろにイギリスのヒートリー

50年前の出来事が思い浮かぶ

2020年東京オリンピック開催が
50年前のオリンピックの記念切手を持っているのを思い出させてくれた。
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昭和34年の〔美智子妃殿下〕のご成婚もあった。
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〔美智子妃殿下〕のご成婚馬車パレードは当時テレビのある家で見ました。

映画 「3丁目の夕日」 の世界がリアルタイムに広がる。

ありがとう! 佐藤真海さん
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by asanogawa-garou | 2013-09-15 18:54 | 市井の人が一番えらい | Comments(0)

日本サッカーの父 クラマー氏は4位を評価「大きな成果」「誰も想像しなかった」   

2012年 08月 16日

日本サッカーの父 クラマー氏は4位を評価「大きな成果」

クラマー氏は日本が44年ぶりの表彰台を逃したことをドイツの自宅で知り
ロンドン五輪サッカー男子3位決定戦 日本0―2韓国 (8月10日 カーディフ)
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 かつて日本で指導し、男子のメキシコ五輪銅メダルに大きな役割を果たしたクラマー氏は日本が44年ぶりの表彰台を逃したことをドイツの自宅で知り

「今回は大きな成果。北京五輪のころ、日本が4年後に男子も女子もここまで成長しているとは誰も想像していなかったのではないか」と4位に入ったことを高く評価した。

 日韓がともにベスト4入りしたことに大きな意義があるとし
「アジアにとってポジティブなこと。日本は負けた落胆を、今後の成長に向かうためのやる気に変えなければいけない」とエールを送った。(共同) 【男子決勝トーナメント】
[ 2012年8月11日 08:36 ]

クラマー氏は評価「誰も想像しなかった」



デットマール・クラマー

・1925年4月4日 87歳・ドイツ・ドルトムント出身
日本においては、日本代表の基礎を作った事から「日本サッカーの父」と呼ばれる。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

ドイツの複数クラブで選手としてプレーしたが、怪我のために引退し、指導者の道へ進んだ。

1960年、東京オリンピックを控えた日本代表を指導するため、コーチとして招聘された。
日本サッカー協会は代表強化のために外国人コーチを招くことを検討しており、成田十次郎の仲介や、会長である野津謙の決断で実現した人選だった。

クラマーは、自ら手本となるプレーを見せて実技指導を行った。
初歩的な練習の繰り返しに対しては批判もあったが、方針を変えることはなかった。
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当時の教え子には釜本邦茂、杉山隆一らがいた。
そして迎えた1964年の東京オリンピックでは、
日本代表はアルゼンチンを破るなどの活躍を見せ、
ベスト8の快挙を成し遂げた。

役目を終えたクラマーは、帰国にあたって5つの提言を残した。
1.強いチーム同士が戦うリーグ戦創設。
2.コーチ制度の確立。
3.芝生のグラウンドを数多く作り、維持すること。
4.国際試合の経験を数多く積むこと。
  代表チームは1年に1回は欧州遠征を行い、強豪と対戦すること
5.高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと。
— 三上孝道「日本サッカーの父 デッドマール・クラマーの言葉」

この提言により、1965年には日本サッカーリーグが発足した。
その後も釜本のドイツ留学を実現させるなど、日本のサッカーに貢献。

彼の指導を受けた選手・コーチを中心に構成された日本代表はメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した。
この試合を観戦していたクラマーは日本代表の活躍を喜んだという。
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■ デットマール・クラマーの名言集
きちんと基礎を固めてこそ、その上に立派なものが建つ。
基本がしっかりしていないものは、いつかは崩壊する。
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上達に近道などない。
そこには、不断の努力があるだけである。
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サッカーは子どもを大人にし、大人を紳士にする。
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タイムアップの笛は、次の試合へのキックオフの笛である。
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サッカーは理論ではなく、試合を通して学べるもの。
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サッカーは思いやりだよ。
パスを受ける人の立場になって、受けやすいボールを出すことから始まるんだよ。
これから何十年も続く君たちの人生も一緒だよ。
人を思いやる気持ちを大事にしなさい。

【平蔵の独り言】
〔2002年 ワールドカップ日韓共催 横浜スタジアム〕
ブラジルvsドイツ  終了のフィッスルがなった時
・ドイツ キーパー カーンがゴールポストにへたり込んだ。
・FIFAのマークのついた折鶴が舞い降りた。
〔なでしこジャパンが女子ワールドカップ優勝〕
〔メキシコ五輪依頼の銅メダル(かなわず)〕

クラマーさんからだったことを思い出させてくれました。

Help Him もクラマーさんの言葉!
(サッカーは自分が彼の為にプレーをする)
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by asanogawa-garou | 2012-08-16 15:58 | サッカー | Comments(0)