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〔野村家の家訓〕野村克也さん「死ぬまで働く。生活の安定は自ら確保」(健康のために我慢しない)   

2018年 10月 10日

〔野村家の家訓〕野村克也さん「死ぬまで働く。生活の安定は自ら確保」(健康のために我慢しない)


〔ずっと働け〕死ぬまで働く
〔「自分はここまで」〕「もうこれぐらいでいいや」と諦めないこと
〔健康のために我慢しない〕


野村克也さん 一人の暮らし支える亡き妻の言葉 80歳を過ぎて妻に先立たれたら(上)日経マネー2018/9/11

野村家の家訓
1:ずっと働き続ける
2:「これぐらいでいい」は禁止
3:自分でできることは自分でやる
4:健康のために我慢しない


野村克也さんは、「野球しかできない男が一人になって、妻という存在の大きさを感じる」と言う。(写真:福知彰子)
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 捕手として活躍しただけでなくバッターとしても数々の記録を打ち立て、4球団で監督を歴任した野村克也さん。
家計に限らず子供の教育も近所付き合いも、すべて妻任せだったという。
その野村さんに、一人の暮らしとなってからの生活、終活などについてうかがった。2回に分けて紹介する。
◇  ◇  ◇
──2017年12月8日に虚血性心不全で妻の沙知代さんが亡くなって、半年以上が過ぎました。
 人間って厄介だなって思うのは、そばにいた時は何とも思わなかったのに、いなくなるとその存在の大きさを痛いほど感じること。
家に帰って話をする人がいないのがこんなに寂しいとは、思いもしなかったね。
 家にたくさん写真が飾ってあるから、それによく話しかけています。
「何で俺より先に逝くんだよ」って愚痴ったりとか、野球を見ながら色々とぼやいたり。

サッチーさんは野球に全く興味がなくて、何も知らないから野球の話しても仕方ないんだけど、いつも聞き役に回ってくれていたんだと亡くなってから気付きました。
■先に逝くとはまったく思っていなかった
──沙知代さんの生前、夫婦で「終活」などはされていたのですか?
 何の準備もしていませんでした。
ただ、サッチーさんは当時85歳で、僕より3歳年上。
互いにいい年だから、いつ何があるか分からないという不安はあった。
事あるごとに「俺より先に逝くなよ」と言っては、「そんなの分かんないわよ」と返されていました。
でも本当に俺より先に逝ってしまうとは夢にも思わなかったんだよね。
女性の方が総じて強いじゃない、平均寿命も長いし。
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 夫婦生活は45年。自分を中心に世界が回っているような人だから、周囲からは大変だと思われていたかもしれないけど、サッチーさんが家のことを全部やってくれたから、僕は野球に没頭できた。
家計管理、子育て、人付き合いなど、暮らしに関わることは全てサッチーさん任せ。いかに恵まれていたかが分かりました。

──今は息子の克則さん夫妻が近くにいて、生活関係のことを手伝ってくれているとか。
 「スープの冷めない距離」というのかな、僕の自宅の敷地内に克則が家を建てたおかげで、一人残されてからの孤独や不便がだいぶ軽減されているように思います。
 実は、克則がうちの敷地内に家を建てたいと言ってきた時、僕は反対したの。広々とした庭が好きだったのに、そこに家が建ってしまったらせっかくの景色が台無しだと。
でもサッチーさんは二つ返事で「いいわよ」と。
サッチーさんがそういえば従うしかない。
内心は嫌だなと思っていたけれど、今は同じ敷地にいてくれてよかったって心から思う。
結果的にはサッチーさんが大正解だったね。
──夫婦で意見が異なるといつも野村さんが引いていた?
 そうよ、反対したって言うこと聞く人じゃないし。
サッチーさんには怖い人も、怖いものも何もない。
いつも自分の生きたいように生きていた。
あの人の夫が務まるのは僕だけだと思うよ。

──運命的な出会いは、どんなふうに訪れたのでしょうか?
 南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)時代、遠征で東京に来るたびによく行ってた中華料理店で偶然一緒に居合わせたの。
サッチーさんは僕のことを全然知らなかったんだけど、店のママに紹介されてプロ野球選手だと知ると、その場で野球少年だった息子の団に電話をかけた。

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 「野球の野村さんって知ってる?」と聞くと、「すごい人だよ」と団が答えたらしい。
その日の試合に親子を招待したことがきっかけで、付き合うようになった。

 当時僕は35歳で、先輩に紹介された社長令嬢と結婚していたのだけれど、向こうの浮気が原因で別居状態。
帰る所もなかったし、他に女性関係もゼロだったから、東京遠征に来るたびサッチーさんと食事に行く付き合いが続いていた。
でも結婚するなんて考えもしてなかったよ。

■「何とかなるわよ!」に救われる
──それは意外です。結婚に至ったのはなぜ?
 子供ができたからね。責任を取らなきゃならない。
向こうにしてみても、俺にほれたというより自分の2人の息子とうまくやってくれると思ったんじゃないかな。
 でもそれからが色々と大変だった。

一番強烈な思い出は、20年以上世話になった南海ホークスの監督をクビになったこと。
まだ前妻との婚姻関係が解消されていない中、サッチーさんと暮らしていることをスポーツ新聞にすっぱ抜かれちゃった。
愛人問題として大バッシングを受けて、公式戦を2試合残して解任されてしまった。
 当時、僕は42歳で、克則はまだ4歳。
「もう野球界に戻れないかも……」と落ち込んでいると、
サッチーさんが「大阪なんて大嫌い。東京に行こう!」と言い出した。
そうは言っても、東京なんて何の縁もないし、仕事のつてもない。
愚痴ばかりこぼす僕にサッチーさんは大声で、「何とかなるわよ!」。

 マイナス思考でいっぱいだった僕の心に、その一言はずしんと響いたね。
自分で会社を経営するほどのやり手だったから、東京で仕事を見つけて稼ぐ自信があったのだろうけど、僕もその一言で「何とかなるかも」という気持ちになった。
それからも落ち込んだり、困難に直面したりするたびに、
サッチーさんの「何とかなるわよ」が僕を救ってくれたと思います。


〔ずっと働け〕死ぬまで働く
──そうでしたか。今でも支えになっている沙知代さんの言葉は他にもあるのでしょうか。
 「死ぬまで働け」かな。とにかくずっと働けと言われ続けていたからね。
一人になってみると、仕事があってよかったとしみじみ思うよ。
何もする気にならなくても、仕事があれば外に出かけるし、人とも話すからね。

野村克也さん「死ぬまで働く。生活の安定は自ら確保」 80歳を過ぎて妻に先立たれたら(下)日経マネー2018/9/18

「『稼げる仕事』に就きたくてプロ野球選手になり、初任給から毎月、母への仕送りを続けた」と、野村克也さんは話す。(写真:福知彰子)

〔「自分はここまで」〕「もうこれぐらいでいいや」と諦めないこと
 捕手としても、バッターとしても活躍し、数々の記録を打ち立てた野村克也さん。
家計に限らず子供の教育も近所付き合いも、すべて妻任せだったという。
前回の「野村克也さん 一人の暮らし支える亡き妻の言葉」に引き続き、お金の管理やプロ野球選手になった理由などを聞いた。
◇  ◇  ◇
──この半年間、テレビ出演や執筆など、精力的に仕事をこなされていますね。
 なぜか分からないけど、毎日のように仕事がある。
何で俺なんだろうね(苦笑)。

 そういえば、「もうこれぐらいでいいや」と諦めないことも、サッチーさんの信条だった。
「自分はここまで」と自己限定せず、やりたいことや目標を持ち続けることが、生きる意欲や成長につながるって。
年を取って一人で暮らしていると、その意味がよく分かる。


〔健康のために我慢しない〕

 あとは、健康のために我慢しないこと。
健康に悪いからと好きなものを我慢してストレスをためるより、好きなものを食べて元気でいた方がいいというのが彼女の持論。
だから僕は今も好きなものを食べ、よく眠るようにしている。
それが健康のバロメーターになっています。

 「死ぬまで働け」にも通じるけど、できる限りお上には頼らず、生活費は自分たちで何とかする、というのもサッチーさんが言い続けたことだった。
──お金のことは沙知代さんに任せきりだったとか。
今はお金の管理はどうしていますか?
 克則の奥さんに任せています。
前は時計やら洋服やら、欲しいものがたくさんあったけど最近は物欲もなくなってきたしね。
サッチーさんがいた頃は、「現金を持たせると女に使うから」とお金を持たせてもらえず、普段の支払いは全てクレジットカード。
銀行からお金を引き出す方法も知らなかったよ(笑)。
お金とは縁がないね。
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■「稼げる仕事」に就きたくてプロ野球選手に
──それでも最初は、「稼げる仕事」に就こうとプロ野球選手を志したそうですね。
 たくさん稼いで母親を楽にしてあげたかったの。
うちは僕が3歳の時に父を亡くして、母と兄との3人暮らし。
僕が小学生の時に母は2度がんにかかり、生活はいつも苦しかった。
 最初は歌手になろうと思ったけど、学校で音楽部に入ったら才能がないと気付いた。次に映画俳優になろうと思ったけど、鏡で自分の顔をまじまじと見たら無理だと思った。
最後に残ったのがプロ野球選手だった。
 テスト生として南海ホークスに滑り込むことができたけれど、契約金はゼロ。
月の給料は7000円で、寮費3000円を支払って残った4000円から、毎月1000円を母に送り続けました。
その後結構稼ぐようになって、何万円も仕送りするようになったけど、「あの頃の1000円の方が母ちゃんはうれしかった」って言われて。

 母が亡くなったとき貯金通帳を見て、仕送りのお金は一銭も使っていなかったことが分かった。母親というのはこういうものかと胸が熱くなったね。
──野球解説者として現役で活躍されていますが、今のプロ野球界をどう見ていますか?
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 僕に言わせると、「優勝チームに名捕手あり」というぐらいキャッチャーが重要だと思うけど、今は受難の時代だね。
少年野球の監督をやった時に知ったけど、子供たちは「キャッチャーはしんどい」と言ってやりたがらない。
プロ野球界を見ても名捕手と言えるキャッチャーは残念ながらいないなあ。
 野球は頭のスポーツ。
キャッチャーは守りにおける監督の分身だから、誰よりも敵を知り、己を知って、細部にも目を配ってプレーしなきゃならない。
ありとあらゆるデータを頭に入れて、考え抜く力がものすごく重要なんだけど、それをしっかりできている捕手は残念ながら見当たらないね。

──監督としてチームを率いる上では、どんなことを心掛けていたのでしょうか。
 僕の信条は、「理をもって動かす」。恐怖で動かそうとするのは大嫌いだね。
理論がないから、恐怖や暴力で選手を動かそうとする監督が出てくる。
理で動かすには、確固たる信念や理論を持つことだけでなく、それを伝える言葉を持っていることも重要。
現役を終えてから読書量をかなり増やして、言葉力を鍛えたことが、自分の野球理論をしっかりと選手に伝えるのに役立ったと思う。

──「もう一度監督としてグラウンドに立ちたい」という思いは?
 いやいや、それはもう無理ですわ。
日本の野球界は能力ではなく年齢で判断するしね。
それと人間関係。
80歳過ぎて、人間関係も下手で、というと厳しいね。
ただ、「野村-野球=ゼロ」。僕から野球を取ったら何も残らない。
解説でも何でも野球に関する仕事がある限り、それをやっていきたいと思う。
今の野球界、周りを見ても怖い人が誰もいないからね。
死ぬまで野球を見ながら、好き勝手に言いたいことを言い続けるんじゃないかな。
(聞き手:日経マネー 佐藤珠希)
[日経マネー2018年10月号の記事を再構成]


【平蔵の独り言】南海ホークス、鶴岡監督時代のキャッチー、監督、監督の解任
を巨人・近鉄ファンとして見てきて、
サッチーとの二人三脚の最近までの露出度、この記事で初めて知る。

野村家の家訓
1:ずっと働き続ける
2:「これぐらいでいい」は禁止
3:自分でできることは自分でやる
4:健康のために我慢しない

【独り言】
古稀になってまだ働いている。
仕事する事に感謝しながら、
色々と新しいこと(出来ない事が増える、病気に遭遇する)
付き合いながら、自分の足で動けなくなったら全てのバランスが崩れる。

「これぐらいでいい」ではなく、自分でできることは自分でやる
健康のために我慢しない

還暦・古稀を過ぎ早1年・・・・・喜寿に向かって



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by asanogawa-garou | 2018-10-10 15:05 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

樹木希林「70代になっても、何も変わらない。精神的成熟なんてないわね」(やったことがほんのわずかだもの。やり残したことばっかりでしょう。)   

2018年 09月 20日
樹木希林「70代になっても、何も変わらない。精神的成熟なんてないわね」(やったことがほんのわずかだもの。やり残したことばっかりでしょう。)

〔樹木希林〕年をとると人間が成熟するとは大間違い!
年をとると人間が成熟するとは大間違い。
不自由になった分だけ文句が出るの
自分をみているとよく解る(73才)

「あとは、楽しく面白がる!」

クローズアップ現代(樹木希林、〔人生にエール、直筆の手紙〕)

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①樹木希林「死をどう思うって? 死んだことないからわからないのよ」(前編)

●手土産、謝礼は不要

●いつ逝ってもいい準備

樹木希林「70代になっても、何も変わらない。精神的成熟なんてないわね」(中編)
●みっともなくても1位
●俯瞰でものを見る癖(俯瞰:ふかん(「広い視野で客観的に見る」)
2017.5.12 11:30AERA#シニア#終活

樹木希林「死をどう思うって? 死んだことないからわからないのよ」(前編)
2017.5.10 11:30AERA
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②樹木希林(きき・きりん)/1943年、東京都生まれ。61年、文学座に入り、テレビドラマ「寺内貫太郎一家」などで一躍人気者に。近年は映画に軸を移し「わが母の記」で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞。2008年、紫綬褒章、14年、旭日小綬章
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③「死ぬときぐらい好きにさせてよ」のコピーが社会的な反響を呼んだ、2016年の宝島社の企業広告。名画「オフィーリア」がモチーフ。朝日広告賞などを受賞(宝島社提供)

 いい言葉を聞いたことがない。
「少子高齢化」「福祉の縮小」「年金消滅」……。
私たちの老後は本当に真っ暗なのか。
このまま、ひたすら下流老人化を恐れる人生でいいのか。
どこかに突破口はあるはずだ。「年を取るのは怖いですか?」――
AERA5月15日号は老後の不安に向き合う現場を総力取材。
全身がんを告白した俳優の樹木希林さんに、死生観について聞いた。

*  *  *
 アエラの取材依頼に当初は丁重な断りの電話があった。
だが「こういう取材は今回きり」の条件で、樹木さんは「なんでも聞いていい」と重い扉を開いてくれた。

「老い」とか「死」とか、そういうテーマの取材依頼がたくさんきて、困っちゃうのよ。
何も話すことなんてないんだから。
「死をどう思いますか」なんて聞かれたって、死んだことないからわからないのよ。
ひとつ(取材を)受けるとキリがなくなるでしょ。
だから全部お断りしているんです。
映画の宣伝のときは仕方ないけど。

 私がこういう取材を受けるメリットはどこにあるの?
 あなた方のメリットはわかるの。
えっ、私の話で救われる人がいるって?
 それは依存症というものよ、あなた。
自分で考えてよ。

 死はいつか来るものではなく、いつでも来るものなの、私の場合。
全身がんですから。
だから仕事も先の約束はしない。
せいぜい1年以内。
仕事の交渉は留守電とファクスで全部自分でしている。
この間も「2年契約で」なんて話が来たんだけれど「とんでもない。よしてください」って言ったの。
「そのほうがおカネ的にもいいでしょう?」って先方は言うんだけれど、
「2年先(の命)なんて保証できない。
持たせようと思うほうが苦しいから勘弁してください」って言ったわ。

●手土産、謝礼は不要
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 ところがさ、以前聞いてびっくりした。
聖路加(国際病院)の日野原さんは10年先まで計画が入ってるっていうじゃない。
いま100歳過ぎていらっしゃるでしょ。
あなた、そういう方を取材したほうが絶対いいわよ。私なんかより。

「(取材にくるとき)手土産は絶対に持ってこないで」って言ったけれど、それも毎回必死よ。
「くれないで」って。
だってお菓子を持ってこられたら、包装紙を開いて、箱を開けて、それをまた畳んで資源ごみに出してって。
すごく手間じゃない。
私は自分が食べたいケーキがあったら買いに行って、「箱はいりません」ってティッシュに包んで帰るの。
映画会社が「ポスター、送ります」なんて言ってくることもあるけど、それも「送らないでください」って。
切ってメモ帳にするの大変でしょう。

 あ、それから今回の取材の謝礼もいらないから。
こう言っちゃ申し訳ないけれど、大した金額でないでしょう。
私は大家の収入があるから。ファクスがもったいないのよ。
A4の用紙にたった1行で、余白ばかりの通知が2枚送られてくる。
お宅の会社と銀行の2カ所から。「振り込みました」「振り込まれました」って。
紙とインクリボンを消耗するじゃない。
ときどきファクスを7枚も8枚も送ってくる人もいるけど、「すみません。今度送るときは表紙はいりませんから。A4、1枚にまとめてください」って言うの。
インクリボンをむだに使って、取り換えるのは億劫じゃない。

●いつ逝ってもいい準備

 病気をしてから、いつ逝ってもいいように、自分の周りを身軽にしておきたいという思いが強くなったのはあるわね。
朝はひとしきり掃除することから始まる。
ぐちゃぐちゃしているのを見るのが好きでないの。
でも、ものがなければ簡単よ。

 女優だけれど、靴は5足しか持っていない。
雨用の長靴と山登り用のスニーカー。
それに黒と茶と赤の革靴。化粧品もリップクリームだけ。

顔には何もつけない。
シャンプーもしないわね。
仕事で色々つけられてベタベタになったときは床屋さんに行く。
手早いから好きなのね。

 いま着ている上着の背中が縦に切れているのは太っちゃったから。
切ったの。端をまつろうと思ったけど、さっき人が来てできなかったのね。
服もボロボロになるまで着てお終いにする。

(構成/編集部・石田かおる)

※AERA 2017年5月15日号より抜粋

樹木希林「70代になっても、何も変わらない。精神的成熟なんてないわね」(中編)
2017.5.11 11:30AERA
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⑤*  *  *
「老い」への不安もなにも、私はもともと小さいときからキラキラした希望や期待のある子でなかった。
なにかを目指して頑張るというのもなかったわねぇ。
それに私は人と比較しないのよ。それを武器にしてきた。

●みっともなくても1位

 原点は小学校6年生のときの、学校の水泳大会ね。
一応泳げはしたけれど運動は得意でないの。
みんなはやれクロールだ、平泳ぎだって競技を選んでいくんだけれど、私には選ぶものがない。
それで「歩き競走」というのを見つけて出ることにしたわけ。

 当日、順番が来てみたら歩き競走に出場する6年生は私だけ。
あとは1年生や2年生ばかりだった。
小学校の6年生と1年生といったら体の大きさはうんと違うのよ。
「よーいどん」ってスタートしたら、あっという間にゴールした。
1等の賞品はノートと鉛筆と消しゴムだったかな。
2等はそれより少なくて、3等は1品だけだったと思う。

 競技が終わって教室に戻ったら、クロールで3等だった子に言われたわけ。
「あんたはただ歩いただけで1等のいい賞品をもらって。大変な思いをして泳いだ自分の賞品がそれより劣っているのは釈然としない」って。

 最初はみんな私をバカにしていたのよ。1年生に交じって歩き競走するなんてみっともないじゃない。
ところが、いざ賞品の段となると、私のほうがいいわけ。
これで私はきっと味をしめたんだね。
いいんだ、これでって。そのまま来ちゃったわね、私の人生。

●俯瞰でものを見る癖(俯瞰:ふかん(「広い視野で客観的に見る」)<br>

 良かったなぁと思うのは、親がマイナスの部分を持つ子を叱らなかったこと。
4、5歳のときに私は高い所から落ちて頭を打って、その日以来、小学校高学年までずっとおねしょしてた。
毎朝、学校に行く前に布団を干すのが日課だったのよ。
ふつうだったら親が怒ったりすると思うけど、食べることに精いっぱいで子どもに構っていられなかった。
おまけに父はゆったりした人で、私が学校を休んでも叱るどころか「学校を休んだのか。こっちおいでよ」なんて手招きするような人だった。
期待されないのが良かったわねぇ。
 でも、人間だれしも取りえってあるものね。
かけっこはいつもビリだったけれど、私にもひとつだけ得意な競技があったの。
障害物競走が得意なのよ。
足の速い人は先頭を走って、網にはまって四苦八苦するじゃない。
私は5番手、6番手でいって、ほかの人の隙間を見つけてすいすい抜けていくの。
そういうのはうまいのよ。

 ずるいんだねぇ。もし私が政治家だったら、牢屋に入ると思うわ。
賄賂で(笑)。
いま私のところに、おばあさんの役がいっぱいくるのも、同年代の女優さんたちが「私には、まだ早い」ってやりたがらないからなのよ。
実際、みなさん本当にきれいなの。40代の役でもやれると思うわ。
私は映画監督の西川美和さんに「希林さんは普通に年取ってますね」って言われたことがあるけれど、それは褒め言葉だと思っている。

(障害物競走のように)全体をぱっと見てつかむ、俯瞰でものを見る癖はふだんからついているわね。
それがないと役を演じられないのよ。
私は脇が多かったでしょう。主役はいいの。
話がずっと描かれているから。
でも脇は出番がぽこっとあって、その前後の人生が描かれていない。
だから自分の役の立ち位置を考えないと演じられないのよ。

 ドラマ「寺内貫太郎一家」でおばあさん役をやったのは31歳のときだったわね。
外見は老人を真似たけれど、心の中は30代のまま演じた。
実際に70代になってみてどうかっていうと、全く同じ。何も変わらない。精神的な成熟なんてないわね。
(構成/編集部・石田かおる)

※AERA 2017年5月15日号より抜粋

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⑥人生、フルーツ
【平蔵の独り言】年をとると人間が成熟するとは大間違い!
〔樹木希林〕年をとると人間が成熟するとは大間違い!
年をとると人間が成熟するとは大間違い。
不自由になった分だけ文句が出るの
自分をみているとよく解る(73才)

「あとは、楽しく面白がる!」

【独り言】
不自由になった分だけ文句が出るの
自分をみているとよく解る(73才)

言われてみれば、思うように動けなくなる。
気持ちだけ先走って、出来ない。
「あとは、楽しく」・・・・・

【平蔵の独り言】「70代になっても、何も変わらない。精神的成熟なんてないわね」

20160618(五木寛之) 「年を重ねるにつれて人間は賢くなるのか。」“否”
【年甲斐もない生き方】
〔人は年をとると丸くなる〕
人は年をとると丸くなる、という。本当にそうだろうか。
私には、どうもそうとは思えない。
むしろ逆なのではあるまいか。
加齢による成熟などというものはない、感じてきた。
今もそう思う。

【独り言】
還暦は遥か彼方!古稀も早やがて1年!
「70代になっても、何も変わらない。精神的成熟なんてないわね」
「年を重ねるにつれて人間は賢くなるのか。」“否”

ずーと、「いいのかな」思いながら寝る前の日記を埋めていく。
・樹木希林が旅立った日。
と日記に書いた。



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by asanogawa-garou | 2018-09-20 14:55 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔津川雅彦〕不器用は努力しないと器用になれない、その努力が魅力になる、と言ってくれました。   

2018年 08月 23日
〔津川雅彦〕不器用は努力しないと器用になれない、その努力が魅力になる、と言ってくれました。

〔公衆トイレで、掃除のおばちゃんに『こいつは嫌なヤツなんよ』って言われたことも。〕役者冥利に尽きますね

〔不器用は努力しないと器用になれない、その努力が魅力になる、と言ってくれました。〕

〔誰に対しても偉ぶらない姿勢こそ、大スターの証だった。〕


【「やたら偉ぶるモンをコテンパンにやっつけてた」】


「死はもう怖くない」津川雅彦が車椅子、鼻チューブ姿で語った覚悟〈週刊朝日〉8/8(水) 11:38配信 AERAdot.

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①死の2カ月半前に、本誌独占インタビューに応じた津川雅彦さん。
「死はもう怖くはありません」(撮影・加藤夏子)
 4日に心不全で亡くなっていた俳優の津川雅彦さん。そのわずか2か月半前、本誌の独占取材に応じ、体調が万全ではない中で、2時間近くに渡り、自分の人生について饒舌に語った。
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くき

② 津川さんへの取材が行われたのは5月中旬の都内。
俳優人生を振り返ってもらうインタビューだった。
その1か月前には妻で女優の朝丘雪路さん(享年82)を亡くしたばかり。
本人も体調不良のため、一度は取材を延期していた。

 この日の取材には車いすに乗って、鼻には酸素吸入のチューブをつけて登場。
声がかすれるためか、何度もコップの水を口にしながらも丁寧に質問に応じた。

 津川さんが自分の人生を語る上で、欠かせないのが俳優で兄の長門裕之さんの存在。
兄の演技力の高さは手放しで褒めた。

「天才ですね。兄がいなかったら、僕の人生はまったく違ったものになっていたでしょう」

 一方で、兄弟はいい意味でのライバルだったとも。

「世間からは、兄は芝居がうまいが、弟は顔がいいだけのド大根、ってののしられてね。しかし、まねしようのがない兄の個性ある役者っぷりがあったからこそ、僕も自分のやり方を探し続けることができた」

〔公衆トイレで、掃除のおばちゃんに『こいつは嫌なヤツなんよ』って言われたことも。〕役者冥利に尽きますね
 二枚目俳優からの脱却は、『必殺仕事人シリーズ』で敵役を演じたことがきっかけだと明かした。

「二枚目だと最初から最後まで変われないけど、悪いヤツってのは最初に好感を持たせておいて、後で裏切る。公衆トイレで、掃除のおばちゃんに『こいつは嫌なヤツなんよ』って言われたことも。役者冥利に尽きますね」

 脚本家のジェームス三木、映画監督の伊丹十三、作家の渡辺淳一など大御所にかわいがられて、映画「マルサの女」NHK大河ドラマ「葵 徳川三代」などの代表作を残した。


〔不器用は努力しないと器用になれない、その努力が魅力になる、と言ってくれました。〕

「僕は兄と違って不器用なんですが、新派の花柳章太郎先生が、不器用は努力しないと器用になれない、その努力が魅力になる、と言ってくれました。伊丹、渡辺、ジェームスの御三方は、そういう不器用な津川雅彦を気に入ってくれたのかもしれない」

俳優・津川雅彦を育てた3人のうち2人はすでに亡くなり、兄も他界。
60歳を過ぎたころから、死は遠いものではなくなったという。
最後に死生観について問われるとこう語った。

「死は自分の意思ではどうにもならない。今はもう、死は怖くはありません」

 俳優としての人生に未練はない、という感じの語り口だった。

〔誰に対しても偉ぶらない姿勢こそ、大スターの証だった。〕


 写真撮影のときは、俳優らしく、鼻からチューブを外してポーズを決め、目には輝きを取り戻した。だが、”らしさ”が最も表れたのは、去り際だった。
送迎の車に乗りこむと、わざわざ車の窓を開けて「今日はとても楽しかったです。ありがとうございました」

 と深々と頭を下げた。誰に対しても偉ぶらない姿勢こそ、大スターの証だった。(本誌・鎌田倫子)

※週刊朝日オンライン限定記事

【平蔵の独り言】
〔不器用は努力しないと器用になれない、その努力が魅力になる、と言ってくれました。〕

【独り言】
“努力”してきたかな!
団塊の世代は戦後の高度成長という流れに乗ってきたか?
古稀になって
“長くこの世におれば起こるのは悲しいことばかり”(殺陣師上野隆三81歳)
目に留まるのは先人の生きてきた足跡・・・・・


【「やたら偉ぶるモンをコテンパンにやっつけてた」】

泉谷しげる、亡くなった津川雅彦さんを「やたら偉ぶるモンをコテンパンにやっつけてた」
スポーツ報知 8/8(水) 11:40配信
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④泉谷しげる、亡くなった津川雅彦さんを「やたら偉ぶるモンをコテンパンにやっつけてた」

 歌手で俳優の泉谷しげる(70)が8日、自身のブログを更新し、4日に心不全のため78歳で亡くなった俳優の津川雅彦(本名・加藤雅彦)さんを偲んだ。

 泉谷は「津川氏逝く」と題したブログで「津川雅彦さんが逝去した 5月のオイラの誕生日に高価なプレゼントが郵送されてきたので~すぐさま御礼のメールを出したが、返信は無かった いつもなら直ぐ様メールやら電話やらで返事してくれる津川センパイであっただけに、この時はサスガに何かあったなと思ったな…」と振り返った。

 俳優、映画監督と多才だった津川さんを「映画好きのオイラは津川センパイの本格的デビュー作『狂った果実』(1956)が大好きで~当時、フランスのヌーベルバーグ映画に影響あたえたと云われる此の映画の格好良さと云ったら!今だに(DVDだが)観るからねぇ 映画監督としても腕前ありで、祖父の姓を冠に「マキノ雅彦」名義で初監督した『寝ずの番』(2006)は見事な出来ばえ!さすが日本の娯楽映画のスタイルを創りあげたマキノ一家に生まれた者だけあって、映画づくりが本当にウマかった!」と絶賛した。

〔「役者ごときエラソーになったらオシマイだぁな」が口グセだった津川センパイ、〕やたら偉ぶるモンをコテンパンにやっつけてたっけ
 さらに「津川センパイに食事を誘われるたび~オイラは津川雅彦…あいやマキノ雅彦監督の次回作に出演したいと云ってたもんさ あの時代を生きた映画放蕩遊び人は「宵越しの金を持たない」とばかり散財して来てるが「役者ごときエラソーになったらオシマイだぁな」が口グセだった津川センパイ、やたら偉ぶるモンをコテンパンにやっつけてたっけ 博学で歴史を語り出したら止まらないが、話っぷりが面白く実にチャーミングでオシャレな津川雅彦だったのだ 今どきは78はまだ若いと思うンだけどなセンパイもう“遊び”に誘われなくなるのが寂しい限り 心よりの哀悼を」と悼んでいた。

【平蔵の独り言】
歌手で俳優の泉谷しげる(70)と津川雅彦、結びつかなかったが
そうか、泉谷しげるも古稀なんだ!
枠からはみ出して人生を歩いて来ているようだけど、
泉谷しげるは向田邦子に映画出演を誘われて出演している。
いい先人を亡くした。


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by asanogawa-garou | 2018-08-23 14:45 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

“健康長寿の秘訣”「付き合いを悪くする」「悩まない」「肉を食う」   

2018年 08月 09日

“健康長寿の秘訣”「付き合いを悪くする」「悩まない」「肉を食う」
「「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」という故岸信介元内閣総理大臣の養生訓」 〔3ヶ条〕l、plー。

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「長生きのコツは?」付き合いを悪くする、悩まない、肉を食う(101歳まで生きるための三つの訓え)「やんちゃ老人」
田原総一朗 ジャーナリスト


(101歳まで生きるための三つの訓え)

■ 付き合いを悪くする、悩まない、肉を食う

〔支援者をたくさん持つ〕
■自分で解決しようとせず、人に委ねる
〔脳天気になること〕気に病んでいると、治る病気も治らない。

「長生きのコツは?」と僕は会員たちに聞いた。
すると、3つの答えが返ってきた。
ひとつめは、つきあいを悪くすること。
つきあいがよいと、パーティや飲み会についつい毎晩顔を出して疲れてしまうというのだ。
ふたつめは、悩まないこと。悩んでも物事は解決しない。
3つめは、肉を食うこと。

2014年09月14日 15時13分 JST | 更新 2014年11月13日 19時12分 JST
先日『80歳を過ぎても徹夜で議論できるワケ』という本を上梓した。
80歳を過ぎてどうして1日平均7件ほどの仕事のアポをこなせるのか、徹夜で議論できる気力が保てるのかについて書いた本である。
若い世代と議論をする、恋心を持つなど「やんちゃ老人」としての生き方や、普段行っている健康法などを紹介している。
今回は「敬老の日」にあわせた寄稿ということで、本書の中から、かつて「三世紀会」というのを取材したときに聞いた、100歳を超えて生きるためのコツを紹介してみたい。
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(101歳まで生きるための三つの訓え)


■ 付き合いを悪くする、悩まない、肉を食う

三世紀会は、101歳以上まで元気に生きることを目指した会である。
1900年までに生まれた人が2001年まで生きれば、19世紀、20世紀、21世紀の三つの世紀を生きることになることに由来する。
会長は岸信介。1896年生まれの岸をはじめ、新日本製鐵会長や日本商工会議所会頭を務めた永野重雄、元朝日新聞編集局長で政治評論家の細川隆元ら1900年までに生まれた政治家や財界人、言論人らが集まっていた。
彼らに聞いた健康長寿の秘訣が、下記の三つである。


〔付き合いを悪くする〕

一つは、付き合いを悪くすること。
パーティーへの出席などはほどほどにし、あまり頻繁に飲み会につきあったりはしないということだ。


〔悩まない〕

二つ目は、悩まないこと。発言したり行動したりする時はもちろん真剣に取り組むけれども、その場を離れたら全部忘れて悩まないということだ。
確かに、悩んでも物事は解決しない。
健康法についても、「健康に執着して毎日、青竹踏みをしたりしている人は案外、早く死ぬ」と言われた。
要するに、気を使いすぎる人は長生きできないということだろう。


〔肉を食う〕

三つ目は、年を取ったら肉を食うこと。
三世紀会のメンバーではないが、先日88歳になった元政治家の野中広務に会ったら、確かに肉をムシャムシャ食べていた。
私は肉が好きでないので、第三の訓えだけは守れないが、第一と第二の訓えは自分でも実行してきた。
政治家や財界人のパーティーにはあまり出ないし、酒はもともと飲まない。それから、二番目の悩まないという訓えも実行している。
だから、悩みがあって夜眠れないということはめったにない。

〔支援者をたくさん持つ〕
■自分で解決しようとせず、人に委ねる
そして三つの中でも、「悩まない」ということがもっとも大事だと思っている。
ストレスをストレスと感じず、ずうずうしいと思われるほどに悩まない。
複雑で解決困難な問題にぶつかっても、それを面白がるぐらいでないといけないということなのだ。

〔脳天気になること〕気に病んでいると、治る病気も治らない。
私の言葉で言えば、脳天気になることが長生きの秘訣で言えるだろう。
気に病んでいると、治る病気も治らない。
だから、悩まないこと、脳天気になることが健康にとっていいことだというのが私の持論である。
そのためにも何か起こったときに、自分で解決しようとしない。
そしてそれは信頼できるパートナーに任せることと同義だと思う。
私の場合、体が反乱を起こしても、自分で悩まないし、自分で頑張ろうとしない。
お世話になっている小林弘幸先生や東洋医学の先生に診てもらい、助言を仰いで、それを実践するのみである。
だから、信頼でき、何でも相談できる主治医を持つことは重要なことだと言えるだろう。
また、「老いては子に従え」という格言があるが、80歳になって娘の言うことを素直に聞くようになった。
自分で頑張らず、娘に任せている。2014年6月にも、娘のアドバイスを大人しく聞いて、病院に5日間の入院をした。
手術や治療といった目的があるわけではなく、体調を整えるためだ。
一番身近にいて、いろいろとサポートしてくれる家族の意見は、当然ながら素直に聞くべきであり、聞いた方がおそらく健康にもよいに違いない。


2017/6/7

「「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」という故岸信介元内閣総理大臣の養生訓」 〔3ヶ条〕


〔岸信介〕岸信介元首相の長生きの秘訣・転ぶな、風邪引くな、義理を欠け・・・
安倍首相のお爺さんである、岸信介元首相は90歳の長寿を全うされ
たことでも知られています。

そんな岸本元首相がある席で、長生きの秘訣について言った言葉が、

“転ぶな、風邪引くな、義理を欠け、”だったそうです。

義理を欠けと言っても、岸元首相は義理堅い人だったと言われています。
義理で付き合うと無茶なことをしてしまうことがあるから気をつけろ、ってなことだったのかな、と思います。
酒の席とかね、無理に勧められても困りますもんね。

転ぶな、風邪引くな、というのは、常日頃から行動や健康には気をつけろ、みたいなことだったんじゃないでしょうか。


これって、健康を考えることにもつながると思いますよ。

暴飲暴食をしないようにして、常日頃から食生活に気を付け、適度な
運動をして、健康的に過ごし、あれこれ考えすぎないでストレスを貯めない生活が、結局は長生きにつながるよ、ということなんだろうと思います。

それと、気をつけて生きてさえいれば、そのうちに何かいいことがある。
だから長生きはするもんだよ。という意味もあったのかなあ、と言う気がします。

今まで不摂生してこられた方でも、今から頑張って長生きしましょう。
必ずやいいことが待ってると思いますよ。

【平蔵の独り言】付き合いを悪くする〔支援者をたくさん持つ〕

「長生きのコツは?」付き合いを悪くする、悩まない、肉を食う
〔支援者をたくさん持つ〕
■自分で解決しようとせず、人に委ねる
そして三つの中でも、「悩まない」ということがもっとも大事だと思っている。
ストレスをストレスと感じず、ずうずうしいと思われるほどに悩まない。
複雑で解決困難な問題にぶつかっても、それを面白がるぐらいでないといけないということなのだ。

〔脳天気になること〕気に病んでいると、治る病気も治らない。
私の言葉で言えば、脳天気になることが長生きの秘訣で言えるだろう。
気に病んでいると、治る病気も治らない。
だから、悩まないこと、脳天気になることが健康にとっていいことだというのが私の持論である。
■自分で解決しようとせず、人に委ねる
〔脳天気になること〕気に病んでいると、治る病気も治らない。

【独り言】
付き合いを悪くする〔支援者をたくさん持つ〕:矛盾しているが、付き合いは悪く、支援者をたくさん 
古稀になって必然的に付き合いを悪く、支援者は自身から広げて・・・・・


自身で注意している事:転ぶな!、付き合いを悪くする!肉を食う!

段々できることが少なって来ているから:支援者をたくさん持つ!

転ぶな:転んだときのダメージが大きいから、医者に注意されて20年

付き合いを悪くする:以前は乾杯のビール一杯は付き合ったが、不参加になった!

肉を食う:週一でステーキを好みの焼き加減で!

悩まない:これが古稀になっても変わらない。
     悩んで、やがて明け方、いつの間にか寝ている・・・・・


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by asanogawa-garou | 2018-08-09 16:35 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔江夏の21球〕衣笠祥雄さんなくして「江夏の21球」はあり得なかった。「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」(西本幸雄と江夏の21球。~悲運の名将を偲んで~)   

2018年 05月 10日
〔江夏の21球〕衣笠祥雄さんなくして「江夏の21球」はあり得なかった。「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」(西本幸雄と江夏の21球。~悲運の名将を偲んで~)

「江夏の21球」衣笠さんの言葉で難逃れ名場面生む
日刊スポーツ 4/25(水) 7:58配信

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①79年11月、日本シリーズ近鉄戦の9回裏1死満塁、石渡のスクイズを外し、三塁走者藤瀬を三本間で挟殺しピンチを脱した江夏(右)と衣笠さん
 プロ野球広島の内野手で、国民栄誉賞を受賞した衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)氏が、23日夜に上行結腸がんのため東京都内で死去したことが24日、分かった。71歳だった。

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②1987年6月13日、世界記録となる2131試合連続出場を達成し、花輪を手に観客の祝福に応える衣笠祥雄さん

〔「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」。〕
 78年に広島に移籍し、衣笠氏との親交が始まった。「それまではライバルだったから。こんなバッターに打たれるか! と思ってた。同じ関西出身でライバル意識もあったしね。でも、なぜか最初からウマが合ったというか。あの頃のカープは個性派が多かった。そういう意味ではやりやすかった。でもこんなに早く逝くとは…」。

 2人の関係を代表するのが、語り草になっている「江夏の21球」だ。広島が初の日本一に輝いた79年、近鉄との日本シリーズ第7戦。
広島1点リードの9回裏、クローザーだった江夏氏は無死満塁の危機を迎えた。
広島ベンチは延長に備え、ブルペンに投手に準備をさせた。
これを見た江夏氏が「この野郎! 何でオレの後に投手をつくるんだ!」と冷静さを失った。
ここでマウンドに歩み寄ったのが一塁を守っていた衣笠氏だった。

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③衣笠氏が一塁から歩み寄った
 1点リードの9回無死満塁。
ベンチがリリーフの準備を始めたことに心をかき乱されていたが、その心情を察した衣笠氏が一塁から歩み寄った。
「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」。
一緒にユニホームを脱ぐほどの覚悟を示す熱い言葉に、集中力を取り戻したという。
 今でも孤高の左腕が「3日に一度は話しする」ほど心を許す数少ない親友。
思い出されるのは、衣笠氏の強さ、不器用さ、優しさだ。
「ブキッチョな男だから。あのスイングを見たら分かると思うけど、常にフルスイング。野球に対してフルスイング。骨折していても、3つ振って帰って来る男だから。あの姿がアイツの野球人生を物語っているよね」と涙ぐんだ。
 衣笠氏がテレビ中継で解説した19日のDeNA・巨人戦(横浜)もチェックし、翌日すぐに電話をかけた。
「声も出ていないんだから。1、2年たっても(世間から)絶対忘れられないんだから無理するなよって…」。
松山の試合の雨天中止が決まると、東京へ。夜8時過ぎ、都内の通夜会場で亡き友と悲しみの再会となった。(島尾 浩一郎)

 ◆江夏の21球 1979年11月4日の日本シリーズ第7戦の近鉄・広島戦(大阪)。
4―3と1点リードの広島は9回裏、守護神・江夏が安打と2四球で無死満塁のピンチを迎える。
代打・佐々木から三振を奪った後、石渡のスクイズをバッテリーが外して三塁走者がタッチアウト。
2死二、三塁となって、最後は石渡を空振り三振に抑えた。
絶体絶命のピンチをしのいで広島に初の日本一をもたらし、球史に残る21球の力投と言われる。

 「お前がやめるならオレもやめてやる」。
そう声をかけられた江夏氏は「生え抜きのサチが…」と感激。これで落ち着きを取り戻し、カーブの握りのままスクイズを外す投球を見せ、名場面を生んだ。
「あの苦しい場面で自分の気持ちを理解してくれるやつが1人いたんだということがうれしかった。あいつがいてくれたおかげで難を逃れた」。のちにそう話している。

 ため息を繰り返した江夏氏は自身に納得させるように「いいヤツを友人に持った。
俺の宝物だ。ワシもすぐ追いかけるんだから。次の世界でまた一緒に野球談議をするよ。それが楽しみだ」と話していた。【高原寿夫】

2018年4月25日6時0分 スポーツ報知

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④1979年11月4日、日本シリーズ第7戦で近鉄を破り、日本一を決め喜ぶ衣笠さん(左)、江夏(右から2人目)ら広島ナイン

伝説の「江夏の21球」は衣笠氏の一言から 怒りの江夏に「俺も一緒に辞めてやる」

また一人…“鉄の意志”を貫いた男が逝く…。
 2215試合連続出場というまぶしいほどに野球を愛した衣笠祥雄さんが旅立ってしまった。
 この日、テレビ解説のために空路、松山空港に降り立った江夏豊氏は親友の訃報に接して…すぐ東京にUターンしたそうである。

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⑤1979年、伝説の「江夏の21球」。江夏(左)の粘投の裏には衣笠氏の優しさがあった
 衣笠祥雄といえば、どうしても『江夏の21球』のプロ野球日本シリーズに残る不滅の名シーンが忘れられない。
 1979(昭和54)年11月4日、大阪球場。
『広島-近鉄』のシリーズは最終戦を迎えた。
筆者はこのシリーズは『近鉄監督西本幸雄』の日本一への戦いを追っていた。
4-3と広島が1点リードして最終回…江夏が大ピンチに立つ。
無死満塁とアノ豪気の江夏が追い詰められた。
 この時、筆者は大阪球場記者席のバッテリーの真後ろ、記者席の最前列に黒江透修氏(当時巨人)と並んで至近距離からその21球の人間ドラマをみつめることになった。

 江夏が、猛牛打線の前に「無死満塁」という状況に追い詰められた。なにしろ当時は一世を風靡した“西本打法”の西本監督が手塩にかけた打者たちがグルリと江夏を取り囲み、絶体絶命なのだ。
しかも打席には強打者佐々木恭介が立つ。
 と、この時、広島ベンチ古葉監督は北別府と池谷の2枚看板をブルペンに走らせた。
いうならば“次善の策”で当然の準備なのだが、みるみるマウンドの江夏豊の顔が明らかに“怒気”を含んで自軍のベンチ(三塁側)の監督古葉をニラミつけている。
そんなに俺が信用できんのかッ…。
 無死満塁にしてしまったのは江夏なのだ。
 しかし…赤ヘルのリーグ優勝をもたらしたのも江夏豊なのだ。
そのリーグV決定の試合を広島市民球場の放送席で解説していた阪神元監督村山実はハラハラと落涙する。
「俺は江夏を優勝させてやれなかった…」と。
 だが…最終戦の最終回の江夏の怒りは尋常ではなかった。
と、そこにスッと一塁手の衣笠祥雄が江夏に近づいてきて、ゾクリとこう言った。
 「おい、ベンチをみるな!(おまえが野球を)辞めるなら、俺も一緒に辞めてやる…」
 このひと言で江夏はハッとわれにかえった。
いまやるべきことは“何か”を悟った。その言葉に救われた。
 そして球史に残る『江夏の21球』は広島に日本一をもたらした。
 気がつくといつの間にか大阪球場に降り注ぐ“秋雨”は悲運の将・西本幸雄の肩を情け容赦なく濡らしていた…。
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⑥ もちろんルーゲーリッグ(ヤンキース)の世界記録を更新する連続出場達成への数々の金字塔と努力と汗…何よりも人間くさく挑み続けた結果、衣笠祥雄は「国民栄誉賞」にも輝いた…。
 数々の栄光…だけど、筆者は39年前のヤケドしそうな場面で衣笠祥雄が江夏豊にかけたその言葉の奥に、彼の持つ“やさしさと温かさ”、何よりも「人の心がわかる…」という、それでいて71年間、彼が背負ってきた彼自身の有為転変の痛みをも感じて…ただ感謝するのみである。

【江夏の21球!伝説的に語り継がれるピッチングは何がすごい?】
•2015.08.21

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⑦『江夏の21球』
キャッチフレーズから興味をそそられるこの言葉を聞いた事があるでしょうか?
プロ野球ファンの間では有名なエピソードですが、そこまで耳にする話ではありません。
知らない人も多いと思うので簡単に解説したいと思います。
〔江夏の21球〕
エピソードの主役はタイトルの通り広島東洋カープ『江夏豊』
主に阪神で長く活躍した選手でカープ在籍期間は3シーズンです。
しかし、赤ヘル黄金時代に欠かせない活躍を披露し『優勝請負人』と呼ばれカープの優勝にも大きく貢献しています。
エピソードの舞台は1979年の近鉄バファローズとの日本シリーズ最終戦。
勝った方が日本一の大一番は4対3でカープがリードする展開でした。
7回途中からリリーフで登板した江夏豊は7回と8回を無失点で抑え1点リードのまま9回のマウンドに上がります。
ここからが『江夏の21球』と呼ばれる投球内容です!
9回。先頭打者にヒットを許した江夏。
代走者にすかさず盗塁を決められ・・その後も塁を埋めてしまいノーアウト満塁のピンチを背負ってしまいます。
しかし、ここから圧巻のピッチングと投球術を披露します。
代打の佐々木恭介と相対し、カウント2-2からカーブで三振に打ち取り難なく1アウト。
ピンチは続き1アウト満塁。
打者、石渡茂に対し2球目(9回19球目)に近鉄が勝負に出ます。
同点にするべくスクイズを仕掛けてきたのでした。
この時、目の端でランナーが走ったことに気付いた江夏はカーブの握りを抜き、スクイズを外します。
3塁走者をタッチアウトし日本一まであと一人としました。
2アウト2,3塁。
スクイズを失敗した打者はもちろん打ってきます!
20球目をファウルされますが21球目のカーブで空振り三振でゲームセット。
見事に初の日本一に輝きます。
9回に投じられた21球が『江夏の21球』と言われています。
9回ノーアウト満塁から抑えただけでもすごいですが、『江夏の21球』は日本シリーズ最終戦でカープ初の日本一がかかった場面でのスクイズ外し、というドラマティックな展開で現在まで語り継がれています。
スクイズを外した場面はいろいろな意見もあるみたいです。
江夏はとっさに外したと言い。
古葉監督は練習していたと言い。
カーブの握りで外すのは不可能で、すっぽ抜けただけだという意見もあるみたいです。
あの場面で外すことができるのは一流の証ですかね?
実際に『江夏の21球』の何がすごいのか分からない人も多いらしいです。
あなたはどう思いましたか?
こういう意見が出てくることがすでに伝説なのかもしれません。


【西本幸雄と江夏の21球。~悲運の名将を偲んで~ 】

Sports Graphic Number 2011/12/09 06:00
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⑧1979年11月4日の日本シリーズ第7戦、広島vs.近鉄。
今もなお語り継がれる伝説の名勝負の最中、闘将と呼ばれた男の脳裏には、20年近くも前のある出来事の記憶が蘇っていた。
弱小チームを類まれな指導力で鍛え上げ、8度のリーグ優勝を果たしながら、ついに頂点へ到達できなかった指揮官の知られざる実像に迫る。

――2011年11月25日、“悲運の名将”と言われたひとりの野球人が不帰の客となった。西本幸雄、享年91歳。その通夜は、山田久志、福本豊、梨田昌孝ら教え子で、名選手や名指導者となった数多くの野球人たちが見送る盛大なものとなった。

2005年5月、創刊25周年記念となるナンバー626号で発表された傑作長編『西本幸雄と江夏の21球』を、故人を偲び、ここに再び掲載する。
「あの時、スクイズのサインを出したことに後悔はないよ」
 近鉄バファローズの監督だった西本幸雄は、85歳となった今、そう考えている。

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⑨2001年の日本シリーズ。ヤクルトスワローズvs.近鉄バファローズの試合で始球式にのぞんだ81歳の西本氏
 もちろん、後悔しても、過去の歴史を取り戻すことはできない。
野球は、グラウンドで行われたプレーだけが、歴史的事実として記録されるスポーツである。
むしろ、四半世紀の歳月を経て、すでにユニフォームを脱いでしまった現在、どんな過去も穏やかに振り返ることができるということかもしれない。
「ただ、スクイズという戦法が、ウチの打ちまくる野球と違っていたのは確かやな」
 西本は、そうも言った。
「パ・リーグのお荷物」とバカにされ続けた弱小チームを、6年かけてリーグ一の打撃のチームに育てあげたという自負が、西本にはあった。
頭の中では「ストライクは、三つともバットを振れ」と思っている。
「外野フライで同点や」。そうも思っている。
 しかし、次の瞬間、西本の左手が動く。
当時、サインはベンチから三塁コーチャーを経て選手に伝えられた。
西本の利き手である左手が、右肩に触る。
それが、1979年の日本シリーズの命運を決するスクイズのサインであった。
1979年、広島vs.近鉄の日本シリーズ最終戦。『江夏の21球』の舞台。
 '79年の広島―近鉄の日本シリーズは、3勝3敗で最終戦までもつれこんでいた。第7戦の舞台は、大阪球場である。
スコアは3-4。わずか1点を追って近鉄の最後の攻撃が始まっている。
 時折、冷たい雨が落ちてくる。
試合開始から、すでに3時間半近くが経過していた。
11月4日の午後4時半ともなれば、雨が濡らす黒土のグラウンドは冷え込んだ。西本は背番号「68」のユニフォームの下にウインドブレーカーを着込んで、一塁側のベンチ中央に座っていた。当時59歳である。
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⑩1967年に阪急ブレーブスを率いてチーム初のリーグ優勝を果たす(当時47歳)。その後、7年間で5度のリーグ優勝を記録した
 右のバッターボックスに、石渡茂が入った。
 ワンアウトながら、ベースは全て埋まっている。
三塁ランナーの藤瀬史朗がホームへ帰ってくれば同点。
二塁にいる吹石徳一まで生還すれば、「サヨナラ日本一」という劇的な幕切れになる。
石渡の一振りで、西本を日本一の監督にすることもできた。
「バッターボックスに入る前、監督に『サインをよう見とけ』と言われたんです。だから、スクイズのサインが出るかもしれないと思いました。
でも、僕は打ってやろうと思っていたんです。
スクイズのサインが出るまではストレート狙いで、『初球から行くぜ』と思っていました」
 石渡は、そう振り返った。
 マウンド上には、広島のリリーフエース江夏豊がいた。
「南海時代の江夏さんとは、何度も対戦していました。当時は変化球が多くて、ストレートは速くないという印象だったんです。ところが、この日本シリーズでは、球が速くなってストレートが増えていた。そのストレートを狙ってやろうと思ったんです」
 江夏のセットポジションは、突き出たお腹の上にボールがセットされる。
そのお腹をどっこらしょと持ち上げて投げ込んだのは、インコース高めのカーブだった。
石渡は、わずかにしゃがむようにしながら見送った。
「僕は、ストレートにヤマを張って、そこへ変化球が来ると対応できるタイプじゃなかった。カーブだか、フォークだかが来たので、見送るしかなかったんです」
 アンパイアの右手が、さっと上がった。
全国でスコアを記入しながら観戦している野球ファンが、ストライクを示す「○」を一つ記入する。
誰もがフッと息をつくような場面だが、その「○」が記されるわずかな間にピッチャーと監督の胸の内は急展開を見せていた。
江夏はスクイズを予感し、西本はスクイズしかないと確信した。
 マウンド上の江夏は、石渡が打ち気なく見送ったことで、初球はウェイティングのサインが出ていたに違いないと誤解した。そして、2球目に仕掛けてくるはず、それはスクイズしかありえないと考えた。
 さらに、石渡の打ち気のない見送り方は、西本の思いも急変させる。
西本は、とっさに「石渡では、江夏を打てないのではないか」と思った。
これも、西本の誤解だったかもしれない。
しかし、ストライクをあっさりと見送った石渡を見て、西本はスクイズしかないと思う。
「石渡の前に、ノーアウト満塁で佐々木(恭介)を代打に送ったけど三振やった。それも大きかったよ。江夏と石渡。
この二人を考えたら、ピッチャーの方が上かもしれん。
それなら、バットを振るより、待って当てる方がバットに当たる確率が高いと考えたわけや」

「打ち勝つ野球」より「確率の野球」にかけた西本。
 大詰めの段階で「打ち勝つ野球」より「確率の野球」を選択する。
 そして、西本は、三塁コーチャーの仰木彬へスクイズのサインを送った。
当時、二人の間のサインは、1、4、7回は右手が左腕に触った時、2、5、8回は左手で顔や胸やお腹を触った時、そして、3、6、9回は左手が右腕に触った時が本当のサインと決められていた。
さらに、両脚が閉じているか、開いているかでもサインは変わったし、「取り消し」のサインなども加えて相手から盗まれないよう巧妙にカムフラージュしてあった。
 この場面では、西本の左手が右肩に触れた。
「9回」なので左の手で右腕に触る。
その右腕の中でも右肩に触れたことが「スクイズ」を示していた。
スクイズのサインは、三塁コーチャーを経由して選手に伝えられる。
 石渡は、三塁コーチャーズボックスの仰木を見た。
「『出たな』と思いました。意外に冷静でしたよ。相手に悟られないように、そんなに早くバットを出さないで確実に当てる。三塁ランナーは足の速い藤瀬だから、しっかり転がせば同点になると、段取りを頭の中でイメージしていました」

 江夏は、スクイズがあるかもしれないと思いながら第2球のモーションを起こす。三塁ランナーがスタートを切り、バッターがスクイズの構えに入った。
ランナーの藤瀬が挟殺プレーでアウトになり近鉄の敗戦が濃厚に。
 勝ったのは、江夏だった。
 三塁ランナーのスタートが、わずかに早かった。
キャッチャーの水沼四郎が立ち上がる。江夏は、とっさの判断でアウトコース高めに外した。
握りはカーブだった。ボールは微妙に変化し、突き出した石渡のバットはむなしく空を切った。

「あのボールは、江夏さんが本当に外したんですか? 外そうと思ったらカーブなんて投げます? 僕は、今でも単なるカーブのスッポ抜けと思ってます。そして、決してバットの届かないボールじゃなかった。それなのに伸び上がるようにしてバットを出してしまった。いわゆる迎えに行っちゃった。その辺は、僕の方が冷静でなかったんです」
 石渡が「シマッタ」と思った時、三塁ランナーの藤瀬はホームベースの手前まで走り込んでいる。挟殺プレーでタッチアウト、ツーアウトとなった。この瞬間に、近鉄の敗戦が決まったようなものだった。

「もう頭が真っ白でしたよ。気持ちをとり直そうと思っても、なかなか……。まだ試合は終わってないので『打ってやろう』とは思うんですけど、ツーストライクと追い込まれたから、どんなボールでも打たなきゃいけないじゃないですか。その時点で負けですよ」
 グラウンドでは、とりあえず野球のルールに則って、ツーアウトでランナー二、三塁、石渡のボールカウント、ツーナッシングからプレーが再開される。
 近鉄ベンチの西本の顔は、青ざめている。
しかし、江夏の顔つきには、何の変化もなかった。
セットポジションから江夏が投げた3球目は、インサイド低めのストレートだった。石渡が、辛うじてバットに当ててファウル。
早いテンポで、江夏が4球目を投げる。
インサイド低め、打者のヒザ元に沈むカーブだった。
石渡のバットが空を切り、鋭く曲がり落ちたボールがキャッチャーミットに吸い込まれた。
 西本が、ベンチに座ったままうなだれている。
マウンド上では天に向かって、江夏が両腕を突き上げていた。
西本の脳裏によぎったのは、1960年の日本シリーズの出来事だった。
 このシーンは、今でも語り継がれる日本シリーズの名場面である。
また、山際淳司さんが、「ナンバー」の創刊号を飾った名作『江夏の21球』で、選手たちの心理状態を生々しく描いたことでも広く知られている。
その息詰まる攻防の中、近鉄ベンチの西本の脳裏には、かつての苦い体験が鮮明によみがえっていた。
「石渡にスクイズさせようかと思った時や。1秒もない、わずかな間のことやった」
 西本は、そう言った。
 鮮明によみがえったのは、そこから時をさかのぼること19年、'60年の日本シリーズでの出来事だった。
当時、40歳の1年生監督だった西本は、やはり、ワンアウト満塁でスクイズという作戦を失敗していた。
20年近い歳月を経て、石渡にスクイズのサインを出す直前にそのシーンがフラッシュバックしたというのだ。
スクイズが失敗し、大毎オリオンズの監督は解任された。
 '60年の日本シリーズは、西本が率いる大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)と大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)との間で争われた。川崎球場での第2戦、スコアは2-3だった。1点を追う大毎は、8回表、ワンアウト満塁と一打逆転のチャンスをつかむ。そこで右バッターボックスに入ったのが、5番に起用されていた谷本稔である。マウンドにいたのは、2戦連続の登板となる大洋のエース秋山登だった。
 第1球は、一塁寄りネット裏へのファウルボールになった。
ヒッティングである。
しかし、次の2球目、西本は作戦を急きょスクイズへと変更する。
「僕は、バットには確実に当てたんよ」とバッターの谷本は振り返る。
「『上手くいった』と思ったよ。
ところが、ピッチャーの秋山がサイドスローで、ボールが浮き上がってきたからなのか、バントしたボールにバックスピンがかかっていた。
それで地面に落ちた後、ボールが戻ってきたんよ。
一塁へ走り出して、もう1歩目か2歩目にはホームの方へ戻ってくるのが見えたから」
 そのボールをキャッチャーの土井淳がつかんでホームを踏み、一塁へ転送。ワンアウト満塁という絶好のチャンスは、一瞬にしてついえてしまった。
試合は、そのまま大きな動きもなく終わり、初戦に続いて大毎は連敗する。
「この谷本のスクイズ失敗っちゅうのは、どこの監督しとっても、オレの頭の芯にこびりついとるね」
 西本の告白である。
「だって、スクイズ失敗して、それからオーナーと喧嘩やもん。で、監督をクビやろ。オレの野球人生の中でも大事件やぞ」

【平蔵の独り言】
衣笠祥雄さんなくして「江夏の21球」はあり得なかった。
「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」
(西本幸雄と江夏の21球。~悲運の名将を偲んで~)

衣笠祥雄さんと「江夏の21球」

というよりは近鉄バファローズ ファンとして小学校4年からパ弱小球団のドラマ見て、唯一日本一になるチャンスだった西本監督、バファローズと「江夏の21球」スクイズは外されたことは忘れる事ができない!

【独り言】
星野仙一で昭和49年の長嶋引退試合
そして今度は衣笠祥雄で「江夏の21球」

西本幸雄さん、三塁コーチは仰木彬さん

いい時代だった!


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by asanogawa-garou | 2018-05-10 14:59 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔小林昭子(83)徹子の部屋〕「きょうよう」(教養)と「きょういく」(教育)が歳をとったら必要だ。   

2018年 04月 18日
〔小林昭子(83)徹子の部屋〕「きょうよう」(教養)と「きょういく」(教育)が歳をとったら必要だ。


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①徹子の部屋 美容研究家・小林照子(83歳)「教養と教育」(きょう 用がある。きょう 行くところがある。) 2018/3/28

〔教養〕と〔教育〕歳を取ったら必要だ!
〔教養〕今日 用がある
〔教育〕今日 行くところがある


【『100歳になっても脳を元気に動かす習慣術』 『頭の体操』心理学者の多湖輝(著)】
【朝日新聞「天声人語」  2013年7月14日(日)】
〔多湖輝さんがNHKラジオ深夜便の早朝時間帯で80歳を過ぎたことば〕
【サラリーマン 「定年ホームレス」】(夫源病「わしもわしも」の「わしも族」)
〔■夫源病の恐怖、家も居場所なし〕
〔では、退職後に居場所がない「定年ホームレス」はどこにいるのか。〕
〔■自覚なきナルシストたち〕



〔小林昭子(83)徹子の部屋〕「きょうよう」(教養)と「きょういく」(教育)が歳をとったら必要だ。
〔(前向き)な言葉を言うのが大切〕疲れることがあったとして口にしない。(楽しいことをしたら、疲れない)
〔(マイナス)な言葉は口にしない〕マイナスを口にしたら実現してきてきちゃう。ブーメランのように自分。
・嫉妬しない、もう歳出し、私なんて(自分を卑下しない、その途端に人は老けていく)
(それを書いちゃう、書くことと口にするが大事!)
〔いくつになってもやることで始まる〕8年前に学校をこれから始めるんです!(美意識の強い子が集まって8人)


「美容研究会・小林昭子(83歳)徹子の部屋180328」

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心理学者(多湖輝)「キョウヨウ」と「キョウイク」
教養と教育ではなく「今日、用がある」と「今日、行くところがある」

~“奇跡の美肌"を持つ83歳…美と健康の秘訣~美容研究家・小林照子さんが今日のゲストです。
番組詳細 83歳にして現役のメイクアップアーティスト、美容研究家として活躍している小林照子さんがゲスト。
今日は、すぐマネしたくなる美と健康のコツが満載!
美容業界歴63年、「美容界のカリスマ」とも呼ばれている小林さん。
まず驚いたのは、その美肌。みずみずしいツヤ肌は、とても83歳とは思えない。
興味津々の黒柳さんに、その美しい肌を保つ秘訣を公開。
誰にでも試せる簡単な方法だが、毎日続ければずいぶん変わるという。
また、実年齢を感じさせない若々しさは、姿勢の良さにも。
スッと伸びた背筋の秘密は、実は自宅のキッチンに隠されていた!その様子をVTRで紹介する。


【『100歳になっても脳を元気に動かす習慣術』 『頭の体操』心理学者の多湖輝(著)】
一昨年に出した『100歳になっても脳を元気に動かす習慣術』 『頭の体操』で知られる心理学者の多湖輝(たごあきら)さんの著書にあるそうだ。

『100歳になっても脳を元気に動かす習慣術』
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【朝日新聞「天声人語」  2013年7月14日(日)】

体が引き締まり、日に焼け、すこぶる元気そうである。
すこし前に退職した会社の先輩と先日偶然会い、立ち話をした。
日々の暮らしぶりを楽しげに語ったが、そこには秘訣(ひけつ)があるらしい

▼「キョウヨウ」と「キョウイク」なのだという。
教養と教育かと思いきや、さにあらず。
「今日、用がある」と「今日、行くところがある」の二つである。
なるほど何も用事がなく、どこにも行かない毎日では張り合いがあるまい。
かつての同僚から聞かされて実践しているという
▼その同僚も誰かから聞いたというから、かなり流布している教えなのだろう。調べてみると、『頭の体操』で知られる心理学者の多湖輝(たごあきら)さんの著書に行き着いた。
一昨年に出した『100歳になっても脳を元気に動かす習慣術』で紹介している
▼多湖さんも100歳に近い大先輩に教わったのだそうだ。
「ボケないための頭の使い方」を実に巧みに表現した言葉だと絶賛する。
老後をどう生き生きと過ごそうかと誰しも考える。この話はわかりやすく、納得感もあるから、伝言ゲームよろしく広がっていくのも道理だろう
▼日々の原稿に追われる身としてはまだ先の話と思いたくなるが、山登りや畑仕事に忙しい件(くだん)の先輩に諭された。
「いまのうちから考えておけ」。
たしかに定年を迎え、突然訪れた空白の時間の大きさに心身の失調をきたす人もいると聞く
▼生来のものぐさ向けのボケ防止策はないものか。
多湖さんも勧めるようにせめてよく笑うことにしようか。
*****

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心理学者(多湖輝)「キョウヨウ」と「キョウイク」
教養と教育ではなく「今日、用がある」と「今日、行くところがある」

教養:今日 用がある
教育:今日 行くところがある

[キョウヨウ」と「キョウイク」?? 教養と教育?  いいえ、違います。

「ボケないための頭の使い方」は「キョウヨウ」と「キョウイク」なのだという。
教養と教育かと思いきや、さにあらず。
「今日、用がある」と「今日、行くところがある」の二つである。

その通りだと思う。うまい言い方をするもんだ。


〔多湖輝さんがNHKラジオ深夜便の早朝時間帯で80歳を過ぎたことば〕

「年齢を重ねるほど教養と教育が必要です」と語り始めました。
かなり流布している名言です。
 中高年になって大事なのは「教養」と「教育」?
 さにあらず「きょうよう」は「今日、用事・用件があること」「きょういく」は「今日いく所があること」実に巧みな表現です。いつも好奇心をもち、外出することがボケないための頭の使い方なのですね

【サラリーマン 「定年ホームレス」】(夫源病「わしもわしも」の「わしも族」)
〔■夫源病の恐怖、家も居場所なし〕
 「夫が家にいるようになってから、頭痛とめまいがするようになった」と訴える50代後半の主婦。
離れて暮らす娘に電話で相談したところ「それって夫源病じゃない?」と指摘された。
〔では、退職後に居場所がない「定年ホームレス」はどこにいるのか。〕
図書館と裁判所、そして公園。
お金のかからないこの3カ所が“聖地”らしい。取材班はその実態を探ってみた。
〔■自覚なきナルシストたち〕
「こんなシニアは使えない」

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⑤サラリーマン 「定年ホームレス」の落とし穴
2016/9/20 6:30


【平蔵の独り言】
徹子の部屋 美容研究家・小林照子(83歳)「教養と教育」(きょう 用がある。きょう 行くところがある。) 2018/3/28

〔教養〕と〔教育〕歳を取ったら必要だ!
〔教養〕今日 用がある
〔教育〕今日 行くところがある

心理学者(多湖輝)「キョウヨウ」と「キョウイク」
教養と教育ではなく「今日、用がある」と「今日、行くところがある」

その通りだと思う。うまい言い方をするもんだ。

【独り言】
美容研究家・小林照子(83歳)「教養と教育」
に教えられた。

古稀を迎え、ここ数年(いや、10年)、1日のおわりに
5年日記に寝る前、一日の出来事を書く。明日の予定、
今日はどんな日だったか?誰と話したか、会ったか?
何か書き留めておくイベントは?
を書いて気が付けば三冊目。(還暦から一日7行なので続いているのか?)

1日7行:5年分(同年同月同日)
1行目:天気・起床時間・気温(主な予定(前日に必要なこと記入)
     ・翌日の予定の確認にもなる(特別に変わったことはほとんどない)
2~4行:2行目起床して  3,4行どんなことがあった(した)
5行目:体調は
6行目:
7行目:今日はどんな日だった。(最後に血圧計の数字)

〔教養〕今日 用がある
〔教育〕今日 行くところがある

月初に去年の同じ月にやったこと⇒今月の予定
今日やったこと(イベント)来年の同月同日に必要なことを書く。
4.11(内視鏡検査実施⇒内視鏡検査予約)

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そして、明日のページに予定を書いて、寝る・・・・・・
(月に数回、書いてない。気が付いたら書く、「今 6時」)

【平蔵の独り言】
〔(前向き)な言葉を言うのが大切〕疲れることがあったとして口にしない。(楽しいことをしたら、疲れない)

〔(マイナス)な言葉は口にしない〕マイナスを口にしたら実現してきてきちゃう。ブーメランのように自分。

・嫉妬しない、もう歳出し、私なんて(自分を卑下しない、その途端に人は老けていく)

(それを書いちゃう、書くことと口にするが大事!)

〔いくつになってもやることで始まる〕

【独り言】
(前向き)な言葉を言う。(楽しいことをしたら、疲れない)
→なんとなく納得(楽しい)

(マイナス)な言葉は口にしない。(ブーメランのように自分)
→マイナスの言葉はその通りに実現してしまう、と聞いたことがある。

嫉妬しない、もう歳出し、私なんて。
→以前口にしていたら、自身も周りも気分がネガテッブになってきた、経験がある。

日記に書いちゃうと一日で完結する。

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by asanogawa-garou | 2018-04-18 16:44 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔星野仙一〕もっとも俺が頭を下げるのは長嶋さんと王さんしかいない。あの2人以外に頭を下げることはないよ。   

2018年 01月 29日
〔星野仙一〕もっとも俺が頭を下げるのは長嶋さんと王さんしかいない。あの2人以外に頭を下げることはないよ。


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①星野仙一さんが最後まで突き通した美学「ON以外に頭を下げない」
スポニチアネックス2018年1月6日 8時30分

【「さあ仙ちゃん、来い」と心燃やした 長嶋茂雄さん】
【ONに真っ向勝負した星野仙一さん、“流し打ち”王さんに文句 ミスター「心を燃やすことができた」】
【中日が巨人のV10を阻止して20年ぶりリーグ優勝】
【 中日 20年ぶり優勝が吹っ飛んだ 長嶋茂雄引退を表明】
【星野の巨人相手に闘志むき出しの投球にファンは歓喜】


・4日に亡くなった星野仙一さんと親交のある記者がつづっている
・2017年12月24日にも言葉を交わし、最後まで美学を貫いたという
・「俺が頭を下げるのは長嶋さんと王さんしかいない」

星野仙一氏死去 ドラフト会場で感じた“異変” 足元おぼつかず何度も…
2018年1月6日 8時30分 スポニチアネックス

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 ◇星野仙一氏死去 【悼む――本紙・宮内編集主幹】夏場にさしかかったころだった。
肌荒れが目立ち、痩せ始めていた。
人一倍、身だしなみに気を使っていたのにスーツが身体に合っていない。
見て見ぬふりをしていたが、異変をじかに知る時がきた。

 10月26日、グランドプリンスホテル新高輪で行われたドラフト会議。
開始直前、楽天の控室から会場まで並んで歩いた。
「結局のところ、1位は誰で行くのですか?」。
小声で訊ねると「清宮でいくよ。迷ったけどな」。
この時、星野さんの左肩が何度も私に当たった。
一度や二度ではない。足元がおぼつかないことは明らかだった。「大丈夫ですか?」と顔をのぞき込むと「大丈夫だ。君は自分の体の心配をしていればいい」とかわされた。

 最後に言葉をかわしたのは昨年暮れ、12月24日のことだった。

 「メリークリスマス?俺は仏教徒だからなぁ(笑い)。
最近は元気じゃないよ。
大阪のパーティー(12月1日、殿堂入りパーティー)が終わってからグダーっときてな。
仕事をいっぱい入れたし、その反動かな。
このままじゃ死んじゃうんじゃないかと。
年明けも講演の仕事が入っているんだが、最近は1時間話すとゼーゼーだ。
前はこんなことなかったんだけどな。
立っているのがつらいんだ。
座ってもいいんだけど、それじゃあ、みっともないし、迫力がないだろ。身ぶり手ぶり、アドリブでやるのが俺のやり方。人生もそうだけどな」

 田淵幸一さんのこと、山本浩二さんのこと…。
仲間の近況をあれこれ語った後、こう締めくくった。

 「キャンプは梨田に任せておけばいいし、チームが困った時に頭を下げるのが俺の仕事。もっとも俺が頭を下げるのは長嶋さんと王さんしかいない。あの2人以外に頭を下げることはないよ。今日は家族全員が集まっているんだ。やっぱりメリークリスマス?まあ、そういうことだなぁ(笑い)。良いお年を」

 あれからわずか11日。松の内が明けないうちに年頭のあいさつを、と考えていた矢先の訃報に言葉もない。どうか間違いであってほしい。 (編集主幹・宮内 正英)


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③14年、楽天退任セレモニーでスポットライトにてらされながら入場する星野氏

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【「さあ仙ちゃん、来い」と心燃やした 長嶋茂雄さん】

④2018年1月6日11時37分 特集:星野仙一さん死去
 〈巨人・長嶋茂雄終身名誉監督の話〉
 あまりにも突然の事で本当に残念でなりません。
昨年11月に開かれた仙ちゃんの「野球殿堂入りを祝う会」で「これからも野球界のために力を貸して」とメッセージを送ったばかりです。
「打倒巨人」を前面に闘志満々でぶつかってきた投手だったからこそ、私も負けずに「さあ仙ちゃん、来い」と心を燃やすことができ、対戦するのが本当に楽しみでした。
監督としても多大な実績を残され、さらなるご活躍を期待していました。ご冥福をお祈りします。

【ONに真っ向勝負した星野仙一さん、“流し打ち”王さんに文句 ミスター「心を燃やすことができた」】

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⑤「流し打ちはないでしょう! もう勝負しませんよ。思い切り打ってくれ!」と王に文句を言ったという。

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87年、熊本・藤崎台球場で両軍の乱闘時に王監督(右)へ詰め寄る星野監督 【報知新聞社】
01月07日 06:00
 星野仙一氏は現役時代、巨人の主砲・王貞治(現ソフトバンク球団会長)に真っ向勝負を挑んだ。
対戦成績は195打数62安打、打率3割1分8厘。被本塁打は24本もあった。
常に全力投球だったが、それを表すこんなエピソードがある。
 77年の巨人戦。打撃不振だった王が、星野氏の投球を流し打ちした。数日後、「流し打ちはないでしょう! もう勝負しませんよ。
思い切り打ってくれ!」と王に文句を言ったという。
 中日監督時代の87年6月11日、熊本での巨人戦では乱闘の際、拳を王監督の眼前に突き出したことも。
王会長は訃報に「闘志を前面に出したあの攻撃的な投球は、勝負していて、とてもやりがいのある投手でした。
昨年、野球殿堂入りのパーティーでお会いしましたが、こんなに急に亡くなられるとは、とにかく残念でなりません」とコメントした。

 もう一人の好敵手・長嶋茂雄(現巨人終身名誉監督)との通算対戦成績は111打数26安打。
打率2割3分4厘と抑えた。
ミスターも「あまりにも突然のことで残念でなりません。
『打倒巨人』を前面に闘志満々でぶつかってきた投手だからこそ、『さあ仙ちゃん、来い』と心を燃やすことができ、対戦するのが本当に楽しみでした。ご冥福をお祈りします」と悼んだ。
 「V9戦士が俺を育てた」と話していた星野氏。
強い巨人がエネルギーの源だった。


【中日が巨人のV10を阻止して20年ぶりリーグ優勝】

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⑦打倒巨人に燃え、1974年は最多セーブに輝いた星野仙一

1972年に優勝から遠ざかっていた中日ドラゴンズの監督に就任したのは、与那嶺要監督でした。
与那嶺要選手は現役時代、ベストナインを通算7回受賞するなどの活躍で第2期巨人黄金時代を支えた名選手でしたが、晩年巨人を戦力外になり、中日に移籍。
以降巨人や、戦力外になるきっかけだったと言われている巨人の川上哲治監督に対して闘志をみなぎらせていました。

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⑧与那嶺監督
当時1965年~1973年まで、9年間連続してセントラル・リーグ優勝を果たしていたV9時代の巨人を相手に1972年・1973年と連続で勝ち越し。
そして1974年は髙木守道、星野仙一、松本幸行、トーマス・マーチン、谷沢健一らが活躍し、巨人のV10を阻止して2回目のリーグ優勝を果たしたのです。
(この際、巨人とのゲーム差は0)

【 中日 20年ぶり優勝が吹っ飛んだ 長嶋茂雄引退を表明】


【10月12日】1974年(昭49) スポニチ
マウンド上の星野仙一投手は帽子をとって右手に握り締め、雄たけびを上げながらガッツポーズ。

 【中日6―1大洋、巨人7―5ヤクルト】午後8時9分、中日球場。ついにその瞬間が訪れた。大洋・山下大輔遊撃手のライナーを中日・島谷金二三塁手が拝むようにしてキャッチすると、マウンド上の星野仙一投手は帽子をとって右手に握り締め、雄たけびを上げながらガッツポーズ。
駆け寄ってきた木俣達彦捕手が星野に飛びつくと、次々にナインが集まり、歓喜の輪が広がった。

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 中日ドラゴンズが54年(昭29)以来、20年ぶり2度目のリーグ優勝を決めた。65年(昭40)から始まった、巨人のV10を阻止しての悲願の優勝だった。

 興奮のるつぼと化した名古屋から約370キロ離れた東京・神宮球場は、プロ野球の歴史に大きな足跡を残したプレーヤーが引退を決意して、試合に出場していた。
巨人・長嶋茂雄三塁手は、17年間の現役生活に別れを告げることを決め、中日の優勝が決まれば、これを発表することにしていた。

 6回、ヤクルトの攻撃中に突然ネット裏の報道陣に巨人の広報からの知らせが入った。「試合終了後、球場内貴賓室で長嶋、川上監督が会見」。
番記者たちは来るべきものが来たと感じた。
シーズン前からささやかれていた、ミスター・ジャイアンツがユニホームを脱ぐ日。
各記者は集めた情報を元に「長嶋 引退表明」の原稿を書き始めた。

 午後10時前、長嶋が口を開いた。
「肉体的にも峠が来た。今年ほど“老い”を感じたことはなかった。17年間、自分でも本当によくやったと思う。それが現在の心境だ」。

 よりによって、中日の久々優勝の時にやらなくても…、という声も球団内部にはあった。
しかし、事前に組まれたスケジュールがそうさせてしまった。

 26日に米大リーグのニューヨーク・メッツが親善試合のために来日。
1カ月近くにわたって日本中を転戦することが決まっていた。
それに合わせて日本シリーズは16日から組まれていた。
中日は4日後にロッテとシリーズを戦わなければならないタイトな日程。
シリーズ中に引退表明するわけにもいかず、親善試合終了後に伝えるのもファンに失礼にあたる。
かといって、優勝の可能性が巨人に残されている以上、分かってはいても巨人の顔の長嶋が引退を表明しては、チームの士気にかかわる。
結局、公式戦中にファンの前で長嶋が別れのあいさつができるのは、優勝が決まった後の13日の後楽園での中日とのダブルヘッダーしか残されていなかった。

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 長嶋の引退表明で中日の優勝は割を食った形になった。
各スポーツ紙の1面はドラゴンズの系列以外、すべて長嶋の記事。中日Vも1面に載ったが、いわゆる“肩”と呼ばれる2番手扱いの記事として紙面の端に寄せられた。

 水を差された中日は、雨で14日に順延になった試合で長嶋の引き立て役に。
ロッテとのシリーズでも2勝4敗で敗れ、巨人から10年ぶりに王座を奪ったというのに、少々寂しい優勝となった。
[ 2011年10月12日 06:00 ]

【星野の巨人相手に闘志むき出しの投球にファンは歓喜】
1969年にドラフト1位で入団した星野は、岡山の出身(後年、母親の出身地と両親が出会った地が名古屋だったことがテレビ番組の取材で判明している)だったものの、中日在籍中も自宅は東京にあった杉下や西沢と違って、結婚して合宿所を出ても名古屋に自宅を構えていた。

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また1968年秋のドラフト前に、田淵幸一の「外れ1位」指名を約束しながらそれを反故にした巨人相手に闘志むき出しの投球を見せ、通算成績でも35勝31敗と勝ち越したことも地元ファンの共感を呼んだ。
そして全国区の大スターに
特に1974年(昭和49年)は49試合に登板して先発17、リリーフ32とフル回転し、15勝に加えて10セーヴを上げて、この年制定されたセーヴ王の初戴冠者となり、20年ぶりのリーグ優勝と巨人のV10を阻止する立役者となったことで、中日における大スターとしての地位を不動のものとした。
さらに現役引退後は親会社系列の中部日本放送(CBC)などの地元放送局でなく、NHKの専属解説者となって全国ネットの野球中継解説やスポーツ番組のキャスターとして出演することにより、その人気は「全国区」へと広がった。
まさに星野は創立以来バラバラだった中日のチームカラーを一つにまとめた人物であり、日本国憲法下における「象徴天皇制」の精神と同様に、「中日ドラゴンズ球団とファン統合の象徴」と言うべき存在だったゆえに、新人監督として異例の権限を与えられることになった。

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【平蔵の独り言】
阪神、楽天の監督の印象が強い同世代
今回、あっという間に旅立って 仰木彬監督と重なる。

自身の人生の節目に星野仙一がいた!
昭和49年10月後楽園球場長嶋選手(背番号3)の引退試合
小学生の頃から巨人ファン(というより下町は野球は巨人しか知らない)
若気の至りで会社を辞め、退職金で免許取得・車入手(ブルーバード510sss)
たまたま面接日、後楽園球場の横を車で通ると“ワアー”と言う歓声
「あっ!長嶋の引退試合だ。中日とのダブルヘッダー(消化試合)」
車を後楽園の庭園にアパートが建っていて、路駐
球場に内野立見席で入場(ダブルヘッダー第一試合)
第一試合でホームラン!
第一試合と第二試合の間に長嶋が球場を花束、ハンカチ、時折立ち止まり涙を拭う
第二試合になると係員もいなくなり、バックネットの空き席で観戦
そして、試合終了
今でも放送されるマウンドの立ち、ポットライトの中
「我、巨人軍は永遠に不滅です」
を、バックネットのネットにへばり付き、聞いた。

【独り言】
昭和49年の長嶋引退試合
(前夜、日テレ11PMで長嶋の現役引退、明日の中日との試合、を
引退試合との特番)記憶に間違いがなければ・・・・・

中日は名古屋で優勝記念パレードで試合出場選手は背番号が2桁も50以上の二軍が出ていた。

引退試合の観戦(面接すっぽかし)
その後、前職関係者に「まだ、うろうろしているのか」
見つけ出され、今も現役で古稀

中日優勝の立役者が熱い“星野仙一”
昭和49年を記憶、思い起こさせてくれた。


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by asanogawa-garou | 2018-01-29 16:44 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

「よそ者」人生:日本の世間と感覚がズレているからこそ、作品や研究を生み出せる。(〔物書き人生〕最終章・養老孟司 VS.塩野七生) 共に御年満80歳   

2018年 01月 17日

「よそ者」人生:日本の世間と感覚がズレているからこそ、作品や研究を生み出せる。(〔物書き人生〕最終章・養老孟司 VS.塩野七生) 共に御年満80歳

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養老孟司さんと塩野七生さんは、共に御年80の「同級生」である。旧知の仲でもあるそのお二人が、相次いで新書を出版。
デビュー50年の塩野さんが著したのは『新しき力』。
「ギリシア人の物語」全3巻の悼尾を飾る本書は、歴史長編としては、塩野さんの最後の著作となる。
その作品で主人公に選んだのは、アレクサンダー大王、最後の先品として最も若い主人公である。
一方の養老さんは『遺言』。
一気呵成の書き下ろしとなる本作は、動物とヒト、感覚と意識、アナログとデジタルなどの概念を考察することによって、いまの時代の「おかしさ」を浮き彫りにした新書である。

〔よそ者〕「よそ者」人生
〔「よそ者」「はぐれ者」〕
〔AI(人工知能)〕AIが処理できない存在
〔健康診断〕
〔僕らが小さい頃は80歳まで生きている人はヘンな人というくらい珍しかった〕
〔心配しないで。いずれどうにかなりますよ(笑)〕


〔よそ者〕「よそ者」人生
(塩野)「よそ者」性がないと、常識や当たり前のことに対して「何で?」という疑問を持てなくなるという面がありますよね。
例えばなぜオリンピックが生まれたのかという疑問に対して、多くのヨーロッパ人の間では「戦争ばかりしているのは不毛だから、休戦のためのイベントでもしようということで始まった」というのが常識になっています。
でも私は「よそ者」だから「なぜ」と興味を持って調べていくわけです。
だからもしあの時に養老さんの提言を受け入れて鎌倉に移住していたら「ギリシャ人の物語」は書けなかったかもしれません。
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〔「よそ者」「はぐれ者」〕
(養老)作家というのは、ある程度、「よそ者」性が必要なんです。
「よそ者」性が日本の世間と感覚がズレている「はぐれ者」と感じます。

〔AI(人工知能)〕AIが処理できない存在
(塩野)人工知能によってヒトは職を奪われると言われているけれど、私はちっとも怖くありません。
塩野七生はデータ化不能なものを扱っているから。
だってギリシャの歴史はデータにできないものに突き動かされて書くものだから。

(養老)人間の意識がある時間は、1日の3分2しかないし、その前後だってだいぶ怪しい。
お酒を飲んだりすればあやふやになったりするでしょう。
にもかかわらず、その意識を絶対視して、人間にとって一番最後に進化してきた部分だけをAIにしているんですよ。
だからものすごくたくさんのものが欠落している。
AIの中には、0か1しかない。でも0と1の間には無限があるけど、それは“ノイズ”なのでAIが処理できない存在です。

(塩野)そうか、塩野七生が考えることもノイズということね。
(養老)だからデジタル慣れした人は、同じ室内にいてもメールで話したりするんですよ。なぜなら対面でやり取りするとノイズだらけで邪魔になるから。
(塩野)直接話すことは大事よね。
国際電話で編集者と話していると、それまで考えつかなかったようなことを思いついたりするんです。
編集者は長電話で迷惑かもしれないけど(笑)。
私はコンピュータには触らないし、ケータイも持っていないんです。
ここまでアナログだと絶望的ですよね。
いい加減、始めるべきなんでしょうけれど。
(養老)別にいいんじゃないですか。これからはデジタルからアナログに戻る。というよりも、デジタルに対する人間の対応が変わってくるでしょうね。

〔健康診断〕
塩野:日本で倒れたことがあって調べたらタンパク質の数値がとても悪かった。
でも、帰国してイタリアで検査を受けてみたら許容範囲内だった。
日本とイタリアでは許容範囲が全然違うんです。

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最も偉大なイタリア人女性科学者、リータ・レーヴィ=モンタルチーニ
〔僕らが小さい頃は80歳まで生きている人はヘンな人というくらい珍しかった〕
〔人間ダメな時はダメになりますから大丈夫ですよ〕
〔心配しないで。いずれどうにかなりますよ(笑)〕

(塩野)我々はもう80歳まで生きたんですから、何があってもどうってことないですよね。
(養老)十分ですよ。あとは余計なお世話で生きているだけです。
僕らが小さい頃は80歳まで生きている人はへんな人だ、というくらい珍しかった。
(塩野)私は人に迷惑をかけないようになるべく適度な時に死んだ方がいいと思っているの。
だから長生きのために必要なことと反対のことをするようにしています。タバコは吸う。お酒は飲む。ご飯は好きなものを好きなだけ食べる。
でも何かを食べたいと思っているうちはーーー。
(養老)元気だということ(笑)
いいじゃないですか。
人間ダメな時はダメになりますから大丈夫ですよ。
(塩野)イタリアの学者でノーベル生理学・医学賞をとったリータ・レーヴィ=モンタルチーニは100歳になった時にテレビのインタビューを受けていたんです。
とってもおしゃれでエレガントな方で。
長生きの秘訣を尋ねられて彼女は
「明日目が覚めたら何をすべきかが、私にはわかっているから」と答えていたんです。
その時、私も同じかもしれないと思ったんです。
(養老)心配しないで。いずれどうにかなりますよ(笑)

週刊新潮2018/1/4・11新年特大号

【平蔵の独り言】(よそ者)(はぐれ者)に寛容な社会

〔よそ者〕「よそ者」人生
〔「よそ者」「はぐれ者」〕
〔AI(人工知能)〕AIが処理できない存在

【独り言】
(よそ者)(はぐれ者)に寛容な社会
団塊の世代の“市井”はこんな社会にいたような気がする。

小学3年:担任が年賀状「届かなかった」と言われた。
小学3年の学年末:“挨拶もしない”で転向
転校先:すぐ親切にしてくれた子はクラスの嫌われ者
中学:教室が足らないので二部授業
こずかいのもらえない者同士が夏休み、町工場でアルバイト
(格差社会は当時からあった。貧乏同士、助け合った)
高校、大学:新設校を量産
就職先:希望先は全滅、専門分野で滑り込み
いろいろと紆余曲折はあったが、この分野で来年は50年
(希望先、全滅で良かったと思う。まだ、現役である)

【平蔵の独り言】検診を受けながら、古稀は過ぎ、喜寿へ

〔健康診断〕
〔僕らが小さい頃は80歳まで生きている人はヘンな人というくらい珍しかった〕
〔心配しないで。いずれどうにかなりますよ(笑)〕

【独り言】
48歳:生死を彷徨う(まだ独り言できない)
その後:胆管結石(胆嚢全摘)左冠動脈狭窄(カテーテル)
顔面神経麻痺、歯周病(2本奥歯インプラント)、ドライアイ
胃カメラ、大腸内視鏡、

⇨“今、古希 70歳" ヘンな人、いずれどうにかなりますよ の前に"喜寿"
還暦から古稀まで気がつけば、早かった。

〔僕らが小さい頃は80歳まで生きている人はヘンな人というくらい珍しかった〕
へんな人〔心配しないで。いずれどうにかなりますよ(笑)〕



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by asanogawa-garou | 2018-01-17 16:22 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔五木寛之〕【百年人生への不安】(後生( ゴショウ) が不安なんですよ) 〔後半生が大変〕   

2018年 01月 11日
〔五木寛之〕【百年人生への不安】(後生( ゴショウ) が不安なんですよ)  〔後半生が大変〕
この国でいう後生(ゴショウ)とは今生(コンジョウ)の後のことだ。
今生とは現世である。だから死んだ後のことが後生なのだ。

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〔後半生が大変〕
〔健康寿命と経済寿命〕
〔加齢というのはとんでもなく厄介なものなのである〕


「やっぱり後生のことが気になりますよね」それを時代の先端をゆくテレビ局のディレクターが口にするのが納得がいかない。

「きみのお家の宗旨は?」
「さあ。たぶん曹洞宗だと思いますけど」
「ふ~ん。どうして後生が気になるんだい」

「定年退職後の人生が気になるのは当然じゃないですか」
「えっ、きみみたいな若い人でも、やっぱり後生のことが気になるのかい」
「そりゃあ、気になりますとも。ぼくだってあと五、六年たてば定年退職ですから」
「失礼だが、きみは、いくつだっけ」
「四十九です」

若いディレクターと書いたが、八十五歳の私にとっては五十歳以下はみな若い人に感じられるのである。

「五十代半ばで定年だって?まさか」
「法律はともかく、うちの局では定年が五十五歳です。だから後生が不安なんですよ」

彼の言うことはわかるのだが、その後生という言葉の使いかたがよくわからない。


後生というのは、この国では一種の仏教用語だからである。
後生をコウセイと読めば中国流になる。
<後生畏るべし(こうせいおそるべし)>とは論語の言葉と昔教わった。
羽生永世七冠が藤井四段に抱く感想だろう。
後生とは後輩、若い人のことだ。

しかし、これをゴショウと発音すると、かなり変わった意味になる。
この国でいう後生(ゴショウ)とは今生(コンジョウ)の後のことだ。
今生とは現世である。だから死んだ後のことが後生なのだ。
「後生、お頼みもうします」
とか、「死んだあと、お浄土にいけますように」
などと昔のお年寄りはひたすら念じたものだった。
「後生の一大事」というのは、ちゃんと往生、成仏できるかどうかという話である。


〔後半生が大変〕
つまり彼のいう後生とは、退職後の生活のことであるらしい。
あの世の話ではないのだ。彼は続けて、
「最近、百年人生というじゃないですか。
そうなると五十代で退職しても、あと五十年ちかく生きなきゃならない。
その後半五十年が不安でないわけがないでしょ」
「要するに後半生のことを言ってるんだね」


〔健康寿命と経済寿命〕
平均寿命よりも健康寿命が大事、とはよく言われることである。
しかし寿命は必ずしも健康に比例しない。
そして、健康寿命のほかに経済寿命ということもある。
特別な人たちをのぞいて、一般に長生きだとお金の苦労をすることが多い。
貯金や年金なども余り当てにできないのである。


〔加齢というのはとんでもなく厄介なものなのである〕

さらに年をとるということは、体のあちこちが不自由になるということだ。
私も現在、身体的能力は十年前にくらべて半減しているといっていい。
道に落とした一円玉を、親切に注意してくれる人がいる。

「一円、落とされましたよ」
「あ、どうも。ありがとう」

と礼を言っても、人通りの多い道路で体をかがめてその一円貨幣を拾うのは、大変な苦労なのだ。
路面に片膝をつかなければ手がとどかないのである。
拾ったら拾ったで、起ちあがるのにまたひと苦労する。
情けないことに、何か片手でつかまるものがないと、膝がガクガクしてなかなか起てないのだ。

万事につけそんな具合いで、加齢というのはとんでもなく厄介なものなのである。

コップ一杯の水を飲むのにも誤嚥しないように慎重に飲まなければならない。
つい二、三日前も、飲んだ水にむせてジタバタしたばかりだ。
百年人生も結構だが、後生のことより後半生のことを重荷に感じるのは、私だけだろうか。

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〔生き抜くヒント!(五木寛之)〕週刊新潮2018/1/4.11号


【平蔵の独り言】
この国でいう後生(ゴショウ)とは今生(コンジョウ)の後のことだ。
今生とは現世である。だから死んだ後のことが後生なのだ。

〔後半生が大変〕
〔加齢というのはとんでもなく厄介なものなのである〕

【独り言】後生と後半生
後生?・・・・・(ゴショウ)
今生(コンジョウ)→今生の別れ(この世)は分かるが

〔後半生が大変〕やはり、後半生の今が大変だ!

加齢:健康を求める戦い(団塊世代はやはり戦うような時代)


【平蔵の独り言】
体をかがめてその一円貨幣を拾うのは、大変な苦労なのだ。
コップ一杯の水を飲むのにも誤嚥しないように慎重に飲まなければならない。

【独り言】
腰をかかめて、膝を曲げて、そして伸ばして:大変!
誤嚥しないように薬を飲むときは、
まず(eテレで見た)誤嚥防止の口のストレッチ!



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by asanogawa-garou | 2018-01-11 15:22 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

向田邦子「眠る盃」〔中野のライオン〕〔新宿のライオン〕   

2018年 01月 07日
向田邦子「眠る盃」〔中野のライオン〕〔新宿のライオン〕

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【中野のライオン】
今の住まいは青山だが、二十代は杉並に住んでいた。
日本橋にある出版社に勤め、通勤は中央線を利用していたのだが、
夏の夕方の窓から不思議なものを見た。

場所は、中野駅から高円寺寄りの下り電車の右側である。

その日は、どうした加減か人並みの時間に吉祥寺行きの電車に乗っていた。
当時のラッシュ・アワーは、クーラーなど無かったから車内は蒸し風呂であった。
吊皮にブラ下り、大きく開け放った窓から夕暮の景色を眺めていた。

私が見たのは、一頭のライオンであった。
お粗末な木造アパートの、これも大きく開け放した窓の手すりのところに、一人の男が坐っている。
三十歳位のやせた貧相な男で、何度も乱暴に水をくぐらせたらしいダランと伸びてしまったアンダー・シャツ一枚で、ぼんやり外を見ていた。

その隣りにライオンがいる。
たてがみの立派な、かなり大きい雄のライオンで、男とならんで、外を見ていた。
すべてはまたたく間の出来ごとに見えたが、この瞬間の自分とまわりを正確に描くことはすこぶるむつかしい。

私は、びっくりして息が詰まったようになった。
当然のように、まわりの、少なくとも私とならんで、吊皮にブラ下がり、外を見ていた乗客が、
「あ、ライオンがいる」
と騒ぎ出すに違いないと思ったが、誰も何ともいわないのである。
両隣りのサラリーマンは、半分茹で上ったような顔で、
口を利くのも大儀といった風で揺られている。

その顔を見ると、
「いま、ライオンがいましたね」とは言えなかった。
私は、ねぼけていたのだろうか。
幻を見たのであろうか。
そんなことは、絶対にない。
あれは、たしかにライオンであった。
縫いぐるみ、といわれそうだが、それは、現在の感覚である。
二十何年前には、いまほど精巧な縫いぐるみはなかった。
この時も私は少しぼんやりしてしまい、駅前の古びた喫茶店でコーヒーを二はい飲んでから、うちに帰った。

〔早口の東京弁で、おしゃべりで、おまけに気が弱いものだから、少しでも他人さまによく思われたい一心で、時々はなしを面白くしてしゃべる癖がある〕

「中野にライオンがいるわよ」
「中央線の窓からライオンを見たのよ」
私ではいつもの嘘ばなしか、暑気当りと片づけられるのがオチである。


そのあとも、私は、中央線に乗り、例の場所が近づくと、身を乗り出すようにして外をのぞいたが、同じような窓が並んでいるだけで、アンダー・シャツの男もライオンの姿も見えず、その後中野方面でライオンが逃げたというニュースも聞いていない。

ーーーしかしーーー
いまだに、あれはほんもののライオンとしか思えないのである。
人にしゃべると、まるで嘘みたい、と言われそうな光景が、現に起っている。
それを五十人だか百人だかの人間が見ているのに、その中にいて、見なかった人間が、一人はいたのである。
ここまで来たら、もうどっちでもいいや、という気持もある。
記憶の証人は所詮自分ひとりである。
そう思って居直りながら、気持ちのどこかで待っているものがある。

実は、二十年ほど前に、中野のアパートでライオンを飼っていました、という人があらわれないかな、という夢である。
つい最近も中央線の同じ場所を通り、同じように窓の外に身を乗り出して眺めて来たばかりである。
(別冊小説新潮/1979春季号)

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【新宿のライオン】
うちの電話はベルを鳴らす前に肩で息をする。

〔「実は、中野でライオンを飼ってた者なんですが」〕

その電話が掛かったのは夕方であった。
中年と思われる男の声が、もう一度私の名前をたしかめ、
ひと呼吸あってからこう言った。
「実は、中野でライオンを飼ってた者なんですが」
咄嗟に私が何と答えたのか覚えがない。
いたずら電話でないか確かめかけ、相手の声の調子で、
これは本物に間違いないとすぐ判り、
それでもまだ半分は信じられなくて、
「本当ですか。本当にライオンは居たんですか」
と繰り返した。

相手は、物静かなたちの人らしく、はにかみを含んだ訥弁で、
「あなたの書かれたものを読み、当時を思い出して懐かしくなり失礼かと思ったが電話した。ライオンは確かに自分が飼っていた」と言い、
岡部という者ですとつけ加えられた。

この電話のあった5日ほど前に店頭に出た別冊小説新潮(1979年春季号)に私は「中野のライオン」と題する小文を書いている。
二十年ほど前の夏の夕方、中央線の窓から不思議なものを見たーーー。

『私が見たのは、一頭のライオンであった。
お粗末なアパートの、これも大きく開け放した窓の手すりのところに、一人の男が坐っている。
三十歳位のやせた貧相な男で、何度も乱暴に水をくぐらせたらしいダランと伸びてしまったアンダー・シャツ一枚で、ぼんやり外を見ていた。その隣りにライオンがいる。
たてがみの立派な、かなり大きい雄のライオンで、男とならんで、外を見ていた。』

私はびっくりして息が詰まったようになり、
まわりを見まわしたが、ならんで吊皮にブラ下がり、
外を見ていた乗客は誰ひとりとして騒がない。
半分茹で上がった顔で口を利くのも大儀といった風に揺られている両隣りのサラリーマンを見ると、
「いまライオンがいましたね」とは言い出せず、
ねぼけていたのか、幻を見たのか、
いや、あれはまさしくライオンだったと自問自答を繰り返しながら、
狐につままれたような気持ちになり、
駅前の古びた喫茶店でコーヒーを二はい飲んでうちへ帰ったのである。

ことがあれば面白おかしくしゃべり廻るところがあるのだが、
これだけは親兄弟にもしゃべらなかった。
中央線に乗って中野駅あたりを通過すると、
記憶の底から鎌首をもたげることもあったが、
それすら二十年の歳月のかなたに霞みかけていた。
たまたま文章にしたものの、
九十九パーセントは自信はないものだから、
五十人だか百人が見た交通事故現場からそんなものは見もしなかった、という風に全く気づかず立ち去った一人の婦人のことを書き、
百人見て一人見ないこともあるなら、一人が見て百人が見なかったことだってありえないことではないと屁理屈をこねた。

もうどっちでもいいやと居直りながら気持のどこかで待っているものがある。


〔中野にライオンはいたのである。〕

実は二十年ほど前に、中野のアパートでライオンを飼っていましたという人があらわれないかな、という夢である。
絶対に帰ってこない、くる筈のない息子を待つ「岸壁の母」の息子は、二十年ぶりに帰ってきた。
中野にライオンはいたのである。
私は受話器を握ったまま、こみ上げてくる笑いを押え切れず、
裂けた夕刊に顔を押しつけ声をたてて笑ってしまった。
悲しくもないのに涙がにじんでくる。
洟も出てくる。


岡部氏は、私の笑いの鎮まるのを待って、
ポツリポツリと話して下すった。
ライオンは、もともとは新宿御苑のそばで「八洲鶴」という酒の店をやっていた岡部氏の姉上が飼っておられた。
姉上がなくなったあと、岡部氏が引き継ぎ、
のちにライオンごと中野へ引越したのだが、
私が見た当時は百キロ近い体重があった。
一番おどろいたのは、ライオンが牝だったことである。
どこでどう取り違えたのか、私は記憶の中で、ライオンにたてがみを生やしてしまった。MGM映画の見過ぎかも知れない。
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二十年前に電車の窓から一瞬見えた、いや、見たと思いながら、
あれは幻だったのだと自分で打ち消していたライオンが本当にいた、
私は間違っていなかった。
大吉を知らせる電話は、
私に刀の柄に手を掛けるゆとりを与えず、
いきなり真っ向唐竹割りにしたのである。

牡だと思ったライオンは、牝であった。
見えなかったが、ライオンのまわりには鉄の格子があった。
電車の窓から見当をつけた場所も少し違っていた。
二階だと思ったのは一階であった。

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5月に入って、新宿で一夕ライオン青年とお目にかかる段取りが整った。

ライオン青年は二十年昔のライオンを語り、
牝ライオンは、名前を”ろん子”といった。
はじめは猫ほどの大きさだったがみるみる大きくなった。
「あいつは、ただの一度もほえなかった」
だから街なかで飼えたのでしょうと、かなしく笑われた。
せまい中で飼っていたので佝僂病になり、
多摩動物公園で預かってもらった。


それにしても、たのしくも不思議な一夜であった。

あと二十年か三十年したら、耄碌した私はこんなことを言うかも知れない。
「昔、新宿でライオンとお酒のんだことあったのよ」
(別冊小説新潮/1979・夏季号) 


【平蔵の独り言】
お客様は、2010/1/23にこの商品を注文しました。

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〔向田邦子〕「眠る盃」のあとがき

「荒城の月」の「めぐる盃かげさして」の一節を「眠る盃」と覚えてしまった少女時代の回想に、戦前のサラリーマン家庭の暮しの手触りをいきいきと甦らせる表題作をはじめ、片々とした日常から鮮やかな人生を截りとる珠玉の随筆集。
知的なユーモアと鋭い感性を内に包んだ温かな人柄が偲ばれるファン待望の書。・・・・・「眠る盃」(向田邦子)

一番おどろいたのは、ライオンが牝だったことである。
どこでどう取り違えたのか、私は記憶の中で、ライオンにたてがみを生やしてしまった。


【独り言】
「めぐる盃かげさして」の一節を「眠る盃」
牡だと思ったライオンは、牝であった。

市井の人の日常はそんなに変わったことが起こらない。
しかし、向田邦子の手に掛かると起きている。

2010年に読んでいたが8年経って、
週刊現代 それがどうした〔男たちの流儀〕伊集院静2017/12/9号
で蘇ったのだ!

向田邦子は20年前に見たライオンが1979年に蘇ったのだ!

【平蔵の独り言】
それにしても、たのしくも不思議な一夜であった。
あと二十年か三十年したら、耄碌した私はこんなことを言うかも知れない。
「昔、新宿でライオンとお酒のんだことあったのよ」

【独り言】
耄碌した向田邦子から“新宿のライオン”の話、
何ていうか聞きてみたい。
でも、聞くことは叶わない!


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by asanogawa-garou | 2018-01-07 17:14 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)