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1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。1978年までW杯取材費は自腹   

2017年 02月 03日
1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。1978年までW杯取材費は自腹
〔91歳の現役最年長サッカー記者、1978年までW杯取材費は自腹〕
※週刊ポスト2017年1月1・6日号 2017.01.04 07:00


〔活躍を続ける90代は、自らの“老い”とどう向き合い、折り合いをつけているのか〕

〔1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。〕

〔91歳の現役最年長サッカー記者、1978年までW杯取材費は自腹〕


【90歳のサッカーライター賀川浩氏がFIFA会長賞を受賞「この上ない名誉」】
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①【特攻隊で生き残って現役最年長サッカー記者へ(賀川浩氏)】

〔活躍を続ける90代は、自らの“老い”とどう向き合い、折り合いをつけているのか〕
 長生きは本当に「めでたい」ことなのか。
歳を重ねれば体の不調や気力の落ち込みを実感することも増える。
各界で活躍を続ける90代は、自らの“老い”とどう向き合い、折り合いをつけているのか──。

 週2回、自らの資料を寄託した「神戸賀川サッカー文庫」を訪れる「現役最年長サッカー記者」の賀川浩氏(91)。本誌記者の質問に大学ノートを開き、固有名詞や地名をひとつひとつ記して丁寧に説明してくれた。

 * * *
 90歳になってから、サッカー関連の資料や蔵書を神戸市立中央図書館に寄託しました。
ボランティアの協力もあり、館内のスペースに「神戸賀川サッカー文庫」として陳列しています。

 若い頃にフットボールで体を鍛えて、今も3食しっかり取る。
仲間たちの配慮もあり、安心して生活しています。

 人生を振り返ると、サッカーが大好きでスポーツ紙の記者になり、大阪編集局長まで経験し、90歳を超えた今もフリーとしてサッカーの記事を書いている。
これ以上のことはありません。欲を言えば、もう少しお金があればいいけど(笑い)。

〔1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。〕
 日本でサッカーが人気になるずっと前から、世界中で愛されるスポーツが日本で流行らないのはおかしいと言い続けてきました。
あらゆる日本のスポーツが変わった1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。
〔91歳の現役最年長サッカー記者、1978年までW杯取材費は自腹〕
 サンケイスポーツ編集局次長だった1974年、初めて西ドイツのワールドカップを取材しました。
なぜ取材が必要かを会社に説明することから始まり、給料は出たものの費用はすべて自前でした。
当時、朝日新聞は社費で取材に来ていましたが、読売新聞の記者は私と同じく自費でしたね。

 1974年西ドイツ大会、1978年アルゼンチン大会と1回100万円を自腹で用意して取材すると、3回目から会社が費用を出すようになりました。
でも4年に1度、大金を使ったからか、私は長く結婚できなかった(苦笑)。
サッカー界を盛り上げるには、そこから始めるしかありませんでした。

 以降、2014年のブラジル大会まで10大会連続でワールドカップを取材し、現役最年長記者として2015年1月に国際サッカー連盟(FIFA)から表彰されました。

“お前、よぅ頑張ったなあ”と褒めてくれる先輩が誰もいなくなったことがやはり寂しかったですね。

 今は昔と比べて、日本でもサッカーが不動の人気になって選手の技術も向上し、日本代表も順調に強化しています。
自分の功績とは思いませんが、サッカーがここまで日本に根づいたことは私の密かなプライドです。

 実は私は、終戦前の1945年4月に陸軍の特攻隊第413飛行隊員になりました。
本土決戦に備え、朝鮮半島に渡って2枚翼の練習機で突っ込む訓練をして、出撃する直前に玉音放送が流れました。

 終戦後、現地の小学校の校舎で待機していたある雨の日、近所の子供とボールを蹴りました。
“日本に帰れば、またサッカーできるんだ”と嬉しかったことを覚えています。

 戦争から生きて帰ってきた時、70歳まで生きると思っていませんでした。
こんなに長生きして、周囲に迷惑をかけていないか、少し心配ですが、
90歳になっても、書く意欲やスポーツへの興味はまだまだ衰えません。

サッカーの技術論も世に出したいし、書きたい人物も残っています。

 神戸賀川サッカー文庫に顔を出す回数も増やしたい。
もちろん、この先もサッカーの取材でスタジアムを訪れるつもりです。

●かがわ・ひろし/兵庫県神戸市生まれ。神戸経済大卒業。サンケイスポーツ大阪編集局長を経験。2010年に日本サッカー協会より日本サッカー殿堂特別表彰。2015年にFIFA会長賞受賞。自身のサッカー関連蔵書を「神戸賀川サッカー文庫」として公開している。

※週刊ポスト2017年1月1・6日号


【90歳のサッカーライター賀川浩氏がFIFA会長賞を受賞「この上ない名誉」】
サッカーキング 2015.01.13
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②FIFAのブラッター会長(右)とスピーチをする賀川氏(左) [写真]=FIFA via Getty Images
 FIFA(国際サッカー連盟)主催のバロンドール表彰式が12日にスイスのチューリッヒで行われ、サッカーライターの賀川浩氏が日本人初となるFIFA会長賞を受賞した。

賀川氏は自身の公式サイト(http://kagawa.footballjapan.jp/)で、
授賞スピーチのオリジナル版を13日に掲載している。

 2014年12月29日に90歳となった賀川氏は、「バロンドールの表彰という、年に一度のFIFAのすばらしいセレモニーに出席できて光栄に思います。またFIFA会長賞というとても大きな賞を頂くことはこの上ない名誉です」と、喜びと感謝を示した。

 1974年の西ドイツ・ワールドカップから2014年のブラジル・ワールドカップまで、10大会連続で取材するなど、ジャーナリストとして62年間活躍を続けている賀川氏。

「10回取材をしたワールドカップについても、新聞や雑誌で多くのページを使いました。
その量と内容には多少の自負もあります」と語るが、「日本というローカルの記者にすぎません」とし、
同賞の受賞を悩んだことを告白している。

 しかし、「日本サッカーが近年に急速に成長したこと、その成長についてメディアが多少の役割を果たし、そのメディアのなかでの最年長者として(ブラッター)会長は私を表彰して下さるのだと思うようになりました」と続けると、「日本のフットボールジャーナリストの最年長者としてこの受賞の名誉をうけることで、FIFAがメディアを大切なものと考えていることを伝えたいと思います」として、受賞を決断したことを明かしている。

 また、ゼップ・ブラッター会長との関係について、
「会長は1979年第2回ワールドユース日本開催、ディエゴ・マラドーナが19歳で活躍した大会に、FIFAの担当者として大会の運営にあたられました。
そのときの記者会見でフランス語をブラッターさんが英語に訳し、その英語を私が日本語で記者たちに伝えたこともありました」と振り返り、

「そのとき以来、ブラッター会長は日本サッカーに対して常に好意的であり、バックアップして下さることをいつも感謝しています」と、同会長に感謝を示した。

 そして、賀川氏は「私の英語はそのとき以来進歩していないので、今日の授賞式参列もいささかちゅうちょした」と明かすも、
「私の若い仲間たちから、(マヌエル)ノイアーや(クリスティアーノ)ロナウドや(リオネル)メッシに会えるだけでもいいじゃないか、大スターたちのサインをもらうことを忘れないで、と励まされ送り出されました」と、出席の決断をした理由を冗談を交えて語っている。



90歳のサッカーライター賀川浩氏が日本人初のFIFA会長賞を受賞
15/1/13 03:29 【海外 一覧】
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③FIFA会長賞
「FIFAバロンドール2014」の授賞式が12日に行われ、90歳の現役サッカーライター、賀川浩氏が、日本人として初めてFIFA会長賞を受賞した。

 神戸出身の賀川氏は、1974年の西ドイツ大会から、2014年のブラジル大会まで10大会連続でW杯を取材しており、2014年12月に会長賞の受賞が決まっていた。

 スイス・チューリッヒで行われた表彰式に出席した賀川氏は、
「FIFAのブラッター会長、そして、みなさま、私は今日、この素晴らしいFIFAバロンドール授賞式に出席できて大変光栄です。
私にとって、この会長賞を受け取るのは、この上ない栄誉です。
1979年にブラッター氏は、FIFAの組織メンバーの一員でした。
そのとき、日本で第2回ワールドユースが開催され、19歳のディエゴ・マラドーナがプレーしました。
残念ながら、私の英語は、当時から少しも上達していないので、この授賞式に出席することを躊躇していました。

ですが、日本にいる若い友人に『マヌエル・ノイアー、クリスティアーノ・ロナウド、リオネル・メッシに会えるんだから、絶対に行くべきだ』と言われて、ここに来ました。
彼らには『3人にサインをもらってくるのを忘れないでね』とも言われました」と、英語で冗談を交えたスピーチを行い、会場に笑顔の花を咲かせた。

【平蔵の独り言】
1964年東京オリンピックを控えたサッカー日本代表を指導するため来日した
コーチ(テッドトール・クラマーさん)
1968年メキシコ五輪でエースストライカー釜本さんのゴール
日本のサッカー界の知れなかった歴史を教えてくれた。

【独り言】
〔1964年の東京五輪でも、唯一チケットが余ったのがサッカーだったんです。〕
そうですよね!
メキシコ五輪の銅メダル
これで少し”サッカー”って、なんだ?

1980トヨタカップ
1993Jリーグ
1994アメリカW杯
2002日韓W杯(決勝 ドイツvsブラジル  キーパー“カーン”がポストにへたり込んでいた)


トヨタカップがJリーグより以前に国立競技場で毎年12月に
クラブ世界一をヨーロッパvs南米 の優勝クラブで戦っていた・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2017-02-03 15:48 | サッカー | Comments(0)