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〔五木寛之〕「深夜ですか」(シニアですか!)・「作家です」   

2017年 05月 20日
五木寛之〔生き抜くヒント〕「深夜ですか」(シニアですか!)・「作家です」

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五木寛之:「深夜ですか!」(シニアですか!)

先日、土曜の夕方、映画館へいった。
最近ではシネマ・コンプレックスとかいって、映画のデパートのようなビルがある。
そのなかで大人むきの映画を選んで、窓口でチケットを買おうとした。
すると窓口の若い女性が、こちらの顔を見て、

「深夜ですか」

と、きく。
まだ夕方なのに、なにを言ってるんだろうと戸惑った。
ははあ、なるほど土曜日だから夜中のレイト・ショウの前売りのことだな、と推理して、笑顔で

「いや、いまから見るんです」
と、言うと、面倒くさそうに、
「ですから、深夜だと料金が安くなりますけど」
「でも、いま見たいんだよ。ほら、まだ六時過ぎじゃないですか」

「深夜じゃないですか」
「くどいな。深夜じゃない」
と、つい言葉も乱暴になる。
「じゃあ、正規の料金でお願いします」
むっとして料金を払い釣り銭をもらったとき、窓口に小さく出ている表示に気づいた。

<シニア料金>
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として、うんと安い料金が表示されているではないか。
ガラス窓に映る自分の髪は真っ白で、百歳くらいに見えた。

耳が遠くなったわけではない。
最近、音が歪んできこえるのだ。
要するに加齢の一現象にすぎない。

あの売場のお嬢さんは、私が若く見られたいと必死でがんばっているように思ったにちがいない。
恥ずかしいというより、おかしくて、思わず笑ってしまった。
窓口にもどって、「すいません。シニアでした」
と、謝ってチケットをかえてもらおうかとも思ったが、面倒なのでやめた。


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③「すいません。シニアでした」
「さっききたジジィさ、いい年こいてシニアじゃないってがんばるんだよ。笑っちゃう」
とかなんとか同僚と話しているのだろうと思うと、映画を見る気もなくなって、そのまま帰ってきた。おかしかった。

【平蔵の独り言】
「深夜ですか」→「シニアじゃないですか」

高齢者とか前期高齢者とか、立ち向かって認めたくないが
市町村から年金に関する住民税・介護保険料の通知が自動的に
送られてきて、高齢者じゃなくて“シニア”と叫んでいるが
周りを見渡すと団塊世代で溢れている。

生き抜くヒント!粛々と笑う時代に
週刊新潮5月4・11日号



五木寛之:「作家です!」
地方在住のある作家が、ちょっとアル中気味なので、思いきって診療内科を訪れてみることにした。
診察室に座ると、若い医師が「御職業は?」ときく。
「作家です」
と答えた。

すると相手は心配そうに眉をひそめて、
「いつ頃からそう思うようになりました?」
と、きいたという。
いい話だ。

このおかしさが即座にわかれば、あなたはボケていないと思っていい。
しばらくして笑った人は要注意。


【平蔵の独り言】
診察室に座ると、若い医師が「御職業は?」ときく。
「作家です」

→? 即座に否、現在もわからない!

生き抜くヒント!(五木寛之)週刊新潮2017/04/27号




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by asanogawa-garou | 2017-05-20 16:58 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔高橋幸枝(99歳)現役女医〕(一歩を踏み出す勇気)「第一歩は怖い 踏み出せるかどうかが分かれ目」   

2016年 02月 23日
〔高橋幸枝(99歳)現役女医〕(一歩を踏み出す勇気)「第一歩は怖い 踏み出せるかどうかが分かれ目」  やればできる。
98歳現役医師の“元気に長生き”の秘訣
団塊スタイル/「自分再発見!輝く女性たち」NHK 11月13日(金)20:00

98歳現役女医 髙橋幸枝先生 ~健康長寿のカギは、いつまでも衰えないチャレンジ精神~
テレビ東京 「主治医が見つかる診療所」2015年3月2日放送


〔高橋幸枝(99歳)現役女医〕(一歩を踏み出す勇気)「第一歩は怖い 踏み出せるかどうかが分かれ目」  やればできる。できなければ、どうすればできるか を考えればいい

〔92歳の時、大腿骨を骨折、寝たきりにならないようにリハビリに励んだ。〕
(92歳で大腿骨を骨折したにもかかわらず、寝たきりにならなかったのはどうしても家に帰りたいという執念がそうさせたと仰っています。)
(勇気を奮って踏み出した第一歩、すると嘘のように後は上がることができた。
勇気をもって最初の一歩を踏み出した)

〔(生涯発達)心の面も精神の面も〕死ぬまで、何らかの形で発達(成長)し続けることができる。

〔じゃあ一番苦手な絵に挑戦しよう〕
80歳になった頃、仕事一筋だった人生をふりかえり、
何か趣味を持とうと考えました。

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〔92歳の時、大腿骨を骨折、寝たきりにならないようにリハビリに励んだ。〕(92歳で大腿骨を骨折したにもかかわらず、寝たきりにならなかったのはどうしても家に帰りたいという執念がそうさせたと仰っています。)

〔92歳の時、大腿骨を骨折してしまったのです〕
大腿骨を金属で固定する手術をうけることにしましたが、
年齢を考えると、そのまま寝たきりになることも
しかし懸命にリハビリに励み、
(早く治さなくてはならない、家に帰ってこなくては話にならない)
リハビリの甲斐があって1か月後に退院。
自宅に戻る日がやってきました。

〔精神科医の自宅は3階〕
帰って来て3階の自宅の階段の第一歩を上がる時に震えるぐらい大変だった。
うんと考えてやっと上がって「上がれた!」と思ったの
(勇気を奮って踏み出した第一歩、すると嘘のように後は上がることができた。
勇気をもって最初の一歩を踏み出した)

「第一歩は怖い、踏み出せるかどうかが分かれ目、やってみる、やればできる。できなければ、どうすれぱできるかをまた考えればいい。」


〔(生涯発達)心の面も精神の面も〕死ぬまで、何らかの形で発達(成長)し続けることができる。

“踏み出さねば”生き残れない!


高橋幸枝さんは、神奈川県秦野市にある秦野(はたの)病院の理事をされていて
現在98歳の現役のお医者(精神科)、週に1回をされています。
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②「眠れないときが よくあるけれど」
まあ!あまり眠ろう眠ろうとすると 眠れないのよね
どうでもいいと開き直るくらいだと
知らない間に寝ちゃっているから


〔(生涯発達)心の面も精神の面も〕死ぬまで一生涯、何らかの形で発達(成長)し続けることができる。

“踏み出さねば”生き残れない!

私はね、死と手をつないでいるのよ。
あまり仲は良くないけど。

いつどうなるか分からないけど。
そろそろ辞めたいと思っているんだけれど
100歳になっちゃうもの、一世紀だもの

自宅は3階にあります。
自宅の階段はハード、階段は51段「けっこう3階ってあるのよね!」
もう30年以上この階段を使って自宅と病院を往復しています。
年寄りだからと甘えることなく、料理はもちろん自分でできることはやる。
それが高橋さんのもっとうです。

〔じゃあ一番苦手な絵に挑戦しよう〕
80歳になった頃、仕事一筋だった人生をふりかえり、
何か趣味を持とうと考えました。
そして始めたのが“水彩画”でした。
自分では全然描いたことのない、じゃあ一番苦手な絵に挑戦しよう!
「通信教育にこっそり出して(なんで、こっそりと)だってみっともないじゃないですか」
60の手習いならいいけれど、80の手習いじゃ


【平蔵の独り言】
(一歩を踏み出す勇気)「第一歩は怖い 踏み出せるかどうかが分かれ目」
勇気を奮って踏み出した第一歩、すると嘘のように後は上がることができた。

【独り言】
この26日で20年になる。
車いすから平行棒で歩く時、「歩けません。歩き方が分かりません」
→“何でもいいから、歩け!”
(第一歩は覚えていないが、このやり取りの後歩けた!)

この後、“杖を準備して下さい”
暫く杖を使った歩行練習をしていると
“杖を使うな”→「先生、この前杖を買いなさい!」

“杖を使わないで退院させるから”→今、杖を玄関の飾りになっている。

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98歳現役女医 髙橋幸枝先生 ~健康長寿のカギは、いつまでも衰えないチャレンジ精神~

80歳を超えても現役で活躍する名医に学ぶ健康法 第2弾
テレビ東京 「主治医が見つかる診療所」2015年3月2日放送


昨今話題のキーワード「健康寿命」。
これは日常生活を、介護などを必要とせず自立して生活できる期間の事。
これからは、いかに健康寿命を延ばしていくかが、健康長寿でいる為のポイント。
そして、健康で長生きするには、
「認知症にならず、生涯自分の足で歩く」ことが重要。

今回は、80歳を超えてもなお、現役で活躍する名医から、今からすぐにマネできる、
認知症にならず、生涯、自分の足で歩く為の
「健康寿命」獲得のヒントになる健康法をご紹介!

98歳現役女医 髙橋幸枝先生 ~健康長寿のカギは、いつまでも衰えないチャレンジ精神~
◎秦野病院 理事長 髙橋幸枝先生 98歳

<98歳現役女医 髙橋先生に密着>
午前中の診察が終了し、昼食のため自宅へ向かう高橋先生。
すると、51段の階段が…。
エレベーター無しで、自宅のある3階まで上っていく。
98歳とは思えない健脚ぶり。
普段の食事は基本的に自炊。

<髙橋医師 昼食>
里芋の煮付け、サワラの西京焼、大根の味噌漬け、豆の甘露煮、根菜の煮物、小盛のご飯

《髙橋流健康法》
毎食、必ず肉や魚など、タンパク質を摂る。
筋肉を維持するためにも重要な事。
昼食の後、80歳の時から始めた、趣味の水彩画を。
また、90歳の時からは、数字のパズルを始めた。
認知症予防で頭の体操として始めたが、今ではこれを行うと頭が休まるという。

そして最新チャレンジといえば…、98歳でカップ焼きそばデビュー!
「まだ毎日学ぶことがある。年寄りでも甘えちゃいけない。出来る事はする」と語る髙橋先生。

◆98歳現役医師、髙橋幸枝先生の健康長寿の秘訣は、「いつまでも衰えないチャレンジ精神」にあった。

≪番組主治医が選ぶ、髙橋先生の健康法でマネしたいポイント≫
【丁医師】即席焼きそばへのチャレンジ
新しいことへチャレンジする事は、幾つになっても必要。
【森医師】肉<魚 タンパク質を必ず摂る
タンパク質をよく摂っていて非常に元気。
同じ摂るなら、肉よりは魚を多めに摂るのが良い。
【南雲医師】年をとっても心まで年とらない
実年齢の事をつい考えがちだけど、精神年齢だけは若々しくいるべき。


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③自分の足で歩く為の健康法
【平蔵の独り言】
「健康寿命」のために一日の一週間、一月、一年の健康維持、病気との付き合い
が、増えて行っているが、“健康”ならば社会活動にみんなが付き合ってくれている。
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by asanogawa-garou | 2016-02-23 15:55 | 人生の質・人生の息吹 | Comments(0)

〔五木寛之〕(「一日一驚」のすすめ) ちゃんと驚こう、と意識してびっくりするようにしないと、なんとなく   

2016年 01月 13日
〔五木寛之〕(「一日一驚」のすすめ) ちゃんと驚こう、と意識してびっくりするようにしないと、なんとなく1日が過ぎてしまう。

【「一日一驚」のすすめ】

“生き抜くヒント”〔五木寛之〕週刊新潮2015/11/19号

〔男にも更年期〕
〔そして、今は人間あまり驚かなくなってくる。〕


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【「一日一驚」のすすめ】
年をとると感情の起伏が少なくなる。
これがいけない。喜んだり、悲しんだり、ときには怒ったり、そういう事が大切だ。


少々の事では驚かなくなる。
驚くべき場面では、ちゃんと驚く。

「よろこびノート」
中年にさしかかった頃、なんとなく鬱っぽい症状が出てきた。
これはいけないと、「よろこびノート」というのを作った。

1日一回、どんな小さなことでも、無理してよろこぶ。

それを日記のかわりにノートに書き込むのだ。
「きょうは良い天気でうれしかった」
とか、
「喫茶店でジョーン・バイズの曲が流れていてうれしかった」
とか、
「ネクタイが一度でうまく結べてうれしかった」
とか、なんでも強制的にうれしがるのである。そして、それを一行、ノートに書く。
そんなことを半年あまり続けているうちに、いつのまにか、元気になっていた。

それから十年ほどたって、再び鬱が訪れてきた。
できるだけ外では快活にふるまっているので、はた目にはそうとは見えなかっただろう。
しかし、そのときの鬱状態は、かなりひどかった。

「かなしみノート」
そこで再び「よろこびノート」を開始したのだが、これが一向にききめがない。
それなら逆療法だと、こんどは「かなしみノート」というやつを始めた。
「きょうは、行きつけの店の豆大福が売り切れてかなしかった」
とか、
「電車の指定席の番号をまちがって、ほかの乗客の席に座っていて叱られた。かなしかった」
とか、新聞やテレビで報道されるニュースに、いちいちかなしむ。
要するにすべての事柄に、かなしい、かなしいと連発するのだ。

〔男にも更年期〕
これは、ききましたね。
毎日、あくことなくかなしんでいるうちに、2、3ヶ月もすると馬鹿馬鹿しくなってきた。

いつのまにやら気分も明るくなってきた。

やがて60代になった。その辺から訪れてくるのが、初老性の鬱というやつである。

これはなかなかしぶとい。「よろこびノート」や「かなしみノート」で対処できるような相手ではない。

男性にも更年期というのがある。

「びっくりノート」
どう私が立ち向かったか。
あれこれ考えた末に、こんどは「びっくりノート」というのをためしてみることにした。
すなわち「びっくりしたなあ、もう」ということをしゃにむにみつけて、それを一行、ノートに書くのである。

60歳を過ぎると、人間、あまり驚かなくなってくる。
要するに心が不感症になって、びっくりすることが少なくなってくるのだ。

しかし、人間、何事も努力である。
どこかにびっくりすることがないかと、鵜の目鷹の目できょろきょろしていると、世の中、じつに驚くことばかりだ。
最初は「1日一驚」などと称していたが、それどころではない。
朝から晩まで、本当にびっくりすることばかりで、まず、そのことに驚く。

〔そして、今は人間あまり驚かなくなってくる。〕

ちゃんと驚こう、と意識してびっくりするようにしないと、なんとなく1日が過ぎてしまう。
驚きは向こうからやってくるものではない。
こちらから身を乗りだしてびっくりしないと、気がつかないうちに行き過ぎてしまうものである。


私(83歳)の初老期のクライシスは、こんなふうにして過ぎ去った。
それでもなお、驚くことの習性はわずかに残って、今の私を支えてくれている。
人生がなんとなくつまらなく感じられるかたがたに、まず「1日一驚」から始めることをおすすめする。

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【平蔵の独り言】
“ドキドキ”が薄くなってきた。
と感じながら、なんとなく1日が過ぎてしまい、
気が付けば年の瀬、1年は早い!

と、感じてモヤモヤしていたら、
びっくりするほどピッタリの“生き抜くヒント”〔五木寛之〕

「一日一驚」、“よろこびノート”と“かなしみノート(腹が立った)”は毎日の5年日記に一行書いているが“かなしみノート”にはなっていない。
今、気がつけば数年で“古稀”
“ドキドキ”を感じることがなくなって閉塞感〔男の更年期〕

“よろこびノート”その日の嬉しかったこと!
「オッ! 久しぶりだが、ネクタイを〆る事が出来た」
(正月の御朔日詣り、初詣をかねて)
「祈願の名前が早く呼ばれた⇒代表で“玉串”かな?⇒「やっぱり!」」
無事、今年も破魔矢と御札をいただいて・・・・・・・

たまに“かなしみノート(腹が立った)”怒り!
まあ!他愛もないこと、書いて朝起きたら・・・・・・・・・


まあ!こんなものか。

身を乗り出してびっくりすることにしよう!
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by asanogawa-garou | 2016-01-13 15:52 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

【ため息養生法】(臍下丹田) を意識して、長く、ゆっくりと息を吐く。   

2015年 11月 16日
【ため息養生法】(臍下丹田) を意識して、長く、ゆっくりと息を吐く。
生き抜くヒント!(五木寛之) 週刊新潮平成27年11月5日号
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【ため息養生法】(臍下丹田を意識して)

「腹式呼吸」というのも、お腹で息を吸ったり吐いたりするように誤解している人も少なくない。
無駄に下腹部をふくらませたり、ひっこめたりしたところで仕方がないではないか。
臍下丹田(せいかたんでん)を意識する、ということが大事なのだ。

〔大きなため息〕
長く、ゆっくりと息を吐くことが大事だとわかっていても、
つい肩で息をしてしまうのがふだんの暮らしだ。

息せき切って日を過ごしている自分の生活をかえりみて、
つくづく情けないと思った。
そして思わず大きなため息をついてしまった。
「そうか!」
と、なにかが頭にひらめいたのは、その時である。
そうだ、ため息をつけばいいのだ、と納得したのだ。

〔ため息のもとは、自己嫌悪と人間不信である〕(ため息の効用というものは、たしかにある)

ため息は、はく息である。
「あ~あ」
と、首をふりつつ深いため息をつく。吸う息でため息はつけない。

あ~あ、と大きなため息を二度、三度。
意識して吸う息を工夫するより、このほうがはるかに楽だ。自然でもある。
と、いうわけで、このところ日夜ひまさえあれば大きなため息をつきながら暮らしている。
ため息のもとは、自己嫌悪と人間不信である。
最近はどうにも理解しがたい世相という動機もくわわった。

しかし、ため息の効用というものは、たしかにある。
人知れず弱々しくつくため息ではない。
ああ、なんということだろう、と全身から深いため息をつく。

数日前、なんだか風邪をひきそうな予感がした。
意識して大きなため息をついているうちに、なんとなくやり過ごすことができた。
「ため息養生法」というのもありかもしれないと思う。
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②大橋巨泉さんと五木寛之さんが十数年ぶりの共演!2人とも早稲田大学の出身ですが、早稲田は卒業しない方が偉いのだそうです。(笑)

【平蔵の独り言】
【ため息養生法】(臍下丹田) を意識して、長く、ゆっくりと息を吐く。
丹田がちょうど、課題になっている。
骨盤のストレッチで 下腹部でも腹筋(お腹を膨らませて、楽にやったふり)でもない骨盤をストレッチをすると丹田を意識する事になる。

日々のイライラを「丹田を意識した“ため息「あ~あ」”」で姿勢も良くなってきた気がする。

「あ~あ」青空を見上げようか\(^o^)/
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by asanogawa-garou | 2015-11-16 16:52 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

【シルバーウィーク】(80歳以上の高齢者の数が一千万人をこえたという。「人生百年」)〔五木寛之〕   

2015年 10月 05日
【シルバーウィーク・敬老の日】(80歳以上の高齢者の数が一千万人をこえたという。「人生百年」)〔五木寛之〕

生き抜くヒント( 五木寛之) 週刊新潮2015/10/08 号
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今年、80歳以上の高齢者の数が一千万人をこえたという。
テレビのニュースでそれをきいて、本当にびっくりした。

まだまだ、若輩者だ!「六十、七十は洟垂れ小僧」
「退場」に備えて、自分自身の生死を「人生百年」に向けて、堂々と宣言する。

「元気で長生き」(元気が正義)
視力、聴力、脚力

【平蔵の独り言】
気が付けば、目の前に“古稀”
まだまだ、若輩者だ!「六十、七十は洟垂れ小僧」
身体のメンテナンスが増え、
「退場」に備えて
「断捨離」(ピーター)、

高齢者の80歳に向けて、自分自身の生死を「人生百年」に向けて、堂々と宣言する。

【独り言】
”元気が正義”

視力、脚力:メンテナンス

聴力 「鼓膜に穴が開いてます!」
→”えつ! どうしたらいいでしょうか”
→「このままです」
(右からの音が聞き取りにくくなっている)

「退場」に向けて「断捨離」 30年前の書類(ゴミ)が?


〔シルバーウィーク・敬老の日〕
シルバーウィーク・敬老の日 2015年9月21日

なに!“シルバーウィーク”去年あった?

気が付いたら、“還暦”は遥か彼方に通り過ぎ、
まだまだと思っていた“古希”は目前

シルバーウィークになったら、「敬老に日」  うん?

2015年は9月21日
敬老の日は法律によって、「9月第三月曜日」と定められています。
その年によって祝日が変わり、その範囲は9月15日から21日までの7日間のいずれかとなります。

2015年の9月第三月曜日と、敬老の日のなかで一番遅い日、
しかも21日が敬老の日になる年は、次の通り、23日の秋分の日まで5連休となるんです。

  9月19日(土)
  9月20日(日)
  9月21日(月)敬老の日
  9月22日(火)国民の休日
  9月23日(水)秋分の日

休日・祝日に挟まれた平日が「国民の休日」になるため、5連休(シルバーウィーク)   知識の泉 より

春の「ゴールデンウィーク」に対して秋の「シルバーウィーク」

しかし、前回は2009年(6年前)、次は2026年(11年後)

〔2015年敬老の日〕80歳以上人口が初めて1000万人を超える
高齢者人口3384万人で過去最多、総人口比は26.7%に
(総人口に占める割合が1/4を超えたのは前年の2014年に続き2年目)
高齢者の就業者数は、11年連続で増加し、681万人と過去最多
就業者総数に占める高齢者の割合は、10.7%と過去最高
(日本の高齢者の就業率は、主要国で最高)
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【平蔵の独り言】
シルバーウィーク 暇を持て余しながら“敬老の日”
突っ張ってはいるが、少し気になる。

五木寛之さんと同じに80歳以上人口が初めて1000万人を超える

のニュースに“えっ!”

まだまた、高齢者(しゃ)若輩者(もの)
今年2015年のシルバーウィークは “まだまだ若い”
と思い知らされた。


それよりも高齢者総人口比26.7%、日本の将来・・・・・
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by asanogawa-garou | 2015-10-05 15:27 | 今 今日この頃 | Comments(0)

【年甲斐もない生き方】(年をとって円くなったようにみえる人も、本当は内心を表にださなくなっただけ)   

2015年 09月 01日
【年甲斐もない生き方】(年をとって円くなったようにみえる人も、本当は内心を表にださなくなっただけなのではあるまいか)

生き抜くヒント!(五木寛之) 週刊新潮平成27年8月6日通巻3000号記念特大号
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【年甲斐もない生き方】

〔人は年をとると丸くなる〕
人は年をとると丸くなる、という。本当にそうだろうか。
私には、どうもそうとは思えない。
むしろ逆なのではあるまいか。
加齢による成熟などというものはない、感じてきた。
今もそう思う。

〔人によりけり〕
「人は年をとると、円くなると思いますか」

〔年をへて円くなった人よりも、老いてなおエッジの立った人のほうがおもしろい〕
(私だけの偏見だろうか。)
〔めっぽうおもしろい〕(激怒した師の叡空は、ついに手近かにあった枕を法然に叩きつけた)
その師弟関係を伝えるエピソードが、私は好きだ。

【年甲斐もない生き方】

〔人は年をとると丸くなる〕
人は年をとると丸くなる、という。本当にそうだろうか。
私には、どうもそうとは思えない。
むしろ逆なのではあるまいか。
加齢による成熟などというものはない、感じてきた。
今もそう思う。

先日、都心のあるホテルで、地下の階からエレベーターに乗った。
3階のコーヒーショップで打ち合わせの予定があったのである。
エレベーターにほかの客はいない。

1階のロビーのフロアで、2人の客が乗り込んできた。
1人は紫の衣をつけた堂々たる恰幅のお坊さまだった。
袈裟も豪華、偉容あたりを払う貫禄である。でっぷり肥えておられて、血色もすこぶるよい。
もう1人は、そのかたの付き人とみえる痩せた青年僧だった。
両手を膝の前で組み、伏目がちに壁際にかしこまっている。

エレベーターの扉が閉まった瞬間、そのお坊さまが、突然、「十三階」といわれた。
体格にふさわしい腹に響くようなバリトンだった。
私は思わずエレベーターの中を見回したが、私たち三人のほかに誰かがいるわけでもない。
若いお坊さんのほうは、壁にはりついたようにかしこまっていて、まったくなんの反応も示さない。
その「十三階」という声は、どうやら私に向けて発せられたもののようだった。
たしかに階数を表示するボタンの盤には、私がいちばん近い。

若い頃の私なら、
「はい、はい、十三階ですね」
と、笑顔でボタンを押しただろう。
それよりも、お二人が乗りこんでこられた時に、自分のほうから、
「何階ですか」
と、ごく自然におたずねしていたはずである。

しかし、人は老いたからといって、必ずしも円くなるわけではない。
事もなげに、
「十三階」
と、いい放って、あたりを睥睨するような高僧の気配に、私は年甲斐もなく腹を立てたのである。
私はきこえないふりをして、そっぽをむいていた。

〔人によりけり〕
「十三階だ」
と、ふたたび太い声がきこえた。
だが、私はボタンを押さなかった。
エレベーターが3階に着いてドアが開き、私は黙って廊下へでた。
背後でドアの閉まる音がした。

そのとき、一瞬、ひどく後悔した。
素直に十三階のボタンを押せばよかった、とつくづく思った。

3階のコーヒー・ショップで約束していた人と会って、仕事の話をしたあと、
「人は年をとると、円くなると思いますか」
と、たずねると、
「どうですかね。人によりけりじゃないでしょうか」
と、当りさわりのない返事が返ってきた。
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〔年をへて円くなった人よりも、老いてなおエッジの立った人のほうがおもしろい〕(私だけの偏見だろうか。)

「人は年をとると、悪いところや欠点が露骨にでるような思うな。
円くなるというのは、要するに覇気がなくなって、どうでもいいような気になっていくことじゃないでしょうか」

私が重ねていった。相手は黙って微笑するだけだった。

人による、というのは確かだろう。老いてなお向上心の衰えない人もいるし、
周囲にきめこまかな思いやりを忘れない人もいる。
しかし子供にかえったような感じで、好き放題にふるまう老人もいる。
角がとれて円くなったというのは、要するに何かがすりへってしまったというではないだろうか。

仏教では、よく、「自利利他」ということを説く。
自分を利することと、他人を利することを一体とするというのが理想であるらしい。

しかし、年をへて円くなった人よりも、老いてなおエッジの立った人のほうがおもしろい、というのは私だけの偏見だろうか。

〔めっぽうおもしろい〕(激怒した師の叡空は、ついに手近かにあった枕を法然に叩きつけた)

この国の浄土教の先駆者であった法然は、比叡山で「知恵第一の法然」とよばれたほどの秀才だったが、
若くしてドロップアウトした。
黒谷別所というところで聖たちの群れに身を投じたのだ。
別所に集まるのは、いわゆる正統派の修行僧たちの立場を放棄して、
本来の仏道を求めるグループである。

そこで師として仰いだのが慈眼房叡空という学僧だった。
この叡空という人が、めっぽうおもしろい。
戒律をきびしく守る人で、法然はさまざまな影響を受ける。
その師弟関係を伝えるエピソードが、私は好きだ。

なにかの問題で、師と法然が激しく対立する。
尊敬する恩師といえども、自説を曲げないところがいかにも法然らしい。
世慣れた円満な人柄にみえる法然だが、実に絶対に妥協しない一徹な人だった。

両者の論争は、はてしなく続き、
激怒した師の叡空は、ついに手近かにあった枕を法然に叩きつけたというのだ。

どっちもどっちであるが、
私はそんな師、叡空と弟子、法然の立ち回りがおもしろくて仕方がない。

その当時、叡空は一体何歳ぐらいだったのだろうか。
昔は四十過ぎれば老人である。
若き弟子の反抗に、枕を投げつけて怒る学僧の姿を想像して、つい笑ってしまうのだ。

年とともにわがまま勝手になってくる自分をかえりみて、
恥じ入りつつも、ふと思う。
年をとって円くなったようにみえる人も、
本当は内心を表にださなくなっただけなのではあるまいか。
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③皆、穏やかそうに見受けられるが“トゲ”だらけ!

【平蔵の独り言】
〔人は年をとると丸くなる〕
人は年をとると丸くなる、という。本当にそうだろうか。
私には、どうもそうとは思えない。
むしろ逆なのではあるまいか。
加齢による成熟などというものはない、感じてきた。
今もそう思う。
〔人によりけり〕
「人は年をとると、円くなると思いますか」
〔年をへて円くなった人よりも、老いてなおエッジの立った人のほうがおもしろい〕(私だけの偏見だろうか。)
〔めっぽうおもしろい〕(激怒した師の叡空は、ついに手近かにあった枕を法然に叩きつけた)

【独り言】
五木寛之さん(今年82歳)でも、丸くなったかと
言っている。
還暦を過ぎたら、少しは分別が付くのか思っていたが
昨日まで生きてきた人生の新しい時間だから
丸くなる→〔人によりけり〕
エッジが立った人のほうが→〔毎日がおもしろい〕
そして、手近かにあった枕を

少しも丸くなっていない。

まだ、傘寿までかなり時間がある・・・・・

元気は人生の正義である。(シマジ の座右の銘)
ですね!
元気な人生をエッジの立った感性で、歩いていけますね!
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by asanogawa-garou | 2015-09-01 16:26 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

【野際陽子】この道をずっと歩いてきた。老いを隠さない。それが、彼女一流の“へこまない”生き方。   

2015年 04月 02日
【野際陽子】この道をずっと歩いてきた。老いを隠さない。それが、彼女一流の“へこまない”生き方。

〔自分に期待しない。足りなかったらしゃーない〕
私は自分に期待していないから、無駄なストレスや絶望がないんです。
自分が持っているものが、すべて。足りなかったら、しゃーない。」

〔『自分なんてたいしたことない』と思ってきた〕

〔強盗にナイフを突きつけられたのに「おつり頂戴」って〕

〔悲痛な顔で誰かに訴えたところで聞かされた人が辛いだろうなと思うし、第一、悩みが消えるわけではありませんから〕

〔役作りには困らないから、根が意地悪なのかも〕

〔欲張ったりほめられたいと思うから苦しい〕
最近、テレビで、年配の農家の方が、今年も作物を収穫することができた、それ以上は何も望ましいと笑っている姿を見て、涙が出るほど感動しました。
誉められたいと思えば生きづらいに決まっています。
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〔自分に期待しない。足りなかったらしゃーない〕
年齢のことに触れたくないという女性は世の中に多い。
しかし、今年79歳を迎えた野際陽子は、躊躇うことなく年齢を口にする。
「だって隠したって仕方ないでしょう?
ウィキペディキュアを見たら、立教大学では長嶋茂雄さんと同期だったとバッチリ書いてあるわよ。
それにしても、こんなに大きく『今年で79歳!』なんて書かなくてもいいのにねぇ(笑)」

と、自らの著者の帯に大きく書かれた文字を軽やかに笑い飛ばした。
彼女なりの老い対策や美容法のほか、心豊かな暮らしぶりが綴られているが、
自らを「老婆」と呼ぶユーモラスな文体が印象的だ。

〔『自分なんてたいしたことない』と思ってきた〕
「昔から自虐的なところがあるの。いつも『自分なんてたいしたことない』と思ってきた。
皆よく、『へこむ』って言うでしょ。
でもそれって、自分に期待してるっていうこと。
私は自分に期待していないから、無駄なストレスや絶望がないんです。自分が持っているものが、すべて。足りなかったら、しゃーない。」

〔強盗にナイフを突きつけられたのに「おつり頂戴」って〕
5人姉弟の長女として育った野際は、終戦後の新制中学2期生として、立教女学院へ進学した。
「父母の苦労を見ていたから、自活しなければという意識があった。
立教大では英語サークルで英語劇に参加したり、
学内の『テアトルジュンヌ』という劇団で芝居をしていましたが、
現実と向き合った時、早く自分の手でお金を稼ぎたかったんです。
だから、卒業後の進路は就職以外、考えられなかった。
それで、NHKにアナウンサーとして入局しました」

サラリと語るが、4000人もの志願者の中から採用させたのは、たったの11人。
遡れば大学時代は特待生で、
アメフトの応援団のクイーンに選出されたりと、常に「選ばれし者」だったのではないか。

「まったくもって誤解。特待生になれたのも、失恋の痛手を忘れるために勉強に没頭したことが活きただけ。
いざ、という時には肝がすわるタイプかもしれませんね」

その性格を表す強烈なエピソードがある。
NHK時代、名古屋に赴任していた時のこと。
一人暮らしをしていた野際のアパートに、強盗が押し入ったことがあった。
ナイフを脇腹に突きつけられ、恐怖と緊張で空気が張り詰める中、野際の口から出た言葉は、
「いくら欲しいの?」。

男は何ともバカ正直に、「200円(現在の価値で4000円ほど)」と要求してきたが、生憎、千円札しか持ち合わせていなかった。
そこで、「千円渡すから、おつりを頂戴」と掛け合ったというのだ。
このことについて野際は、
「最初は命が惜しかったのに、ナイフが食事用のものだと確認した途端、お金のほうが惜しくなってしまって」と言いながら笑い、「本当は死ぬほど怖かった」とポツリと溢した。
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〔『自分なんてたいしたことない』と思ってきた〕
「昔から自虐的なところがあるの。いつも『自分なんてたいしたことない』と思ってきた。
皆よく、『へこむ』って言うでしょ。
でもそれって、自分に期待してるっていうこと。
私は自分に期待していないから、無駄なストレスや絶望がないんです。
自分が持っているものが、すべて。足りなかったら、しゃーない。」

〔強盗にナイフを突きつけられたのに「おつり頂戴」って〕
5人姉弟の長女として育った野際は、終戦後の新制中学2期生として、立教女学院へ進学した。
「父母の苦労を見ていたから、自活しなければという意識があった。
立教大では英語サークルで英語劇に参加したり、学内の『テアトルジュンヌ』という劇団で芝居をしていましたが、現実と向き合った時、早く自分の手でお金を稼ぎたかったんです。
だから、卒業後の進路は就職以外、考えられなかった。
それで、NHKにアナウンサーとして入局しました」

サラリと語るが、4000人もの志願者の中から採用させたのは、たったの11人。
遡れば大学時代は特待生で、アメフトの応援団のクイーンに選出されたりと、常に「選ばれし者」だったのではないか。
「まったくもって誤解。特待生になれたのも、失恋の痛手を忘れるために勉強に没頭したことが活きただけ。いざ、という時には肝がすわるタイプかもしれませんね」

その性格を表す強烈なエピソードがある。
NHK時代、名古屋に赴任していた時のこと。
一人暮らしをしていた野際のアパートに、強盗が押し入ったことがあった。
ナイフを脇腹に突きつけられ、恐怖と緊張で空気が張り詰める中、
野際の口から出た言葉は、
「いくら欲しいの?」。

男は何ともバカ正直に、「200円(現在の価値で4000円ほど)」と要求してきたが、
生憎、千円札しか持ち合わせていなかった。
そこで、「千円渡すから、おつりを頂戴」と掛け合ったというのだ。
このことについて野際は、
「最初は命が惜しかったのに、ナイフが食事用のものだと確認した途端、お金のほうが惜しくなってしまって」と言いながら笑い、「本当は死ぬほど怖かった」とポツリと溢した。

〔悲痛な顔で誰かに訴えたところで聞かされた人が辛いだろうなと思うし、第一、悩みが消えるわけではありませんから〕
「だからこそ笑い話にしてしまうんですね。
これまで生きて来たうちには、苦しいことや哀しいこともありましたが、
その胸の内を明かしたことはないんです。
悲痛な顔で誰かに訴えたところで聞かされた人が辛いだろうなと思うし、第一、悩みが消えるわけではありませんから。
抱えてしまった問題はどう頑張っても解決しないということもあります。
ならば潔く現実を受け入れ、ほかに幸せなことを探してフォローする。
そんな風にしてバランスを保って生きてきたような気がします」

どこまでも現実的な野際がせっかく入局したNHKを4年で辞めたのは、
彼女のプレゼン能力に目をつけた広告代理店に、新規企画のプレゼンターとして引き抜かれたからだった。
「NHKのお給料は2万円くらいでしたが、6万円もくれるというので、こんなに美味しい話を逃すものかと飛びつきました(笑)。
ただ、プレゼンターの仕事はまだ準備中ですることがなくて。
そんな時、TBSの『女性専科』という番組の司会をやらないかと持ちかけられたんです。
このまま何もしないで給料を貰うのは心苦しいし、毎日の生放送はしんどいだろうけど、まあ、お金は頂けるだろうとやることにしました。
フランスに留学したかったので、そのための貯金に余念がなかったんです。番組の司会を始めて1年ほど経った頃に、今度は『悲の器』というドラマに出演しないかと連絡があり、それも引き受けましたが、当時は女優という仕事に対して無欲でした」

そして30歳の時、念願のパリへ旅立つ。語学学校やソルボンヌ大学仏文科に通う1年の留学を経て帰国し、ほどなくして出演したのが、視聴率30%を記録した伝説のドラマ『キーハンター』。
野際はクールビューティーな女優として認知され、たちまち人気を博した。

「あの作品は、一人の女性としての転機でした。というのも、ドラマの共演がきっかけで結婚を体験しましたから(千葉真一と’73年に結婚)。
『女性専科』『キイハンター』の頃が、私の唯一の自己主張期。
撮影現場でも、台本に納得がいかないと監督をつかまえて議論したり、何事につけても理屈っぽい、本当に嫌な女だったと思います。
でも結婚と出産を経て、丸くなったというのかしら。本来の“期待しない”自分に戻った。


ただ、結婚生活は自分には合わないと、ずっと思っていました。
仕事の同志としてはじまった関係だったから、罵り合って終わりたくはなかった。
そう思ってタイミングを待っていたら、結婚生活が21年も続いちゃった」
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〔役作りには困らないから、根が意地悪なのかも〕
その頃、ドラマ『ずっとあなたが好きだった』(’92年)で演じた、
息子を溺愛する母親役が注目を集め、再ブレイクの渦中にあった。
以後、彼女のもとへは、クセのある姑役のオファーが殺到する。
「姑役が続いて、演じ分けなくてはと躍起になるのですが、基本的に役作りはしないんです。
撮影現場に入ると、スッと役柄が降りてくる。
隣家の嫁がイラッとすることを言えば、
庭掃除していたチリトリのゴミを相手の郵便受けに入れるくらいのアドリブは出てくる。
自分でも驚くほど意地悪な女になっていて。きっと根が意地悪なのでしょう(笑)」

〔欲張ったりほめられたいと思うから苦しい〕
そうしてテレビドラマの世界の個性豊かな母親役をいくつも演じてきたが、
意外なことに女優としての受賞歴はほとんどないという。
「そういう仕事はしていませんから。『私なんて……』は健在なんです。
でも自己評価の高い人は大変でしょうね。

最近、テレビで、年配の農家の方が、今年も作物を収穫することができた、
それ以上は何も望ましいと笑っている姿を見て、涙が出るほど感動しました。


誉められたいと思えば生きづらいに決まっています。
自分は好きなことを続けていると幸せを感じれば、それだけで人生は楽しい。
たまさか誉められたら喜びも倍増する。
それでこそ感謝の念も湧いてくるというものです」
現実を受け入れたうえで、加算法で生きるという人生哲学を備えた、個性派女優。

人が避けては通れない「老い」についてもこう語る。
「最近よく『終活』って聞くけど、やったほうがいいだろうな、とは思っていてもなかなか……。
私はこの歳になって、どんどん洋服が増えていってるバカですね(笑)。
身体はあちこち痛いし、物忘れも多い。
でも、『こりゃしょうがねえ』と思っています。
こうなったらお婆さん役を極めようと思って。
憎たらしいけど陽気な老婆、背中の曲がった老婆も演じたい」

80年近くを生きてきて、病んだ日も、疲れきった日もあった。
そんな時、野際は少し休んで、こう言う。
「さあ、ぼちぼちやるか」


女優デビューから五十余年。「そういえば、悲劇のヒロインを演じたことってなかったわ」

毎日コツコツなんて続かないわよ。
サボってもいいじゃない


週刊現代2015/3/28号
【野際陽子】この道をずっと歩いてきた。

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【平蔵の独り言】
〔自分に期待しない。足りなかったらしゃーない〕
「私は自分に期待していないから、無駄なストレスや絶望がないんです。
自分が持っているものが、すべて。足りなかったら、しゃーない。」

【独り言】
自分が持っているものが、すべて。足りなかったら、しゃーない。
これになかなか気が付かないのですよね!
最近、少し肩の力が抜けて来ているかな?
と思うことが、ふっと感じることが・・・・・

【平蔵の独り言】
〔欲張ったりほめられたいと思うから苦しい〕
私はこの歳になって、どんどん洋服が増えていってるバカですね(笑)。
身体はあちこち痛いし、物忘れも多い。
でも、『こりゃしょうがねえ』と思っています。
こうなったらお婆さん役を極めようと思って。
憎たらしいけど陽気な老婆、背中の曲がった老婆も演じたい」
80年近くを生きてきて、病んだ日も、疲れきった日もあった。
そんな時、野際は少し休んで、こう言う。
「さあ、ぼちぼちやるか」
毎日コツコツなんて続かないわよ。
サボってもいいじゃない


【独り言】
12月で百歳、99歳の画家さんの個展を見てきた。
みんな共通して言うのは、“色彩が優しくなってきましたね”
思うに以前は 空の青がキツかったり、全体の色彩にどこか強調した
構図になっていたのは、すべてが優しい!

「さあ、ぼちぼちやるか」
毎日コツコツなんて続かないわよ。
サボってもいいじゃない


ですね。百歳までまだ30余年あるのだから
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by asanogawa-garou | 2015-04-02 16:59 | 人間模様 | Comments(0)

【仲代達矢】「『俺は、俺だ』と抵抗しろ!人生は長くねぇぞ」   

2015年 03月 05日
【仲代達矢】「『俺は、俺だ』と抵抗しろ!人生は長くねぇぞ」
高倉健と菅原文太が去った後に遺す言葉
日経ビジネスオンライン2015年2月18日(水)江村 英哲
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戦後70年となる今年、日経ビジネスオンラインでは特別企画として、戦後のリーダーたちが未来に託す「遺言」を連載していきます。
この連載は、日経ビジネス本誌の特集「遺言 日本の未来へ」(2014年12月29日号)の連動企画(毎週水・金曜日掲載)です。

第13回は、俳優の仲代達矢氏。
演劇、映画、テレビドラマなどで幅広い活動をし、戦後の演劇界を引っ張ってきた。
仲代氏が現在抱く、芸能の世界の危惧とは何か。
少年時代を振り返ると、俳優を目指した裏側には壮絶な戦時体験があった。

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②銀幕の闘士 
仲代達矢(なかだい・たつや) 1952年に俳優座演劇研究所付属俳優養成所に入所。
57年に俳優座所属の女優・宮崎恭子(故人)と結婚。
活躍の場を舞台から映画に広げ、小林正樹監督の「人間の条件」、黒澤明監督「椿三十郎」などに出演。
75年からは、妻とともに「無名塾」を開設する。
自らも第一線で活躍しつつ、若手役者の育成に力を注いでいる。
1932年12月生まれ。(写真:サトウヒロノブ、以下同)

【モノを言いたきゃ研鑽を積め】
 「俺はこういう風に演じたいんだ」って思うと、
演じたい姿を体現するために基礎的なことをちゃんと修行しますよね。
ちゃんとした美しい日本語をしゃべって、
(舞台の)上手から下手まできれいに歩けるようにする。

【芸能の世界に及んだ効率化の波】

7日間で撮るつもりだったのに予定よりも延びちゃうと、その分コストが増えてしまう。
だからみなさん、「ともかく7日間で撮ろう」となる。
【健さんが亡くなって、文太さんが亡くなって…】
それは我々の責任で、仲代達矢は仲代達矢としてこう思っている、
ということを次世代に伝えないといけない。


【ボクサーから俳優に転身】
まだ焼け跡の頃ですから、青空ジムです。
 ミドル級で何度か(試合に)出ました。
ここでボクシングの訓練をしている頃に、
「仲代、おまえは顔がいいから役者になったらどうだ」と言われたんです。

【宇津井健と両肩を叩いて踊った】
 一次を受けたらガタガタ震えて、もう落ちたろうと思って(結果を)見に行かなかった。
そうしたら、「おまえは受かったのに何で来ないんだ」と言われてね。
また二次を受けて、三次の発表で合格した。
20倍くらいの難関だったと思います。

【「1対49」の戦い】
 「君たちはこれから3年間で、1対49の戦いになる」
 同期は50人。
当時、青山杉作さんという新劇界で有名な方が校長先生を務めていらして、
こう祝辞を述べてくれました。
 全然、祝辞になってないですよね(笑)。

「20倍の倍率の中で君たち50人を採ったけれど、この中から俳優になれるやつはほとんどいない」なんて言うわけですから。

【女の子の手を握り、空襲を逃げた】
【「国を守る」と言われたら警戒しろ】



――――――――――――――――――――――――――――――――
【仲代達矢】「『俺は、俺だ』と抵抗しろ!人生は長くねぇぞ」

 納得がいかねえ……。
 そんな時、みなさんどうしていますか。
抵抗していますか。ケンカしていますか。
どうも僕には、最近の人は「俺は、俺だ」という気概が薄れているように映るんです。

 僕は、自宅に併設した「無名塾」という演劇の教練所を、手弁当で運営しています。
そこで役者志望の若い人を育てている。

稽古場ではよく、塾生を挑発するんです。
 「お前、並でいいのか」「平和ボケで生きているのか」「一生はそんなに長くねぇぞ」ってね。
敢えて厳しい言葉をぶつけるのは、そいつの個性を呼び覚ますためです。
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③ 僕が俳優になった昭和30年(1955年)あたりは、
ひと言で俳優といっても、色々あったんです。

例えば当時の僕は、新劇俳優でもあり映画俳優でもあった。
二足のわらじを履いていたわけです。
だから、映画界へ行くと「新劇が何しに来たんだ」と言われるし、
新劇へ戻ると「映画スターが来た」、なんて言われてね。

自分はどっちの役者なんだろうって思ったけれど、
「異邦人役者でいいんだ」と割り切っていました。

 この頃は本当にいろんな俳優がいてね。
面白いのは、みんながみんな強い個性を持っていたことです。
映画俳優には、もともと三味線を弾いていた勝新太郎みたいなのが出てきていた。
萬屋錦之助というのは歌舞伎から来た。
三国連太郎みたいな変な人もいてね。
みんなが、「おいおいおい」っていうくらい強烈な個性を持っていましたよ。
監督の言うことも聞かないんだから。
 みんながいい意味でわがままだから、どうしたってぶつかるわけです。
それで、血だらけのケンカになる(笑)。
ケンカをして、仲良くなって、またケンカして。
そんな風に個性をぶつけていたわけです。

【モノを言いたきゃ研鑽を積め】
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 ④監督も個性の強かったですね。
当時の東宝のエースは黒澤明さん、松竹は小津安二郎さん、新東宝は市川崑さん、大映には溝口謙二さんという人がいて……。
みなさんエースですから、映画会社も自由に作品を作らせていました。

 例えば、映画会社は黒澤明さんには、「おまえは好きなようにしろ」と言う。
 そうすると黒澤さんは、映画『七人の侍』でシナリオを作るのに3年もかけた。
それも5人のシナリオライターを使って。
撮影には2年もかけている。
『七人の侍』が完成するまでに合計5年もかかっているわけです。
お金もどんどん使って。

溝口さんなんかも、ワンカットの撮影に10日もかけたりしていた。
衣装合わせには半月かけた。
映画が良かった時代だったんでしょうね。
 ただね、だからでしょう。
上映する時にはお客が並んで入っていった。
それだけの情熱と手間をかけて、監督や俳優が個性をぶつけあって1つの作品を作っていた。
誰もが真剣でわがままだったということでしょう。
プロとアマの境がなくなった

 繰り返しますが、昔の役者はよくケンカをしました。
良い意味でも悪い意味でも、みんな自我が強かった。
ただ、それはプロ意識が強烈だったからだと思うんです。
厳しい下積みを経験して認められるようになったからこそ、己を貫こうとしていた。

 「俺はこういう風に演じたいんだ」って思うと、
演じたい姿を体現するために基礎的なことをちゃんと修行しますよね。

ちゃんとした美しい日本語をしゃべって、
(舞台の)上手から下手まできれいに歩けるようにする。
役によって声色を低音にするとか高音にするとか。
俳優っていうのは楽器と同じように訓練されていないといけないんです。
 俳優は、お客さんの前に出て自分の肉体をさらします。
日本人のくせにビンセント・バン・ゴッホなんて演じながら、
お客さんにもストーリーに入り込んでもらわなくちゃいけない。
共感してもらうには、やっぱり人間を見つめる目や、人間に対する愛情がものすごく必要なんです。
 自分じゃない他の人間を演じるわけだから、自分と他者をどうやって結び合わせるか。
それが重要なんです。
 そうなると電車に乗っている間にも、前に座っているおじさんが寝ているのをじーっと見たり、きょろきょろしたりして、「この人の家庭はどうなのか」って想像しなくちゃいけない。
 本を読んでいても、いつも文字からその風景が浮かぶくらいの想像力が必要だろうし、登場人物の男がどういう服装をしているのか、どういう歩き方をしているのかっていうのを考える訓練をしなきゃいけない。
 普段からそうやって想像力を働かせているから、いざ台本を手に取ると、台本に書かれた「文字」を「人間化」できるわけです。

 けれど、最近は修行っていう言葉がなくなった。
 俳優のみなさんだって、ほとんど地声でしか訓練されてないでしょう。
プロとアマの境がなくなってきているんです。
しっかりと教育を受けた役者が少なくなった。

【芸能の世界に及んだ効率化の波】
 芸能の世界にも効率化の波が押し寄せてきているということなんでしょうね。
 例えば昔、僕が主演した『人間の條件』なんていう映画は、撮影に4年もかかりました。
1部から6部まであって、1~2部で1本いくらという話だった。
最初の僕のギャランティーは50万円でした。
だけど1~2部が大当たりして、3~4部になったら100万円になった。
また大当たりして、最後の5~6部は150万円もらいました。
4年間で全部合わせると300万円くらい。
 それも昔は、2カ月で取り終わる予定の作品に、
1年かかったりすることもしょっちゅうありました。
それでも、(『人間の條件』で共演した女優の)高峰秀子さんは、
「仲代さん、1日だろうが2年だろうが1本いくら」とおっしゃってね。
 そういう時代だったんです。
監督も俳優も、いい作品を作るための情熱を持っていて、それを許してくれる環境があった。

 けれど、今の日本の役者のギャランティーって日割りなんです。
 「仲代さん、すみません。これを1週間で撮るんですが、1日いくらで来てください」って。
7日間で撮るつもりだったのに予定よりも延びちゃうと、その分コストが増えてしまう。
だからみなさん、「ともかく7日間で撮ろう」となる。
良くても悪くても、予算内で納めよう、とね。
それくらい効率化が進んでいる。映画界も随分変わったものです。

 背景には、テレビの普及もあるんでしょう。
最近は、テレビで人気の出た大きな芸能事務所の若手を集めて、
娯楽性ばかりを重視した作品が量産されていますから。
 僕は何も、娯楽性を否定しているわけじゃないんです。
エンターテインメントやお笑いはあった方がいい。

けれど同時に、人間の生死を問う作品が少ないのが気になります。
人間への興味を失ってはいけない。
「命とは何だ」「生きるとは何だ」と真剣に突き詰める作品も必要だと思うんです。

【健さんが亡くなって、文太さんが亡くなって…】
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 ⑤高倉健や菅原文太といった同年代の俳優が次々に鬼籍に入りました。
 健さんが病気だということは前から知っていたけれど、あんなに元気のいい文太さんがね…。
 
健さんが亡くなって、次に文太さんが亡くなって、
それからもっと前に、僕が一番お世話になった三船(敏郎)さんとか…。
そういう人たちは、もっと若く死んでいるわけですから、80歳を超えたらある程度は覚悟しなきゃいけない。
私もそろそろだと思います。

 ただ、僕には最後にやるべき仕事がある。
 芸能の世界にも効率化の波が来ているけれど、それをどこかで打ち破らなきゃいけない。
それは我々の責任で、仲代達矢は仲代達矢としてこう思っている、
ということを次世代に伝えないといけない。

 うちに入っている子たちも、生まれたときからテレビのある時代に生きています。
特に20代の子たちは、今の状態が芸能だと思って育っている。
だから「おまえ、芝居はどうするんだ」と聞くと、基本的にみんなテレビの世界に行きたがる。

 僕たちの時代はみんな挫折したりしながら、「こういう役者になりたい」というプランを持ってやってきた。

それなのに、「テレビに出ればお金がもらえる」と安直に考えて、
そんな効率的な働き方が役者だと思い込んでいる。「そうじゃない」と示すこと。

それが、僕が次の世代に対してできることだと思っています。

【ボクサーから俳優に転身】
 僕は映画がすごく好きで、若い頃は3食を1食に減らしてまで映画を見ていました。
ちょうど敗戦後で、アメリカ映画やフランス映画が入ってきて、それを3本立てか何かで観る。
当時は1年間で312本の作品を観た記録があります。
 渋谷で映画を見ると、(自宅の)千歳烏山まで電車賃がないから、
夜中じゅう歩いて家に帰る。
それほど映画を、特に外国映画を観ました。
それも必ずパンフレットを買ってね。
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⑥ 当時は大学出でも就職難の時代でした。
ましてや僕のように高校の夜間部卒業だとほとんど就職口ない。
 これから学歴が関係ない世界で食っていこうと思って、
色々と考えている頃に、白井義雄さんというボクサーが初めて世界チャンピオンになったんです。
一種の憧れもあってね。
ボクシングの世界なら学歴は関係ないわけですから。
 今思うと非常に単純なんだけど、影響を受けて大井町のボクシングジムに3~4カ月通いました。
まだ焼け跡の頃ですから、青空ジムです。
 ミドル級で何度か(試合に)出ました。

ここでボクシングの訓練をしている頃に、
「仲代、おまえは顔がいいから役者になったらどうだ」と言われたんです。
 当時はどうしても殴られるのが嫌でね(笑)。
意気地がないと言えば、意気地がないのでしょうけど、
ボクサーはダメだなあと思っていたので、役者への転身を考えました。

 僕は若い頃から非常にシャイで、人前で何かやるなんていうことは、とてもたまらないと思ったんです。
ただ一方で、アメリカ映画やフランス映画を年に300本以上観た経験から、俳優になる気持ちも出てきました。

【宇津井健と両肩を叩いて踊った】
 当時の日本の映画俳優というのは、
映画会社のオーディションを受けて、
その中から東宝なら東宝、松竹なら松竹がニューフェースを採用して売り出し、
主役に抜擢する形を採っていた。

つまり演劇学校というものがなかったんですね。
 海外の場合、必ず大学には演劇科があり、みなさんそうしたところで学んでいる。
だから僕も日本に俳優学校はあるのかと探してみたけれど、一つもありませんでした。
日本は演劇に対して教育して役者を育てるという考え方がなかったわけです。
 けれど俳優座というところは3年間基礎から習えるという。
そこで俳優座に入ろうと考えたわけです。
 落ちるだろうと思って受けたら、たまたま受かった。
 一次を受けたらガタガタ震えて、もう落ちたろうと思って(結果を)見に行かなかった。
そうしたら、「おまえは受かったのに何で来ないんだ」と言われてね。
また二次を受けて、三次の発表で合格した。
20倍くらいの難関だったと思います。
 三次の発表で、この間亡くなった宇津井健が一緒に番号を見ていたんです。

赤いセーターを着た宇津井健が、「あなた、受かりましたか」と聞いてきて、
「どうも受かったらしいです」と言ったら、「僕も受かったんですよ」って。
二人で両肩を叩いて踊って喜んだ。

【「1対49」の戦い】
 合格したのはいいけれど、入ってからが大変でした。

 俳優座附属養成研究所は、大学と同じように座学から始まるんですね。
それも朝9時からスタートする。
月謝は900円。
今までは昼間働いて夜学に通っていたけれど、
今度は昼間に大学みたいな教育を受けて夜働かなきゃならなくなった。
パチンコ屋やキャバレー、バー、喫茶店なんかで働きました。
 「君たちはこれから3年間で、1対49の戦いになる」
 同期は50人。

当時、青山杉作さんという新劇界で有名な方が校長先生を務めていらして、こう祝辞を述べてくれました。
 全然、祝辞になってないですよね(笑)。
「20倍の倍率の中で君たち50人を採ったけれど、この中から俳優になれるやつはほとんどいない」なんて言うわけですから。
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⑦ ただ、そう言われて、僕はやっと競争しようという気になった。
 同期は友達ではあるけど、ライバルでもある。
そういう関係で切磋琢磨して、何とか50人の中の2人に入ることができた。
その後も俳優座の研究生として3年間の下積みを重ねますから、
結局、俳優になるために6年間かかりました。
 19歳で俳優学校へ入って、22歳くらいに俳優座に入る。
そしてその後、私は幸運にも、『ハムレット』の主役をやらせてもらった。
 役者になるまでは非常に困難な道のりではあったけれど、役者になってからのキャリアは早かった。
神様はうまい具合に人生の陰と陽を差配するんだと思ったものです。

役者の技術がどれだけうまいかなんて、普通の人はあまり分からないでしょう。
それでもスターになる人はスターになるし、一生食えないやつは食えない。
格差の激しい世界ですから。
 先輩からはいろいろなアドバイスをいただきましたが、
その中でも参考になったのが、「あまり稼ぎ過ぎると芸が落ちるぞ」ということです。
当時から僕は、1年の半分は映画、半分は芝居をやると決めていました。
すると芝居で通行人を演じている時に、映画の主役の話が来たりする。
 当時の映画会社は余裕があったんでしょうね。
よく専属にならないかと持ちかけられました。
ただ、専属俳優になると俳優座をやめなきゃならない。
それでも映画会社の社長は、「家を1軒建ててやる」と言うわけです。
食うのに困っている時に、「家1軒」と言われれば当然そちらに行きたくなる。
ちょっと考えましたよ。

 ただね、家なんか建ててもらうと、
一生こいつらの言うことを聞かなきゃならなくなるんじゃないかと思った。
ひねくれた根性ですけど、そんなのはつまらない。
僕は20代で自分の生き方を決めて、それを貫きました。


【女の子の手を握り、空襲を逃げた】
 僕は1932年生まれですから、昭和で言うと7年生まれです。
親父は長い間結核で、家庭は非常に貧乏で、もう極貧という状態。
それも昭和18年(1943年)に親父は亡くなりました。
 すると長男の僕と弟と妹、お袋の4人は、社宅みたいなところを追い出された。
食えなくて転々とした挙句、青山にある弁護士事務所に住み込みで留守番をする募集があった。
そこで家族で青山の弁護士事務所に住むようになったんです。
 そして青南小学校に入りました。
これはエリート校で、終戦時に陸軍大臣であった阿南(惟幾)大将のご子息や、
戦争途中で亡くなった山本五十六さんの長男がいらした。
本来は庶民が入っちゃいけないところなんです(笑)。
そこに通っている間に、戦況が甚だしくなって、子供たちは集団疎開をするようになる。
 エリート校ですから子供たちを遠いところへは行かせません。
東京都心部からちょっと離れた北多摩郡の仙川に向かった。
そこには中島飛行場があって、最後の零戦を造ったりしていました。
仙川の昌翁寺というところに集団疎開して、お寺の本堂に寝泊まりする。
終戦の年に卒業しました。
 集団疎開から東京に戻っても空襲ばかり。
仙川にいた時もグラマン戦闘機か何にバンバンやられて防空壕へ逃げ込んだりしていましたが、
東京でも大空襲に遭って、最終的には千歳烏山で終戦を迎えました。
 小学校を卒業した僕は、池袋の先の中板橋にある都立北豊島工業高校に通うようになりました。
昭和20年(1945年)4月のことです。
千歳烏山からは遠くて、新宿から池袋に出て、池袋から東武東上線に乗って。
その頃は電車の屋根の上に乗って中板橋まで通っていました。
 新宿辺りを通ると、逃げようとした人が焼けただれて真っ黒になっている。
それを横目で見ながら通学するわけです。
新宿の辺りは凄惨たるものでした。
空襲になると学校に行かなくていいのでほっとしたりもしました。
 ある時、渋谷で大空襲を食らったんです。
僕は近所の子の手を引っ張って逃げました。
必死で手を引っ張ったんだけれど、
いやに軽いなと気づいて振り返ると、僕が引っ張っている女の子の手の先に、体がないんです。
焼夷弾がその子の頭にぶつかったんですね。
けれど体がなくなったことに気づかず、引っ張って逃げていた。
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 ⑧こんな体験をしていますから、戦地まで行った経験はないけれど、
戦争の最中に戦場にいたみたいなもんです。
もう、当時は無差別爆撃でしたから。
日本の戦況に巻き込まれた少年時代と言えるでしょう。

 玉音放送は、高校の校庭で聞きました。
昭和20年8月15日に天皇陛下のお言葉があったけれど、
負けたという印象がないんですね。
何か白昼夢みたいな感じで。
ともかく、それまで「竹やり戦争」「一億玉砕」「日本は神風が吹く」という教育を受けていましたから。
絶対に負けないんだと思っていた。
子供ですから本当に神風が吹く、とね。

【「国を守る」と言われたら警戒しろ】
 「いざ来い、ニミッツマッカーサー」。
米軍が上陸したら一億玉砕でやっつける。
終戦まで僕は本当にそう思っていました。
 それなのに、戦争に負けた瞬間から、
政治家も大衆も、大人どもは一日にして親米派になった。
「国のために死ね」と言っていた大人が、「ギブ・ミー・チョコレート」「ギブ・ミー・チューイングガム」と。
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⑨ 当時は大学生が学徒動員でどんどんと出て行っていたから、
戦争が終わって、やっと人間らしい生活が送れるんだと思いました。
けれど一方で、人間というものは一日にしてこうも変わるものか、とも思いました。
今も集団的自衛権とか何とか言っていますが、僕は絶対に信用しない。
戦争だけはやめた方がいい。
「国を守る」とか言い出したら十分に警戒した方がいい。
結果は大体戦争につながるからです。
 僕の少年時代は、本当に気が狂いそうな状況でした。
食うコメもないのに誰も助けてくれなくて、最低の生活をしていました。
空襲に遭って、生きていること自体が不思議で、
毎日、「きょうも1日生き残ったんだ」ってね。

 その後、70年間も戦争のない時代が続いたわけです。
総理大臣が2年に1度変わるってブーブー言う人もいるけれど、それでもいいじゃないですか。
強すぎるカリスマを持ったリーダーが出ると、大衆はすぐに流されるんだから。
そういう意味では、今はちょっとやばい時代だなあとも思いますね。

 僕が役者に憧れたきっかけのひとつは、こうした戦争体験にありました。
 戦争に負けたことで、僕にとって大人のロールモデルは、
米国映画の銀幕の中にしか見いだせなくなっていた。

だからこそ僕は人間を考える作品をつくる。
そして人間の面白さ、悲しさ、愛しさ、愚かさを、自意識を消して演じられる役者を育てる。
「人間っていいな」と観客に感じさせる役者を残していきたいのです。

【平蔵の独り言】
『俺は、俺だ』と抵抗しろ!
高倉健や菅原文太といった同年代の俳優が次々に鬼籍に

【独り言】
『俺は、俺だ』の主張をする人たちには、
暮らし難い世の中になっていると思う。

というより、『俺は、俺だ』の個性も多様性も
みんな一緒なら安心・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2015-03-05 14:13 | 人間模様 | Comments(0)

【美輪明宏】カラフルな世界つくりましょう!〔白か黒か、そればかり〕・〔世の中に「違うでしょ」〕   

2015年 01月 14日
【美輪明宏】カラフルな世界つくりましょう!〔白か黒か、そればかり〕・〔世の中に「違うでしょ」〕
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〔才能ある者の業務であり責務〕

〔白か黒か、そればかり〕
現代はモノクロの時代です。
〔世の中に「違うでしょ」〕
今までの芸能生活、私は世の中の在り方に「違うでしょ」と問い続けてきました。

妖艶ないでたちと真実をえぐる言葉で、人々の心を揺さぶる歌手・俳優の美輪明宏。
幼少期に悲惨な戦争を目の当たりにし、時代に厳しいメッセージを投げ掛けてきた。
戦後70年を歩み、ことし傘寿を迎える美の伝道師に、未来への提言を聞いた。

<16歳で歌手デビュー後、その端正な顔立ちやビジュアル系のファッションで衝撃を与え続けてきた。80歳に近づいた今も、コンサートや舞台、テレビで活躍し、幅広い層から熱烈な支持を得ている>

あるとき、小さな男の子がカーテンコールで花束をくれました。
「お母さんに連れてきてもらったの?」と聞くと「母を連れてきました」ですって。

私の公演に若いお客さんが多いことに驚かれる方がたくさんいます。
でもそれは何十年も前から。中学生もいますよ。

〔才能ある者の業務であり責務〕
歌う才能や演じる才能を天から授かった者にとって、人々をお慰めするのは義務であり責務です。
いつもそれができる状態を保たねばならない。
だから私は遊びません。
地方公演でも劇場とホテルの往復。
お酒もたばこもやめました。
何が面白くて生きているのかって話ですね。ほほほ。

昔、とても貧乏をしていたとき、日比谷公会堂にコンサートを見に行ったことがありました。
翌日からはすっからかん。
私のお客さんの中にも、なけなしのお金を払った人がいるかもしれない。
あのころの自分が、客席の中に見えるのです。
しがみつくようにして見ているお客さんの顔を見ると、もっと励ましたいと思ってしまうのです。

<2012年の大みそか、親子の無償の愛を歌った「ヨイトマケの唄」をNHK紅白歌合戦で披露した。大きな反響を得た裏側には、画一化した社会への漠然とした不満があると考える>
今の世の中、多様性が失われています。
若い人は「何かおかしいぞ」と思っているのではないでしょうか。
だからこそ「ヨイトマケの唄」を聞いて「こんな歌があったのか」とツイッターで大騒ぎになったのです。
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〔白か黒か、そればかり〕
現代はモノクロの時代です。
都会のビル群、家庭の電化製品、インテリア。
ほとんど色がありません。
白か黒か。機能性と利便性。そればかり。
せめて色彩的でないといけない音楽にもメロディーがない。
詞の調子も無視。コンサートも目つぶしのライトをぱかぱか、スピーカーは大音量。
参加する分にはいいでしょうけど、これでは鑑賞はできません。
世界的にも文化が衰退しています。
かつては、パリのモンパルナスやニューヨークのグリニッジビレッジなど、さまざまな芸術家が集まる地域があった。

日本では、私が出演していたシャンソン喫茶「銀巴里」がそうでした。
文学、音楽、美術、スポーツ・・・。
三島由紀夫さんのような、ただ者ではない人が集まっていましたよ。
文化の発信地がなくなってしまったことで、
昔は「聖なる怪物」と呼ばれていた各ジャンルの天才が減っているのです。

<常に時代にアンチテーゼを突きつけてきた美輪の原点には、幼いころの戦争体験がある。長崎市出身で自身も被爆者。戦後世代に必要なのは「真の知識と教養」だと強調する>



〔世の中に「違うでしょ」〕
今までの芸能生活、私は世の中の在り方に「違うでしょ」と問い続けてきました。
それは、戦いの連続でした。
ビジュアル系を始めたときも、非難の方が多かった。
でもいつも、時代が後からついてくるのです。
ここ最近の日本についても危ないと思っています。
情報戦争と経済戦争の時代に、資源のない日本は頭脳で戦うしかない。
第2次戦争大戦前じゃないんだから、武力で国威発揚なんて時代遅れもいいところです。
若い人だけでなく、安倍晋三首相ら今の政治家もほとんどが戦争の正体を何も知りません。
戦後生まれだからしょうがないのですが、

未来をつくるために大切なのは「故きを温ね新しきを知る」、温故知新です。

戦争のことだけではありませんよ。
文学や音楽、美術についても、今の人はあまりに知識がなさ過ぎます。
画家のモネやマネ、ゴーギャンは浮世絵に学びました。
日本にはすばらしいものがたくさんありました。

今年で戦後70年になります。
でも、過去の財産をごみ箱に捨てる必要はありません。
皆さん、本物に学びましょう。
そして、カラフルな世界をつくりましょうよ。

北國新聞2015/1/5美輪明宏・傘寿の提言
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美輪明宏さん=御堂義乗さん撮影

【平蔵の独り言】
<2012年の大みそか、親子の無償の愛を歌った「ヨイトマケの唄」をNHK紅白歌合戦で披露した。大きな反響を得た裏側には、画一化した社会への漠然とした不満があると考える>
今の世の中、多様性が失われています。

【独り言】
多様性、個性が偏差値教育、共通一次試験で管理し易い没個性の仕組みの中に
置かれている。
先日、団塊の世代(同世代)が
「団塊の世代は肩身が狭いわね!」
と、言われ ハッとした。

これを作ったのは、団塊の世代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2015-01-14 17:29 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

【五木寛之】生きることは大変だから「歓び」を   

2015年 01月 08日
【五木寛之】生きることは大変だから「歓び」を
             2014.03.14  ZAKZAK by 夕刊フジ
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〔■「生き方語れる人間ではない」〕

 世の中にはおせっかいが多い。
人生や生き方に関するハウツー本はあふれ、アドバイスをしてくれるテレビ番組は引きも切らない。だが…。

 「『こうですよ』『こうしなさい』とハッキリ言ってほしい人が多いようですね。
特にテレビはそう。
でも、ボクの性には合いません。
親鸞の『面々の御はからいなり』(ご自分でお決めになること)という言葉が好きなんです」

 約20年前に累計600万部のベストセラーとなった『生きるヒント』を再構成した新版を出した。
一般的な生き方のハウツー本とはひと味もふた味も違う。
題名通り、あくまで「ヒント」を提示するだけだ。

 「そもそもボクは人に生き方を語れるような人間ではないのです。
年齢を重ねるごとに『迷い』が深まってゆく気がしますしね」


 押しつけがましくないだけに、むしろスンナリと腑に落ちてくる。

 たとえば『歓ぶ』の章。
著者自身の体験が率直に語られている。
50代から60代にかけて男の更年期に苦しみ、
しんどい思いが続くなかで「1日1回必ず歓び、それを手帖に書くことを決めた」。
それで随分、救われたのだ、という。

 「人は絶対に『死』から逃れられず、寿命や生まれてくる環境も自分では決められません。
そう思うと『生きる』ということだけで十分、大変なことでしょう。
だからこそ歓びをもって生きたい。
どんな小さな慎ましやかな歓びであってもいいと思うのです」

〔■現代社会の病理「物語が欠如」〕

 戦争中だった少年時代には、いつも身近に死を感じていた。

 「戦争や大災害が起きると、人は『死』を考えます。
だが、『生』と『死』は切り離せないものです。
どちらかだけではなく、日ごろから常に両方を考えていることが大事。
『思い込み』でもいい。
若いときから自分なりの『死生観』を持つことでしょうね」

 80歳を過ぎた今、自身の「個人的な死」よりも「世代的な死」を思うことが増えた。
毎年3万人近い自殺者が出る一方で、
超高齢化社会になり、死にたくても死なせてもらえない人が増えてゆく。

 「これから日本人は『90歳までの人生』を覚悟しなければなりません。
大変なことですよ。“姥捨て山”もありませんから」

 イマドキの…というような安易な批判にくみするつもりはない。
だが、今の社会は、やはりどこかおかしいのではないか。病理は自殺だけではない。
親殺し、子殺し、虐待、いじめ…。

 それは「物語が欠如しているからじゃないですか」。
歌舞伎、講談、浪曲、紙芝居、おとぎ話といったさまざまな“物語”だ。

 「日常のなかで語られる『因果応報』『勧善懲悪』のストーリーを人は自然に身に付けていきました。
今はそれがないから、ケンカをしても『これ以上殴ったら死ぬ』とか、『人を殺したら家族まで苦労する』とかいう想像力が働きません。
ストーリーを構成する力に欠けているのではないか」

〔■本が売れない…「今の方が自然」〕
 活字離れが叫ばれて久しい。
その中にあって、新聞や雑誌の連載をこなし、
小説、随筆、対談と常に多くの本が出版されている。
どうしたら、こんな元気な80代でいられるのか。

 「肩書を持たないことです。ペンクラブも今は名誉理事だけ。
ただね、『本が売れない』といいますが、純文学が何十万部も売れた昔こそがバブルだったんですよ。
今ぐらいが自然じゃないでしょうか」

 ライフスタイルについては、こだわりがある。
健康診断は一度も受けたことがなく、食事にもあまり気をつかわない。
昼夜は逆転。夜中に仕事をして、昼ごろに起きるという生活を続けている。

 「ただね、健康に気をつかっていない、といわれるのは違うと思う。
病院を頼らない以上、自分の身体から聞こえてくる声に真剣に耳を傾けてきました」

 仕事への意欲も変わることがない。
軌跡を追い続ける親鸞は、80を過ぎても著作活動をこなし、
90歳まで生きた。
その師である法然は80歳、本願寺中興の祖である蓮如も85歳まで生きた。

 「念仏系(浄土宗、浄土真宗など)はみんな長生きですね。
どちらかといえば、『熱血の宗教』じゃない、血圧を下げるような宗教だからじゃないですか(苦笑)。
『親鸞』で平安末期から鎌倉という時代を10年、書き続けてきたので、
次はその時代を背景に時代小説でも書いてみたいですね」 (ペン・大谷順 カメラ・栗橋隆悦)
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【平蔵の独り言】
 たとえば『歓ぶ』の章。
著者自身の体験が率直に語られている。
50代から60代にかけて男の更年期に苦しみ、
しんどい思いが続くなかで「1日1回必ず歓び、それを手帖に書くことを決めた」。それで随分、救われたのだ、という。

 「人は絶対に『死』から逃れられず、寿命や生まれてくる環境も自分では決められません。
そう思うと『生きる』ということだけで十分、大変なことでしょう。
だからこそ歓びをもって生きたい。
どんな小さな慎ましやかな歓びであってもいいと思うのです」

【独り言】
「どんな小さな慎ましやかな歓びであってもいいと思うのです」

「1日1回必ず歓び、それを手帖に書くことを決めた」
5年日記、一日7行 そのうちの1行を楽しかったこと!
にしている。
1日を思い起こして、「小さな慎ましやかな歓び」
にしているが、これがなかなか・・・・・
やはり、嫌な事はすぐ出てくるが、“慎ましやかな”は出てこない。
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by asanogawa-garou | 2015-01-08 12:34 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)