【仲代達矢】「『俺は、俺だ』と抵抗しろ!人生は長くねぇぞ」   

2015年 03月 05日
【仲代達矢】「『俺は、俺だ』と抵抗しろ!人生は長くねぇぞ」
高倉健と菅原文太が去った後に遺す言葉
日経ビジネスオンライン2015年2月18日(水)江村 英哲
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戦後70年となる今年、日経ビジネスオンラインでは特別企画として、戦後のリーダーたちが未来に託す「遺言」を連載していきます。
この連載は、日経ビジネス本誌の特集「遺言 日本の未来へ」(2014年12月29日号)の連動企画(毎週水・金曜日掲載)です。

第13回は、俳優の仲代達矢氏。
演劇、映画、テレビドラマなどで幅広い活動をし、戦後の演劇界を引っ張ってきた。
仲代氏が現在抱く、芸能の世界の危惧とは何か。
少年時代を振り返ると、俳優を目指した裏側には壮絶な戦時体験があった。

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②銀幕の闘士 
仲代達矢(なかだい・たつや) 1952年に俳優座演劇研究所付属俳優養成所に入所。
57年に俳優座所属の女優・宮崎恭子(故人)と結婚。
活躍の場を舞台から映画に広げ、小林正樹監督の「人間の条件」、黒澤明監督「椿三十郎」などに出演。
75年からは、妻とともに「無名塾」を開設する。
自らも第一線で活躍しつつ、若手役者の育成に力を注いでいる。
1932年12月生まれ。(写真:サトウヒロノブ、以下同)

【モノを言いたきゃ研鑽を積め】
 「俺はこういう風に演じたいんだ」って思うと、
演じたい姿を体現するために基礎的なことをちゃんと修行しますよね。
ちゃんとした美しい日本語をしゃべって、
(舞台の)上手から下手まできれいに歩けるようにする。

【芸能の世界に及んだ効率化の波】

7日間で撮るつもりだったのに予定よりも延びちゃうと、その分コストが増えてしまう。
だからみなさん、「ともかく7日間で撮ろう」となる。
【健さんが亡くなって、文太さんが亡くなって…】
それは我々の責任で、仲代達矢は仲代達矢としてこう思っている、
ということを次世代に伝えないといけない。


【ボクサーから俳優に転身】
まだ焼け跡の頃ですから、青空ジムです。
 ミドル級で何度か(試合に)出ました。
ここでボクシングの訓練をしている頃に、
「仲代、おまえは顔がいいから役者になったらどうだ」と言われたんです。

【宇津井健と両肩を叩いて踊った】
 一次を受けたらガタガタ震えて、もう落ちたろうと思って(結果を)見に行かなかった。
そうしたら、「おまえは受かったのに何で来ないんだ」と言われてね。
また二次を受けて、三次の発表で合格した。
20倍くらいの難関だったと思います。

【「1対49」の戦い】
 「君たちはこれから3年間で、1対49の戦いになる」
 同期は50人。
当時、青山杉作さんという新劇界で有名な方が校長先生を務めていらして、
こう祝辞を述べてくれました。
 全然、祝辞になってないですよね(笑)。

「20倍の倍率の中で君たち50人を採ったけれど、この中から俳優になれるやつはほとんどいない」なんて言うわけですから。

【女の子の手を握り、空襲を逃げた】
【「国を守る」と言われたら警戒しろ】



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【仲代達矢】「『俺は、俺だ』と抵抗しろ!人生は長くねぇぞ」

 納得がいかねえ……。
 そんな時、みなさんどうしていますか。
抵抗していますか。ケンカしていますか。
どうも僕には、最近の人は「俺は、俺だ」という気概が薄れているように映るんです。

 僕は、自宅に併設した「無名塾」という演劇の教練所を、手弁当で運営しています。
そこで役者志望の若い人を育てている。

稽古場ではよく、塾生を挑発するんです。
 「お前、並でいいのか」「平和ボケで生きているのか」「一生はそんなに長くねぇぞ」ってね。
敢えて厳しい言葉をぶつけるのは、そいつの個性を呼び覚ますためです。
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③ 僕が俳優になった昭和30年(1955年)あたりは、
ひと言で俳優といっても、色々あったんです。

例えば当時の僕は、新劇俳優でもあり映画俳優でもあった。
二足のわらじを履いていたわけです。
だから、映画界へ行くと「新劇が何しに来たんだ」と言われるし、
新劇へ戻ると「映画スターが来た」、なんて言われてね。

自分はどっちの役者なんだろうって思ったけれど、
「異邦人役者でいいんだ」と割り切っていました。

 この頃は本当にいろんな俳優がいてね。
面白いのは、みんながみんな強い個性を持っていたことです。
映画俳優には、もともと三味線を弾いていた勝新太郎みたいなのが出てきていた。
萬屋錦之助というのは歌舞伎から来た。
三国連太郎みたいな変な人もいてね。
みんなが、「おいおいおい」っていうくらい強烈な個性を持っていましたよ。
監督の言うことも聞かないんだから。
 みんながいい意味でわがままだから、どうしたってぶつかるわけです。
それで、血だらけのケンカになる(笑)。
ケンカをして、仲良くなって、またケンカして。
そんな風に個性をぶつけていたわけです。

【モノを言いたきゃ研鑽を積め】
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 ④監督も個性の強かったですね。
当時の東宝のエースは黒澤明さん、松竹は小津安二郎さん、新東宝は市川崑さん、大映には溝口謙二さんという人がいて……。
みなさんエースですから、映画会社も自由に作品を作らせていました。

 例えば、映画会社は黒澤明さんには、「おまえは好きなようにしろ」と言う。
 そうすると黒澤さんは、映画『七人の侍』でシナリオを作るのに3年もかけた。
それも5人のシナリオライターを使って。
撮影には2年もかけている。
『七人の侍』が完成するまでに合計5年もかかっているわけです。
お金もどんどん使って。

溝口さんなんかも、ワンカットの撮影に10日もかけたりしていた。
衣装合わせには半月かけた。
映画が良かった時代だったんでしょうね。
 ただね、だからでしょう。
上映する時にはお客が並んで入っていった。
それだけの情熱と手間をかけて、監督や俳優が個性をぶつけあって1つの作品を作っていた。
誰もが真剣でわがままだったということでしょう。
プロとアマの境がなくなった

 繰り返しますが、昔の役者はよくケンカをしました。
良い意味でも悪い意味でも、みんな自我が強かった。
ただ、それはプロ意識が強烈だったからだと思うんです。
厳しい下積みを経験して認められるようになったからこそ、己を貫こうとしていた。

 「俺はこういう風に演じたいんだ」って思うと、
演じたい姿を体現するために基礎的なことをちゃんと修行しますよね。

ちゃんとした美しい日本語をしゃべって、
(舞台の)上手から下手まできれいに歩けるようにする。
役によって声色を低音にするとか高音にするとか。
俳優っていうのは楽器と同じように訓練されていないといけないんです。
 俳優は、お客さんの前に出て自分の肉体をさらします。
日本人のくせにビンセント・バン・ゴッホなんて演じながら、
お客さんにもストーリーに入り込んでもらわなくちゃいけない。
共感してもらうには、やっぱり人間を見つめる目や、人間に対する愛情がものすごく必要なんです。
 自分じゃない他の人間を演じるわけだから、自分と他者をどうやって結び合わせるか。
それが重要なんです。
 そうなると電車に乗っている間にも、前に座っているおじさんが寝ているのをじーっと見たり、きょろきょろしたりして、「この人の家庭はどうなのか」って想像しなくちゃいけない。
 本を読んでいても、いつも文字からその風景が浮かぶくらいの想像力が必要だろうし、登場人物の男がどういう服装をしているのか、どういう歩き方をしているのかっていうのを考える訓練をしなきゃいけない。
 普段からそうやって想像力を働かせているから、いざ台本を手に取ると、台本に書かれた「文字」を「人間化」できるわけです。

 けれど、最近は修行っていう言葉がなくなった。
 俳優のみなさんだって、ほとんど地声でしか訓練されてないでしょう。
プロとアマの境がなくなってきているんです。
しっかりと教育を受けた役者が少なくなった。

【芸能の世界に及んだ効率化の波】
 芸能の世界にも効率化の波が押し寄せてきているということなんでしょうね。
 例えば昔、僕が主演した『人間の條件』なんていう映画は、撮影に4年もかかりました。
1部から6部まであって、1~2部で1本いくらという話だった。
最初の僕のギャランティーは50万円でした。
だけど1~2部が大当たりして、3~4部になったら100万円になった。
また大当たりして、最後の5~6部は150万円もらいました。
4年間で全部合わせると300万円くらい。
 それも昔は、2カ月で取り終わる予定の作品に、
1年かかったりすることもしょっちゅうありました。
それでも、(『人間の條件』で共演した女優の)高峰秀子さんは、
「仲代さん、1日だろうが2年だろうが1本いくら」とおっしゃってね。
 そういう時代だったんです。
監督も俳優も、いい作品を作るための情熱を持っていて、それを許してくれる環境があった。

 けれど、今の日本の役者のギャランティーって日割りなんです。
 「仲代さん、すみません。これを1週間で撮るんですが、1日いくらで来てください」って。
7日間で撮るつもりだったのに予定よりも延びちゃうと、その分コストが増えてしまう。
だからみなさん、「ともかく7日間で撮ろう」となる。
良くても悪くても、予算内で納めよう、とね。
それくらい効率化が進んでいる。映画界も随分変わったものです。

 背景には、テレビの普及もあるんでしょう。
最近は、テレビで人気の出た大きな芸能事務所の若手を集めて、
娯楽性ばかりを重視した作品が量産されていますから。
 僕は何も、娯楽性を否定しているわけじゃないんです。
エンターテインメントやお笑いはあった方がいい。

けれど同時に、人間の生死を問う作品が少ないのが気になります。
人間への興味を失ってはいけない。
「命とは何だ」「生きるとは何だ」と真剣に突き詰める作品も必要だと思うんです。

【健さんが亡くなって、文太さんが亡くなって…】
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 ⑤高倉健や菅原文太といった同年代の俳優が次々に鬼籍に入りました。
 健さんが病気だということは前から知っていたけれど、あんなに元気のいい文太さんがね…。
 
健さんが亡くなって、次に文太さんが亡くなって、
それからもっと前に、僕が一番お世話になった三船(敏郎)さんとか…。
そういう人たちは、もっと若く死んでいるわけですから、80歳を超えたらある程度は覚悟しなきゃいけない。
私もそろそろだと思います。

 ただ、僕には最後にやるべき仕事がある。
 芸能の世界にも効率化の波が来ているけれど、それをどこかで打ち破らなきゃいけない。
それは我々の責任で、仲代達矢は仲代達矢としてこう思っている、
ということを次世代に伝えないといけない。

 うちに入っている子たちも、生まれたときからテレビのある時代に生きています。
特に20代の子たちは、今の状態が芸能だと思って育っている。
だから「おまえ、芝居はどうするんだ」と聞くと、基本的にみんなテレビの世界に行きたがる。

 僕たちの時代はみんな挫折したりしながら、「こういう役者になりたい」というプランを持ってやってきた。

それなのに、「テレビに出ればお金がもらえる」と安直に考えて、
そんな効率的な働き方が役者だと思い込んでいる。「そうじゃない」と示すこと。

それが、僕が次の世代に対してできることだと思っています。

【ボクサーから俳優に転身】
 僕は映画がすごく好きで、若い頃は3食を1食に減らしてまで映画を見ていました。
ちょうど敗戦後で、アメリカ映画やフランス映画が入ってきて、それを3本立てか何かで観る。
当時は1年間で312本の作品を観た記録があります。
 渋谷で映画を見ると、(自宅の)千歳烏山まで電車賃がないから、
夜中じゅう歩いて家に帰る。
それほど映画を、特に外国映画を観ました。
それも必ずパンフレットを買ってね。
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⑥ 当時は大学出でも就職難の時代でした。
ましてや僕のように高校の夜間部卒業だとほとんど就職口ない。
 これから学歴が関係ない世界で食っていこうと思って、
色々と考えている頃に、白井義雄さんというボクサーが初めて世界チャンピオンになったんです。
一種の憧れもあってね。
ボクシングの世界なら学歴は関係ないわけですから。
 今思うと非常に単純なんだけど、影響を受けて大井町のボクシングジムに3~4カ月通いました。
まだ焼け跡の頃ですから、青空ジムです。
 ミドル級で何度か(試合に)出ました。

ここでボクシングの訓練をしている頃に、
「仲代、おまえは顔がいいから役者になったらどうだ」と言われたんです。
 当時はどうしても殴られるのが嫌でね(笑)。
意気地がないと言えば、意気地がないのでしょうけど、
ボクサーはダメだなあと思っていたので、役者への転身を考えました。

 僕は若い頃から非常にシャイで、人前で何かやるなんていうことは、とてもたまらないと思ったんです。
ただ一方で、アメリカ映画やフランス映画を年に300本以上観た経験から、俳優になる気持ちも出てきました。

【宇津井健と両肩を叩いて踊った】
 当時の日本の映画俳優というのは、
映画会社のオーディションを受けて、
その中から東宝なら東宝、松竹なら松竹がニューフェースを採用して売り出し、
主役に抜擢する形を採っていた。

つまり演劇学校というものがなかったんですね。
 海外の場合、必ず大学には演劇科があり、みなさんそうしたところで学んでいる。
だから僕も日本に俳優学校はあるのかと探してみたけれど、一つもありませんでした。
日本は演劇に対して教育して役者を育てるという考え方がなかったわけです。
 けれど俳優座というところは3年間基礎から習えるという。
そこで俳優座に入ろうと考えたわけです。
 落ちるだろうと思って受けたら、たまたま受かった。
 一次を受けたらガタガタ震えて、もう落ちたろうと思って(結果を)見に行かなかった。
そうしたら、「おまえは受かったのに何で来ないんだ」と言われてね。
また二次を受けて、三次の発表で合格した。
20倍くらいの難関だったと思います。
 三次の発表で、この間亡くなった宇津井健が一緒に番号を見ていたんです。

赤いセーターを着た宇津井健が、「あなた、受かりましたか」と聞いてきて、
「どうも受かったらしいです」と言ったら、「僕も受かったんですよ」って。
二人で両肩を叩いて踊って喜んだ。

【「1対49」の戦い】
 合格したのはいいけれど、入ってからが大変でした。

 俳優座附属養成研究所は、大学と同じように座学から始まるんですね。
それも朝9時からスタートする。
月謝は900円。
今までは昼間働いて夜学に通っていたけれど、
今度は昼間に大学みたいな教育を受けて夜働かなきゃならなくなった。
パチンコ屋やキャバレー、バー、喫茶店なんかで働きました。
 「君たちはこれから3年間で、1対49の戦いになる」
 同期は50人。

当時、青山杉作さんという新劇界で有名な方が校長先生を務めていらして、こう祝辞を述べてくれました。
 全然、祝辞になってないですよね(笑)。
「20倍の倍率の中で君たち50人を採ったけれど、この中から俳優になれるやつはほとんどいない」なんて言うわけですから。
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⑦ ただ、そう言われて、僕はやっと競争しようという気になった。
 同期は友達ではあるけど、ライバルでもある。
そういう関係で切磋琢磨して、何とか50人の中の2人に入ることができた。
その後も俳優座の研究生として3年間の下積みを重ねますから、
結局、俳優になるために6年間かかりました。
 19歳で俳優学校へ入って、22歳くらいに俳優座に入る。
そしてその後、私は幸運にも、『ハムレット』の主役をやらせてもらった。
 役者になるまでは非常に困難な道のりではあったけれど、役者になってからのキャリアは早かった。
神様はうまい具合に人生の陰と陽を差配するんだと思ったものです。

役者の技術がどれだけうまいかなんて、普通の人はあまり分からないでしょう。
それでもスターになる人はスターになるし、一生食えないやつは食えない。
格差の激しい世界ですから。
 先輩からはいろいろなアドバイスをいただきましたが、
その中でも参考になったのが、「あまり稼ぎ過ぎると芸が落ちるぞ」ということです。
当時から僕は、1年の半分は映画、半分は芝居をやると決めていました。
すると芝居で通行人を演じている時に、映画の主役の話が来たりする。
 当時の映画会社は余裕があったんでしょうね。
よく専属にならないかと持ちかけられました。
ただ、専属俳優になると俳優座をやめなきゃならない。
それでも映画会社の社長は、「家を1軒建ててやる」と言うわけです。
食うのに困っている時に、「家1軒」と言われれば当然そちらに行きたくなる。
ちょっと考えましたよ。

 ただね、家なんか建ててもらうと、
一生こいつらの言うことを聞かなきゃならなくなるんじゃないかと思った。
ひねくれた根性ですけど、そんなのはつまらない。
僕は20代で自分の生き方を決めて、それを貫きました。


【女の子の手を握り、空襲を逃げた】
 僕は1932年生まれですから、昭和で言うと7年生まれです。
親父は長い間結核で、家庭は非常に貧乏で、もう極貧という状態。
それも昭和18年(1943年)に親父は亡くなりました。
 すると長男の僕と弟と妹、お袋の4人は、社宅みたいなところを追い出された。
食えなくて転々とした挙句、青山にある弁護士事務所に住み込みで留守番をする募集があった。
そこで家族で青山の弁護士事務所に住むようになったんです。
 そして青南小学校に入りました。
これはエリート校で、終戦時に陸軍大臣であった阿南(惟幾)大将のご子息や、
戦争途中で亡くなった山本五十六さんの長男がいらした。
本来は庶民が入っちゃいけないところなんです(笑)。
そこに通っている間に、戦況が甚だしくなって、子供たちは集団疎開をするようになる。
 エリート校ですから子供たちを遠いところへは行かせません。
東京都心部からちょっと離れた北多摩郡の仙川に向かった。
そこには中島飛行場があって、最後の零戦を造ったりしていました。
仙川の昌翁寺というところに集団疎開して、お寺の本堂に寝泊まりする。
終戦の年に卒業しました。
 集団疎開から東京に戻っても空襲ばかり。
仙川にいた時もグラマン戦闘機か何にバンバンやられて防空壕へ逃げ込んだりしていましたが、
東京でも大空襲に遭って、最終的には千歳烏山で終戦を迎えました。
 小学校を卒業した僕は、池袋の先の中板橋にある都立北豊島工業高校に通うようになりました。
昭和20年(1945年)4月のことです。
千歳烏山からは遠くて、新宿から池袋に出て、池袋から東武東上線に乗って。
その頃は電車の屋根の上に乗って中板橋まで通っていました。
 新宿辺りを通ると、逃げようとした人が焼けただれて真っ黒になっている。
それを横目で見ながら通学するわけです。
新宿の辺りは凄惨たるものでした。
空襲になると学校に行かなくていいのでほっとしたりもしました。
 ある時、渋谷で大空襲を食らったんです。
僕は近所の子の手を引っ張って逃げました。
必死で手を引っ張ったんだけれど、
いやに軽いなと気づいて振り返ると、僕が引っ張っている女の子の手の先に、体がないんです。
焼夷弾がその子の頭にぶつかったんですね。
けれど体がなくなったことに気づかず、引っ張って逃げていた。
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 ⑧こんな体験をしていますから、戦地まで行った経験はないけれど、
戦争の最中に戦場にいたみたいなもんです。
もう、当時は無差別爆撃でしたから。
日本の戦況に巻き込まれた少年時代と言えるでしょう。

 玉音放送は、高校の校庭で聞きました。
昭和20年8月15日に天皇陛下のお言葉があったけれど、
負けたという印象がないんですね。
何か白昼夢みたいな感じで。
ともかく、それまで「竹やり戦争」「一億玉砕」「日本は神風が吹く」という教育を受けていましたから。
絶対に負けないんだと思っていた。
子供ですから本当に神風が吹く、とね。

【「国を守る」と言われたら警戒しろ】
 「いざ来い、ニミッツマッカーサー」。
米軍が上陸したら一億玉砕でやっつける。
終戦まで僕は本当にそう思っていました。
 それなのに、戦争に負けた瞬間から、
政治家も大衆も、大人どもは一日にして親米派になった。
「国のために死ね」と言っていた大人が、「ギブ・ミー・チョコレート」「ギブ・ミー・チューイングガム」と。
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⑨ 当時は大学生が学徒動員でどんどんと出て行っていたから、
戦争が終わって、やっと人間らしい生活が送れるんだと思いました。
けれど一方で、人間というものは一日にしてこうも変わるものか、とも思いました。
今も集団的自衛権とか何とか言っていますが、僕は絶対に信用しない。
戦争だけはやめた方がいい。
「国を守る」とか言い出したら十分に警戒した方がいい。
結果は大体戦争につながるからです。
 僕の少年時代は、本当に気が狂いそうな状況でした。
食うコメもないのに誰も助けてくれなくて、最低の生活をしていました。
空襲に遭って、生きていること自体が不思議で、
毎日、「きょうも1日生き残ったんだ」ってね。

 その後、70年間も戦争のない時代が続いたわけです。
総理大臣が2年に1度変わるってブーブー言う人もいるけれど、それでもいいじゃないですか。
強すぎるカリスマを持ったリーダーが出ると、大衆はすぐに流されるんだから。
そういう意味では、今はちょっとやばい時代だなあとも思いますね。

 僕が役者に憧れたきっかけのひとつは、こうした戦争体験にありました。
 戦争に負けたことで、僕にとって大人のロールモデルは、
米国映画の銀幕の中にしか見いだせなくなっていた。

だからこそ僕は人間を考える作品をつくる。
そして人間の面白さ、悲しさ、愛しさ、愚かさを、自意識を消して演じられる役者を育てる。
「人間っていいな」と観客に感じさせる役者を残していきたいのです。

【平蔵の独り言】
『俺は、俺だ』と抵抗しろ!
高倉健や菅原文太といった同年代の俳優が次々に鬼籍に

【独り言】
『俺は、俺だ』の主張をする人たちには、
暮らし難い世の中になっていると思う。

というより、『俺は、俺だ』の個性も多様性も
みんな一緒なら安心・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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by asanogawa-garou | 2015-03-05 14:13 | 人間模様 | Comments(0)