カテゴリ:人生 まだ旅の途中( 119 )   

〔江夏の21球〕衣笠祥雄さんなくして「江夏の21球」はあり得なかった。「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」(西本幸雄と江夏の21球。~悲運の名将を偲んで~)   

2018年 05月 10日
〔江夏の21球〕衣笠祥雄さんなくして「江夏の21球」はあり得なかった。「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」(西本幸雄と江夏の21球。~悲運の名将を偲んで~)

「江夏の21球」衣笠さんの言葉で難逃れ名場面生む
日刊スポーツ 4/25(水) 7:58配信

c0219232_15110524.jpg

①79年11月、日本シリーズ近鉄戦の9回裏1死満塁、石渡のスクイズを外し、三塁走者藤瀬を三本間で挟殺しピンチを脱した江夏(右)と衣笠さん
 プロ野球広島の内野手で、国民栄誉賞を受賞した衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)氏が、23日夜に上行結腸がんのため東京都内で死去したことが24日、分かった。71歳だった。

c0219232_15123238.jpg

②1987年6月13日、世界記録となる2131試合連続出場を達成し、花輪を手に観客の祝福に応える衣笠祥雄さん

〔「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」。〕
 78年に広島に移籍し、衣笠氏との親交が始まった。「それまではライバルだったから。こんなバッターに打たれるか! と思ってた。同じ関西出身でライバル意識もあったしね。でも、なぜか最初からウマが合ったというか。あの頃のカープは個性派が多かった。そういう意味ではやりやすかった。でもこんなに早く逝くとは…」。

 2人の関係を代表するのが、語り草になっている「江夏の21球」だ。広島が初の日本一に輝いた79年、近鉄との日本シリーズ第7戦。
広島1点リードの9回裏、クローザーだった江夏氏は無死満塁の危機を迎えた。
広島ベンチは延長に備え、ブルペンに投手に準備をさせた。
これを見た江夏氏が「この野郎! 何でオレの後に投手をつくるんだ!」と冷静さを失った。
ここでマウンドに歩み寄ったのが一塁を守っていた衣笠氏だった。

c0219232_15141540.jpg

③衣笠氏が一塁から歩み寄った
 1点リードの9回無死満塁。
ベンチがリリーフの準備を始めたことに心をかき乱されていたが、その心情を察した衣笠氏が一塁から歩み寄った。
「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」。
一緒にユニホームを脱ぐほどの覚悟を示す熱い言葉に、集中力を取り戻したという。
 今でも孤高の左腕が「3日に一度は話しする」ほど心を許す数少ない親友。
思い出されるのは、衣笠氏の強さ、不器用さ、優しさだ。
「ブキッチョな男だから。あのスイングを見たら分かると思うけど、常にフルスイング。野球に対してフルスイング。骨折していても、3つ振って帰って来る男だから。あの姿がアイツの野球人生を物語っているよね」と涙ぐんだ。
 衣笠氏がテレビ中継で解説した19日のDeNA・巨人戦(横浜)もチェックし、翌日すぐに電話をかけた。
「声も出ていないんだから。1、2年たっても(世間から)絶対忘れられないんだから無理するなよって…」。
松山の試合の雨天中止が決まると、東京へ。夜8時過ぎ、都内の通夜会場で亡き友と悲しみの再会となった。(島尾 浩一郎)

 ◆江夏の21球 1979年11月4日の日本シリーズ第7戦の近鉄・広島戦(大阪)。
4―3と1点リードの広島は9回裏、守護神・江夏が安打と2四球で無死満塁のピンチを迎える。
代打・佐々木から三振を奪った後、石渡のスクイズをバッテリーが外して三塁走者がタッチアウト。
2死二、三塁となって、最後は石渡を空振り三振に抑えた。
絶体絶命のピンチをしのいで広島に初の日本一をもたらし、球史に残る21球の力投と言われる。

 「お前がやめるならオレもやめてやる」。
そう声をかけられた江夏氏は「生え抜きのサチが…」と感激。これで落ち着きを取り戻し、カーブの握りのままスクイズを外す投球を見せ、名場面を生んだ。
「あの苦しい場面で自分の気持ちを理解してくれるやつが1人いたんだということがうれしかった。あいつがいてくれたおかげで難を逃れた」。のちにそう話している。

 ため息を繰り返した江夏氏は自身に納得させるように「いいヤツを友人に持った。
俺の宝物だ。ワシもすぐ追いかけるんだから。次の世界でまた一緒に野球談議をするよ。それが楽しみだ」と話していた。【高原寿夫】

2018年4月25日6時0分 スポーツ報知

c0219232_15162708.jpg

④1979年11月4日、日本シリーズ第7戦で近鉄を破り、日本一を決め喜ぶ衣笠さん(左)、江夏(右から2人目)ら広島ナイン

伝説の「江夏の21球」は衣笠氏の一言から 怒りの江夏に「俺も一緒に辞めてやる」

また一人…“鉄の意志”を貫いた男が逝く…。
 2215試合連続出場というまぶしいほどに野球を愛した衣笠祥雄さんが旅立ってしまった。
 この日、テレビ解説のために空路、松山空港に降り立った江夏豊氏は親友の訃報に接して…すぐ東京にUターンしたそうである。

c0219232_15165715.jpg

⑤1979年、伝説の「江夏の21球」。江夏(左)の粘投の裏には衣笠氏の優しさがあった
 衣笠祥雄といえば、どうしても『江夏の21球』のプロ野球日本シリーズに残る不滅の名シーンが忘れられない。
 1979(昭和54)年11月4日、大阪球場。
『広島-近鉄』のシリーズは最終戦を迎えた。
筆者はこのシリーズは『近鉄監督西本幸雄』の日本一への戦いを追っていた。
4-3と広島が1点リードして最終回…江夏が大ピンチに立つ。
無死満塁とアノ豪気の江夏が追い詰められた。
 この時、筆者は大阪球場記者席のバッテリーの真後ろ、記者席の最前列に黒江透修氏(当時巨人)と並んで至近距離からその21球の人間ドラマをみつめることになった。

 江夏が、猛牛打線の前に「無死満塁」という状況に追い詰められた。なにしろ当時は一世を風靡した“西本打法”の西本監督が手塩にかけた打者たちがグルリと江夏を取り囲み、絶体絶命なのだ。
しかも打席には強打者佐々木恭介が立つ。
 と、この時、広島ベンチ古葉監督は北別府と池谷の2枚看板をブルペンに走らせた。
いうならば“次善の策”で当然の準備なのだが、みるみるマウンドの江夏豊の顔が明らかに“怒気”を含んで自軍のベンチ(三塁側)の監督古葉をニラミつけている。
そんなに俺が信用できんのかッ…。
 無死満塁にしてしまったのは江夏なのだ。
 しかし…赤ヘルのリーグ優勝をもたらしたのも江夏豊なのだ。
そのリーグV決定の試合を広島市民球場の放送席で解説していた阪神元監督村山実はハラハラと落涙する。
「俺は江夏を優勝させてやれなかった…」と。
 だが…最終戦の最終回の江夏の怒りは尋常ではなかった。
と、そこにスッと一塁手の衣笠祥雄が江夏に近づいてきて、ゾクリとこう言った。
 「おい、ベンチをみるな!(おまえが野球を)辞めるなら、俺も一緒に辞めてやる…」
 このひと言で江夏はハッとわれにかえった。
いまやるべきことは“何か”を悟った。その言葉に救われた。
 そして球史に残る『江夏の21球』は広島に日本一をもたらした。
 気がつくといつの間にか大阪球場に降り注ぐ“秋雨”は悲運の将・西本幸雄の肩を情け容赦なく濡らしていた…。
c0219232_15175852.jpg

⑥ もちろんルーゲーリッグ(ヤンキース)の世界記録を更新する連続出場達成への数々の金字塔と努力と汗…何よりも人間くさく挑み続けた結果、衣笠祥雄は「国民栄誉賞」にも輝いた…。
 数々の栄光…だけど、筆者は39年前のヤケドしそうな場面で衣笠祥雄が江夏豊にかけたその言葉の奥に、彼の持つ“やさしさと温かさ”、何よりも「人の心がわかる…」という、それでいて71年間、彼が背負ってきた彼自身の有為転変の痛みをも感じて…ただ感謝するのみである。

【江夏の21球!伝説的に語り継がれるピッチングは何がすごい?】
•2015.08.21

c0219232_15191427.jpg

⑦『江夏の21球』
キャッチフレーズから興味をそそられるこの言葉を聞いた事があるでしょうか?
プロ野球ファンの間では有名なエピソードですが、そこまで耳にする話ではありません。
知らない人も多いと思うので簡単に解説したいと思います。
〔江夏の21球〕
エピソードの主役はタイトルの通り広島東洋カープ『江夏豊』
主に阪神で長く活躍した選手でカープ在籍期間は3シーズンです。
しかし、赤ヘル黄金時代に欠かせない活躍を披露し『優勝請負人』と呼ばれカープの優勝にも大きく貢献しています。
エピソードの舞台は1979年の近鉄バファローズとの日本シリーズ最終戦。
勝った方が日本一の大一番は4対3でカープがリードする展開でした。
7回途中からリリーフで登板した江夏豊は7回と8回を無失点で抑え1点リードのまま9回のマウンドに上がります。
ここからが『江夏の21球』と呼ばれる投球内容です!
9回。先頭打者にヒットを許した江夏。
代走者にすかさず盗塁を決められ・・その後も塁を埋めてしまいノーアウト満塁のピンチを背負ってしまいます。
しかし、ここから圧巻のピッチングと投球術を披露します。
代打の佐々木恭介と相対し、カウント2-2からカーブで三振に打ち取り難なく1アウト。
ピンチは続き1アウト満塁。
打者、石渡茂に対し2球目(9回19球目)に近鉄が勝負に出ます。
同点にするべくスクイズを仕掛けてきたのでした。
この時、目の端でランナーが走ったことに気付いた江夏はカーブの握りを抜き、スクイズを外します。
3塁走者をタッチアウトし日本一まであと一人としました。
2アウト2,3塁。
スクイズを失敗した打者はもちろん打ってきます!
20球目をファウルされますが21球目のカーブで空振り三振でゲームセット。
見事に初の日本一に輝きます。
9回に投じられた21球が『江夏の21球』と言われています。
9回ノーアウト満塁から抑えただけでもすごいですが、『江夏の21球』は日本シリーズ最終戦でカープ初の日本一がかかった場面でのスクイズ外し、というドラマティックな展開で現在まで語り継がれています。
スクイズを外した場面はいろいろな意見もあるみたいです。
江夏はとっさに外したと言い。
古葉監督は練習していたと言い。
カーブの握りで外すのは不可能で、すっぽ抜けただけだという意見もあるみたいです。
あの場面で外すことができるのは一流の証ですかね?
実際に『江夏の21球』の何がすごいのか分からない人も多いらしいです。
あなたはどう思いましたか?
こういう意見が出てくることがすでに伝説なのかもしれません。


【西本幸雄と江夏の21球。~悲運の名将を偲んで~ 】

Sports Graphic Number 2011/12/09 06:00
c0219232_15205367.jpg

⑧1979年11月4日の日本シリーズ第7戦、広島vs.近鉄。
今もなお語り継がれる伝説の名勝負の最中、闘将と呼ばれた男の脳裏には、20年近くも前のある出来事の記憶が蘇っていた。
弱小チームを類まれな指導力で鍛え上げ、8度のリーグ優勝を果たしながら、ついに頂点へ到達できなかった指揮官の知られざる実像に迫る。

――2011年11月25日、“悲運の名将”と言われたひとりの野球人が不帰の客となった。西本幸雄、享年91歳。その通夜は、山田久志、福本豊、梨田昌孝ら教え子で、名選手や名指導者となった数多くの野球人たちが見送る盛大なものとなった。

2005年5月、創刊25周年記念となるナンバー626号で発表された傑作長編『西本幸雄と江夏の21球』を、故人を偲び、ここに再び掲載する。
「あの時、スクイズのサインを出したことに後悔はないよ」
 近鉄バファローズの監督だった西本幸雄は、85歳となった今、そう考えている。

c0219232_15212638.jpg

⑨2001年の日本シリーズ。ヤクルトスワローズvs.近鉄バファローズの試合で始球式にのぞんだ81歳の西本氏
 もちろん、後悔しても、過去の歴史を取り戻すことはできない。
野球は、グラウンドで行われたプレーだけが、歴史的事実として記録されるスポーツである。
むしろ、四半世紀の歳月を経て、すでにユニフォームを脱いでしまった現在、どんな過去も穏やかに振り返ることができるということかもしれない。
「ただ、スクイズという戦法が、ウチの打ちまくる野球と違っていたのは確かやな」
 西本は、そうも言った。
「パ・リーグのお荷物」とバカにされ続けた弱小チームを、6年かけてリーグ一の打撃のチームに育てあげたという自負が、西本にはあった。
頭の中では「ストライクは、三つともバットを振れ」と思っている。
「外野フライで同点や」。そうも思っている。
 しかし、次の瞬間、西本の左手が動く。
当時、サインはベンチから三塁コーチャーを経て選手に伝えられた。
西本の利き手である左手が、右肩に触る。
それが、1979年の日本シリーズの命運を決するスクイズのサインであった。
1979年、広島vs.近鉄の日本シリーズ最終戦。『江夏の21球』の舞台。
 '79年の広島―近鉄の日本シリーズは、3勝3敗で最終戦までもつれこんでいた。第7戦の舞台は、大阪球場である。
スコアは3-4。わずか1点を追って近鉄の最後の攻撃が始まっている。
 時折、冷たい雨が落ちてくる。
試合開始から、すでに3時間半近くが経過していた。
11月4日の午後4時半ともなれば、雨が濡らす黒土のグラウンドは冷え込んだ。西本は背番号「68」のユニフォームの下にウインドブレーカーを着込んで、一塁側のベンチ中央に座っていた。当時59歳である。
c0219232_15215551.jpg

⑩1967年に阪急ブレーブスを率いてチーム初のリーグ優勝を果たす(当時47歳)。その後、7年間で5度のリーグ優勝を記録した
 右のバッターボックスに、石渡茂が入った。
 ワンアウトながら、ベースは全て埋まっている。
三塁ランナーの藤瀬史朗がホームへ帰ってくれば同点。
二塁にいる吹石徳一まで生還すれば、「サヨナラ日本一」という劇的な幕切れになる。
石渡の一振りで、西本を日本一の監督にすることもできた。
「バッターボックスに入る前、監督に『サインをよう見とけ』と言われたんです。だから、スクイズのサインが出るかもしれないと思いました。
でも、僕は打ってやろうと思っていたんです。
スクイズのサインが出るまではストレート狙いで、『初球から行くぜ』と思っていました」
 石渡は、そう振り返った。
 マウンド上には、広島のリリーフエース江夏豊がいた。
「南海時代の江夏さんとは、何度も対戦していました。当時は変化球が多くて、ストレートは速くないという印象だったんです。ところが、この日本シリーズでは、球が速くなってストレートが増えていた。そのストレートを狙ってやろうと思ったんです」
 江夏のセットポジションは、突き出たお腹の上にボールがセットされる。
そのお腹をどっこらしょと持ち上げて投げ込んだのは、インコース高めのカーブだった。
石渡は、わずかにしゃがむようにしながら見送った。
「僕は、ストレートにヤマを張って、そこへ変化球が来ると対応できるタイプじゃなかった。カーブだか、フォークだかが来たので、見送るしかなかったんです」
 アンパイアの右手が、さっと上がった。
全国でスコアを記入しながら観戦している野球ファンが、ストライクを示す「○」を一つ記入する。
誰もがフッと息をつくような場面だが、その「○」が記されるわずかな間にピッチャーと監督の胸の内は急展開を見せていた。
江夏はスクイズを予感し、西本はスクイズしかないと確信した。
 マウンド上の江夏は、石渡が打ち気なく見送ったことで、初球はウェイティングのサインが出ていたに違いないと誤解した。そして、2球目に仕掛けてくるはず、それはスクイズしかありえないと考えた。
 さらに、石渡の打ち気のない見送り方は、西本の思いも急変させる。
西本は、とっさに「石渡では、江夏を打てないのではないか」と思った。
これも、西本の誤解だったかもしれない。
しかし、ストライクをあっさりと見送った石渡を見て、西本はスクイズしかないと思う。
「石渡の前に、ノーアウト満塁で佐々木(恭介)を代打に送ったけど三振やった。それも大きかったよ。江夏と石渡。
この二人を考えたら、ピッチャーの方が上かもしれん。
それなら、バットを振るより、待って当てる方がバットに当たる確率が高いと考えたわけや」

「打ち勝つ野球」より「確率の野球」にかけた西本。
 大詰めの段階で「打ち勝つ野球」より「確率の野球」を選択する。
 そして、西本は、三塁コーチャーの仰木彬へスクイズのサインを送った。
当時、二人の間のサインは、1、4、7回は右手が左腕に触った時、2、5、8回は左手で顔や胸やお腹を触った時、そして、3、6、9回は左手が右腕に触った時が本当のサインと決められていた。
さらに、両脚が閉じているか、開いているかでもサインは変わったし、「取り消し」のサインなども加えて相手から盗まれないよう巧妙にカムフラージュしてあった。
 この場面では、西本の左手が右肩に触れた。
「9回」なので左の手で右腕に触る。
その右腕の中でも右肩に触れたことが「スクイズ」を示していた。
スクイズのサインは、三塁コーチャーを経由して選手に伝えられる。
 石渡は、三塁コーチャーズボックスの仰木を見た。
「『出たな』と思いました。意外に冷静でしたよ。相手に悟られないように、そんなに早くバットを出さないで確実に当てる。三塁ランナーは足の速い藤瀬だから、しっかり転がせば同点になると、段取りを頭の中でイメージしていました」

 江夏は、スクイズがあるかもしれないと思いながら第2球のモーションを起こす。三塁ランナーがスタートを切り、バッターがスクイズの構えに入った。
ランナーの藤瀬が挟殺プレーでアウトになり近鉄の敗戦が濃厚に。
 勝ったのは、江夏だった。
 三塁ランナーのスタートが、わずかに早かった。
キャッチャーの水沼四郎が立ち上がる。江夏は、とっさの判断でアウトコース高めに外した。
握りはカーブだった。ボールは微妙に変化し、突き出した石渡のバットはむなしく空を切った。

「あのボールは、江夏さんが本当に外したんですか? 外そうと思ったらカーブなんて投げます? 僕は、今でも単なるカーブのスッポ抜けと思ってます。そして、決してバットの届かないボールじゃなかった。それなのに伸び上がるようにしてバットを出してしまった。いわゆる迎えに行っちゃった。その辺は、僕の方が冷静でなかったんです」
 石渡が「シマッタ」と思った時、三塁ランナーの藤瀬はホームベースの手前まで走り込んでいる。挟殺プレーでタッチアウト、ツーアウトとなった。この瞬間に、近鉄の敗戦が決まったようなものだった。

「もう頭が真っ白でしたよ。気持ちをとり直そうと思っても、なかなか……。まだ試合は終わってないので『打ってやろう』とは思うんですけど、ツーストライクと追い込まれたから、どんなボールでも打たなきゃいけないじゃないですか。その時点で負けですよ」
 グラウンドでは、とりあえず野球のルールに則って、ツーアウトでランナー二、三塁、石渡のボールカウント、ツーナッシングからプレーが再開される。
 近鉄ベンチの西本の顔は、青ざめている。
しかし、江夏の顔つきには、何の変化もなかった。
セットポジションから江夏が投げた3球目は、インサイド低めのストレートだった。石渡が、辛うじてバットに当ててファウル。
早いテンポで、江夏が4球目を投げる。
インサイド低め、打者のヒザ元に沈むカーブだった。
石渡のバットが空を切り、鋭く曲がり落ちたボールがキャッチャーミットに吸い込まれた。
 西本が、ベンチに座ったままうなだれている。
マウンド上では天に向かって、江夏が両腕を突き上げていた。
西本の脳裏によぎったのは、1960年の日本シリーズの出来事だった。
 このシーンは、今でも語り継がれる日本シリーズの名場面である。
また、山際淳司さんが、「ナンバー」の創刊号を飾った名作『江夏の21球』で、選手たちの心理状態を生々しく描いたことでも広く知られている。
その息詰まる攻防の中、近鉄ベンチの西本の脳裏には、かつての苦い体験が鮮明によみがえっていた。
「石渡にスクイズさせようかと思った時や。1秒もない、わずかな間のことやった」
 西本は、そう言った。
 鮮明によみがえったのは、そこから時をさかのぼること19年、'60年の日本シリーズでの出来事だった。
当時、40歳の1年生監督だった西本は、やはり、ワンアウト満塁でスクイズという作戦を失敗していた。
20年近い歳月を経て、石渡にスクイズのサインを出す直前にそのシーンがフラッシュバックしたというのだ。
スクイズが失敗し、大毎オリオンズの監督は解任された。
 '60年の日本シリーズは、西本が率いる大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)と大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)との間で争われた。川崎球場での第2戦、スコアは2-3だった。1点を追う大毎は、8回表、ワンアウト満塁と一打逆転のチャンスをつかむ。そこで右バッターボックスに入ったのが、5番に起用されていた谷本稔である。マウンドにいたのは、2戦連続の登板となる大洋のエース秋山登だった。
 第1球は、一塁寄りネット裏へのファウルボールになった。
ヒッティングである。
しかし、次の2球目、西本は作戦を急きょスクイズへと変更する。
「僕は、バットには確実に当てたんよ」とバッターの谷本は振り返る。
「『上手くいった』と思ったよ。
ところが、ピッチャーの秋山がサイドスローで、ボールが浮き上がってきたからなのか、バントしたボールにバックスピンがかかっていた。
それで地面に落ちた後、ボールが戻ってきたんよ。
一塁へ走り出して、もう1歩目か2歩目にはホームの方へ戻ってくるのが見えたから」
 そのボールをキャッチャーの土井淳がつかんでホームを踏み、一塁へ転送。ワンアウト満塁という絶好のチャンスは、一瞬にしてついえてしまった。
試合は、そのまま大きな動きもなく終わり、初戦に続いて大毎は連敗する。
「この谷本のスクイズ失敗っちゅうのは、どこの監督しとっても、オレの頭の芯にこびりついとるね」
 西本の告白である。
「だって、スクイズ失敗して、それからオーナーと喧嘩やもん。で、監督をクビやろ。オレの野球人生の中でも大事件やぞ」

【平蔵の独り言】
衣笠祥雄さんなくして「江夏の21球」はあり得なかった。
「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」
(西本幸雄と江夏の21球。~悲運の名将を偲んで~)

衣笠祥雄さんと「江夏の21球」

というよりは近鉄バファローズ ファンとして小学校4年からパ弱小球団のドラマ見て、唯一日本一になるチャンスだった西本監督、バファローズと「江夏の21球」スクイズは外されたことは忘れる事ができない!

【独り言】
星野仙一で昭和49年の長嶋引退試合
そして今度は衣笠祥雄で「江夏の21球」

西本幸雄さん、三塁コーチは仰木彬さん

いい時代だった!


[PR]

by asanogawa-garou | 2018-05-10 14:59 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔小林昭子(83)徹子の部屋〕「きょうよう」(教養)と「きょういく」(教育)が歳をとったら必要だ。   

2018年 04月 18日
〔小林昭子(83)徹子の部屋〕「きょうよう」(教養)と「きょういく」(教育)が歳をとったら必要だ。


c0219232_16120749.jpg

①徹子の部屋 美容研究家・小林照子(83歳)「教養と教育」(きょう 用がある。きょう 行くところがある。) 2018/3/28

〔教養〕と〔教育〕歳を取ったら必要だ!
〔教養〕今日 用がある
〔教育〕今日 行くところがある


【『100歳になっても脳を元気に動かす習慣術』 『頭の体操』心理学者の多湖輝(著)】
【朝日新聞「天声人語」  2013年7月14日(日)】
〔多湖輝さんがNHKラジオ深夜便の早朝時間帯で80歳を過ぎたことば〕
【サラリーマン 「定年ホームレス」】(夫源病「わしもわしも」の「わしも族」)
〔■夫源病の恐怖、家も居場所なし〕
〔では、退職後に居場所がない「定年ホームレス」はどこにいるのか。〕
〔■自覚なきナルシストたち〕



〔小林昭子(83)徹子の部屋〕「きょうよう」(教養)と「きょういく」(教育)が歳をとったら必要だ。
〔(前向き)な言葉を言うのが大切〕疲れることがあったとして口にしない。(楽しいことをしたら、疲れない)
〔(マイナス)な言葉は口にしない〕マイナスを口にしたら実現してきてきちゃう。ブーメランのように自分。
・嫉妬しない、もう歳出し、私なんて(自分を卑下しない、その途端に人は老けていく)
(それを書いちゃう、書くことと口にするが大事!)
〔いくつになってもやることで始まる〕8年前に学校をこれから始めるんです!(美意識の強い子が集まって8人)


「美容研究会・小林昭子(83歳)徹子の部屋180328」

c0219232_16160519.jpg


心理学者(多湖輝)「キョウヨウ」と「キョウイク」
教養と教育ではなく「今日、用がある」と「今日、行くところがある」

~“奇跡の美肌"を持つ83歳…美と健康の秘訣~美容研究家・小林照子さんが今日のゲストです。
番組詳細 83歳にして現役のメイクアップアーティスト、美容研究家として活躍している小林照子さんがゲスト。
今日は、すぐマネしたくなる美と健康のコツが満載!
美容業界歴63年、「美容界のカリスマ」とも呼ばれている小林さん。
まず驚いたのは、その美肌。みずみずしいツヤ肌は、とても83歳とは思えない。
興味津々の黒柳さんに、その美しい肌を保つ秘訣を公開。
誰にでも試せる簡単な方法だが、毎日続ければずいぶん変わるという。
また、実年齢を感じさせない若々しさは、姿勢の良さにも。
スッと伸びた背筋の秘密は、実は自宅のキッチンに隠されていた!その様子をVTRで紹介する。


【『100歳になっても脳を元気に動かす習慣術』 『頭の体操』心理学者の多湖輝(著)】
一昨年に出した『100歳になっても脳を元気に動かす習慣術』 『頭の体操』で知られる心理学者の多湖輝(たごあきら)さんの著書にあるそうだ。

『100歳になっても脳を元気に動かす習慣術』
c0219232_16174115.jpg



【朝日新聞「天声人語」  2013年7月14日(日)】

体が引き締まり、日に焼け、すこぶる元気そうである。
すこし前に退職した会社の先輩と先日偶然会い、立ち話をした。
日々の暮らしぶりを楽しげに語ったが、そこには秘訣(ひけつ)があるらしい

▼「キョウヨウ」と「キョウイク」なのだという。
教養と教育かと思いきや、さにあらず。
「今日、用がある」と「今日、行くところがある」の二つである。
なるほど何も用事がなく、どこにも行かない毎日では張り合いがあるまい。
かつての同僚から聞かされて実践しているという
▼その同僚も誰かから聞いたというから、かなり流布している教えなのだろう。調べてみると、『頭の体操』で知られる心理学者の多湖輝(たごあきら)さんの著書に行き着いた。
一昨年に出した『100歳になっても脳を元気に動かす習慣術』で紹介している
▼多湖さんも100歳に近い大先輩に教わったのだそうだ。
「ボケないための頭の使い方」を実に巧みに表現した言葉だと絶賛する。
老後をどう生き生きと過ごそうかと誰しも考える。この話はわかりやすく、納得感もあるから、伝言ゲームよろしく広がっていくのも道理だろう
▼日々の原稿に追われる身としてはまだ先の話と思いたくなるが、山登りや畑仕事に忙しい件(くだん)の先輩に諭された。
「いまのうちから考えておけ」。
たしかに定年を迎え、突然訪れた空白の時間の大きさに心身の失調をきたす人もいると聞く
▼生来のものぐさ向けのボケ防止策はないものか。
多湖さんも勧めるようにせめてよく笑うことにしようか。
*****

c0219232_16193586.jpg


心理学者(多湖輝)「キョウヨウ」と「キョウイク」
教養と教育ではなく「今日、用がある」と「今日、行くところがある」

教養:今日 用がある
教育:今日 行くところがある

[キョウヨウ」と「キョウイク」?? 教養と教育?  いいえ、違います。

「ボケないための頭の使い方」は「キョウヨウ」と「キョウイク」なのだという。
教養と教育かと思いきや、さにあらず。
「今日、用がある」と「今日、行くところがある」の二つである。

その通りだと思う。うまい言い方をするもんだ。


〔多湖輝さんがNHKラジオ深夜便の早朝時間帯で80歳を過ぎたことば〕

「年齢を重ねるほど教養と教育が必要です」と語り始めました。
かなり流布している名言です。
 中高年になって大事なのは「教養」と「教育」?
 さにあらず「きょうよう」は「今日、用事・用件があること」「きょういく」は「今日いく所があること」実に巧みな表現です。いつも好奇心をもち、外出することがボケないための頭の使い方なのですね

【サラリーマン 「定年ホームレス」】(夫源病「わしもわしも」の「わしも族」)
〔■夫源病の恐怖、家も居場所なし〕
 「夫が家にいるようになってから、頭痛とめまいがするようになった」と訴える50代後半の主婦。
離れて暮らす娘に電話で相談したところ「それって夫源病じゃない?」と指摘された。
〔では、退職後に居場所がない「定年ホームレス」はどこにいるのか。〕
図書館と裁判所、そして公園。
お金のかからないこの3カ所が“聖地”らしい。取材班はその実態を探ってみた。
〔■自覚なきナルシストたち〕
「こんなシニアは使えない」

c0219232_16352851.jpg

⑤サラリーマン 「定年ホームレス」の落とし穴
2016/9/20 6:30


【平蔵の独り言】
徹子の部屋 美容研究家・小林照子(83歳)「教養と教育」(きょう 用がある。きょう 行くところがある。) 2018/3/28

〔教養〕と〔教育〕歳を取ったら必要だ!
〔教養〕今日 用がある
〔教育〕今日 行くところがある

心理学者(多湖輝)「キョウヨウ」と「キョウイク」
教養と教育ではなく「今日、用がある」と「今日、行くところがある」

その通りだと思う。うまい言い方をするもんだ。

【独り言】
美容研究家・小林照子(83歳)「教養と教育」
に教えられた。

古稀を迎え、ここ数年(いや、10年)、1日のおわりに
5年日記に寝る前、一日の出来事を書く。明日の予定、
今日はどんな日だったか?誰と話したか、会ったか?
何か書き留めておくイベントは?
を書いて気が付けば三冊目。(還暦から一日7行なので続いているのか?)

1日7行:5年分(同年同月同日)
1行目:天気・起床時間・気温(主な予定(前日に必要なこと記入)
     ・翌日の予定の確認にもなる(特別に変わったことはほとんどない)
2~4行:2行目起床して  3,4行どんなことがあった(した)
5行目:体調は
6行目:
7行目:今日はどんな日だった。(最後に血圧計の数字)

〔教養〕今日 用がある
〔教育〕今日 行くところがある

月初に去年の同じ月にやったこと⇒今月の予定
今日やったこと(イベント)来年の同月同日に必要なことを書く。
4.11(内視鏡検査実施⇒内視鏡検査予約)

c0219232_16355536.jpg


そして、明日のページに予定を書いて、寝る・・・・・・
(月に数回、書いてない。気が付いたら書く、「今 6時」)

【平蔵の独り言】
〔(前向き)な言葉を言うのが大切〕疲れることがあったとして口にしない。(楽しいことをしたら、疲れない)

〔(マイナス)な言葉は口にしない〕マイナスを口にしたら実現してきてきちゃう。ブーメランのように自分。

・嫉妬しない、もう歳出し、私なんて(自分を卑下しない、その途端に人は老けていく)

(それを書いちゃう、書くことと口にするが大事!)

〔いくつになってもやることで始まる〕

【独り言】
(前向き)な言葉を言う。(楽しいことをしたら、疲れない)
→なんとなく納得(楽しい)

(マイナス)な言葉は口にしない。(ブーメランのように自分)
→マイナスの言葉はその通りに実現してしまう、と聞いたことがある。

嫉妬しない、もう歳出し、私なんて。
→以前口にしていたら、自身も周りも気分がネガテッブになってきた、経験がある。

日記に書いちゃうと一日で完結する。

[PR]

by asanogawa-garou | 2018-04-18 16:44 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔星野仙一〕もっとも俺が頭を下げるのは長嶋さんと王さんしかいない。あの2人以外に頭を下げることはないよ。   

2018年 01月 29日
〔星野仙一〕もっとも俺が頭を下げるのは長嶋さんと王さんしかいない。あの2人以外に頭を下げることはないよ。


c0219232_16283202.jpg

①星野仙一さんが最後まで突き通した美学「ON以外に頭を下げない」
スポニチアネックス2018年1月6日 8時30分

【「さあ仙ちゃん、来い」と心燃やした 長嶋茂雄さん】
【ONに真っ向勝負した星野仙一さん、“流し打ち”王さんに文句 ミスター「心を燃やすことができた」】
【中日が巨人のV10を阻止して20年ぶりリーグ優勝】
【 中日 20年ぶり優勝が吹っ飛んだ 長嶋茂雄引退を表明】
【星野の巨人相手に闘志むき出しの投球にファンは歓喜】


・4日に亡くなった星野仙一さんと親交のある記者がつづっている
・2017年12月24日にも言葉を交わし、最後まで美学を貫いたという
・「俺が頭を下げるのは長嶋さんと王さんしかいない」

星野仙一氏死去 ドラフト会場で感じた“異変” 足元おぼつかず何度も…
2018年1月6日 8時30分 スポニチアネックス

c0219232_16302664.jpg


 ◇星野仙一氏死去 【悼む――本紙・宮内編集主幹】夏場にさしかかったころだった。
肌荒れが目立ち、痩せ始めていた。
人一倍、身だしなみに気を使っていたのにスーツが身体に合っていない。
見て見ぬふりをしていたが、異変をじかに知る時がきた。

 10月26日、グランドプリンスホテル新高輪で行われたドラフト会議。
開始直前、楽天の控室から会場まで並んで歩いた。
「結局のところ、1位は誰で行くのですか?」。
小声で訊ねると「清宮でいくよ。迷ったけどな」。
この時、星野さんの左肩が何度も私に当たった。
一度や二度ではない。足元がおぼつかないことは明らかだった。「大丈夫ですか?」と顔をのぞき込むと「大丈夫だ。君は自分の体の心配をしていればいい」とかわされた。

 最後に言葉をかわしたのは昨年暮れ、12月24日のことだった。

 「メリークリスマス?俺は仏教徒だからなぁ(笑い)。
最近は元気じゃないよ。
大阪のパーティー(12月1日、殿堂入りパーティー)が終わってからグダーっときてな。
仕事をいっぱい入れたし、その反動かな。
このままじゃ死んじゃうんじゃないかと。
年明けも講演の仕事が入っているんだが、最近は1時間話すとゼーゼーだ。
前はこんなことなかったんだけどな。
立っているのがつらいんだ。
座ってもいいんだけど、それじゃあ、みっともないし、迫力がないだろ。身ぶり手ぶり、アドリブでやるのが俺のやり方。人生もそうだけどな」

 田淵幸一さんのこと、山本浩二さんのこと…。
仲間の近況をあれこれ語った後、こう締めくくった。

 「キャンプは梨田に任せておけばいいし、チームが困った時に頭を下げるのが俺の仕事。もっとも俺が頭を下げるのは長嶋さんと王さんしかいない。あの2人以外に頭を下げることはないよ。今日は家族全員が集まっているんだ。やっぱりメリークリスマス?まあ、そういうことだなぁ(笑い)。良いお年を」

 あれからわずか11日。松の内が明けないうちに年頭のあいさつを、と考えていた矢先の訃報に言葉もない。どうか間違いであってほしい。 (編集主幹・宮内 正英)


c0219232_16313895.jpg

③14年、楽天退任セレモニーでスポットライトにてらされながら入場する星野氏

c0219232_16315730.jpg

【「さあ仙ちゃん、来い」と心燃やした 長嶋茂雄さん】

④2018年1月6日11時37分 特集:星野仙一さん死去
 〈巨人・長嶋茂雄終身名誉監督の話〉
 あまりにも突然の事で本当に残念でなりません。
昨年11月に開かれた仙ちゃんの「野球殿堂入りを祝う会」で「これからも野球界のために力を貸して」とメッセージを送ったばかりです。
「打倒巨人」を前面に闘志満々でぶつかってきた投手だったからこそ、私も負けずに「さあ仙ちゃん、来い」と心を燃やすことができ、対戦するのが本当に楽しみでした。
監督としても多大な実績を残され、さらなるご活躍を期待していました。ご冥福をお祈りします。

【ONに真っ向勝負した星野仙一さん、“流し打ち”王さんに文句 ミスター「心を燃やすことができた」】

c0219232_16343274.jpg

⑤「流し打ちはないでしょう! もう勝負しませんよ。思い切り打ってくれ!」と王に文句を言ったという。

c0219232_16350637.jpg


87年、熊本・藤崎台球場で両軍の乱闘時に王監督(右)へ詰め寄る星野監督 【報知新聞社】
01月07日 06:00
 星野仙一氏は現役時代、巨人の主砲・王貞治(現ソフトバンク球団会長)に真っ向勝負を挑んだ。
対戦成績は195打数62安打、打率3割1分8厘。被本塁打は24本もあった。
常に全力投球だったが、それを表すこんなエピソードがある。
 77年の巨人戦。打撃不振だった王が、星野氏の投球を流し打ちした。数日後、「流し打ちはないでしょう! もう勝負しませんよ。
思い切り打ってくれ!」と王に文句を言ったという。
 中日監督時代の87年6月11日、熊本での巨人戦では乱闘の際、拳を王監督の眼前に突き出したことも。
王会長は訃報に「闘志を前面に出したあの攻撃的な投球は、勝負していて、とてもやりがいのある投手でした。
昨年、野球殿堂入りのパーティーでお会いしましたが、こんなに急に亡くなられるとは、とにかく残念でなりません」とコメントした。

 もう一人の好敵手・長嶋茂雄(現巨人終身名誉監督)との通算対戦成績は111打数26安打。
打率2割3分4厘と抑えた。
ミスターも「あまりにも突然のことで残念でなりません。
『打倒巨人』を前面に闘志満々でぶつかってきた投手だからこそ、『さあ仙ちゃん、来い』と心を燃やすことができ、対戦するのが本当に楽しみでした。ご冥福をお祈りします」と悼んだ。
 「V9戦士が俺を育てた」と話していた星野氏。
強い巨人がエネルギーの源だった。


【中日が巨人のV10を阻止して20年ぶりリーグ優勝】

c0219232_16364053.jpg

⑦打倒巨人に燃え、1974年は最多セーブに輝いた星野仙一

1972年に優勝から遠ざかっていた中日ドラゴンズの監督に就任したのは、与那嶺要監督でした。
与那嶺要選手は現役時代、ベストナインを通算7回受賞するなどの活躍で第2期巨人黄金時代を支えた名選手でしたが、晩年巨人を戦力外になり、中日に移籍。
以降巨人や、戦力外になるきっかけだったと言われている巨人の川上哲治監督に対して闘志をみなぎらせていました。

c0219232_16371089.jpg

⑧与那嶺監督
当時1965年~1973年まで、9年間連続してセントラル・リーグ優勝を果たしていたV9時代の巨人を相手に1972年・1973年と連続で勝ち越し。
そして1974年は髙木守道、星野仙一、松本幸行、トーマス・マーチン、谷沢健一らが活躍し、巨人のV10を阻止して2回目のリーグ優勝を果たしたのです。
(この際、巨人とのゲーム差は0)

【 中日 20年ぶり優勝が吹っ飛んだ 長嶋茂雄引退を表明】


【10月12日】1974年(昭49) スポニチ
マウンド上の星野仙一投手は帽子をとって右手に握り締め、雄たけびを上げながらガッツポーズ。

 【中日6―1大洋、巨人7―5ヤクルト】午後8時9分、中日球場。ついにその瞬間が訪れた。大洋・山下大輔遊撃手のライナーを中日・島谷金二三塁手が拝むようにしてキャッチすると、マウンド上の星野仙一投手は帽子をとって右手に握り締め、雄たけびを上げながらガッツポーズ。
駆け寄ってきた木俣達彦捕手が星野に飛びつくと、次々にナインが集まり、歓喜の輪が広がった。

c0219232_16384877.jpg


 中日ドラゴンズが54年(昭29)以来、20年ぶり2度目のリーグ優勝を決めた。65年(昭40)から始まった、巨人のV10を阻止しての悲願の優勝だった。

 興奮のるつぼと化した名古屋から約370キロ離れた東京・神宮球場は、プロ野球の歴史に大きな足跡を残したプレーヤーが引退を決意して、試合に出場していた。
巨人・長嶋茂雄三塁手は、17年間の現役生活に別れを告げることを決め、中日の優勝が決まれば、これを発表することにしていた。

 6回、ヤクルトの攻撃中に突然ネット裏の報道陣に巨人の広報からの知らせが入った。「試合終了後、球場内貴賓室で長嶋、川上監督が会見」。
番記者たちは来るべきものが来たと感じた。
シーズン前からささやかれていた、ミスター・ジャイアンツがユニホームを脱ぐ日。
各記者は集めた情報を元に「長嶋 引退表明」の原稿を書き始めた。

 午後10時前、長嶋が口を開いた。
「肉体的にも峠が来た。今年ほど“老い”を感じたことはなかった。17年間、自分でも本当によくやったと思う。それが現在の心境だ」。

 よりによって、中日の久々優勝の時にやらなくても…、という声も球団内部にはあった。
しかし、事前に組まれたスケジュールがそうさせてしまった。

 26日に米大リーグのニューヨーク・メッツが親善試合のために来日。
1カ月近くにわたって日本中を転戦することが決まっていた。
それに合わせて日本シリーズは16日から組まれていた。
中日は4日後にロッテとシリーズを戦わなければならないタイトな日程。
シリーズ中に引退表明するわけにもいかず、親善試合終了後に伝えるのもファンに失礼にあたる。
かといって、優勝の可能性が巨人に残されている以上、分かってはいても巨人の顔の長嶋が引退を表明しては、チームの士気にかかわる。
結局、公式戦中にファンの前で長嶋が別れのあいさつができるのは、優勝が決まった後の13日の後楽園での中日とのダブルヘッダーしか残されていなかった。

c0219232_16392422.jpg


 長嶋の引退表明で中日の優勝は割を食った形になった。
各スポーツ紙の1面はドラゴンズの系列以外、すべて長嶋の記事。中日Vも1面に載ったが、いわゆる“肩”と呼ばれる2番手扱いの記事として紙面の端に寄せられた。

 水を差された中日は、雨で14日に順延になった試合で長嶋の引き立て役に。
ロッテとのシリーズでも2勝4敗で敗れ、巨人から10年ぶりに王座を奪ったというのに、少々寂しい優勝となった。
[ 2011年10月12日 06:00 ]

【星野の巨人相手に闘志むき出しの投球にファンは歓喜】
1969年にドラフト1位で入団した星野は、岡山の出身(後年、母親の出身地と両親が出会った地が名古屋だったことがテレビ番組の取材で判明している)だったものの、中日在籍中も自宅は東京にあった杉下や西沢と違って、結婚して合宿所を出ても名古屋に自宅を構えていた。

c0219232_16402476.jpg


また1968年秋のドラフト前に、田淵幸一の「外れ1位」指名を約束しながらそれを反故にした巨人相手に闘志むき出しの投球を見せ、通算成績でも35勝31敗と勝ち越したことも地元ファンの共感を呼んだ。
そして全国区の大スターに
特に1974年(昭和49年)は49試合に登板して先発17、リリーフ32とフル回転し、15勝に加えて10セーヴを上げて、この年制定されたセーヴ王の初戴冠者となり、20年ぶりのリーグ優勝と巨人のV10を阻止する立役者となったことで、中日における大スターとしての地位を不動のものとした。
さらに現役引退後は親会社系列の中部日本放送(CBC)などの地元放送局でなく、NHKの専属解説者となって全国ネットの野球中継解説やスポーツ番組のキャスターとして出演することにより、その人気は「全国区」へと広がった。
まさに星野は創立以来バラバラだった中日のチームカラーを一つにまとめた人物であり、日本国憲法下における「象徴天皇制」の精神と同様に、「中日ドラゴンズ球団とファン統合の象徴」と言うべき存在だったゆえに、新人監督として異例の権限を与えられることになった。

c0219232_16405384.jpg


【平蔵の独り言】
阪神、楽天の監督の印象が強い同世代
今回、あっという間に旅立って 仰木彬監督と重なる。

自身の人生の節目に星野仙一がいた!
昭和49年10月後楽園球場長嶋選手(背番号3)の引退試合
小学生の頃から巨人ファン(というより下町は野球は巨人しか知らない)
若気の至りで会社を辞め、退職金で免許取得・車入手(ブルーバード510sss)
たまたま面接日、後楽園球場の横を車で通ると“ワアー”と言う歓声
「あっ!長嶋の引退試合だ。中日とのダブルヘッダー(消化試合)」
車を後楽園の庭園にアパートが建っていて、路駐
球場に内野立見席で入場(ダブルヘッダー第一試合)
第一試合でホームラン!
第一試合と第二試合の間に長嶋が球場を花束、ハンカチ、時折立ち止まり涙を拭う
第二試合になると係員もいなくなり、バックネットの空き席で観戦
そして、試合終了
今でも放送されるマウンドの立ち、ポットライトの中
「我、巨人軍は永遠に不滅です」
を、バックネットのネットにへばり付き、聞いた。

【独り言】
昭和49年の長嶋引退試合
(前夜、日テレ11PMで長嶋の現役引退、明日の中日との試合、を
引退試合との特番)記憶に間違いがなければ・・・・・

中日は名古屋で優勝記念パレードで試合出場選手は背番号が2桁も50以上の二軍が出ていた。

引退試合の観戦(面接すっぽかし)
その後、前職関係者に「まだ、うろうろしているのか」
見つけ出され、今も現役で古稀

中日優勝の立役者が熱い“星野仙一”
昭和49年を記憶、思い起こさせてくれた。


[PR]

by asanogawa-garou | 2018-01-29 16:44 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

「よそ者」人生:日本の世間と感覚がズレているからこそ、作品や研究を生み出せる。(〔物書き人生〕最終章・養老孟司 VS.塩野七生) 共に御年満80歳   

2018年 01月 17日

「よそ者」人生:日本の世間と感覚がズレているからこそ、作品や研究を生み出せる。(〔物書き人生〕最終章・養老孟司 VS.塩野七生) 共に御年満80歳

c0219232_16252260.jpg


養老孟司さんと塩野七生さんは、共に御年80の「同級生」である。旧知の仲でもあるそのお二人が、相次いで新書を出版。
デビュー50年の塩野さんが著したのは『新しき力』。
「ギリシア人の物語」全3巻の悼尾を飾る本書は、歴史長編としては、塩野さんの最後の著作となる。
その作品で主人公に選んだのは、アレクサンダー大王、最後の先品として最も若い主人公である。
一方の養老さんは『遺言』。
一気呵成の書き下ろしとなる本作は、動物とヒト、感覚と意識、アナログとデジタルなどの概念を考察することによって、いまの時代の「おかしさ」を浮き彫りにした新書である。

〔よそ者〕「よそ者」人生
〔「よそ者」「はぐれ者」〕
〔AI(人工知能)〕AIが処理できない存在
〔健康診断〕
〔僕らが小さい頃は80歳まで生きている人はヘンな人というくらい珍しかった〕
〔心配しないで。いずれどうにかなりますよ(笑)〕


〔よそ者〕「よそ者」人生
(塩野)「よそ者」性がないと、常識や当たり前のことに対して「何で?」という疑問を持てなくなるという面がありますよね。
例えばなぜオリンピックが生まれたのかという疑問に対して、多くのヨーロッパ人の間では「戦争ばかりしているのは不毛だから、休戦のためのイベントでもしようということで始まった」というのが常識になっています。
でも私は「よそ者」だから「なぜ」と興味を持って調べていくわけです。
だからもしあの時に養老さんの提言を受け入れて鎌倉に移住していたら「ギリシャ人の物語」は書けなかったかもしれません。
c0219232_16291744.jpg


〔「よそ者」「はぐれ者」〕
(養老)作家というのは、ある程度、「よそ者」性が必要なんです。
「よそ者」性が日本の世間と感覚がズレている「はぐれ者」と感じます。

〔AI(人工知能)〕AIが処理できない存在
(塩野)人工知能によってヒトは職を奪われると言われているけれど、私はちっとも怖くありません。
塩野七生はデータ化不能なものを扱っているから。
だってギリシャの歴史はデータにできないものに突き動かされて書くものだから。

(養老)人間の意識がある時間は、1日の3分2しかないし、その前後だってだいぶ怪しい。
お酒を飲んだりすればあやふやになったりするでしょう。
にもかかわらず、その意識を絶対視して、人間にとって一番最後に進化してきた部分だけをAIにしているんですよ。
だからものすごくたくさんのものが欠落している。
AIの中には、0か1しかない。でも0と1の間には無限があるけど、それは“ノイズ”なのでAIが処理できない存在です。

(塩野)そうか、塩野七生が考えることもノイズということね。
(養老)だからデジタル慣れした人は、同じ室内にいてもメールで話したりするんですよ。なぜなら対面でやり取りするとノイズだらけで邪魔になるから。
(塩野)直接話すことは大事よね。
国際電話で編集者と話していると、それまで考えつかなかったようなことを思いついたりするんです。
編集者は長電話で迷惑かもしれないけど(笑)。
私はコンピュータには触らないし、ケータイも持っていないんです。
ここまでアナログだと絶望的ですよね。
いい加減、始めるべきなんでしょうけれど。
(養老)別にいいんじゃないですか。これからはデジタルからアナログに戻る。というよりも、デジタルに対する人間の対応が変わってくるでしょうね。

〔健康診断〕
塩野:日本で倒れたことがあって調べたらタンパク質の数値がとても悪かった。
でも、帰国してイタリアで検査を受けてみたら許容範囲内だった。
日本とイタリアでは許容範囲が全然違うんです。

c0219232_16311800.jpg


最も偉大なイタリア人女性科学者、リータ・レーヴィ=モンタルチーニ
〔僕らが小さい頃は80歳まで生きている人はヘンな人というくらい珍しかった〕
〔人間ダメな時はダメになりますから大丈夫ですよ〕
〔心配しないで。いずれどうにかなりますよ(笑)〕

(塩野)我々はもう80歳まで生きたんですから、何があってもどうってことないですよね。
(養老)十分ですよ。あとは余計なお世話で生きているだけです。
僕らが小さい頃は80歳まで生きている人はへんな人だ、というくらい珍しかった。
(塩野)私は人に迷惑をかけないようになるべく適度な時に死んだ方がいいと思っているの。
だから長生きのために必要なことと反対のことをするようにしています。タバコは吸う。お酒は飲む。ご飯は好きなものを好きなだけ食べる。
でも何かを食べたいと思っているうちはーーー。
(養老)元気だということ(笑)
いいじゃないですか。
人間ダメな時はダメになりますから大丈夫ですよ。
(塩野)イタリアの学者でノーベル生理学・医学賞をとったリータ・レーヴィ=モンタルチーニは100歳になった時にテレビのインタビューを受けていたんです。
とってもおしゃれでエレガントな方で。
長生きの秘訣を尋ねられて彼女は
「明日目が覚めたら何をすべきかが、私にはわかっているから」と答えていたんです。
その時、私も同じかもしれないと思ったんです。
(養老)心配しないで。いずれどうにかなりますよ(笑)

週刊新潮2018/1/4・11新年特大号

【平蔵の独り言】(よそ者)(はぐれ者)に寛容な社会

〔よそ者〕「よそ者」人生
〔「よそ者」「はぐれ者」〕
〔AI(人工知能)〕AIが処理できない存在

【独り言】
(よそ者)(はぐれ者)に寛容な社会
団塊の世代の“市井”はこんな社会にいたような気がする。

小学3年:担任が年賀状「届かなかった」と言われた。
小学3年の学年末:“挨拶もしない”で転向
転校先:すぐ親切にしてくれた子はクラスの嫌われ者
中学:教室が足らないので二部授業
こずかいのもらえない者同士が夏休み、町工場でアルバイト
(格差社会は当時からあった。貧乏同士、助け合った)
高校、大学:新設校を量産
就職先:希望先は全滅、専門分野で滑り込み
いろいろと紆余曲折はあったが、この分野で来年は50年
(希望先、全滅で良かったと思う。まだ、現役である)

【平蔵の独り言】検診を受けながら、古稀は過ぎ、喜寿へ

〔健康診断〕
〔僕らが小さい頃は80歳まで生きている人はヘンな人というくらい珍しかった〕
〔心配しないで。いずれどうにかなりますよ(笑)〕

【独り言】
48歳:生死を彷徨う(まだ独り言できない)
その後:胆管結石(胆嚢全摘)左冠動脈狭窄(カテーテル)
顔面神経麻痺、歯周病(2本奥歯インプラント)、ドライアイ
胃カメラ、大腸内視鏡、

⇨“今、古希 70歳" ヘンな人、いずれどうにかなりますよ の前に"喜寿"
還暦から古稀まで気がつけば、早かった。

〔僕らが小さい頃は80歳まで生きている人はヘンな人というくらい珍しかった〕
へんな人〔心配しないで。いずれどうにかなりますよ(笑)〕



[PR]

by asanogawa-garou | 2018-01-17 16:22 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔五木寛之〕【百年人生への不安】(後生( ゴショウ) が不安なんですよ) 〔後半生が大変〕   

2018年 01月 11日
〔五木寛之〕【百年人生への不安】(後生( ゴショウ) が不安なんですよ)  〔後半生が大変〕
この国でいう後生(ゴショウ)とは今生(コンジョウ)の後のことだ。
今生とは現世である。だから死んだ後のことが後生なのだ。

c0219232_15133587.jpg

〔後半生が大変〕
〔健康寿命と経済寿命〕
〔加齢というのはとんでもなく厄介なものなのである〕


「やっぱり後生のことが気になりますよね」それを時代の先端をゆくテレビ局のディレクターが口にするのが納得がいかない。

「きみのお家の宗旨は?」
「さあ。たぶん曹洞宗だと思いますけど」
「ふ~ん。どうして後生が気になるんだい」

「定年退職後の人生が気になるのは当然じゃないですか」
「えっ、きみみたいな若い人でも、やっぱり後生のことが気になるのかい」
「そりゃあ、気になりますとも。ぼくだってあと五、六年たてば定年退職ですから」
「失礼だが、きみは、いくつだっけ」
「四十九です」

若いディレクターと書いたが、八十五歳の私にとっては五十歳以下はみな若い人に感じられるのである。

「五十代半ばで定年だって?まさか」
「法律はともかく、うちの局では定年が五十五歳です。だから後生が不安なんですよ」

彼の言うことはわかるのだが、その後生という言葉の使いかたがよくわからない。


後生というのは、この国では一種の仏教用語だからである。
後生をコウセイと読めば中国流になる。
<後生畏るべし(こうせいおそるべし)>とは論語の言葉と昔教わった。
羽生永世七冠が藤井四段に抱く感想だろう。
後生とは後輩、若い人のことだ。

しかし、これをゴショウと発音すると、かなり変わった意味になる。
この国でいう後生(ゴショウ)とは今生(コンジョウ)の後のことだ。
今生とは現世である。だから死んだ後のことが後生なのだ。
「後生、お頼みもうします」
とか、「死んだあと、お浄土にいけますように」
などと昔のお年寄りはひたすら念じたものだった。
「後生の一大事」というのは、ちゃんと往生、成仏できるかどうかという話である。


〔後半生が大変〕
つまり彼のいう後生とは、退職後の生活のことであるらしい。
あの世の話ではないのだ。彼は続けて、
「最近、百年人生というじゃないですか。
そうなると五十代で退職しても、あと五十年ちかく生きなきゃならない。
その後半五十年が不安でないわけがないでしょ」
「要するに後半生のことを言ってるんだね」


〔健康寿命と経済寿命〕
平均寿命よりも健康寿命が大事、とはよく言われることである。
しかし寿命は必ずしも健康に比例しない。
そして、健康寿命のほかに経済寿命ということもある。
特別な人たちをのぞいて、一般に長生きだとお金の苦労をすることが多い。
貯金や年金なども余り当てにできないのである。


〔加齢というのはとんでもなく厄介なものなのである〕

さらに年をとるということは、体のあちこちが不自由になるということだ。
私も現在、身体的能力は十年前にくらべて半減しているといっていい。
道に落とした一円玉を、親切に注意してくれる人がいる。

「一円、落とされましたよ」
「あ、どうも。ありがとう」

と礼を言っても、人通りの多い道路で体をかがめてその一円貨幣を拾うのは、大変な苦労なのだ。
路面に片膝をつかなければ手がとどかないのである。
拾ったら拾ったで、起ちあがるのにまたひと苦労する。
情けないことに、何か片手でつかまるものがないと、膝がガクガクしてなかなか起てないのだ。

万事につけそんな具合いで、加齢というのはとんでもなく厄介なものなのである。

コップ一杯の水を飲むのにも誤嚥しないように慎重に飲まなければならない。
つい二、三日前も、飲んだ水にむせてジタバタしたばかりだ。
百年人生も結構だが、後生のことより後半生のことを重荷に感じるのは、私だけだろうか。

c0219232_15184938.jpg

〔生き抜くヒント!(五木寛之)〕週刊新潮2018/1/4.11号


【平蔵の独り言】
この国でいう後生(ゴショウ)とは今生(コンジョウ)の後のことだ。
今生とは現世である。だから死んだ後のことが後生なのだ。

〔後半生が大変〕
〔加齢というのはとんでもなく厄介なものなのである〕

【独り言】後生と後半生
後生?・・・・・(ゴショウ)
今生(コンジョウ)→今生の別れ(この世)は分かるが

〔後半生が大変〕やはり、後半生の今が大変だ!

加齢:健康を求める戦い(団塊世代はやはり戦うような時代)


【平蔵の独り言】
体をかがめてその一円貨幣を拾うのは、大変な苦労なのだ。
コップ一杯の水を飲むのにも誤嚥しないように慎重に飲まなければならない。

【独り言】
腰をかかめて、膝を曲げて、そして伸ばして:大変!
誤嚥しないように薬を飲むときは、
まず(eテレで見た)誤嚥防止の口のストレッチ!



[PR]

by asanogawa-garou | 2018-01-11 15:22 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

向田邦子「眠る盃」〔中野のライオン〕〔新宿のライオン〕   

2018年 01月 07日
向田邦子「眠る盃」〔中野のライオン〕〔新宿のライオン〕

c0219232_16525332.jpg


【中野のライオン】
今の住まいは青山だが、二十代は杉並に住んでいた。
日本橋にある出版社に勤め、通勤は中央線を利用していたのだが、
夏の夕方の窓から不思議なものを見た。

場所は、中野駅から高円寺寄りの下り電車の右側である。

その日は、どうした加減か人並みの時間に吉祥寺行きの電車に乗っていた。
当時のラッシュ・アワーは、クーラーなど無かったから車内は蒸し風呂であった。
吊皮にブラ下り、大きく開け放った窓から夕暮の景色を眺めていた。

私が見たのは、一頭のライオンであった。
お粗末な木造アパートの、これも大きく開け放した窓の手すりのところに、一人の男が坐っている。
三十歳位のやせた貧相な男で、何度も乱暴に水をくぐらせたらしいダランと伸びてしまったアンダー・シャツ一枚で、ぼんやり外を見ていた。

その隣りにライオンがいる。
たてがみの立派な、かなり大きい雄のライオンで、男とならんで、外を見ていた。
すべてはまたたく間の出来ごとに見えたが、この瞬間の自分とまわりを正確に描くことはすこぶるむつかしい。

私は、びっくりして息が詰まったようになった。
当然のように、まわりの、少なくとも私とならんで、吊皮にブラ下がり、外を見ていた乗客が、
「あ、ライオンがいる」
と騒ぎ出すに違いないと思ったが、誰も何ともいわないのである。
両隣りのサラリーマンは、半分茹で上ったような顔で、
口を利くのも大儀といった風で揺られている。

その顔を見ると、
「いま、ライオンがいましたね」とは言えなかった。
私は、ねぼけていたのだろうか。
幻を見たのであろうか。
そんなことは、絶対にない。
あれは、たしかにライオンであった。
縫いぐるみ、といわれそうだが、それは、現在の感覚である。
二十何年前には、いまほど精巧な縫いぐるみはなかった。
この時も私は少しぼんやりしてしまい、駅前の古びた喫茶店でコーヒーを二はい飲んでから、うちに帰った。

〔早口の東京弁で、おしゃべりで、おまけに気が弱いものだから、少しでも他人さまによく思われたい一心で、時々はなしを面白くしてしゃべる癖がある〕

「中野にライオンがいるわよ」
「中央線の窓からライオンを見たのよ」
私ではいつもの嘘ばなしか、暑気当りと片づけられるのがオチである。


そのあとも、私は、中央線に乗り、例の場所が近づくと、身を乗り出すようにして外をのぞいたが、同じような窓が並んでいるだけで、アンダー・シャツの男もライオンの姿も見えず、その後中野方面でライオンが逃げたというニュースも聞いていない。

ーーーしかしーーー
いまだに、あれはほんもののライオンとしか思えないのである。
人にしゃべると、まるで嘘みたい、と言われそうな光景が、現に起っている。
それを五十人だか百人だかの人間が見ているのに、その中にいて、見なかった人間が、一人はいたのである。
ここまで来たら、もうどっちでもいいや、という気持もある。
記憶の証人は所詮自分ひとりである。
そう思って居直りながら、気持ちのどこかで待っているものがある。

実は、二十年ほど前に、中野のアパートでライオンを飼っていました、という人があらわれないかな、という夢である。
つい最近も中央線の同じ場所を通り、同じように窓の外に身を乗り出して眺めて来たばかりである。
(別冊小説新潮/1979春季号)

c0219232_16571965.jpg


【新宿のライオン】
うちの電話はベルを鳴らす前に肩で息をする。

〔「実は、中野でライオンを飼ってた者なんですが」〕

その電話が掛かったのは夕方であった。
中年と思われる男の声が、もう一度私の名前をたしかめ、
ひと呼吸あってからこう言った。
「実は、中野でライオンを飼ってた者なんですが」
咄嗟に私が何と答えたのか覚えがない。
いたずら電話でないか確かめかけ、相手の声の調子で、
これは本物に間違いないとすぐ判り、
それでもまだ半分は信じられなくて、
「本当ですか。本当にライオンは居たんですか」
と繰り返した。

相手は、物静かなたちの人らしく、はにかみを含んだ訥弁で、
「あなたの書かれたものを読み、当時を思い出して懐かしくなり失礼かと思ったが電話した。ライオンは確かに自分が飼っていた」と言い、
岡部という者ですとつけ加えられた。

この電話のあった5日ほど前に店頭に出た別冊小説新潮(1979年春季号)に私は「中野のライオン」と題する小文を書いている。
二十年ほど前の夏の夕方、中央線の窓から不思議なものを見たーーー。

『私が見たのは、一頭のライオンであった。
お粗末なアパートの、これも大きく開け放した窓の手すりのところに、一人の男が坐っている。
三十歳位のやせた貧相な男で、何度も乱暴に水をくぐらせたらしいダランと伸びてしまったアンダー・シャツ一枚で、ぼんやり外を見ていた。その隣りにライオンがいる。
たてがみの立派な、かなり大きい雄のライオンで、男とならんで、外を見ていた。』

私はびっくりして息が詰まったようになり、
まわりを見まわしたが、ならんで吊皮にブラ下がり、
外を見ていた乗客は誰ひとりとして騒がない。
半分茹で上がった顔で口を利くのも大儀といった風に揺られている両隣りのサラリーマンを見ると、
「いまライオンがいましたね」とは言い出せず、
ねぼけていたのか、幻を見たのか、
いや、あれはまさしくライオンだったと自問自答を繰り返しながら、
狐につままれたような気持ちになり、
駅前の古びた喫茶店でコーヒーを二はい飲んでうちへ帰ったのである。

ことがあれば面白おかしくしゃべり廻るところがあるのだが、
これだけは親兄弟にもしゃべらなかった。
中央線に乗って中野駅あたりを通過すると、
記憶の底から鎌首をもたげることもあったが、
それすら二十年の歳月のかなたに霞みかけていた。
たまたま文章にしたものの、
九十九パーセントは自信はないものだから、
五十人だか百人が見た交通事故現場からそんなものは見もしなかった、という風に全く気づかず立ち去った一人の婦人のことを書き、
百人見て一人見ないこともあるなら、一人が見て百人が見なかったことだってありえないことではないと屁理屈をこねた。

もうどっちでもいいやと居直りながら気持のどこかで待っているものがある。


〔中野にライオンはいたのである。〕

実は二十年ほど前に、中野のアパートでライオンを飼っていましたという人があらわれないかな、という夢である。
絶対に帰ってこない、くる筈のない息子を待つ「岸壁の母」の息子は、二十年ぶりに帰ってきた。
中野にライオンはいたのである。
私は受話器を握ったまま、こみ上げてくる笑いを押え切れず、
裂けた夕刊に顔を押しつけ声をたてて笑ってしまった。
悲しくもないのに涙がにじんでくる。
洟も出てくる。


岡部氏は、私の笑いの鎮まるのを待って、
ポツリポツリと話して下すった。
ライオンは、もともとは新宿御苑のそばで「八洲鶴」という酒の店をやっていた岡部氏の姉上が飼っておられた。
姉上がなくなったあと、岡部氏が引き継ぎ、
のちにライオンごと中野へ引越したのだが、
私が見た当時は百キロ近い体重があった。
一番おどろいたのは、ライオンが牝だったことである。
どこでどう取り違えたのか、私は記憶の中で、ライオンにたてがみを生やしてしまった。MGM映画の見過ぎかも知れない。
c0219232_17051977.jpg


二十年前に電車の窓から一瞬見えた、いや、見たと思いながら、
あれは幻だったのだと自分で打ち消していたライオンが本当にいた、
私は間違っていなかった。
大吉を知らせる電話は、
私に刀の柄に手を掛けるゆとりを与えず、
いきなり真っ向唐竹割りにしたのである。

牡だと思ったライオンは、牝であった。
見えなかったが、ライオンのまわりには鉄の格子があった。
電車の窓から見当をつけた場所も少し違っていた。
二階だと思ったのは一階であった。

c0219232_17061575.jpg

5月に入って、新宿で一夕ライオン青年とお目にかかる段取りが整った。

ライオン青年は二十年昔のライオンを語り、
牝ライオンは、名前を”ろん子”といった。
はじめは猫ほどの大きさだったがみるみる大きくなった。
「あいつは、ただの一度もほえなかった」
だから街なかで飼えたのでしょうと、かなしく笑われた。
せまい中で飼っていたので佝僂病になり、
多摩動物公園で預かってもらった。


それにしても、たのしくも不思議な一夜であった。

あと二十年か三十年したら、耄碌した私はこんなことを言うかも知れない。
「昔、新宿でライオンとお酒のんだことあったのよ」
(別冊小説新潮/1979・夏季号) 


【平蔵の独り言】
お客様は、2010/1/23にこの商品を注文しました。

c0219232_17090617.jpg


〔向田邦子〕「眠る盃」のあとがき

「荒城の月」の「めぐる盃かげさして」の一節を「眠る盃」と覚えてしまった少女時代の回想に、戦前のサラリーマン家庭の暮しの手触りをいきいきと甦らせる表題作をはじめ、片々とした日常から鮮やかな人生を截りとる珠玉の随筆集。
知的なユーモアと鋭い感性を内に包んだ温かな人柄が偲ばれるファン待望の書。・・・・・「眠る盃」(向田邦子)

一番おどろいたのは、ライオンが牝だったことである。
どこでどう取り違えたのか、私は記憶の中で、ライオンにたてがみを生やしてしまった。


【独り言】
「めぐる盃かげさして」の一節を「眠る盃」
牡だと思ったライオンは、牝であった。

市井の人の日常はそんなに変わったことが起こらない。
しかし、向田邦子の手に掛かると起きている。

2010年に読んでいたが8年経って、
週刊現代 それがどうした〔男たちの流儀〕伊集院静2017/12/9号
で蘇ったのだ!

向田邦子は20年前に見たライオンが1979年に蘇ったのだ!

【平蔵の独り言】
それにしても、たのしくも不思議な一夜であった。
あと二十年か三十年したら、耄碌した私はこんなことを言うかも知れない。
「昔、新宿でライオンとお酒のんだことあったのよ」

【独り言】
耄碌した向田邦子から“新宿のライオン”の話、
何ていうか聞きてみたい。
でも、聞くことは叶わない!


[PR]

by asanogawa-garou | 2018-01-07 17:14 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

【伊集院静】〔人生はこちらが考えているより、まだまだ楽しい〕中央線から見えたライオン   

2018年 01月 02日
【伊集院静】〔人生はこちらが考えているより、まだまだ楽しい〕中央線から見えたライオン
c0219232_15364326.jpg


〔人生はこちらが考えているより、まだまだ楽しい〕
それがどうした〔男たちの流儀〕中央線から見えたライオン【伊集院静】

〔大人になるとさして面白いことなどないのが人生であるから〕
〔人生はこちらが考えているより、まだまだ楽しい、面白いことであふれてるんじゃないか〕

〔人生は君たちが考えているより長いし、考えているより短い〕

自分の半生の大半が旅路の中にあったことは、この連載でも何度か書いた。
少年の頃から自転車でも、トラックの荷台でも、頬に風が当たり、流れる風景を見るとワクワクした。

それは今も同じで、電車でも飛行機でも、車窓に映る景色を眺めているだけでまたたくうちに時間が過ぎる。

待てよ、もしかして私はこれまでの半生でかなりの時間を風景を見続けていたのか?
そうだとしたら、恵まれた半生と言える。

〔人生はこちらが考えているより、まだまだ楽しい〕
通院している歯科医院が阿佐ヶ谷にあるので、時折、昼間の中央線に乗る。
その時、私はドアの側に立つ。
そこで沿線の家々や木々、空、雲などを眺める。
見ていて飽きないし、もうすぐ冬だナとかと、
オヤ、こんな時に祭りか、子供御輿しはあるのかと、
その日、その時間でしか遭遇しないものに目が引かれる。

〔中央線から見えたライオン〕
たしか作家の向田邦子さんだったと思うが、
中央線に乗っていて、
或る家の窓から”ライオン”がこっちを見ている姿が目に留まり、
自分の錯覚ではと思い、
その後も電車がそこを通る度に目を凝らして車窓を見ている文章があった。
まさかと思われようが、
結論としてそこに”ライオン”が暮らしていたのである。

c0219232_15431733.jpg

〔大人になるとさして面白いことなどないのが人生であるから〕
楽しい話である。何が楽しいか?
大人になるとさして面白いことなどないのが人生であるから、
その手のことにめぐり逢うのは、
どこか誰かからのプレゼントに思えてしまう。

〔人生はこちらが考えているより、まだまだ楽しい、面白いことであふれてるんじゃないか〕
そう思えるだけで、
現状の些細なことに悩んでいた自分がこまか過ぎるのではと思えて来る。
人生は考え方ひとつで違う風景になる。
ユーモアとはそういう力を持っている。

〔人生は君たちが考えているより長いし、考えているより短い〕
それがどうだ!
通院の折の車両に乗る人たちの7割近くがスマホを覗いている。
初めはたいした普及だと思ったが、すぐに思った。
ーーーこの風景は不気味じゃないか?
そう、不気味どころか、何かが間違っているし、
おかしい時間の過ごし方なのである。

おぞましい光景から目を離し、
私は午後の武蔵野の空を、雲を眺める。
あの雲はどこへ行くのだろうか。
どこかの窓辺で、どこかの散歩道で、
何ごとかをかかえた人たちが、イイ雲だナ、と仰ぎ見ている。

スマホが悪いとは言わぬ。
ライオンを見つけないとも勿論言わぬ。

しかし人生は君たちが考えているより長いし、考えているより短い。
短さは、君の周囲にかつていて、
若くしてこの世を去った人たちを思い出せばわかる。
人は決して順番でこの世を去ることはない。
人は寿命で生を終える。

週刊現代 それがどうした〔男たちの流儀〕伊集院静 2017/12/9号

【平蔵の独り言】
〔人生は君たちが考えているより長いし、考えているより短い〕
それがどうだ!
通院の折の車両に乗る人たちの7割近くがスマホを覗いている。
初めはたいした普及だと思ったが、すぐに思った。
ーーーこの風景は不気味じゃないか?
そう、不気味どころか、何かが間違っているし、
おかしい時間の過ごし方なのである。

〔中央線から見えたライオン〕
以前読んだ記憶があるので、向田邦子を検索したら〔眠る盃〕と出てきた。
本棚から〔眠る盃〕を出して、読み返してみた。

〔中野のライオン〕
今の住まいは青山だが、二十代は杉並に住んでいた。
日本橋にある出版社に勤め、通勤は中央線を利用していたのだが、
夏の夕方の窓から不思議なものを見た。

場所は、中野駅から高円寺寄りの下り電車の右側である。

その日は、どうした加減か人並みの時間に吉祥寺行きの電車に乗っていた。
当時のラッシュ・アワーは、クーラーなど無かったから車内は蒸し風呂であった。
吊皮にブラ下り、大きく開け放った窓から夕暮の景色を眺めていた。

私が見たのは、一頭のライオンであった。
お粗末な木造アパートの、これも大きく開け放した窓の手すりのところに、一人の男が坐っている。
三十歳位のやせた貧相な男で、何度も乱暴に水をくぐらせたらしいダランと伸びてしまったアンダー・シャツ一枚で、ぼんやり外を見ていた。
その隣りにライオンがいる。たてがみの立派な、かなり大きい雄のライオンで、男とならんで、外を見ていた。
すべてはまたたく間の出来ごとに見えたが、この瞬間の自分とまわりを正確に描くことはすこぶるむつかしい。

【独り言】”中野のライオン”は木造のアパートにいたのである!
c0219232_15471461.jpg

「荒城の月」の「めぐる盃かげさして」の一節を「眠る盃」と覚えてしまった少女時代の回想に片々とした日常から鮮やかな人生を截りとる珠玉の随筆集。

ガラ携の“一斉メール”で知らないでいいことが送られてきたり、
“フェイスブック(Facebook)”やりましょう!→「やりません!」
→“せっかく誘ってあげているのに、いつもそうなんだから”

若い頃から今でも興味のある記事、本、情報から得るもので
結構忙しい・・・・・・・・・

「眠る盃」を読み返してみたら、さすが“向田邦子”
2014/11/13(向田邦子)日常の些細な風景も、この人が描けばたちまち色鮮やかに生まれ変わった。

日常の些細な風景(出来事)がこんなに記憶に残るのか!

「中野のライオン」「新宿のライオン」をアップする!
(講談社文庫 と 向田邦子 に許してもらおう)


[PR]

by asanogawa-garou | 2018-01-02 16:04 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

<古稀>古稀の壁と扉(なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから)   

2017年 12月 12日

<古稀>古稀の壁と扉(なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから。)


〔古稀〕(人生七十年生きる人は古くから稀 (まれ)である)
c0219232_16215779.jpg

〔古稀を抗うか受け入れるか!〕

〔定年退職者が居場所と孤独に戸惑うのは日本も米国も同じ
60歳からの「黄金の15年」をどう生きるか〕

【〔定年後~60歳からの「黄金の15年」をどう生きるか〕】
〔米国の男性定年退職者も大変〕
〔無気力になって一人ぼっちで過ごす日々〕
〔自分で人とのつながりを築かなければならない〕

【最高の人生の見つけ方】「大切なものは自分の足元にあるのだ」
〔やりたいことをやり尽くしてみると・・・〕
〔覚悟ができていない日本の男性定年退職者〕

【寂聴さん曰く「男はつくづく純情だと思います」】
〔なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから〕

〔褒めちぎるのがいい〕
〔褒められてひとは元気になる〕

―――――――――――――――――――――――
〔古稀〕(人生七十年生きる人は古くから稀 (まれ)である)
「人生七十古来稀なり」・唐の詩人杜甫の詩・曲江(きょっこう)
(人生七十年生きる人は古くから稀(まれ)である)に由来している。
c0219232_16233417.jpg


唐の詩人杜甫

〔古稀を抗うか受け入れるか!〕→〔古稀〕の壁、扉

→「古稀を受け入れる」ことから、新たな人生(扉)が開く。
抗っていても、古稀の壁があるだけ。

(扉)を開けて、踏み出せば、(そこには踏み出すしかない)喜寿を信じて歩んで行く。
“ロードモデル”がない世代、自ら切り開いて行く。

〔定年退職者が居場所と孤独に戸惑うのは日本も米国も同じ
60歳からの「黄金の15年」をどう生きるか〕

DIAMONDOnline 2017.11.8
楠木 新[ビジネス書作家]
生命保険会社に勤務するかたわら、「働く意味」をテーマに執筆、講演などに取り組む。
12万部を超えるベストセラーになった『人事部は見ている。』(日経プレミアシリーズ)、『就職に勝つ!わが子を失敗させない「会社選び」』(ダイヤモンド社)など著書多数。近著に『定年後』(中公新書)がある。

【〔定年後~60歳からの「黄金の15年」をどう生きるか〕】
〔米国の男性定年退職者も大変〕
〔無気力になって一人ぼっちで過ごす日々〕
〔自分で人とのつながりを築かなければならない〕


【最高の人生の見つけ方】「大切なものは自分の足元にあるのだ」
〔やりたいことをやり尽くしてみると・・・〕

〔覚悟ができていない日本の男性定年退職者〕


「いつかは、その日が来る」。
それはだれもがわかっているが、近づかないとピンとこない。
いつまでも「この仕事」が続くかのように感じていても、それは、いずれ終わる。
60歳が定年だとすると、家族の扶養義務からも解放されて、かつ他人の介助も受けずに裁量をもって活動できる75歳位までは案外と長い。
それを「黄金の15年」にできるなら、人生の締めくくりとして素晴らしい。
では、その15年をどのように生きるか。
また、その時が来てから慌てないために、いつから、どんな備えをすればいいか。
書籍『定年後』(中公新書)の著者である楠木新氏が語る。

c0219232_16251406.jpg

③『定年後』

「定年後」の生活は、必ずしも事前に思い描いたようには運ばない。
試行錯誤をしながらも、最後に戻るところは、「誰かの役に立つこと」、「自らの家族のところに戻ること」。
2本の米国映画を題材に、あるべき定年後を考えてみよう。(ビジネス書作家 楠木 新)

〔米国の男性定年退職者も大変〕
 『アバウト・シュミット』(2002年制作)という米国映画をご存じだろうか。
名優ジャック・ニコルソンが演じる主人公シュミットが、保険会社の部長代理で定年退職日の終業を迎えるのがオープニングである。彼は60代半ばである。
 その夜、彼のハッピーリタイアメントを祝う会がレストランで盛大に行われる。
妻と一緒にメインの席に座り、昔からの友人や仕事の後任者からスピーチを受ける。
後任者は「いつでも会社に遊びに来てくれ」と言い、引き続き仕事の指導もお願いしたいと述べる。
 彼は妻と、今は離れて暮らす娘との三人家族で、仕事一筋だったまじめな男だ。
会社中心の生活リズムが染みついていたせいか退職後は手持ち無沙汰になる日々が続いた。
 家では部屋で横になってリモコンをパチパチしてチャンネルを変える姿がスクリーンに現れる。
これは日本でも米国でも変わらないようだ。
 退職後にシュミットが会社に立ち寄ると、「いつでも来てくれ」と言っていた後任者は忙しいからと嫌がる態度を見せる。
また自分が作成した引継ぎ書類がダンボール箱に入れられたまま放置されていることを知ってショックを受ける。

〔無気力になって一人ぼっちで過ごす日々〕
 退職して何もすることがなかったからか、彼はテレビコマーシャルでアフリカの子どもたちを援助するプログラムを知り、6歳の少年ンドゥグの養父になって彼に手紙を書くようになる。
 間もなくして妻が急死してしまう。
妻の手紙を整理していて彼女と親友が過去に不倫をしていたことを知り、親友に対して怒りをぶちまける。
その後、彼は家で一人ぼっちになって食事の片付けもせずに無気力な日々を過ごす。
 シュミット自身もこれではいけないと思い、
「人生は短い。無駄に過ごすわけにはいかない」
と自ら車を運転して旅に出る。
自分が生まれた土地や通った大学にも行ってみるが、
過去のいい思い出が蘇ることはなく、
逆に厳しい現実が次々とシュミットを襲う。

 さらに、一人娘の婚約相手の実家を訪ねてみると、
婚約者本人もその家族もどうみても彼にはまともにはみえない。
娘に結婚をやめるように諭すが全く耳を貸さない。
シュミットは結婚式で心にもないスピーチを終えると、
すぐにトイレにかけ込み、自らの怒りを鎮めるのがやっとだった。
 結婚式を終えて帰宅したシュミットは留守中に届いていたチャリティ団体からの手紙を見つける。
その中にンドゥグが描いた太陽の下で手をつなぐ人の絵があった。
それを見た彼は思わず涙を流してしまうのがラストシーンだ。
 この映画は、シュミットの日常の姿を淡々と描きながら、彼の戸惑いと孤独を見事に描いている。
ジャック・ニコルソンの演技力には舌を巻く。
日本ではここまでリアルに定年後を扱っている作品はないだろう。

〔自分で人とのつながりを築かなければならない〕
 最後の場面は感動的ではあるが、一人になったシュミットに対して新たな助け船は出ない。
自分自身で人とのつながりを築いていかなければならないことを暗示しており、後味にも厳しさが残る作品になっている。
 私は10年以上前にこの映画を見ていたが、自身が定年退職したうえで改めて鑑賞すると、すべての場面でシュミットと自分を置き換えてみることができた。

【最高の人生の見つけ方】「大切なものは自分の足元にあるのだ」
「最高の人生の見つけ方」
 面白いことに、偶然であろうが、名優ジャック・ニコルソンは別の映画で定年後に対処すべきヒントを示している。
 映画『最高の人生の見つけ方』(2007年制作)は、大金持ちの実業家(ジャック・ニコルソン)と、勤勉実直に生きてきた自動車修理工(モーガン・フリーマン)が、入院先の病院で知り合い、ともに余命6ヵ月であると宣告されるストーリーで、病室で意気投合した二人は、残された時間でやりたいことをすべてやりつくすために病院を脱出する。


c0219232_16255134.jpg

④ジャック・ニコルソン

〔やりたいことをやり尽くしてみると・・・〕

 二人は「やりたいことリスト(棺桶リスト)」を作成し、実にさまざまなことに挑戦する。
専用ジェット機をチャーターして、インドのタージマハル、エジプトのピラミッド、ヒマラヤ山脈などの世界旅行を楽しみ、高級料理を食べ歩き、レーシングカーで競争したり、スカイダイビングで空を舞ったりもする。
その中で二人は互いにかけがえのない友情を育む。
 ややもすると、陳腐な内容になりかねないストーリーであるが、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンという二人の名優のやり取りがリアリティーを出している。
 そして「やりたいことリスト」をやりつくした二人が地元に帰ってくると、実業家は今までうまくいっていなかった娘の自宅を訪問して、ぎこちないながらも孫とも時間を過ごす。
また「社会のために」と資産の寄付を申し出る。
家族思いだった自動車修理工は、以前と同様に温かい家族の元に戻る。
「大切なものは自分の足元にあるのだ」
 残りの人生をとにかく好きなことをやり尽くそうと世界中を巡り、いろいろ行動した2人であったが、最後に戻るところは、「誰かの役に立つこと」、「自らの家族のところに戻ること」だと示していた。
「大切なものは自分の足元にあるのだ」とこの映画は主張しているように私には思えたのである。
米国の定年後も、日本の定年後も「想定通りにはいかない」
 この二編の映画を見ていると、自立して個人で生きていくスタンスが強い米国の老人の方が、より大きな孤独に耐えなければならないのではないかと感じた。

〔覚悟ができていない日本の男性定年退職者〕
 一方で、妻や家族を頼りにしていて一人で生きていく覚悟ができていない日本の男性定年退職者は少なくない。
そして彼らは自分が介護や援助をしてもらうことを前提に考えている。
しかし必ずしもそうなるとは限らない。
 例えば、ある地域では親や配偶者の介護をしている人たちの定期的な会合があって、互いに有効な情報を交換したり、普段の苦しい思いを共有することによって精神的な負担の軽減を図っているそうだ。
その会合の世話役を担っている女性によると、参加者の3分の1は中高年の男性だそうだ。
配偶者との間に年齢差があっても、亡くなったり、病に倒れる順番は決まっているわけではない。
 定年退職者の男性が一人で親の面倒を見ている例や、定年を目前にして妻が若年性認知症を患い、片時も目を離せない状況になって介護に努めている男性の話を聞く機会があった。
「50歳の頃は、定年後は海外旅行にでも行こうと二人で話し合っていたのに、想定していなかった事態に陥った」と語っていた。
私のみならず話を聞いていた男性はみな、身につまされる思いだった。
 会合の世話役の女性に対して、「中高年の男性は、定年後を見据えてどう対応すればよいと思われますか?」と私が聞くと、「会社の仕事だけでなく地域の人ともつながりを持ち、最低限の家事ができること、普段から家族とのコミュニケーションをきちんと取っておくこと」という回答が返ってきた。
 米国でも日本でも、定年後に向けて準備することにはそれほど変わりはないようだ。
(ビジネス書作家 楠木 新)

【寂聴さん曰く「男はつくづく純情だと思います」】
〔なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから〕

〔褒めちぎるのがいい〕
〔褒められてひとは元気になる〕


寂聴さん曰く「男はつくづく純情だと思います」
『95歳まで生きるのは幸せですか?』瀬戸内寂聴さんに聞く
日経ビジネス編集部 2017年11月16日(木)
彼女の元には、いまも多くの迷える男女が法話を聞きに訪れます。
ところが、問題は「男のほう」でした。

c0219232_16262293.jpg

⑤迷える「男のほう」
 新刊『95歳まで生きるのは幸せですか?』では、ジャーナリストの池上彰さんと対談されました。
〔なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから〕
なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから。
そしていったん、うつになっちゃうとそこから逃げ出すのはとっても大変です。
 私も出家する直前、40代のころにうつになったことがあるんです。
そのとき診てくださったのが、古沢平作さんという日本の精神分析の権威の先生でした。
古沢先生はなんと戦前のウィーンであのフロイトに直接習った、フロイトのお弟子さんなんです。
古沢先生の、私は最後の患者さん。
その古沢先生のやり方がとってもユニークでした。
とにかく褒めるの、患者の私のことを。
うつになるってことは、自信を失っている。

〔褒めちぎるのがいい〕
だからひたすら一生懸命褒めてあげる。
ああ、あなたは着物の趣味がいいなあ。性格がいいなあ。
古沢先生は、徹底的に私のことを褒めてくださいました。
そうしたらね、治ったの、私のうつ。
褒められてひとは元気になる
褒めちぎるのがいい、と。
歯が浮くような台詞を並べて褒めても大丈夫。
そのくらい盛大に褒めるのが、うつには一番効くんです。
古沢先生に教わった「うつの人は褒めてあげよう」は、その後の私の人生の指針のひとつになりました。
いま、私のところには、法話を聞きにたくさんの人々が訪れます。
法話を聞きたい人には、人生がつらいって人がとても多い。
だから、私はそんな人たちのことを徹底的に褒めます。
お話をうかがって、とにかく褒めてあげる。
するとね、ちゃんと治るのよ。
いままで何人のうつを治したか数えきれないほどです。
どうやって褒めるんですか?
うつ状態のひとはとにかく自信を失っています。
その自信を取り戻すのが目的ですから、褒める内容はなんでもいいんです。あなたはとってもチャーミングよ、今日の洋服の色はとっても素敵だわ、いい声しているわよね。ほんとうにたわいもないことでいいから、そのひと自身の個性を褒めてあげる。
会うたびに褒めてあげる。
すると何度か顔を合わせるうちに、だんだん元気を取り戻してくるんです。
 「日経ビジネスオンライン」の読者でもある、中年以上の男性も褒められると元気になるんでしょうか?


私の法話を聞きにいらっしゃる方たちの中にも、うつっぽくなった中高年の男性、多いですから。
 そもそも、人間、歳をとったら、だいたいうつ状態になりやすくなります。
なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから。
そしていったん、うつになっちゃうとそこから逃げ出すのはとっても大変です。
もう定年で職場を去らないといけない。
でも、そのあとの人生の希望や展望が見えない。
僕はどうすればいいんだろう。

〔褒められてひとは元気になる〕
 褒めちぎるのがいい、と。
 歯が浮くような台詞を並べて褒めても大丈夫。
そのくらい盛大に褒めるのが、うつには一番効くんです。
古沢先生に教わった「うつの人は褒めてあげよう」は、その後の私の人生の指針のひとつになりました。
 いま、私のところには、法話を聞きにたくさんの人々が訪れます。
法話を聞きたい人には、人生がつらいって人がとても多い。
だから、私はそんな人たちのことを徹底的に褒めます。
お話をうかがって、とにかく褒めてあげる。
するとね、ちゃんと治るのよ。
いままで何人のうつを治したか数えきれないほどです。
 どうやって褒めるんですか?
 うつ状態のひとはとにかく自信を失っています。
その自信を取り戻すのが目的ですから、褒める内容はなんでもいいんです。あなたはとってもチャーミングよ、今日の洋服の色はとっても素敵だわ、いい声しているわよね。
ほんとうにたわいもないことでいいから、そのひと自身の個性を褒めてあげる。会うたびに褒めてあげる。すると何度か顔を合わせるうちに、だんだん元気を取り戻してくるんです。

『95歳まで生きるのは幸せですか?』(PHP研究所)


【平蔵の独り言】
〔古稀〕(人生七十年生きる人は古くから稀 (まれ)である)

【独り言】
〔古稀〕の知ると、抗うことも受け入れることも
同じことだと思う。
抗うことを受け入れて「一日一日を過ごす」

【平蔵の独り言】
〔定年退職者が居場所と孤独に戸惑うのは日本も米国も同じ
60歳からの「黄金の15年」をどう生きるか〕
【最高の人生の見つけ方】「大切なものは自分の足元にあるのだ」

【独り言】
「黄金の15年」ということは、現在“古稀”で10年は過ぎた。
まだ、抗う日々の気持ち「そうか、居場所と孤独か!」
喜寿まで 7年、受け入れれば・・・・・

【平蔵の独り言】
【寂聴さん曰く「男はつくづく純情だと思います」】
〔なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから〕

【独り言】
 面白いこと、感激することが経験的になくなってくるのか
“純情”???



[PR]

by asanogawa-garou | 2017-12-12 16:27 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

【団塊絶壁!】ベビーブームに経済成長、画一教育ーーー。こうした“環境”の中で育ってきたのが、われら団塊世代の特徴である。   

2017年 10月 23日
【団塊絶壁!】ベビーブームに経済成長、画一教育ーーー。こうした“環境”の中で育ってきたのが、われら団塊世代の特徴である。

『週刊新潮』2017/4/13号 から始まった大江舜さん(ジャーナリスト)の「団塊絶壁!」(最終回)

「団塊の世代とは、800万人もの巨大な人口の塊です。」
『団塊の世代』昭和22,23,24年の第一次ベビーブーム期に生まれた世代を指す。


〔「団塊の世代」を設計製作したのは誰か?〕(堺屋太一)
「団塊の世代とは、官僚が創造した作品なのです」


〔官僚が団塊の世代に対して行ったことは5つ〕

1つ目が情報・産業中枢・芸能界・文化創造活動などの
    東京一極集中化
2つ目が流通の無言化。
3つ目が職場単属人間化
4つ目が人生の規格化
5つ目がウサギ小屋と欧米から揶揄された80平方㍍以下の小住宅多部屋主義。


〔こうした状況で育った「団塊の世代」〕

「こうした状況で育った団塊の世代を一言で表すなら『猛烈なエンジン』でしょうか。

〔団塊ジュニア世代以下の「欲ない、夢ない、やる気ない」という形〕


【断崖絶壁!】「おいらたち本当に恵まれていると思うよ。戦争に巻き込まれることもなく、貧乏からバブルまで経験した」(ビートたけし)

戦争に巻き込まれることもなく、貧乏からバブルまで経験した。
〔どうせ死ぬんだからおたおたするんじゃねえってことよ!〕
死ぬまでみんなで夢を見て、わいわいお祭り騒ぎ。
それが団塊絶壁世代らしい生き方というものさ。

――――――――――――――――――――――――
「団塊の世代とは、800万人もの巨大な人口の塊です。」

『団塊の世代』
<一九六〇年代の「若者の反乱」は、戦後直後に生まれた人口の膨らみが通り過ぎる嵐であった。
かってハイティーンと呼ばれ、ヤングといわれた、
この「団塊の世代」は、過去においてそうであったように、
将来においても数数の流行と需要を作り、過当競争と過剰施設とを残しつつ、年老いていくことであろう>

まさにその“予言”は当たった。
われら団塊、正も負もたくさんの「遺産」を残し、老いさらばえようとしている。
でも、まだ終わったわけじゃない。
せめて、あと10年あると思いたい。
お楽しみはむしろこれからなのだ。
よろしいか……そう願いたいではないか。
お楽しみと言うには、いささか気が引けるが、日本列島は千年ぶりの「大地動乱期」に入ったと警鐘を鳴らす学者がいる。
東京オリンピックなどに浮かれていても、かつて寺田寅彦が喝破したごとく、天災は忘れた頃にやってくる。


『団塊の世代』昭和22,23,24年の第一次ベビーブーム期に生まれた世代を指す。
作家・堺屋太一氏が1976年に小説『団塊の世代』を著して広まった造語。

共通の経験として、
①戦争とモノ不足を知らない、
②人生の最初から高度経済成長の中に育った、
③物心がついた頃にはテレビがあった、などが挙げられ、

「安全は至上の正義、暴力は絶対の悪と信じる」
「経済成長を当然と感じ、既存の体制と組織と習慣に全幅の信頼を置く」
「平等思想に染まっている」
などが共通の性格と捉えられている。

「団塊」とは鉱業の用語。
「堆積岩中に周囲と成分の異なる物質が丸みをもった塊となっている状態」を指す。

〔「団塊の世代」を設計製作したのは誰か?〕(堺屋太一)

c0219232_14593113.jpg

①堺屋太一●1935年、大阪府生まれ。東京大学経済学部卒業とともに通産省入省。
日本万国博覧会を企画、実現する。78年通産省を退官、執筆・評論活動に入る。
98年、小渕内閣の経済企画庁長官に就任。現在、上海万博日本産業館総合プロデューサー、早稲田大学大学院ファイナンス研究科学督。『知価革命』『団塊の世代』『秀吉』など著書多数。


「団塊の世代とは、官僚が創造した作品なのです」
戦後は文民官僚によってベビーブーマーたちが「望ましき日本人」に育つよう設計図が引かれたということなのか。
「日本の戦後史をひもとくと、マッカーサーによる占領時代、その後の吉田茂内閣から佐藤栄作内閣までは政治主導だったが、田中角栄の時代になると、官僚丸投げとなります」

〔官僚が団塊の世代に対して行ったことは5つ〕
1つ目が情報・産業中枢・芸能界・文化創造活動などの東京一極集中化
2つ目が流通の無言化。
3つ目が職場単属人間化
4つ目が人生の規格化
5つ目がウサギ小屋と欧米から揶揄された80平方㍍以下の小住宅多部屋主義。


ご自身も『日本列島改造論』の執筆者の一人だった堺屋氏は、戦後、官僚が団塊の世代に対して行ったことは5つあるという。

「1つ目が情報・産業中枢・芸能界・文化創造活動などの東京一極集中化です。
これは田中内閣が“新潟の人間だって、俺のように東京に来て成功できるようにしてやれ”と進めた施策。
だからこそ新幹線はすべて東京から伸びている。
これが首都圏への過度の人口集中を招き、地方との成長格差を助長した。
現在地方都市にみられるシャッター通りはその象徴です。


2つ目が流通の無言化。
かつては雑貨屋の前で店主と奥さんたちが話したりしたものですが、それだと生産性が落ちるので、スーパー、コンビニ、自動販売機など『無言の流通』が拡がった。
このため買い物は『楽しみ』から『仕事』になってしまった。

3つ目が職場単属人間化です。
親類や近所の人とも付き合わず、職場内の人間関係だけで生きる職場人間群の造出です」

都会に出て誰とも話さず、職場にこもって仕事する。
これじゃまるで出稼ぎロボットだ。

「4つ目が人生の規格化。
生まれてから死ぬまでの流れを官僚が決めてしまったのです。
“生まれたら早くから幼児教育を行い、小学校から大学まで浪人をせずストレートに進学し、卒業後はすぐに就職。
ニートになるのは不良だ。就職したら蓄財しろ、お金が溜まったら結婚し子供を作って、夫婦で子育てをしろ。
持ち家を早くローンで購入して、払い終わった頃には中高年。
年金を積んで子供に頼るな。
官僚に年金を払ってくれたら、頭のいい俺たちが上手に運用するからね、そして老後は老人だけで寂しく暮らせ”というものです。
こうした家庭にまで及んだ官僚主導の施策のため、結果として2世代、3世代で住む昔ながらの暮らし方は激減しました。
親と同居すると、嫁姑問題が起きて苦労するといったドラマを盛んに流して、老夫婦単独世帯化に拍車をかけました。
これは、現在の老老介護や孤独死問題につながっていきます。

5つ目がウサギ小屋と欧米から揶揄された80平方㍍以下の小住宅多部屋主義。
この頃の小住宅が空き家になって問題化しているのはご存じの通りです」

これらを、人生の規格化は文部省、小住宅多部屋主義は建設省、流通無言化は通産省……と、各省庁が分担。
さらに官僚制度は終身雇用・年功序列・正社員優遇だから、社会の方もそれに準じさせたというから開いた口が塞がらない。

〔こうした状況で育った「団塊の世代」〕
「こうした状況で育った団塊の世代を一言で表すなら『猛烈なエンジン』でしょうか。
ただしこのエンジンは後押しをするばかりで肝心の方向舵がありません。
操縦席に座るのは、私たち、ひとつ前の世代の官僚です。
大きな力の方向性は私たち官僚と、私たち世代の企業家が決めていたわけです」

それゆえ団塊の世代には、世代的特徴として、自主性・創造性が希薄だという。
「正確に言えば、もちろん、自主性・創造性はあるけれど、集団の中では、そういったものを発揮しない方が得なんです。
その証拠に800万人もいるのに、ユニクロの柳井(正)さんらを除けばこの世代はユニークな企業家を生み出していませんし、ノーベル賞の受賞者もいない」


えろうすんません。不甲斐ないなあ、団塊の世代。
「私が関わった1970年の大阪万博のとき、官僚のシナリオ通りに育った団塊の世代は、大学を出たばかり。
彼らは、消費者として、車やクーラーなど大量生産品を生み出し、経済のパイを大きくしてくれた。
そして会社で中堅社員になる頃、社内のポスト競争に勝ち抜くためにたちあげた過剰なプロジェクトこそバブルの遠因になったのではないか」


〔団塊ジュニア世代以下の「欲ない、夢ない、やる気ない」という形〕

その結果、しわ寄せはそういう親を見て育った、団塊ジュニア世代以下の「欲ない、夢ない、やる気ない」という形で出てきた。
「日本は、安全・安心・正確・清潔の4点では世界1位水準。
すべてに満足をしてしまい、生物として最も根源的な『子孫を増殖させたい』という欲望がなくなってしまった。
むしろ、地獄の風を吹かせて、活力と苛立ちのある競争社会を作った方がいいのかも」

何だ、結局われらは、官僚というお釈迦様の手の平で遊ばされていた孫悟空だったということか。
こう聞くと懸命に生きてきた70年弱が何だかむなしい感じになりませんかね。
猿ではなく、人間に戻るチャンスはまだあるのか。
これからの10年で挽回できるのか。


【断崖絶壁!】「おいらたち本当に恵まれていると思うよ。戦争に巻き込まれることもなく、貧乏からバブルまで経験した」(ビートたけし)

c0219232_15080391.jpg

②おそらく日本で最も知られた「団塊の世代」人、(ビートたけし)
ある意味、「団塊」の枠から外れた生き方をしてきた氏は、こんな風に“総括”する。
「おいらたち本当に恵まれていると思うよ。
戦争に巻き込まれることもなく、貧乏からバブルまで経験した。
なぜか70歳まで生きてしまった。
いまだに金も稼いだりしてホントに困ったもんだ。
バイク事故の後、今こうやって話しているのが夢で、本当は管に繋がれて植物人間で生きているかも。
どっちが夢だか現実だか」

〔どうせ死ぬんだからおたおたするんじゃねえってことよ!〕
死ぬまでみんなで夢を見て、わいわいお祭り騒ぎ。
それが団塊絶壁世代らしい生き方というものさ。

〔オイラは生かされてしまった〕あの人、あの言葉( ビートたけし) 〔ビートたけし〕オイラは生かされてしまった

c0219232_15084412.jpg

③8月2日深夜、原付バイクで走行中に転倒、頭を激しく損傷し入院していたビートたけしが、9月27日に退院会見を行った。
たけしは顔面の半分が麻痺状態という重い後遺症を残していた。
だが、普通であれば即死だったといわれるほどの大事故を生き延び、
約2ヶ月で話せるまでに回復したのは、本人も言うとおりまさに「奇跡」だった。
入院生活中、胸中をずっと占めていたこの思いから、
己の生き方について改めて考え直したというたけしは
「テレビだけじゃ残りの人生つまらない」と語り、
今後の活動に意欲をみせた。
現在の多方面での活躍ぶりは、言わずもがなである。


あの人、あの言葉週刊現代2017/10/14.21号

〔たけしとたけし軍団〕
収録の時にスタジオの床に釘が落ちていたと。

そこで普段は穏やかなたけしさんが
「こんな危ないところで、うちのもんにやらせられるか」と激怒した。

c0219232_15091292.jpg


【平蔵の独り言】
〔「団塊の世代」を設計製作したのは誰か?〕(堺屋太一)
〔官僚が団塊の世代に対して行ったことは5つ〕
1つ目が情報・産業中枢・芸能界・文化創造活動などの東京一極集中化
2つ目が流通の無言化。
3つ目が職場単属人間化
4つ目が人生の規格化
5つ目がウサギ小屋と欧米から揶揄された80平方㍍以下の小住宅多部屋主義。

【独り言】
官僚が設計製作したシナリオに従って、団塊の世代はイケイケどんどん
その結果が年金支給60歳から65歳そして年金では暮らせない社会

東京一極集中、スーパー・コンビニ、
仕事人間、不寛容社会、(ニュータウンとかっこよく蜂の巣(団地))

“うんうん”と納得!

団塊の世代は“痛い”
67%は働いている。

古希を前に、年金を貰い働いていることに“感謝”
42の厄の年にキツイ仕事で話していた言葉を思い出す。
「俺たち何か悪いことしたか!」
定年になったら、年金をもらって・・・・・

この友は60を前に年金も貰わずに旅立った!

【平蔵の独り言】
【断崖絶壁!】「おいらたち本当に恵まれていると思うよ。戦争に巻き込まれることもなく、貧乏からバブルまで経験した」(ビートたけし)
〔どうせ死ぬんだからおたおたするんじゃねえってことよ!〕
死ぬまでみんなで夢を見て、わいわいお祭り騒ぎ。
それが団塊絶壁世代らしい生き方というものさ。

【独り言】
団塊の世代は話をしていて分かる。
同じ匂いがしている。
気が付けば、いい時代を歩いてきたのか・・・・・


[PR]

by asanogawa-garou | 2017-10-23 14:58 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)

〔五木寛之〕〔捨てる心を捨てる〕モノが捨てられないのは、執着のせいである。それもまたいいではないか。余計なことは考えないようにしよう。   

2017年 09月 15日
〔五木寛之〕〔捨てる心を捨てる〕モノが捨てられないのは、執着のせいである。
それもまたいいではないか。
余計なことは考えないようにしよう。


c0219232_15362984.jpg

〔捨てる心を捨てる〕捨てる、ということができない。
モノが捨てられないのは、執着のせいである。

〔心の大掃除〕
考えてみると、人間が生きていく上で必要なものは、ごくわずかである。

〔モノが捨てられない、それもまたいいではないか。〕
余計なことは考えないようにしよう。

---------------------------

〔捨てる心を捨てる〕
捨てる、ということができない。
モノが捨てられないのは、執着のせいである。
執着はどこからくるのか。生きていればこその執着だろう。
CD、そして本。昔のビデオテープ。古いカセット。着なくなった服。
鞄、ボストンバック、古いトランク。

それらのすべてを手離したとしても、さし当りの生活には全く支障のないものばかりだ。
プラスチックの箱に3杯分ほどある写真。
これを捨てることができるだろうか。
もちろん、捨ててしまったところで、生きていくことに何の差し支えもない。

〔心の大掃除〕
考えてみると、人間が生きていく上で必要なものは、ごくわずかである。
随分あったネクタイは普段用、白・黒で間に合う。
モノを捨てた後に残るものは何だろう。心の大掃除か。

〔モノが捨てられないのは、執着のせいである。〕
そもそもモノに執着するのは、生活上の問題ではない。
要するに心の問題である。
モノが捨てられない、それもまたいいではないか。
もし、あらゆる無用のモノを捨てて、すっきりした空間に身をおいたとしたら、自分ははたして幸福だろうか。

モノが捨てられないのは、執着のせいである。
執着はどこからくるのか。生きていればこその執着だろう。
生きている限り、執着は消えない。

〔モノが捨てられない、それもまたいいではないか。〕
モノに執着し、ヒトに執着し、イノチに執着するのが人間である。
あらためて前後左右を見回すと、これもまたいいかな、と思われてくる。

人は裸で生まれてきて、ゴミに囲まれて死ぬのだ。

余計なことは考えないようにしよう。

生き抜くヒント!(五木寛之)週刊新潮2017/8/31号

c0219232_15372276.jpg



【平蔵の独り言】
〔捨てる心を捨てる〕捨てる、ということができない。
モノが捨てられないのは、執着のせいである。

【独り言】〔心の大掃除〕
書類、30年前のものが出てきてビックリ!
(30年結果としてゴミを大事に・・・・・)

クールビズに便乗して、ネクタイを勤めてから初めてやめた。
→結構、快適(ネクタイは 白、黒、普段使いを残して処分)

本、CD、ぼちぼちで執着で捨てられないのか。
あるものを全て捨てるのを考えると・・・・・

『断捨離』 に囚われて、執着が多すぎてなかなか捨てる心にスイッチ"ON"が
切れる。

見ないで、袋にポイポイできれば・・・・・

【平蔵の独り言】
〔モノが捨てられない、それもまたいいではないか。〕
モノに執着し、ヒトに執着し、イノチに執着するのが人間である。
あらためて前後左右を見回すと、これもまたいいかな、と思われてくる。

【独り言】
モノに執着し:気合いでいらないと捨てると少しずつスッキリ!

ヒトに執着し:今年も既に3人 旅立った。
       だんだん寂しくなる。

イノチに執着する:これは勘弁してもらおう。
         自分の足で歩ける”健康”のため
       
しかし、生まれて初めての”腰痛”は痛い!
今日も電気マッサージ!

余計なことは考えないようにしよう。

でも、元気なうちに捨てないと!



[PR]

by asanogawa-garou | 2017-09-15 15:56 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)