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〔星野仙一〕もっとも俺が頭を下げるのは長嶋さんと王さんしかいない。あの2人以外に頭を下げることはないよ。   

2018年 01月 29日
〔星野仙一〕もっとも俺が頭を下げるのは長嶋さんと王さんしかいない。あの2人以外に頭を下げることはないよ。


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①星野仙一さんが最後まで突き通した美学「ON以外に頭を下げない」
スポニチアネックス2018年1月6日 8時30分

【「さあ仙ちゃん、来い」と心燃やした 長嶋茂雄さん】
【ONに真っ向勝負した星野仙一さん、“流し打ち”王さんに文句 ミスター「心を燃やすことができた」】
【中日が巨人のV10を阻止して20年ぶりリーグ優勝】
【 中日 20年ぶり優勝が吹っ飛んだ 長嶋茂雄引退を表明】
【星野の巨人相手に闘志むき出しの投球にファンは歓喜】


・4日に亡くなった星野仙一さんと親交のある記者がつづっている
・2017年12月24日にも言葉を交わし、最後まで美学を貫いたという
・「俺が頭を下げるのは長嶋さんと王さんしかいない」

星野仙一氏死去 ドラフト会場で感じた“異変” 足元おぼつかず何度も…
2018年1月6日 8時30分 スポニチアネックス

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 ◇星野仙一氏死去 【悼む――本紙・宮内編集主幹】夏場にさしかかったころだった。
肌荒れが目立ち、痩せ始めていた。
人一倍、身だしなみに気を使っていたのにスーツが身体に合っていない。
見て見ぬふりをしていたが、異変をじかに知る時がきた。

 10月26日、グランドプリンスホテル新高輪で行われたドラフト会議。
開始直前、楽天の控室から会場まで並んで歩いた。
「結局のところ、1位は誰で行くのですか?」。
小声で訊ねると「清宮でいくよ。迷ったけどな」。
この時、星野さんの左肩が何度も私に当たった。
一度や二度ではない。足元がおぼつかないことは明らかだった。「大丈夫ですか?」と顔をのぞき込むと「大丈夫だ。君は自分の体の心配をしていればいい」とかわされた。

 最後に言葉をかわしたのは昨年暮れ、12月24日のことだった。

 「メリークリスマス?俺は仏教徒だからなぁ(笑い)。
最近は元気じゃないよ。
大阪のパーティー(12月1日、殿堂入りパーティー)が終わってからグダーっときてな。
仕事をいっぱい入れたし、その反動かな。
このままじゃ死んじゃうんじゃないかと。
年明けも講演の仕事が入っているんだが、最近は1時間話すとゼーゼーだ。
前はこんなことなかったんだけどな。
立っているのがつらいんだ。
座ってもいいんだけど、それじゃあ、みっともないし、迫力がないだろ。身ぶり手ぶり、アドリブでやるのが俺のやり方。人生もそうだけどな」

 田淵幸一さんのこと、山本浩二さんのこと…。
仲間の近況をあれこれ語った後、こう締めくくった。

 「キャンプは梨田に任せておけばいいし、チームが困った時に頭を下げるのが俺の仕事。もっとも俺が頭を下げるのは長嶋さんと王さんしかいない。あの2人以外に頭を下げることはないよ。今日は家族全員が集まっているんだ。やっぱりメリークリスマス?まあ、そういうことだなぁ(笑い)。良いお年を」

 あれからわずか11日。松の内が明けないうちに年頭のあいさつを、と考えていた矢先の訃報に言葉もない。どうか間違いであってほしい。 (編集主幹・宮内 正英)


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③14年、楽天退任セレモニーでスポットライトにてらされながら入場する星野氏

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【「さあ仙ちゃん、来い」と心燃やした 長嶋茂雄さん】

④2018年1月6日11時37分 特集:星野仙一さん死去
 〈巨人・長嶋茂雄終身名誉監督の話〉
 あまりにも突然の事で本当に残念でなりません。
昨年11月に開かれた仙ちゃんの「野球殿堂入りを祝う会」で「これからも野球界のために力を貸して」とメッセージを送ったばかりです。
「打倒巨人」を前面に闘志満々でぶつかってきた投手だったからこそ、私も負けずに「さあ仙ちゃん、来い」と心を燃やすことができ、対戦するのが本当に楽しみでした。
監督としても多大な実績を残され、さらなるご活躍を期待していました。ご冥福をお祈りします。

【ONに真っ向勝負した星野仙一さん、“流し打ち”王さんに文句 ミスター「心を燃やすことができた」】

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⑤「流し打ちはないでしょう! もう勝負しませんよ。思い切り打ってくれ!」と王に文句を言ったという。

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87年、熊本・藤崎台球場で両軍の乱闘時に王監督(右)へ詰め寄る星野監督 【報知新聞社】
01月07日 06:00
 星野仙一氏は現役時代、巨人の主砲・王貞治(現ソフトバンク球団会長)に真っ向勝負を挑んだ。
対戦成績は195打数62安打、打率3割1分8厘。被本塁打は24本もあった。
常に全力投球だったが、それを表すこんなエピソードがある。
 77年の巨人戦。打撃不振だった王が、星野氏の投球を流し打ちした。数日後、「流し打ちはないでしょう! もう勝負しませんよ。
思い切り打ってくれ!」と王に文句を言ったという。
 中日監督時代の87年6月11日、熊本での巨人戦では乱闘の際、拳を王監督の眼前に突き出したことも。
王会長は訃報に「闘志を前面に出したあの攻撃的な投球は、勝負していて、とてもやりがいのある投手でした。
昨年、野球殿堂入りのパーティーでお会いしましたが、こんなに急に亡くなられるとは、とにかく残念でなりません」とコメントした。

 もう一人の好敵手・長嶋茂雄(現巨人終身名誉監督)との通算対戦成績は111打数26安打。
打率2割3分4厘と抑えた。
ミスターも「あまりにも突然のことで残念でなりません。
『打倒巨人』を前面に闘志満々でぶつかってきた投手だからこそ、『さあ仙ちゃん、来い』と心を燃やすことができ、対戦するのが本当に楽しみでした。ご冥福をお祈りします」と悼んだ。
 「V9戦士が俺を育てた」と話していた星野氏。
強い巨人がエネルギーの源だった。


【中日が巨人のV10を阻止して20年ぶりリーグ優勝】

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⑦打倒巨人に燃え、1974年は最多セーブに輝いた星野仙一

1972年に優勝から遠ざかっていた中日ドラゴンズの監督に就任したのは、与那嶺要監督でした。
与那嶺要選手は現役時代、ベストナインを通算7回受賞するなどの活躍で第2期巨人黄金時代を支えた名選手でしたが、晩年巨人を戦力外になり、中日に移籍。
以降巨人や、戦力外になるきっかけだったと言われている巨人の川上哲治監督に対して闘志をみなぎらせていました。

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⑧与那嶺監督
当時1965年~1973年まで、9年間連続してセントラル・リーグ優勝を果たしていたV9時代の巨人を相手に1972年・1973年と連続で勝ち越し。
そして1974年は髙木守道、星野仙一、松本幸行、トーマス・マーチン、谷沢健一らが活躍し、巨人のV10を阻止して2回目のリーグ優勝を果たしたのです。
(この際、巨人とのゲーム差は0)

【 中日 20年ぶり優勝が吹っ飛んだ 長嶋茂雄引退を表明】


【10月12日】1974年(昭49) スポニチ
マウンド上の星野仙一投手は帽子をとって右手に握り締め、雄たけびを上げながらガッツポーズ。

 【中日6―1大洋、巨人7―5ヤクルト】午後8時9分、中日球場。ついにその瞬間が訪れた。大洋・山下大輔遊撃手のライナーを中日・島谷金二三塁手が拝むようにしてキャッチすると、マウンド上の星野仙一投手は帽子をとって右手に握り締め、雄たけびを上げながらガッツポーズ。
駆け寄ってきた木俣達彦捕手が星野に飛びつくと、次々にナインが集まり、歓喜の輪が広がった。

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 中日ドラゴンズが54年(昭29)以来、20年ぶり2度目のリーグ優勝を決めた。65年(昭40)から始まった、巨人のV10を阻止しての悲願の優勝だった。

 興奮のるつぼと化した名古屋から約370キロ離れた東京・神宮球場は、プロ野球の歴史に大きな足跡を残したプレーヤーが引退を決意して、試合に出場していた。
巨人・長嶋茂雄三塁手は、17年間の現役生活に別れを告げることを決め、中日の優勝が決まれば、これを発表することにしていた。

 6回、ヤクルトの攻撃中に突然ネット裏の報道陣に巨人の広報からの知らせが入った。「試合終了後、球場内貴賓室で長嶋、川上監督が会見」。
番記者たちは来るべきものが来たと感じた。
シーズン前からささやかれていた、ミスター・ジャイアンツがユニホームを脱ぐ日。
各記者は集めた情報を元に「長嶋 引退表明」の原稿を書き始めた。

 午後10時前、長嶋が口を開いた。
「肉体的にも峠が来た。今年ほど“老い”を感じたことはなかった。17年間、自分でも本当によくやったと思う。それが現在の心境だ」。

 よりによって、中日の久々優勝の時にやらなくても…、という声も球団内部にはあった。
しかし、事前に組まれたスケジュールがそうさせてしまった。

 26日に米大リーグのニューヨーク・メッツが親善試合のために来日。
1カ月近くにわたって日本中を転戦することが決まっていた。
それに合わせて日本シリーズは16日から組まれていた。
中日は4日後にロッテとシリーズを戦わなければならないタイトな日程。
シリーズ中に引退表明するわけにもいかず、親善試合終了後に伝えるのもファンに失礼にあたる。
かといって、優勝の可能性が巨人に残されている以上、分かってはいても巨人の顔の長嶋が引退を表明しては、チームの士気にかかわる。
結局、公式戦中にファンの前で長嶋が別れのあいさつができるのは、優勝が決まった後の13日の後楽園での中日とのダブルヘッダーしか残されていなかった。

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 長嶋の引退表明で中日の優勝は割を食った形になった。
各スポーツ紙の1面はドラゴンズの系列以外、すべて長嶋の記事。中日Vも1面に載ったが、いわゆる“肩”と呼ばれる2番手扱いの記事として紙面の端に寄せられた。

 水を差された中日は、雨で14日に順延になった試合で長嶋の引き立て役に。
ロッテとのシリーズでも2勝4敗で敗れ、巨人から10年ぶりに王座を奪ったというのに、少々寂しい優勝となった。
[ 2011年10月12日 06:00 ]

【星野の巨人相手に闘志むき出しの投球にファンは歓喜】
1969年にドラフト1位で入団した星野は、岡山の出身(後年、母親の出身地と両親が出会った地が名古屋だったことがテレビ番組の取材で判明している)だったものの、中日在籍中も自宅は東京にあった杉下や西沢と違って、結婚して合宿所を出ても名古屋に自宅を構えていた。

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また1968年秋のドラフト前に、田淵幸一の「外れ1位」指名を約束しながらそれを反故にした巨人相手に闘志むき出しの投球を見せ、通算成績でも35勝31敗と勝ち越したことも地元ファンの共感を呼んだ。
そして全国区の大スターに
特に1974年(昭和49年)は49試合に登板して先発17、リリーフ32とフル回転し、15勝に加えて10セーヴを上げて、この年制定されたセーヴ王の初戴冠者となり、20年ぶりのリーグ優勝と巨人のV10を阻止する立役者となったことで、中日における大スターとしての地位を不動のものとした。
さらに現役引退後は親会社系列の中部日本放送(CBC)などの地元放送局でなく、NHKの専属解説者となって全国ネットの野球中継解説やスポーツ番組のキャスターとして出演することにより、その人気は「全国区」へと広がった。
まさに星野は創立以来バラバラだった中日のチームカラーを一つにまとめた人物であり、日本国憲法下における「象徴天皇制」の精神と同様に、「中日ドラゴンズ球団とファン統合の象徴」と言うべき存在だったゆえに、新人監督として異例の権限を与えられることになった。

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【平蔵の独り言】
阪神、楽天の監督の印象が強い同世代
今回、あっという間に旅立って 仰木彬監督と重なる。

自身の人生の節目に星野仙一がいた!
昭和49年10月後楽園球場長嶋選手(背番号3)の引退試合
小学生の頃から巨人ファン(というより下町は野球は巨人しか知らない)
若気の至りで会社を辞め、退職金で免許取得・車入手(ブルーバード510sss)
たまたま面接日、後楽園球場の横を車で通ると“ワアー”と言う歓声
「あっ!長嶋の引退試合だ。中日とのダブルヘッダー(消化試合)」
車を後楽園の庭園にアパートが建っていて、路駐
球場に内野立見席で入場(ダブルヘッダー第一試合)
第一試合でホームラン!
第一試合と第二試合の間に長嶋が球場を花束、ハンカチ、時折立ち止まり涙を拭う
第二試合になると係員もいなくなり、バックネットの空き席で観戦
そして、試合終了
今でも放送されるマウンドの立ち、ポットライトの中
「我、巨人軍は永遠に不滅です」
を、バックネットのネットにへばり付き、聞いた。

【独り言】
昭和49年の長嶋引退試合
(前夜、日テレ11PMで長嶋の現役引退、明日の中日との試合、を
引退試合との特番)記憶に間違いがなければ・・・・・

中日は名古屋で優勝記念パレードで試合出場選手は背番号が2桁も50以上の二軍が出ていた。

引退試合の観戦(面接すっぽかし)
その後、前職関係者に「まだ、うろうろしているのか」
見つけ出され、今も現役で古稀

中日優勝の立役者が熱い“星野仙一”
昭和49年を記憶、思い起こさせてくれた。


by asanogawa-garou | 2018-01-29 16:44 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)