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〔江夏の21球〕衣笠祥雄さんなくして「江夏の21球」はあり得なかった。「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」(西本幸雄と江夏の21球。~悲運の名将を偲んで~)   

2018年 05月 10日
〔江夏の21球〕衣笠祥雄さんなくして「江夏の21球」はあり得なかった。「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」(西本幸雄と江夏の21球。~悲運の名将を偲んで~)

「江夏の21球」衣笠さんの言葉で難逃れ名場面生む
日刊スポーツ 4/25(水) 7:58配信

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①79年11月、日本シリーズ近鉄戦の9回裏1死満塁、石渡のスクイズを外し、三塁走者藤瀬を三本間で挟殺しピンチを脱した江夏(右)と衣笠さん
 プロ野球広島の内野手で、国民栄誉賞を受賞した衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)氏が、23日夜に上行結腸がんのため東京都内で死去したことが24日、分かった。71歳だった。

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②1987年6月13日、世界記録となる2131試合連続出場を達成し、花輪を手に観客の祝福に応える衣笠祥雄さん

〔「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」。〕
 78年に広島に移籍し、衣笠氏との親交が始まった。「それまではライバルだったから。こんなバッターに打たれるか! と思ってた。同じ関西出身でライバル意識もあったしね。でも、なぜか最初からウマが合ったというか。あの頃のカープは個性派が多かった。そういう意味ではやりやすかった。でもこんなに早く逝くとは…」。

 2人の関係を代表するのが、語り草になっている「江夏の21球」だ。広島が初の日本一に輝いた79年、近鉄との日本シリーズ第7戦。
広島1点リードの9回裏、クローザーだった江夏氏は無死満塁の危機を迎えた。
広島ベンチは延長に備え、ブルペンに投手に準備をさせた。
これを見た江夏氏が「この野郎! 何でオレの後に投手をつくるんだ!」と冷静さを失った。
ここでマウンドに歩み寄ったのが一塁を守っていた衣笠氏だった。

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③衣笠氏が一塁から歩み寄った
 1点リードの9回無死満塁。
ベンチがリリーフの準備を始めたことに心をかき乱されていたが、その心情を察した衣笠氏が一塁から歩み寄った。
「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」。
一緒にユニホームを脱ぐほどの覚悟を示す熱い言葉に、集中力を取り戻したという。
 今でも孤高の左腕が「3日に一度は話しする」ほど心を許す数少ない親友。
思い出されるのは、衣笠氏の強さ、不器用さ、優しさだ。
「ブキッチョな男だから。あのスイングを見たら分かると思うけど、常にフルスイング。野球に対してフルスイング。骨折していても、3つ振って帰って来る男だから。あの姿がアイツの野球人生を物語っているよね」と涙ぐんだ。
 衣笠氏がテレビ中継で解説した19日のDeNA・巨人戦(横浜)もチェックし、翌日すぐに電話をかけた。
「声も出ていないんだから。1、2年たっても(世間から)絶対忘れられないんだから無理するなよって…」。
松山の試合の雨天中止が決まると、東京へ。夜8時過ぎ、都内の通夜会場で亡き友と悲しみの再会となった。(島尾 浩一郎)

 ◆江夏の21球 1979年11月4日の日本シリーズ第7戦の近鉄・広島戦(大阪)。
4―3と1点リードの広島は9回裏、守護神・江夏が安打と2四球で無死満塁のピンチを迎える。
代打・佐々木から三振を奪った後、石渡のスクイズをバッテリーが外して三塁走者がタッチアウト。
2死二、三塁となって、最後は石渡を空振り三振に抑えた。
絶体絶命のピンチをしのいで広島に初の日本一をもたらし、球史に残る21球の力投と言われる。

 「お前がやめるならオレもやめてやる」。
そう声をかけられた江夏氏は「生え抜きのサチが…」と感激。これで落ち着きを取り戻し、カーブの握りのままスクイズを外す投球を見せ、名場面を生んだ。
「あの苦しい場面で自分の気持ちを理解してくれるやつが1人いたんだということがうれしかった。あいつがいてくれたおかげで難を逃れた」。のちにそう話している。

 ため息を繰り返した江夏氏は自身に納得させるように「いいヤツを友人に持った。
俺の宝物だ。ワシもすぐ追いかけるんだから。次の世界でまた一緒に野球談議をするよ。それが楽しみだ」と話していた。【高原寿夫】

2018年4月25日6時0分 スポーツ報知

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④1979年11月4日、日本シリーズ第7戦で近鉄を破り、日本一を決め喜ぶ衣笠さん(左)、江夏(右から2人目)ら広島ナイン

伝説の「江夏の21球」は衣笠氏の一言から 怒りの江夏に「俺も一緒に辞めてやる」

また一人…“鉄の意志”を貫いた男が逝く…。
 2215試合連続出場というまぶしいほどに野球を愛した衣笠祥雄さんが旅立ってしまった。
 この日、テレビ解説のために空路、松山空港に降り立った江夏豊氏は親友の訃報に接して…すぐ東京にUターンしたそうである。

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⑤1979年、伝説の「江夏の21球」。江夏(左)の粘投の裏には衣笠氏の優しさがあった
 衣笠祥雄といえば、どうしても『江夏の21球』のプロ野球日本シリーズに残る不滅の名シーンが忘れられない。
 1979(昭和54)年11月4日、大阪球場。
『広島-近鉄』のシリーズは最終戦を迎えた。
筆者はこのシリーズは『近鉄監督西本幸雄』の日本一への戦いを追っていた。
4-3と広島が1点リードして最終回…江夏が大ピンチに立つ。
無死満塁とアノ豪気の江夏が追い詰められた。
 この時、筆者は大阪球場記者席のバッテリーの真後ろ、記者席の最前列に黒江透修氏(当時巨人)と並んで至近距離からその21球の人間ドラマをみつめることになった。

 江夏が、猛牛打線の前に「無死満塁」という状況に追い詰められた。なにしろ当時は一世を風靡した“西本打法”の西本監督が手塩にかけた打者たちがグルリと江夏を取り囲み、絶体絶命なのだ。
しかも打席には強打者佐々木恭介が立つ。
 と、この時、広島ベンチ古葉監督は北別府と池谷の2枚看板をブルペンに走らせた。
いうならば“次善の策”で当然の準備なのだが、みるみるマウンドの江夏豊の顔が明らかに“怒気”を含んで自軍のベンチ(三塁側)の監督古葉をニラミつけている。
そんなに俺が信用できんのかッ…。
 無死満塁にしてしまったのは江夏なのだ。
 しかし…赤ヘルのリーグ優勝をもたらしたのも江夏豊なのだ。
そのリーグV決定の試合を広島市民球場の放送席で解説していた阪神元監督村山実はハラハラと落涙する。
「俺は江夏を優勝させてやれなかった…」と。
 だが…最終戦の最終回の江夏の怒りは尋常ではなかった。
と、そこにスッと一塁手の衣笠祥雄が江夏に近づいてきて、ゾクリとこう言った。
 「おい、ベンチをみるな!(おまえが野球を)辞めるなら、俺も一緒に辞めてやる…」
 このひと言で江夏はハッとわれにかえった。
いまやるべきことは“何か”を悟った。その言葉に救われた。
 そして球史に残る『江夏の21球』は広島に日本一をもたらした。
 気がつくといつの間にか大阪球場に降り注ぐ“秋雨”は悲運の将・西本幸雄の肩を情け容赦なく濡らしていた…。
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⑥ もちろんルーゲーリッグ(ヤンキース)の世界記録を更新する連続出場達成への数々の金字塔と努力と汗…何よりも人間くさく挑み続けた結果、衣笠祥雄は「国民栄誉賞」にも輝いた…。
 数々の栄光…だけど、筆者は39年前のヤケドしそうな場面で衣笠祥雄が江夏豊にかけたその言葉の奥に、彼の持つ“やさしさと温かさ”、何よりも「人の心がわかる…」という、それでいて71年間、彼が背負ってきた彼自身の有為転変の痛みをも感じて…ただ感謝するのみである。

【江夏の21球!伝説的に語り継がれるピッチングは何がすごい?】
•2015.08.21

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⑦『江夏の21球』
キャッチフレーズから興味をそそられるこの言葉を聞いた事があるでしょうか?
プロ野球ファンの間では有名なエピソードですが、そこまで耳にする話ではありません。
知らない人も多いと思うので簡単に解説したいと思います。
〔江夏の21球〕
エピソードの主役はタイトルの通り広島東洋カープ『江夏豊』
主に阪神で長く活躍した選手でカープ在籍期間は3シーズンです。
しかし、赤ヘル黄金時代に欠かせない活躍を披露し『優勝請負人』と呼ばれカープの優勝にも大きく貢献しています。
エピソードの舞台は1979年の近鉄バファローズとの日本シリーズ最終戦。
勝った方が日本一の大一番は4対3でカープがリードする展開でした。
7回途中からリリーフで登板した江夏豊は7回と8回を無失点で抑え1点リードのまま9回のマウンドに上がります。
ここからが『江夏の21球』と呼ばれる投球内容です!
9回。先頭打者にヒットを許した江夏。
代走者にすかさず盗塁を決められ・・その後も塁を埋めてしまいノーアウト満塁のピンチを背負ってしまいます。
しかし、ここから圧巻のピッチングと投球術を披露します。
代打の佐々木恭介と相対し、カウント2-2からカーブで三振に打ち取り難なく1アウト。
ピンチは続き1アウト満塁。
打者、石渡茂に対し2球目(9回19球目)に近鉄が勝負に出ます。
同点にするべくスクイズを仕掛けてきたのでした。
この時、目の端でランナーが走ったことに気付いた江夏はカーブの握りを抜き、スクイズを外します。
3塁走者をタッチアウトし日本一まであと一人としました。
2アウト2,3塁。
スクイズを失敗した打者はもちろん打ってきます!
20球目をファウルされますが21球目のカーブで空振り三振でゲームセット。
見事に初の日本一に輝きます。
9回に投じられた21球が『江夏の21球』と言われています。
9回ノーアウト満塁から抑えただけでもすごいですが、『江夏の21球』は日本シリーズ最終戦でカープ初の日本一がかかった場面でのスクイズ外し、というドラマティックな展開で現在まで語り継がれています。
スクイズを外した場面はいろいろな意見もあるみたいです。
江夏はとっさに外したと言い。
古葉監督は練習していたと言い。
カーブの握りで外すのは不可能で、すっぽ抜けただけだという意見もあるみたいです。
あの場面で外すことができるのは一流の証ですかね?
実際に『江夏の21球』の何がすごいのか分からない人も多いらしいです。
あなたはどう思いましたか?
こういう意見が出てくることがすでに伝説なのかもしれません。


【西本幸雄と江夏の21球。~悲運の名将を偲んで~ 】

Sports Graphic Number 2011/12/09 06:00
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⑧1979年11月4日の日本シリーズ第7戦、広島vs.近鉄。
今もなお語り継がれる伝説の名勝負の最中、闘将と呼ばれた男の脳裏には、20年近くも前のある出来事の記憶が蘇っていた。
弱小チームを類まれな指導力で鍛え上げ、8度のリーグ優勝を果たしながら、ついに頂点へ到達できなかった指揮官の知られざる実像に迫る。

――2011年11月25日、“悲運の名将”と言われたひとりの野球人が不帰の客となった。西本幸雄、享年91歳。その通夜は、山田久志、福本豊、梨田昌孝ら教え子で、名選手や名指導者となった数多くの野球人たちが見送る盛大なものとなった。

2005年5月、創刊25周年記念となるナンバー626号で発表された傑作長編『西本幸雄と江夏の21球』を、故人を偲び、ここに再び掲載する。
「あの時、スクイズのサインを出したことに後悔はないよ」
 近鉄バファローズの監督だった西本幸雄は、85歳となった今、そう考えている。

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⑨2001年の日本シリーズ。ヤクルトスワローズvs.近鉄バファローズの試合で始球式にのぞんだ81歳の西本氏
 もちろん、後悔しても、過去の歴史を取り戻すことはできない。
野球は、グラウンドで行われたプレーだけが、歴史的事実として記録されるスポーツである。
むしろ、四半世紀の歳月を経て、すでにユニフォームを脱いでしまった現在、どんな過去も穏やかに振り返ることができるということかもしれない。
「ただ、スクイズという戦法が、ウチの打ちまくる野球と違っていたのは確かやな」
 西本は、そうも言った。
「パ・リーグのお荷物」とバカにされ続けた弱小チームを、6年かけてリーグ一の打撃のチームに育てあげたという自負が、西本にはあった。
頭の中では「ストライクは、三つともバットを振れ」と思っている。
「外野フライで同点や」。そうも思っている。
 しかし、次の瞬間、西本の左手が動く。
当時、サインはベンチから三塁コーチャーを経て選手に伝えられた。
西本の利き手である左手が、右肩に触る。
それが、1979年の日本シリーズの命運を決するスクイズのサインであった。
1979年、広島vs.近鉄の日本シリーズ最終戦。『江夏の21球』の舞台。
 '79年の広島―近鉄の日本シリーズは、3勝3敗で最終戦までもつれこんでいた。第7戦の舞台は、大阪球場である。
スコアは3-4。わずか1点を追って近鉄の最後の攻撃が始まっている。
 時折、冷たい雨が落ちてくる。
試合開始から、すでに3時間半近くが経過していた。
11月4日の午後4時半ともなれば、雨が濡らす黒土のグラウンドは冷え込んだ。西本は背番号「68」のユニフォームの下にウインドブレーカーを着込んで、一塁側のベンチ中央に座っていた。当時59歳である。
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⑩1967年に阪急ブレーブスを率いてチーム初のリーグ優勝を果たす(当時47歳)。その後、7年間で5度のリーグ優勝を記録した
 右のバッターボックスに、石渡茂が入った。
 ワンアウトながら、ベースは全て埋まっている。
三塁ランナーの藤瀬史朗がホームへ帰ってくれば同点。
二塁にいる吹石徳一まで生還すれば、「サヨナラ日本一」という劇的な幕切れになる。
石渡の一振りで、西本を日本一の監督にすることもできた。
「バッターボックスに入る前、監督に『サインをよう見とけ』と言われたんです。だから、スクイズのサインが出るかもしれないと思いました。
でも、僕は打ってやろうと思っていたんです。
スクイズのサインが出るまではストレート狙いで、『初球から行くぜ』と思っていました」
 石渡は、そう振り返った。
 マウンド上には、広島のリリーフエース江夏豊がいた。
「南海時代の江夏さんとは、何度も対戦していました。当時は変化球が多くて、ストレートは速くないという印象だったんです。ところが、この日本シリーズでは、球が速くなってストレートが増えていた。そのストレートを狙ってやろうと思ったんです」
 江夏のセットポジションは、突き出たお腹の上にボールがセットされる。
そのお腹をどっこらしょと持ち上げて投げ込んだのは、インコース高めのカーブだった。
石渡は、わずかにしゃがむようにしながら見送った。
「僕は、ストレートにヤマを張って、そこへ変化球が来ると対応できるタイプじゃなかった。カーブだか、フォークだかが来たので、見送るしかなかったんです」
 アンパイアの右手が、さっと上がった。
全国でスコアを記入しながら観戦している野球ファンが、ストライクを示す「○」を一つ記入する。
誰もがフッと息をつくような場面だが、その「○」が記されるわずかな間にピッチャーと監督の胸の内は急展開を見せていた。
江夏はスクイズを予感し、西本はスクイズしかないと確信した。
 マウンド上の江夏は、石渡が打ち気なく見送ったことで、初球はウェイティングのサインが出ていたに違いないと誤解した。そして、2球目に仕掛けてくるはず、それはスクイズしかありえないと考えた。
 さらに、石渡の打ち気のない見送り方は、西本の思いも急変させる。
西本は、とっさに「石渡では、江夏を打てないのではないか」と思った。
これも、西本の誤解だったかもしれない。
しかし、ストライクをあっさりと見送った石渡を見て、西本はスクイズしかないと思う。
「石渡の前に、ノーアウト満塁で佐々木(恭介)を代打に送ったけど三振やった。それも大きかったよ。江夏と石渡。
この二人を考えたら、ピッチャーの方が上かもしれん。
それなら、バットを振るより、待って当てる方がバットに当たる確率が高いと考えたわけや」

「打ち勝つ野球」より「確率の野球」にかけた西本。
 大詰めの段階で「打ち勝つ野球」より「確率の野球」を選択する。
 そして、西本は、三塁コーチャーの仰木彬へスクイズのサインを送った。
当時、二人の間のサインは、1、4、7回は右手が左腕に触った時、2、5、8回は左手で顔や胸やお腹を触った時、そして、3、6、9回は左手が右腕に触った時が本当のサインと決められていた。
さらに、両脚が閉じているか、開いているかでもサインは変わったし、「取り消し」のサインなども加えて相手から盗まれないよう巧妙にカムフラージュしてあった。
 この場面では、西本の左手が右肩に触れた。
「9回」なので左の手で右腕に触る。
その右腕の中でも右肩に触れたことが「スクイズ」を示していた。
スクイズのサインは、三塁コーチャーを経由して選手に伝えられる。
 石渡は、三塁コーチャーズボックスの仰木を見た。
「『出たな』と思いました。意外に冷静でしたよ。相手に悟られないように、そんなに早くバットを出さないで確実に当てる。三塁ランナーは足の速い藤瀬だから、しっかり転がせば同点になると、段取りを頭の中でイメージしていました」

 江夏は、スクイズがあるかもしれないと思いながら第2球のモーションを起こす。三塁ランナーがスタートを切り、バッターがスクイズの構えに入った。
ランナーの藤瀬が挟殺プレーでアウトになり近鉄の敗戦が濃厚に。
 勝ったのは、江夏だった。
 三塁ランナーのスタートが、わずかに早かった。
キャッチャーの水沼四郎が立ち上がる。江夏は、とっさの判断でアウトコース高めに外した。
握りはカーブだった。ボールは微妙に変化し、突き出した石渡のバットはむなしく空を切った。

「あのボールは、江夏さんが本当に外したんですか? 外そうと思ったらカーブなんて投げます? 僕は、今でも単なるカーブのスッポ抜けと思ってます。そして、決してバットの届かないボールじゃなかった。それなのに伸び上がるようにしてバットを出してしまった。いわゆる迎えに行っちゃった。その辺は、僕の方が冷静でなかったんです」
 石渡が「シマッタ」と思った時、三塁ランナーの藤瀬はホームベースの手前まで走り込んでいる。挟殺プレーでタッチアウト、ツーアウトとなった。この瞬間に、近鉄の敗戦が決まったようなものだった。

「もう頭が真っ白でしたよ。気持ちをとり直そうと思っても、なかなか……。まだ試合は終わってないので『打ってやろう』とは思うんですけど、ツーストライクと追い込まれたから、どんなボールでも打たなきゃいけないじゃないですか。その時点で負けですよ」
 グラウンドでは、とりあえず野球のルールに則って、ツーアウトでランナー二、三塁、石渡のボールカウント、ツーナッシングからプレーが再開される。
 近鉄ベンチの西本の顔は、青ざめている。
しかし、江夏の顔つきには、何の変化もなかった。
セットポジションから江夏が投げた3球目は、インサイド低めのストレートだった。石渡が、辛うじてバットに当ててファウル。
早いテンポで、江夏が4球目を投げる。
インサイド低め、打者のヒザ元に沈むカーブだった。
石渡のバットが空を切り、鋭く曲がり落ちたボールがキャッチャーミットに吸い込まれた。
 西本が、ベンチに座ったままうなだれている。
マウンド上では天に向かって、江夏が両腕を突き上げていた。
西本の脳裏によぎったのは、1960年の日本シリーズの出来事だった。
 このシーンは、今でも語り継がれる日本シリーズの名場面である。
また、山際淳司さんが、「ナンバー」の創刊号を飾った名作『江夏の21球』で、選手たちの心理状態を生々しく描いたことでも広く知られている。
その息詰まる攻防の中、近鉄ベンチの西本の脳裏には、かつての苦い体験が鮮明によみがえっていた。
「石渡にスクイズさせようかと思った時や。1秒もない、わずかな間のことやった」
 西本は、そう言った。
 鮮明によみがえったのは、そこから時をさかのぼること19年、'60年の日本シリーズでの出来事だった。
当時、40歳の1年生監督だった西本は、やはり、ワンアウト満塁でスクイズという作戦を失敗していた。
20年近い歳月を経て、石渡にスクイズのサインを出す直前にそのシーンがフラッシュバックしたというのだ。
スクイズが失敗し、大毎オリオンズの監督は解任された。
 '60年の日本シリーズは、西本が率いる大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)と大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)との間で争われた。川崎球場での第2戦、スコアは2-3だった。1点を追う大毎は、8回表、ワンアウト満塁と一打逆転のチャンスをつかむ。そこで右バッターボックスに入ったのが、5番に起用されていた谷本稔である。マウンドにいたのは、2戦連続の登板となる大洋のエース秋山登だった。
 第1球は、一塁寄りネット裏へのファウルボールになった。
ヒッティングである。
しかし、次の2球目、西本は作戦を急きょスクイズへと変更する。
「僕は、バットには確実に当てたんよ」とバッターの谷本は振り返る。
「『上手くいった』と思ったよ。
ところが、ピッチャーの秋山がサイドスローで、ボールが浮き上がってきたからなのか、バントしたボールにバックスピンがかかっていた。
それで地面に落ちた後、ボールが戻ってきたんよ。
一塁へ走り出して、もう1歩目か2歩目にはホームの方へ戻ってくるのが見えたから」
 そのボールをキャッチャーの土井淳がつかんでホームを踏み、一塁へ転送。ワンアウト満塁という絶好のチャンスは、一瞬にしてついえてしまった。
試合は、そのまま大きな動きもなく終わり、初戦に続いて大毎は連敗する。
「この谷本のスクイズ失敗っちゅうのは、どこの監督しとっても、オレの頭の芯にこびりついとるね」
 西本の告白である。
「だって、スクイズ失敗して、それからオーナーと喧嘩やもん。で、監督をクビやろ。オレの野球人生の中でも大事件やぞ」

【平蔵の独り言】
衣笠祥雄さんなくして「江夏の21球」はあり得なかった。
「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」
(西本幸雄と江夏の21球。~悲運の名将を偲んで~)

衣笠祥雄さんと「江夏の21球」

というよりは近鉄バファローズ ファンとして小学校4年からパ弱小球団のドラマ見て、唯一日本一になるチャンスだった西本監督、バファローズと「江夏の21球」スクイズは外されたことは忘れる事ができない!

【独り言】
星野仙一で昭和49年の長嶋引退試合
そして今度は衣笠祥雄で「江夏の21球」

西本幸雄さん、三塁コーチは仰木彬さん

いい時代だった!


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by asanogawa-garou | 2018-05-10 14:59 | 人生 まだ旅の途中 | Comments(0)