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〔蜷川幸雄(演出家)〕「歳を取る難しさは、立ち止まると“ボケる”んだよ。停止してしまうんだよ!。」   

2017年 04月 17日
〔蜷川幸雄(演出家)〕「歳を取る難しさは、立ち止まると“ボケる”んだよ。停止してしまうんだよ!。」

蜷川幸雄(演出家)俳優やめて31年〔不遇時代〕屈辱感、悔しさが自分を奮い起たせて屈折した思いが、恵まれた、苦労して来ているから(更新 2016/5/31 11:30)

【1回、立ち止まって見ようと思いませんか!】歳を取る難しさは

【人間ってあまり幸せだと穴を埋める冒険をしなくなる】


僕らの時代 蜷川幸雄×小栗旬×綾野剛
August 24 [Sun], 2014, 7:04
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屈辱感とか悔しさが自分を奮い起たせて、苦しむ穴を埋めようとする。

〔人間の一生は決まっている。〕
時間をどう使って、何を残すか。
意味のある時間を残さないともったいない。


〔同じもの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す〕
でも、普通の生活って、繰り返すことじゃない。
ご飯食べて、働いて、帰って来て、家族を養って、寝る。
その中で自分を掻き立てる持つか、探して
そういうもの同じものの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す。

人間って、あまり幸せだと“穴”を埋めるという努力をしなくなる。
「いい俳優」には不幸を知ってほしい。
何か欠落しているものがあるから衝動で、埋めたい。

〔コミュニケーションをとろうと努力したい〕
本当の自由を獲得するために永遠の“孤独”を完成させなければならない。

〔群衆役を大切にする理由〕自分を放棄して、その他大勢を演じている。
「俺よりスゴイものはそのまま持続してほしい」

〔俳優に求めるもの〕自分より強いもの
「初めに指示しないのは」やってやってと言うと俺の経験とか

〔蜷川幸雄(演出家80歳) 〕「ちょっと一回立ち止まらなくてはいけないと思ったことはないですか!」
“俺はキラキラしているのが好きなんだ”

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②「ボクらの時代」の放送で演出家、蜷川幸雄さんが

小栗旬さんと綾野剛さんに対して

【1回、立ち止まって見ようと思いませんか!】歳を取る難しさは

〔ちょっと、一回立ち止まらなくてはいけないと思ったことはないですか?〕
「歳を取る難しさは、立ち止まると“ボケる”んだよ。
停止してしまうんだよ!。」

〔「歳を取り方が難しいんだよ。難しいぞ!」〕

「もっと闘争的でありたい。
歳の取り方が難しいんだよ!
「難しいぞ!」」

もっと闘争的でありたいから「俺はキラキラしているのが好きなんだ」

止まるとボケる。歳をとるのは難しいぞぉ

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③立ち止まらない生き様
August 24 [Sun], 2014, 7:04

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④〔群衆役を大切にする理由〕

〔群衆役を大切にする理由〕自分を放棄して、その他大勢を演じている。

群衆役にも注目
蜷川幸雄は群衆役の稽古も力を抜かない。
その他大勢の一人として演じてほしくない。
大勢の中の一人から優秀な人材を探したい。
頑張っている人を見つけては名前を覚えようとした。
群衆役の俳優たちに友情を感じていた蜷川幸雄。
その中からスターになってほしかった。

俳優に求めているもの
蜷川幸雄が俳優に求めているものとは?
「発想の大きさ」
蜷川幸雄は初めて使う俳優は自由に演じさせる。
それは俳優の発想を殺さない為。
「俺よりスゴイものはそのまま持続してほしい」

【俳優やめて31年〔不遇時代〕】
蜷川幸雄はヒモだった
蜷川幸雄が娘が生まれた頃。
年収は60万円くらい。
女優だった妻の収入で暮らしていた。
その分、育児から家事までを担った。
長女・美花をおぶってテーブルの周りを回る。
泣きながらオッパイを探ろうとする娘。
情けなかったと振り返る蜷川幸雄。
今でも主夫力は健在。
時間があれば洗濯したり干したりもする。

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【人間ってあまり幸せだと穴を埋める冒険をしなくなる】
飢餓感が必要
育児も家事もこなす蜷川幸雄。
俳優たちには幸せな家庭を築いてもしょうがないと豪語している。
蜷川「人間ってあまり幸せだと穴を埋める冒険をしなくなる」
蜷川幸雄の人生は挫折の連続の人生だった。
高校落第、大学も落ちた、俳優も落第。
悔しかった。

「世界中の人を満足させていない」
そんな飢餓感が蜷川幸雄の原動力だった。


【1回、立ち止まって見ようと思いませんか!】歳を取る難しさは
「立ち止まると“ボケる”んだよ。停止してしまうんだよ」
立ち止まるとボケる
収録があった2年前。
小栗旬は蜷川幸雄ロス後を心配していた。
初めて舞台を経験するものにとって、
蜷川幸雄は登竜門。
それがなくなったら演劇はどうなるのか。
蜷川「若い人と仕事するのは長くないと思っている」
「100人いたら1人やろう思ってくる人がいたらいい」
小栗「立ち止まらないと思ったことはないですか?」
蜷川「立ち止まるとボケるんだよ」
常に闘争的でありたいと思っている蜷川幸雄。
蜷川「バタッて終わればいいやって思っている」
本当に最期まで走った人生でした。

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⑥立ち止まると“ボケる”んだよ
55年に劇団青俳に俳優として入団。
69年に演出家デビュー。
劇団現代人劇場、桜社を経て74年の日生劇場「ロミオとジュリエット」で商業演劇に進出。

現代劇からシェークスピア、ギリシャ悲劇と幅広い作品を手掛け、83年「王女メディア」欧州公演を皮切りに海外に進出。
02年英国の名誉大英勲章を授与され、04年に文化功労者、10年に文化勲章。
現代日本を代表する演出家のひとり。
海外でも評価が高く、「世界のニナガワ」とも呼ばれる。

蜷川幸雄さん逝く
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⑦蜷川幸雄さん=2011年3月、東京都渋谷区
【にながわ・ゆきお】 1935年生まれ。開成高校卒業後、東京芸術大学を落ち劇団「青俳」に入団。
「俳優よりも演出家が向いている」と演出家に。
ギリシャ悲劇の演出などで国際的評価を受ける。
2002年、名誉大英勲章第3位、2010年、文化勲章受章。
(2011年4月、夕刊連載「人生の贈りもの」より)

【平蔵の独り言】
〔同じもの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す〕
でも、普通の生活って、繰り返すことじゃない。
ご飯食べて、働いて、帰って来て、家族を養って、寝る。
その中で自分を掻き立てる持つか、探して
そういうもの同じものの繰り返しの中から、奮い起たせるものを探す。

【独り言】
思えば遠くへ来たもんだ!
気が付けば、”同じものの繰り返し”
目の前に”古希”
いろいろとあったけれど、「まあ、恵まれた人生!」

【平蔵の独り言】
【1回、立ち止まって見ようと思いませんか!】歳を取る難しさは
「立ち止まると“ボケる”んだよ。停止してしまうんだよ」
立ち止まるとボケる
〔「歳を取り方が難しいんだよ。難しいぞ!」〕

【独り言】
今、立ち止まるのが怖い!
一日一度は外に出る。(何かイベントを考える)
部屋にじっとしていると、身体も心も停止してしまう。

「衰えも失敗も全てこの身(手)で抱え込んでいく」(年を取るの難しい)
今日(いままで)と同じスピードで過ごせない。(進まない)
どう生きるか!合わせて、歩く!

段々とできることに時間が掛かってくるから、
“難しいぞ”が全くの実感ですね!





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by asanogawa-garou | 2017-04-17 17:17 | 人間模様 | Comments(0)

〔蜷川幸雄〕「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」   

2017年 03月 10日

〔蜷川幸雄〕「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」

玉しき都の泡沫(The beautiful city may be illusion.)より
『日本経済新聞』朝刊 2012/4/24 Nikkei〔私の履歴書〕
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〔「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」〕(子育て)
幼い実花をぼくは新宿の中央公園へつれていき、口笛の吹き方を教えた。
西口の雑踏で、ぼくは自分に言い聞かせるように、実花につぶやいていた。

「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」

〔70代にさしかかって「パンクじじいになる」と放言した。〕自分を壊し まだ駆ける(パンクじじい)
家には人を呼ばない。
芸能人で我が家を訪ねた人はほとんどいない。
親しくなりすぎると、関係がフェアでなくなるからだ。
〔50代の苦悩〕
「青梅街道の風になるんだ」といって失笑されたが、ひばりケ丘の自宅からベニサンまでバイクで走る。
〔俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。〕
「蜷川さん、水戸黄門の再放送を見たわよ。お公家さんやってたでしょ。あんなヘタな演技を見てしまったら、駄目出しが聞けなくなるわ。
もう、やめてちょうだい」
〔子育て〕「主夫」、仕事も抱えダウン(診断書は「育児疲れ」。)
朝起きてバギーに実花を乗せ、荒川の土手で遊ばせる。
洗濯し、それを取りこみ、実花をお風呂に入れる。
買い物をして夕ご飯の支度をし、洗い物をする。
スポック博士の育児書に忠実な主夫だった。

〔母親でさえ「長続きしないよ」と言ったくらいで、これも突然の結婚だった。〕
〔女優の妻が家計支える〕「アブカワさん、よろしくお願いします」。(結婚)
「アブカワさん、よろしくお願いします」。
結婚した真山知子がぼくに向かって最初にかけた言葉だ。
〔ぼくは「バカヤロー」を連発し、灰皿や時にはイスを投げた。〕
〔鋳物の街・川口〕飛び交う「バカヤロー」
〔内気、幼稚園1日で挫折〕(戦争の頃)
〔持ちあげられると、自分を引きずりおろしたくなる。〕
〔飼いならせぬ自意識と苦闘〕桜の憂鬱
〔「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」〕
演出家になる前は俳優をしていたが、この過剰な自意識が演技に災いした。自意識を飼いならせないから、うまく演じられない。

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〔70代にさしかかって「パンクじじいになる」と放言した。〕自分を壊し まだ駆ける(パンクじじい)
家には人を呼ばない。
芸能人で我が家を訪ねた人はほとんどいない。
親しくなりすぎると、関係がフェアでなくなるからだ。
舞台を批判されるのは仕方ない。
けれどもフェアでない劇評には抗議する。
劇場に壁新聞をはり、私家版のニナガワ新聞をロビーで配って劇評を批判したことがあるのは、そういう思いからだ。

幼いころから演劇の現場を知っている長女の実花は、女優になりたかったらしい。
ぼくは知らん顔をしていた。
父親が演出家では、女優として使われにくい。
自分も、娘から他人の演出について聞きたくない。
すると実花は美大に入って写真家になった。
蜷川幸雄の子だと思われるのが嫌だろうから、ぼくは展覧会場にもなかなか顔を出さない。
実花は自分で作品を雑誌に売りこみ、はじめから自立していた。
高校、大学のころ一緒に道を歩いていても、実花は風景を撮らず、花のアップを接写していた。
ぼくの部屋で資料の残酷絵を眺めていた。
不思議な子だと思っていたが、なにも言わなかった。
小さいころから実花に言っていたのは、こういうことだ。
「カッコいい生き方とはどういうものだろう。カッコいい女がいいよな」
たまにはほめて、と言っているようだが「まあまあだな」と言うくらい。
ただ撮った映画を見ると、映像は実花の方に才能がある。
ぼくも1981年に公開された「海よお前が―帆船日本丸の青春―」以来、映画を撮り続けている。
室内の演劇と異なる演技をロケで発見したり、カット割りしたりするのは楽しい。ただ演技のつけ方の細かさで演劇の経験は生きるが、どういうシチュエーションでその場を映像にするかという点では映画監督に、まだまだかなわない。
真山知子は女優をやめてキルト作家になり、次女の麻実は編集者になった。
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〔50代の苦悩〕路上の風が体中の細胞を再生してくれた。
50代に入り、メランコリーに侵されていたのだ。
神経過敏な状態に追いこむ仕事の仕方を改めるよう医師にさとされ、そう心がけたら、いい作品ができなくなった。
救ってくれたのは若い俳優たちだ。
商業演劇に出る若者に演技を見てほしいと頼まれたぼくは、80年代初めから蜷川教室をあちこちで開いていた。
それをもとに84年秋、ゲキシャ・ニナガワ・スタジオを結成する。
森下の染色工場を貸し稽古場にした紅三という会社の亘理幸造専務が、場所を提供してくれたのだ。
稽古場に付属する小劇場ベニサン・ピットで、チェーホフや清水邦夫の戯曲を実験的に演出した。
原点の小劇場に立ち返る日々、突然バイクに乗り始めた。
「青梅街道の風になるんだ」といって失笑されたが、ひばりケ丘の自宅からベニサンまでバイクで走る。
路上の風が体中の細胞を再生してくれた。

〔俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。〕
俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。
79年に上演された秋元松代さんの「近松心中物語」の稽古で、こういわれた。
「蜷川さん、水戸黄門の再放送を見たわよ。お公家さんやってたでしょ。あんなヘタな演技を見てしまったら、駄目出しが聞けなくなるわ。
もう、やめてちょうだい」
ぼくの俳優人生は50歳のころ、ようやく終わる。
演出家としては年収60万とか70万の時代が続いたが、妻が女優をやめても演出で食べられるように、やっとなった。

〔子育て〕「主夫」、仕事も抱えダウン(診断書は「育児疲れ」。)
「主夫」、仕事も抱えダウン
商業演劇巡り孤立、櫻社解散
東宝の舞台で初めて演出料をもらった。
40、50万円だった記憶がある。
日生劇場や帝国劇場で年1、2本の演出を手がけるようになったとはいえ、食べていけない。
そもそも演出家は職業として認められていなかった。
苦しかったこの1970年代、どうやって暮らしていたかと問われれば「女房のヒモだった」と答えるしかないだろう。
現代人劇場や櫻社を経済的に支えたのも、真山知子や皆が映画やテレビで稼ぐお金だった。
真山は子供をほしがったが、ぼくは演出で妥協したくなかったので拒んでいた。
現代人劇場が71年秋に解散したとき、真山は一冊の預金通帳を差し出した。夫婦でネパールへ行く資金として貯めていた100万円だった。
「しばらく働かなくて大丈夫。ネパールにするか、子供をつくるか選んで」と迫られた。
翌年生まれたのが、写真家になる長女の実花だ。
赤ちゃんの世話に熱中する真山にぼくは言った。
「君は女として駄目になる。育児はぼくがやるから仕事をすれば」
78年に次女の麻実が生まれ、育児役を真山と交代するまで、ぼくは優秀な主夫だった。
朝起きてバギーに実花を乗せ、荒川の土手で遊ばせる。
洗濯し、それを取りこみ、実花をお風呂に入れる。
買い物をして夕ご飯の支度をし、洗い物をする。
スポック博士の育児書に忠実な主夫だった。
母親は「ユキオがおしめをくわえて走り回っている」と驚いた。
台本を読んだり、資料を調べたりする時間は夜の10時以降になる。
商業演劇の初演出となる「ロミオとジュリエット」の上演を控えていたころ、
ついに過労でダウンする。診断書は「育児疲れ」。
稽古場や会議室にも実花をつれていった。
打ち合わせ中に「おむつ換えなきゃ」「離乳食の時間だ」と何度も席をはずすものだから、舞台美術の朝倉摂さんによく叱られた。
子連れ狼(おおかみ)ならぬ、子連れ演出家だ。
実花は劇場のロビーで遊び、監事室で芝居を見て育った子だ。
はじめ母乳だった実花は、あるとき乳首を求めて、ぼくの胸に顔を寄せてきた。母と子の結びつきはこんなに強いのか。
身をもって知る生き物の感覚は、ギリシャ悲劇で母子の関係を演出するとき役に立つ。子育ては学校だ。
家事が体にしみついているぼくは、いまでも手が空けば洗濯や炊事をする。家事は一番暇な人がすればいい。

さて、商業演劇の仕事をしたぼくは仲間から孤立する。
櫻社に帰って新しい舞台をつくろうと思っていたが、ある日参宮橋のスナックに呼び出された。
何十人もの俳優やスタッフに「なぜ商業演劇をやるのか」と批判された。
その場で解散が決まった。
74年夏のことだ。
帰り道、蟹江敬三が「キンちゃん、どうするの」と聞いた。
「しょうがないから商業演劇やるよ」。
蟹江は「ぼくもひとりでやる」と言った。
汝の道を歩め。
そして、人々をしてその語るに任せよ。
ひとりぼっちになったぼくは「資本論」の序に引かれたダンテの「神曲」の一節を心の支えとした。
幼い実花をぼくは新宿の中央公園へつれていき、口笛の吹き方を教えた。
西口の雑踏で、ぼくは自分に言い聞かせるように、実花につぶやいていた。
「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」(演出家)

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〔母親でさえ「長続きしないよ」と言ったくらいで、これも突然の結婚だった。〕
女優の真山知子と結婚したのは前の年だ。
母親でさえ「長続きしないよ」と言ったくらいで、これも突然の結婚だった。
俳優として精進し、稼がないといけないときだ。
ある日、夕食のしたくをする真山に「演出家になろうと思うんだ」と告げた。
「聞いてないわよ」と彼女は驚き、「結婚詐欺!」と叫んだ。
「俳優と結婚したのに」と不安の色を浮かべたが、最後は笑って受け入れてくれた。
川口の2Kの団地に新居を構えていたぼくは表札に「蜷川TENSAI」と掲げた。そこまでやれば必死に勉強するだろうとの思いつきだが、集金の人が廊下中に響く声で「ニナガワテンサイさーん」と呼ぶのには、まいった。


〔女優の妻が家計支える〕「アブカワさん、よろしくお願いします」。(結婚)
「アブカワさん、よろしくお願いします」。
結婚した真山知子がぼくに向かって最初にかけた言葉だ。
青俳の7期下だった真山は東映のニューフェース出身だった。
テレビの仕事で名古屋に行ったとき、新幹線で偶然席が隣り合わせになった。
ぼくは激化するベトナム戦争について解説したらしい。
それがきっかけだった。

劇団では何カ月で別れるか賭けられていた。
「4カ月」に賭けた人が一番多かったそうだ。
真山は「将来性のない俳優とよく結婚するね、と言われた」と笑っていた。
ぼくはサルトルとボーヴォワールに影響されて互いを束縛しない別居結婚を提案したが、これには真山が反対した。
1966年5月、目白の椿山荘で結婚。
媒酌人は岡田英次、和田愛子夫妻。新婚旅行は軽井沢と八ケ岳だった。
結婚する直前まで、ぼくはNHKの「チコちゃん日記」という子供向けのドラマに出ていた。
夕方6時半の放送なのでテレビや映画の関係者が見ない。
終わると仕事が途絶えた。
結婚したのに夫は金がない。
倍近いギャラをとる妻が家計を支えていた。
目をかけてくれた文学座の制作者の方が仕事を持ってきてくれた。
それは愛のもつれを描く斬新な映画だった。
美容室を経営する百合子が年下の愛人杉野と別れの旅に出る。
百合子の昔の恋人今井を交え、危険な旅が続く。
68年に公開された吉田喜重監督の「樹氷のよろめき」という映画だった。
百合子が岡田茉莉子さん、今井が木村功さん、杉野がぼくだった。
別れをこばむ杉野と百合子のラブシーンがあった。
たばこを当時吸っていたぼくは撮影当日、じっと我慢した。

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〔ぼくは「バカヤロー」を連発し、灰皿や時にはイスを投げた。〕
ぼくは「バカヤロー」を連発し、灰皿や時にはイスを投げた。
サングラスをかけている俳優がいる。
「おい、はずせ、そのサングラス!」
スリッパをはき、ほうきを逆にして、えいえいと殺陣をやっている。
「なんだそれ!ルネサンスの街でスリッパはいてんのか」。
稽古場でコーヒーが出るのに感動しながらも、商業演劇に慣れきった俳優を罵倒し続けた。
幸四郎さんと中野良子さんを舞台で全力疾走させた。
愛の神話を伝説化する民衆のまなざしを示したかったのだ。
階級構造を示す3層の装置の最上段で大公は民衆に大声を出す。
はじめ、蚊の鳴くような声だった。
走っていって「本気で声出してください」と頼むと「声がつぶれるよ」。
「明日つぶれるなら今日つぶれろ」とにらみ合った。

稽古初日の翌日、商業演劇の重鎮だった森繁久弥さんが「日生に威勢のいいのが来たんだって?」と話していたらしい。
数年後、お呼びがかかった。
楽屋で焼き穴子のお雑煮をいただきながら
「蜷川君、『どん底』やろう。新劇俳優が嫌いだろ、違う配役でやろう」と切り出された。
「なんの役をやりたいですか」と尋ねると「オレはサーチンだよ」。
人を手玉にとるルカならいいが、二枚目のサーチンでは……。
話はお蔵入りになった。

〔鋳物の街・川口〕飛び交う「バカヤロー」
夏場は皆塩をなめ、汗だくになって働いていた。
工場の中は明かり取りの窓から光が入るだけで薄暗い。
入り口は道に面しているから、子供でものぞける。
ちょこちょこ遊んでいようものなら「どけどけどけ!」と火がつくように怒られた。
一瞬の油断が命取りになりかねない。
この街では「ぼやぼやしていると危ないですよ」が「気をつけろ、バカヤロー」になるのだった。
のちに演出家になったぼくは稽古場で「バカヤロー」を連発した。
口が悪いとか、こわいと思われたようだ。
それは「おい元気か、バカヤロー」があいさつになる川口っ子にとっては普通の言葉。
照れくささと親しみがこもった表現なのだ。
ぼくの演出する舞台は開幕からの3分を大切にする。
懸命に働いた人たちが夢を見ようと足を運ぶところが劇場だ。
幕が開いたとたん眠気に襲われる芝居であってはならない。
そう戒めている。

〔内気、幼稚園1日で挫折〕(戦争の頃)
ぼくは近所の人にユキ坊とかユキちゃんと呼ばれていたが、
このユキ坊、ひどい人見知りだった。
幼稚園には1日しか行かない。
同じ年の子供がたくさんいるのが嫌で、すぐ帰ってきてしまったのだ。
先生が嫌なのではなく、人がいっぱいいるのに耐えられなかったのだと思う。
「もう行かない」と駄々をこねた。
川口市の第一国民学校(今の本町小学校)に入学しても、
臨海学校や山間学校には一度も行かなかった。
夏に千葉の房総にあった寮へ行くのを皆が楽しみにしていたが、
ぼくは行かなかった。
参加するのは日帰りの遠足まで。
それでも先生や両親から何か言われた記憶はない。
「ユキ坊はそういう子だ」と許容されていた。

演出家になってからも相変わらず人見知りで、人が多いのは苦手だった。
稽古場で俳優やスタッフともみ合っていると、
幼稚園を逃げ出したときと同じような衝動がこみあげてきて、
一目散に家に帰りたくなることがある。
部屋に飛びこんで本と向きあいたくなるのだ。
稽古を終えて俳優と飲みにいく演出家もいるが、ぼくはそういうことはしない。
つきあうのは打ち上げだけだ。

〔持ちあげられると、自分を引きずりおろしたくなる。〕
ぼくは生まれつき自意識過剰で、ことあるごとに恥ずかしいという気持ちに襲われる。
小学生のころから変わらないのは、遅刻しないこと。
遅れて教室に入ると皆がふりかえる。
その恥ずかしさを絶対経験したくないという思いがもとになって、
大人になっても遅刻はしない。
新幹線で寝るときも人に顔を見られたくないから、上着で隠す。
賞をいただき、晴れがましい席に出るのが耐えがたい。
出席してもすぐ帰る。
持ちあげられると、自分を引きずりおろしたくなる。
秋元松代さんの「近松心中物語」の演出で芸術祭大賞を受賞したあと、
日劇ミュージックホールのストリップを手がけたのも、
芸術という言葉への恥ずかしさからだった。

〔飼いならせぬ自意識と苦闘〕桜の憂鬱
戦争が終わってまもないころ、
ぼくらの小学校では給食の調理に用いる薪を役所まで大八車で取りにいくのが日課だった。
ある日、なぜか車に足を突っ込みたくなった。
わけのわからない衝動だった。誘惑に負け、足を入れた。
まんまと車は足をひき、激痛が走った。
爪が紫色に腫れあがる。
人には言わず、黙って学校に行って我慢した。
深層心理的なコンプレックスなのかどうかわからない。
ただ、ぼくにはどうも自己処罰の衝動のようなものがある。

〔「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」〕
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演出家になる前は俳優をしていたが、この過剰な自意識が演技に災いした。
自意識を飼いならせないから、うまく演じられない。
演出家になってしばらくして、いまは亡き太地喜和子さんが言った。
「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」

高校で落第し、東京芸大に落ちて画家をあきらめ、
俳優になってもヘタクソだった。
職業として社会的に認められていたとは言いがたい演出家になってからは、
胃痛に苦しんだ。
ラーメンが嫌いになり、新宿がうとましくなったのも、
胸しめつけられる演劇の思い出と結びついたからだ。
桜と同じく回復には時間がかかった。
演出の発想はいつも危地から生まれ出てきた。
本当は避けたいのに、自己を危険にさらす。
あえて自分を引き裂かれる目にあわせたい。
傷だらけのぼくの人生はその繰り返しだった。(演出家)

【平蔵の独り言】
〔「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」〕(子育て)
幼い実花をぼくは新宿の中央公園へつれていき、口笛の吹き方を教えた。
西口の雑踏で、ぼくは自分に言い聞かせるように、実花につぶやいていた。

「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」

【独り言】
「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」
これが難しいが、自立心を持って行けば自然に“これでいいのか”と思うば、人は人・・・・・・・・

【平蔵の独り言】
〔「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」〕
〔俳優をやめるきっかけは太地喜和子さんの言葉だった。〕
「蜷川さん、水戸黄門の再放送を見たわよ。お公家さんやってたでしょ。あんなヘタな演技を見てしまったら、駄目出しが聞けなくなるわ。
もう、やめてちょうだい」

【独り言】
太地喜和子:やはり心の熱い女優、惜しい女優を亡くした。
三国連太郎が狂った女優、中村勘三郎が恋した女優


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by asanogawa-garou | 2017-03-10 15:42 | 人間模様 | Comments(0)